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▼ 仰る通りでしょうね。
経文はないと思いますよ。
逆に伺いますが、日蓮大聖人は自宗を立てるにあたってオリジナリティは一切なかったのですか?
だったら、単なる媒介者であって救済者(立宗者)ではないですね?
ところで私は前から伺っていますが、さほど重要な論点だと思わなかったのでしつこく聞きませんでした。
ですが、このような流れなのでまた聞いておきます。
日蓮大聖人の書いた髭曼荼羅の「愛染明王」ってのは何ですか?
抜苦代受もそれと同じ、理外の理、論外の論ですよ。
※@「経典には本尊に「愛染明王」を載せろとは書いていません。」
そもそも法華経と愛染明王の縁がどこにあるのか、知っている人いるのですか?
宗教だったらそういう「理外の理」の一つや二つありますよ。
キリストは私たちの罪を背負って磔になったとされますが、そんな事は経典に書かれていませんよ(笑)!

日蓮大聖人に対する疑問の二つ目
※A「理証・文証・現証」
のうち、どこまで文証が必要なのか?」
「釈尊が紀元前何年、何時何分に亡くなって、何年後の何時何分に何という名の人が現れて人を救うのだ!」
なんてことまで経典は書いていませんよ?
だから、最重要なのは現証としていますよね?
しかも、その現証も相対的なものです。
金持ちでも不幸な人はいるし、貧しくても幸せな人もいる。
そういう形で現証を捉えるならキリスト教が一番正しい教えだという事になる。
一番数が多いのだから。
そんなものじゃないでしょ?

抜苦代受は信者が感じたならそれで良いし、他宗の方に証明するようなものでもありません。
そもそもそれを言い出したら宗教そのものが、非常に個人的なものであり、「その宗教を信じる」という主観に依拠しており、
議論するだけ無駄という結論にならざるを得ませんがね。

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   ★ ↑ これについてまだまだ破折しておくことがあった。
▼※A「理証・文証・現証」のうち、どこまで文証が必要なのか?」
についてである。

「文証」 → 文献的証拠 @ 経典 A 菩薩が著わす「論」 B 人師の「釈」  @>A>B と用いる。
確かに文上に事細かく詳細まで細密に正確に表現されていないことが多い。
ではどうするのか?
そこに「理証」の重要性がある。
論理的に確かなことは肯定的に受け入れていかなければならない。
それが
■「義に依って語に依らざれ」
という意義でもある。
語になくても理の指し示すところ、間違いないことであれば、それが真理なのである。

例えば、(これは私が常に良く引く例えであるが)二本の直線が平行しているのかどうかを確認することはできないであろう。
なぜならば宇宙の果てまで行ってその二本の直線が交わらないところを確認しなければならないからである。
しかし、それは無限の果て、どこまで言って確認できたとしてもその先にもしかしたら交わる可能性は残されているから、結果、平行線の直接目視による確認は絶対付不可能なのである。
言ってみればこれが「文証」だけを追求する姿にも例えられるであろう。
どこまで追及しても「文証」でけでは真実は究明できないのである。

しかし、二本の直線の平行を証明することはできる。
「三角形の内角の輪は180°である。」という絶対の定理を用いればいい。
二本の直線を貫く一本の直線が、それぞれの直線に交わる同一方向の内側の二つの角を計測して、その和が180°であれば、どこまで行ってもその二本の直線は交われない(三角形と成れない)ので、絶対に平行線なのである。(もっと簡単な 「錯覚(同位角)が等しい=平行」 という証明もあるが、あえてドラマチックな証明法を採る)
これが「理証」である。

さて、では「現証」とは何か?
この平行線をそのまま実生活に応用しそこから実効性を享受することである。
例えば建造物などはこういう原理に基づいて測量をし、図面を引き、部材を加工し、建築していくのであろう。
そして完成した建造物を実際に活用するのである。これを「現証」といえよう。
もし、「理証」である計算や、方程式、あるいは実測などが狂っていれば、それを元にして造られた構造物には何かしら問題が発生して「現証」として不利益が生じる。
ざっくり言えば「文証」理証」「現証」とはこういう関係であろう。

ではこれを宗教に当て嵌めるとどうなるか?
「文証」として根拠とすべきは正しい真の真理を悟られた覚者の言であるかどうか。
それは我々が体験してきたあらゆる実社会の法則・原理を全てを総合して検証しても矛盾破綻ない教理が説かれているかどうか?によって、真の覚者は自ずと絞られ特定される。
それが釈尊である。
ここはお互い共通認識であろう。
その釈尊の経典に忠実な教説を説く者こそ真の後継者と言える。
この段階で真乗は二重三重に脱落している。

まず、真言密教をベースにしたこと。

33 大問題! 金剛薩?(こんごうさった) はどうやって肉体のない法身である大日如来から法を授かったのか? 
  157 密教の教祖達は「(肉体のない)法身如来から衆生への化導」という論理的矛盾を誤魔化すために「金剛薩た」という架空の菩薩を突っ込んだに過ぎない。
  158 竜樹と龍猛は別人でした!だから、真言密教「付法の第三祖」はすっぽ抜けました〜!
  
34 大問題! 真言付法の第三祖 龍猛 は 竜樹菩薩ではなかった? 
35 大問題! 龍猛 は 金剛薩? などいう得体の知れない もの からどうやって法を承けたのか?
36 なんと! 真言宗付法の第四祖 龍智は 寿命700歳だって!え〜〜〜?? これをまともに信じている人はいるのか?
  34〜36 → ▼ああ!確かに論破されている!

37 真言宗伝持 第5祖 善無畏 第6祖 一行 は、なんと!天台大師の一念三千と、法華経寿量品の久遠実成を盗み取って、真言密教へパクっていた! 
  159 真言密教など、お伽噺に書かれている空想の産物をあたかも実在しているように錯覚して作り出された宗派である。
  160 鳩摩羅什の十如是は、「サンスクリット原典の語からその真意・深義を読み取り、漢語で訳出した。」ということ。
  161 【参考】 鳩摩羅什訳 十如実相の意訳についての考察

38 弘法の大矛盾、大悪党ぶりを徹底的に暴く
  162 邪教徒は、どんなに善人ぶっていても、根底の人格が破綻してるので、教義的に破折していけば必ず醜悪な人間性が露見してくる。
  163 真如教徒 一言で言えば 「もう勘弁してよ〜〜(T_T)」 ですかね。

二つ目には「涅槃 勝 法華 劣」と立てたこと

117 ■「是れ即ち勝となす、善男子、この義を以ての故に、甚奇甚特(じんきじんとく)にして思議すべからず」の五行前位から見たいので提示してくださいますか?
118 あれ?▼『涅槃経は「不可思議」=思う事も論ずることもできない』 って言ってましたよね? すり替えましたね〜!卑怯・姑息のの卑劣漢!
119 大般涅槃経 梵行品 の当該箇所をなぜ漢文のみで提示してきたのか?真如苑教徒のその腹黒い意図を暴く。
120 また首が落ちた!梵行品の文はただ方等十二部経と涅槃経を比較しただけの文だった!墓穴さらに増える!

これにより真乗は完全な邪師魔師ペテン師であったことが「文証」「理証」によって証明された。

128 真乗は ■「如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文飾無義の語を安置し、前を抄して後に著け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。」をした、「悪人・魔の伴侶・魔の眷属」 である!
129 涅槃経第九 (経典に)「雑(まじ)ふるに世語(せご)を以てし錯(あやま)りて是の経を定む。」  おお!まさに伊藤真乗が宗教詐欺師であることの予言!

130  涅槃経第九 ■「是の大乗経典大涅槃経は声聞の経に於て最も為れ上首たり」 キタ〜! 真如苑教徒よ もう終わりだな。

とすると、真如苑信者に起こる全ての不思議と思われる現象とは、邪師魔師ペテン師の教説が成せる魔事。
つまり「魔の通力」であり、信者が何を感じていようがそれは全て不幸へ不幸へと引き摺り込まれる前兆である。
これが「現証」の善悪を判定するプロセスである。

かたや、日蓮大聖人は末法の教主であることは論証した。
しかも真如狂徒はそれに反論不能になりしかも完全敗北宣言をして遁走した。
となればこれに今更異義を唱えることはできない。


日蓮大聖人が久遠の本仏であったことの簡明な道理
法華経で予証された末法の法華経の弘通者
日蓮大聖人が釈尊より勝れた仏である法華経の文

大集経に説く「末法」来入の年限の矛盾を解明する

確かにどの経典にも「末法に日蓮と名乗る僧が出現して、十界文字曼荼羅本尊を弘める。しかもその僧は実は久遠の本仏であったのだ」などと書かれていない。
しかし、先ほど述べた「理証」によって、理の指し示すところ、日蓮大聖人はまさに末法の御本仏なのである。
この「理証」が理解出来るか否かは、知性による。
先ほどの平行線の証明も、知性が無ければ納得できない。
知性のない幼稚で愚かな者は「宇宙の果てまで行ってこの目で確認しなければ納得できない!」と言うのである。
それが今の真如狂徒の憐れで愚かな姿。
知性があれば上記の論証に依って真乗は魔師であり、日蓮大聖人しか末法の教主(=久遠本仏)はいない。という結論に達することができるのである。
何も久遠まで行ってこの目で確認して来る必要は全くない。
邪教と言うものはその一番大切な正邪を見極める「知性」をグチャグチャに破壊してしまうのである。
であるから「理証」が正確に掴めない者は当然「現証」に迷うのである。
「抜苦代受で何かを感じる?」
それはその「現証」の正邪善悪が全く分からなくなっているだけのこと。
それが今のこの真如狂徒である。
それはまた全ての邪教に執着している者達も同様である。

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