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次の破折
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真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、大日如来、金剛薩?は実在しない人物なので除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。
手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。
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五祖の善無畏 と六祖の一行について
善無畏が『大日経』等の梵本(梵語すなわちサンスクリットで書かれた原本) を翻訳せんとした際、そこに重大な壁が立ちふさがった。
それは、当時の中国には、すでに天台大師による円満無欠の『法華経』 の教えが弘まっていたため、善無畏が持参してきた経典は、とうてい普及の見込みがないことであった。
そこで善無畏は、ひとつの迷策を考案し、当時、天台の学匠として知られていた一行阿闍梨を巧言をもってそそのかし、持参してきた経典を天台の義によって翻訳させ、さらに『法華経』の教義に基づいてその解説書を作らせることに成功したのである。
この善無畏の巧みな誑惑により、あたかも密教は最勝の法であるかのごとく見せかけられ、中国に広く根をおろしていった。
具体的に言うと
『大日経』に説かれる▼「心実相」の語をとりあげて、『大日経義釈』(『大日経疏』 の再治本) の中に
▼「彼(法華経)に諸法実相と言うは、すなわち、これこの経(大日経)の心の実相なり。
心実相とは、すなわち是れ菩提、更に別理なきなり」
と述べて、『法華経』 の十如実相の理に同化し、『大日経』にも一念三千・即身成仏の義がある、と標榜した。
そして、『大日経転字輪曼荼羅行品』に
▼「毘慮遮那世尊、執金剛秘密主に告げて言く、我れは一切の本初なり、号して世所依と名づく」、
とある一節をさして、『大日経義釈』の中で
▼「我一切本初とは寿量の義なり」
と釈明し、大日如来を『法華経寿量品』の久遠実成の仏に擬して、万有開展の本源と説いたのである。
かくして『大日経』の中へ『法華経』の教理を取り入れた真言密教では、『法華経』も『大日経』も理論内容においては等しいが、実際の功徳においては、印(印契ともいい、指をまげて種々の形を造ること)と真言(仏の真実の言という意であるが、ここでは種々の呪文のこと) とがある『大日経』 の方が勝れるとして、理同事勝(理においては同じであるが事において勝れる)と主張する。
さらに、天台大師の「法華開会の法門」を自宗に取り入れ、諸宗で依経とする華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の一切経は、ことごとく『大日経』に摂め入れられている、と言うに至ったのである。
しかし、いかに 「心実相」 「我一切本初」等の『大日経』 の一節を引こうとも、もとより十界互具・一念三千の宝珠はただ『法華経』 にのみ説くところであって、その現証としての二乗作仏・久遠実成は、『大日経』にも、むろん『金剛頂経』・『蘇悉地経』等にもまったく説かれていない。
つまり、善無畏と一行は、これまた、なんと!虚偽・捏造・ペテンを使って、世間を誑惑して真言密教を浸透させていったのである!
こんな連中が、真言宗の伝持 の第五と第六なのか?
だめだこりゃ。
ついでに指摘しておくと、この善無畏・一行が主張していることと、真乗が言っていることは、全然食い違っている。
善無畏・一行は、結局、大日如来 と 真言三部経の最勝・最尊を訴えたのであり、
真乗は、久遠常住釈迦牟尼如来 なるもの と 涅槃経を最勝としている。
真言三部経に至っては、真如苑の依経にすらしていない。
これ一体どうよ?
自分を正当化するための「付法・伝持」の系譜は、真言の系譜をチャッカリ使っておきながら、その「付法」されているはずの「法」(教法=主張している本尊や教義)は全く別ものではないか。
こんなペテン師はいない。
宗教詐欺師である。
信者は当然、その開祖や、祖師の傾向性に色濃く影響される。
おそらく、真言系真如苑信者は、嘘だらけ・捏造だらけ・人を騙すことへいちゃら、自分でも騙している自覚すら持てない。そうして自己主張だけは人一倍、虚栄心が強く、負けず嫌い、、、、そんな傾向が濃厚であろう。
真に恐るべきは邪宗の害毒である。
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