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疑難 ▼ 日蓮が御出現された時代は果たして本当に「末法」だったのか?
★ 仏滅年代の"定説"に疑義が提示されている
★ 仏法が 正法・像法・末法 という三時に移相するという概念は 初期仏教・原始仏教経典内にも見られる
★ 正・像・末 三時の年限には、諸説あり
★ 「大集経が後期大乗経典であり、釈尊の真説にあらず」 という疑難
★ 仏教の本義とは
★ 末法 の時代相とは
★ 正法 500年 像法 1000年 説が妥当
★ 台密の出現により、釈尊の法華経(白法)は隠没
★ 末法来入が平安時代中期頃とすれば、日蓮大聖人の御誕生が1222年でほぼ200年の間が空くが、これはどう考えたらいいのか?
▼ 「我が滅度の後、後の五百歳の中に」 の「後の五百歳」を 「釈尊入滅直後からの500年」と取る研究者がいるが、全くの誤読
★ インド・中国・朝鮮・日本 において現代に至るまでに、『法華経』の弘通の故に、刀杖の難 度々の流罪等の法難に遭った弘通者がいただろうか?

★ 摩耶経にも 千五百歳法滅 とある
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昨今、日蓮正宗に対する疑難として以下のものがある。

▼ 日蓮が御出現された時代は果たして本当に「末法」だったのか?

「現在の歴史的な研究としては、釈尊入滅は、以下の所説他多数あるが、概ね紀元前4・5世紀とする説が有力である。
(1) BC.566年-486年(高楠順次郎説)
(2) BC.565年-485年(衆聖点記説)
(3) BC.564年-484年(金倉圓照説)
(4) BC.466年-386年(宇井伯寿説)
(5) BC.463年-383年(中村 元説)
(6) BC.624年-544年(東南アジア圏にて採用されている説)  尚、他にも諸説がある。
しかし、日蓮は、大集経の「正法千年・像法千年・以後末法」という説に則り、自らを「末法の法華経の行者」としているが、そもそも、日蓮が生まれて弘教した時代は、上記の最新の研究からすれば、未だ「像法時代」であって、「末法の法華経の行者」という前提自体が成り立たないではないか。」

というものである。

しかし、参考までに 仏滅年代の"定説"に疑義が提示されている  ことも考慮しておかなければならない。

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日蓮大聖人御自身は、釈尊入滅を、B.C 949年という説を採られていたことは間違いない。

文永十年八月の『波木井三郎殿御返事』
■「仏滅後今に二千二百二十二年なり」(新編682頁)
建治二年『報恩抄』
■「仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず」(同1036頁)
『妙法比丘尼御返事』
■「而るに仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり」(同1257頁)
(↑この御書は年代は記されていないが、■「今又此山に五箇年あり」(同1264頁)
とあることから、弘安元年の御書であることは間違いない。)

文永十年(1273年) → 仏滅後2222年
建治二年(1276年) → 仏滅後2225年
弘安元年(1278年) → 仏滅後2227年

大聖人は『周書異記』の記述「周の穆王の53年(BC949年)に釈尊が亡くなった」とする説を採られて御算定されている。
この『周書異記』の説は大聖人様お一人ではない。
当時の仏教界全体の算定方法であった。
大聖人様御在世当時には、一般論として誰も動かすことのできない仏滅年代が存在していた。
ここから計算すると、末法来入は、1052年 ということになる。

しかし、今日の考古学的研究によれば、上記のごとく、釈尊の入滅がBC949年より約400〜500年、後の時代に算定される。
よって、大集経の「正法1000年 像法1000年」説で言うならば、末法来入は、1400年代〜1500年代 ということになり、確かに大聖人が御誕生されたのは「像法」時代、ということになる。

では、果たして、本当にそういう解釈でいいのだろうか?
以下、この疑難に反証し、大聖人御出現はやはりまさに「末法」であったことを論証する。

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★ 仏法が 正法・像法・末法 という三時に移相するという概念は 初期仏教・原始仏教経典内にも見られる

様々な研究者の説を総合すると
『釈尊の正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる』 とする概念は、仏教の初期の段階の経や律にすでに含まれている。ということである。
初期仏教資料としてのパーリ語阿含部の中には,正しい教えが滅することについて述べられている。
その主な様相は

@ 正法の哀退
A 正しい教えがとどまる 正法久住
B 正法の消滅
C 正法の混乱と消滅
D 正法の存続と不失と不滅

という概念である。

また、上座部仏教経典の歴史観としては、仏滅後,5,000年間に次第に仏法が衰えてゆく 1000×5 というタイムテーブルを持つ法滅観も見られる。
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【参照】

原始仏教における「法滅」の予言として具体的な記述
「雑阿含経」
「カウーシャーンビーの予言」
「仏滅後一千年の時期に,四人の悪王がインドに現れて,仏教は迫害を受けた。
しかし,コーサーンビーの王大軍の子である難当が,これらの外敵を駆逐して,仏教の繁栄に力を尽くした。
しかし,それもつかの間,教団の指導者、失師迦という三蔵受持者と,須羅他という阿羅漢とが,波羅提木叉の受持の問題に端を発して,争いを起こし,教団は二つに分裂し,ついに仏教は破滅する」
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つまり、原始仏教経典内にも、「正法の衰減 → 法滅」の概念は存在している。
それは概ね 正法・像法・末法 の三時に括られる。

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★ 三時の年限について

また、その三時の時限については、
正法 500年 像法 500年
正法 500年 像法 1000年
正法 1000年 像法 500年
正法 1000年 像法 1000年

などの諸説があるため,
末法の始まりは,
仏滅後 1000年,1500年,2000年
の三つの説に代表されることになる。
(他にも仏滅後500年,700年,2500年,5000年,5104年,10万年などと多くの説がある。)

つまり、大集経の「正法 1000年 像法 1000年 その後 末法」 という時限説も、ある一説に過ぎず、殊更に 「滅後2000年以降が末法」 との語に拘泥する必要はないと思われる。
まさに
涅槃経に曰く 「義に依って語に依らざれ」 である。

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★ 大集経が後期大乗経典であり、釈尊の真説にあらず という疑難について

次に、

▼「「大集経」が後期大乗経典群に属し、6世紀中頃の成立であるから釈尊の言説ではないであろう」 

とする大乗非仏説による批判であるが、既に、原始仏教経典に、「正法の護持→衰退→混乱→消滅」 との概念が存在しているのであるから、大集経の 「正法・像法・末法」 のという概念も、全くの後世の偽作・創作とする批判は当たらないであろう。
むしろ、仏教界内外に、原始経典に予言されていたが如くの様々な衰退への現象が起こり、法滅の現実化に対しての危機感から、長らく相伝・伝持されてきた「正法・像法・末法」という教説が強調され詳細に表現されて顕在化した。との解釈もできるのである。

【参考】 

 ● 仏教教団内の腐敗堕落の顕在化

「大集経・月蔵分』(「法滅尽品」第二十)
■「我が滅度後,仏法まさに滅せんとする時,あらゆる出家者は漸恥有ること無く,功徳の智を遠離し,懈怠にして精進せず,道を捨てて世の業を学ぶ。禁戒を持するを楽しまず,愚癡にして俗と交わり,多言にして,復た羞ずること無し」

『大集経』分布閻浮提品
■「(※正法1000年・像法1000年の)次の五百年はわが法において、闘諍言訟し、白法隠没し損減して堅固なり。」

「闘諍言訟 白法隠没 堅固」 が説かれた後の文
■「是れ従り以後、我法中に於いて、復た鬚髪を剃除し、身に袈裟を著すと雖ども、禁戒を毀破し、行い如法ならざるをば、仮に比丘と名づく。」

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 ● 大集経などの成立に影響を与えたと思われる仏教教団破壊の史実

6世紀前半、ミヒラクラの破仏。

概略

6世紀前半の西北インドは,フン族のエフタルの王ミヒラクラの侵攻によって壊滅的な打撃を受けた。
特にカシミールの有部はこのときに一時滅亡した。
このような破仏法の事件などが大きな機縁となって大集経などが成立したことは否定しない。

「大集経・月蔵分』(「法滅尽品」第二十)
■「辺夷の王等が来りて,仏の塔寺を毀破し,諸の衆僧を殺害し,仏僧の物を劫奪する」

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 このような、仏教教団内外の事象により、「正法・像法・末法」のうち、特に 「末法」 についての教説の強調の必要性が顕著となり、大集経などに詳説されたものとも拝せるのである。
(一般に、研究者達は、仏法の口伝・相伝・伝持の重要性や歴史的存在を軽視しているむきがある。
が故に、経典の表層的な表現にのみの考察や検証に労力が費やされ、経典の底流に流れる仏教の本質的な元意をふまえての経典研究が為されていない事例が多いのである。
そもそもが釈尊の仏法は口伝から出発し、伝持されていったのである。
仏自らが「口伝」による伝承の方法を選んだのである。
この真意をもっと真摯に熟慮・考察すべきであろう。)

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★ 仏教の本義とは

一切仏教に通底している救済の方向性・そしてその実践と実証は、一切衆生・非情有情も含めての生老病死・四苦八苦の超克・解脱・開放・転換であり、それは詰まる所、一切衆生皆成仏道 常楽我浄 即身成仏 娑婆即寂光 煩悩即菩提 生死即涅槃 等の教理と現証によってこそ一切の救済・解決を見るのである。
ここの大綱を見失って、何をどう研究してみても、釈尊の本意に通じないし、誰も救済されないのである。
その解決はまさに法華経にのみ究竟するのであって、法華経以外の経典は全てこの完全・円熟・純一・円満の法華経による救済への階段とその流通の役目なのである。
しかも、その法華経も経典の文上・教相だけの意義としては正・像の衆生救済が表であるが、更に一重立ち入って経文を拝せば、重要・肝要な点は、その法華経の極理が未来永劫の衆生救済の根本原理として、悪世末法を指向して、付嘱・相伝・伝持されたところにある。
法華経ほど明確に釈尊滅後、悪世末法に向けての付嘱・相伝の義を顕した経典は他にないのである。
この意義を深く拝さなくては仏法の本義に肉迫できない。
この意義に領達できていないから多くの研究者は隘路に迷い込んでおりしかもそのことに気付いていない。
まさに「木を見て森を見ず」の状態に陥っているのである。

大集経も、未来永劫の一切衆生救済の一翼を担う一経典であり、最終的には滅後末法に出現する法華経を指向して説かれた階段、梯子段の一つなのである。
その観点からすれば、釈尊から付嘱されて法華経が末法に出現するその時代相を予証した経典であり、大事なことは、ともすれば慣例句化していた「後五百年」というような表現に特段に重要な意味があるのではなく、正法・像法・末法の中でも取り分けて末法の正法滅尽する時代相を予証することであったと拝すことが、釈尊の本意に通じた判釈の仕方と言えよう。

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★ 末法 の時代相とは

既述の如く日本に於いては、仏教伝来当初から平安期・鎌倉期など、仏教界全般の認識として『周書異記』に記されている「周の穆王(ぼくおう)の五十三年(※に釈尊入滅)」という説により、そこを基準に算定すると、仏滅はBC949年。そこから算出して末法来移入は1052年という説が大勢を占めていた。

この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。
また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。

大集経には末法の相については以下のように説かれている

『大集経』分布閻浮提品
■「(※正法1000年・像法1000年の)次の五百年はわが法において、闘諍言訟し、白法隠没し損減して堅固なり。」

僧侶間、教団内部に於いて、宗派間、あるいは、政治権力との間などなどで、常に言い争い、強訴し合い、あるいは訴訟・裁判など起こすだけでなく
武力を用いて闘う。。。。
この意味するところを端的に顕した歴史的史実は、僧兵制度 ではなかろうか。

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【参照】

『闘』 「徒兵が髪を振り乱しながら格闘して闘う」場合を指す。
「物を置いておいて、斧で切る」の意味。

『諍』 言い争う様子を表す会意文字。言葉と言葉で争う。諍(いさか)う)。

『訟』 公の場で訟(うった)える様子を表す。

経典に説かれる末法の様相を考えれば、仏教各派で争いが激しくなり、互いが互いを強訴し合い、僧侶は堕落し形だけのものとなり、仏教に依って民衆が全く救われない。というような時代相である。

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僧兵の出現

僧兵の誕生は平安時代中期に遡る。
当時寺院は、朝廷と有力貴族に支えられていたが、有力貴族の力が衰えると、自分たちの所有地である荘園を拡張してやりくりする必要が出てきた。
ただこの時代になると、地方の国司、いわば武士たちも、武力で所有地を拡大しようとしていた。
従ってその国司たちの攻撃に対し、自分たちも武器を取るようになっていった。
つまり、元々は正当防衛の面もあり、生活の基盤である荘園を守るために、武器を手にして戦うことになったのであるが、それが時代と共にエスカレートして、凶暴化・横暴化していった。

平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。
特に、興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師と呼ばれた。
宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力をもち、しばしば朝廷や院を屈服させることによって、国府や他領との紛争を自らに有利に解決させた。
また寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われた。
延暦寺と園城寺(「山門」と「寺門」)の抗争などが著名である。

平安時代中期とは一般的には藤原氏が政治を独占し、また地方武士が力を持ち出した時代。
後三条天皇即位までをいう(901年〜1068年)

こうして見てくると、まさに 「闘諍言訟し、白法隠没し損減して堅固なり。」の様相そのままであろう。
時代は、この予言されている世相を示し、「末法」と言うべき時代となったといえる。

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因みに末法来入が約500年後に遅れると仮定したら概ね1552年に末法来入。
そこに法華経の予証を重ねると、

■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。(法華経・薬王品)
■ 若し如来の滅後、後の五百歳に、若し人有って、法華経を受持し、読誦せん者を見みては、応に是の念を作すべし。
此の人は久しからずして、当に道場に詣して、諸の魔衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ、法鼓を撃ち、法螺を吹き、法雨を雨らすべし。
当に天・人大衆の中の、師子の法座の上に坐すべし。(勧発品第二十八)

以上の経文などから、1552年から500年の間に末法の法華経の行者が出現するとしたら、1552年〜2052年までの間、ということになる。

時代が大きく像法時代から末法時代へ転換しなくては「末法来入」の時期とは言えない。
しかし、どうであろうか。
1552年。この時代は戦国時代。
既に日本全体が政治も仏教界も騒乱して久しく、この時期が特段、像法の「多造塔寺」時代から「闘諍言訟し、白法隠没」に大きく明確に転換したとは言い難い。
有ったものが無くなり、無かったものが出現したその時こそ、時代が変わった、と言うべき時である。

また、この1552年以降で、ひたすら「法華経」を弘通し、その故に、刀剣や杖による法難 度々の所払い に遇った仏道修行者はいるだろうか?

それとも、現在2016年から約40年の間に出現してくるのであろうか?
ただ、この解釈の場合、現在は「像法後期」・多造塔寺堅固 となり、既に起きた「僧兵出現」の様相は、「多造塔寺堅固」とは決して言い難く、矛盾が生じてしまう。
であるから、これは、仏教界に初めて「闘諍言訟し、白法隠没」との時代相が現出した、平安中期をもって「末法来入」と判断すべきである。

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 ★ 正法 500年 像法 1000年 説が妥当

原始仏教経典群に釈尊が女性の出家について語られたことが随所に説かれている。
その代表的な箇所を挙げる

■ そのとき世尊は釈翅痩・尼拘律園におられた。摩訶波闍波提が五百人の釈迦族の女性 と出家を願い出たが、女人が仏法中に出家すると、仏法を久しからざらしめるとして許 されなかった。  
世尊は釈翅痩からコーサラ国へ行き、コーサラ国から舎衛城・祇園精舎に至られた。
摩訶波闍波提(※釈尊の叔母で養母)も五百人の釈迦族の女性と一緒に剃髪し袈裟を着けて祇園精舎に行き、足を破り、塵土にまみれて、泣きながら門前に立っていた。
阿難が同情して、女性の出家 を願うと、
「女人が仏法中に出家すると、仏法を久しからざらしめる。
例えば男が少な く女が多いと家が衰微する。
稲田に霜雹を被ると即時に破壊するようなものだ」
として 拒絶された。
そこで阿難は「摩訶波闍波提は養母として大恩のある方ではないか」と説得した。
釈尊は「摩訶波闍波提も私に仏法僧に帰依し、五戒を受け、須陀「N」(オン)果を得せしめ たという恩がある。」と答えられた。
そこで阿難はさらに「女人は四果を得られないのか」と詰め寄り、「人が大水上にあって、橋梁を安んじて渡るように、八盡形寿不可過法(※八つの犯してはならない戒法)を具足戒法とする」という承認を得た。
摩訶波闍波提は「我及五百「舎夷」(釈尊の種姓・釈迦族の者達との意)女人当共頂受(※八つの戒律を守ります)」と阿難に応え、阿難はこの旨を釈尊に報告した。
釈尊は正法が五百年に減ったことを歎かれ、阿 難はこれを聞いて楽しまなかった。
『四分律』「比丘尼B度」(大正 22 p.922 下)

■  もし女性が出家しなければ仏教の沙門はより尊敬されたであろうが、これがために千年留まるべき正法が五百歳に減じたと言われた。
『中阿含』116「瞿曇彌経」(大正 01 p.605 上)

■ (※女人の出家が決まったことで)釈尊は正法が五百年に減ったことを歎かれ、阿難はこれを聞いて楽しまなかった。『四分律』「比丘尼B度」(大正 22 p.922 下)

つまり、釈尊は、本来正法は1000年続くはずであったが、女人が出家して僧団に加わったことで、正法衰退が500年早まった。
と述べているのである。
(女性蔑視とかの問題は、本題ではないので今回は触れない)

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大集経に説かれる像法前期は「読誦多聞堅固」時代である。
その象徴的な出来事としては、インドや西域の言語で記されていた経典が中国へ伝来し漢訳され盛んに仏典研究が始まった世相といえるのではないか。
経典の漢訳は後漢代(一〜三世紀)から宋代(一〇〜一二世紀)までの約千年にわたって行われた大事業であったが、その濫觴は
伝によれば、永平10年 68年迦葉摩騰竺法蘭の二人の僧が、白馬に乗り『四十二章経』という経典を携えて、都の洛陽を訪れ白馬寺で訳経をした。ことである。
この時期を「像法前期・読誦多聞」時代来入というべきではなかろうか。


上記の女人出家に関する釈尊の言葉や、中国への仏教伝来の伝承を考えると、正法 500年 像法1000年 の説が有力ではなかろうか。
大集経でいう「解脱堅固500年 禅定堅固500年 読誦多聞堅固500年 多造塔寺堅固500年」とは釈尊の仏法及びその教団が推移していく相を500年を一応の目途として法滅句として定型的語句の「後、五百歳」で括って表現したものであり、実際の史実に即して検討すれば必ずしも「500年」という年限の単位に拘泥するものではない、と考えられる。

更に考察すれば、釈迦教団の根本分裂までを「解脱堅固」 
それ以降の部派仏教へ分裂し、さらには上座部と大衆部へと乖離していく過程を「禅定堅固」と定義づけられるかもしれない。

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★ 台密の出現により、釈尊の法華経(白法)は隠没

仏教は釈尊が説き出だされたが、その本質的意義として、一切衆生救済の本義は、長い年月をかけてインド・中国・朝鮮を経て、その間、様々な過程を経て、仏教内で進化発展した教説、また仏法流伝の過程で影響を受けた世間のあらゆる善論をも吸収しながら大きな潮流となって成熟し、最終的に日本へ流入したと考えるべきである。
しかしその骨格・中心にあるものは完全円満の教理を説き、しかも唯一末法への明確な付嘱がある法華経である。
逆に言えば法華経を軸に仏教史を概観しなくては仏教の本質は掴めないともいえる。
法華経最第一(論証)から考えれば、爾前・権教は本来消滅すべき方便教であるから、大集経の「白法隠没」の「白法」とは何かと言えば煎じ詰めれば法華経こそ「白法」なのである。
その「白法」である法華経が、仏教の大潮流の終着点である日本においてどのような状況になったかが「末法」という時を知る最重要事であると言えよう。

中国に於いては「白法」である法華経を最勝・中心として一切経を教理的・論理的に整足し、大成した天台こそが、釈尊の真意を顕揚し、
日本に於いてはその天台の教理を伝承し唯一法華経最勝を宣説した、伝教大師こそ、正統仏教の系譜と言える。
大集経の「白法隠没」とは、この「白法」である法華経の最勝を謳った教説とその実践が「隠没」したかどうかなのである。
となれば日本における天台宗の成り行きが「白法隠没」の正体である。
伝教大師の教えを忠実に伝持されたのは義真までであった。

慈覚 円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。
智証 円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。

この慈覚 智証 は伝教大師の法華経最勝の教説に爾前・権教である大日経などを依経とする真言宗の教義を持ち込み、祖師伝教大師の真意から外れ天台法華宗を真言密教化した座主達である。

この段階で、釈尊の法華経は衰滅したといえる。
その後、比叡山延暦寺に僧兵が出現してくるのである。

円仁の流れをくむ18世天台座主良源は天台宗を仏教界の中心におしあげたが、密教の理解についての円仁と円珍以来の対立は、両派の門徒間の亀裂を深め、10世紀末に良源が死去すると、円珍の門徒3000人余は比叡山をおわれて園城寺(おんじょうじ:三井寺)にうつった。
以後、比叡山を山門、園城寺を寺門と称し、両派は僧兵をだす争いをくりかえした。
仏教の最高峰だった比叡山が仏教破壊の最先端を爆走したのである。

まさに「闘諍言訟 白法隠没」 である。

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★ 末法来入が平安時代中期頃とすれば、日蓮大聖人の御誕生が1222年でほぼ200年の間が空くが、これはどう考えたらいいのか?

無量寿経
「当来の世に経道滅尽せんに、
 我慈悲を以って哀愍し、 
 特にこの経を留めて止住すること百歳せん、
 それ衆生あって、この経に値うものは
 意の所願に随って、みな得度すべし」

とある。
経道滅尽 と 白法隠没 とは同義と考えられるから、末法に来入しても100年程は、無量寿経によっても救済される。との意と捉える事もできる。
その意義を踏まえられての、法華経で末法での付嘱を受けられた上行菩薩再誕であろうか。

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▼ 「我が滅度の後、後の五百歳の中に」 の「後の五百歳」を 「釈尊入滅直後からの500年」と取る研究者がいるが、全くの誤読である。
仏教の全体観を掴んでないからそのような読み違いをするのである。

まず、原始仏教経典においても、釈尊滅後は、正法が、ある程度の期間、興隆し安定する。とある。
その後、衰退→混乱→消滅 という過程を進むと予言されている。
であるならば、釈尊滅後直後から 悪世 法滅 末法 末世 などである訳はなく、この 悪世 法滅 末法 末世 と表現されている時代は、釈尊滅後から相当数時間が経過した後のことを指し示している。
そして以下に列挙した経文は、その 悪世 法滅 末法 末世 における法華経の弘通の相を示しているのであるから、法華経全体の要旨や教説の流れを拝して解釈すれば
薬王品第二十三
■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」
との文は、まさに釈尊入滅から相当数年次が経過した後の 悪世 法滅 末法 末世 における法華経の弘通の相であることは確定的である。

論証の追加

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【参考】

★ 法華経では 悪世・末法・法滅・末世 をどのように示されているか。

方便品第二
126下-01
五濁の悪世には 但諸欲に楽著せるを以て
是の如き等の衆生は 終に仏道を求めず
当来世の悪人は 仏説の一乗を聞いて
迷惑して信受せず 法を破して悪道に堕せん

法師品第十
320下-12
薬王、当に知るべし。是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於て、衆生を愍れむが故に悪世に生れて、広く此の経を演ぶるなり。
若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として、如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に説かんをや。
薬王、若し悪人有って、不善の心を以て、一劫の中に於て、現に仏前に於て、常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一の悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し。

法師品第十 
322下-12
当に知るべし是の如き人は 生ぜんと欲する所に自在なれば
能く此の悪世に於て 広く無上の法を説くなり
応に天の華香 及び天の宝衣服
天上の妙宝聚を以て 説法者に供養すべし
吾が滅後の悪世に 能く是の経を持たん者をば

法師品第十
吾が滅後の悪世に 能く是の経を持たん者をば
324下-01
当に含掌し礼敬して 世尊に供養するが如くすべし

370下-01
妙法蓮華経勧持品第十三
後の悪世の衆生、善根転少くして増上慢多く、利供養を貪り不善根を増し、解脱を遠離せん。

勧持品第十三
375下-01
悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん

379下-01
妙法蓮華経安楽行品第十四
後の悪世に於て、是の法華経を、護持し、読誦し、説かん。

安楽行品第十四
406下-01
若し後の悪世の中に 是の第一の法を説かば
是の人大利を得んこと 上の諸の功徳の如くならん

安楽行品第十四
388下-01
文殊師利、如来の滅後に、末法の中に於て、是の経を説かんと欲せば、応に安楽行に住すべし。

安楽行品第十四
391下-01
文殊師利、菩薩摩訶薩にして、後の末世の、法滅せんと欲せん時に於て、斯の経典を受持し、読誦せん者は、嫉妬諂誑の心を懐くこと無かれ。

安楽行品第十四
393下-01
文殊師利、是の菩薩摩訶薩、後の末世の、法滅せんと欲せん時に於て、是の第三の安楽行を成就すること有らん者は、是の法を説かん時、能く悩乱するもの無けん。


安楽行品第十四
395下-01
文殊師利、菩薩摩訶薩にして、後の末世の、法滅せんと欲せん時に於て、法華経を受持すること有らん者は、在家、出家の人の中に於て、大慈の心を生じ、菩薩に非ざる人の中に於て、大悲の心を生じて、応に是の念を作すべし。

安楽行品第十四
400下-01
後の末世の時 此の経を持たん者は
家と出家と 及び非菩薩とに於て
応に慈悲を生ずべし

従地涌出品第十五
408下-01
止みね、善男子。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん。我が娑婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等、能く我が滅後に於て、護持し、読誦し、広く此の経を説かん。

   ★ → この文は重要である。釈尊は随所で列座した多くの菩薩衆らに滅後末法での法華経の弘通を奨励し、また弟子たちも誓願しているのだが、この一言でその全てを破り、ただ地涌の菩薩衆のみに末法の弘通を託している。
その地涌の菩薩の上首上行菩薩への別付嘱の儀式が神力品第二十一なのである。

分別功徳品第十七
461下-01
悪世末法の時 能く此の経を持たん者は
則ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足するなり

薬王品第二十三
■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。

勧発品第二十八
598下-03
世尊、後の五百歳濁悪世の中に於て、其れ、是の経典を受持すること有らん者は、我当に守護して、其の衰患を除き、安穏なることを得せしめ、伺い求むるに、其の便を得る者無からしむべし。

勧発品第二十八
599下-03
世尊、若し後の世の後五百歳、濁悪世の中に、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の求索せん者、受持せん者、読誦せん者、書写せん者、是の法華経を修習せんと欲せば、三七日の中に於て、応に一心に精進すべし。

勧発品第二十八
605下-02
普賢、若し如来の滅後、後の五百歳に、若し人有って、法華経を受持し、読誦せん者を見みては、応に是の念を作すべし。
此の人は久しからずして、当に道場に詣して、諸の魔衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ、法鼓を撃ち、法螺を吹き、法雨を雨らすべし。当に天・人大衆の中の、師子の法座の上に坐すべし。


以上法華経から「悪世・末世・末法・法滅」などの語を含むか所を列挙した。
意を読めば、まさに初期仏教資料としてのパーリ語阿含部の中に存在していた、「正法の存続→衰退→混乱→焼失」の後の世に法華経が広まることを勧請し、奨励し、予証しているのである。

これは、初期仏教資料としてのパーリ語阿含部 も 大集経 も 法華経 も意とするところは一同であって、決して大乗経典群の創作ではない、と考える方が合理性があり理性的である。

以上の考察を以って、日蓮大聖人が1222年に御誕生された時期が、「闘諍言訟・白法隠没」の末法であることはなんら矛盾のないことである。

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★ インド・中国・朝鮮・日本 において現代に至るまでに、『法華経』の弘通の故に、刀杖の難 度々の流罪等の法難に遭った弘通者がいただろうか?

日本において 鎌倉時代に御出現された日蓮大聖人を置いて他に一人もいない。
大聖人こそ末法御出現の上行菩薩再誕である。(その御内証云々については今論の本題ではないので触れない)

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問う、是れ白袈裟は法滅の相なり。
摩耶経の下に曰く
「時に摩訶摩耶、此の語を聞き已わって即ち阿難に問う。
汝往昔仏に侍してより以来世尊の説を聞けり、如来の正法は幾の時にか当に滅すべき。
阿難涙を垂れて便ち答う。
我曾て世尊の当来法滅の後の事を説きたもうを聞く。
仏涅槃の後、摩訶迦葉、阿難と共に法蔵を結集し悉く事畢已(おわ)って、摩訶迦葉、狼跡山(ろうしゃくせん)の中に於て滅尽定に入らん乃至
六百歳已わって馬鳴善く法要を説き、
七百歳已わって竜樹善く法要を説く。
八百歳の後、諸比丘等好(よ)き衣服を楽(ねが)い縦逸嬉戯(じゅういつきけ)せん。
九百歳已わって奴(ぬ)は比丘と為り、婢は比丘尼と為る。
千歳已わって諸比丘等、不浄観を聞いて瞋恚して欲せず。
千一百歳已わって諸比丘等、世に俗人の如く嫁聚(かしゅ)・行媒(こうばい)し、大衆の中に於て毘尼(びに)を毀謗せん。
千二百歳已わって是の諸比丘、若し子息有らば男は比丘と為し、女は比丘尼と為さん。
千三百歳已わって袈裟白に変じて染色を受けじ。
千四百歳已わって四衆殺生し三宝の物を売らん。
千五百歳に比丘相互いに殺害し、是に於て仏法而も滅尽せん」


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