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▼ 3、 法華経薬王品 −弘める経・要諦― ここでは時期の考察も含む
★ 『「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん」
釈尊入滅後、2000年から2500年の間に、「末法の法華経」が建立され、広宣流布することが予言されている。』
まず、釈尊のプロフィールを調べてみると
生:463年カピラバスト → 没:383年クシナガラ
です。正確な事なのかは不明ですが、この根拠はイギリスの発掘隊によって発掘された「どうやら釈迦という人はいたらしい」という証拠が残っているそうです。
よって、大きく外れてはいないという前提で話を進めると、
佛滅後2,000年→1617年
佛滅後2,500年→2117年
となります。
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★ → 「末法」への来入年代を考察する上で、その元になるのは当然、釈尊の入滅年代である。
しかし、これも実は"定説"になっているかに思えるが、よくよく検証していくと、現時でも実は根拠そのものの信頼性が確定しているものではなく、また考古学の進歩によって大きく覆る可能性も大きいと言うべきである。
以下は、日蓮正宗御僧侶 小田切 道等師の富士学報33号に掲載された
「仏滅年代の基礎的考察」
から引用させていただいたり、資料を引かせていただいております。
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仏滅年代については、現在歴史の教科書には以下のような記述がある。
『シャカ族の王子ガウタマ= シッダールタ(前563ころ〜前483ころ)
(中略)
インド人は膨大な宗教文献は残したが、現実の生活を重視しなかったので、現実世界のできごとをしるした歴史書や地理書は残していない。
そのため古代インド史の年代には確定できないものが多く、彼の生没年も前5世紀のなかばから前4世紀の前半にわたるとする説がある。』 (詳説世界史改訂版四七)
との如く、仏滅年代に関し、現在もまだ確定的・決定的な数字は出ておらず、複数の説がある。
諸説ある中で標準的な根拠となるのは阿育王の碑文であろう。
阿育王は法勅を刻んだ碑文を多数残しており、また伝道師を外国に派遣して親善と外交を行っていた。
碑文にはギリシャやシリアの主の名も含まれており、西洋史の方面からその在位年が特定されて阿育王の存した時代が確定する。
そして、上座部と大衆部に分かれた根本分裂という事件は阿育王の治世であったと南伝仏教が伝えており
その事件の興起は仏滅後116年・137年・200年等と諸説あるが、これによって阿育王の生存年代と仏滅年代とが噛み合って仏滅年代を推定できる、というものである。
以上をまとめると、
@ 阿育王の碑文にギリシャなどの五王の記載がある
A 西洋史からギリシャなどの五王の在位年代が確定
↓
阿育王の生存年代が確定
C 教団の伝承で、根本分裂が起こったのは阿育王治世である。
D 教団の伝承で、根本分裂は仏滅後(116年・137年・200年)である。
↓
阿育王は今から何年前の人で(B)、釈尊はそこから更に何年前の人(D)であるかが推定可能
以土の理屈から、阿育王から遡って、伝承に従って計算すると大体の年代が見えてくるのである。
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しかし、この算定方法に関しての未解明な点もあり、その問題点を挙げてみる。
@ 阿育王碑文の第十四章目に
「領土が広いので全章が適合しないかも知れないし、場所や風俗に従って削った場合もある(取意)」
とある。 (※ → 碑文自体が完全に正確なもとはいえない。)
A 碑文がこの様に分かるようになったのは1837年にプリンセプが解読に成功してからであるが、未だに全てが解読されたわけではない。
B 『望月仏教大辞典「(阿育王の項」
『佛滅より王の出世に至るまでの年教に関しては、
北方伝たる雑阿合経第二十三、賢愚経第三阿輸迦士品、僧伽羅刹所集経巻下、雑譬喩経巻上、大荘巌論経第十、大智度論第二等に仏滅百年とし、
異部宗輪論に百有余年、
十八部論及び部執異論には百十六年となせり。
又南方伝たる「島史」第六章、「善見律毘婆沙」第二等には、王の即位を仏滅後二百十八年とし・・・』
と仏の滅度より阿育王出世(大体前270年)までに「100年」、「116年」、「218年」 の三説あるとし列挙している。(※ 100年以上の差がある)
C 阿育王碑文に登場する外国の五王のうち一人が確定できていない。
D 阿育王の在位期間(即位時期も不明) の算出に10年ほどの幅が出る。
(以上のような不確定な要素が多い中で算定された仏滅年代だが、
宇井伯寿説
仏滅 前386年
仏滅〜阿育誕生 116年間
阿育即位 前270年
中村元説
仏滅 前383年
仏滅〜阿育誕生 116年間
阿育即位 前268年
などが支持されてきているとのことである。)
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しかし
『望月仏教大辞典』(阿育王法勅の項)
『而して仏滅百年頃、別に迦羅育なる王ありて在位せりとし、西蔵文于関懸記には、仏入滅後234年にして達磨阿育ありと云ひ、又島史五章には、王の治世を37年間となせり。(阿育王の項)
蓋し天愛喜見王は一般に彼の印度孔雀王朝の第三祖阿育王なりと想定せらるゝも、阿育の名は法勅中単に小磨崖法勅に見ゆるのみにして、他は皆天愛喜見とあり。
且つ法勅に載する天愛喜見王の事績は、必ずしも島史並に阿育王伝等に伝へられたる向育王の事績と一致せざる点あり。
故に天愛喜見を阿育王の別名となすに関しては聊か疑いを存する所なるも高僧法顕伝並に大唐西域記等に処処に石柱の事を記して阿育王の建つる所となすを以て今且く此の法勅を阿育王の法勅とせるなり。」
驚くべき記述である。
@ 「阿育」という名の王は歴史上複数人居た。
A 尚かつ根元的な疑いとして法勅中に謳われている「天愛喜見王」とは果たして本当に「阿育王」の異名なのであろうか、との疑義がある。
「天愛喜見王=阿育王」 という、この大前提において仏滅年代推定の推算がなされてきたのであるのに、もしこれが「阿育王」とは別人の業績であったとするならば、折角の推算も水泡に帰す。
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(※● 考古学的定説が大きく覆る事例 )
『インド仏教史上巻』平川彰氏
「1898年にペッペが釈迦族の故地ピプラーフワーと故塔を発掘したところ、遺骨をおさめた壷が発見された。
その壷にはアショーカ王の碑文、あるいはこれより古い書体で、これが釈迦族によって祀られた釈尊の遺骨であることが記されていた。(中略)
「八王分骨」という涅槃経の記述は、歴史的事実と見られている。(中略)
1898年にペッペが発掘した故塔を、さいきんインドの考古学者が再調査し、ペッペが舎利壷を発見した場所よりも更に深いところで、いくつかの舎利壷を発見したという。
おそらくそれらの舎利壷は、ペツぺの発掘した舎利壷よりも古いであろう。
詳細は今後の研究に待たねばならない。」 (インド仏教史上五三〜六)
と、この様に定説を覆す発見の可能性を示唆している。
(※ 仏滅年代もこれと同様で、ある程度絞り込まれた様にも見えるが、実はまだまだ定説を覆す大きな発見が登場する可能性も否定できないのである。)