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次の破折
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真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、大日如来、金剛薩?は実在しない人物なので除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。
手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。
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★ ↑ さあ、いよいよお待ちかねの「弘法」の大矛盾です!
因みに、思ってたより相当、分かりの悪い問難者に予め釘を刺しておくが、
弘法が仏教的な大矛盾を犯している、となれば、その系譜はそもそもが全くの邪教の系譜ということになり、真乗の正統化には利用できない。ということである。
その道理分かる?
分からないとすれば、ただの馬鹿であろう。
では行こう。
問難者のお陰で、こちらも真言宗破折の基礎資料ができた。
真にありがたいことだ。ありがとう。
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【矛盾1】
弘法においては、『弁顕密二教諭』を立て、
▼「釈尊五十年の説法は、舎利弗等の請いに応じて応身仏が説いた随他意の教であり、浅略な方便教である。
『大日経』等は、自受法楽のために法身仏・大日如来が談じた随自意の教であり、唯仏与仏内証の深秘の教である」
と説き、即身成仏は大日如来の秘密教に限ると強調している。
しかしながら、『大日経』等を密教とし、『法華経』を顕教とすることは、いずれの経にも文証のない弘法の己義である。
のみならず、仏の金言を明証とすれば、法華経こそ一大事の法門を秘蔵した経なのである。
『法華経法師功徳品第十』の三説超過の文の次下
■ 「薬王、此の経は、是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して、妄りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したもう所なり。昔より已来、未だ曽て顕説せず。」325
『安楽行品第十四』
■「文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り、長夜に守護して、妄りに宣説せざるを、始めて今日に於て、乃ち汝等が与に、而も之を敷演す。」399
『如来寿量品第十六』
■「汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を」429
『如来神力第二十一』
■「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。」(513)
等々とあって法華経こそ仏の内証たる一念三千が秘められた、秘密の教であることが示されている。
ゆえに、真言宗で勝手に第三祖と仰いでいる竜樹(竜猛)菩薩も(※別人である説が有力であるが、それはどちらでも構わない)、
『大論』の第百巻・第九十品に
■ 「曰く、法華経を秘密と名づく。二乗作仏あるが故に」
と説いている。
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【矛盾2】
弘法は、真言密教が最も優れていることを説明するために『六波羅蜜経』を引き、五蔵判を立てる。
すなわち、『六波羅蜜経帰依三宝品』の中に釈尊一代聖教を類別して、
(一) 常に閑寂な所を選んで静慮を修する者には狙(メ+メ+且)多覧蔵(経蔵) を、
(二) 威儀を習い正法を護持する者には毘奈耶蔵(律蔵) を、
(三) 正法を説き法相を分別して研墳を究尽せんとする者には阿毘達磨蔵(論蔵) を、
(四) 大乗真実の智恵を願って我・法の二執を離れる者には般若波羅密蔵(慧蔵 を、
(五) 禅定を修せず善法を持たず威儀を修せず諸の煩悩に覆われた者を憐れみ、彼を速疾頓証させんがためには陀羅尼蔵(秘密蔵) を、
それぞれ修行するように示された一節を、弘法は、法華涅槃等は第四の般若波羅密蔵、真言の三部秘経こそ第五の陀羅尼蔵であると立て、前の四蔵はすべて顕教、後の一蔵が密教であると判じ、これこそ成仏の直道なりとしたのである。
しかしこの五蔵判を立てるために利用した『六波羅密経』は、まさに弘法からすれば「応身如来の劣った仏であるとする釈尊の「顕教」」であり、その自身が蔑如している経を大日経等の正当化に利用するなど、これ大矛盾である。
しかも「『大日経』等は一代の顕教の中には含まれない」としながら、顕教である一代聖教中の「陀羅尼蔵」を『大日経』等になぞらえて最上であると立てることはまさに自語相違の極み。迷乱の極致である。
賢いことで有名な弘法が、こんな簡単な矛盾に気がついていないはずはない。
つまり、真言密教を最勝最尊と周囲に納得させるためならば、手段を選ばない、なりふり構わず、我田引水し、牽強付会し、無智な者どもなら分からんだろうとばかりの強引な解釈をしたものである。
まさに「無理を通せば道理が引っ込む」の典型である。
(これ、問難者の今の態度に似てないか?)
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【矛盾3】
さらに弘法は、『十住心論』 (これを三巻に要約したものを『秘蔵宝輪』という) を著わして諸宗を批判した。
前の『弁顕密二教諭』は一切経を横に判じ、この『十住心論』は諸宗を竪に判じたものとされ、弘法の二大教判となっている。
『十住心論』 は、『大日経住心品』 に基づき衆生の心を十種に分類し、これを諸宗に配当して批判、真言宗が最勝至極の宗旨であると主張したものであるが、この中で弘法は、
▼「『大日経』に比較すれば『法華経』は三重の劣で、第三戯論である」 とし、
『秘蔵宝輪』 では
▼「また釈尊というも、無明の辺域にして明の分位にあらず」
として、法華経並びに釈尊を蔑視している。
しかし、彼の依経たる『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等のいずれにも、かかる説はまったく見当たらず、これまた経文を無視した弘法の己義に他ならない。
しかも、中国の祖である善無畏は『大日経義釈』 の中で、一切経を四句に配当し、その第四句・如実知自心を最勝として、これに『法華経』・『大日経』を配している。
『大日経』を『法華経』と同列に配することさえ大変な誤謬であるが、弘法の立てた、『法華経』を『大日経』より三重に劣るとする説は、彼の祖師たる善無畏の説とも、まったく矛盾しているのである。
そもそも『法華経』が、釈尊出世の本懐・己今当に超過して最勝真実の教であることば、経文の随所に示されており、これを第三戯論などと語ることは、まさに
■ 「若し人信ぜずして此の経を毀誘せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。……其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経175)
の重罪にあたるものである。
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【矛盾4】
『大日経』には
■ 「仏は菩薩の為に不思議真言相応の法を説いて、一切の声聞や縁覚を其の座に共にせず」
等と二乗不成仏の立場に立つ経典であり、真言三部経などは、一代聖教中の方等部に属することが明らかで、「四十余年未顕真実」の方便経たることは疑いない。
それを
▼『大日経』と『法華経』とは共に一念三千の理を説くことは同じであるが、印と真言とが説かれる『大日経』 の方が実際の功徳において勝れる」
とする、理同事勝の定義は全くの邪義である。
いかに 「心実相」 「我一切本初」等の『大日経』の一節を引こうとも、もとより十界互具・一念三千の宝珠はただ『法華経』にのみ説くところであって、その現証としての二乗作仏・久遠実成は、『大日経』にも、むろん『金剛頂経』・『蘇悉地経』 等にもまったく説かれていない。
それは前項
37 真言宗伝持 第5祖 善無畏 第6祖 一行 は、なんと!天台大師の一念三千と、法華経寿量品の久遠実成を盗み取って、真言密教へパクっていた!
で解説したように
中国の善無畏と一行が、天台宗の教義から一念三千の名を盗み取り、自宗の極理と称していたからである。
ゆえに、『法華経』と『大日経』とは、理においても雲泥の勝劣があるばかりか、二乗作仏・久遠実成の現証が「法華経」のみに説かれることにより、事においても「大日経」は遠く「法華経」に及ばない。
このうえ、いかに『大日経』に印・真言が説かれると力んでみたところで、一念三千の説かれぬ「大日経」では、もとより九界即仏界・仏界即九界の義がないので、手に印を結び、口に真言を唱えても、真の大功徳・即身成仏は永久にありえぬのである。
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【矛盾5】
法身・大日如来を立てる誤り
そもそも本来、仏とは一身即三身・三身即一身にして、法・報・応の三身が即一身に具わり、はじめて衆生済度の力用が生ずるのであって、それを各々別個の法身仏・応身仏等とするならば、何の用もありえない。
爾前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面のみを顕わしたのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如実相が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。
しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。
そもそも「大日如来」という仏名は、「毘慮遮那」(法身仏のこと)という梵名を中国で訳した名であるが、法華経の結経たる普賢経に
■ 「釈迦牟尼仏を毘慮遮那遍一切処と名づけたてまつる」 (法華経642)
と述べられていることからも、法身・大日如来とは、釈尊が説法の必要上から方便をもって用いた一時の名であり、じつは三身相即の釈尊の、法身の一面を示していたことが明白である。
したがって、真言宗で立てる単なる法身の大日如来は、法華経の三身相即の釈尊より数段劣る仏といわざるをえない。
また、こうした単なる法身仏は、理上の仏であって、実際の婆婆世界に、下天・托胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃 という八相作仏の相をもって出現する実仏ではないから、我々衆生にとっても無縁の教主なのである。
かかる理仏を立てて実仏と偽り、婆婆世界の教主たる釈尊を押し倒すことは、まさに本末転倒の妄説である。
ことに、弘法が「十住心論」に
「釈尊は無明の辺域 (仏界から遠く離れた迷いの境涯)にして明の分位(明らかな悟りの位) にあらず」等と述べ、
また新義真言宗の正覚房(覚ばん)が『舎利講の式』に
■「真言の行者にくらべれば『法華経』の教主釈尊など履物取りにも及ばず」
等と述べて釈尊を蔑如していることは、大謗法の極みというべきである。
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【矛盾6】
真言密教で崇める両部曼荼羅なども、『大日経』・『金剛頂経』等には 九界即仏界・仏界即九界の十界互具の義がないことから、数百の諸仏・諸菩薩が大日如来を中心に融通して具足するという曼荼羅の義は崩壊しており、ただ諸尊を図上に並べたてただけの、悪戯書きにすぎない、というべきである。
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【矛盾7】
今日の真言宗では、念仏の阿弥陀仏を祀っている寺院があったり、四国八十八箇処巡礼の札所に禅宗や天台宗の寺院を含めていたり、はたまた高野山に浄土真宗の祖・親鸞の墓を建てるなど、本尊と宗旨の混乱が甚だしく、文字どおり支離滅裂の様相を呈している。
これ、正しい仏統でないことの紛れもない現証であろう。
もちろんその法脈を自宗の正当化に利用している、真如苑も同様、同罪である。
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