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日蓮大聖人が久遠の本仏であることを簡明に論証する

そもそも、釈尊は寿量品に


■「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。
寿命無量阿僧祇劫なり。
常住にして滅せず。
諸の善男子、我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。
復上の数に倍せり。」


とあり、五百塵点劫 という永劫の昔、しかし、ある時点において「成仏した」と説かれ、それ以前には「菩薩の道を行じていた」と示された。
この 「菩薩の道を行じていた時」 つまり 「菩薩行」 を修行していたのであるから、そこに、何らかの 「仏法」 があった理屈になる。
仏法とは 仏・法・僧 の 「三宝」 がなくては成立しない。

実は釈尊一代の仏教では、この根本的な重大事が明かされていない。
ここが明かされなければ、実は真実の意味での「無始無終・如来常住」などの法義はまだ未完なのである。
ここの所が、仏教を学ぶ全ての宗派が説明しきれていないところなのである。
いや、この問題に到達していない宗派がほとんど、といっても過言ではない。

では、その時の 「仏」 とは誰か?
そしてその時の 「法」 は?・・・・

実は、法華経には、釈尊より、悪世末法での法華経弘通の行者の方が上位者であるとの暗喩が散見される。

一方、法華経・従地涌出品第十五で出現する地涌の菩薩の上首上行菩薩は、法華経神力品第十九に於いて、釈尊から釈尊及び一切諸仏の秘要の法を付嘱・相伝されて、末法での弘通を託されている。

これはつまり、上行菩薩が悪世末法での弘通者 ということであり、尚且つ、先ほどの暗喩からすれば 「釈尊より上位者」 ということになる。
となれば、 釈尊が 「我本行菩薩道」 の修行していたその時の師匠である 「仏」 とは誰か?
理の指し示すところ、明白ではないか?

神力品で、釈尊の全ての仏法を相承されて、釈尊の予言通りに悪世末法に出現された上行菩薩こそ、その内証の本地は、久遠元初の釈尊を仏と成した「本仏」であった、ということになる。


釈尊の教説は、自ら成仏した五百塵点劫のその時から、大集経で説かれる、白法隠没までの「有効期限」のある仏法であると、示していることになるのである。

ということは末法の今時では、釈尊の仏法では生老病死・四苦八苦の人間としての根本的苦悩からは脱することはできず、ただ、上行菩薩再誕の 日蓮大聖人 の仏法による以外はない、ということである。

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