日蓮正宗こそが仏教の唯一正統・王道であることの論証    質問者とのメール往還

始まり
▼「現代仏教学の成果(特に原始仏典の類)を踏まえると、五時八教の教判が現代では通用せず、説得力を持たないのではないか?」
未曾顕実 か 未顕眞実 か

仏教伝播に関する仮説と例え

中村元説 「原始仏教のみが釈尊の直説」 というのは本当に正当な根拠はあるのか?

▼対話者の返答

 「未曾顯実」(大正新脩大藏経)  「未顯眞実」(増上寺所蔵の宋版・元版・明版の三者)及び、(宮内庁書陵部の宋版一切經)      

● 「未曾」 は 「未(いま)だ曾(かつ)て〜〜していない。しない。しなかった。」 の用法以外ないのではないか?

▼ 『天台大師の「誤記」と断定』は最初からしていません。

● 無量義経 は大蔵経によっては 「未曾顯実」 「未顯眞実」 両様の表記があって、特段 「未顯眞実」 は誤引用とは断定できませんよね?

▼ 『大蔵経によっては「未曾顯実」「未顯眞実」両様の表記』がある時点で、『どちらかが誤りだ』と言っているのです。

● ▼ 『大蔵経によっては「未曾顯実」「未顯眞実」両様の表記』がある時点で、『どちらかが誤りだ』と言っているのです。 ← これは摩り替えですよ。

● ん? 「誤記」 「誤引用」ですか? http://toyoda.tv/bukkyorongi8.htm ← これに対しての返答になってませんよ。

● ▼「「未曾顕実」これは「未だ曾てない実を顕す(今までに顕していない実を顕す)」といった意味になり「得」ます。」 ← これを証明する事例を例示してください。

▼ 黄帝内經・熱病: 未曾汗者,勿刺之。  これが 「未曾=未だ曾て〜してない。」 ではない文例だ〜!

● ★『天台大師 日蓮大聖人 の 「誤引用」 ではなかった。』 という点に関して双方一定の共通認識を共有することがけじめであり、礼節であると思いますが?

● 「未顯眞実」=「未だ眞実を顯わさず」 との訓じ方と大きく違っていたのらば、仏教史上 大論争となっていたはずである。

▼ 貴方のお考えについては色々とよく理解できました。

● 書写・転写した者が、仏典を編纂するとき、自らの仏道修行で達した境界から敢えて、その本意・元意を汲んで独自に用いた漢字があっても、特段問題がない。

▼ すみません、私はとてもスッキリしたのです。

● 少し我侭が過ぎるんではないですか?

▼ 議論はおしまいです。

● 1:05 AM のメール まことにご苦労様です。

▼ 皮肉であったということは、実際は眠れたということですね。

● あなたはもうお嫌でしょうから無理して反論しなくていいですよ。

▼ ご指摘ありがとう御座います。

● 釈尊の教えをこの現代で実際に体感・体達できる日蓮正宗の信仰を、本当にありがたく感じます

▼ ● スッタニパータに即したどのような修行をして、どういう境界(=つまり、ニルヴァーナですか?) に到達したのか?

▼ ● 本当にスッタニパータの悟りの境地に達しておられるのならば、御自分の生活実感として、身体実感として、もう少し詳しくご説明いただけるはずと思います。