▼ すみません、私はとてもスッキリしたのです。
本当にごめんなさい。

改めて、本日までお相手を頂きましたこと、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。

JFKY

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

2018年8月14日(火) 23:43 toyodatv <toyodatv@gmail.com>:
>
> 「未曾顯実」の論議についても含めて、あなたが反論を放棄したということで、これでおそらくあなたの過剰な多筆・能弁のメールは終息するであろうと予測できるので、当初からのあなたの見解について詳細に反論を加えておきましょう。
> もし、更に反論する気力があるのならば、大歓迎ですので、お待ちしています。
>
> さて、今回の本題
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> ▼まず、私は「無量義経自体が誤植していたか」と書きました。
> 異本が複数あるというのは、その異なる箇所については、いずれかが誤植ということですね。
> (それとも漢訳自体が複数あるのでしょうか?
> 仮にそうであるならば、法華経のベスト漢訳が鳩摩羅什訳と決定されたように、
> 無量義経のベスト漢訳を誰か(ここでは智様か日蓮様ですかね)が決定しないといけないと思います。
>
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> ● そもそもこの見解が浅はかですね。
> 今回の 「未曾顯実」 と 「未顯眞実」 の差異の件もそうですが、意に於いてはほぼ同義であるが、その書写・転写した者が、仏典を編纂するとき、自らの仏道修行で達した境界から敢えて、その本意・元意を汲んで独自に用いた漢字があっても、特段問題がない。ということですね。
> まさに涅槃経に曰く
> 「義に依って、語に依らざれ」 との御遺訓の通りかと思います。
> それが仏教伝播の真骨頂であって、既に仮説 http://toyoda.tv/bukkyorongio.htm で論じている通り、釈尊を淵源として、釈尊が示した仏道修行を実際に実践することによって、そこに釈尊同等の悟達が生じ、その境界に基づいて伝播してきた仏教経典などを、更に後の衆生のために昇華・結晶せしめていく。。。
> その課程で編纂された、大同小異の仏典が存在していても、本質的にはなんら問題はないですね。
>
> ところが自ら仏道修行していないで、釈尊の悟りに程遠い境界の者たちは、この仕組みが分からないから、訓古注釈にこだわり過ぎて本質を見失っているんですね。
> 実に愚かしく浅ましい在り様です。
> それが総じて近代から現代の仏教学者たちの実態かと思いますね。
>
> 世間でもいうところの、木を見て森を見ず あるいはまた 礫に執して大山を知らず という近視眼的かつ皮相的、表層的、  瑣末に拘泥して人生の根本問題が全く解決できないまま一生を終える人々、、といえますね。
>
> 因みに、日蓮大聖人は『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262)鳩摩羅什訳の法華経を基本に依用されていますが、折々、
> 『正法華経』10巻26品(竺法護訳、286年、大正蔵263)
> 『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264)
> なども依用・引用されてますよ。
>
> ですから、あなたの主張、
>
> ▼異本が複数あるというのは、その異なる箇所については、いずれかが誤植ということですね。
> (それとも漢訳自体が複数あるのでしょうか?
> 仮にそうであるならば、法華経のベスト漢訳が鳩摩羅什訳と決定されたように、
> 無量義経のベスト漢訳を誰か(ここでは智様か日蓮様ですかね)が決定しないといけないと思います。
>
> は、見当外れの全くの失当。ということですね。