ご連絡ありがとうございました。

我儘かもしれませんが、テーマを絞れたら絞りたいです。
たぶん、以下を読んだら意図を分かってくださると思います。

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● これは、大乗「経典」非仏説と大乗「教説」非仏説
が混同されているのが実情で、そのために起こる齟齬だと思います。
ですから私は、 『大乗「教説」その根本部分は仏説』  という立場を取ります。
その点では概ね同じ立ち位置ではないかと思いますがいかがでしょうか?
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混同については同意します。
立場が概ね同じなのかはちょっとまだ判定できずにいます。
(というのは、立場が私と同じの場合、結論としてたとえば「法華経は最勝かつ他の経を否定すべき」とはならないと思うのです。
 ただし、貴方も「そんなに大乗経典/小乗経典でビシッと分けられる訳じゃない」と考えておられるかも知れず、
 その意味で似ている可能性はあります=であれば、このコミュニケーションはお互いにとても役立つ気がします)

『大乗「教説」その根本部分』というのは具体的にどのような教説を指すでしょうか?
それによって回答が変わる気がします。


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● ということは、当該箇所は 「四十餘年未曾顯實」  → 四十余年 未だ曾(かつ)て実を顕さず  でよろしいですかね。
これは、「四十餘年未顯眞實」 → 四十余年 未だ眞実を顕さず  とほぼ同義と考えて良かろうと思いますがいかがでしょうか?

更に、私が調べた大蔵経では、全て 「四十餘年未顯眞實」 でした。

そこで当該箇所を調べました。
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http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php

無量義經 (No. 0276   曇摩伽陀耶譯 ) in Vol. 09

SAT大蔵経DB
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これでよろしかったでしょうか?

その当該箇所は確かに 「四十餘年未曾顯實」 となっておりましたが そこに脚注(footnote)が御座いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
footnote(脚注)  曾顯=顯眞<三><宮>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、<三>本<宮>本 では  「曾顯」 は 「顯眞」 になっておる。  ということですね。

私は不勉強でこの<三><宮> の意味が掴めませんでしたが、
大蔵経は添付のように多くの異本があり、それによると、「四十餘年未曾顯實」とするところもあり、「四十餘年未曾顯實」と両説あり、ということかと思います。

(ちなみに貴方は大変に勉強家かとお見受けしますので、是非 この <三><宮> の意味を教えていただければありがたいです。)

ですから、「天台大師の誤植では絶対にない。」ということですね。
その点、ご了承いただけますでしょうか?

となれば、それ以下の
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼智様が参照した無量義経自体が誤植していたか、あるいは智様が誤って引用したか。
いずれにせよ、これは誤引用の類であり、日蓮様はその誤引用を忠実に採用されています。
このような誤引用を仏説理解の根拠として採用することはできません。


引用者は「大師」や「本仏」と崇められ、あるいは信仰さえされる方々です。
彼らの主張に従えば地獄に落ちるか成仏できるかの重大な話になります。
私のような場末の凡夫が誤引用や誤字をするのとは訳が違います。
ちなみに、私は誰が何を信じていても、それが原因の堕地獄(現世的な意味の不幸)を主張しません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この箇所の訂正、撤回をお認めいただけますか?
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まず、貴方もSATで調べて頂いたこと、書籍版大蔵経や異本に関する知見のご提供、感謝申し上げます。
私は書籍版の大蔵経を簡単に閲覧できる環境になく、異本による相違に死ぬまで気づけなかった可能性があります。
本当にありがとうございます。

その上で、申し上げます。
版元が複数あり、それによる問題であろうことを理解しましたが、私の上記意見については大きく変わらないです。
現時点でも論理的におかしなことを言っている自覚がないからです。
(撤回拒否したいのではなく、納得ができていません。)

まず、私は「無量義経自体が誤植していたか」と書きました。
異本が複数あるというのは、その異なる箇所については、いずれかが誤植ということですね。
(それとも漢訳自体が複数あるのでしょうか?
 仮にそうであるならば、法華経のベスト漢訳が鳩摩羅什訳と決定されたように、
 無量義経のベスト漢訳を誰か(ここでは智様か日蓮様ですかね)が決定しないといけないと思います。
 無量義経の漢訳が複数ある場合に何がベストかについては、そういう記述の有無を私は知りません。)

話を誤植に戻します。
「どれかが誤植の可能性があるため、
  未顕真実と未曾顕実のどちらが正しい漢訳なのかを判定する必要がある。
  しかしながら、無量義経はインドの言葉では残っていない。
  例えばサンスクリット原典に解答を求めるような検証ができない。
  そのため、『未顕真実』の正確性を検証することができないだろう。
  それ故、仏説理解の根拠と採用することはできない。
  そして、翻訳というのは『言葉の壁を超えたコピペ』と言える。
  それを誤っているならば原因が誰であれ誤引用の類と言えるだろう。」
という意味です。

単純に、私が誤植という意味(特に異本を生じうる古文書の類における)を正しく理解できていないのかもしれません。
その場合はご指摘ください。

また、もしかしたら「無量義経がインドの言葉で残っていない」というのは誤りかもしれません。
その場合もご指摘ください。

次に、

引用者は「大師」や「本仏」と崇められ、あるいは信仰さえされる方々です。
彼らの主張に従えば地獄に落ちるか成仏できるかの重大な話になります。
私のような場末の凡夫が誤引用や誤字をするのとは訳が違います。
ちなみに、私は誰が何を信じていても、それが原因の堕地獄(現世的な意味の不幸)を主張しません。


についてです。
これは「※」でくくっているように、補足的な意味合いで書きました。
補足的ではあったけれど、
せっかくですからここで日蓮様の論理構成について、
私たちが留意すべきと思うことを申します。

法華経の「我実成仏已来無量無辺」という箇所で例を挙げます。
(【】と改行は私の方で付与しました。)

御書753ページ「御義口伝」から引用します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第三【我実成仏已来無量無辺】等の事
御義口伝に云く
【我実】とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、
然りと雖も当品の意は
【我】とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、
【実】とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり
【成】とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、
【仏】とは此れを覚知するを云うなり
【已】とは過去なり
【来】とは未来なり
【已来】の言の中に現在は有るなり、
我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、
百界千如一念三千と説かれたり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このように、日蓮様は経の中の一文字あるいは二文字について、意味を広く展開します。

通常(文上)の解釈ではこうなるかと思います。
「我実成仏已来無量無辺」=「仏が成仏してから無量無辺の時が経過した」

これが日蓮様の手にかかると、
「我実成仏已来無量無辺」=「南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主である」
とまで展開される訳です。

「仏が成仏してから無量無辺の時が経過した」=「南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主である」
ということになってしまうのです。
普通はこういう理解はできないでしょうし、だからこそ日蓮仏法が特徴を持っているとも言えます。

正直、これが他の宗派の話題なら私も気にしないですよ。
日蓮様ご自身が漢字の一文字にそれこそ無量無辺とも思えるほどの意義を見出しておられるのです。
それが故に気にするのです。

仮に「たった1文字2文字」であっても、
私たちは「漢字が異なれば教説としての解釈も充分に変わり得ること」を認識せねばなりません。

上記の通り、インド語の原典が無く検証のしようがない以上は、推測だけでしか正統性を示すことができません。
教説理解のためには、「未顕真実or未曾顕実」のような検証できない箇所を用いるのは不誠実と思うのです。
(そのような論理構成には説得力がないと感じる、ということです。)

天台教学とは異なる話題なのですが、最終的に日蓮様の教学につながるため、ここで指摘しました。
漢字嫌いの私が言うのもおこがましいのですが、
漢訳経典の解釈において「漢字一文字も疎かにできない」ということです。


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●ということは、当該箇所は 「四十餘年未曾顯實」  → 四十余年 未だ曾(かつ)て実を顕さず  でよろしいですかね。
●これは、「四十餘年未顯眞實」 → 四十余年 未だ眞実を顕さず  とほぼ同義と考えて良かろうと思いますがいかがでしょうか?
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こちらについてですが、「曾」は副詞か形容詞と思います。動詞ではないと思っています。
そして、「顕」は動詞かなと思います(=他の品詞的に使用し得る)。

それを考慮すると、一概に「ほぼ同義」とは言えないと思います。

「會」と「曾」を見間違えるくらいに漢字が苦手な私の試訳を載せますね。
他の訳し方も可能性があるのですが、「これかなぁ?」というのを書きます。
(→こういう考慮が必要になるので、漢訳を扱う時はものすごく注意が必要だと思うのです。)

以下、漢文からの和訳を試みますが、所々カタカナにしています。
これはそうしないと漢字だらけで自分が理解できないからです。
文法的に解析できればいい話なので、そこは適宜読み替えてください。
※出先なので、普通に訳し間違いがあり得ます。その場合はご指摘お願いします。

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問題となっている箇所について、X=(未曾顯實または未顯眞實)とおく。

「善男子。自我道場菩提樹下端坐六年。得成阿耨多羅三藐三菩提。以佛眼觀一切諸法不可宣説。」
これを
「ナイスガイよ。
  私は道場の菩提樹の下で端坐してから六年で、アヌッタラーサンミャクサンボーディに到達した。
  仏の眼をもって観ると、一切の諸法は良い感じで説くことができない。」
とする。

※これはブッダ成道の辺りを説いてると思うので、過去形で訳して良いのかなと思います。
 かつ、今は天台教学に従って法華経の直前に説かれたと仮定しておきます。

「所以者何。以諸衆生性欲不同。性欲不同種種説法。種種説法以方便力。」
これを
「それはなぜかというと、衆生の性と欲が同じではないからだ。
  性と欲が違うから種々に法を説くのだ。方便パワーで種々に法を説くのだ。」
とする。

「四十餘年X」
これは
今問題の箇所なので、
「40年ちょい、ずっとXだ。」
※四十餘年="for more 40 years"であれば、Xには英語でいう継続の完了形動詞が入るのだろう。
※主語は分からないけど、おそらく我(仏陀)だろう。40年何かをしていたのはここではブッダしか考えられない。
 「善男子」と「衆生」は主語にはならないだろう。確かに最近になってサンガに入会した人もいるだろうから。
とする。

「是故衆生得道差別。不得疾成無上菩提。」
これを
「このために、衆生の得道(=成仏?)には差別がありつづけており、
  アヌッタラーサンミャクサンボーディを高速で得ていないのだ。」
※前の四十余年を受けて、とりあえず継続で訳した。
※いまいち要領を得ない訳ですねこれ。
とする。
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「上記条件のとき、Xの値を求めよ。」という問題ですよね。

(1)X=未顕真実の場合

「未顕=完了動詞『顕』の否定」とおけるので、
『四十餘年』は完了動詞『顕』を修飾する、時間(期間)をあらわす副詞句。
よって、「四十餘年未顯眞實」の日本語訳は「真実をいまだに顕していない」となる。

※ただし、ちょっと不思議なことがあります。
「端坐六年」って、『端坐』が動詞ですね。『六年』が副詞ですよね。
つまりここでは副詞が後置修飾してるんですね。
ところが、「四十餘年未■■實」は様子が違うのです。
■部分に術語動詞が入ると仮定すると、「四十餘年」が前置修飾してることになるんです。

漢文は対句などの技法をよく使うし、仏典自体もそういう傾向を持っています。

そこからすると、ここで修飾の前置後置が切り替わっちゃうのは解せないのです。
韻文でもないから語順を倒置させる必然性が分かりません。
今回の場合、主語は同じ『我』ですから、対句的になるのが普通と思いました。
そのため、余計に解せないのです。

正直なところ、それはそれで本当に「未顕真実」って正確な文字だったの?というのはあります。
これは誤植云々とはちょっと違って、文法的な適正さが良くわからないです。

「四十餘年未顯眞實」の解釈はあくまでも【暫定】で「真実をいまだに顕していない」と理解して良いですか?


(2)X=未曾顕実の場合

これはざっくり2つの可能性があると思います。
「未だ曾て実を顕さず」
「未曾の顕実」
「未曾の顕が実」

すみません。ちょっとこれ以上は自分の漢文力が不足します。

一応、上記(1)の※で書いた『四十餘年』の前置修飾に合うのは
「未曾の顕実」
「未曾の顕が実」
の方なんですよね…

やっぱりこれ以上は自分の漢文力が不足します。根拠ある解釈ありますか?

と、このように漢訳した瞬間に我々は
「時制がほぼ消失する」
「格変化が消失する」
「品詞の特定が困難になる」
という三重苦を背負うことになります。

そして、
「結果、恣意的な訳が可能になってしまう」
「不毛な解釈論議を引き起こす」
「漢訳オンリーだと検証すらできない」
「解釈の違いによる分派が量産される」
という4つの悪魔的結末を引き起こす訳です。

これはもはや、漢訳そのものによる「平成の三障四魔」と言いたいくらいです。

いずれにせよ、漢訳経典は重大な注意を払って理解すべきものです。
「漢字一文字さえも疎かにできない」のです。

よって、(天台大師でないにしても、漢訳仏典である以上は)誤字誤植の類を看過できないのです。
仏典の解釈に及ぼす影響が甚大だからです(特に智様ー日蓮様の系譜)。
成仏か地獄かを分ける(と他人に主張し得る)ものだからです。

そして、本件は前述の通り、検証できない部類の問題と思います。
サンスクリットなどの原典があれば別ですが、なければ検証できません。
検証できない以上は、「四十餘年未顯眞實」を釈尊の教説としての根拠にするのは不誠実と思います。

という訳で、今の時点で主張に大差なく、撤回できません。
漢文も数学も嫌いですから、本当は撤回した方が楽です。
でも、誠意あるコミュニケーション実現のためにそれはできません。


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(ちなみに貴方は大変に勉強家かとお見受けしますので、是非 この <三><宮> の意味を教えていただければありがたいです。)
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恐れ多いことです。
私は以前から、貴方の日蓮正宗への深い帰依やある種の愛のようなもの、あるいは教学への探究心を感じています。
それは最初のメールで何となく伝わったかと思いますが、
そのような貴方がそんな風に言ってくださること、お世辞であっても、ちょっぴり嬉しいです。

残念ながら、私は勉強家と言えるほど勉強はしていません。そんな私なので、<三><宮>の意味も存じません。
確かに気にはなりますね。
一応ですけど、ちょっぴり嬉しかったのでググった範囲で書きますね。こんなページがありました。
http://digitalnagasaki.hatenablog.com/entry/2018/04/08/032008

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脚注の6番に着目してみると、一番左の『大正新脩大藏経』では「踊」としているものの、
「三」(つまり、増上寺所蔵の宋版・元版・明版の三者)及び、
「宮」(つまり、宮内庁書陵部の宋版一切經)では「涌」となっている、
ということが書いてあります。
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なんとなくこれな気がしますが、どう思います?
流し読みしかしていないので…ほんと、ご参考までで。


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↑ 残念ながら、この中村氏の見解では、私の仮説  http://toyoda.tv/bukkyorongio.htm  を完全に否定する根拠とはなり得ませんね。
これはまさに、「本人に時代が近い文献のみが本人の説に近く、遠いものは信用できない。」
という一つの固定観念に基づいた推論であって、これがそのまま事実であり真実であると断定できる根拠とはなり得ないということです。
現に、私の仮説 http://toyoda.tv/bukkyorongio.htm
でも釈尊の経典伝播の歴史は説明できますし、中村説ではそれを完全に覆す論拠とはならないですね。

私の知る限り、中村氏が確たる仏道修行によって、釈尊の解脱の根本問題である、生老病死 の問題を乗り超えておられる。。という情報はありません。
まさに、私が例えた、http://toyoda.tv/bukkyorongio.htm の 格闘技が自分ではできないただの古文書研究者
の事例に属するのではないかと思います。

もう少し、学術的に”強力な根拠”を教えてください。
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前提として、私自身が相当な固定観念の塊であることは認めます。
ですが、「本人に時代が近い文献【のみ】が本人の説に近く、遠いものは【信用できない】。」という主旨は話していません。

私が言いたいのはこういうことですよ。

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「時間的に離れているから釈尊の教説に近い」とは言うのは一般的な感覚として受け入れがたい。その一方で、
「時間的に近いから釈尊の教説に近い」という理屈は、一般的な感覚としても受け入れられる主張と思います。

例えば、

・事件発生から2年後に得られた証言
・事件発生から8年後に得られた証言
この2つを比べた時に、どちらが「よりフレッシュな証言」だと思いますか?

という話です。

例えば、

・釈尊入滅から100年後の釈尊に関する証言(≒初期仏典)
・釈尊入滅から400年後の釈尊に関する証言(≒大乗仏典)
この2つを比べた時に、どちらが「よりフレッシュな証言」だと思いますか?

という話です。
(色んな説がありますが、とりあえず大乗仏典が紀元後の成立と仮定しています。)

「事件発生後の数年差」というレベルではないです。「300年もの差」がありますよ。
徳川幕府がはじまってから終わるまでが、すっぽり入ります。そのくらいの時間感覚ですよ。
その間、一般家庭なら10世代以上ありますよ。
10代も前の祖先が何を言ったかなんて分かりません。
仮に文献が残っていたとしても、書体も文法も字体も今と違って読めません。
ましてやその祖先が心の内で何を考えていたかなど、知る由もありません。

…というのが、一般的な感覚ではないですか?と言っているのです。

もちろん、そこに決定的な証拠なり論理(≒釈尊が直説を書き残した文献)があれば話は別ですが、
そういったものがない場合、事件発生から早くに得られた証言の方が説得力がある。

…というのが一般的な感覚ではないか?と言っているのです。

「いや、それはお前だけだ!一般的にはそんな感覚は持たない!」
と仰るのであれば、この方面からの話は控えますね。
ただし、その場合はちょっとまともな議論が成立しない気もします。
議論が成立しないというのは、「仏教は信じたい人が好きなものを信じれば良い」以上の結論にならない、という意味です。
決定的な証拠なり論理(≒釈尊が直説を書き残した文献)がない以上、そうなります。

逆に「まあ、一理あるか」ということなら、「時間的に近い方の仏典をまず検証し、その後に後代成立の経典を検証しませんか?」ということです。

その際の順序は「初期仏典」で一応の基準を作って→「大乗仏典」で整合性を取る。
と、こういう形が現代における議論として誠実であり、
そのようにして組み立てられた論理にこそ説得力がありませんか?
ということです。

ちなみに、
「日蓮仏法のお題目で幸せになるのが証拠だ!」というのは何らかの証拠になり得ます。宗教の話なので。
富士門流の真摯な信徒様であればなおさらです。
その点について、私は最初に書いた通り、当人が功徳や確信を得たと感じることをを否定しません。
お題目で幸せになったと感じる人もたくさんおられるだろうと思います。
ですがそれは「仏教としての正統性があるかどうかの説得力」とは別の話です。


なお、私は「小乗教説」と「大乗教説」をピッチリ分けることは難しいと考えております。
そこに比べると、「初期仏典」と「大乗仏典」とは割と明確に区別できると思います。

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これがうまく伝わっていないのかも知れないですけど…すみません、そんなにこれ分かりにくいですか…?

もしかするとなのですが、「私たちの間には、一部の日本語についての理解に大きな隔たりがある」かもしれません。
だとすれば、そこを明らかにする必要があるかも知れませんね。

基本的にはそういうものを貴方から感じません。割と気が合うようにすら感じています。
しかし、この件については、なぜこのように疑問を持たれるのかがちょっと分かっていません。
分かっていないことが、隔たりの証拠であるような気もしてきました。
何かお気づきのことあれば教えてください。

その上でお尋ね申し上げます。

(1)
上記の通り、「一般的に自然」という表現ではご理解を得られなかったと思われます。
そこで貴方から学術的な根拠を求められました。
私は「アカデミックな世界の人」だと思われる中村元様の書籍から引用を行いました。
が、それも納得されなかったものと思います。
残念ですが、後述の通りに私はアカデミックな意味の学が本当にありません。
よって、そういう点からの論証はこれが限界と思います。
「何としてもアカデミックな論証を」ということであれば、下手すると数ヶ月くらい時間を頂きたいです。
(正直、私は過去現在近未来において論文を読み漁るようなことはしたくないです。)

それに関して、
貴HPの http://toyoda.tv/bukkyorongio.htm についてです。

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一切経の根本的な部分は釈尊在世に全て現れており、釈尊一代での化導の次第が、滅後長い年月かけて、敷衍されていった。。
釈尊50年の説時 と仮定して、それが滅後は、例えば4〜500年かけて敷衍されていった。

それは釈尊一代でも、概ね 小乗→権大乗→実大乗 と説き上げていったように
滅後の時代の流れの中で、大筋は 小乗→権大乗→実大乗 というように実践・体得されていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように掴めば、天台の五時八教は大きな括りとしては全く矛盾を感じないのですがいかがですかね。
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こちらは仮説だそうですが、私にも学術的な根拠を示して頂きたく思います。
上記の「釈尊一代でも、概ね 小乗→権大乗→実大乗 と説き上げていった」はどのような学術的な根拠がありますか?


(2)
私は「中村氏が確たる仏道修行によって、釈尊の解脱の根本問題である、生老病死 の問題を乗り超えておられる。。」とは書いてないですよ?

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★仏教学者が仏道修行をしていない、という意味であれば理解しかねます。★

以下の理由から、この説明を理解しかねます。
・私は仏教学者も仏道修行を実践していると考えるため
・上述の通り、釈尊の中心的な教説においては秘密の奥義のようなものがなかったと考えるため

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ということは書きましたが、「中村元様が生老病死を乗り越えた」という主張は一切していないはずです。
例えば、
「中村元様は悟っておられる」とか、
「中村元様は悟っておられる」とか、
「金剛中村一切如来著『ブッダの言葉(岩波書店)』に曰く」とか、
そういうふざけたことを言ったつもりは全くありません。
私からのメールで、そこまで明に主張している箇所がありましたか?
私は記憶力が残念なので、忘れているだけかもしれません。
それはそれで問題なので、該当する箇所があったら指摘してください。

そういう箇所がなかったらなかったで、
「中村氏が確たる仏道修行によって、釈尊の解脱の根本問題である、生老病死 の問題を乗り超えておられる」
というのが誰の意見であるのか教えてくださいますか?


(3)
仰るところの「学術的な根拠」というのはどういう意味でしょうか?
「大学で教鞭をとっている人」や「(創価ではない方の)学会に論文を提出した人」による言葉(A)
という意味でしょうか?
私は(A)の意味で使っています。
その意味であれば、「中村元様が仏教の実践者」だったことを証明はできません。
他にも、それなりに引用元はありますが、私自身がアカデミックな何かと無縁です。
何せ、学校が嫌いなんですからこれは仕方がないです。

従って、今後も「(A)のみを根拠にする」ということであれば、私はこれ以上何も話せない気がしています。
そういうことならば、東大やらドイツの大学にでも行って勉強する方が効率良いと思いますし、
宗教を求める場合にはそういうところ出身の宗教学者なり文献学者のみを頼れば良いと思います。
しかし、その考え方はむしろ伝統仏教各宗派さえ否定しかねないことだと思います。

誤解のないように申しますが、
私は「学者のような偉い人の意見に耳を傾けるべき道理が充分すぎるほどある」ことを理解します。
私は「宗教法人の偉い人の意見に耳を傾けるべき道理が充分すぎるほどある」ことも理解します。
私は「宗教法人の偉い人の中にはチャンチャラおかしなことを言う人も結構いる」ことも理解します。
その上で「検証に当たってはなるべく原書にチャレンジする方が良い」とも考えています(時間や体力が許すならば)。

言い換えるならば、
「日蓮様の教えを知りたいなら御書を学べば良い。理解できるなら池田先生を通す必要はない。」
「釈尊の教えを知りたいなら仏典を学べば良い。理解できるなら日蓮様を通す必要はない。」
「バラモン教を知りたいならヴェーダの経典を学べば言い。理解できるなら釈尊を通す必要はない。」
ということです。

私は「バラモン教まで遡る気はあまりない。それより今は釈尊の教えを知りたい、実践したい」と考えているものです。
そして、
「そうは言っても、原典が外国語である以上は翻訳家の力を借りないとね。
  仏教には難しそうな概念もあるから、そういうのは専門家の意見も参照しないとね。
  昔は漢訳しかなかったけど、現代はインドの言葉からの直接和訳があるね。便利だね。使おうね。」
「経典を理解して得られた知見や論理(B)は議論に用いて良いよね。」
ということです。

理解さえできるのであれば、(A)よりも(B)を優先すべきと思います。なぜならば宗教のことだからです。
宗教のことであるならば、それは客観性が保証されないからです。保証されるならば、それは科学です。学問です。
また、開祖に近づきたい(から原書に近付く)というのは、少なくともインド付近で発祥した宗教ならば至って普通のことと思っていました。
そこは自明に近いことと勝手に思っておりましたが、この認識は合っていますか?
(そこは合っている上で、上記の中村元様の論理だけでは論証に値しない、と判断されたのでしょうか?
 その場合はその場合で、学術的な中村元様の論理には、学術的な何かで反論頂くのが筋と思います。)


もし、上記(B)を受容可能であれば、以下をお読みください。

教学的な意味の文証らしきもの(B)は提出できます。

妙法蓮華経法師品第十には

「若復有人。受持讀誦解説書寫妙法華經乃至一偈。於此經卷敬視如佛。…」
とあります。
この経文については、
「例えば人がいるとしよう。妙法蓮華経の詩文1個でも良いんだけどさ、その人が受持・読誦・解説・書写するよね。それはこの経巻をまるで仏のように敬って視るようなものでさ…」
くらいの解釈をしましたが、間違ってたら教えてください。出先で現代語訳がないのです。

これは法華経に説かれた仏道修行と解します(合っていますか?)。
中村元様は法華経の現代語訳を書いています(『法華経』 (現代語訳大乗仏典)※私は持っていません)。

ということは、少なくとも
・現代日本語で法華経を解説したのは間違いないです。
・現代日本語で法華経を書いたのも大体間違いないでしょう。
ということになります。

また、読誦についても実行された可能性は高いと思います(偈文の翻訳のためには必要なことだろう)。
受持はちょっと色んな意味がありそうなので言及を控えます。

ということで、中村元様は「法華経に説かれた4種の実践のうち最低でも一つはやった。しかも一般人よりも遥かに大量・高度に」とは言えると思います。
とても【一偈】のレベルではないです。何せ一冊の書籍になっているのですから。
よって、中村元様は「仏道の実践をしておられた」と考えるものであります。

鳩摩羅什様という人は、あれだけ大量のインド仏典を中国語に翻訳しました。
彼が「ただのインド文書研究者」とは思えません。

中村元様という人は、あれだけ大量のインド仏典を日本語に翻訳しました。
彼もまた「ただの古文書研究者」とは思えません。


(4)
上述の内容に関わりますが、生老病死を乗り越える(以下、解脱と書きます)という点については、
ちょっと論理が飛躍しすぎではないでしょうか。
あるいは、議論対象の範囲外にした方が良いと思います。

「解脱した」というのは基本的に自己申告です。
解脱したことを誰かに言うも言わぬも自由であり、それを客観的に証明することは不可能です。
(極論ですが、仮に三十二相を具えて額からビームを出す凄い人がいたとします。
 その人は紀元前後にパレスチナのベツレヘムで生まれ、ジーザスという名だったとしますね。
 そのジーザスという人は色々あって最後に処刑されました。
 亡くなる際に「おお神よ、なぜ私を捨て給うた」的なことを言ったとします。
 そして最期の最後に「実は去年、解脱したんです。これは涅槃なんです」と言ったとします。
 仮に三十二相を具えて額からビームを出しながらそれを言ったとしても、ジーザスという人は解脱したことを証せないと思います。
 「解脱した」とか「奇跡的な何かをした」としても、それ自体が解脱の証にならないと言っています。
 だれが解脱したとしても、その人が説いた修行法を再現するのは信仰者本人だと言っています。)

悪い例でしょうが、オウム真理教の教祖は「最終解脱者」を名乗りました(ちなみに彼の著作に「生死を超える」というのがあった気がします)。
「最終解脱していない人」は「彼は最終解脱した」とも「彼は最終解脱していない」などとは断定できないのです。
なぜなら、「『最終解脱が正確な意味で何であるのか』は最終解脱した人にしか分からない」からです。
つまり、「本人はそう言っている」としか言えないものなのです。

仮にここで私が
「私は悟ったのだ。つまりは如来なのだ。如来の見地からすれば、日蓮仏法は説得力がないのだ!」
と言ったとして、それは議論に意味のあることですか?

中村元様が生老病死を超越していたとして、あるいはしていなかったとして、それは議論に意味のあることですか?

形而上学的とまでは言いませんが、「言語での表現が極めて困難」という意味で、解脱は形而上に近い何かでしょう。
少なくとも、論理を超えた何かですから、あまり議論に向かないことだと思うのです。
すぐ思い出せたので引用しますが、法華経にも「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」とあります。

経文に説かれている人や、自分から宣言した人を除いては、
「誰々が生老病死を超越した(解脱した)」ということを議論をすべきではないと思うのですが、如何でしょうか?

私は、そこについても自明に近いことと勝手に思っておりました。
それ故に仏教界において「私は悟った」という人がなかなかいないのだと思っていました。

これは私が全く知らないだけなのですが、ひょっとして、「私は解脱した」と他人に宣言する方が日蓮正宗におられるのでしょうか?
いるなら教えてください。いないのならば、経典に書かれていない人について「誰々は解脱した/しなかった」云々はやめませんか。

もちろん、貴方がすでに解脱している可能性もあるのですが、
私たちは今「仏教の正統って何?」的な議論をしています。
今はその宣言を控えるほうが宜しいかと思うのです。

※ここでは「生老病死を超越すること=解脱」と表現しています。
 解脱という単語が不適切であれば、「生老病死を超越すること」に置き換えてください。

 以上です。

ありがとうございました。
お疲れさまでした。