何を今更、ガタガタ言ってるんかね?

もう既に、完全に論証し切っている。

しかも、駄犬は既に完全にノックアウトされてるでしょう。誰が見ても。

ほれ! ↓

駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能一覧表


====================

 キミは、「木絵二像は開眼前の文字曼荼羅御本尊」と限定出来ない事を証明する文証によってカンタンに破折された。 その文証を覆し、「木絵二像は開眼前の文字曼荼羅御本尊」と"限定出来る"文証をキミは提示出来ない完全敗北終了者だ!

=================

何度躾けても、覚えの悪い駄犬だね〜〜。

あっ、だから 駄犬 なのか。


裁判が終わって、既に死刑が確定して、官吏に両腕を掴まれ、獄舎へ移送される途中で、「俺は、無実だ〜〜〜!」と喚いているに等しい。


裁判と言えば、この法義論争とは、ちょうどその審理に似ている。

ある者が殺人を犯して裁判になる。
誰もその者が人を殺した瞬間を動画に撮ってなどいない。普通はそうである。
しかし、出てくるあらゆる物的証拠、他、あらゆる状況証拠が、ある者が殺人を犯したことを証明している。
しかし、その殺した瞬間の動画などはない。
で、その者は叫ぶ
「俺が殺人したその瞬間の動画があるのかよ!
それがなければ、俺が絶対に殺人したとは断定できねぇじゃねぇか!」  と。

駄犬が言っていることはこのレベルのこと。

■ 仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝(か)つ物なり。(四條金吾殿御返事 建治三年四月 五六歳 1179)

■ 日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。(三三蔵祈雨事 建治元年六月二二日 五四歳 873)

この
「文証」とは証拠そのもの、
「道理」とは、その物的証拠と、状況証拠によって類推される当然の結果。

この両方が組合わさって、真実が領解できるのである。

「殺人を犯した。」というそのものズバリの映像証拠など、監視カメラか、他人の眼の前で殺人を行わない限りは存在しない。

そこで、指紋、血液型、体液、DNA、凶器、などの物証、また、アリバイ、怨恨などの人間関係、金銭関係、などなどの状況証拠など、あらゆる角度から類推し、殺人したことは否定し得ない。という結論が導きだされるのである。
これまさに「道理」である。

このような「道理」が分からない者を、大聖人は以下のようにご指摘である。

■ 癡人が疑って云はく、(中略)山を隔(へだ)て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提(いっせんだい)の人としるべし。生き盲にことならず。(報恩抄 建治二年七月二一日 五五歳 1001)

「山の向こう側から煙が昇るのを見て、愚かで道理が分からない者はこう言う
「確かに煙は確認できる。しかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」
このように言う者どもは一闡提人(※)であると、自覚し反省すべきである。
まさに生き盲である。→つまり、「道理」が全く見えない者との意。

→(※一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。
今、末法においては、日蓮大聖人の仏法の正統正嫡である日蓮正宗を信ぜず、誹謗をし、戒壇の大御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。)

上記のようなことをまだ騒いでいる者は、まさにこのような一闡提人と、大聖人から厳しい叱責を受けている者である。


また、この、「煙だけでは類推できない。火を直接見なければ納得できない。」という、
つまり、「直接的証拠しか信じられない。理解できない。」という者は、
結局、知的水準が低い、とも言える。

脳が未分化で、類推とか推量とかの高度な知的想像力が機能していないのだ。
つまり、低脳とも、幼稚とも、あるいは バカ ともいえる。

平行線を見て、「宇宙の果てまで行って、二本の直線が交わっていないことを確認しない限り、それが平行線だとは信じられない」
と言っていることと同じである。
知的な代用推理ができないのである。
そんな者は、結局一生かかっても「真理」になど到達できない。

それが、駄犬である。

だから、大聖人は、そういう者を 「一闡提人!」と破折されるのである。

=====================

キミは、「木絵二像は開眼前の文字曼荼羅御本尊」と限定出来ない事を証明する文証によってカンタンに破折された。 その文証を覆し、「木絵二像は開眼前の文字曼荼羅御本尊」と"限定出来る"文証をキミは提示出来ない完全敗北終了者だ!

=====================

何度躾けても、理解できない、覚えられないで、このような↑痴論を繰り返す駄犬が、それである。

少しは分かったか? バカが。


【文証】と道理について


● 「御書全編」で日興上人へ宛てた御書がほとんどない。 

 御書には御本尊の重大事が全てお示しではない

 ▼『「戒壇本尊と直結させてない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」三証を示せ』▼ 
   との痴問を破す


● 道理と文証の関係を示す

● 「文証!文証!」と道理が分からず馬鹿の一つ覚えの駄犬「考える人」を躾ける。

● なんと!駄犬曰く  ▼「御真筆本尊はねー。大聖人が"御書き"になったから文証にもなるんだよー。」▼
  『 詰められて 悔しさあまって 誤魔化して 言い逃れしたけど 逃げ切れず 』  ぶははははは〜。


開眼について

以下、様々な「物証」(→文証)と「道理」を以って、結論は出ている。

【開眼供養を論証】

● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏  

● 2014.8.21 「開眼供養」の原理を 真言師の「開眼供養」の原理から逆論証する

● 2014.8.21 木絵二像の「開眼の義」を会通

● 2014.8.21 ■ 人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。

● 2014.8.21 「死骨成仏」 の原理を明かす

● 2014.8.21 小結 「木絵二像 を 本尊 と成すには 必ず 「開眼供養の義」 が必要」 と断ずる

● 2014.8.21 ■ 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

● 2021.8.21 ■ 「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。

● 2014.8.22 開眼論証 結論 駄犬「考える人」が拝む『 ネット販売の模造掛け軸 』には悪鬼・魔神が棲み込んでいる


【木絵二像開眼の事】


「考える人」 本尊開眼義に対しての痴難を破す 1

2 「是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」  
    の珍釈を呵す


3 御義口伝の引用文  「一切衆生の言語音声を経と云うなり」  
    の珍釈を大いに嗤う


● 2014.8.27  4 『 「生身の 仏」の違い 涅槃経 瓔珞経に 迷う駄犬ぞ  』    愚か〜〜〜。

● 2014.8.27  5 『 御文まで 強いて捻じ曲ぐ 我執かな 』  あ〜あ、嫌だね〜、こんな奴!ほんと卑しい!

● 2014.8.27  6 『 法華経を 置けば開眼 すると言い 』  んなバカな〜〜〜!御書をよく読め〜〜!

● 2014.8.27  7 『 末法の 法華の意味を 知らぬ犬 』  だはっははっはh〜〜

 駄犬の「口が鼻の如し」を諭す

● ▼「元意」を証明する「文証」がない▼ の馬鹿さ加減を叩く

● ▼「仏=本尊ではない。本仏こそ本尊」▼  を大いに嗤う 

 駄犬曰く  ▼「木画二像の前に『法華経』を置けば "開眼 "する」▼  
   など、そんな御文も、義も、どこにもない


  ▼『「開眼する」→「仏になる」=「本尊になる」と、浅はかにも間違った理解をしているのだ!』▼  
  を嗤う


● 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。」  
   を法華経の「文証」で具体的に説明してみよ。   できなければ謝罪せよ。


● ■ 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり ■
   の 「純円の仏」 は 「生身の仏」 ではない。


● ▼「釈迦像」が「本尊」だと【限定出来る文証】わー?▼ 
   だって? マジで馬鹿じゃないの? 呵々大笑。


● 2014.8.22 『 「生身の 仏」が分らぬ 実験体 』 


さ、駄犬、以上に対して、正当な「三証」全て揃えて、反証してみよ。(何度同じこといわせるんだろうね〜〜〜、全く!)


幾度も 首落されても 死ねぬ犬    キモい〜〜〜〜(>_<)