● 「考える人←実は「何も考えられない人」が当方の「本尊開眼の義」に対して絡んできていたようであるが、このような謗法のゴミ・虫の類の存在など、さして世の中に影響力がある訳でもなく、邪義破折の優先順位としては、極めて後順に位置していたので放置していた。
が、最近、若手メンバーの邪義破折の練習相手にはなかなか適当なレベルのようで、そこにこのゴミ・虫の利用価値を発見した。

そこで、メンバーの為の破折勉強会のテキストとして、切り刻んで摧破しておきましょう。

以下、http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/?q=%E9%96%8B%E7%9C%BC&charset=utf-8#entry1158

にある邪難のポイントを粉砕していこう。
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▼=邪難

■仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれ ば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画の二像あり■


日蓮正宗法華講樋田氏は、
「木画の二像とは開眼前の御本尊のことである」
(主意)などと主張しているが、すでに仏滅後は木画の二像あり」との御文で、その矛盾が露になっている。

「仏滅後」と書いてあれば、普通は、鎌倉時代より2000年も前の釈尊入滅の時より大聖人御在世までの長い期間を想定するはずである。
「木画の二像」とは、釈迦滅後からつくられた通常の仏像や仏画と言う意味でしかないのは、普通の思考で読めば分かる。
しかし、法華講の者達は、「仏滅後」と書いてあっても、その二千年に渡る長い期間につくられた仏像や仏画を無視し、「大聖人御在世の大聖人の顕された御本尊」(主意)のことだと納得し信じられるのである!

邪宗の害毒は恐ろしい。


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●= 【破折】

 文意が読めないとはこうも哀れなものか。

一往・附文の辺においては

「木画二像」 とは、「釈迦仏像」等 を指すことは、わざわざ説明しなくても、誰でも分かることである。
誰でも分かるところは敢えて深く講説することもなかろう。

しかし、大事なところは 再往・元意の辺 である。
そこから読めば

「木画二像」 とは 「十界曼荼羅本尊」  である。

なぜそういえるのか?

それは、まずこの

「木画二像」 との語とは 「本尊」 

を意味していることは、誰人も理解できるところであろう。

言い換えれば、

「本尊」 の代名詞として 「木画二像」 と言われているのである。

そこで、

「本尊=釈迦像」 という時代や、機根に即して論ずる時は、

「木画二像=釈迦像」 となり、

「本尊=十界曼荼羅本尊」 との見地と領解に即して論ずるならば、

「木画二像=十界曼荼羅本尊」 となるのである。

大事なことは、その文脈・文意において、「附文の辺」 を採るか、「元意の辺」 を採るかは、深く、文・義・意に達しなければ読めないのである。

「考える人←実は「何も考えられない人」は文意に即してこの両様の解釈ができない幼稚な頭しか所有していないだけのことなのである。

木絵二像開眼の事 冒頭の御文

■「 仏に三十二相有り、皆色法(しきほう)なり。
最下の千輻輪(せんぷくりん)より終はり無見頂相(むけんちょうそう)に至るまでの三十一相は、可見有対色(かけんうたいしき)なれば書きつべし作りつべし。
梵音声(ぼんのうじょう)の一相は、不可見無対色(ふかけんむたいしき)なれば書くべからず作るべからず。

仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。
是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法(しんぽう)かけたり。
生身(しょうじん)の仏と木画の二像を対するに天地雲泥(うんでい)なり。
何ぞ涅槃の後分(ごぶん)には生身の仏と、滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや。
又大瓔珞経(だいようらくきょう)には、木画の二像は生身の仏にはをと(劣)れりとと(説)けり。」


この個所の意味は、

「生身の釈迦仏」 と 「滅後の本尊である木画二像」 との違いについて問題提起している個所であり、その決定的差は、

「梵音声」 と 「心法」 である。

その 「梵音声」 と 「心法」 が欠ける 「木画二像」 は明らかに 「生身の仏」 より劣るはずなのに、なぜか涅槃経には 「生身の仏」 と 「滅後の本尊である木画二像」 は功徳が等しい、と書かれている。

しかしまた他の大瓔珞経の経文には 「双方には勝劣あり、功徳に勝劣あり」 と説かれてもあり、一体どう考えたらいいのか?


という個所である。
(因みに、「生身の仏」と「木画二像」が功徳等しい、と説いた涅槃経は、草木成仏の原理が詳らかになる一念三千が説き極められた後に説かれた経典であり、
「生身の仏」に対すれば「木画二像」が劣る、と説かれた大瓔珞経、一念三千が未だ説き顕わされていない方便・権教であることも、注意すべき点であろう。)

この段では、

● 「生身の仏」 の滅後以降の 「木画二像=本尊」 とは、どういう「本尊」であるならば、「生身の仏」と等しい「本尊」となるのであろうか?

それは

「草木で作った「本尊=「木画二像」」に、「梵音声」と「心法」を合すれば、「生身の仏」と等しくなり、「本尊」として成立する」

との原理が暗示されているのである。

この文意は、邪妄深きが故に暗愚な「考える人←実は「何も考えられない人」にはここまで丁寧に説いても理解することはまず無理だろうが、賢い読者ならば無理なく首肯できるところであろう。

過去からの悪因縁の生まれで、謗法の根性強く、我見に盲囚している愚か者には、こういう「文」の奥に説き含められている「義」が全く見えないものである。
自身の愚かさを鮮明に晒しただけの、実に恥かしい痴難文である。

つづく