▼「戒壇本尊と直結させてない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」三証を示せ

● そもそも、「戒壇本尊と直結」する本尊 とは仏法的にどういう意味か不明瞭であるが、言わんとすることはざっとこういうことだろう。

「戒壇の大御本尊が唯一絶対、特別の本尊ではなく、あらゆる御真筆本尊も功徳はあるはずだ。」
「だから自分は(ネットで買ったか、直接身延の土産物売り場へ行って買ったか知らないが)大聖人真筆本尊の模造掛け軸を本尊としている。
しかも晩年のがいい。それで何が悪い。」

※上記の根拠となる資料 

▼ http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/blog-entry-1104.html

*質問>個人信仰者は、御本尊をどこから入手すればいいのですか?

ネット上の販売店などから購入できます。
謗法への供養とならぬよう、できるだけ邪宗の利益とならない所を選びましょう。

(中略)

*質問>御本尊をどのように選べばいいのですか?

日蓮大聖人晩年の御真筆模造本尊をお勧めします。  資料以上


● では、まず、

▼「戒壇本尊と直結させてない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」三証を示せ。

についてだが、
御本尊の具体的な様々な御大事は御書にその全てが御教示されていないことは以下に例示した通りである。

http://toyoda.tv/gosyonisubete.hasyaku2.htm

「考える人←実は「何も考えられない人」はこれについて、全く反老不能になっている。

御本尊の具体的な御事についての御文がそもそも極めて少ないのであるから、
▼「戒壇本尊と"直結させて"ない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」という直接的な文証が、特に御書になくとも、別に不自然なことではない。
その直接的文証がないからといって、「戒壇の大御本尊を離れた全ての御真筆御本尊にも功徳がある」という証明にはならない。

■仏法と申すは道理なり。道理と申すは主(※「謗法者」の意でもある)に勝(か)つ物なり。(四條金吾殿御返事 建治三年四月 五六歳 1179)


そこで、三証のうち「道理」として「『戒壇の大御本尊』と『その他の御真筆御本尊』とに明確に『差』が存在する」ことは以下の論証で立証できる。

http://toyoda.tv/kaidan2.htm
http://toyoda.tv/kaidan3.htm
http://toyoda.tv/kaidan4.htm
http://toyoda.tv/kaidan006.htm
http://toyoda.tv/kaidan.taiso.htm

「『戒壇の大御本尊』と『その他の御真筆御本尊』とに明確に『差』が存在する」限り、御本尊としての存在全てにおいて厳然とした「差」が存在することは道理の指し示すところ明白である。

「考える人←実は「何も考えられない人」よ、

上記の論証を、道理・文証により、覆してみよ。

それが出来ずに、

▼「戒壇本尊と直結させてない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」三証を示せ。

を際限なく繰り返すのは、全くの能無しの醜態を衆人に晒しているだけで、、貴公の孤独で執拗頑迷な境遇がいよいよ鮮明となり、惨めさが増すだけだと思うが。いかがか。

次は、「考える人←実は「何も考えられない人」が拝む

『「ネット通販で買った、大聖人晩年の御真筆模造本尊」には絶対に功徳がない。』

ことを論証していこう。