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三大秘法から論ず

■ 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如(し)かず。(三大秘法稟承事    弘安五年四月八日  六一歳 1594)

大聖人の一期の御化導の大事至極は「三大秘法に窮まる」「三大秘法でしかない」と仰せである。

(参考 如かず=1 及ばない。かなわない。2 …に越したことはない。…が最もよい。)

三大秘法とは、「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」である。

この三大秘法は一大秘法=本門の本尊に包摂され、集約されるのである。

逆に言えば、一大秘法=本門の本尊が御安置される所が「本門の戒壇」であり、その「本門の戒壇」において「本門の本尊」へうち向かって唱える題目が「本門の題目」である。

別して言えば、ここにのみ大聖人の御化導の全てが集約されている、ということである。

さて、では、この「本門の本尊」とはどういう本尊かというと、次下にを説かれておられる。

■ 寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初(そのかみ)より以来(このかた)、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。寿量品に云はく「如来秘密神通之力」等云云。疏(しょ)の九に云はく「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。(1594)

「本門の本尊」とは「本有無作三身の教主釈尊」である。と仰せである。
つまり、人法一箇である。
その「本有無作三身の教主釈尊」は「三身即一身」で、そのまま「御一身」である。

"一身"とは、当然であるが、その字の如く、ただ「御一身」の御身である。
その御一身がそのまま「本門の本尊」であるから、根本の御本尊とはまさに御一幅である。

その御一幅の「本尊」の御安置の場所が「本門の戒壇」である。

この「本門戒壇」については、以下のように定義されておられる。

■ 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。(1595)

ここでは論筋ではないので詳述はしないが、広宣流布達成の暁に、富士山本門寺に「戒壇」が建立され(論証は既述)、そこにこの「本門の本尊」が御安置され、公式に公開されるのである。


さて、では、広宣流布達成に至ってこの「本門の戒壇」に御安置される「本門の本尊」いかなる御本尊なのか?

事実として、現存する大聖人御自筆(戒壇の大御本尊偽作説の者どもの言い分も考慮して、敢えて附言しておくが・・自筆という"伝承"も含めて)御本尊中、「本門戒壇」と銘打たれている御本尊は、日蓮正宗富士大石寺が厳護している、弘安二年十月十二日御建立の「戒壇の大御本尊」のみである。

大聖人が、御自身の弘教の、言わば目的達成の完成点、最終目標の達成時に、しかも上記の如く、全世界の人界の人々だけでなく、法界の一切の衆生が参詣礼拝すべき大戒壇である「本門の戒壇」へ御安置する御本尊を、明確にされておられないはずはない。

もし、仮に、大聖人が、戒壇の大御本尊をお遺しになっておられなかったとすれば、我々は、この広宣流布達成の暁に富士山本門寺本堂に、一体どの御本尊を御奉掲し、御安置していいのか誰も明瞭な解答を持っていない。

そのような大混乱が起きるような中途半端で曖昧なことをされおくはずは絶対にない。

大聖人は、末法出現の仏として、末法万年の一切衆生を絶対的に救済するために、広宣流布達成時に富士山本門寺本堂に御安置する御本尊を明確に決め置かれていたのである。

その証拠・指標が「本門戒壇」との銘である。

この「本門戒壇」との銘がある御本尊こそ、
大聖人の己心の大事である、三大秘法=一大秘法の御本尊であり、
人法一箇であり、
広宣流布達成の暁に富士山本門寺本堂に御奉掲・御安置される唯一根本の御本尊なのである。

もしこの「戒壇の大御本尊」が偽作であるとしたら、他に「本門戒壇」と銘がある御本尊は存在しないから、大聖人御自身が、万年に亘る御化導の完成点・達成点で本門寺本堂に御安置する御本尊を明示できないまま御入滅したことになる。

つまりはそれは

"仏の化導が未完成のままで終わった。。。"

ということになり、それでは

"大聖人は不完全で未熟な仏だった。。"

ということになり、そもそも"不完全な仏"など存在し得ないから、つまりは

"大聖人は仏ではなかった。。"

ということになり、大聖人を信じる根拠は失われ、そうなると、末法の仏を予証した釈尊の預言も外れたことになり、

"釈尊も仏ではなかった"

ということになっって、結局、"仏教そのものは、一切ただの幻想だった、まやかしだった、。。"ということになってしまうのである。

とすると、既に仏教について熱く論戦すること自体、全く無意味。ということになってしまうわけである。

だが、そんな、仏教自体が無意味だなんてことは絶対にない。

仏の一迷先達した「悟り」は厳然と存在し、その悟りは窮まるところ大聖人の御本尊として厳然と伝わっているのである。
それは、正しい御本尊に向かい、正しい道筋で信行に励めば、どんな人でも観ずることができるところである。

であるから、大聖人を「仏」と信じるのであれば、その御化導が帰結するところは道理・文証によって、やはり「本門戒壇の大御本尊」となるのであり、この戒壇の大御本尊への金剛信を確立しなければ、即身成仏の大果報も、広宣流布の大願も、絶対に叶わないのである。

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