さあ、次々にギャグが飛び出してくる。

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▼ ところが、『仏=本尊 』との
幼稚な教学しか無い樋田氏は、
「開眼する」→「仏になる」=「本尊になる」と、浅はかにも間違った理解をしているのだ!


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● ほほ〜〜。
ここも、駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」 イタいですね〜。
またまた、墓穴掘りましたね〜。

最早、死体が幾つあっても足りないほど、墓穴の数は増えてきましたね。呵々大笑。

では、また細切れに刻みますか。

では、以下の御文などは、駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」はどう会通するのであろうか。

■    真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳 426
 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

この流れを要約すると、

富木殿が 「釈迦像」 を造立した。

この 「釈迦像」 には 「開眼」 が 「早急に必要」 であり、その為に、伊予公に大聖人様の代参で執行するよう促される。

「法華経一部(全巻)」 を、「釈迦像」 の 「六根」 に 「読み入れ」 て、 「生身の教主釈尊」 と 「成して」 、それから迎え入れなさい。 と御指南。

ということである。

この「釈迦像」は何かの飾り物か、置物か?

紛れもなく 「本尊」 であろう。

つまり、「仏」=「本尊」 であり、

まさに、

「開眼する」→「仏になる」=「本尊になる」

ではないか。

駄犬の言い分をそのまま当て嵌めると、

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▼ ところが、『仏=本尊 』との
幼稚な教学しか無い日蓮大聖人は、
「開眼する」→「仏になる」=「本尊になる」と、浅はかにも間違った理解をしているのだ!

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とこうなる。呵々大笑
まことに、イタい!

ハンドルネームで本当に良かったね!
実名ではとてもじゃないが街を歩けないね。
この様じゃ。

駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」 さあ、どう反論するか!
それとも、全く反論不能で、ほっかぶりを決め込むか!

実に見物である!呵々大笑。