それそれ、次〜〜

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故に普賢経に法華経の仏を説て云く「仏の三種の身は方等より生ず」文、是の方等は方等部の方等に非ず法華を方等といふなり、 又云く「此の大乗経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得る」等云云、

その文証として普賢経には「仏は法華経から生まれる」「法華経は諸仏の眼である。諸仏は、法華経によってすべての眼力が具わる」と書いてある。
この御文からも、たとえ法主が仏であったとしても(ぜんぜん仏じゃないが)、開眼は「法華経」に因つて行われることが分かる!
仏であろうと凡夫であろうと、人は「開眼する立場」ではなく、法華経(御本尊)によって「開眼成仏させられる立場」なのだ!


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● ここも、全然ダメ!だね。落第!

まず、駄犬は法華経に三種あることを知らぬ。

釈尊在世の 法華経  
像法時代 天台の 法華経
末法 日蓮大聖人の 法華経

特に 「末法の法華経」 →「三大秘法」=戒壇の大御本尊(人法一箇の大御本尊)

文証(一部)

■ 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝 1773)  つまり、日蓮大聖人 即 戒壇の大御本尊 



で、上掲御文は、同じ「法華経」でも、その意義が重層的に説かれている。

まず、直前の

■A 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

をうけての御文

■B 故に普賢(ふげん)経に法華経の仏を説いて云はく「仏の三種の身は方等より生ず」文。是の方等は方等部の方等に非ず、法華を方等といふなり。

ここBでは、まず、A「純円の仏」の説明を為される。

Bの「法華経の仏」とはまさにAの「純円の仏」である。

その「法華経の仏」=「仏の三種の身(法・報・応の三身)」は、方等(法華経)より生ずる  とある。

これを文上・教相だけで読むと、

「法華経の仏は 法華経から生まれる」  となり、全く意味を成さない。

なので、ここに三種の法華経の意義が顕れる。

つまり、

「熟脱仏法の法華経の仏である釈尊は、文底の法華経=人法一箇の大御本尊=久遠元初自受用身から生じる」 

という意味である。

次に

■ 又云はく「此の大乗経は是諸仏の眼なり。諸仏是に因(よ)って五眼(ごげん)を具することを得る」等云云。

この御文は、一往は釈尊の「法華経」 再往は 日蓮大聖人=戒壇の大御本尊 は、三世十方の諸仏の眼目である。
また、その法華経(二義あり)によって、諸仏は五眼を具することができる。

「具する」 とは あくまで 「具する」 「具(そな)わる」 である。

これもまた、「純円の仏」の説明であり、次段にある御文のごとくに、「生身の仏」と成すには、あくまでも、

■ (末法の法華経=戒壇の大御本尊=日蓮大聖人が)法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

という、具体的な能動的行為が必要なのである。

末法の 法華の意味を 知らぬ犬   だはっははっはh〜〜

参照

【開眼供養を論証】

● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏  

● 2014.8.21 「開眼供養」の原理を 真言師の「開眼供養」の原理から逆論証する

● 2014.8.21 木絵二像の「開眼の義」を会通

● 2014.8.21 ■ 人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。

● 2014.8.21 「死骨成仏」 の原理を明かす

● 2014.8.21 小結 「木絵二像 を 本尊 と成すには 必ず 「開眼供養の義」 が必要」 と断ずる

● 2014.8.21 ■ 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

● 2021.8.21 ■ 「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。

● 2014.8.22 開眼論証 結論 駄犬「考える人」が拝む『 ネット販売の模造掛け軸 』には悪鬼・魔神が棲み込んでいる