● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏

から続く

■ 詮を以て之を謂はゞ、今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば、実仏に非ずして権仏なり。権仏にも非ず、形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。真言師が邪義、印・真言と成りて木絵二像の意と成れるゆへに。

この御文に、「開眼供養」 の 「逆バージョン・悪しき開眼供養」 が説かれている。

だが、その 「原理」 から、逆に 「開眼供養」 の 「原理」 が知れるのである。



■ 詮を以て之を謂はゞ、

  → 肝要を述べれば

■ 今の木絵二像を

  → 例えば、今まで説明してきた、三十一相の釈尊像を、

■ 真言師を以て之を供養すれば、

  → 仮に真言師が 「開眼供養」 したとしたら、どうなるか?

■ 実仏に非ずして権仏なり。権仏にも非ず、形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。

  → 結局、 「悪魔 鬼神」 の 「魔仏」 となる。 何故なら、

■ 真言師が邪義、印・真言と成りて木絵二像の意と成れるゆへに。

  → 真言師の 「邪義」 が 印・真言(現実の邪教の宗教的儀式) という形をとって、釈尊像の 「意=心」 と成るからである。



この 悪しき「魔仏」を生む 「開眼供養」 の 「原理」 を整理する。



 釈尊像 を 邪教の僧が 開眼供養 する 

 → 邪教が持つ、人を地獄に引きずり込む悪しき「教義」が  現実の「宗教儀式」 という形をとって  釈尊像の 「意=心=魂」 となってしまうからである。



ところが、この 「開眼供養」 の 「原理」 から、逆に前段の 以下の重要な御文を、合理的に会通できるのである。


■ 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。


■ 法華経を心法とさだめて、

  → 仏の御心の顕れである法華経を、まさに生身の仏の「心=意=魂」と定めて、

■ 三十一相の木絵の像に

  → 三十一相の釈尊像に

■ 印すれば、

  → 現実の「宗教儀式」という形をとって 
    印する → 

   『1  印(いん)や型を押す。 
    2  しるしを残す。跡をつける。 
    3 影や光を他の物の上に届かせる。 投げかける。』    などすれば、

■ 
木絵二像の全体生身の仏なり。

  → その釈尊像の全身はそのまま、生きた仏 つまり「生身の仏」となる。

■ 草木成仏といへるは是なり。

  → これが 草木という非情が 成仏する → 仏と成る → 衆生を教化・救済する 「本尊」 と成る原理である。

以上を表にしてみよう。

主語 行為 結果 原理
真言の開眼供養 真言師 今の木絵二像を、真言師を以て之を供養すれば 魔なり、鬼なり 真言師が邪義、印・真言と成りて木絵二像の意と成れるゆへに
法華経の開眼供養 省略 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば 木絵二像の全体生身の仏なり。 草木成仏といへるは是なり



以上の如く、 「開眼供養」  という 「現実的な宗教儀式」 が 木絵二像 = 草木で造った絵像・木像 を 「魔仏」 にもしたり、 「生身の仏」 ともしたりするのである。


つづく