文証 について
■ 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。
血脈の次第 日蓮日興 (日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 1675)
この御文の如く、「大聖人の御一生に弘通せられた仏法の全ては、日興上人に付嘱された。」と仰せられている。
しかし、「御書」には日興上人へ宛てた御文は極めて少ない。
平成版の構成において 全四百数十編中でも、数編に過ぎないのではないか?(※記憶違いでしたら訂正ください)
つまり、御書の御文以外に、大聖人から日興上人へ伝持された仏法の重大事が、膨大な量、存在するということである。
この事実こそ、「大聖人様の仏法は「御書」に全てが御表示されていない」ことの明証である。
「文証わ〜?文証わ〜?」と際限なく吠える駄犬は、このような小学生でもちょっと賢い子なら理解できる簡明な道理も分からず、一生アホ〜の如く言い続けていれば良かろう。
バカは死ななきゃ分からない ということ。
「文証わ〜?」 死ぬまで吠える 敗残者 だな。