さあ、やっと、当初の仕事であった、駄犬の「木絵二像開眼の事」の怪釈の破折、その続きを始めよう。

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<追加>

何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏には・をとれりととけり、

どうして、涅槃経には、生身の仏と釈尊滅後の木画の二像の功徳が等しいと説かれているのか、また、爾前経である大瓔珞経(だいようらくきょう)には、木画の二像は、生身の仏に劣ると説かれているのか。
それは、法華経を説いた後の木画の二像は、法華経を前に置くことによって三十二相となり、生身の仏と等しくなれるのだが、法華経が説かれる前の爾前経時には、木絵の二像の前に置く法華経がないため、木絵の二像は、生身の仏に劣る状態しかあり得ないのである。


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はい、全然ダメ。
御文は、よく読み込みなさいね。

法華経を説いた後の木画の二像は、法華経を前に置くことによって三十二相となり、生身の仏と等しくなれるのだが、法華経が説かれる前の爾前経時には、木絵の二像の前に置く法華経がないため、木絵の二像は、生身の仏に劣る状態しかあり得ないのである。

こんなこと、大聖人は全く仰せではない。

木絵二像の前に「経」を置くだけでは、「生身の仏」にはならない。とはっきり仰せである。

■ 木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し「心」なければ、三十二相を具すれども必ずしも「仏にあらず」。

木絵二像が「生身の仏」と等しくなり、「本尊」と成るためには、「経」(就中、法華経)を「前」に置き 魂魄=意=心を入れる必要がある。
と明白に仰せなのである。

駄犬はどうしてもこの簡単明白な御文が読めないのである。


ここは既に詳述してあるので、再掲する。(多少の編集あり)

「考える人」 本尊開眼義に対しての痴難を破す 1
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木絵二像開眼の事 冒頭の御文

■「 仏に三十二相有り、皆色法(しきほう)なり。
最下の千輻輪(せんぷくりん)より終はり無見頂相(むけんちょうそう)に至るまでの三十一相は、可見有対色(かけんうたいしき)なれば書きつべし作りつべし。
梵音声(ぼんのうじょう)の一相は、不可見無対色(ふかけんむたいしき)なれば書くべからず作るべからず。

仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。
是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又
心法(しんぽう)かけたり。
生身(しょうじん)の仏と木画の二像を対するに天地雲泥(うんでい)なり。
何ぞ涅槃の後分(ごぶん)には生身の仏と、滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや。
又大瓔珞経(だいようらくきょう)には、木画の二像は生身の仏にはをと(劣)れりとと(説)けり。」


この個所の意味は、

「生身の釈迦仏」 と 「滅後の本尊である木画二像」 との違いについて問題提起している個所であり、その決定的差は、

「梵音声」 と 
「心法」 である。

その 「梵音声」 と 「心法」 が欠ける 「木画二像」 は明らかに 「生身の仏」 より劣るはずなのに、なぜか涅槃経には 「生身の仏」 と 「滅後の本尊である木画二像」 は功徳が等しい、と書かれている。

しかしまた他の大瓔珞経の経文には 「双方には勝劣あり、功徳に勝劣あり」 と説かれてもあり、一体どう考えたらいいのか?


という個所である。
(因みに、「生身の仏」と「木画二像」が功徳等しい、と説いた涅槃経は、草木成仏の原理が詳らかになる一念三千が説き極められた後に説かれた経典であり、
「生身の仏」に対すれば「木画二像」が劣る、と説かれた大瓔珞経、一念三千が未だ説き顕わされていない方便・権教であることも、注意すべき点であろう。)

この段では、

● 「生身の仏」 の滅後以降の 「木画二像=本尊」 とは、どういう「本尊」であるならば、「生身の仏」と等しい「本尊」となるのであろうか?

それは

「草木で作った「本尊=「木画二像」」に、「梵音声」と「心法」を合すれば、「生身の仏」と等しくなり、「本尊」として成立する」

との原理が暗示されているのである。

この文意は、邪妄深きが故に暗愚な「考える人←実は「何も考えられない人」にはここまで丁寧に説いても理解することはまず無理だろうが、賢い読者ならば無理なく首肯できるところであろう。

過去からの悪因縁の生まれで、謗法の根性強く、我見に盲囚している愚か者には、こういう「文」の奥に説き含められている「義」が全く見えないものである。

自身の愚かさを鮮明に晒しただけの、実に恥かしい痴文である。    再掲以上

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「生身の 仏」の違い 涅槃経 瓔珞経に 迷う駄犬ぞ      愚か〜〜〜。