参照 駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能の一覧表


クズ犬曰く

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この御文からも、「三十一相にして梵音声かけた木画の二像」が、南無妙法蓮華経の文字曼荼羅でないことは、さらにさらに明確である。

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▼ さらにさらに明確である。

いいね〜〜、必死に足掻いている感じが、イイ味だしてますね〜〜。

では、大聖人は 「釈迦の絵像・木像を「開眼供養」して、生身の仏と成し、本尊とすること」を終生、末法尽未来際までお認めだったのか?
バカが! そんなはずないことは、周知の事実である。

そこに、「一往・再往」 「附文・元意」 「隠・顕」の二義 などの法義があるのである。

まっ、これ以上もうクズ犬には理解不能なので、やはりお外で一人で遊んでなさい。もうお教室から出て行っていいよ。ついでにもう帰って来なくてもクラスのみんなは全然かまわないよ。もちろん先生も。 呵々大笑!

まっ、まず、↓ これに答えられなきゃ、大聖人の仏法を論じる資格ないわな〜〜。

● 2014.8.31  8 『 三十二 相でまたまた 蹴躓き  』  どわはっはっはっはは〜〜〜!


「さらにさらに」以下にも未だまともな反論が一言半句もないわ! やっぱ、クズ犬〜〜。


【開眼供養を論証】

● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏  

● 2014.8.21 「開眼供養」の原理を 真言師の「開眼供養」の原理から逆論証する

● 2014.8.21 木絵二像の「開眼の義」を会通

● 2014.8.21 ■ 人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。

● 2014.8.21 「死骨成仏」 の原理を明かす

● 2014.8.21 小結 「木絵二像 を 本尊 と成すには 必ず 「開眼供養の義」 が必要」 と断ずる

● 2014.8.21 ■ 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

● 2021.8.21 ■ 「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。

● 2014.8.22 開眼論証 結論 駄犬「考える人」が拝む『 ネット販売の模造掛け軸 』には悪鬼・魔神が棲み込んでいる


【木絵二像開眼の事】


「考える人」 本尊開眼義に対しての痴難を破す 1

2 「是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」  
    の珍釈を呵す


3 御義口伝の引用文  「一切衆生の言語音声を経と云うなり」  
    の珍釈を大いに嗤う


● 2014.8.27  4 『 「生身の 仏」の違い 涅槃経 瓔珞経に 迷う駄犬ぞ  』    愚か〜〜〜。

● 2014.8.27  5 『 御文まで 強いて捻じ曲ぐ 我執かな 』  あ〜あ、嫌だね〜、こんな奴!ほんと卑しい!

● 2014.8.27  6 『 法華経を 置けば開眼 すると言い 』  んなバカな〜〜〜!御書をよく読め〜〜!

● 2014.8.27  7 『 末法の 法華の意味を 知らぬ犬 』  だはっははっはh〜〜

● 2014.8.31  8 『 三十二 相でまたまた 蹴躓き  』  どわはっはっはっはは〜〜〜!

 駄犬の「口が鼻の如し」を諭す

● ▼「元意」を証明する「文証」がない▼ の馬鹿さ加減を叩く

● ▼「仏=本尊ではない。本仏こそ本尊」▼  を大いに嗤う 

 駄犬曰く  ▼「木画二像の前に『法華経』を置けば "開眼 "する」▼  
   など、そんな御文も、義も、どこにもない


 ▼『「開眼する」→「仏になる」=「本尊になる」と、浅はかにも間違った理解をしているのだ!』▼  
  を嗤う


● 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。」  
   を法華経の「文証」で具体的に説明してみよ。   できなければ謝罪せよ。


● ■ 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり ■
   の 「純円の仏」 は 「生身の仏」 ではない。


● ▼「釈迦像」が「本尊」だと【限定出来る文証】わー?▼ 
   だって? マジで馬鹿じゃないの? 呵々大笑。


● 2014.8.22 『 「生身の 仏」が分らぬ 実験体 』 


 
一往と 再往がまだ 分らない 言うも甲斐無し 覚え悪くて  やれやれだよね〜〜。