阿弥陀仏(浄土門) 破折 親鸞会破折
● 女人不成仏
● 五逆は救えない
● 八相作仏がない
● 釈尊 「唯我一人のみ 能く救護を為す」
● 三種の阿弥陀仏
▼ 阿弥陀如来が久遠実成の釈尊の垂迹仏
● 厭離穢土 欣求浄土
● 実行不可能な理想論 四十八願
● 捨閉閣抛
● 法華経 が 正法
● 破和合僧
● 酒肉五辛

捨閉閣抛
  
浄土真宗僧侶からの邪難を破折(及び浄土門破折)
浄土真宗系ブログの邪難(残滓)を破す
観無量寿経
無量寿経 上
無量寿経 下
阿弥陀経
法華経最第一の証明
「後の五百歳」を釈尊入滅直後 とする誤読を破す
五逆罪 → そもそも「浄土真宗」という「和合僧団」から違背して独立したこと。→ これ自体が破和合僧で無間地獄行きではないか。
阿弥陀の48願中  18願 「唯除五逆誹謗正法」 により阿弥陀も救えない、としている。

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▼ 高森会長自身の矛盾 

本尊偽造

破邪顕正


盗作著書初版年代表
盗作
大沼法竜との類似点

現代の「教行信証」 会報 絶版
会報 絶版 現代仏教界の最高峰に位置する著作 私の道 

獲信
疑心往生では?
20歳で発刊した「獲信の記録」

贅沢

高森先生 「観無量寿経が釈尊の出世本懐経だ」
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▼ 強欲な集金システム

親鸞会の集金システム
会費システム
正本堂建立御報謝
30万円位の御報謝をした人は高森先生と握手できる
財施について
年間100万以上
誓約書 5万円
費やしたお金は全部で一千万円を下らない
デジタルボード
訪問販売

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▼ 組織運営の矛盾

般舟三昧経   参考
講師部聖則
純会員
密告
除名  → この者は救われないのか? 地獄行きなのか? 阿弥陀の救いはないのか? だとすればなんと無慈悲な仏なのか?
激越なノルマ
心臓発作
受講資格

高森礼賛
批判を禁じる ← 蓮如の指南に反する
蓮如 陰口でも批判を受ける
無条件服従は親鸞・蓮如の教えに反する

親鸞会と名乗らないで勧誘
ウソをつくことに、これっぽっちも後ろめたさをもってはならない
必殺育成法 引き離し

ルポライター藤田庄市氏 「新潮45」
光に向かって100の花束


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本尊偽造

    
親鸞会の本尊                     「親鸞聖人750回忌・真宗教団連合40周年記念 親鸞展ー生涯とゆかりの名宝」(2011)

https://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2013/09/06/163657

宗教法人浄土真宗親鸞会(高森顕徹会長)では、入会すると「携帯用正御本尊」が貸与されます。
この「携帯用正御本尊」とは、「親鸞聖人ご真筆の名号本尊」と会の中でいわれている携帯できる六字名号の本尊のことです。

しかし、この「親鸞聖人ご真筆」というのは、半分本当で半分ウソです。
その理由は、確かに「南無阿弥陀仏」と書かれている文字は西本願寺所蔵の六字名号なのですが、本物には向かって左下に「親鸞」の文字はありません。

では、なぜ親鸞会の「携帯用正御本尊(および正本堂をはじめとした親鸞会での名号本尊)」に「親鸞」の文字があるのかといえば、別の個所に書かれた「親鸞」の文字を貼り付けた、いわば合成本尊だからです。

「南無阿弥陀仏」も「親鸞」もそれぞれは親鸞聖人の文字には違いありませんが、親鸞聖人の書かれた六字名号とは全く別物です。
つまり、親鸞会が会員に貸与しているものと同じ「親鸞聖人ご真筆の六字名号」はこの世に存在しないニセモノです。
同様に「親鸞会の本部会館」を始めとした各地の会館および、会員宅のお仏壇にある名号本尊は「親鸞聖人が書かれていないニセモノ」です。

この画像は、「親鸞聖人750回忌・真宗教団連合40周年記念 親鸞展ー生涯とゆかりの名宝」(2011)に掲載されたものです。
私も当時「親鸞展」に行き、親鸞聖人が書かれた「六字名号」を拝見しましたが、ご覧の通り「親鸞」の文字が左下にありません。

すでにネットで何年も前から上記の件は指摘され「親鸞会 正御本尊 コラージュ」で検索すると、いくつも記事が出てきます。
まだご覧になっていない方は、参照下さい。以下は、その画像です。

私が親鸞会にいたころも、「正御本尊は命に代えてもお守りしなければならない」と常に聞かされていました。
しかし、それほど大事なものにもかかわらず「退会したら返却しなさい」とのことでした。
親鸞会の会員であるかどうかと、南無阿弥陀仏を信ずるかどうかは本来無関係です。
にもかかわらず、親鸞会は「南無阿弥陀仏」が親鸞会の所有物であるかのように会員から取り上げます。
理由は「貸与だから」というものでした。

中には、お仏壇の名号本尊も親鸞会に依頼したものは、退会したら返却しろといわれた人もありました。
結局、彼らにとっては南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が私を救う働きとも思っておらず、会員であるかどうかの証明書くらいにしか思っていないということの表れだと思います。
「会員バッチを返せ」ならまだ分かりますが、「名号本尊を返せ」とは何事かと思います。

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TS会のご本尊は、貼り合わせの偽造だったのか。

親鸞聖人のご署名を真っ二つに分断するなんて酷すぎる。
愚禿と名乗られた親鸞聖人の深い御心を無視するのが、高森氏の深いみこころなのかな。
現物が手に入ったら、しかるべき処で御真蹟を精査して貰おうと思っていたけど、その必要もないか。
高森氏は、まさかネットで御開山の御真蹟が公開されるとは予想してなかったんだろうな。

それにしても、昭和51年発行の親鸞会と本願寺の主張『どちらがウソか』で以下のように記述してたTS会だったのに、切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹ものだよな。

「言うまでもなく御本尊とは、読んで字の如く、根本に尊ぶべきものであり、宗教、特に仏教にとっては最も重要な意味を持つものであることは、何人も認めるところであります」(『どちらがウソか』親鸞会p5)

正本堂とか正御本尊とか変に正という事にこだわるTS会なのだが、こんなコピー&ペーストしたものを「正御本尊」と呼び、夜中に脱会者宅へ押しかけて取り返そうとするって、おかしな行為だな。
偽造した本尊だと世間にばれるのが怖いから、相手の迷惑も顧みず夜中に大勢で押しかけて無理やり回収しようとしているのだろう。
かまたさ〜んと絶叫する女性の声が哀れだ。

TS会って、やっていい事とやっちゃいけない事の区別がついてないんだろうな。
それにしても親鸞聖人の御真蹟を真っ二つに裁断するなんて、宗教者として以前に人間として有り得ない行為だよなあ。

『どちらがウソか』と他を非難する前に、偽造の偽物の本尊を会員に下付してきた罪は重いな。
もちろん、それに加担してきたTS会の幹部や講師はウソの本尊を頒布した責は当然に取るべきだなと思ふ。

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浄土真宗親鸞会被害 家族の会

1.勧誘|脱会者の手記INDEX123456789次へ ≫

私は大学の入学手続きが終わって帰ろうとしていたとき、2人組の先輩に声をかけられた。小声であまり聞き取れなかったため、無視して通り過ぎればよかったのだが、両親がいたことで安心感があり、「ちょっとだけなら聞いていってもいいかな」という気になった。何でも人生の目的という大切な話らしい。家族一緒かと思ったら、両親は1人の先輩とラウンジで、私はもう1人の先輩に3階に案内された。

部屋に入ると、次々に「合格おめでと〜!!」の祝福コールの嵐。親と離された不信感から、警戒していた。びっくりしたものの、嬉しくもあった。そこでさっきの先輩に『人生の目的』というテーマのバインダーで話を聞いた。大学に希望をもって入ってくる新入生にとっては、その希望をつぶされるような内容だと私は感じ、苦笑いしながら聞いていた。半ば腹を立てつつ、だんだん言われていることが本当かもしれない、と思うようになった。(ex.苦労して入った大学も喜びは長く続かない。)

部屋には他に勧誘された新入生や、話込みをしている先輩も数人いた。その中に、自らをサークルのOBと言う人がいた(実際は親鸞会の専任講師)。私は話を信じてしまって、「大学の先輩だろう」くらいにしか思わなかった。話によると、「このサークルは人生の目的についてゼミ形式で話をしていて、聞いていくだけで非常に大切な人生の目的が分かってしまう」というもの。また、「聞いていってみて自分には合わないと思ったらやめればいい。でも大学生は一番時間があるんだからそのほんの○分の1くらいなら使っても後悔しないんじゃない?」聞けば聞くほど、「なるほど」と「この人たちなら信じてもいいかな」と思い始めた。話が終わると、次の約束ということで、連絡先を聞かれた。「携帯ある?」信じきっていた私はやすやすと携帯の番号を伝えてしまった。

両親と合流して帰るとき、私は後悔していた。会って1日目でよく知らない人たちに番号を教えるんじゃなかった。めんどうなつながりを作ってしまった。と、自分にも、声をかけた先輩にも腹を立てていた。当然両親は心配して、私が一人で何をされていたか聞いてきた。私自身話の内容をよく理解していなかったので、「人生の目的が大切なんだって」くらいにしか説明できなかった。

次の約束を、私は入学式後にした。行事は3月中にもあったが、下宿しない3月のうちから、とても話を聞くためだけに2時間かけて岐阜に行く気はしなかった。(親に説得されるまでは3月の行事に、約束したからと行く気はあった)

ここで、私のような後悔をしないように、特に新入生(2年生以上も油断しないで)に気をつけてほしいと思う点を書きます。※最初の勧誘でがんばって1.2.を断行することで自分の身を守れます。

声をかけられても無視する(難しいかもしれませんが)
信じられると思っても、携帯番号は教えない、あるいは持っていないと言う。
(彼らは連絡手段を専ら携帯に頼るため、携帯がなければお手上げです)
約束をしてもすっぽかす
↑できない約束はしないのが一番です。サークルのメンバーはあくまで親鸞会の被害者で、本当に良い人たちです。その人たちをやたらと傷づけないためにも。
4月に入る直前、再び先輩からメールがきた。入学式の日の約束の確認だった。その頃にはもう下宿しているので大丈夫ですと返した。入学式後、大学会館のゼミに参加した。数人の一年生がいて、OBに扮した講師が話をしていた。みんなまじめに聞いているように見える。畳の部屋だったのも手伝って、自然と正座になる。しかし話の内容はくだけたおもしろい話だった。ゲームソフトを買ったころは一生懸命やるが、しばらくして費やした時間の長さに唖然とする、ということは私にも実感があった。始めの頃の内容は、当然仏教の話は一言も出てこない。世の偉人は人生に対してこんなことを言ったとか、一応大学に届け出ている「哲学」の範囲に入るものだった。部会が終わると、帰る前に次の約束をする。一回聞くだけでは分からない。続けて聞かなければならないのだから仕方がない。毎日部会があり、間もなく昼部会にも参加するようになった。

入学した最初の土曜に、初めて部室に案内された。部室が大学内にないことにまず驚いた。そこは私のアパートから近い、普通のアパートの一室だった。入ると初めて会うような先輩が多勢いて、笑顔で向かえてくれた。皆まず自己紹介をし、優しい。とてもいい雰囲気なので、うちとけることができた。このようなサークルならいてもいいと思った。

ゴールデンウィークが近づき、合宿に参加しないかと聞かれた。(※1)以前から「5月の合宿で話が一段落するから、とりあえずここまでは続けてほしい。後はやめてもいいから」と言われていたので、ここまでは参加しなければ、と思っていた。このとき使われた申込み用紙の文面が特殊なもので、選択肢とはとうてい言えないものが3つ並べられていた。

「1)参加させて下さい 2)参加します 3)参加するぞ 」

3つあることであたかも本人が自分の意志で選べるかのように書いてあるが、どれを選んでも結局参加する羽目になるのだ。私は一番やる気のない 3)に○をつけた。私はこの合宿に参加すれば人生の目的が分かり、たち成する(後生の一大事の解決)と思い込んでいた。講師の説得を聞けば、こう誤解するのに十分であった。

【※1】

この間の文の内容が飛躍しすぎていると思うので補足します。私はゴールデンウィークの合宿の前までの部会で、人生の目的というものがぼんやりとは分かり始めていたと思います。

部会で、因果の道理を聞き、悪いことをすれば悪い結果、善いことをすれば善い結果が返ってくることに自分の経験から納得します(例えば勉強して大学合格、さぼったら不合格など)そして、心常念悪 口常言悪 身常行悪 と聞き、人間は悪い行いしかできない。その報いは死んでからもやってくる。→人は死んだら地獄だ(後生の一大事)という論理が成立します。

では本当に幸せになるには?後生の一大事の解決しかない!こう教えているのは仏教だけ。←→人は無自覚にせよ幸せになるために生きている。人生の目的は本当の(絶対の)幸福になること。



2.ゴールデンウィークの合宿|脱会者の手記≪ 戻る123456789次へ ≫
サークルを続けるかやめるかを決めるつもりでゴールデンウィークの合宿に参加した。内容は「人間の実相」で私たちはいつ死ぬか分からないのに平気で欲を満たすことばかりに一生懸命になっている、というものだった。

私は以前、死んだらどうなるか気になったことがあった。いつも気になるのは夜寝る時で、「今死んだらどうなるんだろう。家族や友達、知っている風景から別れるのは苦しいだろうなあ」などと考えるのだが、自分ではとても確信のもてる答えが出せない。死人に聞けばわかるだろうが、それもできない。度々気になるのだが答えは出ない。考えることに疲れた私は、自分が納得できるような答えをつくりだした。死んだら何も感覚がなくなる。熟睡している時のように。だからつらいとか苦しいとか、嫌な感覚を感じることはない…。これで一段落ついた後は、死ぬことも恐れなくなった。もちろん死ぬ直前の苦しみは怖れていたが、それを通り過ぎてしまえば楽になれると思っていた。その後、私は死の問題を考えなかった。このサークルで死後の話をもちかけられるまでは。

結局合宿では、人生の目的が何か、ということがはっきり分からなかった。まだ人生の目的がなぜ大切なのかよく分からなかったので、ここでやめてしまおうかという気になった。先にやめたい旨を講師に伝えた友達は講師に説得されていた。この説得というのが、「まだあなたは人生の目的が分かっていない、だから分かるまで聞かなければならない」という内容で、やめたい人が根負けして「続ける」と言うまで行われた。講師はおそらく本当にその人のことを思って言っているのだが、真剣になってにらむとまではいかないが鋭い目が恐ろしかった。私が言ってもきっと同じ結果になるだろう。説得されるような嫌な思いはしたくない。だから私は内心やめたかったが、一緒に続けることにした。

間もなく、真実の仏教を分かりやすく伝えて下さる先生の存在を知らされる。

この頃からサークルの肩書きであった「哲学」という印象は薄れ、仏教一筋になっていく。しかし「人生の目的の達成」からすれば、仏教だけになるのも自然な流れと思われる。

両親とは月に1回は会っていました。(土曜日の午前中)教学講義のある日曜は、新入生は一日休み。私はこの時が一番嬉しかった。自由な時間がまとまってとれるのはこの時ぐらいで、とても貴重でした。←これは会からすれば「後生の問題がふっ飛んでいるからこんな風に思うんだ!」という思わしくない行動です。

その後の忘年会(珍しくみんなでごちそう食べてワイワイした)で講師が、私が友達と一緒にやめてしまうのではないかと心配した、と言っていました。たぶんこの頃の事です。今思えば、本当に一緒にやめておけばよかった。でもあなたの説得の仕方が恐ろしくて言い出せなかったんだよ。タイミングがずれたために友達は今も会に入っています。



3.5月末 富山参詣〜勤行|脱会者の手記≪ 戻る123456789次へ ≫

5月の合宿が終わり、また続けてサークルに参加するうち、先輩とも打ち解け、信頼はかなり強いものになっていた。よく知れば知るほど、やはり優しい人ばかりでとても私をだませるような人とは思えなかった。

そしてある時、サークルのテキストとして使っている、「なぜ生きる」という本を買うように進められた。サークルに参加する限り仕方がないと思い、講師に注文して後日受け取った。それから間もなく、この「なぜ生きる」を書かれた高森顕徹という先生がお話をして下さるので聞きに行こうと誘われたが行き先が富山と聞いて驚いた。とても富山にまで行って話を聞きたいとは思わなかった。

しかし講師をはじめ周りの先輩皆が、「先生は現在私たちに真実の仏法を分かりやすく教えて下さる、唯一の善知識だ。今聞きに行かなかったら2度と聞かせて頂けないかもしれない。先生は大変なご法体の中、私たちのためにお立ち下さっている」…等、高森先生に対するあらゆる絶賛の言葉を浴びせかけてくる。先に書いたように、このころには先輩に対する不信感はほぼ消えていたので、「先輩がここまで尊敬している高森先生はどんな先生なのだろう。そんなに偉大な先生なら、一回くらい聞きに行っても損はないだろう」と思えたので、ついに富山に行く約束までしてしまったのだ。

富山への聴聞旅行は、1泊2日の日程だった。土曜日に宿に泊まった。そこでは、私の所属する大学の他に、比較的近くの大学のメンバーと一緒になった。また先輩が増えて名前を覚えるのが大変だった。再度先輩から明日の聴聞に臨む心がまえを聞いた。内容は「高森先生はご高齢で大変なご法体の中教壇に立って下さいます。それなのに聞かせて頂く私たちが生半可な気持ちで座っていてはいけません。真剣に聞かせて頂きましょう」というものだった。日頃の部会で居眠りすることが多かった私は、「明日こそ真剣になれるだろうか」と明日に備え早めに床についた。翌日の朝食は菓子パンだった。1泊旅行になると弁当類は期待できず、どうしてもパン類になってしまう。7時すぎに宿を立って、バスで富山に向かう。

ついに大きな建物の前に着いた。あまり覚えていないが、たぶん大勢の人に驚いた。9時半からの勤行に初めて参加した。プリントされた正信偈を見ながら、周りの人に合わせてつっかえつっかえ拝読した。まだ音程も読み方も全く分からなかった。ただ大勢の人が正座して拝読している大きな声に気がめいりそうになっていた。

私はこの富山旅行の前に、会館のことを詳しくは知らされていませんでした。まず、たくさんの人にびっくりするだろうと言われていました。また、大きなお仏壇があること、正信偈プリントはもらっていたことから、お勤めがあるということは知らされていました。それに広いので担当の先輩と離れないように、注意されました。


4.法話|脱会者の手記≪ 戻る123456789次へ ≫
勤行が終わると、体験発表が始まった。発表者がなぜ親鸞聖人の御教え一つに人生をかける決意をしたのか、という内容だった。私は「どうしてこの人はこんなに素直に喜び、感動を語れるのだろう。私はこの人のように真実の仏法に出会えた喜びはまるでない。疎ましくさえ思っているくらいだ。」と思いながら聞いていた。

そしていよいよ高森先生の法話が始まった。どのような内容だったかほぼ忘れてしまった。集中力と教学力のなさで受け取れなかったのだろう。30分をすぎると正座している足がピリピリ痛み始める。するとなおさら聴聞はどこかへふっ飛んでしまって、足の痛みばかりに気が向いてしまう。先輩からは「聴聞が一番だから、自分が聴聞に集中できるように」と言われていて、このままでは全く聞けないと思った私は足をくずした。周りは皆正座している中、自分だけ足をくずすのはなかなか抵抗があった。

1時間程たった後で、ようやく休憩が入った。やっと足のしびれから解放される。一息つくかつかないかの間に先輩がさっそく初めて先生から聴聞した感想を聞いてきた。何と言えばいいのか。しかし、感動を熱意いっぱいに話す先輩に調子を合わせて、ろくに内容を聞き取れていないにも拘わらず、「感動しました」などと、同意するしかなかった。

休憩後、午前の後半も終わり、いこいの昼食の時間になった。合宿のときは、豪華な弁当で一度きり、館外の芝の上で食べた。午後も同じような調子で終わった。説法の内容は、人が変わっただけで、日頃の講師の部会と違いが分からなかった。ただ、1日聴聞かどうかの違いだけだ。富山に行ってまで聞かねばならない内容なのだろうか。

合宿の後しばらくしてから先生に法話のお礼状を書くように言われた。書く内容は、今回知らされたことや、今後の決意など。「内容が分かりやすかった」などの評価は謗法罪になるので決して書いてはいけないと言われた。また内容の他にも、先生は目が悪いから2行使って大きな字で書く等、様式も細かく決められていた。

そのうち先生だけではなく学友部長や学院の教授など専任講師以外の方の部会後にはお礼状を書くようになる。度重なる礼状書きが苦になっていったが、「感謝の気持ちを少しも持たない私たちだからこそ、お礼状を書くことで心も合わせていかなければならない」「お礼状はもらう人よりも渡す人の方が素晴らしい」などと言われなんとかなんとか出していた。

また、この頃から、法話の内容を少しでも受け取らせて頂くためにと、教学が進められる。教学聖典@がプリントされた紙を見て覚えていった。

部室、部会の変化:ある日突然、部室に行ったらお仏壇があった。講師が「家からわざわざ運んできた」と言っていた。今思えば、ただ新入生は案内しない講師部屋に置いてあっただけ。これもウソも方便。部会の休憩の間に、御法礼が集められるようになる。これまでは新入生にバレないように先輩だけこそこそ出していた。意外にお金がかかるサークルだと思った。今まで隠されていたことが、このころ明らかにされていった。


5.入会のすすめ|脱会者の手記≪ 戻る123456789次へ ≫
5月末の本部法話からしばらくして、ある日の部会後に、担当の先輩と一緒に、講師に呼ばれた。以前に学院の教授の話し込みの時にちらっと聞いた「親鸞会」という会への勧めだ。私は、入会することの利点が思い浮かばなかったし、会員になると色々面倒なつながりが出てきて困るだろうと、入会するつもりはなかった。

講師の勧めにも、はっきりと断っておけばよかったのだが…。入会させるために様々な論法を用意していた。

会員になれば、先生の尊い御縁が増える
入会すれば教学試験を受けることができ、大導師以上になると教学講義で先生の御縁が月2回になる
会費はあるが、学生は月2000円だから心配いらない
中でも一番驚いたのは、サークルの先輩は全員、会員であるということ。私は月1日も空いた時間がなくなるのが一番嫌だった。それに、一度入ったら後生の解決をするまでは所属するであろう会に入るかという大事を、家族に相談することなく決めてしまっていいのか…。もし何か起こったら、自分一人で解決できるだろうか…。これらに悩み続けてしばらく時間がすぎた。講師は早く入会させたいらしく、「絶対にこんなに幸せな会は他にないよ。今が決める時だよ」と入会すると言うのを待っている。外は暗く、私は考えることに疲れてきた。そのうち、考えが変わってきて、「入会するかどうか決めるまで帰らせてもらえないだろう。周りの優しい先輩は会員だし、私と同じ一年生もほとんど入会したって言ってるし。こんなにいい人達が入っている会なら、悪いことはないだろう、私も入ろう。」と半ばあきらめと、会に対する希望をもって私は入ることに決めた。

いざ入会してみると、特に今までと変わった所はなく、会員であることを忘れるくらいであった。ただ、9月の大導師試験に向けて、教学をより勧められるようになった。私は今まで教学を熱心に勉強していなかったが、9月という目標ができ、勉強するようになった。何より、他の一年生と張り合っていた。いわば名誉欲に駆り立てられていたのが一番の理由だ。

6月には降誕会が行われた。今回は法話が2日にわたる。その後6月は特に大きな行事もなく過ぎた。(部室で朝夕の勤行が始まる)

7月はいよいよ大学もテストに向けての対策が必要になる。部会と両立できるか心配になったが、このときは教学勉強を控えたり、講師も配慮してくれ、週に2日ほど勉強デー(部会はなく大学の勉強をする日)になった。〔会にとって学生の勉強も社会人の仕事も「なぜ生きるか」がはっきりしていてこそ意味のあるもので、「勉強するのは何のため?−仕事に就くため→働いて生きていくのは何のため??」←これが分からなければ、死ぬために生きていることになってしまう、という論理が成立〕

この頃、私は大学の勉強よりも教学に熱中していたので、教学やサークルに熱中できる夏休みが待ち遠しかった。また少しは自由な時間が増えると思ったので車校に通い始めようかと考え始めていた。

6〜7月にかけて今までそれほどサークルに一生懸命でなかった心がだんだん会に傾いて行ったと思う。原因として考えられることは、

サークルの雰囲気に慣れメンバーと親しくなった
「人生の目的」が大切だと知らされ、「どう生きるか」だけではいけないと思うようになった
9月の教学試験(後述)


6.夏休みの合宿と教学試験|脱会者の手記≪ 戻る2345678910次へ ≫
テストもなんとか通過し、2ヶ月の夏休みになった。ようやく9月に向けて教学に集中できると思うとホッとした。学校がないから一日部会があると思ったが、東海の大学と合同の行事以外は、ほとんど午後だけだった。午前は自由な時間だが、ほぼ教学聖典を覚えるのに使った。そして夏休みだから当然合宿がある。一番大きなものは一週間で8月の2週目くらいにあった。土曜は会館に移動し、日曜は法話であった。あとは2泊3日規模のものが何回かあった。近場の合宿のときは短い時間でも実家に帰れて気が安らいだ。

また、夏休みでなければ行けない所にも色々行った。学友部長の御縁を求め、信州、大阪、京都に行った。当然旅費もかなりかかる。ここで参加できない人が出てくる。私は両親の仕送りをかじって参加することができた。やはり慈悲深い仏教を求めるにはある程度のお金がいるのだろうか。

一週間の合宿について:クーラーいらずの山頂にある自然の家で行われた。快適な環境でゼミに集中しやすい。ほとんどゼミで、他ちょっとしたレクリエーション(ハイキング・バーベキュー)があった。1年生が聖人のアニメを見ている隙に先輩は勤行をしていたらしい。また、ゼミのクラスも学年ごとに分かれていた。

8月中になんとか聖典7までを覚え、大導師試験を受ける資格を得た。私がここまで教学に励むのには理由があった。「後生が気になっていた」つもりで、本当は「大導師になれば今より多少力が抜ける」という睡眠欲がほとんど。「皆から誉められたい」名誉欲もあった。結局は欲のために動いているに過ぎなかった。先輩に煩悩を味方につけろと言われたことがある。煩悩を苦しみの根元と考え、絶とうとするのは聖道門で、末法の今となっては絶対に助からない。煩悩をもったままで救われるのが浄土門の教えである。しかし、会は欲は少ない方がいいと言っていたし、私も本当に、欲は少ない方が苦しみも小さいと思った。

9月、試験に合格し驚くほど多くの人(もちろん会関係者)から褒め称えられた。しかし、力が抜けるという期待ははずれた。確かに先輩から教学をしつこく勧められはしなくなったが、自分で面目が保てるように引き続き教学に励んでいかなければならない。「なぜ生きるか=人生の目的には決勝点があるけど、どう生きるか=教学は死ぬまで求道なんだよ」教学ばかりは救われた後も続けていかなければならないのだ。

“越えなばと思いし峰に来てみればなお行き先は山路なりけり”

「求まった、というものがないことに人生をかけているから、幸せになれないんだよ」

私は教学試験を通じて、「人生の目的を果たさなければ本当の幸せになれない。部会の話は真なり!」となおさら会の話を信じ、人生の目的のために進んでいくようになる。

・会の論理

 世間ごと→求まった、ということがない=死ぬまで求道 幸せになれない
 (ex 趣味 医学 芸術 科学)

 人生の目的→求まった!という決勝点がある!=幸せになれる



7.帰省〜後期|脱会者の手記≪ 戻る34567891011次へ ≫
夏休み中、一週間だけ帰省期間があった。今まで家族とまとまった時間がとれなかった分、貴重な時間であっという間だった。(手伝いをするように散々言われていて、自分でもやらなくては、と思っていたが、いざ帰ると甘えてしまいやってもらうばかりだった)長野を一泊旅行しただけで終わってしまった。

その時は残念に思ったが後生の一大はいつ起こるか分からない。一週間聴聞しないだけで求道に対する心構えはゆるんでしまう。やはり続けて聞かなくては、と一週間で戻って来ることができて安心した。善知識、同行には親しみ近づくようになっていた。

長かった夏休みが終わった。1日2時間ずつの聴聞や合宿、教学等、部室で過ごす時間が多かった。それ以外の勉強はしなかった。世間の状勢にも疎くなった。後期、全く勉強していなかったから大学でついていけるか心配になったが、調子は前期とあまり変わらずむしろ慣れたもので、できる限り聴聞に差しつかえのないレポートが出ない講義を選びとった。

間もなく後期顕正(勧誘)が始まった。うちの大学は前期に当たってみたところ、続けて聞いてくれる人が少ないので、近くの他の大学に出かけて行った。水曜の午後や部会がない日に先輩の車で行った。この頃の勧誘の仕方は、心理テストをやってもらい、その結果は「なぜ生きる」の一部につながるというものだった。自分の大学名は明かさず『合同でやっているサークル』ということにした。何回も行ったが、部室まで来てくれる人は少なく、最終的には誰も新入部員にならなかった。

結局人数を重視しているのに、「聞く人が現れなくても顕正したことは無駄にはならない。これは私たちの宿善になるんだよ」と言われた。こう言われては、しかも周囲は皆顕正に燃えている人ばかりでは、私も顕正せずにおれなくなる。これはすでに自分の後生の一大事の解決のために、ではなく周りの環境に流されているだけだった。(でも当時は「自分の後生が問題になっている」と思っていた)

後期、合同行事や高森布教局長の御縁の度に重くのしかかることができた。一年生も先輩のように「チェックリスト」と言って自分の家族や友人、知り合い等、御縁に誘う人を書き出して、しかもその人にいつどんな働きかけ(手伝い、手紙等)をしたか、先輩に報告しなければならなかった。普段、サークルの話なんてしない(しにくいサークル)友達にその時だけ苦しまぎれに話をするのも嫌だったし、今まで嫌々ながらも2回来てくれた母もあまり好ましくない。家族を誘うのは自宅生の方が有利だと思った。私はサークルのことでいつもけんかになるのに。

大学の友達がだめなら高校、中学…となっていく。高校の友達は夏休み以来会っていないのに、遊ぶことならともかく、見なれない人に囲まれて難しい話を聞いてもらうのは悪いと思った。(←これらも自分が誘いたくないから思うことかもしれない)私にとってこのリストを作り、実際お誘いに向けてした種まき、結果を報告するのが大変な苦痛だった。でもその人の後生、自分の後生を思えば何か種まきしなければならなかった。



8.後期〜冬休み|脱会者の手記≪ 戻る456789101112次へ ≫
後期は報恩講や他大学に勧誘に出かけた他に目立った行事はなかった。前期と違うのは教学講義を受講するようになり、富山参詣が月2回になったことだ。入ったばかりの頃は、先輩が月に2回も富山に行っているのを知って、「大学もあるのに大変だなあ。私はそうなりたくないな」と思っていたが、この頃になると、もう慣れっこになってしまって苦にならずむしろ楽しんでいた。

12月は全国の学友部の専任講師の異動が発表されたが、自分の大学は変わらなかった。ブラジルや韓国に異動になった講師もいた。

冬休みになり、本当に久しぶりに実家に帰った。大そうじも終わり、後は新年を迎えるだけになった。私は1月2日には下宿に戻るつもりでいた。4日の新春大会に参詣するためだ。更に3日は行事もあり楽しみにしていた。今回は夏休みの時と違い、1日2回の勤行も自分の部屋で行った。家族で居間でいることがほとんどだった私が、部屋へ行って勤行することは母は知っていた。「寒いのに大変だね」と心配しながらも反対はしないでいてくれた。

しかし、そんな日々は長く続かなかった。30日の夕方、母と散歩に行って帰ってくると、思いがけないことを父から聞かされた。東北のおばあちゃんが倒れて病院に運ばれたのだ。散歩している間の穏やかな気分はふっ飛んでしまって、ガクガクと目が遠くなった。あの優しいおばあちゃんがいなくなってしまうのか。でも、状況が分からないために「もしかしたらよくなってくれるかもしれない」という希望をもってしまった。希望をもつほどその逆の結果になったときのショックが大きいことは十分分かっていたはずなのに。あきらめたくなかった。

願いもむなしく、帰って2時間も経たないうちに、おばあちゃんが亡くなったという電話がきた。あまりに離れているために実感が湧かないが、どうすることもできない現実。おばあちゃんに会いたい。会って私の無常を見つめたいと思った。

私は東北に行く心を固めていた。現状を報告するために部長に電話した。部長は大そう驚いた様子で更に講師に相談してもらい、結論は、私の気持ちが一番大事だということだった。内心「そんなことは当たり前で相談するまでもないではないか」と思った。かえって“私の気持ち”を尊重する発言をもらったことで、『おばあちゃんが無常を教えて下さったのだから、なおさら私たちは聴聞しなければならない。先生の御縁の方が大事だよ』と言われているような気がしてならなかった。

それはそうだが、私は今までおばあちゃんに温かく接してもらった恩がある。私は恩返しがしたい。これは他人が口を出すことじゃない。もしかしたら3日はおろか4日にも間に合わないかもしれないという苦しい思いもあった。母は31日発の飛行機を私の分も予約してくれた。おばあちゃんだけに気持ちが定まっていなかったが、東北に向け出発した。体調を崩していた兄も自分で予約をとり、深夜に実家にやってきた。


9.おばあちゃんの死|脱会者の手記≪ 戻る5678910111213次へ ≫
おばあちゃんの家に着き、布団に寝かされているおばあちゃんの顔を見た。穏やかな顔で今にも起き上がりそうだった。叔母と母、親戚の人は祖母の寝顔のような顔を見て、涙を浮かべたり安心しているようだった。私は会のアニメで、後生と死に様は関係ない、生きているうちに魂の解決をしなければ悪しかできない私たちは地獄行きだということを何度も見てきたので、穏やかな顔をしていても喜べなかった。

また、葬式の日取りも、元日や友引き、赤口などは避けられた。自分の行いしか自分に返ってこないのだから、占いも含めてこういったものは迷信だと言われてきて、私自身納得していたので、「気にしなければいいのに」と思っていたが、やはり世間体もあってのことだから仕方ないのか。全く、アニメ第五部の家族と私たちが重なり合っていた。

私は会の教義に従うために、もう一つ気になることがあった。お仏壇のことだ。おばあちゃんは浄土真宗の門徒だが、私の理想と食い違っていた。会では、御本尊を『当流には「木像より絵像、絵像より名号」というなり(第一代記聞書)』を根拠に名号しか認めない。しかしおばあちゃんのお仏壇には仏像が奉られていたのだ。

私には、その仏像が弥陀か否か見極めるほどの知識がなかったため、仏像というだけで、「会の言っている本尊と違う。これに手を合わせたり物を供えたりしたら雑行になってしまって絶対に助からない。残念だけどおばあちゃん家の近くには真実の仏法は伝わらなかったのか」という思いになった。それで私は「雑行になるような振る舞いは絶対にしない。真実の仏法を守りぬくためには、どんな苦難も乗り越えなければならないのだから」と決意した。周りの反対が起こるのは覚悟の上であった。

このような考えに至るまでには、以下のような会の教えが関わっています。

自分の欲のことで苦しんでばかりいる私たちが仏法のことで苦労ができるのは素晴らしいこと。他人を生かし、自分も生きるのだから。報われる苦労
楽は勝縁にできないが苦は勝縁にできる。
雑行(弥陀以外の仏や神、菩薩に向けた行い)をする者は絶対に助からない
真実の仏法を明らかにすれば誹謗、反対は起きてくる。激しく反対されるのはそれだけ真実を伝えているということ。反対を恐れてはならない。蓮如上人の時代は僧侶が殺されることもあったが、信教の自由が保障されている現在殺されることはないから大丈夫。
決して自分が反対から逃れたいという欲によって真実の仏法を曲げてはならない。曲げたら何十億もの人を地獄に突き落とすことになる。
またアニメで聖人を始め僧侶たちが、人々から激しい反対を受けたり、命を狙われながらも真実の仏法を説いている場面がありました。(何人かは我欲によってねじ曲げてしまいました)会で「聖人は信心決定されたからあんなことができたんだ。私には無理」だとは思っていけない、聖人の真似ごとでもさせて頂かなければならないと言われました。


10.葬式|脱会者の手記≪ 戻る67891011121314次へ ≫
読経をあげに、本願寺のお坊さんが来た。法話で幾度となく本願寺が引き合いに出され、「本願寺は真実の仏教を説かない。真実を説いているのは親鸞会だけだ」など本願寺に対する批判を言われ続けてきたので、本願寺の様子を実際に目で見たわけでもないのに、本願寺と聞くだけで、批判の目で見るようになっていた。

葬式では私は皆がお仏壇に礼拝する場面で1人だけ礼も合掌もしなかった。「みんな雑行をしている。私は真実を知らされたから、正しいことを貫き通さなければならない」という使命感に似たものをもっていた。2回目ほどで兄が気付いて、私をつついて皆と同じようにするように促した。しかし、私は断じて礼拝しなかった。雑行を恐れていたということもあるが、今さら引けないという意地もあった。

葬式が終わって一段落すると、私は当然兄と母からしかり飛ばされた。部会などで「どんなに激しい反対にあってもこちらが腹を立てずに心からその人の仏縁を念じて接すれば必ず受け入れてもらえる時がくる」と言われていたから「腹は立てまい」と思ってはいた。でも予想をはるかに超えた厳しさに反論せざるを得なかった。「皆と同じようになぜしないの?」に対しては「皆が悪いことをしていても『皆やっているから』って同じように悪いことをするの?」と聞いた。これは、私は議論のすりかえをしているとは思わない。当時、私は事実、皆が雑行という悪い行いをしていると思っていたからだ。

私はこれまで家族を相手にこんな大激論をしたことはなかった。とても苦しく悲しかった。でも、ここで私があきらめたら家族を地獄に堕としてしまうことになる。そう思ったら引き返せなかった。この時はもう夜だったし、明日も忙しいのでけんかは自然と消失したと思う。また、3,4日の富山の行事が気にかかっていた。3日の行事は残念だがまだあきらめがついた。4日の法話にはなんとか出席しなければと、仙台から富山まで飛行機で行く計画を立てたが足が自由にならない。親戚の人に高速バス停まで送ってもらうのも図々しいと思った。先輩に相談して、行くのは厳しいと思ったので、4日も断念した。仕事の都合で2日に到着した父の車で、5日に帰ることになった。6日には3日間大学での勧誘が始まるので、5日に実家に着くとすぐに下宿に行く準備を始めた。

けんかが後をひいていたので、下宿に行くとは言いづらい雰囲気だった。それでも勇気を出して母に言うと、葬式の一件から、会に対する嫌悪感を強くしていた母は、会に近づかせないよう反対してきた。更にひどく反対してきたのは兄だった。兄の反対だけでも、私は反論できなくなってしまった。兄と母が反対しているのを聞いていた父までもが、止めを刺すように反対してきた。ついに家族3人が反対し、私は1人でそれに応対しなければならなかった。家族の中で私は1人違う世界にいるようだった。これも自分がまいた種の結果なのか。葬式の前に先輩に相談しておけばよかったとその時になって後悔したが遅かった。


11.反対の激化〜1月頃|脱会者の手記≪ 戻る789101112131415次へ ≫
家族3人の剣幕に圧倒され、私は一番頼りにしている家族に理解してもらえない、大好きな家族と仲良くしていたいのに、けんかしている現実にただ泣くだけだった。しかし、家族の私に対する気持ちも同じであったと思う。私だけが苦しんでいるのではない。

でも当時の私にとって最も優先すべきは、家族とのけんかという、今生限りでの苦しみの解決ではない。死んで未来永劫の長い間の地獄の苦しみの解決であった。だから、反対されてもなお、「今日中に下宿に戻る」とだけ言い張った。東北から帰って、けんかもあったので、さすがに疲れてきた。

見かねた兄が、交換条件を私がのめば下宿まで送ると言ってきた。その条件とは、「8月のお盆で再び東北に行った時には、今度こそ、皆と同じようにお仏壇に向かって頭を下げたり合掌したりする」というものだった。私には即答できないものだった。絶対に守れる約束だろうか。8月はまだ先と思っていても、きっとすぐにやってくるだろう。それまでに家族を納得されられるか。でももしかしたら会の教義を誤解しているかもしれない。この条件はのもう。約束したからには必ず守るぞ。8月に証明しよう。崩れた信頼をちょっとだけでも取り戻せるかもしれない。

兄は下宿まで車で送ってくれた。ついさっき、東北から家までの約5時間、車を運転してどれだけ疲れていたか想像もできなかった。いくら家族より縁が深い法友(会ではそう言われる)でも、やっぱり家族でなければ、私のためにここまでしてくれないと思う。本当に有り難かった。

アパートに着いて兄と母と別れた時、私はもう家には帰れないと思った。もし今度家に帰る時があったとしたら、それは家族が連れ戻しに来る時か、人生の目的をあきらめた時だ。人生の目的をあきらめる、ということはその時の私には考えられなかったが、無常の世の中、どうなるか分からない。

私のこの問題は、部長から講師、学友部長にまで伝わった。おばあちゃんは浄土真宗なら仏像は阿弥陀仏に間違いない。また、お盆で帰省した時には、右手に御名号をお持ちして礼拝すれば、それは御名号に礼拝したことになるので、雑行にならない。という結論が出た。これでちゃんと約束を守れる。雑行にもならない。私はほっとした。

それはいいとして、一番頭を悩ませたのは、逃げるようにして出てきた家族との関わり方だ。毎日メールを送り土日は電話をした。メールも返ってくるのは問題の核である会に関する反対。私は世間ごとの内容で会に触れないようなことを送っていたのに。それだけ苦になって仕方がなかったのだろう。そらせるはずがない。メールはまだ声が入ってこないから涙混じりの大げんかにはならずに済んだ。電話は母が泣いて苦しんでいるのが分かるからこっちも泣いてしまう。そして決まって同じような内容でけんかになってしまう。私は電話をするのが苦になり、メールだけで済ますようになった。これは完全に逃げであったがどうすることもできない。


12.1月中旬〜1月頃|脱会者の手記≪ 戻る8910111213141516次へ ≫
この時が私にとって、家族にとって一番苦しい時期でした。電話をすれば、今まで一番頼りにし、私のことを誰よりも理解してくれると思っていた家族、特に母から「(私が)洗脳されて冷たい心になってしまった。心が分からなくなった。家族より高森先生の方が大事なんでしょ」と何度言われたか。

当然、私自身は自分が洗脳されている自覚なんてありませんから、そう言われる度に、なんとか分かってもらおうとしました。自分の思うままにして間違いを起こし、家族との仲がいっそう悪くなることを恐れた私は、何か家族の働きかけ(ex.手紙を書く)をする前に、講師に相談するようになっていました。(おばあちゃんの葬式での一件以来、相当懲りていた)

自分以外のとても身近な人に、私のことを理解してもらえない、信じてもらえないというのは大変苦しいことです。大げさかもしれませんが、当に生き地獄でした。死んだ後の世界がこれよりも苦しいなんて想像もできない。今まで家族に信じてもらおうと生きてきた20年が無駄になったように思えました。

親からしたら、20年間信じて育ててきた子供に裏切られたのだから、育てた20年の全てが無駄になったと思ったかもしれません。もちろん、会の人達は私の現状を知り、今まで以上に温かく接してくれましたが私は誰よりも家族に信じてもらいたかった。家族なしでは生きられないと、本当に思い知らされました。

「家族より先生の方が大事なんでしょ!」この言葉を否定し、態度で表すには、会をやめるしかないのか、そんなことは絶対にできない。会をやめたら、世間にあるのは相対の幸福ばかり。絶対に心からの幸せになれなくなる!

この心と、家族との争いが続いたある日、突然私にとって最も厳しい状況に追いこまれました。親に「会をやめないのなら生活費を止める!」と言われてしまったのです。そう言われてさえ、私は会をやめようとは思いませんでした。お金は求めればきりがなく死んでは持っていけないもの。今求めなければならないのは、後生の解決をし、今生からも幸せに生きられる人生の目的でした。

講師に相談すると、御両親が生活費を止めてまで反対する目的は、会をやめさせることじゃない。表向きは会に反対しているけど、本心は私に対する他の不満がある。その本心を私がくみとってそれに答えてあげなければならない。そうすれば会に反対しなくなる。と言われた。私は親が会をやめてほしくて反対していると思っていたが、実は私の行動に不満を持っている。家族のことをよく分かっているつもりだったが、このとき分からなくなった。

親は私に何をしてほしいのだろう。私が自立すること?葬式でのあのような振る舞いを二度としないこと?勉強すること?どれも当てはまっていそうだ。直接聞けば簡単だが、そんなことはできない。もし、親自身も認識しないような潜在意識、まして阿頼耶識がそうさせているのであれば、私にはお手上げだ。


13.雪山童子|脱会者の手記≪ 戻る91011121314151617次へ ≫
私はどうして必死になって家族との仲を修復しようとしているのだろう。家族にも後生があるから?家族に仏法を伝えるため?表向きはそうだが、本当は自分の未来が不安でたまらなかった。生活費を止められても、1ヶ月は生活できる程は残っていたものの、この状況がいつまで続くか分からない。結局私は自分の生活を確保するために、仲直りしようと躍気になっているのだ。本当に苦しくなった時、私は自分のことしか考えていない。いや、苦しくない時でさえ、行動の根元には我欲がある。

講師や先輩には「生活費を止められたなら、自分でバイトして稼ぐしかない。下宿を払われてしまうんだったら先輩の下宿に住んで、バイトのお金で暮らせばいい。親の仕送りなしで生活していったら、親はもう取り上げるものがないから反対のしようがなくなる」と言われた。最もな理屈だ。これを聞いて私は身の引きしまる思いがした。学校も聴聞もあって、バイトの時間は限られている。1ヶ月でどれくらい稼げるのだろう。両立してがんばっている子でさえ、月3万くらい。先輩の下宿に住めるとしても、家賃の半分は出さないといけない。ほとんど家賃で終わってしまう。聴聞なんてできっこない!!と全く前途が暗くなった。でも人生の目的果たすまでは、どんなに苦しくても生きなければ。

とにかくバイトを探すことにした。ここはバイト先が少ない。自分に合ったバイトを探すことはできなかった。そこで、バイトに詳しい先輩に相談すると、一番楽で時給がいい家庭教師を勧められた。家庭教師は、私が一番やりたくないバイトだった。大学に入る前、家庭教師をやることはないだろうと思っていた。私はなんとか家教を避けて他のバイトを探していたが、いいバイト先は見つからなかった。

そんな私を心配して、部長が法施をしてくれた。内容は、釈尊が雪山童子と呼ばれていた頃覚りを得るために羅刹に命を投げ出す「羅刹のメンタルテスト」であった。この話を聞いて、今の苦しみは帝釈天が、私になら乗り越えられると思って与えてくださったのだ。とにかく、今は生きなければならない。バイトを選べる立場じゃない。ある仕事は何でもやろう。時間をとって話をしてくださったことが、本当に有り難かった。その後、私は家教を登録しに行った。


14.2月末|脱会者の手記≪ 戻る101112131415161718次へ ≫
家教を登録しに行くと、1日後くらいに生徒を紹介された。教科は私も苦手なものも含まれていたが、中学生だから大丈夫だろう。今は目前にあるバイトは何でもしなければ、と思ったのですぐ請け負った。下宿から歩いてすぐの事務所で教えればいいので、条件はとても恵まれていた。これも阿弥陀仏の御力だと思っていた。毎週2回、3月いっぱい働いたとしても、1ヶ月生活できる程ではなかった。1つのバイトだけでは足りないのだ。しかし、いきなりバイトをいくつもかけ持つ自信がなかったので、取りあえず、このバイト1つに専念することにした。

2回教えて、何とかやっていけそうだと思いながら3回目の日、事務所に行くと、生徒の方が金銭的な問題でやめたと言われた。家教を紹介してもらうと、お金がかかってしまうのだ。私はまた頼り所がなくなってしまった。

ところが、バイトがなくなったと言って落ち込んでいられない事態になった。1ヶ月ほど私が毎日メールを送っても返信もしてくれなくなった母からメールがあり、父の休みと都合が合ったから土曜日に下宿に来るという。これが私が家族と仲直りする最後のチャンスだと思うと、対応に慎重にならずにいられなかった。

自分の思いで行動して、失敗してはいけないので、急いで部室に向かった。講師に相談すると、何を言われても怒らずに、まことのこころで接すること。家に連れ戻されたら仕方ないが、大学に通うときに聴聞すること、最後の手段は土下座で、練習までもした。そしてだいぶ後になってしまったが、母に明日は1日空いているから来て下さいと返信した。

次の日、母は出る前にメールをくれると言っていたが、緊張していた。冬休み以来、久しぶりにあう。しかもこの1ヶ月半はメールなどで口論ばかりしていた。母は毎回電話口で泣いていた。聞くのもつらかった。何から話したらよいのか。昨日言われたようにうまく接することができるだろうか。びくびくしながら待っていたら、母からメールで、昨日の私の遅い返信が災いして出発が昼すぎになる、とのこと。緊張していた糸が切れたように思われた。それなら、今部室に行けば部会に参加できる。

一番真剣になれる今、少しでも多く聞かせて頂かなければならないと、急いで出かけた。部会の内容は『こんなことが知りたい(1)』から、地獄は本当にあるか、という話だった。12時まで出て、アパートに帰った。


15.連行|脱会者の手記≪ 戻る111213141516171819次へ ≫
2時ごろに、とうとう両親がやってきた。笑顔はなく、怒りも当然あっただろうが、それよりも疲れて見えた。私よりも家族の方がよっぽど大変な思いをしている、と実感した。これはメールや電話からでは伝わらない。間をあけずに、さっそく話が始まった。

両親は、「会を脱けないのなら、下宿は払うし、大学もやめさせる」と言ってきた。私としては、会を脱けたら絶対の幸福にはなれない。だから聴聞は続けるし、大学の勉強もしたい。話し合いは全くの平行線をたどった。私は引けなかったし、両親も引かなかった。両親は私が何を言っても、「洗脳されているから」と言って、本音として受け止めてくれなかった。

1時間半は経った。私は土下座はしなかった。最終手段であったが、卑怯な方法だと思っていたからだ。私が土下座してしまったら、両親は何もできなくなってしまうではないか。私の問題だが情けないことに私の力ではもうどうにもできないと思い、「部室に行こう」と提案した。両親は気が抜けた様子で合意した。父は怒鳴りこむ勢いだったが、母がなんとかなだめながら行った。こんな調子で部室にいきなり行っては迷惑なので、アパートを出る前に予め講師に連絡しておいた。

部室のドアを開けるともう講師が待っていた。まだ幹部講師の部会の最中だった。控え室に案内され、そこで両親と講師の論争になった。論争と言っても、両親が会に対する批判を講師にぶつけ、講師がそれに応える、という形だった。

父の剣幕に、講師は押され気味だったが、なんとか分かってもらおうとしていた。普段から大きい父の声が怒りで余計に大きくなったものだから、きっと部会の部屋にも聞こえていたことだろう。早めに部会を切り上げた幹部講師が控え室に入ってきた。幹部講師も加われば、両親を説得してくれるに違いないと思った。

両親は私をやめさせるつもりで、会はすんなりやめられるのかと聞いていた。すると幹部講師は「それは信仰の自由だからできる。無理に引き止めたりはしない」と答えた。それを聞いてほっとした両親は、私をすぐに家に連れて帰ろうとした。

私は全体重を床にかけて抵抗した。「今会を脱けたら、絶対に幸せになれない。今部室を離れてはいけない」としがみついた。しかし、私1人では父母の力には抗しきれなかった。私は必死に部室に執着したが、連れ戻そうとする父母も必死であった。つかまれた手首の痛さで十分わかった。

母が「会のせいで親の言うことを聞かなくなってしまったんですよ!」と言うと、「それは聞き間違いですよ。会ではそんなことは教えておりません」との一言で片づけられた。私はこの時、信じていた会の人に裏切られた心地がした。

確かに、私の運命は私の行為が招いたものだが、では一体どうすればよかったのか。私がこれまでに経験した苦しみは何だったのか。これが因果の道理が知らされて、出てくる冷たさと言うのだろうか。これが、仏法者と言える振る舞いだろうか。私はその後の抵抗もむなしく無理やり連れ戻されるという形で実家に帰ってきてしまった。

私が抵抗している間、講師部の2人はただ見ているだけだった。こうなるともう家族の問題になってしまうのだろう。


16.在宅|脱会者の手記≪ 戻る121314151617181920次へ ≫
久しぶりに無理やりという形ではあったが、家に帰ってきた。このままでは本当の幸せにはなれないと目の前が暗くなった。身の周りにあるのは、相対の幸福ばかり。何をしても心からの満足はなかった。心が後生の解決から遠ざからないために、何かお聖教を拝読したかったが、あいにくお聖教は全て下宿に置いてきてしまった。とても持ってこられる状況ではなかった。目にさわれば、捨てられてしまうかもしれない。せめてこれだけはと正御本尊だけは持ってきていた。

家族の目が常に光っていたから、私は何もできなかった。でも両親はとにかく私を連れ戻せたことでほっとしているようだった。下宿にいたときとはうって変わって、とても優しくしてくれた。しかし、今あきらめて家族と仲直りしたら、とても楽だが、それは家族のことを思ってではない。私は自分の心に負けることになる。前に会の幹事に言われたことを繰り返し自分に言い聞かせた。

自分では何もできない私にとって、先輩からのメールや電話が唯一の支えになった。メールはあまり携帯をさわっていると、また親に注意されかねないので、夜眠ったころに、電話をかけてもらう。電話代がかかることを心配した先輩が、負担してくれ、また申し訳なかった。昼間は昼間で私が思うように返信できないことを承知の上で、部会の内容を送ってくれた。講師も毎日、先生のお言葉を送ってきた。どれも当時の私には励みになった。

合同行事の時は何とか参加できないかと言われたが、家の外に出ることもままならない。信用を失ってしまったのに、これ以上裏切ることはしたくなかった。数日後には合宿も控えていて、何とか参加したかったが、今回ばかりはさすがに無理かもしれないと思った。これでは心が離れてしまう!

ある夜、家に電話が入った。母によると、兄の知り合いの元会員さんが近くにみえて、「私でよかったら話をしましょうか」と言って下さっているそうだ。私はきっと会っても心は変わらないから会わない方がいい、という気持ちがあったが、話を聞いてみたいという気もした。

家族とでは、全く会の話は通じないから、会のことを知っている人と話がしたかったし、どうして会をやめたのか聞きたかった。絶対の幸福になることしか頭になかった私にとって、それが一番の疑問だった。先輩に相談してみると、先輩は更に講師に相談して、「会わない方がいい」という結論が出た。それでもやっぱり私は話が聞きたかったし、母にも会ってほしいと言われた。何を聞いても心を揺るがせないつもりで会うことにした。


17.疑い|脱会者の手記≪ 戻る131415161718192021次へ ≫
数日後、元会員さんがみえた。お話を伺う前から緊張していた。会に対する批判を言われるのを覚悟しておかなければならない。でも、先生は本当の善知識で、会も全く素晴らしい会だから批判は受け入れない、つもりだった。

しかし、元会員さんは私よりずっと長く会にいて、私では知り得ないことも御存知だった。会員のうち、入会して1年にも満たない私は、組織的には下の下である。入会以来、徐々に会の姿を知らされてきた。立場上まだ知らされていないこともたくさんあるだろう。

だからこそ私の知らない会の姿を知っている元会員さんの言葉には説得力があった。学友部の講師よりも、よっぽど会のことを知っていたからだ。

初めは会の裏の姿を信じようとしなかった。今まで、絶対に正しいと信じてきたものに裏切られたくなかった。けれど、私よりも会の在籍期間が長く、私の知り得ない上層部のことも知っている、ということに否定しきれないものを感じた。実際、短い期間でも、言われてみれば幾つか思い当たるふしがあった。これらが更に会に対する疑念を大きくした。会は絶対ではなかった?

批判を受け入れないどころか、思い当たることがあって、会に対する信心が揺らぎ始めてしまった。1日目だけで揺らいでしまう自分の弱い信心を責めた。会に対する疑いをもったままで、先輩に電話したくなかった。会への不信感をもってしまったことを悟られたくなかった。お借りした本は、暇があれば本を開いた。幸い春休みで、1日のうちまとまった時間がとれたので、3日に1冊のペースで読みあさった。

私の知りたいことがそこに書かれているかもしれない。今はとにかく会の人ではなく、色んな世の中の人の考え方を知ることが必要だった。私はただ人から提示された答えを受け入れるだけではなく、自分なりに納得できる答えを探した。会を信じるのなら、信じる理由を。会を疑うなら、疑う理由を。

著者の中には、全くの無宗教なのに、本当に、今の私の心を理解してくれている人もあった。会以外で、私のことを分かってくれる人はいないと思っていたが、本当に嬉しかった。またその人はオウム信者の内面もよく理解していて、オウム信者と私の心は似たところがある。きっとオウムと親鸞会、信じたものの違いだけだったと思う。その違いだけで、親鸞会は法にひっかかる犯罪は犯さず、オウムは殺人事件を起こしてしまった。決して人ごとではない。


18.真実|脱会者の手記≪ 戻る141516171819202122次へ ≫
2回目にお話を伺ったときは、最初のときよりも受け入れたくなかった会の裏側の部分も多少受け入れられるようになった。自分でも心当たりがあり、納得したからだと思う。

先生と本願寺との因縁。聞法の場を会組織にした理由の1つは本願寺に対抗するため?会を大きくしたいという願望があった?私は、なぜ生きるを問題にしなければどう生きるかがいくら充実していても意味はない。死を目前にしたらふっ飛んでしまうと教えられていた。だから、お金も自分の欲のためには必要最低限で使わずに、信心決定のためにあててきた。まして、すでに信心決定しておられる先生は、お金といったものはいくらあっても、後生の解決をしていなければ意味がないと1番よく分かっているはずだ。会組織はお金が目当てではないと思うが。

しかし、私はそこで知らされた。雪だるまが雪でできているように、欲でできているものが私たち人間だ。いくら信心決定したと言っても、人間である以上、欲は減りもなくなりもしない。善知識であっても、その欲のために気づかないうちに起こしている間違いがあるのではないか。こう考えたとき、もう高森先生を無二の善知識と思えなくなった。

また、会発足以来40年近く経つが、自分は救われたと言っている人が講師の中に1人もいないということに失望した。

以前、大学卒業が近くなり、進路を考えている学友部員に向けて言われたことを聞いたことがある。2つの選択肢があって、1つは講師部への道だそうだ。先生との御縁が増えるし、後生の解決に向けた活動を仕事にできるというのは、大変幸せなことだからだ。

当然なことながら、自分の進路を決めるのは自分自身なのだが、こう言われると、講師部以外の仕事に就きづらくなってしまう。周囲の人から、「後生の解決より仕事を選んだ」と思われてしまう。本人に選択余地を与えているかのように見せかけて、実は最初からレールは1本しかない。講師部に進むことだ。

レールをはずれて周囲の見えない冷たい目に耐えられるような強い人は自分のレールをひいていけるかもしれない。でも、私はそこまで強くなれそうにない。私も3、4年になったら、もうそこには講師への道しかないのだろうか…。と目先が暗くなった。

ここまで積極的に推められていた講師部で、最も素晴らしい道を歩いている人の中で、実際に終点に到達したと言っている人が1人もいないなんて。これもどこかでずれた教義の影響なのだろうか。懸命に覚えてきた教義自体、信じられなくなり忘れてしまった方がよいと思えてきた。

大学の学生課の方からもお電話を頂いた。様々な人に心配してもらっていることを有り難く思い、また、これ以上心配をかけながら会を続けることはできないと思った。今まで決して自分はやらないだろうし、できない、と思っていた、脱会、ということについてだんだん心が傾き始めていた。



19.脱会|脱会者の手記≪ 戻る141516171819202122次へ ≫
私が脱会を決意できたのは、春休みになって間もなく、無理やり家に連れ戻されるという形でも、とにかく全く会の活動から離れ、幸いにも元会員さんが忙しい中時間を見つけて私にお話をして下さったからです。私と対立する立場でも、私のために家族を始め、様々な方が一生懸命になって下さいました。しばらくしてやっと私なりに会をやめることに納得のいく理由を見つけることができました。

この1年間、部会に毎日参加していくうちに、会の活動1つに夢中になり、知らず知らずのうちにやはりマインドコントロールにかかっていたのでは、と今思います。会の中にいれば、もちろん自分がマインドコントロールにかかっている、という自覚はありません。講師も会員にコントロールをかけているとは思っていないでしょう。講師もコントロールされている一員なのです。

上層部の実態を聞いて、「会は絶対に正しい」という信心が崩れました。今まで会にかけてきた時間やお金、体力が全て無駄になったと思うと苦しみましたが、心がすっきりしたのが大部分です。「これで家族と毎日のようにけんかをせずに、また仲良く暮らしていける」とほっとし、本当に嬉しかった。私が脱けてから、会の人に、「あの人は自分の心に負けたんだ」と思われたって全く構わない。

脱会届を出しに久しぶりに部室へ行きました。部室の前に大学へ行きました。2月末に私の様子を心配して学生部の方が電話をかけて下さったのです。副学長にも心配をかけてしまいましたが、皆さんの心遣いが本当に有り難かったです。学生部に入ると、以前母から電話を受け、サークルの部屋に様子を見に来た方が、「あのときより顔色がよくなった」と喜んで下さいました。また、私の他にやめたいと思っている人がいたらすぐに知らせて下さいと言われました。

しかし皆会に一生懸命の人ばかりなので、親の激しい反対がなければ難しいかもしれない。それに、20歳以上になると、本人が続けたいと言っているのに親がやめさせるということも難しくなってしまう。やはり宗教ばかりか世間を知らない入学したての一年生をつかまえて、学生の間に会にどっぷりつからせておいて卒業するころには手遅れ…というケースに持ち込む会のやり方は許されない。このことは会長は知らないかもしれない。

さて、学生部を立って、ついに脱会届を出す時が来た。会の裏を知らないみんなは、本当に現在稀なほどのいい人ぞろいで、でも私はみんなと別れなければならない。もし大学で会っても、あいさつさえ交わすことはない、こうなると、まだまだこれからも辛い思いをするだろう。こんな私が部室に行って脱会届を部長に出して、みんなを背に出ていく…なんてことはとてもできそうにない。たとえ両親が一緒に来てくれても。

だから、脱会届は両親に持って行ってもらった。正御本尊や、お金がまだ納めきっていないアニメのビデオも一緒に。その間、私は部屋にいた。両親はどうやって渡したんだろう。みんなはどんな顔をしただろう。両親が帰ってきてほっとした。これできりがついたのか。もう部室には近づきたくなかった。3人でほっとして家に帰った。

富山の会長宛てにも退会届を出し、郵便局から通知が来た。これで本当に終わったと両親も肩の荷が下りた面持ちだった。


20.退会後の春休み|脱会者の手記≪ 戻る141516171819202122次へ ≫
退会した後、まだ1ヶ月余り春休みがありました。会にいたときは休みと言っても半日は部室にいて、1日中自分の時間になる日はありませんでした。それほど生活の一部を占めていたから、サークルの活動が身近になり、のめり込んでいったのだと思います。普通なら、1ヶ月の休みは長く感じられるかもしれませんが、完全に会から離れるには短すぎると言われていました。本当は、春休みが終わっても、家から通うか、休学するかという事態にまでなっていました。

私は退会したから安心と甘く考えていましたが、実際は深刻で、これからがまた大変だったのです。春休みの間は家にいて、少なくとも地理的には会から離れた生活ができる。でも、私は大学へはまた、1年暮らしてようやく慣れたアパートが気に入っていたし、毎日の通学が何より楽、ということから、下宿先から通いたいと思っていた。

苦しいことに大学から近いということは部室にも近くなってしまう。地理的に近いと、心もまた会に近付いてしまうのではないか、今は大丈夫だと思っていても、いつ戻ってしまうか分からない。これは周囲の方に心配されたことでもあり、私自身怖かった。私は何より、サークルのメンバーと鉢合わせになることを恐れていた。

私は近視なので相手に気づかず、無視するつもりがなくても無視したような形になるが、相手が私に気づいたらどんな反応をするだろう。きちんと退会届の内容が伝えられていれば、約束を守る人ならば、黙って通り過ぎてくれるだろう。私はそれを期待していた。万一声をかけてきても、私のほうは無視しなければならない。これを徹底できるだろうか。

そう思うとやはり春休み明けからの、サークルをやめた後の大学生活は心配だった。しかし、今までも、そしてこれからも私を心配し、支えてくださる方々のことを思えば、私一人の事情で約束を破るわけにはいかない。約束は破られても、破ってはいけない、と思った。

とにかく、1ヶ月ほどある春休み。夏休みでさえ、1週間しか家に帰らなかった分、春休みは家族で色んな所へ行った。母が前から行きたがっていた成人式の着物も決めた。何とか2月にとった免許が無駄にならないよう、運転の練習もさせてもらった。そして気がつくと、相対の幸福と思ってみても、苦にならなくなっていた。以前の自分を少し離れたところから見られるようになったと思う。

時々、しつこく頭にたたきこまれた教義の一片が浮かんでしまうことがある。しかし今はそれを教義を裏で裏切っているもののきれいごと、としか思えない。会にはもう本当の誠実さを感じられないので、戻ることもない。

それよりも、今ある家族との平和な暮らしが嬉しくて仕方ない。私の心は、やはり、1年前、声をかけられる前と全く同じには戻れないけれども、この経験を、これからの生活や人との接し方について、いい方向に活かしたい。


21.新しい生活|脱会者の手記≪ 戻る141516171819202122次へ ≫
春休みが終わり、これまでの1年とは違う大学生活が始まった。最初に大学に行くときが、1番内心びくびくしていた。おそらく、朝からは勧誘していないだろうが、いつ見つかって声をかけられるか分からない。帰るときも怖かった。

しかし、2年からは、もう専門の講義ばかりになるので、ほとんど学部棟で過ごし、他学部の人とは会うことがなくなり、日中は割と気楽に過ごせた。会にいた頃は世間話はあまりできなかった。時間がなかったというよりは、ニュースもろくに見ないものだから、世の中で何が起こっているのか、情報に疎く、ほとんど内輪の子としか話さなかった。会では、会の人とだけでなく、他の大学生とも話すよう推められていたが。

でも、私には、入学して間もなく、会には入っていなかったが、友達になれた子がいたのが幸いだった。大学生どうしのつながりはどうも薄くなりがちだと言われる。私は、そんな薄いつながりは求めない。本当に信頼できる友達。そういう子が私の周りにいてくれた。農学部はやはり似たり寄ったりなのか、話が合う子が多いと思う。

以前は世間話をしているときは心の底にあった黒い陰りが、学部で昼間過ごすようになってから徐々に消えていき、今では心から笑い話せるようになった。

自分の時間が格段に増え、勉強にもゆとりを持って打ち込めるようになった。勉強といっても、内容は好きなことなので、あまり苦にならない。1年のときは、勉強も大事だが、何より大事なのは、人生の目的を果たすこと、だからいかに効率よく勉強してより多くの時間を人生の目的に費やすか。いつも時間に追われていた。しかし、忙しいことを勉強ができないいいわけにしていなかったか。私は人生の目的を知らされた幸福者だ。私は人生の目的を果たすために忙しい。だから普通の人より勉強ができなくても仕方ない、と。

もちろん、大学に通うからには、勉強もがんばって両立させたいと思っていたが、どうしてもこのような考えが出てきてしまった。こう思うことで、自分より優れている人を見たとき、自分を慰めていた。

これからは、こんないいわけは通用しない。本気になってぶつかっていかなければならない。


22.まとめ|脱会者の手記≪ 戻る141516171819202122INDEX
主な出来事
3月 勧誘される
4月初旬 入学式後部会(学生会館にて)に参加 内容は苦楽一如
(ex.ジグソーパズル プラモデル)
最初の土曜に初めて部室に行く 親の大恩十種
5月初旬 ゴールデンウィークで合宿
ノートをつけ始める 人間の実相 白骨の御文章
テキストとして使っている「なぜ生きる」を求める。続いて真宗聖典も。
だんだん古典・哲学から、仏教へ。
5月下旬 法話参詣 お礼状を書くよう勧められる
先輩が教学講義に行く日曜だけ1日休み
6月 親鸞会に入会 以降毎月1回富山
教学聖典 毎週日曜はビデオ御法話
7月 テストと会の活動(あまり大変ではなかった)
8,9月 夏休み 1週間の合宿(日曜は富山)他
お金に余裕のある人は信州、大阪、京都へ。
午後からは部室ですごす このころから夢中。教学試験
自動車学校にも通い始める。9月中旬に仮免。
10,11月 後期顕正(布教)始まる。
水曜の昼間など、空き時間を利用して先輩と組んで勧誘。
周辺の大学にも出かける。
思うように約束とれず、新しくサークルに入った人はいない。
12月 法話がある度に誘っていた母が会に対して不信感を募らせる。
30日に亡くなった祖母の葬式での振る舞いによって反対が決定的になる。
1,2月 5日に家族に無理を言って下宿に戻らせてもらう。その後いよいよ家族3人を相手に論争が絶えなくなる。
「今家族の言うことを聞いて仲直りしても、そうしていられるのは今生だけのこと。後生につっこんだら一人一人が作った地獄に堕ちなければならない。本当に家族の幸せを思うなら、今苦しくても乗り越えなければ。」
「これは羅刹(帝釈天)のメンタルテスト」
生活費を止められ、下宿を払われても先輩の下宿に共同生活し、バイトで生きる覚悟
2月末 両親が来て、実家に連れ戻される。毎日先輩と連絡をとる。手伝いをしてなんとか仲直りしようと試みる。全く会を離れる気なし。ところが元会員さんのお話を何度か聞いて、それまで絶対だと思っていた会の教義に対する信心が揺らぎ始めた。思い当たるふしがいくつかあった。
それからお借りした本を読んで色々な考え方があることを知った。外の世界に触れ始めたと思う。唯一の善知識と思っていても、人である以上、何かしらの間違いを避けることはできない。
体験発表について
本部法話の前に学院生、研修生が発表する。降誕会、報恩講等、2日にわたって法話が行われるときは弁論大会が催される。これには学友部から全ての会員が参加できる。聴衆は最後に最もよいと思われた弁士1人に投票する。

不審に思ったのが、ある学友部員に弁論大会出場の話がもちあがり、講師が聞く人の感動を呼ぶためなら多少手を加えてもかまわない、様に発言したことだ。これらのうち全てではないだろうが、聴衆の気を引くために多分に脚色されている可能性がある。

顕正(勧誘)が宿善になる
「顕正は人に話しているから自分は求道していないように思うが、人に話していることは自分が一番よく聞いているから聴聞になる。だから進んでいるんだよ。自分が知らされて感動したら人に言わずにおれなくなる。逆に、人に伝えるのはいや。自分だけ聞いておればいい。という人は我利我利亡者で進めない。またその人に後生の一大事があることを知っていて、自分はその解決の方法を知っているのに、人に伝えないということは、人が地獄に堕ちていくのを黙って見ている人。こんな人はとても冷たいよね?」…などと言われる。

こう言われては感動してもしなくても、覚えていることを人に言わなくてはならない、という使命感に押しつぶされる。

「感動したことは覚える」と言われるが、私は嫌というほど何回も同じことを聞かされれば、感動しなくても覚えてしまう、と思う。

報恩講では、「親鸞聖人の教えていかれたことを正確に、より多くの方にお伝えしなければ生きている意味はありません」とまで言われた。

普通の法話と教学講義の違い
教学講義では法話中に内容をノートに書ける。書くことに集中して聞き漏らさないように注意。
受講資格のある人しか受講できない。鷲マークバッジ、受講票(首から下げる)、シール(受講料を納めるともらう)の3点セットがそろわないと会館にすら入れない。昼に外に出ると3点セットをチェックされる。
先輩によれば、以前高森先生が「教学講義は私の遺言だから、どんなに熱があっても来なさい」と言われたそうだ。

友達のこと
私と同じ学科で、今も会に入っている子がいます。私を含め周りの人のことを大変気遣ってくれる、優しいまじめな子です。だから会にもがんばってついていっているのですが…。

私は家族から大変な反対を受け、無理やり実家に連れ戻される形でずっと家にいました。最初の頃は、「今あきらめてはいけない。私が会をやめたら私も幸せになれないし、家族も後生の解決ができなくなる」の思いでいっぱいでした。親から見たら、会の教義で洗脳されてガチガチになっている、状態です。しかし、元会員さんのお話を聞いて、だんだんと会が絶対正しいとは言いきれないと思い始めたのです。

そして私からすれば、仏様の仰有ることは正しい。でも、いくら仏智を体得(信心決定)されたとはいえ、高森先生は一人の凡夫である。凡夫である以上、煩悩は減りもなくなりもしない。もし先生本人も気づいてないような煩悩から出た小さな教義上の誤りがあるとすれば、その時点で無二の善知識ではない。という結論で落ちついています。先生に誤りがあっても、会の中にそれを正す人はいない。とすれば、それこそ「一盲衆盲を率いて以て火坑におつる」になってしまう。

こうして私は多くの方々に支えられ、脱会することができました。私は友達にも会をぬけてほしいと思っています。「行く先が間違っているものに費やした時間もお金も無駄になる」と教えているのは他ならぬ講師です。長く会にいるほどやめにくくなるし、やめようと思わなくなる。会をやめたら不幸になる、と思うほどに。

この友達の親御さんは、大変宗教に対して厳しい反対をされる方です。ゴールデンウィーク合宿の時点でサークルに不信感をもち、反対されました。友達はこの合宿に行った後、「サークルはやめた」と嘘をずっとつき続けています。

嘘をつき続けなければならない友達は、きっといつ嘘だとばれるかびくびくしていて辛いと思います。でも私は嘘はいつかばれると信じています。だから、1,2月、一番反対が激しかった時でも、下宿がなくなることを覚悟の上で、「やめた」という嘘はつかなかった。

むしろ、一刻も早く嘘がばれて、両親の反対によってでも、会の活動から遠ざかってくれれば…。友達の心も私のようにいかなくても、いつか会から離れていく、ということを願っています。会自体がなくなってしまうのが一番いいと思いますが、会員さんも苦しんでいます。学院に進むのだけはやめてほしい。

会の教えを信じるまで
これはあくまで私の場合です。個人によって会にのめりこむまでの心の道程は違います。

勧誘されたてで、周りの人(サークルのメンバー)が信じられない

何回か部会に参加して「いい人」だと思う

「いい人」が聞いている教えだから「いい教え」

※ここで「いい教え」だとすんなり受け入れられなくても、教えの通りのことが実際に起きる(例えば夜更かしして寝坊した)と、教え(この場合 悪因悪果)は本当だった!と教えに忠実になる。もちろん繰り返し聞かされないと日常生活にまで入ってこない。


盲信
「いい人」が尊敬している高森氏も「いい先生」
それどころか「無二の善知識」

理想
「いい人」が入っている親鸞会に入ろう

実際いい会だから時間もお金も会につぎこんでも平気!

会で救われた
時間もお金も無駄にならなかった

※理想は絶対に裏切らないとハッキリしたものにお金や時間など、大切なものをつぎこむことです。なぜなら、つぎこんだお金も時間も無駄にならないから。

現実
まだ救われないけど、ずいぶん長い時間や莫大なお金を会に使ってきた

会に使ったお金時間が無駄とは思えない
思いたくない

会は正しい と信じるしかない
今さら会をやめられない

※しかし実際は危険なものの信じ方をしています。「絶対に正しい」と確かめたたわけではないのに、大切なお金・時間を費やした量が多いほど、信じ込んでしまうのです。これは、使った時間、お金が全て無駄だったと知って苦しむのを恐れるためです。(これは秋ごろの部会で宝くじの例えで言われていたものです。)だから、会に長くいる人ほど、会をぬけることが難しくなってしまう。

公開にあたって(ウェブ制作スタッフより)
この手記の公開にあたっては、その内容から親鸞会が手記を執筆した本人を特定してしまうのではないか、という懸念がありました。

しかし執筆者の「会関係者が読めばどうしても私自身と特定されてしまう部分もありますが、構成自体はいじりたくないですし、特定されてもかまいません。生きる糧を奪われない限りこわいものはないので」という強い意志により、公開が実現しました。

一旦脱会してしまえば、親鸞会には一切関わりたくないと思う方も多い中、貴重な体験の執筆と公開に協力してくださったご本人と、そのご家族の方に深く感謝いたします。


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二重の鎖
高校生の頃から、真の友達ができないと言っていた娘が、大学3年の時「これまで、こんな友達はいなかった。本当の友達ができた。」と、とても喜んでいました。それが親鸞会への入り口でした。

旅行を楽しむ会だと言っていましたが、そのうち親鸞聖人の話を聞いていると話したので、変な団体ではないか、娘に気をつけているように話すと、大学の一室で聞いていて、兄の同級生もいることがわかり、我が家も浄土真宗なので様子をみることにしました。

4年次になって、就職は、大学がある○○市でしたいと言いましたが、自宅から通勤できるよう地元で就職してほしいと説得、なんとか、地元で就職を決めてくれました。

就職すると、仕事の後、聴聞にでかけるのです。土日も含めて週5日親鸞会にでかける姿に尋常でないものを感じ、お寺さんに聞くと大変なところだとわかり、やめるよう娘に話すと今までに見たことの無い、性格が変わってしまった顔つきになり驚きました。

それからは、警察に電話し、カルトの本を読み、カルト問題の相談所に電話で相談したり、不安だらけの毎日を過ごすこととなりました。

これまで、一番心配したのは、親鸞会の支部のリーダー格の人に紹介された人と結婚したいと言ったときです。相手の男性は親鸞会職員、この男性も娘を上司に紹介されたと話しました。信仰プラス結婚の二重の鎖をかけられ両親は、あわてました。

もう一回は、アパート暮らしをしたいと言ったときです。家にいては、親鸞会活動ができないので一人で暮らしたいと、ひそかにアパートを予約し脱出をはかっていたときです。

二つの出来事を両親のみならず、叔父伯母たちにも説得してもらい、なんとか現在にいたっています。


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顕真学院に行く
私にとって、初めは親鸞会って何???の世界でした。子どもに対してどのように応対すれば良いのか?その基本さえも分かりませんでした。

大学を卒業する年の2月、子どもから親鸞会の講師になるので就職はしないと言われ、大変驚いたのが今でも脳裏に焼き付いています。

3月には卒業し、そして就職と考えていた親に取って、何とキチガイじみたことを言ってくれるんだ・・と言う思いでした。他のご家族のお話を伺ってみても、皆さん同じような体験をされてました。勧誘のされ方は同じ手口と言って良いでしょう。 あれから5年の月日が経ってしまいましたが、脱会の糸口もつかめないまま現在に至っております。

大学を卒業した時点で、子どもをどうにか説得して就職することになりました。「親戚や友人に、どこそこの会社に就職が決まったと言いふらしているので、お父さんのメンツが立たなくなる」と強く言ったのでした。そして、研修期間の為、親元を離れて生活することになりました。ところが、そうなると本人は全くの自由です。毎週、富山へ或いは親鸞会○○支部へと通っていたようです。

5月の連休で帰ってきた時、再度顕真学院に行くと言い出したのです。その時は、3月のような雰囲気ではありません。顔つきまですっかり変わっていました。携帯電話を取り上げましたがダメでした。携帯を持たないまま、「富山に寄ってから帰る」と言って、帰って行きました。私達は、この子ともこれで親子の絆が切れるんだなと言う思いで駅まで見送りました。

それからというもの、子どものことを思えば大変気持ちが苦しくなる日々でした。何か良い方法はないかと考え、一つ思いついたことを実行しました。一人で生活する時には、最小限の荷物しか与えてませんでしたので、逆にテレビ・お米・食品などを次々と送ってみました。宅急便で荷物が届いたよとハガキが来ました。

それから、他にも相談できる方はいないものかと思案しましたところ、以前兄弟から西田先生の「マインドコントロールとは何か」と言う本を渡されたことを思い出しました。静岡県立大学に電話したところ西田先生に繋がりました。そして、親鸞会問題に詳しい聖職者の方を紹介して頂き、相談させて頂くことが出来ました。親鸞会のことを詳しく教えて頂き、組織の大きさにびっくりしました。今では困ったことがあると直ぐに相談するようになりました。私の精神安定剤です。

5月末にはてっきり「会社を辞めた」と言ってくるかと思っていましたが、何事もなく過ぎ、6月に辞令が出て、○○支店勤務になったと電話がありました。取り敢えずはホッとしました。それからは何時でも家に帰ってこられる状況を作り、帰郷する度にドライブに買物にと連れて行きました。でも、親鸞会の話しをすると顔つきとかものの言い方が変わりますので、その話しはあまりしませんでした。

子どもは一般企業に勤めながら親鸞会を続けていくつもりのようです。大学時代を含めて、5〜8年も続けていれば、同じ内容の講義を聴くこともある筈です。疑問を感じないようでは、自ら気づくことは難しいように思います。どこか矛盾点を少しでも見つけて欲しいものです。

最後に、それぞれのご家族で置かれた立場に違いはありますが、情報の収集・相談できるところは、親鸞会被害家族の会しかありません。相談できるところがあると言うのは、とっても心強いです。


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実は布教活動だった
息子は大学1年春(平成12年)新勧に会いサークル活動を始めました。サークル名は古典と○○を学ぶ会。

高校時代に入っていたクラブに大学でも入部していましたが、二つ掛け持ち出来ないからとクラブのほうはやめサークル一本に。

1年の時大学の先生の話があるということで何度か息子と一緒に妻が出かけました。いずれもK講師の歎異抄の話で母親が多く来ていたようです。その時は妻も親鸞会とは気づかなかったようです。

2年になってもサークルで帰りが遅い日が多く、(勉強そっちのけではなかったが)それほど体が丈夫ではないので、心配して友人に相談したところ親鸞会とわかり、反社会的な活動をする団体ではないが、要注意と言われました。私も有楽町国際フォーラムでの聴聞会に妻と参加、高森会長は体調悪く講師の法話とビデオ鑑賞でしたが、母親と来ている学生が多く見られました。休憩時間に何人かの母親が父母の会(現在では親子の集いかもしれない)なるものに入らないかと声をかけてきたのを覚えています。断りましたが。

2年の秋になり大学の英語研修でロサンゼルスに1週間出かけるというので旅費を出し参加させました。

英語研修と嘘をつき実は布教活動だったことが後日わかりました。

3年になっても帰りが遅い日が多く、各地の聴聞会に出かけるにも嘘をつくようになって来ました。いろいろ調べ家計簿をつけ毎月上司に提出していること、導師から大導師になったこと他大学で新勧をしていること等わかりました。

何とかしなくてはと相談窓口を探し、その過程で「家族の絆」HPにたどり着きました。

さらに家の近くの教会で宗教問題の相談を受け付けていることを知り、相談に行きアドバイスを受けました。

牧師から第3者(叔父・叔母)の説得が有効とのアドバイスを受けました。しかし息子の都合がなかなかつかず(週末は富山及び都内の聴聞に出かけるため)3回ほど叔父・叔母のところへ行き話をしましたが成果を挙げられませんでした。息子は、小学校時代と高校時代に同期の人の死に会い、死に対して深く考えるようになったようです。

3年の秋、突然息子から顕真学院へいきたいとの話があり、講師になったらどのような生活が待っているか「家族の絆」で情報を仕入れていましたので、絶対にやめろと強く反対。2ヶ月間考えさせてくれと言うことで待つことに。結局、顕真学院はあきらめ司法試験を受けることに決めてくれました。大学受験の時から将来は弁護士か裁判官になりたいと言っていましたので。本人は自分で決めたと言っていましたが、講師に相談し説得されたようです。(特専部にはいられると困りますが)

4年になり夏休みに大学のゼミで合宿に行くと言うので交通費を渡しました。大学に確認したらゼミは行われていないことが判明(実はサークルの合宿でした)。大学院に向けての勉強中だったので受かってから、問いただし、これからは絶対に嘘をつくなときつく言いました。その後嘘をつくことはなくなりましたが。親鸞会では信心決定するためには嘘も必要悪だと言っているようですが、親子関係を損なうような嘘はやはりつくべきではないと思います。

息子に誘われて私も妻も何度か富山(報恩講)に行きました。最初のころは親を顕正しようと必死でしたが、我々親は報恩講よりも観光目的で行きますので、あきらめたようです。

大学4年、大学院3年の計7年間サークル(親鸞会)漬けだったわけです。司法試験の結果が出て、1日も早く就職してほしいと願っています。就職して社会に出れば親鸞会漬けとはいかなくなるので、信者のお布施で私腹を肥やしている高森会長率いる親鸞会を客観的に見ることが出来ると思うのですが。

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平気で嘘が言える
私の息子は現在、○○大学2年生です。大学は実家から遠いので、1年生の時からアパート生活をしています。息子は、大学1年の5月頃から、親鸞会の宗教活動に参加したと言っています。息子が宗教活動をしていることが分かったのは、大学1年の12月です。冬休み帰省した際、教義本とか、数珠とかを見つけ、息子に問いただしましたところ、親鸞会に入会したことを認めたのです。

12月に息子が帰省するまでに、様子がおかしいなと感じたことが何度かありました。以下のような点です

(1)中・高とずっとやり続け、自ら入部した運動部への興味が急激に薄れていった。
→11月、親にも告げず既に休部(実質上の退部)していた。

(2)夏休み、冬休み、いろいろ理由をつくって帰省期間を短くしようとしていた。
→部の合宿、友たちとスキーに行く、レポート提出がある等の理由をつけて、実は、富山に聴聞や合宿にいっていた。

(3)張り切って自炊生活を始めたのに、現地で調たちした方が安いから、米とか野菜とかは送らなくてもよいと言うようになってきた。
→親鸞会のメンバーと一緒に夕食を作り、食べていた。

(4)5月頃、息子が電話で「この前、夜食事をしながら、大学でなぜ勉強する必要があるのか、なぜ生きるのか、等について話し合うサークルに参加したけれど、とてもよかった。これからやってみようと思うが・・。」という相談があった。それは、宗教的なサークルの感じがするのでやめたほうがよいと話しました。すると、「そんな心配はないと思う。絶対そんな感じではないから。」と息子が言ったきたので、「いやそれは宗教サークルに間違いない。絶対近づいたらいけないよ。」と伝えました。息子は、「分かった。そうする。」と了解したことがあった。
→これが、親鸞会のスタートだったと思われる。「わかった。」と明るく応えたので、そんな会話をしたことさえもすっかり忘れていた。

(5)好きだったゲームに関心が薄れてきた。ゲームに夢中な友たちに対して軽蔑的な発言が聞かれるようになった
→酒を飲むこと、ゲーム等の娯楽をすることに対して、いけないことと教えられていると思われる。

(6)夜電話しても電源が切ってあり、つながらないことが多くなった。何をしていたと問いただすと、専攻の勉強として、講演を聞きに行っているという応えが返ってきた。
→22時30分ごろようやく電話がつながった。遅くまでの講演でおかしいと思っていたが・・。まさか嘘を言っているとは思わなかった。

(7)祖父母や親に贈り物をしてくる。
→親鸞会では、そのような教育がなされているらしい。ひとり暮らしを始め、家族への感謝の気持ちが育ってきたのかと嬉しく思っていたが、実はカモフラージュのための行為であると思われる。

大学1年の12月に帰省した時には、明らかに以前の息子とは違う息子に接し、「これは変だ」と家族誰もが感じました。特におかしいと感じたことは次の点です。

(8)いよいよ年末が迫って帰省したのに、帰ってくるなりいきなり、勉強があるから3日には大学に帰らなければならないと言ってきた。
→正月明けに富山での研修会があり、それに参加するためであった。

(9)家族団らんの時間をすぐに切り上げ、自分の部屋にすぐこもってしまう。
→教義などを憶えていた。その試験があるようで寸暇を惜しんで勉強していた。

(10)大学の先輩・友たち等から、変わった内容の年賀状が届いた。
→出会いを大切にしたい等書かれていた。

(11)家族にやたら気を遣い、食事の準備・後片付けなど、手伝いしようと言ってきた。
→ゲームもせずに、手伝いを進んでしよとしていた。家族としては、すごく嬉しかった。反面、どうして?思った。そのように教育されていると思われる。

(12)「なぜ生きるか」等の本を読むように私たち親に言ってきた。

(13)高校時代の友たちではない誰かと、メールで頻繁にやりとりをしている。 何か変だ!という思いから、(12)の本を手がかりにインターネットで調べ、親鸞会にたどり着きました。すぐに、息子の持ち物を調べたところ、数珠や教義本が出てきました。そこで、息子が、親鸞会の宗教活動をしていることを確信しました。

早速、息子に、親鸞会に入っているのではないかと問いただすと、あっさり認めました。そして、どのような経緯で入ったか等を訊ねました。それを聞き、息子に対して以下のように言いました。

宗教団体を名のらずに勧誘する親鸞会のやり方はとても受け入れられるものではない。社会において、このような詐欺的な勧誘をする宗教団体は決して認められない。
今後、お前(息子)が同じようなやり方で勧誘することになる。私は、社会に申し訳なくて、とても今の仕事を続けていくことはできない。宗教団体を名のらないで勧誘することに対して全く罪悪感をもたない宗教団体(親鸞会)を今後も続けていくのなら、私は仕事をやめざるを得ない。
その他、「寄付が多すぎること」「信心決定は非科学的であること」等の理由もあげ、脱会するよう説得しました。

私の話を聞き、息子は脱会すると言いました。冬休みが終わりに近づきました。○○大学に帰る前、息子は、涙を出しながら退会届を書き、内容証明にて富山の本部に送付しました。退会届には、今後一切、本人への勧誘はもちろん、電話・メール等も入れないよう書かせました。念のために、携帯もかえるように本人に話しました。息子は、「脱会届を出したら2度と入会はできないので、携帯は替える必要がない。」と言いました。しかし、携帯も変えさせました。

退会届を送付した後、急に元気がなくなりました。することがないと言うので、ゲームセンター等いろいろ誘うのですが、興味がないと言います。そして、いらいらします。やはり、まだ、親鸞会に未練があると思い、脱会者のやめた理由の文章を読むように言いました。しかし、「もうやめるから読まなくてもいいでしょう」といって全く読もうとしませんでした。

このような、心配な状況であったので、冬休みが終わり大学に帰る際、妻に同伴させ、10日間息子のアパートにいさせました。妻は、滞在期間の間に、親鸞会の関係のものは、すべて処分しました。

それから、2ヶ月後、春休みで息子が帰省しました。何となく、言動がおかしいと思っていたら(社交的で明るい言動・・息子は人前に出るのが苦手で口数も少ない方であった)、やはり続けていることが分かりました。彼のノートに、教義などが書かれているのを見つけたからです。大きなショックと疲労感が襲ってきました。

息子に、「親鸞会の活動を続けているんじゃない?」と問いただしましたら、「やってない」と強く否定しました。教義等が書かれた息子のノートを見せても、「それは脱会する前に書いたものだ。一切やっていない。」等認めようとしません。それで、事前に発見していた、教本、メール(親鸞会からの送られたもの)のことを追求すると、やっと認めました。妻が、息子のアパートから帰ってからすぐ、親鸞会の活動を始めたようです。親鸞会に入っている大学の同じ学部の同級生が、お風呂に入らせてくれとやってきたと言っていました。今から考えると、すべて計画的だったなと感じています。

わずか1ヶ月ばかりで再び宗教活動を再開した息子に対し「たったこの前、やめると約束したばかりじゃないか!」と怒鳴ろうと思いましたが、怒っても良い方向へ展開するとは思えなかったので、息子の言い分をまず聞くことにしました。約4時間近く話し合いをしました。しかし、本人の結論は「続けてやりたい。」でした。本人の言い分は以下の通りでした。

(1)親鸞会の教え(信心決定など)に懐疑的なところもある。

(2) (1)は入会している人、誰もが感じている。

(3) (1)の気持ちもあるが、やはり自分は人生の目的(親鸞会の教え)を求めていくことこそ大切だと思うので続けたい。

(4) (1)及びなぜ宗教団体を名のらずに勧誘するか等、自分では正しく応えられない。直接、親鸞会の研修会に参加してほしい。講師の先生に聞いてほしい。

(5)僕をやめさせるのであれば、きちんと親鸞会の研修会を受けてそれを基に判断してほしい。最低、5日間は研修会に参加してほしい。

私は、「脱会届を出し、やめると言ったお前(息子)を信じていた。しかし、また再度富山に研修に行ったりしているのを知り、とても残念だ。」「正々堂々と宗教団体を名のらず、勧誘したり、膨大な寄付を求める親鸞会は、とても世の中から受け入れられるものではない」等々、親の気持ちを伝えました。

一方、「私たち(妻と私)が、研修会に参加したら本当にやめるか」と問いただしました。息子は、「約束する」と言いました。私は、考えておこうと応えました。息子は嬉しそうでした。息子の表情が明るくなりました。大変複雑な気持ちになりました。お互いの言い分をぶつけると、傷つくばかり・・・。かといって、息子の気持ち(言い分)に寄り添えば、脱会に時間がかかる・・。

そうこうしているうちに、春休みも終わりに近づいてきました。変わらぬ息子の陽気さが私にはやはりしっくりいきません。

大学に帰る(新年度が始まる)までに、しっかり親の気持ちを伝えなければと思い、思い切って、息子に以下の(1)(2)のように言いました。

(1)お前が心配させるから、家族の誰もの状態がおかしくなってきた。鬱状態の時もあるくらいだ。お前が親鸞会を続けることで、家族に大きな迷惑をかけている。自分の問題だからほっといてほしいと思っているかもしれないが、お前が親鸞会を続けるということは、お前ひとりの問題ではなく、家族誰に影響を与えることだ。弟もとばっちりを受けとても悲しい思いをしている。そんな、家族の叫びがお前には届かないのか。

(2)繰り返し言うが、親としては、お前が親鸞会を続けることはとても耐えられないし、続けることを受け入れることはできない。12歳の○○教信者の少年が銃を持って自ら勇んで戦場に(自爆テロに)行く様子をテレビで見たことがあるが、親鸞会で活動しているお前の姿は、全くそれと同じ姿に見える。それが分かったらどんな親でも止める。それが親だ。

かなり強い口調で言いました。2度同じような事を繰り返して言いました。それを聞いて、息子は、家族に迷惑をかけるから、「もうやらない。部室には行かないから」と言いました。今度は心からそう思っていると確認しました(そのときの表情そうでした。しかし、1回目にやめるといったときも同じように真剣な表情でした・・)。息子は心からそう思っていると言いました(今回で2度目)。

その言葉を聞き、私は息子に、息子が今後親鸞会に近づけないような環境作り(親鸞会の講師や友たち・先輩への抗議)をすることを宣言しました。そして、息子に親鸞会に入っている同級生に電話をさせ、「息子に親鸞会の話を絶対しないようにしてほしい」と同級生に抗議しました。同級生は了解しました。(親の連絡先を教えてほしいと言いましたが、それは断られました。)また、再度、電話番号も替えさせました。

大学に帰る日、今回も妻に同伴させました。そして、講師に合い、今後活動に誘わないように言いました。講師は、「誘うことはしないけれど、息子さんがお願いしますと言ってきた場合は、断れない。」と言ったようです。妻はそれに反論しなかったようです。

それから、1ヶ月が経ちました。妻は息子のアパートを行ったりきたりしています。妻の前では、今のところ活動している気配はないようです。しかし、大学の同じクラスに親鸞会の同級生がおり、よく話や連絡をとりあっています。また、誰かよく分かりませんが、メールが頻繁にきます。履歴をこまめに削除しているので誰か分かりません。

当然、親鸞会とは全く関係ないと息子は言います。現在、確証は得ていませんが、雰囲気として、続けているような感じです。私と妻は、「息子の言うことを信じる」という姿勢で接してきました。しかし、これまで、何度も裏切られてきています。また、息子は、この親鸞会の活動のことについては、平気で嘘が言えるようになってきています。

大学の入学前、大学の近くに息子のアパート探しに行きました。その時の息子の「よし、頑張るぞ」「でも、少し不安」といった表情が忘れられません。それから、1年が経ちました。様子が変わってしまった息子を見るに付け、「1年前の息子に返してほしい」「いや、頑張ってなんとか本来の息子にしていかなければ」という気持ちでいます。

今、息子に、絶えず指示を与え、また、息子から情報を報告させている人物の確かな気配を感じています。しかし、これに屈することなく息子が完全に縁を切ることができるまで、とことん抗議し続けていきます。

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一日も早く助け出したい
息子は、大学4年生です。

一年生の入学手続きの日に、駅前で勧誘されて以来活動を続けています。「今やっているのは、あくまでサークル活動であり、4年で終わるものだ」「生きるとは何かを考えているだけだ」と言う息子の言葉を信じ、深く考えずもせずただ時間だけが過ぎました。

大学2年生の7月、大学の保護者会がありまして、学部の教授に相談いたしました。本人を呼び出して「1つの事ばかりでは、偏った考えになるから色々世間を見るように・・・等」真剣に言っていただきましたが・・・

3年生になり益々のめりこんでいる様で、毎日、判で押したように、朝7時に出て行き、夜9時に帰ってくる。時間を惜しんでは部室に行く。

そして、金曜日になると、普段どうりに学校に出て行くふりをして、メールで「今日は帰りません!富山に行ってきます」と伝えてくる様になりました。

9月には、親鸞会の仲間と、集団で免許を富山方面に取りに行き、親戚の訃報を入れたにも関わらず、連絡すらよこさず途中で帰ってくる事もありませんでした。

もうこのまま帰って来ないのではないかと、怒りと不安とで、本当にこちらがおかしくなっていく日々でした。

もうこれ以上のめりこませてはだめだ、穏やかに話しをしていているだけではらちが開かない、怒鳴りつけたり諭したりしましたが、何を言っても聞き入れてくれません・・・最後には顔つきも変わって来ました。

本人は泣き出し、「勉強をがんばるから・・・」「サークルの事は再考するから・・・」と下を向いたまま(仕方が無く)返事を返してきました。自分の殻にこもり以前にもましてサークルのことに就いては一切言わなくなりました。全ての行動に平然と嘘をつくようになりました。

そんな中、4年生になり、同じ親鸞会サークルに入っている保護者の方からお電話を頂き、何とかしなければいけないと改めて認識しました。そして、大学主催の西田先生(静岡県立大学准教授)の講演会に本人を参加させました。

その中でも、親鸞会はカルトだと言っていても「自分の大学のサークルだけは違う」と、言い張りました。

それまで、時間を掛けて向き合う事をこちらも避けていたように思いました。大学の先生に声を掛けていただき、自分では到底お話をできないようなカルト問題の専門家の方とお話をさせていただきした。

そして、親鸞会の部室(サークルの部室)に夫婦で行き専任講師とも話しをしました。本人の異常とも思える日常生活を訴えました。親が反対している事は十分、分かっていると、言っていました。

一日も早く助け出したいと強く思う一方、落ち込む日々が続いています。

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親鸞会からの不誠実な回答
娘は大学2年生頃(平成14年)から親鸞会のサークル活動をはじめた模様で、親鸞会の活動を始めてからは足繁く富山の本部に通っていたようです。3年生(平成15年)10月までは●●市に住んでいましたが、平成15年10月からは●●大学近くのアパートに引越しました。

アパ−トの近くのマンションに親鸞会サークル室があり、私自身も娘に勧められて2回聴講しましたが、なにか異様な雰囲気を感じました。2回目のときは、会長の講演のビデオを見たのですが、蓮如の言葉として「信仰第一で仕事の合間の信仰ではだめだ」を強調しており、これは危険な教えだとおもいました。

平成16年の4月頃(4年生)から講師養成の学校に入りたいといい始めましたが、この段階では、変なことを言っているという程度の認識でした。それでもずっといっているので、平成16年10月の上旬に親鸞会のH田講師に電話し、信仰をもつことはいいけれど、あの子は宗教家になる素質はないから、親としては反対ですというと、H田講師は親御さんがそういうことでしたらと答えていました。

10月終わり頃、たまたま反親鸞会のサイトを見つけ、読んでみると娘の状況とまったく同じようなケースがあり、(講師になりたいと言い出すのはそれほど多くないようですが)親が困っていることを知り、事態の深刻さに初めて気づきました。それで猛反対を始めました。

最初、向こうは親の印鑑がいるといっていましたので、安心していたのですが、12月21日に本人が実家へ来たとき、ビデオ講師なら親の印鑑はいらないといい始め、止めるのは絶望的な雰囲気になりました。

大学院入試受験のため、平成17年2月2日実家に来ました。これも本人は散々渋ったのですが、卒論指導の先生に説得されて、なんとか来ました。入試の後、実家で2泊し、家族旅行で1泊した後、●●にもどりました。その後、卒業発表の直前であるにもかかわらず、2月下旬に実家の近くで行われる聴聞会に参加するために実家にやってきました。そのときは親鸞会の幹部と一緒に来たようです。聴聞会に出るように頼まれましたが、断りました。この聴聞会はネット上では親鸞会の行事として掲載されていましたが、奇妙なことに宣伝ビラには親鸞会のことはまったく書いてありません。

なんとか卒業論文も終わり、再試験にも合格し、卒業はできましたが、卒業後も●●大学の近くに住みたいと言い張りました。しかし、私が保証人にならないと部屋が借りられないことがわかり、渋々●●に住むことはあきらめました。

家内と私は3月中旬に●●市に行き、引越しの手伝いをし、家内には、しばらく●●市に留まってもらいました。3月下旬から就職活動を始め、4月中旬頃に小さな会社ではありますが、正社員として就職してくれました。親鸞会の活動もしている様子ですが、取りあえず正社員として就職してくれたので一安心していました。

親鸞会とのやりとりの記録
平成17年2月15日 親御さん⇒親鸞会(本部)[内容証明]

平成17年2月22日 親鸞会(本部)⇒親御さん[普通郵便]

平成18年3月 6日 親御さん⇒親鸞会(本部)[内容証明]

平成18年3月 8日 親御さん⇒親鸞会(顕真学院)[電話] 応対した者が『学院規定を送る』との回答。

平成18年3月13日 親御さん⇒親鸞会(顕真学院)[電話数回]⇒学院は電話を取らず

平成18年3月13日 親御さん⇒親鸞会(本部)[内容証明]

平成18年3月16日 親鸞会(Y村総務局長)⇒親御さん[普通郵便]の差出

平成18年3月23日 親御さん⇒親鸞会(Y村総務局長)[内容証明]

平成18年3月29日 親鸞会(Y村総務局長)⇒親御さん[普通郵便]

http://higai-kazoku.news.coocan.jp/victim/voice6.html


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現役会員の方へ 1

はじめに

親鸞会会員のご家族、脱会者、現会員など、親鸞会に関わる問題で苦悩しておられる方々を援助する目的で「親鸞会被害の会」は運営されています。
そして、「親鸞会被害の会」の主体であり構成員であるところの、現会員のご家族の方々はもちろんのこと、私を含む賛助会員の方々は、各々が多種多様な価値観・人生観をもっており、お互いに各自の価値観を尊重しあっております。

その関わり方は十人十色であり、親鸞会に対してはさまざまな視点からの、種々の思いを抱いておられることと思います。

さて、私は「親鸞会被害の会」の一賛助会員に過ぎず、「本願寺座り込み世代」の古い元会員であり、親鸞会を脱会してから馬齢を重ねて久しい身です。

担当者から依頼があったときは、親鸞会の現状について必ずしも詳しく存じているとはいえず、リアルな現会員のご要望にどれだけ答えられるか自信が無いということで、お断りするつもりでした。それでも是非とも、といわれましたので、親鸞会経験を踏まえつつ、主として現役会員の方へ向けたメッセージということで述べさせていただきました。

まず総論として私の経験を踏まえてお話をし、次にいくつかの親鸞会問題のキーワードに対する個人的な意見を各論として述べたいと思います。

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総論1 私の親鸞会体験

このサイトをご覧になっているかたは現在親鸞会に所属し、講師や幹部として熱心に活動をしておられるかたもいらっしゃるでしょうし、学生で、活動内容や教義や組織などに現在疑問を感じておられるかたもいらっしゃる方もおられるかもしれません。

また、入会したばかりの方もおられれば、ひょっとして脱会されたばかりのかた、脱会後何年(何十年?)も経過した方で、たまたま「親鸞会」をキーワードにネット検索された結果、ここのサイトにたどり着かれた方もおられるかもしれません。

私にとって、親鸞会体験は、私の(死語になっているかもしれませんが)「青春」そのものであり、会員、脱会員を問わず、「同じ釜の飯を食べた同志」のような懐かしさを感じますし、親鸞会の動向はとても気になります。

しかし、私のようには感じず、親鸞会の体験が忌避すべき体験であり、思い出したくもない、とか、親鸞会と聞いただけでフラッシュバックして気分を害する脱会者もいらっしゃるともきいております。また、逆に、脱会しても親鸞会にいつまでもシンパシーを感じられるようなかたもいらっしゃるのかもしれません。

SF的な話で恐縮ですが、タイムマシンに乗って私自身が過去へ旅し、「親鸞会会員時代の私」に遭遇したとします。そして過去の私に向かって、親鸞会にはかくかくしかじか、組織にも教義にも、こういう問題点があるのではないか、お前はどう考えるのだ、と訴えたとします。

かつて私は、人よりも早く絶対の幸福になれるに違いない、と今から思えば根拠無く信じ、聴聞と破邪顕正に情熱を燃やし、勧誘成績においては抜きん出た実績を上げたこともあった、いわゆる「バリ会員」(=熱心でバリバリの会員ということ)でありました。このような私が果たして未来からやってきた私自身のいう忠告に素直に耳を傾けるのでしょうか? 私はそのようには思いません。

「これはきっと帝釈天が私の未来の姿に化けて私の求道心を試しているに違いない。真剣に求道していれば、群賊、悪獣、悪知識がどんどん現れてきて、行者の求道心を試すというではないか。破人に対しては断じて聞く耳をもってはいけない。これは真実信心を獲るための試練に違いない。むしろ、自分の求道の勝縁だと思わなくてはならない。かの求法太子も、過去において、欲と怒りと愚痴のためには無限に生死を繰り返してきたが、真実のために命を落としたことは一度も無かった、といっているではないか。今生にめぐり逢えた真実のために死ぬ千載一遇のチャンスを無駄にしてはならない。」

と思い込み、頑なにきく耳を閉ざしてしまうのかもしれません。

幹部合宿などでは、「自分以外の全員が会を辞めたとしても、私一人だけは高森会長についていき、最後まで求めぬきます。」という勇ましい決意表明が叫ばれるのを何度も耳にし、私もその決意声明をきいて心が奮い立たされ、求道への決意を新たにしたものでした。そのように感情が高ぶった決意が持続しているなかでは、たとえ会の方針や教義に対して何らかの問題点を感じていたとしても、批判を聞く耳をもつはずがなく、以下のようなことを考えるのです。

上司のやり方や組織の方針に対して不平不満を感じるのは、自分の信仰が未熟で求道心が足りないからだ。もっと頑張らなくては。
善知識をおろそかに思うものも、上司を批判することも、真実を唯一伝えている有難い会を批判することも、法を謗る大悪人の心である。
こんな心に打ち勝って光にむかって進ませていただかなくてはならない。
会を抜けたとして無明の闇を晴らす術はない。
後生の一大事は全人類に等しく襲い掛かってくるのだ。
無常は迅速だ。
地獄に入って長苦を受けるとき、はじめて人中の善知識を憶うと善導大師もおっしゃっているではないか。
親鸞会以外に真実を叫ばれる善知識はどこにいるというのだ?
腐敗した本願寺は葬式法事を生業とし、親鸞会のように熱心に布教していない。
それは真実の体験が無いからである。
大善知識の高森先生のほかに体験と教学を兼ね備え、命がけで獅子吼してこられた善知識が他にいるわけがない。
教学聖典6の(1)には、「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも開山の召され候ように御沙汰候」と仰せられ候。(御一代記聞書)
(2)には、善智識の仰なりとも「成るまじき」なんど思うは大なる浅間しき事なり。然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも「畏まりたる」と申すべく候。(御一代記聞書)とある。
善知識に、そして真実が伝えられている組織に無条件服従できないものが、無上仏に無条件信順できる道理がない。
組織に無条件信順できる者を信仰が進んだものというのだ。
相対の幸福などみな空しいではないか。
続かなくてきりがない。
死がきたらすべて崩れるのだ。
絶対の幸福以外に人生の目的はありえない。
阿弥陀仏を信ずれば総ての願いはかなえられるのだ、と一日一訓カレンダーにもあるではないか。
相対の幸福に惑わされてはならない。
脱会者はどう言い訳しようが、所詮は聞法の敗残者だ。
脱会するということは、高森先生の大恩を裏切る行為だ。
恩を感じないものは犬畜生に劣るというではないか。
人生の目的を中途で放棄するものは人間失格であり敗残者だ。
私は敗残者にはなりたくない。
遇いがたい仏法に遇えて、ききがたい仏法をいまきかせていただいているのに、中途で会を辞めることは、あたかも宝の山に入ったにもかかわらず、中途でそれを放棄するようなものだと蓮如上人もおっしゃっているではないか。

など、今から思いますと現役会員においては、幾重にも脱会回避装置ともいえるような心理的装置が機能しているように思います。


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総論2 理想と現実

このひとつひとつの心理的装置について、各々自分の頭で考え、とことん調べて、納得のいくまで検証してみる作業を行うことは現役会員の皆さんにとって非常に重要なことであると思っております。

会に長くいればいるだけ、衆生縁が強まっていきますし、親鸞会が人生の中心軸になります。
そして、その世界の外に出ることに対して不安を覚えるようになってきます。
しかし、一方で学生会員は卒業や就職を機に会から離れるケースもよく耳にしましたし、大学の部長を経験したような、熱心で人望もあり、活動的な先輩が企業に就職したとたんに親鸞会との縁が遠のいた、というケースも実際に時々経験しました。

親鸞会の立場から言えば、悪縁や怠け心に負けて、あるいは仏教をぜんぜんわかっていなかったから人生の目的を放棄した、ということになるのかもしれませんが、別の見方から言えば、親鸞会以外の世界を経験することを通じて視野が広まり、マクロな発想ができるようになったことの結果ともいえるのかもしれません。

親鸞会に入会したとき、青臭い理想に燃えていた私に対して先輩が次のように話しました。

「人間の社会においては自由と平等は必ず矛盾する宿命にある。自由な社会の代表はアメリカ式資本主義方式であるが拝金主義的であり、しかも平等な世界にはならない。平等な社会の代表は共産主義であるが、知っての通り、自由がない。しかし、浄土真宗で教えられる絶対の幸福の世界は、無碍の一道という自由、そして御同朋、御同行という一味平等の世界に出られ、文字通り理想的な世界が達成されるのだ。」

これを聞いた私は、真実というものはこの世にひとつしかないのであって、真実であるがゆえに、どんな角度からアプローチしてもその一端を示すのだ、と思い、感銘を受けました。

しかし、実際に入会してみたところ、無碍の一道に出た学生会員はきわめて稀である、あるいはいないことが次第に判明し、やがて合宿などを通し、求道とは「一生参学の大事」であるということが強調されていきました。

そして親鸞会の組織は、一味平等どころか、当時は「上司の指示は善知識の指示と心得よ」のように上下関係がきわめて厳しく、上隊長、分隊長、司令局長など、あたかも戦時中の軍隊組織を模倣したかのような、無条件服従を是とするような不平等なものでした。

実際、「顕正戦」「○○作戦」などのように軍隊を連想させるような作戦名でしたし、
金銭出納帳簿をつけて上司に提出することを義務付けられ、
大学のクラスの行事に参加することですら「世間ごとと人生の目的達成のための活動のどちらが重要なのだ?」と先輩に難詰されるような自由がない組織だったのでした。

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悲しいことに、あるメジャーな社会的装置を逃れて、別のマイナーな社会的装置にはまって得られるものは、逃れようとしたものをさらにグロテスクに変形した模倣品でしかない。資本家の搾取と支配を逃れて創設されたはずの社会主義国家で行われたのは、テクノクラートによる、より過酷な支配と搾取であったし、天皇制に反対している日本共産党の内実は、天皇制と同型の、党の支配者への批判を許さないタブーシステムであるとかいった事例は、枚挙に暇がない。

それはカルトやオカルト集団であっても同じである。組織というのはどんなものであれ、その時代の最もメジャーな組織から、組織運営のノウハウを無意識のうちに盗んでいるのである。・・(中略)・・科学のコントロールから逃れ、管理社会のコントロールから逃れて実現したはずの「かけがいのない私」が、実はさらなるコントロールの下にあったことは明らかである。(「科学とオカルト」池田清彦p181−182)

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私の在籍したころの親鸞会では「引き離し対策」といって、新入生同士が交流して会に批判的な情報を共有するのを防ぐために毎晩先輩によるいわゆる「下宿回り」が実施されたり、自宅生に対しては、「自分が真実をまだよくわかっていないうちに話すとかならず誤解を招くから」などといって、新入生の両親にサークルのこと話さないように指導がなされていました。また、最近では、ネットの親鸞会批判記事を会員は読まないように、という会からの指示も出ているとの風聞があります。

これらは、外部からの情報遮断、あるいは「情報統制」がされているということができます。
親鸞会が破壊的カルトかどうかについての議論はさておいて、この原理はいわゆる破壊的カルトにおいてもなされている手法であることが知られています。

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破壊的カルトでのマインドコントロールでは操作者はメンバーに届けられる外部からの情報を遮断する。
メンバーは自分のビリーフを誤りと証明する情報の獲得機会が減少し、逆に正しいことを証明する情報の獲得機会が増大する。

それに加えて、その情報は常に集団メンバーによる多数の合意性や上司ないし教祖の権威性によって強化され、ビリーフはより強固なものになろう。

(「マインドコントロールとは何か」西田公昭著p178)

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マインドコントロール理論によれば、このような外部からの情報遮断システムは「外敵回避」と呼ばれます。
(「『信じるこころ』の科学―マインドコントロールとビリーフ・システムの社会心理学」西田公昭著p156)

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総論3 脱会と喪失

私が脱会したあとの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

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自分からやめたり放り出されたりした人々が救出カウンセリングを受けられない場合には、彼らの苦しみは長引くのが普通である。
それでも多くの人々は、家族や友人たちの助けで、なんとか断片をつなぎ合わせ、前向きの生活へと向かっていく。
しかし、この人たちも、もしマインドコントロールのことと、それがカルトの勧誘や教え込みにどう利用されているかを納得できないと、納得できた場合のような充実した人生は決して過ごせない。
納得できないままの人でも、カルトの体験を一時棚上げにして、忘れてしまうかもしれない。
だがそれは、あるとき突然、その人の生活の中へ逆噴射してくることがある。
(スティーブン・ハッサン「マインドコントロールの恐怖」p307)

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私の場合、若気の至りで頑張りすぎて、精神的なエネルギーを過度に消費し、その反動でいわゆる「燃え尽き症候群」のような状態で無気力状態に陥ってしまっていました。

当時の心境はあまり思い出せないのですが、おそらくはノイローゼ(神経症)的な状態になっていたのでしょう。
そのなかでも私は、一生懸命に親鸞会のいうように求めていたら誰でもノイローゼになるに違いない。
ノイローゼにならないのは真剣に求めていない証拠だ、と開き直り、自己正当化するのを忘れていませんでした。
先輩は精神科か心療内科に行って薬をもらって飲めばだいぶ楽になる、といってくれましたが、そういう先輩はこの道を真面目に求めていないのだ、と思い、いうことをききませんでした。

当時、この講師や先輩は素晴らしい、と思って尊敬していた方が相次いで除名処分を受けたりあるいは脱会したと聞いてショックを受けたこともありましたし、あるいは逆に、尊敬していた先輩が実は自分よりも求道が進んでいないのではないかと思われるレベルで悩んでいることを知って幻滅していたこともありました。

私は活動を休み、勉学も中断して大学の講義にほとんど出なくなっていた間に脱会しました。
講義にあまりにも出てこないので、数少ないクラスの友人が心配して下宿まで訪ねてきてくれたときはとても嬉しかったものです。
やがてクラスの友人たちの協力もあって、ゆっくりとしたペースでしたが勉学に復帰することができました。
当時の私の同級生の間では、「彼はこのまま大学を退学するであろう」というように噂になっていた、と耳にしたのはずいぶん後になってからでした。

当時、両親は活動に表立って反対はしませんでしたし、かつては私の求めに応じて高森会長の聴聞にも参詣したこともありました。
しかし、脱会時の両親の動きは非常に迅速なものでした。
脱会する決意を語ったとたんに私に実家で休養する事を勧め、その間、私が知らないうちに下宿の親鸞会関係の書籍や資料はほとんど処分されてしまっていたのでした。
おそらくは教えを私が読んで再び会に舞い戻っていくのを予防したつもりであったのでしょう。

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カルトからの離脱のきっかけをつくるのは、

疲労、倦怠、あるいは
受け入れがたい事実を発見しての反抗
新メンバー獲得のために接触した外部の異性との恋愛関係など

が考えられる。
また
個人の嗜好がどうしてもグループの原則と相容れなかった場合もある。

そんなときには、突如として、外部の世界に目がひらかれて、グループからの離脱を決心することがある。
しかし、すべてが簡単に過去のものになるわけではない。
・・(中略)・・
長い間拘置されていた人が、「娑婆に戻る」時の難しさ」と同じものがある。
「自由に生きる」のを学びなおすのは、長く苦しい道程なのだ。
中にはその現実に耐えかねてグループに復帰する場合さえある。
家族や支援団体は、絆を断たずに辛抱強く見守る必要があるだろう。

(「カルトか宗教か」竹内節子著p111)

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脱会後、目的を喪失していた私は、やはり「死」に対する不安というものがありました。
しかし気力が湧いてこず、無気力な状態が長く続きました。
公立図書館に行って仏教書や啓蒙書を開いたこともありましたが長続きしませんでした。
あるいは、脱会後間もないとき、会員に近づいて接触したこともありましたし、高森会長の聴聞に誘われたこともあります。

そのときは大学の卒業試験勉強があったので参詣を断りましたがそういう切羽詰った理由がなければ再び会に戻っていたのかも知れません。
(実際、後には誰にも誘われず、ポスターを見て自発的に高森会長の聴聞に参詣したこともありました。)

しかし、当時の担当講師の態度が自分のノルマ達成しか頭に無いように思え、内部事情を知っている私としてはその姿勢が気に入らず、それっきりになってしまいました。

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現役会員の方へ 5

総論4 フラッシュバック

やがて大学を卒業して社会に出てからは「死」についてあれこれ考えなくても毎日を平穏に生きていけることを実感していきました。
親鸞会で学んだことが役立ったのか職場においては予想外の信頼が得られ、仕事も楽しく、当時の生活は順風満帆といってよいほどのものでした。
しかし、やがて仕事で海外生活を送っていたときに、私の場合もハッサン氏がいうようにやはり「逆噴射」し、親鸞会体験がフラッシュバックしてきました。

海外生活を一人で送る中、自分を改めて見直し、死や無明について再び考え直しはじめ、親鸞会の話をまたききたいと思うようになってきたのです。
それは、ちょうど親鸞会のダミー会社らしき出版社が「100の花束シリーズ」や「なぜ生きる」などを出したころのことでした。

当時、行き過ぎた西洋物質主義への批判から東洋文明への期待する空気がありました。
物理学者にしてニューエイジ思想の旗手として一世を風靡していたフリッチョフ・カプラによるベストセラーにもなった『タオ自然学』なども興味深く読みましたが、そのなかにはこのような記述があります。

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「科学に神秘思想はいらないし、神秘思想に科学はいらない。
だが、人間には両方必要なのだ」

「あらゆる物質は巨大なコズミック・コンシャスネス(宇宙意識)の一部であり、われわれは宇宙と一体である。」

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また、量子力学の権威であったデビット・ボームの『全体性と内臓秩序』にもこのような記述があります。

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「この宇宙は二重構造になっており、我々がよく知っている物質的な宇宙の背後に、もう一つの目に見えない宇宙が存在する。」

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当時の私は、彼らのようなニューサイエンスと呼ばれている東洋神秘主義の影響を受けた思想がひょっとして行き詰った西洋文明を打破するパラダイム変換の起爆剤になりうるのではないか、と考えていました。
そのような発想は、オウム事件で有名な科学者や医者出身の高学歴の被告たちも持っていたことが伝えられています。

そして、ちょうど私が脱会して少したったころ、「最終解脱者 麻原彰晃尊師に学ぶ会」という怪しげなチラシが下宿に入っていたのを覚えています。
ひょっとして、親鸞会体験がなければ私も軽い気持ちからヨガを始め、いつのまにかオウムにはまってしまい、下手をすればサリン事件のテロ実行犯になっていたのかもしれません。
それは恐ろしいことです。

「生命学」という独自の学問を提唱する森岡正博氏も私のような恐怖を感じており、次のように語っています。

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オウム真理教事件に直面して、殺された村井秀夫は私だ!と思ってしまって、とうとう本を1冊書いてしまった。
私の20代の自叙伝です。
瞑想や気功にはまって、自分で自分に目隠しをしていたあの時代。
私もまたオウムでした。
みずからの暴力性にようやく気づき、科学でも宗教でもない第3の道を模索していくしかないと決意した書物。

(『宗教なき時代を生きるために』作者による紹介 森岡正博著)

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オウム事件の後遺症でわが国ではカルト恐怖症や宗教アレルギーが蔓延・悪化して現在にいたっているように思います。
昨今は理系離れが進んでいるといわれて久しいですが、オウム事件以前は、二度の世界大戦を経て、ギリシャ・ローマに端を発し、キリスト教の影響を色濃く受けた欧米流の科学万能信仰に対する何ともいえない閉塞感や不安感が流布していたのはまぎれもない事実であり、それゆえオウムの教祖は科学者の卵たちを次々とひきつけていったのでしょう。

親鸞会においても昭和50−60年代から高学歴の人々が会に吸い寄せられ、熱心な会員になり、少なからぬ人数の若者たちが学業を放棄して親鸞会専属の布教使への道を選択していった背景にもこのような流れがあったこととは無関係ではないと考えています。

脱会後も、私は、真理というものは唯一で絶対であり、因果の道理、浄土真宗の救済思想こそが大宇宙の普遍の真理であると相変わらず疑っていませんでした。
そして、浄土真宗が宇宙の真理だとすれば、科学はかならず真理を補強・支持・証明していくはずだ、というように考えました。

実際、図書館において仏教、とりわけ浄土真宗が現代科学を包括するという趣旨の『科学を包む仏教』(野舜爾著、大蔵出版、絶版)という書物を見つけたとき、自分の考えはかならずしもオリジナリティがなかったと知ってショックを受けたくらいでした。
しかし、今から思いますと浄土真宗の家に生まれた科学者が、いかにも思いつきそうな発想ではあるように感じます。

私は『科学は仏教思想、特に真宗を支持・補強する』という視点から本を著し、仏教、そしてとりわけ浄土真宗を世に広めることはできないだろうか、と考えるようになりました。

その企ての中で、次第に真宗教義、親鸞会教義、科学の成り立ちや起源、科学の限界について調べ検証する作業をすることになっていったわけですが、この作業でつくづく知らされたことは、多少は教学に自信があった私でしたが、いかに自分が仏教という学問を体系的に知らないか、ということでした。
これではいけないと思い、図書館に通い、インターネットも利用して本格的に調べはじめたわけです。

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総論5 マインド・コントロール理論

それから私が現役時代には知らなかった親鸞会の歴史、教義についてのさまざまな見方、高森会長の過去や華光会とのかかわりなど、多くを知ることができたのはネットの世界を知ってしばらくのときでした。

現在は更に親鸞会に関するサイトが充実してきており、ネット時代の恩恵で瞬時にして多くの情報を手に入れることができますが、以前は親鸞会を知ることができるサイトはごく限られていました。

特に多くを学ぶことができたのは当時において教義論争が盛んだった「ジャンヌ」というサイト、本サイトの先駆的な存在でありノンセクト氏が開設した「家族の絆」、「十派一絡」というサイト、某巨大掲示板とその過去ログ情報(玉石混交ではありましたが)でした。
(残念ながら、decult氏の「ハトの会」というサイトは親鸞会による圧力で閉鎖された後でしたが、かろうじていくつかの有益な情報を知ることができました)。

そして、いわゆるマインドコントロール理論が親鸞会の勧誘・育成方式においてきわめて巧妙に応用されていることを知ったのは、実は比較的最近のことでした。
おそらくは親鸞会ではこの理論を意図的に応用したのではなく、勧誘人数を増やし、絶対の幸福を求めさせて親鸞会に入会させるための試行錯誤の結果、偶然にもマインドコントロール理論と合致した方式をとっていった、というのが真相ではないかと思っています。

実際にマインドコントロール関係の書物を読めば読むほど、自分の経験に照らし合わせた場合にあまりに的中していることが多く、驚くほどでした。
特に西田公昭氏、櫻井義秀氏、スティーブン・ハッサン氏、竹内節子氏の著書が私には大いに参考になりましたし現役の皆さま方にも参考になると思います。
そうした著書には脱会後、どのように苦境を乗り越えていけばいいのか、ということについても教えられています。

私が勧誘された当初、「人生は苦なり」とか、「苦しみの新しいものを楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみという」とか「四方八方 眺むれど ただ愁嘆の声のみぞ聞く」「花の命は短くて苦しきことのも多かりき」など、人生におけるポジティブな面はすべてマスクされて、人生の暗い面だけが大いに強調されました。
また、臨死体験において「光のトンネル体験」などの「光に包まれる至福の体験」が起こる場合があるなどは最近の研究でも良く知られていますが、こういう点にはまったく目を向けられず、臨終に苦しんだ有名例ばかりを殊更に強調します。

一例をあげますと、浄土真宗親鸞会の協力のもと、"ゆず"氏が作成されたという「名句名言のウラ側は」というサイトにおいて、ゲーテの臨終についての記述があり、

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晩年、病に伏して、 死神がわたしを取り囲んで部屋のすみずみに立っている と漏らす。
極度に死を恐れ、部屋が暗くなるのも怖がった。
ああ暗い。光が欲しい、光が欲しい
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と記しています。
(このサイトは、実は親鸞会弘宣部が作成したものであることが分かっております。)
その信憑性に対する疑義については被害家族掲示板過去ログの記事[1566]に既に述べられていますので詳細の説明は割愛しますが、必ずしも会員さんが会において指導されて信じ込んでいる通りの情報が正しいとは限らないことを強調しておきたいと思います。

現役会員さんもあまり時間はとれないと思いますが、こういう例についても無批判に信じることなしに、自分で調べてみて吟味する癖をつけられることをお勧めします。
それこそ釈尊の説かれる「自灯明、法灯明」の精神に則っているのではないでしょうか。

このように、物事にはほとんど常に裏表の側面があるのに、片方のみを例示し強調することによって相手を説得する手法は親鸞会の布教において特徴的なことと思われますが、他の団体でも同様の手法は用いられているようです。
新入生の勧誘時に、「人生の目的」について徹底的にその必要性と重要性を強調して叩き込んだ後、次の段階として相対の幸福ではダメで、絶対の幸福を求めるべきことを話します。

このときに相対の幸福を否定する際も、心理学で「ヒューリスティック」といわれる手法が用いられているように思います。
ヒューリスティックとは、情報処理・判断において、しらみつぶしにやっていく確実な方法をとらずに、代表的なサンプルを抽出し、そのサンプルを代表選手にして判断する方法をいいます。

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破壊的カルトの場合は、このヒューリスティックを、被勧誘者の不安や恐怖を先導するのによく利用している。
彼らは、勧誘する際の本題に入る前に、死、破産、離婚、不倫、などの個人的な不幸や、貧困、経済不況、飢饉、環境破壊、戦争、大天災などの現代社会の悲惨な点だけに注目して、被勧誘者に集中的に提示する。

(「マインドコントロールとは何か」西田公昭著 p90)

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さて、親鸞会は果たしてマインドコントロールを行っているか、否か?という疑問ですが、

● 繰り返し教義学習の反復の要求によるビリーフ・システムの強化

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参考 ビリーフ・システム

人はそれぞれのビリーフ(信念)を成長過程で獲得します。
このビリーフとは絶対的なものではなく、変化しうるものです。
ただの信念とはただの「思い込み」なのです。

あるひとつの信念を身に付けると、それはシステムにより強化されるように働きます
自分の信念に沿ってバイアスがかかり、信念に沿った認知しかしなくなるからです。

例えば「私はサッカーが嫌いである」という信念を持っていたとしましょう。
そうすると、サッカーの悪いところや他のスポーツの良いところばかりを認知するようになります。

「お金は一番大切である」でも「私はバカである」でも同じです。

もし、「私はバカである」と思っている人がいたとして、その人が「私は天才である」と思おうとしても、そこには不協和が生じ、受け入れられません。
これは他者に言われても自分が自身にかけた言葉でも同じです。
「私はバカである」と思っている人に「バカだよね」というと、脳は不協和が生じずに落ち着きます。

こうやってシステム化されたビリーフはさらに確信へと変化します。
このシステムにいる間は、自分の考えはあまりにも当たり前すぎて自分の思い込みには気づけません。
なので、パターン化され、いつまでも循環することになるのです。

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● プライミング情報を与える(ネットを利用した情報操作と誘導、「東西本願寺などはただ念仏さえ称えておれば死んだらお助けだと教えており、十劫安心という異安心を教える教団だ」と決め付けるなど)

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参考 人は、先に得た情報に無意識のうちに引っ張られた行動をとります。この心理作用を「プライミング効果」と呼びます。
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● 財施時に学生に「本光坊了顕の血染めの恩徳讃」という殉教者のビデオを見せて、「ゆがんだ情報処理」による判断の歪曲をはかる、

● 脱会者を呼び捨てし、貶すことによる「離脱の恐怖」によるビリーフの強化・維持(ハッサンによれば「思考停止の技術」)

● 信賞必罰システムによる行動の管理、「厳しい行動の連続とエスカレーション」(※エスカレーション. 段階的に拡大していくこと、度合を激しくすること。) 

● 異性感情の抑制、肉体疲労、切迫感(「仏教に明日はない、急げ急げ)など)

など枚挙に暇がありません。

さらに、

● 「仏教は行学、いまはわからなくてもやっているうちにわかってくる」という教え方も、自己知覚理論の応用で説明されます。

参考 自己知覚理論 人は通常、他者の行動からその人の態度や性格を推論するが、自己ついても同様に、行動やその状況といった外部的な手がかりから自己の内的状態を推論することがある。街で道に迷って困っている人を助けた自分について、改めて「私は人に親切なところがある」と思うなどがこれにあたる。

以上から明らかなように、私は「親鸞会はマインドコントロールを行っている」と答えます。

さらに、親鸞会は破壊的カルトであるかどうか、それは皆さん方が上記で紹介してきた書物などを実際に読み、自分の頭で考えていただき、各自検証していただきたいと思います。

現役会員の方へ特に要望することを以下にまとめておきました。

親鸞会においてはじめて勧誘され、現在自身がもっている信念を形成するまでの過程を上記の参考書などを読みながら、じっくりと冷静に振り返ってみてください。
親鸞会での信念形成において、結果的なのか意図的なのか、心理学でいうマインドコントロール理論が応用された説得が行われていると私は思います。
「親鸞会の人はテープレコーダーのようだ」というのはよくある批判です。
いつも受動的に鵜呑みにするのではなく、自分の頭で消化し、よく考える習慣をつけることが重要です。

脱会すると地獄に沈んで人生の落伍者になってしまい、ロクな人生を歩まないというような噂がまことしやかに会内で流布しているようです。
短期的には一過性に喪失体験から落ち込むこともあるでしょうけど、人間は強いものでやがてたくましく復帰していきます。
特に、私の知っている脱会者は例外なく生き生きと日々を過ごし、家庭をもたれ、各々の立場で立派に社会に貢献され、自身の仕事に誇りを持っています。

物事には必ず裏と表の面があるものです。
片方でなく両方の面を見るように努めることが大事です。

日頃から視野を広めるように努めましょう。
社会体験や読書もいいですし、ネット検索エンジンの利用も便利です。
社会人としての経験をせずに専任講師になった方々の非常識さがしばしば批判されているようですが、決して理由がないことではないと思います。

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各論1 人生の目的について

親鸞会では「光に向かって進ませていただく」こと、あるいは信心決定体験をすることが「人生の目的」などといわれているようで、「人生の目的」というターム(学術用語。専門語。)を非常に重視します。

何事も目的なしでは到着ということはありえない。
ゴールがないと飛行機も墜落してしまうし、電車もいつまでたっても終着駅に着かない、などといわれます。

しかし、私の考えですが、死ぬまでに達成しなければ人生を後悔してしまう、というような人類に普遍的な人生の目的の存在は認めません。

人生に普遍的な目的があってほしい、という願いを人々が潜在的にもっていることを私は認めます。
しかし、そのことと、人類は普遍的な人生の目的を持っていなければならない、という考えは別ではないでしょうか。
さらに、人類は人生の目的を達成するために生まれてきたのであり、達成しなければ人間として生まれてきた意味はない、という発想は飛躍しすぎではないかと考えます。

宗教というものは個人の主体性がもっとも大事ではないかと考えます。
個々人が主体性をもって選ぶべきものであり、決して無理に押し付けるものではありません。
阿弥陀仏の本願は全ての人を救う誓願とされますが、重要なのは歎異抄でいえば、
▼「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」
ということになるはずです。
頼まれもしないのに、これ以外に幸福はないといって無理やり他人に押し付けるべきではありません。

そもそも、先天的、あるいは後天的になんらかの障害があって仏法を聞けない(聞けなくなった)ために親鸞会で言う人生の目的を達成する見込みがない(なくなった)人間は生まれてきた意味がないというのでしょうか。
そんなことはないと思います。
人として互いに関わっているわけですから、お互いに持ちつ持たれつ、支えあい、教えあい、助けあいながら生きているのではないでしょうか。

私たちは同じ世界に存在しているということで、ちょうど無数の網の結び目のような存在であって、お互いに意識的、または無意識的に影響を及ぼしあって相互関係を共有しているのではないかと思います。
この世に存在していること自体に大いに意味があるのではないのでしょうか。

また、原理的に「人生の目的」を至上とする主義の場合、自分が生きている現在の人生における一瞬一瞬の貴重な瞬間が目的達成に対する手段に堕してしまい、戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」のように、人生を生きる喜びというものが生じてこなくなる可能性はないでしょうか。
さらに、目的至上主義の弊害として、達成できないことになれば、精神的にきわめて大きなダメージを受ける可能性が高くなります。
親鸞会経験者が脱会後に無気力になって苦しむことがあるのも、この点に大きな要因があるように思えます。

本来、宗教というものは、ありのままの現実を認め、世界観を与え、救いを求める人を幸福にする装置であるはずなのに、「人生の目的」至上主義の場合はそれが達成されるまでは本当の人生を送っていないということになります。
さらには、未だに達成もしていないのにもかかわらず、教え込まれ、思い込んだところの人生の目的としての真実を知らされたご恩を喜び、感謝しましょう、と指導するのは非常に無理があるのではないでしょうか。

達成したというのならともかく、未達成者の場合、達成するまでの過程はあくまでも教え込まれた人生の目的としての真実を信じている、という段階に過ぎないわけであり、一種の相対の幸福にすぎないわけですから。

親鸞会では絶対の幸福(信心決定、または後生の一大事の解決)を人生究極の目的とします。
そして、その結果、目的以外のすべては「手段」化され、絶対の幸福という目的に従属されます。
さらには絶対の幸福を手に入れるためには全人類が三願転入という共通の階梯を辿る必要があるとして手段を限定します。
その階梯から外れた場合は「一切衆生 必堕無間」に陥る、という恐怖を植えつけられるので、会員は堕地獄の恐怖のあまり、皆が階梯に乗るように仕向けられるというわけです。

人生の目的を究極化・普遍化することによって、会員のみならず、全人類は浄土真宗に改宗しなければ決して救われない、という結論が導かれます。
ここに「破邪顕正せざるものは仏弟子にあらず」、という論理が入ってきますがそれについては後述します。
会の組織的活動は唯一絶対である人生の目的を達成することが聖使命とされるので、その活動の邪魔をするものは、聖なる使命を邪魔する邪悪でおぞましい存在にされてしまうというわけです。

そして、会員は人生究極の目的を達成することを至上とするのでそのライフスタイルは、世界で唯一人生の目的を教え、広めている親鸞会と行動を共にするほど、合理的であるし、組織的に管理されて当然である、と思うにいたるようになります。
さらには「親鸞会組織の和を乱すものは和合僧を破るものであり、五逆罪で地獄落ちである」という離反防止システムによって、会員は組織の指示に対して盲目的に従うようになり、お互いに拘束し、監視しあうことは五逆罪という大罪を未然に防ぎ、人生の目的を早く達成するための近道になる、と考えるようになります。

これらの結果、親鸞会から脱会すること自体が恐ろしく取り返しがつかない大罪を犯すことというように認識されますし、反対に、会のために全力で活動することこそが自分の目的達成の最短距離と信じるようになっていくわけです。
活動についていけなくなって活動を休んだり辞めたりした場合、自己を人生の目的=絶対の幸福達成を放棄した人間失格者と規定することになります。
人間はいつでも100%で完全燃焼で張り詰めて生きていくことなどできないので、専任講師など、自身の人生の場が100%親鸞会となってしまった場合に、心を病んでしまうケースがあるのではないかと危惧されますがいかがでしょうか。

会員にとって、親鸞会で教えられている人生の目的も、それを達成する場も親鸞会以外には到底ありえないように思われます。
しかし、それは会員の生活が親鸞会にどっぷりつかっているからに過ぎません。

本来、浄土真宗において、「阿弥陀如来は十方衆生を対機とする」という意味は、「阿弥陀如来の広大なお慈悲は十方衆生を救済対象とする」という意味でした。
しかし、親鸞会においては何故か「十方衆生は〜という義務を有する」というように、意味が転じてしまっているように思います。
これもまた、「人生究極の目的は絶対の幸福を獲るにある」という教条主義から発しているように感じます。
頑張らなくては自力から他力にならないと考えている会員の人は多いのではないでしょうか。
しかし、一生懸命になって頑張らないのは「無力」だ、と決め付けるのもまたどうかと思います。

被害家族の会の掲示板でもあれあれさんが言及しておられましたが、高森会長の著書の帯に「頑張る!」と書いてあり、会員はなんとも思わないのでしょうけど、私も当時は非常に違和感を覚えました。
▼「浄土門は愚痴に還りて極楽に生ず」
▼「智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」

という有名な言葉は、親鸞聖人の師匠であり、名実ともに当時の智者といわれた法然上人がいわれたからこそ、一種の凄みを感じますが、「頑張る!」という考え方は(自力の)菩提心を否定した法然上人の言葉とは異質に感じられます。
親鸞会においては「頑張る」ことが奨励されます。

そのなかで、会に長く在籍してくるにつれて、しだいに自分は頓機ではなく漸機であり、救われるのは容易ではないことが自覚されてきますので、信心決定を目指して「頑張り」続けることが長続きせず、次第に惰性や単なる建前に堕してくる危険性があるように思われます。
人生の目的は一朝一夕に達成できるものではなく一生参学の大事であると捉え、救いを明日以後に先延ばしにする心理が働くのではないでしょうか。

その状態が嵩じてしまえば、会における活動としての「求道」自体が、実は光に向かっている活動としての「人生の目的」に転じてしまう可能性があるともいえます。
また、ベテラン会員でも、このまま死ぬまで一生懸命に親鸞会で活動を続けておれば、最悪でも臨終に宿善開発して、観音菩薩の説法で救われるに違いない、と思い込んでいる人は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
この場合などもこの調子で「頑張り」続ければ臨終にはなんとか間に合うだろう、という信心をもっていると考えられます。

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各論2 財施について

親鸞会において財施が重視されていますが、その根拠は「布施行」という六度万行にあるとされているようです。
会員さんは自分の頭を使って、この六度万行という聖道の行がいかにして成立してきたかについて、あるいは、「三輪空寂」について仏教学の基礎から学んで見られることが大事ではないかと思っております。
また、布施以外の六度万行の行について、とくに親鸞会ではあまり詳しく教えられないように見受けられるところの「智慧」の重要性についても十分に考察し検討していただきたいと考えております。

私の在籍時にも既に財施目標金額のノルマがありました。
○○会館の用地にむけての財施であり、本部会館あたりに大きな紙が張られ、虫眼鏡を使わなければ見えないような細かい字で私の名前も出ていましたし、高森会長の名前は全体の10分とか5分の1程度で、ひときわ大きく書いてありました。

当時の私は会長先生自ら多額を財施してくださり一会員として申し訳ない、と思っておりました。

最近では御報謝を募りながら、会がその内実(会計収支)を公開していないという風聞があります。
もしそれが本当だとすれば、通常の団体では考えられないことではないでしょうか。
また、「富者の一灯より貧者の一灯」という仏説を親鸞会ではどのように理解しているのでしょうか。

私の考えですが、親鸞会では学生会員が親に無心するとか、バイトをして聴聞や合宿のためのお金を捻出することが普通であるようです。
ときには教科書を買うためだ、とかいって親に嘘をついて追加の仕送りをしてもらうことも、私の周囲では普通に見られました。

私見では、学生会員に対して財施を募ること自体はあってはならないことではないかと思います。
学生の親は、宗教団体に献金するために仕送りを送っているわけではないのですし、学生の本分はバイトではなく学業であり、そう思って親は大学に通わせているのですから。
万が一、親の稼いだお金を子である会員が親鸞会に流用することが結局は親の宿善になる、などという考えがまかり通っているとすれば、言語道断の邪道ではないかと考えますがいかがでしょうか。

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各論3 破邪顕正について

親鸞会で私が何度もきいたことは、釈尊のご遺言として涅槃経で説かれていると親鸞会で教えられる、
『破邪顕正せざるものは仏弟子に非ず、仏法中の仇なり』
という説です。
これについても会員さんが自ら頭を使って検証作業をして欲しいと願っています。
なぜなら、この文言は一般的に釈尊の遺言として共通に認識されていないばかりか、涅槃経においてはもちろんのこと、どこの経典をみても出ていないことを確かめて欲しいからです。
さらに、破邪顕正と勧められているのは在家なのか出家なのか、についてもよく確かめていただきたいと思います。

親鸞会ナビというサイトには下記のように説明されています。

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高森顕徹氏はしばしば「破邪顕正」を勧める経典上の根拠を『涅槃経』の「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず。仏法中の怨なり」という文にあるとしたが、実際にはそうした文は『涅槃経』にはないため、その「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず」の根拠については『涅槃経』の次の文を引いて示している。

「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり」

しかし、親鸞が『教行信証』(親鸞の主著)の「化土巻」で『末法燈明記』(親鸞によれば伝教大師最澄の作)を引用していることを見れば、『涅槃経』から引いたこの文を「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず」ということの根拠にすることは親鸞の教えを学んでいる者としては不適切であろう。

親鸞会ナビ 親鸞会の用語辞典より「破邪顕正」

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そもそも、「破邪顕正」の教えはもともと三論(中論、十二門論、百論)を所依とする聖道門の仏教です。
涅槃経の引用部分においても僧が対告衆とされており、元来は出家僧に勧められているところの教えです。

親鸞会において、法施は破邪顕正と定義されます。
在家仏教であるところの真宗はいうまでもありませんが、そもそも仏教において在家に法施の義務があると教えられているのかといえば、そんなものは断じてありませんし、これまでにおいて親鸞会でその根拠が示されたことはありません。

また、親鸞会の法論を読んだり聞いたりしていますと「哀れ」「かわいそう」とか「勉強不足で話にならない」「ききぞこない」とかいって相手を見下したり、相手を煽って故意に怒りや恨みを相手にもたせたりするのは、法施とはいえない見本ではないと思われますがいかがでしょうか。
また、嘘をついたり身分詐称をして法施をするというのも論外ではないかと考えられます。

このように、親鸞会においては、「絶対の幸福の達成=後生の一大事の解決=人生の目的」を背景として、「全人類が幸福になるための唯一の真実を説く親鸞会の前には、そして無二の善知識である高森会長の前には、全人類はひれ伏して頭を垂れるべきだ」という思想を持っているように思います。

そして親鸞会においては、人類における信教の多様性の自由を認めず、全人類は現在の信仰や信念を破棄し、究極の人生の目的である「絶対の幸福達成=後生の一大事の解決」を教える親鸞会に改宗すべきだ、と考えているように思われます。
これを、「親鸞会の四重廃立説」と名づけた方がおられました。

第一段階 仏教以外の信仰を捨てて仏教を信じよ(内外廃立)
第二段階 聖道門を捨てて浄土門に入れ(聖浄廃立)
第三段階 浄土他流を捨てて真宗の門に入れ(真仮廃立第一段階)
第四段階 既成の親鸞会以外の真宗を捨てて親鸞会に入れ(真仮廃立第二段階)

真宗における『阿弥陀仏の本願』は全人類を対象に救う教えということを表明していますが、ことに教えの選択に関しては、徹底的に「親鸞一人がためなり」であり、個人主義であるべきで、破邪顕正すべしといって他人に押し付けるというのはあってはならないと考えます。
教えとは、「広める」ものではなくて「広まる」ものであると信じるからです。
中国のことわざにも、「桃李もの言わざれども、下おのずか(自)らみち(蹊)を成す」とも言われます。

ネットで公開されている公開法論を拝見しますが、親鸞会の論者の態度は昔と変わっていません。
会の末端のかたは真面目な方が多いように感じていますが、会の代表者と見受けられる方は必ずしも冷静な大人の議論をせず、高圧的に振る舞い相手を見下して罵倒していることが多いように思えます。

どこの世界でも、その道を極めた達人といわれる方ほど、相手を見下すようなことはしなくなり、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という謙虚さの美徳に心打たれるものですが、親鸞会はどうでしょうか。
むしろその逆になっていってしまっているのではないかと思ってしまうのは私だけなのでしょうか。

親鸞会の中枢にあるような幹部会員が他者に対して高飛車で見下した態度をとってしまうとすれば、原因として、もはや求道の初心を忘れ果ててしまっているのかもしれませんが、ひょっとすれば、自分を活動に追い込んで自己欺瞞したあげく、ついには他人に対しても嘘をつくことを正当化することが常態化してしまうことも一因ではないかと考えています。

その根本にはどうやら「真実というものはひとつしか存在しない。
親鸞会で教えられている教えが真実である以上、あとは皆間違いである。
親鸞会会員以外の人類のほとんど総てが人生の間違いを犯しており哀れな存在である。」という原理主義的な思想があり、
「人生究極の目的は絶対の幸福=後生の一大事の解決である」という独特の教義を教条的に信奉してセクト化し、十方衆生の誰もがその唯一の解決を教えている親鸞会(特に無二の善知識とされる高森会長)にひれ伏すべきだと考えている傾向があるのかもしれません。

「命がけで求めさえすればすぐにでも絶対の幸福になれる」これは確かに嘘ではないのでしょうけど、性急な若者をその気にさせてしまう、巧妙な罠の側面を持つように思います。

▼「私たちのサークルは宗教団体とは無関係である」
▼「私たちが信奉するのは(あなたが考えているような)宗教ではない」
というような、相手を故意に誤解させるような言い回しがありましたし、
あるいは身分詐称する、信心詐称するということが少なくとも私の経験した親鸞会の新入生勧誘やAT作戦(註:街頭での勧誘活動)においては行われていました。

人には選択を間違う権利はありますが、故意に他人を騙す権利はありません。
このことを現役会員は心していただきたいと思います。
日本の法律においても、身分を秘して勧誘活動することは認められていません。
「札幌青春を返せ訴訟の一審判決」(※統一教会)の一部をご覧ください。
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被告協会の協会員は,上記のように組織的体系的目的的に宗教団体である被告協会への加入を勧誘等するに当たり,当初はこの点を厳に秘しているという点である。
(中略)
これは,勧誘に当たっての欺罔的手段を弄したものといわざるを得ない。
後になって,それが特定の宗教教義であることを明らかにしてみても,すでにその教義を真理として受け容れて信仰している以上は,
(中略)
その宗教教義からの離脱を図ることは通常極めて困難というべきであって,こうした事態に立ち至る可能性があることにかんがみると,それは,その者の信仰の自由に対する重大な脅威と評価すべきものということができる。
そのような内心の自由に関わる重大な意思決定に不当な影響力を行使しようとする行為は,自らの生き方を主体的に追求し決定する自由を妨げるものとして,許されないといわなければならない。

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「先生がご指導することだから。
深い御心だから。
多くの人は仏教に偏見をもっているから聞く耳を持たない。
これは一種の配慮だ。方便だ。」

会員であった当時の私はそう考えて、深くは追求せず勧誘活動を行っていました。
しかし、果たして仏様でもない一介の凡夫が勝手に方便を使ってもよいのでしょうか?
そして、もっと重大なことは、嘘をついて勧誘することが知らず知らずに会員の人格に与える悪影響・弊害はきわめて大きいのではないでしょうか。
この点については後ほどその好例とも思われる文面を紹介したいと思います。

たとえばネットにおける親鸞会に対する批判サイトに対する荒らし、あるいは親鸞会批判サイトに似せた名前のHPが乱立していた、という現象が以前はよくみられました。
これらのすべてが会による組織的な活動によるものとはかならずしも断定できませんが、親鸞会はトップダウン的な組織であるので、末端の会員が自己判断で会に許可無く親鸞会擁護的なサイトを公開することは考えにくいと思われます。
ともあれ、非常に興味深い現象であったと思います。

例を挙げますと、親鸞会教義について客観的に議論するサイトである「ジャンヌ」というサイトに対して「ヅャンヌ(または、ジャンヌ改め:同窓会 喫茶◇ヅャンヌ )」とか、「浄土真宗 親鸞会 について考える ジャンヌ なんかに負けないヅャンヌ」などのダミーサイトが見られました。

また、閉鎖してしまいましたが、親鸞会をしてネットで発言していた退会者が集っていた、親鸞会同窓会喫茶クローバーに対しては「親鸞会 茶屋苦労婆」「親鸞会同窓会喫茶 クローバー大好き!」「親鸞会 同窓会喫茶 クローバー掲示板ではなく苦労婆掲示板ですが何か?」「親鸞会同窓会サークル ルボアール」などのダミーサイトが見られました。最近は批判もあるのか、こういうダミーサイトは減少してきています。「浄土真宗親鸞会 被害家族の会」に対しては「親鸞会批判の真実 浄土真宗親鸞会 被害家族の会の正体」「浄土真宗親鸞会 父母の会」「親鸞会の真実 何が息子を変えたのか」などの対抗サイトがみられます。

このように、他の宗教団体に対する批判サイトに対する荒らしや対抗サイトを乱立している現象は他の宗教団体においてはあまり見られないもので、内容的、量的に非常に特徴があります。
実際、親鸞会には監正部や弘宣部という部門があり、組織的にネット対策をしているという情報も入っております。

さらには上記に紹介したサイトの中には親鸞会公認のものもありますので、こういう批判を封じればいいのだ、組織に都合の悪い情報は会員の目に触れないようにすればいいのだ、というような考えがもしも親鸞会にあるとすればそれは仏法者にあるまじき非常に姑息的な発想であるように思われます。

また、下記の有名な文章において、「火の無いところに煙は立たない」といわれていますが、この文章の作者は、高森先生の著作である「会報」に出ていた、濡れ衣に一言も弁解しなかった白隠禅師のエピソードを読んでおられないのでしょうか、疑問に思いました(ご存知ないかたは、検索エンジンにおいて、「白隠」「妊娠」「娘」でキーワード検索してみてください。)
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白隠禅師は、人々の尊敬を集めていて、大勢の人が彼の話を聞きに集まってきていました。

あるとき、寺の隣の十代の娘が妊娠しました。

怒り狂った両親に、子供の父は誰だと問い詰められた娘は、とうとう相手は白隠禅師だと答えたのでした。

両親は、激怒して白隠のもとに怒鳴りこみ、娘が白状した、お前が父親だそうだな、となじったのです。

白隠は、「ほう、そうか?」と答えただけでした。

 噂は町じゅうどころか、近隣に広がってゆきました。

禅師の評判は、地に堕ちました。

だけど、白隠禅師は意に介すことはありませんでした。

誰も説法を聞きに来なくなりましたが、禅師は落ち着き払っていました。

赤ん坊が生まれると、娘の両親は赤ん坊を禅師のもとに連れてきて、

「お前が父親だから、お前が面倒をみるがいい」と。

禅師は、赤ん坊を慈しみ、世話をしました。

一年経って、慙愧に堪えられなくなった娘は、両親に言いました。

実は、赤ん坊の父親は、近所で働く若者だと。

両親は、あわてて白隠禅師のもとへ駆けつけ、申しわけありませんでしたと詫びました。

「本当にすまないことをしました。赤ん坊は、引き取らせてもらいます。

 娘が、父親はあなたではないと白状しましたので。」

「ほう、そうか?」

禅師は、そう言って赤ん坊を返しました。
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また、全体を通して、親鸞聖人にみられる自己内省の姿勢が少しも感じられないのが非常に残念に感じますし、少なくとも信心を決定された人の書かれた文章には思われませんが皆さんはいかが思われるでしょうか。

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顕正新聞 論説「ネット社会と謗法罪」

インターネットで、他を非難中傷し、喜んでいる輩(やから)がいる。

闇夜の辻斬り強盗のごとく、自分の正体を隠(かく)し、悪口雑言の限りを尽(つ)くす。
どうせばれはしないだろうと、心の中の怒りや、ねたみそねみの醜い愚痴を、ありったけぶちまける。
欺瞞(ぎまん)、捏造(ねつぞう)、歪曲(わいきょく)、針小棒大、誤解曲解、何でもありだ。

昔は便所の落書きで済(す)んだが、今は、多くの好奇の目にさらされ、尾ひれがついて、とんでもないうわさにもなる。

「火の無いところに煙は立たない」はずだが、ネット社会では、火の無いところに放火して、煽(あお)り立てる者までいる。

たとえだれかは分からずとも、無責任な誹謗中傷の報いは、自業自得で本人が、受けていかねばならない。

ましてそれが、仏法にむかえば、法謗の大罪。最(もっと)も恐ろしい無間業(むけんごう)の重罪だ。

「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば法謗の者と申すなり」 と、親鸞聖人は「末灯鈔」に仰せである。
真実開顕に全力を傾注する世界唯一の幸せな集まりである本会に対する中傷も、法謗罪である。

ネット上では、「親鸞会と法論してはならない」という不文律があるらしいのが面白い。
外道邪教、群賊悪獣、悪僧たちも、教義安心の法論では、とても真実に太刀打(たちう)ちできないのは承知しているようだ。

だからせいぜい、根拠の無いデマを飛ばすのが関の山。
聞法の敗残者も、愚痴を言い散らして去っていくのみ。
だが、恐ろしい結果は、必ずその身に現出するだろう。

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最後に、『蓮如上人御一代記聞書』 126条を挙げておきます。

第126条 後言になおす 順誓、申されしと云云。「常には、わが前にてはいわずして、かげに後言いうとて、腹立することなり。
われは、さようには存ぜず候う。
わが前にて申しにくくは、かげにてなりとも、わがうしろ事を申されよ。
聞きて心中をなおすべき」
よし、申され候う。

親鸞会においては蓮如上人の著作である『御文章』と、その著作でない『蓮如上人御一代記聞書』を非常に重視されます。
そのため、その実態は親鸞会ではなく「蓮如会」ではないのか、という批判はしばしば耳にします。
しかし、こういう親鸞会の記事を吟味しますと、実は蓮如上人のご教導すらも無視している幹部が会を指導しているのではないかと思われますが皆様はいかがお考えでしょうか。(さらに、「善知識」の項でも述べますが、実態は「高森会」ではないかという批判もあるようです。)

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各論4  行学について

親鸞会でよく耳にしたのは、「仏教は行学であり、理屈ではない。実践してみて、おぼろげにも次第に真実であることがわかってくる」というものですが、その論理も疑問です。

親鸞会はこの理屈によって親鸞会以外の学者の説に会員を近づけることをブロックすることに対しても有効ですし、
会員が自分の頭で考えることもブロックし思考停止人間を作ることに寄与するのではないでしょうか。

気がついてみれば、親鸞会の世界に長くどっぷり浸ってしまい、周囲には組織やその長を批判するものは無く、親鸞会の賛美者しかいなくなってしまっています。

外部世界から遮断されている状況になっており、批判精神は根こそぎ奪い取られています。
会や組織や師匠を批判する者は法を謗るものであり地獄に落ちるという「法謗罪や五逆罪」の存在も、会員の批判的思考を停止し、会員からの批判精神を奪い去ることに大きく寄与すると考えられます。

因みにインターネットの検索エンジンにおいて「釈尊 遺言」で検索した場合にもっともヒットするのは「自灯明、法灯明」(『大パリニッバーナ経(大完全煩悩破壊経)』)のお言葉でした。

つまり、「自らを灯火(よりどころ)とし、他を灯火(よりどころ)とするな、私の説いた法を灯火(よりどころ)として、他を灯火(よりどころ)とするな。」という意味になります。
しかも、自が先であって法が後であることに注目すべきだと思います。

釈尊は仏弟子たるものは、盲信せず、主体性というものを失うことなく、断じて「思考停止人間」や「無条件服従人間」にはなってはならない、と教戒されているのではないでしょうか。
このあたりもよく考えていただきたいものです。

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各論5  後生の一大事

「一切衆生 必堕無間」と親鸞会では教えられていますが、未だにその経典の根拠が述べられたことはありません。
もしも経典の捏造や改竄が行われているとすれば親鸞会はもはや仏教とはいえないことになります。

死の不安は誰もが持っているものです。
しかしその不安の根源は親鸞会で教えられているところの後生の一大事とは別物と考えています。

死後の生存については、釈尊も経典で「無記説」を説かれているように、結局のところ論証不能なわけですから、個々人が各々の信念に基づいて信じることであって、実存的に選択するものといえます。

「一切衆生必堕無間」にしても、個々人が信じること、実存的に選択することは自由で、個々人の主観的真理としてしか成立しないといえます。
しかし、親鸞会においては「一切衆生必堕無間」が親鸞会では一種の公理であるかのように流通しています。

「仏教は後生の一大事の解決にはじまり、後生の一大事の解決に終わる。
この出発点が抜けたら仏教ではない」

何度いわれたことでしょうか。
「人生の究極の目的は後生の一大事の解決である」
そして、
「総ての人々は阿弥陀仏の本願に依らなければならず、相対の幸福では幸福になれない。」
さらに、
「その教えが正しく説かれているのは世界広し、といえども親鸞会以外には存在しない」
という教えによって、親鸞会におけるすべての活動が正当化されると考えられます。

しかし、一例をあげれば親鸞会でいうところの「一切衆生必堕無間」は必ずしも仏教の目的ではありません。
たとえば禅宗では死後とか後生とか言わないことを挙げれば十分でしょう。
少しでもその気になって調べてみれば、すぐにでも理解できることです。

最後に断っておきますが、私は必ずしも輪廻転生説を頭ごなしに否定する立場ではありません。
世間ではわからないものをわからない状態にしておくことはモヤモヤして嫌であると感じる人々は少なくありません。
私たちは、身の回りに起こった事物や出来事の心における位置づけが未決で曖昧模糊としていている状態を嫌いますので、それに対して一応のラベリングを施されますと、それで一応安心して思考停止してしまう傾向があるのではないでしょうか。

「死後の世界の実在」などもその一例といえます。
現在において反証が不能で、証明も不能であるところの輪廻転生説はそのような無数の心的なラベリング機制のうちの一例に過ぎないと考えています。
そこで、大衆は宇宙の森羅万象や死後の世界の実在などについて明確に断言してくれる宗教指導者のいうことを信じたくなるものなのです。

物理学において「多重宇宙説」なるものもありますが、あくまでも一つの仮説に過ぎません。
その多重宇宙のひとつがひょっとして死後の世界であるのかもしれませんが、その仮説を科学的に検証することは非常に難しいことです。

ハーバード大学の理論物理学者リサ・ランドール博士は、我々の住む3次元世界を取り囲む5次元世界が存在することを提唱し、それを解説した一般書を出版し、2007年現在において全米で注目されています。

2008年にはその理論の証明に至る可能性がある実験がスイスで行われるようですが、ひょっとして異次元の世界の実在が科学的に証明されるのかもしれません。

しかし、その異次元の世界は私たちの認知を超えているわけですから、「死後の世界の実在」論者の期待するような世界であるかどうかは全く別の問題ではないかと考えられます。

仏教で説かれていることが、科学で説明されている、あるいは科学で説かれていることはすでに仏説で予言されていた、などという説をまことしやかに説く人々はあります。
「量子力学は仏説の正しさを証明した」
「般若心経の色即是空説は、実はアインシュタインの質量のエネルギー等価説を説明する」
などがその代表です。

このような疑似科学の話術は巧妙なので注意深く検証しないと著者の話術に引っかかってしまいます。
論理に飛躍がある場合が多いので眉に唾をつけてきくべきでしょう。

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各論6  善知識

親鸞会は善知識だのみではないか?という批判があります。
これについては既に語りつくされている感がありますので多くは述べません。一応、親鸞会では「一向専念無量寿仏」をすすめてはいるので、 単純に「親鸞会は善知識だのみである」と規定することはできないと考えます。

ただ、一言コメントしますと、第一に、親鸞会において、高森会長を批判することは許されません。
それは「善知識をおろかに思い、師を謗るものをば謗法の者と申すなり」という心理的ハードルがあるからです。

そして、すでに述べましたように、謗法の者は無間地獄に落ちると指導されています。

また、第二に、親鸞会では現在、この世には高森会長以外に善知識は存在しない、ということが大前提になっているようです。

親鸞会 顕真学院・講師部聖則において

「会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます」


とありますように、自分たちにとっての無二の善知識と呼称するのでしたらまだ理解の範囲にあるのですが、全人類においてただ一人しか善知識を認めないとなれば、これは会からの会員流失を防ぐためのひとつの方策なのでしょうけど、自是他非の極みに陥るという弊害があり、一気にカルト臭を帯びてくるといわざるをえません。
実際、会の機関紙においては、

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釈尊は「善知識はさとりを得る道の大因縁、全因縁なり」と仰言っておられる。
又、「善知識があったら十里、二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、身肉手足をも供養すべきである」
とも般舟三昧経に教えておられるとおり、私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。
(顕正新聞 昭和49年12月号)
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と指導されており、聖道門の経典を根拠とし、善知識を救いの全因縁として唯一絶対化しています。

一切の人々が後生の一大事を免れ助かるためには既に述べた

「四重廃立」説によって親鸞会入会しなくてはならず、

さらに善知識の存在が必須であり、

その善知識には無条件服従しなくてはならないと教えられているわけです。

このようにして高森会長は神格化されていきます。

そしてそのシステムはまたしても、思考停止の袋小路として機能することになっているのかもしれません。

親鸞会において、

「誰か特定の人物に盲目的、無条件に服従し、その手足となって働く」

と決めたとすれば、それはある意味では苦悩が少ない生き方ということになるのかもしれません。
そういう生き方を自分自身の判断で選択することに関しては、外野がとやかく言うべきことではないでしょう。
しかし、そのような思考停止的な生き方が仏道における本来の生き方なのかといえば、釈尊の「自灯明、法灯明」の教えに反しているように思います。

親鸞会の組織や活動についていくことにはもう耐えられない、という方で、しかし、高森先生以外に良き師がどこにいるというんだ、といって良き師匠にこだわる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、そういう方はこれまで親鸞会以外でどれだけ見つける努力をしてきたというのでしょうか。
親鸞会は、自分の会以外はみな悪知識しかいない、と宣伝しているようですが、そのような情報操作に惑わされることなく、自分でも探す試みをすることも重要なことではないでしょうか。

一方で、良き師匠がなかなか見つからないといって、いろいろな教団や師匠を次々と変えては渡り歩くことになってしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、そのような人は、実は自身において仮想された真実に合致する理想の教えをひたすら渇望し希求し続ける「終わりの無い旅」に出ているのかもしれません。

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各論7  「世間の隙をかきて聞くべし」

親鸞会では聞法を重ねていくうちに「仏法には明日がない」ということがいよいよ知らされ、無常観が深まり、罪悪観とあいまって「世間の隙をかきて聞く」という気持ちになっていくと教えられています。

世間の隙については、「世事に追われているなかで、それでも空いた暇な時間」という解釈が正しいのではないのでしょうか。
その根拠は蓮如上人にあります。御文章に、

▼「浄土真宗の信心の内容をいえば、ことさらにわが心の悪いことも、また、あやまった思いや、とらわれの心の起こるのも、とどめなさいというのではありません。
ただ、いつもと同じように商いをもし、人に仕えることもなさい。
獣を狩り、魚を捕るなどもなさればよろしい」

と出ています。
しかも、この教えは文脈からは信前、信後を問わないと思われます。

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▼まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。
ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。
(蓮如上人 著『御文章』一帖 3 猟すなどり章)
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求道者において「後生驚き立つ心」がおこって、「仕事なんかをしている場合じゃない」と聞法に飛び出して信を獲たという逸話は耳にしますが、だからといってみんな仕事を放り出して聞法せよ」ということではありえないと考えます。

「世間の仕事に関わっているよりも真実を全人類に伝えることを標榜する親鸞会に関わる仕事のほうが尊いし、絶対の幸福を達成するためも近道なのではないか?」
という心理が会員には起きてくると推察されますが、元来、浄土真宗はどのような人々を対象に説かれた教えであるのかについて、よくよく考え直していただきたいものです。

この御文章を読んでいますと、
▼「あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。」の部分と、
親鸞会で教えられているところの「廃悪修善の勧め」と齟齬が生じます
が、現役会員さんのご意見をうかがいたいものです。

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各論8  脱会後、心的外傷(トラウマ)

現在活動中の方、あるいは既に脱会したかたで、一種の抑鬱状態になり、外界へと向かうパワーが枯渇して無気力状態になってしまった方もいらっしゃることでしょう。
その場合に一種の引きこもり状態になってしまう場合があるかと思います。

社会に出ていない学生にとっては、親鸞会との縁が深く、会員歴が長いほど、親鸞会以外の人間関係がなくなってしまいます。
また、以前強烈に勧誘した経験があるので友人一同に煙たく思われて周囲から孤立してしまっている、という場合もあるでしょう。

現会員で親鸞会に疑問を感じてもなかなか抜けることが難しいのは、親鸞会内で人間関係が確立してしまっており、それをすべて失ってしまうことが恐ろしい、という理由もあるように思います。

両親や家族の方は、会員のお子さんが脱会した場合に、かけてあげる言葉も無く、どう対処してよいか途方に暮れることでしょうし、ひょっとして自殺するのでは?と心配されることもあるでしょう。
しかし、親鸞会経験者が自殺することはまず考えられませんのでご家族のかたがここをご覧になって心配しておられるようでしたら、その点に関してはご心配されないで気長に、暖かい目で見守ってあげてください。

親鸞会を退会してしまった後で、他の仏教宗派に属して引き続き仏道を求めていく場合もあるでしょうし、ひょっとしてカルト系新興宗教に入信してしまう場合もありうるかもしれません。
また、親鸞会に再び舞い戻っていく場合もあるでしょうし、真宗系の他団体に入信することもあれば、真宗の教えを説いている師を求め歩く人もいることでしょう。

入会してさほど経っていないときに脱会したなど、それほど傷が深くない場合は、親鸞会経験前の状態に完全復帰される場合もあるでしょう。
脱会後は、しばらくは無気力状態であっても、やがてエネルギーは蓄積されていくものです。
「こころの充電期間」と捉え、気長に構えていれば、生命力が回復し、やがていつの日か、社会へ復帰できるように思います。

そして、社会復帰を遂げた後は、充電期間の貴重な体験が活かされることが必ずあると思います。
その際に自分をあくまでも信じ、自尊心を保つことが大事で、自己を親鸞会がいっているように敗残者や負け犬と規定しないことです。
そもそも「敗残者や負け犬」という発想自体がどう考えても仏教的ではないですね。
若いときの挫折体験、失敗はやりなおしが効く、それどころかその後の人生に深みを与え、糧になると信じてください。

また、仕事や学業に復帰し、日常を無難におくっているうちに、親鸞会体験を忘れてしまう場合もあると思います。
おそらく大半の脱会者のかたは、このコースを歩まれるのではないでしょうか。

私がある僧侶のかたに紹介されてメール交換していたある脱会者のかたがいらっしゃいます。
長らくかつての私と同様に、親鸞会の脱会後に無気力な状態を送っておられましたが、休学されていた大学を退学することなく無事に復帰され、昨年にめでたく難関の文科系の国家資格に合格され、社会復帰を遂げ友人もできて新しい生活を楽しんでおられるようです。

また、私の例で恐縮ですが、私は、親鸞会を退会した直後、一時的にひきこもり状態になっていました。
大学にはカウンセリングサービスがありましたが、「相談しても仕方がない、どうせ分かってもらえない」と勝手に思っていたため、利用しようとする気もありませんでした。

今から思い返しますと、自身の思考の整理や、客観的な視点でのアドバイスを受けられること、友人が得られる可能性など、このようなサービスの利用で得られるものはあったのかもしれません。

親鸞会を退会して、ひきこもり状態になったという相談が時々ありますし、過去にもありました。
私の在会時は、学生運動の残り火がかすかに燻っていたような状況であり、学生部(現在の学友部)の幹部においては、自分探しの旅の途上において親鸞会に属していなくてもなんらかの学生運動にはまっていたのではなかったのか、というように思われる方々が少なくなかったように思えました。

風聞によれば最近では親鸞会に入会する会員の質は変質してきているようで、以前のような過激なリーダータイプは減り、よりナイーブにタイプになってきているようでした。

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カルト・グループに全存在を預けていた人がそこを離れるのは非常に難しい。
カルト・グループの作り上げた人工的な世界の外に、リアリティは存在しなくなっているからだ。

・・・・・カルトから離れるときの現実の困難は、物理的な困難でなくて心理的依存状態から脱する困難だろう。
カルトはさまざまな心理操作によってメンバーの周りにまったく別の擬似人生を築いてしまっている。

(「カルトか宗教か」竹内節子著 P109)
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カルトから出てきた人には、解放された喜びよりも、人生に与えられていた確固とした目的やら集団の暑い結束やらを失った衝撃のほうが大きい。
薬物中毒者が薬を断ったときに出る禁断症状と同じような、苦しい不安定な時期がある。
「以前の生活」や『普通の生活』に復帰するには十分な時間をかけなくてはならない。
カルトで刷り込まれた思考のパターンはそう簡単には消えるものではないだろう。

(「カルトか宗教か」竹内節子著 P106)
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竹下氏もいっていますが、癒しには深い宗教心理学への洞察を必要とします。
「逆洗脳」や「逆プログラミング」という強硬手段は勧められません。
脱会者のかたやご家族は「参考図書(カルト、マインドコントロール関係の書籍名)」をお読みになることによって事態を客観的に捉えることができるのではないかと思います。

また、脱会後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)という重症の状態に陥っている場合があります。
PTSDとは、心に加えられた衝撃的な傷が元となり、後に様々なストレス障害を引き起こす疾患のことをいいます。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、以下の3つの症状が、PTSDと診断する為の基本的症状で、これらの症状が1ヶ月以上持続している場合にはPTSD、1ヶ月未満の場合にはASD(急性ストレス障害)と診断する(DSM-4 TR)ようです。

精神的不安定による不安、不眠などの過覚醒症状。
トラウマの原因になった障害、関連する事物に対しての回避傾向。
事故・事件・犯罪の目撃体験等の一部や、全体に関わる追体験(フラッシュバック)

私においては2)3)は自覚していますが1)についてはあまり記憶がありません。
1)〜3)の総てを自覚されたかたは、PTSDの疑いがありますので精神科、神経科、心療内科などでご相談なさったほうがいいかもしれません。

心理的外傷となる出来事への情緒的な反応を解決するために、トークセラピーが最も有効だと考えられているようですから、覚えがあるかたは、掲示板などに書き込んでいただくと何か援助ができるかもしれません。

成人の場合でも、原因となった刺激があまりにも強すぎた場合、廃人となって、一生涯、食事も一人では取れなくなるなど、生活に重度の支障を来す場合も起きうるとのことですから油断はできません。
海馬という脳の一部が萎縮してしまうという複数の研究報告もあるようです。


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各論9  脳科学からのアプローチ

「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」(村本 治著 新生出版)という、神経内科医が著した書があります。

この書において著者は、宗教活動が脳の各部位の働きと直接に結びついていることや、様々な宗教体験を脳の機能から説明し、いわゆる「宗教」が脳の発達と平行して発生してきたことを示しています。
このような立場は一見、従来の無神論者の立場を踏襲しているだけに過ぎないように思います。

しかし、著者は有神論と無神論(あるいは有佛論と無佛論)との橋渡しをする試論として、「神経学的神論」を提出しています。
著者は脳に内在する神を再発見することを希望する立場であると考えられます。
その点で、たとえば「脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス」という書におけるアンドリュー ニューバーグ 、ヴィンス ローズ、ユージーン ダギリらの主張(唯物論的立場)とは一線を画しています。

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前頭葉の先端部である前頭葉前野皮質は、人間の倫理的、道徳的な人格を保持していくために不可欠な脳の部位である。
この部位が障害を受けると、たとえ他の脳の部位がどれだけ正常に機能していても、真の信仰を持って宗教活動を続けることは不可能になる。

頭頂葉の自己空間を認識する連合野は、「悟り」、「神との一体化」「無我の境地」、などの神秘的体験に関係している。
しかし、この部分の関与はそのような神秘体験時に一時的に見られるもので、宗教活動にとって頭頂葉の働きが継続的に必要とされている証拠はない。

(「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」p130)
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前頭葉前野皮質はとくに重要であり、脳全体の宗教活動の指揮者のような存在と考えられています。
先天的、または後天的な原因で前頭葉前野皮質が損傷している場合、また、かつての統合失調症の治療法として一世を風靡したロボトミー手術を受けた方々において、いわゆる仏教でいうところの「罪悪観」を認識することがおそらくはなくなってしまうようです。
そのため、このような人々においては真宗体験としての機法二種深信、とくに「自分の地獄落ちは疑いなし」という機の深信はありえないように考えられます。

親鸞会において「絶対の幸福」の宗教体験は火にさわったようにハッキリする体験であると主張されているようですが、そのような獲信体験というもの、いわゆる「仏凡一体」や「機法一体」、「信心を獲れば南無阿弥陀仏の主になるなり」「獲信見敬大慶喜」などで言われている体験は、ひょっとして頭頂葉の自己空間を認識する連合野と関連が深いのかもしれません。

著者は宗教に関連が深い脳内の「神の座」あるいは「神を知る中枢」(親鸞会的にいえば、「阿弥陀仏の座」あるいは「阿弥陀仏の本願の座」)の局在は一点に集約されるとのではなく、「幾つかの部位を結ぶ神経回路網である」と考えているようです。
一方、大脳辺縁系を中心とする脳内回路は、肉体的欲望本能に密接な関連があり、「煩悩」について脳科学的に説明される可能性があるようです。

たとえばちょうど性愛行動が視床下部〜大脳辺縁系のニューロン(神経細胞)群の活動無しではありえないように、扁桃核は恐怖などの情動の座や入力された情報を判断する座として知られていますが、何らかの方法で扁桃核の過度の興奮などが抑制される手段によって、死への恐怖はひょっとして和らぐのかもしれません。

以上のような考え方は唯物論的であると思われることでしょう。
実際、科学者や医者には唯物論的な思想を持つ人が多いのは事実です。

しかし、この著者は必ずしも唯物思想の持ち主ではなく、著者は、宗教が人類に必須であること脳科学的に証明しようとしているようにも思えます。

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人々がこれらの「脳の内なる神」を愛して大事にし、それを毎日の友として生きていくこと、これが人類の原始宗教への回帰であり、最も健全な宗教のあり方であろうと私は考える。
・・・(中略)・・・
その「内なる神」をあなたの最愛の友とし、その教える所に自分を従わせること、これが太古の昔から人間の歴史を通して、多くの宗教者たちの実践してきた、幸せな人生の秘訣であったろうと私は信じている。

(「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」p264)
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この考え方は、ひょっとして哲学や宗教のありかたに革命的な変革をもたらす可能性があります。
一見すると天台本覚思想的な、「唯心の弥陀・己心の浄土」的な発想に思えますが、そうではないと考えています。
私は人間として親鸞という実在した人物を尊敬していますが、必ずしも、彼が体験したとされる回心の宗教体験が非常に特別であるとはみなしていません。
浄土真宗以外の宗教・仏教宗派においても回心体験を経験した人は古今東西に見られます。

もちろん、現状の真宗教学的には宗祖の体験は法然上人や妙好人といわれる人々と平等一味の体験であり、二種深信が立つ一念の極促の体験であるとされ、真宗でない神秘体験や宗教体験はみな否定されることでしょう。

しかし、回心体験というものは畢竟、個人的体験に属するものであります。
各々が自身の主観で判断を下すとしても、最終的には現状では平等一味であるという証明ができないのです。

脳科学によって人間の知・情・意のすべてが完全に解明されるとは思っていませんし、いわゆる「唯脳論」の立場も私はとりませんが、他力信心やいわゆる神秘体験・宗教的体験のメカニズムの少なくとも一部が、いつの日か脳科学によって解明される可能性はあるのではないかと私は考えています。

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最後に

親鸞会は、現在変革期で、激動の時代を迎えているように思います。
いろいろストレスを感じられることも多いのではないでしょうか。

まとめとして、私が最後にみなさんに最も申し上げたいことを3つだけ書かせていただきました。

○ 若いときの挫折経験はかならずやり直しがききますし、人生の肥やしになります。
私自身が生き証人ですので、嫌な目にあったとしても決して自暴自棄にならならず、一度しかない自分の人生を大事にしてください。

○ 人生の目的、相対の幸福、絶対の幸福、など、親鸞会があなたに初期に叩き込まれたことがらについて、一見自分で判断したかのようにみえて、実は情報操作を受けていなかったかどうかもう一度、考え直してみてください。

親鸞会では、本会以外に人生の目的を教えているところは皆無だ、といいます。
それは本当なのでしょうか?
人生の目的という誰もが達成しなければならず、達成しなくては後悔するような普遍的なものは果たして存在するのか、そして、真実は親鸞会でしか教えられていないというのは果たして本当なのか、自分の頭を使って確かめ、決して焦らずに結論を出して頂きたいと思います。

○ この被害家族の会の賛助会員は、様々な考えの人々で成り立っていますし、社会人として、お互いの考えを尊重しています。
これをお読みになっているかたで現在何かお悩みのことについても、何かお役にたてるかもしれません。
ご遠慮なく、事務局にご相談のメールを送ってみてください。

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高森会長の素性

 最後に、高森会長の素性について触れておきましょう。

 会員の方のほとんどは壇上での高森会長しか知らないと思います。
過去の経歴や日常の姿は意図的に伏せられているからです。

 高森顕徹は1929年(昭和4年)の2月、富山県氷見市の浄土真宗本願寺派末寺に次男として誕生しました。

 1945年(昭和20年)、16歳で特攻隊へ志願、予科練に入りましたが、8月に太平洋戦争が終結しましたので9月に復員します。
同年の11月、龍谷大学専門部に入学しました。

 そして翌年の1946年(昭和21年)、増井悟朗氏に誘われて華光社(華光会の前身)に入会します。
ここで伊藤康善氏や増井悟朗氏と親しく交友していました。

 しかし、1958年(昭和33年)に華光会と縁を切り、29歳で親鸞会を設立しました。

 その教義のほとんどは伊藤康善氏や大沼法龍氏の著作から盗作し、高森会長独自の味わいを加えたものとなっています。

 たとえば、伊藤康善著『安心調べ』には、

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 峻厳火を吐き、鬼気人に迫るような…。廃立の厳しい親鸞聖人の信念は、決して春画を見て手淫しているようなものではない。
機の計らいを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底へ落とせるだけ叩き落として、生死の断頭台上に生首を突き出してやる残忍毒語の説法がなくてはならぬ。
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とあり、これが高森顕徹著『会報第五集』だと、

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 機の計いを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底に堕せるだけ叩き堕して、生死の断頭台上に生首を突き出して下される峻巌火を吐き、鬼気迫る善知識の説法にあわなければ、突破出来ない難中の難の境地であることも牢記しておかねばならぬ。
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と表記されています。また、大沼法龍著『法界』に、

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 光に向いて進む者は栄え、闇に向いて走る者は亡ぶ。
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とあるのが、高森顕徹著『光に向かって』では、

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 光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。
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と書かれています。

 これはほんの一例であって、その他、高森会長の著作ほぼ全てが盗作によって成り立っています。

 詳しくは、「高森顕徹氏の著書のルーツ」をご覧下さい。


 外部から再三再四法論を申し込まれても逃げ回っているのは、勝てる見込みがないからであり、自分でも間違いを自覚しているからです。
「『若不生者』を『信楽に生まれる』ことだと解釈する根拠は大沼氏の著作だ」とは言えませんし、『教行信証』すら通読したことのない高森会長は浄土真宗のイロハすらわかっていないのです。
我々、真実信心の念仏者に対して反論できるわけがありません。

 そこで親鸞会は、内部での情報操作を徹底し、外部の情報を遮断しているのです。
「高森先生は唯一無二の善知識である」という認識を会員に植え付け、「誹謗の輩は異安心だ」と触れ回っています。

宗教を利用し、マインドコントロールやストローマンのテクニックで大金を騙し取る詐欺師、それが高森顕徹の正体です。

ストローマン 議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。

 「善のすすめ」という捏造された教義によって会員からむしり取った財施は、その収支報告が全くなされていません。

総計数百億にものぼるお金は、各地の会館や同朋の里の建設、会長専用の玄関や控室、会長のベンツや趣味の絵画、会長専属のシェフと贅沢な食事、高森一族の旅行費用などに使われてきました。

 会員が必死の思いで捻出した財施は、会長の独断で浪費されています。
しかも浄土真宗に「善のすすめ」などありませんから、それで会員の方が獲信に近づけるわけでもありません。
会員の方は骨折り損のくたびれ儲け、一生苦しみ続けて死ぬだけです。

 高森会長は会員の方の後生など心配してはいませんし、浄土真宗の信心もありません。
会員の方が持たれている高森会長の人物像は、完全なる虚像です。 

 特に会員歴の長い方にとって、親鸞会を退会するのは相当に勇気がいることでしょう。
私は退会を強要したりはしません。
信仰は自由ですし、今後どのような人生を歩まれるか、それも全く貴方の自由です。

 ただ、本当に後生の一大事を解決したい気持ちがあり、このブログを通して親鸞会の誤りを受け止められたのであれば、退会して正しい浄土真宗を聴聞することをお勧め致します。

 ご本願の対機はそのままの貴方です。
正しい仏願の生起本末を聞けば、その時その場で救われます。
このブログをご縁として皆様が信心決定されるよう、ただそのことを日々念じております。

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初めまして、管理人の黒猫です。
私が現役会員の方々にお伝えしたいことは、以下の三点です。


一、どのように批判されているのか、自分できちんと確認するべき。

 会員の方々にとって高森会長の正しさは絶対であり、本願寺や親鸞会批判サイトの主張は間違っているというのが共通認識だと思います。

 しかしながら、実際に本願寺の書籍や批判サイトを読んだことのある方は少ないはずです。
相手の主張を聞きもしない内に、頭から間違っていると決め付けてしまっているわけです。

 「親鸞会が正しいに決まっている」という根拠のない安心感に浸るのではなく、きちんと自分の目と耳で確認するべきです。


二、現代にも善知識はおられるし、親鸞会を離れても浄土真宗の教えは聞ける。

 会員の方々には「善知識は高森先生お一人」、「親鸞会以外で正しい教えは説かれていない」という思いがあるでしょう。
親鸞会内では情報操作が徹底されているので、そう思い込まされているのです。

 実際は現代にも善知識は沢山おられますし、親鸞会を離れても浄土真宗は聞けます。

 正確に言えば、親鸞会を離れない限り本当の浄土真宗は聴聞できません。


三、信心決定は「難しい」ことではない。

 「全ての人が救われる」と聞きながらも、信心決定することは「難しい」という意識が会員の方々にはあると思います。

 しかし、信心決定は「難しい」ことではありませんし、いつかどこかでの話でもありません。他力より回向される信心だからです。

 当ブログを通し、親鸞聖人が「凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり」と言われたこころを知って頂ければと思います。

 正しい名号のいわれを聞けば、その時その場で救われます。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|ホーム

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なぜ私は親鸞会をやめたのか

はじめに

私は10年以上もの間、親鸞会で聴聞を続け、幹部として活動に専念してきました。
しかし、このたび私は親鸞会会員をやめることを決めました。

そこにいたるまでには、様々な心の葛藤がありましたが、ようやく決断することができ、今は安堵感と開放感で一杯です。

そこで、このたび「なぜ私は親鸞会をやめたのか」について、お話ししたいと思います。

一人ひとり、考え方は千差万別ですし、まして信教の自由が保障されている日本において、どんな宗教団体に属し、どんな信仰を持つかは、まったく自由です。

私の気持ちを聞かれた人が、「自分は違う、私は親鸞会と運命をともにしよう」と思われても、「私と同じ気持ちの人がいたのか」と思われることも自由です。

一会員であり、幹部として活動に専念してきた私が、なぜ親鸞会を離れよう、と思ったのか、私の気持ちを知って頂き、何かの参考になればと思います。


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なぜ私は親鸞会をやめたのか

1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか

では「なぜ私は親鸞会をやめたのか」ですが、それを語るには、まず「なぜ私が親鸞会に入会したのか」を説明する必要があると思います。

親鸞会の教義を真実だと思った理由

私は今まで自分が生きるということについて、あまり深く考えたことがなく、敷かれたレールの上を歩んできました。
それなりに勉強して、小学、中学、高校を出て、大学に合格しました。

しかし、今までの義務教育と違い(現在ではほとんどの人が進学する高校も義務教育のようなもの)大学という自由な世界に飛び込み、これから、どんな仕事をして、どんな人間関係を築き、どんな考えをもって、生きてゆけばいいのか、自分の中には、まったくその解答がありませんでした。

大学入学を前にして、私はこのような大きな不安に襲われました。

そこで、将来に対する不安を解消するために、もっと多くのことを勉強しなければならないと思っていました。
そんな時に出会ったのが、親鸞会の学生組織のサークルです。

サークルの先輩に勧誘され、話を聞いてみると、それなりに納得のゆく話しで、今どき、こんな真面目は大学生もいるのか、と思いました。

また、サークルの先輩たちは、本当に優しく、親身になってくれる人ばかりで私にとって、居心地の大変いいところでした。
そして、毎日のように部会に参加して、先輩の話をきいてゆきました。

しばらくして、人生の目的を果たすには、仏教を聞かなければならない、という話しになりました。

私は、仏教の教義の中で「諸行無常」、また「煩悩」「孤独な心」など、人間の内面を深く考察している部分に大変関心があり、もっと聞きたいと思いましたが、一方で、反証不能な因果の道理の真実性や、三世の存在、そして必堕無間地獄、阿頼耶識、阿弥陀仏について、どれだけ質問しても、納得できる答えが返ってこず、「仏教は大宇宙の真理を教えたもの」ということに対する疑問は、いつまでも晴れないままでした。

4月の頃は、「どんな質問にも答える」ということを売りにしていた先輩たちでしたが、だんだん、質問しても、あまり納得出来る解答も返ってこなくなり、因果の道理など、質問によっては「やれば分かる」といった答えしか返ってこず、また周りの人たちもあまり質問しなくなり、「これだけ聞いているのに、まだそんなことも分からないの?」という反応が返ってくるのが嫌で、私も次第に質問しなくなってゆきました。

一方で、逃れられない死の不安の解決をしたい、という気持ちから、サークルの活動に必死についてゆき、いつの間にか、同じ学年の中では、先頭を切って、突っ走っていました。

教義に対して、深く考察することがなくなって、「このサークルの先輩たちが言うこと、そして、高森顕徹先生の言われることに間違いがあるはずが無い」という思考が働いてゆきました。
サークルで聞く「親鸞会の教義」を、無条件で受け入れるようになってゆきました。

それにはいろんな要因が考えられます。

・まず、一日のほとんどの時間を、親鸞会の教義を信じている人たちと接していること。

・自分がこれだけ、時間もお金も費やしていることが、間違いであっては困るという心理が働いたから。

・それらのことから、仏教こそ、真実であると思い込むようになり、お釈迦様、親鸞聖人のような、歴史的にも多くの人から認められている方々の言われることに、嘘があるはずがない、という権威付けが働いたから。

こうしてますます親鸞会の教義は真実である、と思うようになりました。

世間の価値観との対立に魅力を感じた

ほかにも、私が親鸞会にのめりこんでいった理由はいくつかあるように思います。

その一つが「親鸞会の教義」は、「世間の価値観と真っ向から対立」しており、そして、自分に自信を与えてくれるものであったということです。

今までどちらかと言うと、内向的だった私にとって、自信をもって人に話すことの出来る話題など、ありませんでした。
そんな中、「親鸞会の教義」は大変魅力的でした。

世の中の価値観に対して批判のメスを入れ、世間の人の考えと、真っ向から対立する「親鸞会の教義」に私は強くひかれてゆきました。

親鸞会の破邪顕正の活動は、「自分だけが真実知らされている」との信念で、世間の価値観に真っ向から対立する活動ですから、私の中で、日に日に魅力的なものとなってゆきました。

当時はあまり自覚はありませんでしたが、はっきり言って、酔っていたと思います。

これらのことから、「親鸞会の教義」に対する疑問は、一時棚上げ状態となり、自分の納得のゆく、共感する部分だけを支えに、親鸞会の活動にのめりこんでゆくことになりました。

そして、聴聞、勤行、破邪顕正の活動、教学の研鑽、後輩の育成指導など、積極的に行うようになってゆき、自分のもてる時間とお金と体力、精神力の大部分を親鸞会の活動の為に費やすようになりました。

親鸞会での活動が、生活の柱であり、「親鸞会の教義」が私の思考の中心となってゆきました。
完全に「親鸞会の教義」こそ、「真実」であり、「大宇宙の真理」と思い込んで、一所懸命、活動していました。

活動する中で、その都度、棚上げにしていた疑問が出てくることはありましたが、自分がやってきたことを正当化する心理が常に働き、深く分析する心はなく、今、活動をやめるか、このまま突き進むか、と選択する上では、それらの疑問が、活動をやめさせるほどの力を持ちませんでした。

いや、私にとって、親鸞会を選択すべきかどうか、本当に悩んだことが、1度ありました。

その時は、「まだ親鸞会にかける可能性は残っている」「疑問は棚上げのまま、親鸞会の教義を選択して正しいのかどうか、自分の人生を実験台にしよう」と思いました。

その時の思考については、今でも、いつ、どこでそう思ったのか、ハッキリと覚えています。

そうして、私は親鸞会の幹部として、10年以上、活動に専念してきました。

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2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか

皆さんの中には、「おかしいと思ったら、すぐにやめればよかったじゃないか」と思われる人もいると思います。

私が様々な疑問を持ちながらも、なぜ、学生時代にすぐにやめなかったのか、いや、やめることが出来なかったのか。

そこには、やめるという選択肢を決断させない、様々な要素がありました。

多くの時間やお金をつぎ込んできたので、今更やめられない
私は大学入学手続きの日に声をかけられ、入学前の春休みには行事に参加しており、大学が始まってからは、ほぼ毎日、部会に参加していました。

当時行われていた、高森先生の全国各地での御法話にも、毎回、参詣していました。

平日は、放課後になると、部室へ向かい、部会に参加し、そのあとは、先輩の話しをきき、自宅に帰るのは、夜10時、11時、日によっては終電で帰り、12時を過ぎることもありました。

土曜日も、個人的な時間は過ごさず、部会や地区全体で行われる講演会に参加し、日曜日には、全国各地へ飛び回っていました。
GWや夏休みも、ほぼ毎日部会に参加し、遠方で行われる合宿にも毎回参加していました。

趣味に打ち込んだり、親鸞会の活動以外のことで過ごす日は、ほとんどありませんでした。
そして、これらの活動を続けるには、当然、相当の経費も必要で、アルバイトもかなりやりました。

体力的にもかなり厳しく、常に体はクタクタでした。

こうして、私は自分のもてる時間とお金と体力の大部分を、親鸞会の活動に費やしてきましたので、自分でも気づかないうちに、「これだけ、時間もお金も体力もつぎ込んでいるのだから、それが無意味に終わってしまったら困る」という思いがあったと思います。

「そんなことはあってほしくない」という思いから、親鸞会の教義や活動を、なんとか正当化しよう、という心理が自覚もないまま、常に働いていたと思います。

普通は、自分のやっていることに少しでも疑問を感じ、おかしな部分や悪い所がみつかると、それを正そうとするものですが、相当の労力を費やしている分、上記のような心理となり、自分のやっていることを正当化する心が働いて、多少、疑問をもったり、おかしいと思うようなことも、「まあ、いいか」と流してしまうことが少なくなかったと思います。

そして、「おかしい」と思うことは軽く流され、「正しい」「なるほどその通り」と思う部分のほうが、自分の心に中に、より強烈に残り、「やはり親鸞会の教義は正しく、自分のやっていることに間違いはなかった」と思うようになったものでした。

こうして私は、親鸞会の活動に時間やお金や体力をつぎ込めばつぎ込むほど、より強く「親鸞会こそ正しい」と思うようになっていきました。

「あいつは仏教を全然分かっていなかった」と言われたくなかった
幹部として活動するようになると、当然、大学のサークル内でも立場があがり、ま た先輩ということで、プライドも出てきます。

そんな中で、親鸞会をやめれば、「やはり、あいつは仏教を全然わかっていなかったのだ」と言われますが、そのように言われたくない、という気持ちがありました。

もともと、「親鸞会の教義」には、反証不能な部分が多く
「種まきの結果が、本当に返ってくるのかどうか分からない因果の道理」や、「三世」「必堕無間」「阿弥陀仏」といったことが、本当に大宇宙の真理かどうかは、どれだけ、議論しても答えは出ないのです。

だから、否定もできませんが、かといって、「これこそ大宇宙の真理」だなどということは、少なくとも言葉の上では、論理的に納得のゆくことはありませんでした。

そんな教義に対して、「あいつは分かっていないヤツだ」といわれたくはありませんでした。

そんな気持ちから、「親鸞会をやめる」という決断にブレーキがかかっていたように思います。

多くの素晴らしい先輩や友人がいて、彼らと別れたくはかった

大学に入学する前(入学手続き)から、親鸞会に声をかけられ、その後、昼休みや放課後はほぼ毎日親鸞会の活動に参加し、毎日会う人といえば、親鸞会のサークルの先輩や同輩たちだけでした。

大学に入って、最初に出会った親鸞会のサークルでは、新入生は先輩と接することがほとんどで、あまり新入生同士で話しをしたり、新入生同士だけで接する機会は少なかったように思います。

新入生同士をくっつけても、前向きな話しにはならないので、サークルの先輩たちは、「引き離し対策」といって、極力、新入生同士を近づけないようにしています。

私も先輩になり、幹部として活動するようになってからは、このようなことを積極的に行っていました。
それが、後輩のためだと信じて、疑いませんでしたから・・・。

そのような環境にあって、大学に入学して、最初に出会った親鸞会のサークル内でしか、人間関係を築いてこなかった私にとって、大学に親鸞会の人たち以外の友人は、ほとんどおらず、親鸞会をやめることは、私にとって、大学で孤立することを意味していました。

人間的にはやさしい先輩や、気の合う同輩もたくさんいましたので、そのような中から、やめるというのは、よほどの覚悟がなければ出来ないことでした。

もちろん、親鸞会をやめても友人関係をたもてば、お互い接する機会はあるのでしょうが、私の知る限り、親鸞会をやめても、会員と接している未会員や、未会員と接している会員の人は、ほとんどいないようにも思います。
活動が忙しく、自然に会員と未会員は縁が遠のいてしまうものでした。

こういった事情により、私はやめるということを、積極的に考えられなくなっていました。


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3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か

こうして、私は10年以上もの間、親鸞会で幹部として活動してきたのですが、この10年以上の活動を支えてきたものは、私の場合は「親鸞会の教義」は「大宇宙の真理」であり、「自分だけが真実知らされた者」という優越感にも似た使命感であり、そして「親鸞会で聴聞を続ければ、死の不安を解決することが出来る」という教義の魅力でした。

しかし、それらの心の支えが、自分の中で次第に弱くなってゆきました。
それについて、これから説明したいと思います。

「聞けば必ず納得できる論理的な教え」なのか?

私はすべての疑問が解消されて、「親鸞会の教義」こそ真実だと確信して、「親鸞会の教義」を選択した訳ではありません。
先ほども述べたように、持っている疑問は『棚上げ』にして、活動に専念するようになりました。

一般的に、宗教といわれるものは、「経験的・合理的に理解し、制御することのできないような現象や存在に対し、究極的な意味と 価値を与えようとする信念・行動・制度の複合体系」(三省堂『辞林21』より)です。

私は理系的な頭を持っているからかも知れませんが、理性や論理性を重んじています。
親鸞会に勧誘された時に、「論理的な話しだから、聞けば必ず納得できる」と言われて、そこに魅力を感じましたが、実際はそうではありませんでした。

いつまでたっても解消されない疑問がたくさんありました。
しかし、なぜそれらを棚上げにして、活動に専念するようになったかと言うと、「親鸞会の教義」の中に、納得できる部分も、たくさんありましたし、また、「これだけ打ち込んでいる自分の努力が、むなしく終わっては困る」という心理が、かなり自分の選択に影響を与えていたと思われます。

しかし、あらためて感じることは、「親鸞会の教義」は「論理的な話しだから、聞けば必ず納得できる」というものではなく、信念により信じ込んでいる「宗教的信仰」である、ということです。

そして、このことを認められない親鸞会会員(特に学友部員)が少なくないと、私は思います。
信教の自由が保障されている日本で、人がどんな信仰を持とうが、他人に対して、迷惑をかけなければ、それは自由だと思います。

しかし、一宗教団体の教義を、「これこそ大宇宙の真理」であり、「我々しか真実知らされた者はいない」という観念を持つことは、それがあまりにも強烈な場合、「他の意見や思考を受け入れられず、批判が許されない」という思考が構築されてしまいます。

それは、人とのつながりをもって社会の中で生きてゆく上で、また、一人間としても、極めて危険だと感じます。
親鸞会(特に学友部)には、そのような危険があるのでは、と疑問に思っています。

だから、私は親鸞会会員の皆さん(特に学友部員)に、「自分は一宗教の教義を、宗教的信仰により信じている者」だというアイデンティティーを持ってもらいたいと思っています。
私の知っている限り、そのような理解をもっている講師部の人や、支部会員の人は、もちろんおられます。

しかし、宗教に対する偏見を極めて強くもつと思われる若者に対して、「聞けば必ず納得できる論理的な教えだ」といって勧誘する学友部においては、私の言う、上記のようなアイデンティティーをもっている人は、比較的、少ないのではないか、とかつての自分も含めて、そのように感じます。

その結果、「我こそは大宇宙の真理を知らされた者」という正義感や、「自分は真実知らされた者であり、世間の人は、真実知らない人たち」という発想を持ち、相手を理解する心が弱くなり、家族関係などに問題が生じることもあります。 

親御さんに心配をかける学友部員が多々あり、また、ボランティア活動など、社会の動きに対する親鸞会の意識の低さも、そのあたりに現れてきているのではないか、と個人的に思います。

ボランティア活動で知らされたこと

私は学生時代に、ボランティア活動に行きたいと思いましたが、丁度、新入生勧誘の準備期間で親鸞会の活動が忙しい時期でした。
先輩に相談すると、具体的に「行け」とも「行くな」とも言われませんでしたが、あきらかに私がボランティア活動に行くことには、消極的な人が多かったです。

結局、私は3泊4日で、ある災害の被災者の方々の支援をする活動に行きました。
そこには全国から、多くの学生が集まっていました。
私は、公園でテント生活をしているおばさんや、今にも崩れそうな、危険を示した「赤紙」の貼られた自宅に、いつまでも居座り続けるおじいさんなど、被災に苦しむ多くの人に出会いました。

今まで、「親鸞会の教義こそ真実」という価値観を持った人ばかりの中で生きてきた私にとって、これらの人たちと接して、いろいろ考えさせらることがありました。

親鸞会の学友部では、活動があまりにも忙しい為、それ以外のことに対する関心が低くなっているのだと思います。
もちろん、それらのバランスを自分でうまく調整できる人はいいのですが、そのような人は、私のみた限り、あまり多くはいませんでした。

聴聞への参詣、部会への参加、勧誘活動、後輩の育成指導、教学の研鑽など、大変忙しく、正直、なかなか他のことが出来ず、精神的にも疲れてくると、他のことを考えたくなかった、というのが当時の正直な感想です。


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4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか


私は幹部として、10年以上、親鸞会で聴聞し、活動を続けてきて、「このまま親鸞会で聴聞を続けても、本当に信心決定できるのだろうか?」と思うようになりました。

そう思うようになった理由は、以下のようなものです。 

高森先生の説法の質が落ちてきたと感じる
私のような者が高森先生の説法について、何かいえる立場でないことは十分承知しています。
これから書くことは、あくまで、私の心に現れた単なる感情です。

しかし、それなりに長い間、思い続けてきた素直な気持ちです。

御法話もそうですが、特に教学講義でこのことを感じました。

教学講義では、はじめて参加する人もいるので、おおざっぱな把握でありますが、午前中は前回の復習で、午後の前半か、後半から、新たな展開で話しがなされる、といったことが多かったように感じます。
(もちろん、聴聞の始まる前から、このような予測をたてて、聞いていた訳ではありません。あくまで、大雑把な主観的な思いです)

しかし、最近は、初めてきた人に対するような話しがほとんどで、そういった話の繰り返しです。
初めて参加した人にとっては、分かりやすい話しなのかも知れませんが、正直、「うーん・・・」と感じてしまうような内容が、特に最近増えてきたのでは、と思うようになりました。

アシスタントの人の話は比較的少なく、高森先生自ら話しをされるのですが、「この間もまったく同じことを聞いたな・・・」という話しが、特に最近増えてきたのではと、正直感じてしまうことが多くなりました。

「この話しをこれからも未来永遠聞き続けるのか…」と考えると、心が暗くなってしまいました。

高森先生も高齢ですし、相当疲れておられると思います。説法の内容に対するその影響は、少なくないと思います。

このように言うと、「同じ話しを聞くのが仏法なのに、全然分かっていないヤツめ」と言われそうですが、もし、現会長が亡くなるときに遺言で、「これからは、私のこの話しだけを聴聞しなさい」と言われ、ビデオ御法話テープ1本を残されたら、どうしますか?

本部に参詣しても、地元の講演会に参詣しても、聞く話しはこればかり。

もちろん、蓮如上人いわく「いつも珍しく初めたるように」聞かせて頂くのが仏法であり、「珍しいことを聞きたがる」のが、間違った信心の特徴ですが、高森先生の説法の質が落ちてきたと感じている人は、私の周りにも少なくありませんでした。
それらの人の声を聞き、「自分と同じようなことを、他の人も感じているんだなぁ」と思ったものでした。

聴聞のたびに、自分の心の中に「また、あの話か」という感情がこみ上げてきてしまいます。

もし、仮に上記のような遺言がのこされ、そのとおりになれば、会員数は激減すると、私は思います。

最近の高森先生の説法を聴聞していると、正直なところ、まさにこのような心境になりました。

周りの人たちが、あまり真剣に聴聞していない

前の方で聴聞している講師部の皆さんは、まばたきもせず、ど真剣に聴聞されているのかも知れませんが、少し後ろの方にいくと、あきらかに周りの人たちが真剣でないことが分かります。

フラフラしている人、
眠そうな目を頑張ってあけている人、
「また、この話しか…」と目で訴えている人、
たいくつそうに首や肩を動かしまくる人、
そわそわして聴聞に集中していない人、などなど。

あきらかにご縁の薄い学生だけがこんな感じなのか、と今までは思っていましたが、それなりに会員歴の長い人も、このような状態の人が特に最近少なくないです。

おそらくですが、それらの人は、私と同じようなことを感じて、聴聞に魅力を感じず、集中できないのだと思います。

顕正新聞に載るような、今をときめく、学院を目指したり、特専部にまもなく行くような幹部の学生たちも同じ状態だったのには、多少驚きましたが、おそらく心の中は同じようなことを考えているのでは、と思います。

とても信心決定しているとは、思えない

高森先生の説法の質の低下、周りの聴聞姿勢、そして自分の中の感情、これらの主観的観測から、「このまま聴聞をし続けても、とても信心決定できるとは思えない」というのが、今の正直な気持ちです。

私は自分なりに、10年以上、全力でひたすら親鸞会の活動に励んできました。

現会員の皆さんから見れば、「全然教えが分かっていない、もうちょっと教学を勉強したら?」と言われそうなことを書いていますが、それでも今までは、心の底から「親鸞会と運命を共にする」という気持ち一つで、進んできました。

しかし、もう限界です。
これ以上は、私の気持ちがついてゆきません。

やはり、「親鸞会の教義」を「大宇宙の真理」だと思うのは、一つの「信仰」であり、「宗教的信念」です。
私の場合は、その信仰心がなくなってしまった、ということに過ぎないのだと思います。

私は学生時代に勧誘され、当時、先輩とも相当、話しをしました。
(少なくとも他の新入生以上には)しかし、それでも晴れない疑問が数多くありました。

結局、反証不能な疑問をかかえているままでは、埒があかないので、それらの疑問は一時棚上げにして、教義のうなづける部分を心の支えに、「親鸞会の教義こそ真実」と一生懸命信じて、教学の研鑽、顕正活動、後輩の育成、報連相の徹底、活動における企画立案、勉強との両立、家族問題の解決、など、朝から晩まで、親鸞会の活動に専念し、種まきに徹してきました。

しかし、それでも信心決定など、夢のまた夢でした。
そして、最近は上記のような気持ちになりました。

幹部をつとめ、多くの講師部員の人たちとも接してきましたが、講師部の人たちの中で、 信心決定している人は、本当にいるのでしょうか。

「全員を調べた訳でもないのに、勝手なことを言うな」と言われるかもしれません。
しかし、逆にそれだけ自信があり、「講師部員の中にも信心決定した人がいる」と思われ、それを示したい人がいるなら、講師部員全員に聞いてほしいと、切に願います。

私のような疑問を持っている人が、会員の中にも少なくないからです。

講師部の皆さんに、「あなたは信心決定していますか」「講師部員で信心決定した人がいたら教えてもらえませんか」と聞いてみて下さい。

一人ひとり聞くのが難しければ、布教局長か講師長にたずねて調べて頂けばいいでしょう。
物理的には極めて簡単な作業です。
また、本当に信心決定している人がいるならば、それこそ、できる筈です。

おそらく「講師部員で信心決定した人」は出てこないのではないか、と思います。

「誰が信心決定したか、していないかなど、個人の求道には関係のないことだ」と言われて、調べることさえ、許されないとも思いますが。

「その通りではないか」と言う人もいるでしょうが、親鸞会の中枢で、他の誰よりも「親鸞会と運命をともにする」という気持ちにあふれ、高森会長の御心を誰よりも多く、深く聞いてきた人たちの集団の中から、一人も信心決定する人があらわれないのは、本当に不思議でさえあります。

また、『法戦4』の中に、歎異抄研究会(親鸞会)と、仏教哲学研究会(創価学会)との法論が書かれています。

その中で、歎異抄研究会は、仏教哲学研究会にこのようなことを何度も述べて、返答をせまっています。

「釈迦の法華経にとかれている教説を、現今、如実に実践できる人がいるのか、いないのか。」

「釈尊と同じ境涯にいたった人が現在いるのか、いないのか。いたらその人の名を列記せよ、と 尋ねているのである。難しい質問ではないはずである。」

結局、仏教哲学研究会は、最後までこの質問に対して、遠まわしな言い方をして、直接答えようとしませんでした。

本当に親鸞会の会員で、そして講師部員の中で、信心決定している人はいるのか、いないのか。
いたらその人の名を教えてほしいものですが、私は少なくとも、この10数年活動してきて、親鸞会の中で、信心決定した会員、講師部員を聞いたことがないように思います。

歎異抄研究会が再三、仏教哲学研究会にせまったように、「もし、いるなら、その名を列記してほしい」です。

このようなことを考えると、私は信心決定できる、とはとても思えないのです。

このような気持ちから、私はこれ以上、時間とお金をかけて、高森会長の下で聴聞する魅力や 必要性を感じなくなってしまいました。

おそらくですが、私のような気持ちになった人は、私一人ではないと思います。

なぜなら、会の中で、同じように幹部として活動している会員や、一般会員の人たちに、自分自身の気持ちを正直に打ち明けると、同じことを考えている人が、一人や二人ではなかったからです。

では、なぜそれらの人は、私と同じような気持ちになりながら、それでもなお、親鸞会に居続けるのだろうか、と考えました。



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5.なぜ、親鸞会に居続けるのか


なぜ、親鸞会に居ても信心決定出来ないだろうと、多くの人が内心思っているのに、親鸞会に居続けるのか。
自分の心を見たときに、以下のような理由が考えられました。

桃源郷を求めて

人生というものは、自分の思い通りにならないことばかりで、長く生きれば生きるほど、多くの苦しさを感じるもの、と実感している人は少なくないのではないか、と思います。

そんな人生にあって、「どこかに本当の幸せになれる世界があるのではないか」と考える人類の発想は、過去多くの人たちが抱いてきたものだと思います。

そのような本当の幸せの世界が、「ここではないどこか」にあって、人はそれを「ユートピア」とか「桃源郷」「ガンダーラ」「シャングリラ」などという言葉で表現してきたように思います。

親鸞会の人たちは、そんな理想郷を求めて夢見る人たちだと、私は思います。
いつかはできるのかもしれない、「信心決定」を夢見て、果てしなく追い求める人たちだと接していて感じました。

これはあくまで例えですが、親鸞会の会員の人たちは、人間の願望である「不老不死の薬」を求めて、永遠に旅する人たちのようにも感じます。
(もちろん、信心決定=不老不死ではありません)

手塚治虫の漫画『火の鳥』にも、そのような人間の願望が、描かれています。
親鸞会の会員の人たちをみていると、どこまでも、どこまでも、見つかる可能性の分からない、そんな理想を求めて夢見る人たちのように、感じました。

居心地のよさを求め、親鸞会に居続ける

人は生きていく中で、様々な人間関係にもまれ、多くの苦難を体験し、自分でも気づかないような心の傷を負っている人は少なくないように思います。

そして、私もその一人だと思います。

私は「親鸞会の教義」を聞いて、「確かに論理的に納得できる話しばかりだ」「まやかしものの多い宗教の中にあって、親鸞会こそ、真実を教えた唯一の団体だ」と思っていました。

しかし、「親鸞会の教義」は「論理的で合理的な、誰もが聞けば納得する話し」でないことは先ほど、述べたとおりです。

では、なぜ私は親鸞会に魅かれていったのかと考えると、やはり私もまた、自分でも分からない心の傷をいやしてくれる何かを求めており、それを親鸞会に見出したのではと、思います。

もちろん、私は信心決定したくて、それが目的で親鸞会に入会し、そして今では、このまま親鸞会で聴聞を続けても、信心決定は出来ないだろう、と感じ、やめました。

そんな私でも、親鸞会に癒しを求め、居心地のよさを感じ、なかなかやめることを決断できず、親鸞会に居続けたというのは、否定できないところです。

当初の目的であった信心決定は、今はもう理想にすぎず、親鸞会会員として居続ける本当の目的は、もうそこにはなく、「心に傷をおった自らの居場所」を親鸞会に求める人もいるのかもしれません。

これはまったく私の思いですが、親鸞会会員の中には、どうも、「信心決定が目的であり、日常生活の中でも、信心決定一つに照準を合わせて、選択肢をえらんでいる」と思えない人が少なくなかったからです。

もし、信心決定一つが目的であれば、「どうすれば自分は信心決定できるのか」と、もっと話し合いや意見交換がなされる筈ですし、それを必死で求めて、得られなかった時の悔しさは、たとえば、親鸞会の法話会場で、最後に「恩徳讃」が唱和された後など、必ず出てくるものだと思うのです。

しかし、聴聞したあとの会員の多くは、足早に会場を離れ、「いかにして早く帰るか」といったことに心を奪われていると思わずにおれない人も、少なくありませんでした。

もちろん、私の接してきた会員の人の中には、毎日、信心決定できなくて悩んでいるような真摯な人もおられましたが、非常に少ないのでは、と感じました。

毎日、同じテープを聴聞し続ける支部長の人たち

それは、私の知っている講師部員(支部長)の何人かが、ビデオ御法話を聴聞しているときの目や態度にも表れていると、感じました。

私は講師部の皆さんの活動を、ただ感情的に「おかしい」とか、「間違っている」と否定するつもりはありません。
私に一生懸命お話しくださり、私の仏縁を守るためにご苦労されているのは、他ならぬ、私自身が身近でよく接してきましたので、それはよく分かります。

ただ、これから言うことは、私が実際に、心で感じたことです。
本当に素直な気持ちです。

支部長の人たちの中には、毎日のように同じテープを聴聞している人も少なくないのかもしれませんが、ビデオ御法話が始まってしばらくすると、そわそわしだしたり、眠気をこらえるために目をこすったり、目は開いていますが、あきらかに意識朦朧としている様子だったり…

そこには、「この一座でなんとしても信心決定を」という気持ちは、少なくとも私はあまり感じられず、ただ生活の為に、それらの任務をこなしているといったことを、大変、失礼で申し訳のないことですが、正直、感じる人がありました。

もちろん、人のことを言える立場ではありませんが、ここに述べていることは、私の心の中に出てきた正直な思いです。 

もし、私も親鸞会の職員であったり、結婚相手や家族が長年の親鸞会会員なら、生活の安定を求め、人間関係のしがらみから、親鸞会に対して、様々な疑問を抱きつつも、会員をやめていなかったのかもしれません。


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6.最後に


私にとって、長年続けてきた親鸞会を辞めることは、居心地のよかった場所を離れ、今まで築いてきた人間関係もなくし(弱くなり)、大変苦しい選択ではありますが、しかし、それよりも、限られた時間やお金、体力や精神力を親鸞会の活動の為につぎ込むことに魅力を感じなくなってしまいました。

上記のような気持ちから、これ以上、親鸞会で聴聞を続け、親鸞会の会員であり続けることに意味を見出せなくなりました。

私はこれ以上、「親鸞会と運命をともにしよう」という気持ちはありません。

これが私の正直な気持ちです。

以上が、「なぜ私が親鸞会をやめたのか」に対する答えです。

「親鸞会の教義」に対する疑問を棚上げにし、自分の人生を実験台にしてまで、親鸞会の活動に10年以上もの歳月をかけて、専念してきましたので、その結果、得られた今の自分の気持ちに、後悔などはまったくありません。

これは、やめた者にしか分からないのかも知れませんが、不思議な安堵感と、開放感に満ち足りています。

これから、親鸞会が10年後、20年後、どうなってゆくのか、静かに見守り、自分の選択が正しかったのかどうか、今後、講師部員や、幹部の中から、本当に信心決定する人が現れてくるのかどうか、見届けたいと思います。

※このサイトを読んだ『親鸞学徒の1人』と称する方から、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』と題されたサイトが公開されました。
私の言ったことが誤解されていると思われる部分が少なくなく、新たに『続・なぜ私は親鸞会をやめたのか』と題するサイトを公開致しました。是非、ご覧下さい。



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続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

まえがき
私は10年以上、親鸞会で幹部として聴聞と活動に専念してきました。

しかし、もうこれ以上親鸞会の活動にはついてゆけない、と思いやめることを決意しました。

そこで、やめるにいたった気持ちを『なぜ親鸞会をやめたのか』というサイトに書きつづったのですが、それを読んだ『親鸞学徒の1人』と称する方から、反論サイトが公開されました。

そして、そこには、
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そして、「この人は本当に親鸞会幹部として長い間、聴聞された人なのだろうか」という疑問までが生じてきたのです。

何だろう、この変な感じは?と思いながら読んでいくと、最後まで読んで、ああ、 そうか、と納得できました。

これは、今後親鸞会とご縁を結ばれる方にとっても、現在会員になっておられる方にとっても、また、すでに退会された方にとっても、非常に大事な問題を含んでいますので、 親鸞学徒の一人として、そのことを、これからお話してみようと思います。

(「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで)
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と書かれていました。

私が親鸞会幹部として長年聴聞した人間なのか、との疑問が書かれていましたので、 ここで「その通りです」とハッキリ答えておきたいと思います。
親鸞会学友部や支部の中で、聴聞、勧誘活動、後輩の育成、募財活動、活動の企画立案など、様々なことを、幹部としてやってきました。

また、この人の書いた文章の中に、私の言ったことを誤解されている部分が少なくないので、 この人の文章を縁として、私の気持ちをもう少し分かりやすくお話しできればと思います。

※本来なら元のサイトの中の1項目として掲載すべき内容だと思われますが、元のサイトには現在親鸞会弘宣部長様から、掲載資料について「著作権侵害」などの苦情を頂いており、念のため新たにサーバースペースをお借りし別に公開することに致しました。



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続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか


多くの会員が抱えている疑問

まず、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』では私の文章を読んで、
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「この方の退会の理由は、『信心決定という体験があるとは思えない』という一点に集約されているようです」

「そもそも信心決定の体験自体を否定しているのですから・・・」

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 6、因果の道理が分かっていない)
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と述べられています。

私は、「信心決定という体験があると思えない」「信心決定なんて、どうせ嘘っぱちだ」などと、言った覚えはありません。
信心決定の体験自体を否定してはいません。
信心決定の体験はあるのだと、私は思っています。

私が言いたいのは「親鸞会で聴聞を続けて、信心決定できるのか」ということなのです。
これは多くの会員の人が抱えている疑問です。
私の周りにもたくさんいましたし、私が幹部として活動していた時にも、このような質問をしてきた人が数多くいました。

だからこそ、親鸞会の講師部員や幹部会員の中で、信心決定している人がいたら教えてほしい、そして私だけでなく、同じ気持ちを抱いている人たちの疑問を晴らしてほしい、と言っているのです。

この人の文章の中でも、
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ハッキリ申します。
人生の目的なのです。
大宇宙の真理を体得するということなのです。
そんなに簡単に分かるものではありません。
しかし、真剣に聞き求める人には、必ず分かります。
人生究極の目的がハッキリするときが必ず来るのです。
それが、弥陀の誓願なのですから。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 5、信心決定はユートピア?)
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とありますように、自信一杯語られるのなら、親鸞会で「真剣に聞き求めている人」や、今まで「真剣に聞き求めてきた人」がいる訳ですから、もし本当に、親鸞会で聴聞を続けてゆけば、信心決定できるのなら、それらの人の中から、「私は信心決定しました」という人があらわれてほしいのです。

しかし、少なくとも、私が10数年幹部として活動し、接してきた多くの講師部員や幹部会員の中には、信心決定したと明言している人は一人もいませんでした。
それとも、信心決定した人はいたのでしょうか。
この反論を書かれた人はもしかしたら、信心決定した人なのかもしれません。
反論を書かれたあなたは、信心決定されましたか?
親鸞会で聴聞を長年続けておられる方だと思いますので、教えて頂きたいと思います。

親鸞会発行の法戦4について、前回も少し書きましたが、歎異抄研究会(親鸞会)は仏教哲学研究会(創価学会)に対して、「法華経には仏になる教えが説かれているが、実践不可能な高嶺の花であり、絵に描いたモチのようなもの」だと言っています。
 
私が「親鸞会の教義」における信心決定について言いたいのは、まさにこのことなのです。
信心決定という宗教体験は、あるのだと思います。
しかし、疑問なのは「親鸞会で聴聞を続ける講師部員や幹部会員の中に、果たして信心決定した人がいるのか?」ということなのです。
 
「まじめに聞けばハッキリするときが必ず来る」「誰もが信心決定できる」というのなら、信心決定した講師部員や幹部会員がいて、もちろんいい訳ですし、いるならその人の名を示してほしい、そして、私をはじめ多くの人の疑いを事実によって、少しでも晴らしてほしい、と言っているのです。
 
私は前回の文章に「信心決定が嘘っぱちだ」とは、書いてはいないと思います。
私の言いたいのは「親鸞会でまじめに聞けば、本当に誰でも信心決定できるのか」ということなのです。 

講師部員が信心決定の体験を語らないのは、語れないからではないのか

私は前回の文章で、「講師部員や幹部会員の人たちの中で、信心決定している人は、本当にいるのでしょうか」と書きました。

それに対して、今回、このように解答されていました。
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これには大切な理由があります。
救われた生々しい体験は一人一人まったく違うもので、たとえそれが真実の体験であったとしても、それを具体的に語って聞かせることは決して相手のためにならないからです。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 6、因果の道理が分かっていない)
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「救われた生々しい体験を語らない」理由は、私も教義的によく分かります。
私が聞きたいのは、「講師部員や幹部会員の中に、信心決定している人が本当にいるのか」ということなのです。
別に生々しい体験を語ってもらわなくてもいいです。

生々しい体験でなくても、信心決定して、信後の喜びを語っている人など、いないのでしょうか。
親鸞聖人は「生々しい体験」こそ語られていませんが、「信後の救われた喜び」は随所に語っておられます。
そのような「信後の喜び」を講師部員や幹部会員の中で語っている人を私はみたことがありませんし、そのような「信後の喜びの言葉」を聞いたことがありません。

信心の「生々しい体験」など別に語らなくても、本当に信心決定している人なら、「私は信心決定しました」と断言し、「信後の喜びの言葉」を語ることは、いくらでもできるはずです。

もちろん、誰が信心決定していようが、自分がしていなければ、自分の体験にはならないのはその通りですが、もし、信心決定している人がいないのなら、「親鸞会で聴聞を続ければ必ず信心決定できるのだ」という主張も、なんだか説得力にかけるように思います。
私の疑問は「親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか」なのです。

信心決定している講師部員や幹部会員はいるのか、いないのか。
そして、いるというのなら、誰なのか。

「イエス」か「ノー」の二者択一なので、簡単に答えられる質問だと思います。
そもそも、親鸞会発行の『法戦4』で歎異鈔研究会(親鸞会)が仏教哲学研究会(創価学会)にした質問と同じです。
自分たちがした質問なので、容易に答えられると思いますが、いかがでしょうか。

この質問にすぐに答えられないとしたら、それこそ、「親鸞会の講師部員や幹部会員には一人も信心決定した人がいないのでは」と思われても仕方のないことではないでしょうか。



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2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか


「そうにちがいない」「そうであってほしい」と「信じている」
私は「『親鸞会の教義が大宇宙の真理だ』と主張は、信念により信じているに過ぎないのでは」といった内容を書きました。
それは、私が多くの先輩に質問しても、どうしても、論理的に理解できないことが、少なくなかったからです。
 
それは、「反証不能な因果の道理の真実性」や「三世」「必堕無間地獄」「阿弥陀仏」といったことです。
多くの学生が同じ疑問を抱いています。
しかし、いつの間にか、そのような質問をする人はどんどん減ってゆき、みんな従順になってゆきました。

私は最後まで質問していましたが、何だか私だけが質問するのも、なかなかやりづらい状況になって、やがて、私も自分の中の質問を棚上げにして、活動にのめりこむようになってゆきました。

もちろん、疑問が解消された訳ではありませんでした。

しかし、私のこの疑問に対して、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』の中に、
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「じゃあ、どんな質問にも答える、というのは嘘か」と反論するかもしれませんが、決して嘘ではありません。
事実、多くの先輩たちが答えてくれたはずです。
しかし、この人には、納得できなかったということです。

世の中には、言葉で説明しきれないことはいくらでもありますし、どんな論理的な説明も、相手によっては、納得してもらえないことも、よくあることです。
その人の智恵や学問、経験などによっても、違うでしょう。
そういえば、「バカの壁」などという本もありましたね。
  
しかし、だからといって「俺の納得できないことは、嘘だ」というのでは、あまりにも子供じみた、幼稚な考えではないでしょうか。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 2、親鸞聖人の言葉 その1 歎異鈔)
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このような部分があります。
言われていることはよく分かります。

しかし、私は自分の疑問に対する、論理的に理解できる説明は受けてはいません。
「こちらは説明したが、あなたが納得しなかっただけ」というものでは、決してありません。

その証拠に、「反証不能な因果の道理をどうして大宇宙の真理だと判断できるのか?」「三世や阿弥陀仏といったものの存在を、どのように論理的に理解できるのか?」「なぜ、死後、無間地獄に堕ちるなどと断言できるのか?」といったことを、講師部員や幹部会員に聞いても、おそらく「論理的な説明」は返ってはこないでしょう。

「親鸞会の教義を大宇宙の真理である」と思っているのは、因果関係が示され、論理的に解しているのではなく、信念により「そうにちがいない」「そうであってほしい」と「信じている」のです。

それとも、親鸞会、特に学友部で活動している講師部員や先輩たちはみんな、論理的に言葉で説明を聞いた上で「なるほど、だから反証不能な因果の道理も、三世も、阿弥陀仏も、すべて大宇宙の真理なのか!」と理解されたのでしょうか。

何度も書きますが、親鸞会の会員の人たちが、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と思っているのは、「信念により信じている」からです。

親鸞会学友部の勧誘における問題点

私も学友部で活動している間、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と「論理的に、客観的に理解した」と思っていました。
しかし、そうではなかったので「信念により信じていた」のです。

宗教的な信仰により、「親鸞会の教義」を信じるのは、個人の自由ですし、私はそのような価値観の人があってもいいと思っています。

しかし、私が問題だと思うのは、「信念により信じている」ことなのに、「話しを聞いてゆけば、誰でも論理的に納得ができる」「話されることはすべて真実なので、まともな人なら誰でも論理的・客観的に理解できる」と言って、親鸞会学友部では勧誘が行われていることです。

つまり、勧誘を行っている講師部員や先輩たちの多くが、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」ということを「信念により信じている」のに、自分では「論理的・客観的に理解した」のだと思っているのです。
私もずっとそうでした。しかし、この思いは間違いでした。

私は親鸞会学友部の活動の中には、「教義の真偽に関係なく、信じ込ませる作用がある」と考えています。
活動の流れにのって、毎日のように部会を聞き、周り中、「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理である」と信じている先輩や講師部員に囲まれていれば、自分もいつしか、同じような気持ちになり、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と信じるようになるのだと思っています。
これは私が実地に体験してきたことです。

そして、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』中に、こんな文章もありました。
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そして、これらは反証不能だと言っています。
そのとおりです。
なぜなら、これらはいずれも仏説であり、大宇宙の真理そのものなのです。
そして、 それがまったく疑いなくハッキリ知らされるのが、信心決定という体験なのです。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 2、親鸞聖人の言葉 その1 歎異鈔)
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教義的に言えば、信の一念ですべてが、「そうであったのか」と知らされるということでしょう。
言われることはよく分かりますし、私も人に、このように話しをしてきました。

ですから、信心決定した人にとっては、なるほどそうなのかもしれませんが、信前の人にとっては、あくまで、想像の世界に過ぎず、「信心決定したらそうなるのか、と『信じている』」ということでしょう。

少なくとも、「反証不能な命題」ですので、言葉で論理的に説明できるものではない、ということです。
それは、この人自身が「体験によって知らされる」と書いている通りです。
体験しなければ分からないことであり、論理的・客観的に言葉で説明できるものではない、ということです。

親鸞会学友部で、部会を聞き続け、そして様々な活動に身を投じてゆくと、「親鸞会の教義こそ、正しいに違いない」「親鸞会の教義こそ、大宇宙の真理」だと『信じようと思う』心理が、少なからず働きます。
まじめに活動して、のめる込んでいる人ほど、そうなります。
私もそうでした。

そして私はそれが、「マインドコントロール」なのではないか、と思うのです。


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3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味


親鸞会に入信させる過程でマインドコントロールが行われているのでは

「親鸞会ではマインドコントロールが行われている」という批判がありますが、それに対しても、このような解答が書かれていました。
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高森先生が教えられることも、この信心決定という体験のあること、これこそが真の人生の目的であること、これ一つです。
いつも、講演のはじめに、蓮如上人の遺言を述べてから説法されますが、心はまったく同じなのです。

この体験は、マインドコントロールとか、思い込みとか、自己陶酔といったものとは、まったく次元の異なるものです。
それらを仏教では、自力の信心といいますが、その自力の信心がすべて廃った、まったくの他力の世界です。
体験した人には、火にさわったよりもハッキリします。
まさに、驚天動地、真実としかいいようのない体験なのです。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 5、信心決定はユートピア?)
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ここでは、「信心決定の体験は、マインドコントロールといったような安っぽいものではない」といいたいのでしょう。
私も「信心決定の体験がマインドコントロールなのだ」とは思いません。
それは、立派な宗教体験なのでしょう。

「親鸞会ではマインドコントロールが行われている」という批判は、「親鸞会に入信させる過程でマインドコントロールが行われている」ということではないでしょうか。

「信の一念の体験」のことを言っているのではありません。
マインドコントロールによって、信心決定したと思い込ませている、ということを言いたいのではありません。
それは、儀式により信心を授ける「土蔵秘事やそれに類するもの」か、それに近いのではないでしょうか。 

私の言っている「親鸞会ではマインドコントロールが行われている」というのは、「教義の真偽に関係なく、信じ込ませる作用が学友部の活動を続けてゆく中で働いている」という意味です。

何度も申しますが、「親鸞会の教義」には、どう考えても最初は受け入れられないものが少なくありません。
「反証不能な因果の道理の真実性」や「三世」「必堕無間」「阿弥陀仏」などなど。

しかし、とても理解しがたい教義でも、活動を続けてゆくと、「これこそ大宇宙の真理」と信じ込むようになってくるのです。
そこには、前回も少し書きましたが、以下のような様々な作用が働いていると思います。

費やした努力や金銭、時間があまりに大きかった
人間の心理として、費やした努力や金銭、時間が大きいほど、「自分の努力が無駄であってほしくない」 「自分の選択が間違いであってほしくない」という期待や先入観は大きくなるものです。

たとえば、時間については、学生時代は、ほぼ毎日、親鸞会の活動に参加していました。
平日は、毎日のように昼休み、そして放課後に部会があり、参加していました。
そして授業のない、土曜や日曜も、ほとんどすべて活動が入っており、私はほぼすべての行事に参加していました。

次に金銭についてですが、高森会長の御法話をはじめ、毎日の部会でおさめる御法礼、そして、様々な御報謝、そして交通費や宿泊費、また、親鸞会発行の書籍や、親鸞聖人のアニメをもとめるための代金など、少なくとも年間50万、幹部になった大学時代の後半や、大学卒業してからは、年間100万以上は、親鸞会関係のお金を費やしてたと思います。

そして勧誘活動にはすべて参加し、毎日、後輩への話し込みなどしていましたので、精神的にも、肉体的にも、かなりの労力をそそいで活動していました。
特に勧誘活動は、肉体以上に、精神的にかなりつらいものがありました。

もちろん、すべて信念ではね返していましたが、決して、楽なものではありませんでした。
これは、経験したことのある人なら、分かると思います。

こうして、私は自分のもてる時間、お金、体力、そして精神力を費やして、親鸞会の活動に専念してきました。
ですから、「これらの努力が無駄であってほしくない」「自分の選択が間違いであってほしくない」という期待や思い込み、先入観は、どんどん強くなっていったと思います。

偏った情報しか入ってこなかった。

私は平日も、土日も、多くの時間を親鸞会の活動にあてていましたので、「親鸞会の教義」を信じている人たちと接している時間がほとんどでした。
そして、毎日、同じ内容を繰り返し、聞き続け、また自分でも、まわりの人に、繰り返し話しをしてきました。

結果的には、親鸞会に反対するような情報はあまり入ってこなくなり、「親鸞会教義こそ、大宇宙の真理である」との信念は、ますます強固なものになっていったと思います。

権威付けにより、無条件に「正しい」「素晴らしい」と思い込むようになる

最初の頃は、先輩たちに疑問をぶつけていた私でしたが、やがて自分の質問にも妥協するようになってゆき、次第に活動にのめりこんでゆきました。
そうなると、「親鸞会の教義こそ、大宇宙の真理である」との思いは、上記のような作用により、だんだん強くなってゆき、次第に、「親鸞聖人やお釈迦様の言われたことだから」とか「高森会長がおっしゃっていることだから」といった理由で、無条件で受け入れるようになっていったと思います。

また、そうしなければ活動についてゆけませんでしたし、親鸞会のことを批判することに、かなりの罪悪感を感じ、「そんなことを考える自分が間違っているのだ」という気持ちになっていったと思います。

このような要因から、私はますます親鸞会の活動にのめり込んでゆき、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と思うようになりました。

ですので、親鸞会の学友部で活動している人は、最初に自分の中にあった疑問が、

 ・どのあたりで、棚上げ状態になったか

 ・いつ頃から、自分の中にある疑問を問うことをやめ、妥協するにいたったのか

を一度振り返るといいのではないでしょうか。
必ずそのような段階があるのだと思います。
自分の中にあった疑問が、論理的な説明を受けて、解消されたのではないと思われます。

なぜなら、自分の心に論理的に問いただせば、今でも、その疑問はあるからです。
その疑問に対して、今でも自分で論理的に説明ができずにいるからです。
「親鸞会の教義は大宇宙の真理」だと思うようになったのは、「論理的な説明を聞いて 納得した」のではなく、「信念により信じた」のです。 

もし、誰かから「なぜ、反証不能な因果の道理なのに、それを真実だと理解できるのですか」とか、「死後の世界があるだなんて、どうして理解できるのですか」「死後、必ず無間地獄に堕ちるなどと、なぜ断言できるのか」と聞かれたら、おそらく、誰も言葉で論理的に説明できる人はいないのではないでしょうか。

たまに新入生相手に、「死後の証明をしてみせる」と言って説明をし出す講師の人もいますが、論理の穴はいくらでもあり、そこをつかれたら、反論できないと思います。

なぜ、親鸞聖人の言葉を書かなかったのか

『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』では、「なぜ親鸞聖人の言葉がまったくないのだろう」と疑問が述べられています。

そのことについて、私の気持ちを述べたいと思います。

親鸞聖人の言葉は、親鸞会でも教えられていますが、ほとんどが信心決定した後の、信後の世界についての言葉です。
親鸞聖人が信心決定という宗教体験をされ、その体験から発せられた言葉なのでしょうが、私にとっては、その体験して知らされることの内容が、分からないので質問しているのです。

それは先ほども書いてきましたように、「反証不能な因果の道理を、どうして大宇宙の真理だと思えるのか」「なぜ、死後は必ず無間地獄におちるなどと、断言できるのか」「三世や阿弥陀仏といったものの存在を、どのように論理的に理解できるのか」という疑問です。

この疑問が解消されていないのに、なぜ私が親鸞会をやめるのか、という気持ちを書くにあたって、「親鸞聖人の言葉」が出てこないのは、当たり前とも思うのですがいかがでしょうか?

私としては、「親鸞聖人」や「釈尊」が説かれた世界について、何も知らない新入生に対して、「これこそが大宇宙の真理だ」と親鸞会学友部では言われるのですから、「なぜ、親鸞会の教義が大宇宙の真理と言えるのか」が分かるように、論理的に説明してほしいのです。

「親鸞聖人や釈尊が言われたことは間違っている」とは私は言っていませんが、「それが大宇宙の真理である」とは、無条件では理解できかねます。

親鸞会学友部で話を聞いても、論理的に理解できないことが多々あるので、「誰でも聞けば論理的に理解できる」と言うのなら、説明してほしい、と言っているのです。

もちろん、宗教を信仰するということですから、言葉で説明できないことを 「宗教的信仰」により「信じる」のは、人それぞれ信教の自由でしょうが、自分たちが「信念により信じている」ことを、「大宇宙の真理だから、聞けば誰でもわかる」と、論理的・客観的根拠があるかのように話し、そしてその活動の中において、自分たちの主張を信じさせる要素を多々含んでいることには、かなりの疑問と問題点を感じるのです。

ですから、私が親鸞会、特に学友部の人たちに言いたいのは、

 ・自分たちが宗教を信仰している宗教者であるという自覚をしっかりともつこと

 ・自分たちが思っている「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」との思いは、
 信念により信じた結果、自分の中で認めていることだと、しっかり自覚すること


そう自覚することによって、「どれだけ話しをしても理解してもらえない場合もある」ことや、「自分たちを理解してくれない人がいること」をしっかりと受け止めることが出来るのではないでしょうか。

「自分たちは大宇宙の真理を知らされ、全人類の幸せの為に活動しているのに、どうして家族や友人や、周りの人は理解してくれないのだろうか」と思っている人もあるかもしれませんが、それは、もっている信念が異なるからでしょう。

私は、親鸞会、特に学友部の人たちが、自分のことを正しく理解することによって、家族問題や友人関係の悩みなど、多くの問題を解決したり、また、自分を理解してくれない周りの人の気持ちも、しっかりと理解できるのではないかと思うのです。




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4.マインドコントロールの恐ろしさ


マインドコントロールには自覚も悪意もない

今まで述べたように、親鸞会学友部で活動を続けてゆくと、教義の真偽に関係なく、思い込みが生じてきます。
活動の中にそのような要因が多々あるからです。

教義に対する疑問が、活動を続けてゆく中で押し殺され、「正しいに違いない」と思い込むようになってゆくのです。
これを「マインドコントロール」と言っているのです。

親鸞会の人は、「親鸞会はマインドコントロールを行っている」と言われると、大変むきになって怒る人が少なくないように思いますが、マインドコントロールと言っても、「いかにも悪徳商人が私服を肥やすために、客をだまして卑劣な心理操作をしている」といったものではありません。

前回も書きましたが、親鸞会の講師部員や幹部の人の中には、人間的には大変やさしく、人情味がある人もいます。
学生をだまして、マインドコントロールを行い、お金を奪って私服をこやしている、といったことはもちろんですが、ありません。

しかし、逆に人間的にいい人も少なからずいて、本人たちも「自分がマインドコントロールを行っている」という自覚もなく、そして、受ける学生側も「自分はマインドコントロールを受けている」という自覚がないことが、一番恐ろしいのかもしれません。

以下、『マインドコントロールとは何か』(西田公昭・著)からの引用です。

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マインドコントロールされている人とはいえ、ごく「ふつうの日常」にみえる環境に置かれ、目にみえるような明らかな強制的な力を何ら自覚することがないのがふつう なのである。

それだけに、マインドコントロールは、実に強力な影響力を発揮するものであっても、 本人のみならず、周囲のひとびとにも気づかれずに行使されていることが多いのである。

このことは、マインドコントロールされて破壊的カルトのメンバーになっていると思う、 自分の子どもや知人に向かって、「あなたは自分の言葉で考えていない、自分の頭で考えてほしい」と訴えかけてみればわかる。
本人にとってみれば、あくまで「自分の頭で考えている」つもりであり、いくら知人や家族が繰り返し言っても、その主張している意味をまったく理解しないものである。

 (西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P52) 
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私は、「親鸞会の教義」を『論理的・客観的に理解して納得した』ものだと思っていました。
しかし、それは間違いでした。
そうではなくて、『信念により信じていた』のです。
もう少し分かりやすくいうと、正しいにちがいないと『思い込んでいた』のです。

最終的には、親鸞会が用意した解答を丸呑みにして、『信じ込んでいた』のですが、あたかも、自分が『論理的に明晰に理解した』かのように思っていたのです。

さきほどの引用に書かれていたように、私は最終的に、自分の頭で考えるのをやめ、 思考停止をして、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と『信じ込んでいた』のですが、 自分では、『思考停止をした』などとも『信じ込んでいた』ということも、まったく自覚はなく、あくまで『自分でしっかり論理的に考えて、正しい選択をした』のだと、思っていたのです。

ここに、マインドコントロールの恐ろしさがあります。
この技術を用いる側の人も、受ける側の人も、誰にも悪意はないのです。
この悪意のなさが、人を傷つけ、大変な影響を与えるのだと思います。
悪いという自覚がないので、その影響が大きくなるのです。

そして、人の一生に決して少なくない影響を与える信仰の問題を、このような手法によって、「教義の真偽に関係なく、信じ込ませる」訳ですから、そのマインドコントロールが解けたあとの人は、精神的に大変な苦しみを受けます。

「なぜ自分は、あんな教えを信じていたのか・・・」
「この数年間、親鸞会のために使った時間やお金、労力はなんだったのか・・・」
「親鸞会以外に人間関係を築いてこなかったが、これからどうすればいいのか・・・」

といった悩みをもつ人が少なくありません。

学生時代は、毎日のように「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理」と信じている先輩や講師部員に囲まれて、一日の大半の時間を過ごして、自分でもそのように信じていた人が、いったん社会に出ると、自分が論理的に納得して大宇宙の真理だと理解していた 「親鸞会の教義」も、宗教的信念により、信じているに過ぎなかったのだと思うようになり、親鸞会をやめる人が少なくない、という事実からも、親鸞会の学友部の活動の中で、 教義の真偽に関係なく、信じ込ませる作用が働いている、という証拠ともなるでしょう。

もちろん、社会に出ても「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理」という信念を持ち続け、会員として求めている人もあります。

しかし、その割合は大変低いと思います。
学友部の責任者をしている人が、「学生が卒業したら大半はやめてしまうので、自分たちの活動は意味があるのか、と思うと泣けてくる」と言っていたこともありますので。 

親鸞会におけるマインドコントロールと思われるもの

私は「親鸞会が意図的に、マインドコントロールの手法を学んで、活動の中で行っている」とは言いません。

しかし、マインドコントロールということについて、いろいろ勉強してゆくとあまりにも、マインドコントロールの手法と、親鸞会学友部の活動の中で行われていることが類似しているのです。

私は親鸞会で幹部として、新入生を勧誘し、先輩たちを育成する立場にいたので、自分の目でみて、そして体験したことから、「親鸞会におけるマインドコントロールと思われるもの」について、これから説明したいと思います。

以下、マインドコントロールについて書かれた書籍を引用しながら、説明いたします。

『マインドコントロールとは何か』西田公昭・著 より
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メンバー獲得のときに、組織名やその活動内容や目的を隠し、一般に人が警戒心をもちにくい、別のダミー組織を名乗って接近するという組織もある。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P16)
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親鸞会学友部では、新入生を勧誘するときに、「親鸞会」とは一言も名乗りません。
全国の多くの大学に、親鸞会のサークルが存在していますが、自分たちが「親鸞会」だとは、絶対に名乗りません。

「浄土真宗親鸞会」という宗教法人として認可された名前があり、部室の名義もほとんどは、その宗教法人名であり、部室の家賃なども、親鸞会が出資しているにもかかわらず、「親鸞会」という名前は、最初の勧誘では一切明かされません。

そして、「高森会長の説法を聴聞しに、富山県にある本部会館に毎月行く」ことや「財施と言って、献金をすすめられること」など、最初は一切説明されなかった自分たちの活動の中身を、新入生に対して、次々と小出しにしてゆき、いつのまにか、本人の意志で納得して選んだ形をとるのです。

もちろん本人が選んだ選択ではあるのですが、あとになって「自分はなぜあんな活動を続けていたのだろう」と言う人が、少なからずいることも、付け加えておきたいと思います。

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もし、メンバーが、何らかの理由により、その集団にとどまる魅力を失って、離脱したいと思っても、身体的、精神的、あるいは、社会的に離脱してゆくのが困難な状況が形成されている。

もし、ある個人がその組織を脱会しようとしても、新しい生活の支援となる社会的・経済的基盤が存在しないのである。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P17)
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「親鸞会をやめたい」と言うと、暴力で脅される、といったことは一切ありません。
しかし、多くの人は「先輩やサークルのメンバーに、今まで散々親身になってもらってきたので、今さら、これらの人を裏切ることは出来ない」という心理状況になります。

また、親鸞会の活動は、毎日のように昼休みや放課後、そして土日も行われているので、人によっては、親鸞会のサークル以外の人間関係を築いてこなかったため、サークルを抜け出しても、行くところがないので、「親鸞会をやめることで、自分はひとりぼっちになってしまうのでは・・・」という恐れから、なかなかやめられない、という人も事実、存在しています。

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精神面において、その集団内だけが安全な場所であり、集団の外部に出ることは、身の破滅につながるというように、神経症的な恐怖感を植えつけられている場合も少なくない。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P17)
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新入生が、親鸞会のメンバー以外の友達と付き合うこと(特に他サークル)を、 あまり快く思わない先輩が多いのが事実です。

サークル内では、新入生同士であっても「引き離し対策」といって、新入生同士で交流をもつことは、ほとんど出来ないように、先輩たちの監視の目が行き渡っています。
最初の頃に、新入生同士がケータイのメールアドレスを交換しようとすると、先輩たちはできるだけ、それを阻止しようとします。

この行動の背景には、自分たちの集団の外の人たちを、「『どう生きるか』しか知らない人たち」というカテゴリーでひとくくりにする発想があるからだと思います。
それらの人は「親鸞会の教義は大宇宙の真理」だと理解しておらず、えてして、自分たちの活動を反対してくるので、できるだけそれらの人に、新入生を近づけないようにするのです。

私も、おかしいと思いながらも、必死になって、メールアドレスを交換しようとする新入生の間に割って入ったり、同じ方向に帰る複数の新入生がいれば、自分の帰る方角でもないのに、「今日はこちらに用事があるので」などと言って、それらの新入生たちが、バラバラに別れるまで、ついていったことも、1度や2度ではありません。 

また、下宿生が実家に帰省するときなども、家族や地元の友人との接触が縁となって、自分たちの集団から離脱してしまわないかと、先輩たちは大変心配しています。
実家に長く滞在して、連絡がない人に対して、実家に電話をかけ、安否を確認する、といったこともありました。

「親鸞会の教義が大宇宙の真理」であり、親鸞会以外の人たちは、「なぜ生きるか」の人生の目的を知らず、「どう生きるか」に一生懸命の人だと、強く思い込むようになると、下宿生の中には「できるだけ実家には長居しないほうがいい」という発想になってきます。
また、そのように先輩からもすすめられます。
「せっかく、実家に帰ってきたのに、なぜこんなに早く戻ってしまうのか」と不信がられるご家族の声を、私はたくさん聞いてきました。

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その悪事と見える行動を、メンバーには特有の論理でもって正当化し、納得させている。
こうしたことを納得させる心理操作のテクニックが、「マインドコントロール」である。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P21)
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ここには悪事と書かれていますが、親鸞会では、オウム真理教のような「殺人」「拉致」といった反社会的行為が行われているのではありません。

しかし、親鸞会以外の多くの人には、なかなか理解しがたい行為もあります。
ところが、会内の人たちは、それらを正当化させる理論をことごとくもっているのです。

たとえば、親鸞会の学友部の新勧において、「浄土真宗親鸞会」という宗教法人名や、宗教の集まりであることを名乗らないのは、会の中では、「嘘」ではなく、「配慮」だと言っています。

「全人類を幸福に導く大宇宙の真理」を説いている親鸞会に導くためには、嘘であっても、これは良いことなのだから、「配慮」になるのだ、という論理です。
親鸞会のマニュアルにも「方便としてウソをついている」とか、「ウソをつくことに、これっぽっちも後ろめたさをもってはならない」と書かれています。
私も何年もの間、自分にそのように言い聞かせて、それが正しいことだと、まったく疑いもなく、勧誘を行ってきました。

しかし、本当に親鸞会に入信させることが良いことなのかどうかは、まったく主観的なものであり、個人の選択に任されるべきものでしょう。
ですから、自分たちを宗教法人と無関係のように装ったり、宗教であることを名乗らないのは、かなり問題があるように思います。

以下は『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン著)からの引用をもとに
私が体験してきて感じたことです。

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大きなカルトは必ず「販売員」を上手に訓練する方法を心得ている。
彼らはメンバーに、組織の一番良い面だけを見せるように教え込む。
メンバーは、自分の集団について感じる否定的感情は全部おさえて、いつも「しあわせな」笑顔をするように教わっている。

(スティーブ・ハッサン著『マインドコントロールの恐怖』 P83)
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親鸞会学友部では、その勧誘方法は高度に練り上げられ、マニュアルも作られ、年々、脈々と受けつがれています。

そして、さきほど述べたような「宗教法人であることを名乗らず勧誘すること」をはじめ、親鸞会の活動に対して、自分の心の中に後ろめたい感情が出てきても、「こんなことを思ってはいけないのだ」「会の活動方針や、周りの人が悪いのではなく、自分が間違っているのだ」と思うようになってゆきます。
こうして、否定的な感情はおさえられてゆきます。 

そして、いつも笑顔でいることを要求されます。
新入生が来ている中で、先輩が暗い顔をしているのと見つけると、「先輩がそんな暗い顔をしていてはならない」とか「先輩たちがそんな疲れた様子を見せてはいけない」と、注意を受けます。
私も言われてきましたし、後輩にもそのように注意してきました。

学友部の集まりに来られたある学友部員の親御さんが、あとで「みんな同じ顔をしている。怖かった。」と言われてたことが、私は忘れられません。

このように、マインドコントロール関係の書籍を読んでいると、私が親鸞会、特に学友部の活動で経験してきたことと類似することや、まったく同じと思われることが、多々出てきました。

まだまだ、書けばキリがないのですが、このように「マインドコントロールといわれるもの」と、「親鸞会の活動」との類似点が多々あるのです。

少なからず、自分が経験してきたことですので、私は「親鸞会ではマインドコントロールが行われているのではないか」と感じているのです。

しかし、何度も言っておきますが、親鸞会が意図してマインドコントロールの手法を学んで、活動の中に取り入れている、というよりも、長年、研究され、開発されてきた親鸞会の活動の中において、結果的にマインドコントロールと類似していると思われる手法が、用いられるようになったのではないか、と私は思っています。

しかし、意図したものであろうとなかろうと、結果的に、親鸞会学友部の組織の中にいる人たちは、その影響を大きく受けていると思われます。

それは、何度も書いていますが「親鸞会の教義を大宇宙の真理である」と、論理的な説明もなしに、『信じている』人たちが少なくないことと、そして、それらの人たちが、「自分は『信じている』のではなく、『論理的・客観的に理解しているのだ』」と思っているからです。



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5.おわりに


私は親鸞会に感謝しています

前回、私の書いた文章に対して、「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」と題した文章が発表され、それを読んだ私は、自分の言いたかったことが、正しく受け取られていないと感じましたので、このような形で、自分の述べたかったことを、再度、発表させてもらうこととなりました。

10代後半から20代前半という多感な時期において、「自分はなんの為に生きているのだろう」といった、人生に対する疑問をもち、自分の人生について、まじめに考えるのは、悪いことではないと思います。

しかし、限られた情報しか与えられず、論理的な思考なしに、いつしか一つのことを思い込むようになっていたのなら、まして、そのことに疲れを感じているのであれば、一度、落ち着いて、その歩みをとめることも大事なことだと思います。

私は親鸞会で10年以上もの間、生活のすべてを親鸞会の教義を基準に、少しでも、聴聞や活動に時間がさけないか、と考えて行動してきました。
特に学生時代は、その思いは強烈でした。

しかし、今思えば、あの多感な時期に、親鸞会の教義以外に触れることができなかったことは、自分の精神的な成長を遅らせてしまったのではないか、と感じています。
大変、バランス感覚を欠いた生活を送っていました。

ですが、親鸞会に出会い、自分の人生について、いろいろ考察を深めることが出来たことは、感謝しています。
また、親鸞会で多くの人たちに触れた経験は、今後も活かされるのだろうと思っています。

親鸞会会員の皆さんへ

私は10年以上、幹部として活動してきた為、会員のご家族の方や、友人と数多く接してきました。
そして、その会員が親鸞会に入会し、活動を続けていることで、周りの人たちと意見が衝突したり、中には親御さんはじめ、周りの方々が大変苦しい思いをされている姿も見てきました。

なんとか必死で子供を連れて帰ろうと、富山の本部まで来られる親御さん、部室まで怒鳴り込んで、息子の目を覚まさせようと必死になられるお父さん、下宿している息子が心配で、遠方から駆けつけてこられたお母さんなど・・・。

誤解やすれ違いがあるとはいえ、なぜ親鸞会で活動を続けることで、これほどまでに多くの人間関係の問題がおき、周りの人たちが苦しい思いをしなければならないのか、と悩んだこともありました。

また、自分の家族に対しても、両親や兄弟と口論となり、かなり苦しい思いをさせてきたと、今になってつくづく反省しています。 

なぜ意見が衝突するのか、そしてお互いを理解しあえず、深い溝ができてしまうのか・・・。
今まで、同じ屋根のしたで、苦しみも喜びも分かち合いながら、平和に暮らしてきた家族や、ともに泣き笑い、親しくしてきた親友との心の溝が、どんどん深くなってしまう様子を、自分以外の人でも、また自分の周りでも、数多くみてきました。

私はこれ以上、親鸞会のことで苦しい思いをされ、悲しまれる人をみたくないです。
願わくば、今後、親鸞会の活動で、苦しんだり、悲しむような人がこれ以上出てこないことを念じるばかりです。

これらの心の溝はどこから生じてくるのでしょうか・・・?

今まで書いてきたことですが、おそらく、会員の皆さんが「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と『信念により信じている』ことを、『論理的・客観的に理解している』、『したがって、話しを聞いてゆけば、誰にでも理解してもらえることである』、『なのに、なぜ私の両親は、友人は理解してくれないのか』『そんな人の気持ちは私は理解できない・・・』と、お互いの心に溝が深まってゆくのではないでしょうか?

親鸞会会員の皆さん、皆さんは「親鸞会の教義」を「信仰」されているのです。
「信念により、信じておられる」のです。
そのことだけは、しっかり自覚して、そして、その信念をなかなか理解できない人がいることも、よく分かって頂きたいのです。

親鸞聖人も、ご自身の教えを信仰することで、多くの人が傷つき、苦しまれることを決して望んではおられないでしょうから・・・。

親鸞会の会員として、これからも聴聞を続け、活動に専念されるも、されないもみなさんの自由だと私は思っています。
それは、あくまで個人の信仰なのですから・・・。

そして、私は親鸞会での10数年の活動に終止符をうち、親鸞会が今後、どのようになってゆくのか、静かに見届けたいと思っています。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール
なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて
「親鸞会では、マインドコントロールがおこなわれている」という批判があります。

これは、親鸞会で教えられる「信心決定の体験、他力信心を獲る体験がマインドコントロールだ」と いう意味ではなく、「親鸞会に入信させる過程でマインコントロールが行なわれているのでは」といった批判です。

私は10年以上もの間、親鸞会で聴聞を続け、幹部として活動してきました。
しかし、活動を続けてゆく中で、自分の中にある様々な疑問が解消されないことや、活動の中に様々な問題をかかえていることを感じ、悩んだ末に親鸞会をやめるにいたりました。

そして、親鸞会をやめてから、「破壊的カルト」と言われている団体のマインドコントロールについて書かれた多くの本を読みましたが、親鸞会の活動と類似していることが沢山書かれていることに気付き、正直、驚きました。

そこで、このサイトでは、マインドコントロールについて書かれた本の内容を引用しながら、親鸞会、特に学友部の活動をとりあげて、どのような類似点があるのかを、説明してゆきたいと思います。

執筆に当たってご協力下さった皆さんに心から感謝致します。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

親鸞会学友部の活動について


はじめに

私がこれから述べることは、実際に親鸞会の学友部で行なわれていることです。
これらの活動の詳細と、マインドコントロールについて書かれた本に出てくる、「破壊的カルト」と呼ばれる団体の活動内容が、非常に酷似しているのに、私は驚きました。

では、それらのことから、「親鸞会ではマインドコントロールがおこなわれている」とか、「親鸞会は破壊的カルトだ」言えるのでしょうか。
私はそのように断言するつもりもありませんし、また、「親鸞会が破壊的カルトだ」とは個人的には思いません。
これらのことは、是非、みなさん一人ひとりが、よく考えて頂きたいと思います。
そこで、これからマインドコントロールについて書かれている本の内容を引用しながら、私が実際に親鸞会の幹部として経験してきたことと、その類似性について、詳しく述べてみたいと思います。

誤解のないように、何度も言っておきますが、私は最初から「親鸞会ではマインドコントロールがおこなわれている」と断言するつもりは毛頭ありません。
また、「親鸞会など早くつぶれてほしい」「親鸞会の会員は、みんな早くやめるべきだ」などとは、思っていません。

私は、親鸞会の中で多くの人に出会ってきました。
その中には、親鸞会に出会い、明るく元気になった方や、自殺を思いとどまった人など、親鸞会に出会って、喜んでおられる人も数多く知っています。

また、私自身も10数年の親鸞会での活動の中を通して、学んだことも沢山あります。
以下は、親鸞会で聞いた言葉の中で、特に私が好きなものです。

「かんしゃくの くの字をすてて ただ感謝」

「できるだけ、他人の長所を発見して、ほめるようにしよう」

私は親鸞会で学び、身の周りの、自分があまり好意を示していない人や、嫌いな相手に対しても、少しでも相手のよい所を見つけて、相手を好きになりたいと思えるようになりました。
また、自分の嫌いな相手にも、「自分が感謝すべきところもある」と思えるようになりました。

このように、親鸞会で学び、大変勉強になり、生活にいかされていることも沢山あります。
そういった意味で、親鸞会にはとても感謝しています。

一方で、親鸞会の活動について、問題だと思うことも、10数年の活動を通して、数多く感じてきました。
親鸞会の活動により、数多くの人が苦しんでおられることも知りました。
実際にそれらの人に会って、話しも聞いてきました。

親鸞会にはこれまで多くの批判が寄せられていますが、今回は、それらの批判の中で「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれている」という批判について、マインドコントロールのことが書かれた書籍を引用しながら、親鸞会の活動を考察してみたいと思います。

何度も言いますが、私はこれを読まれた皆さんに、「親鸞会ではマインドコントロールという危険な情報操作が行なわれているから、絶対に近づかないように」などと言いたいのではありません。

「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれている」という批判がありますが、実際に、親鸞会でどのような活動が行なわれているのか、また、マインドコントロールとはどのようなものなのか、言葉で言われるほどには、あまり知られていないように思います。

そこで、今回、私が10数年にわたって、実際に親鸞会で経験してきたことと、マインコントロール について書かれた書籍の内容を引用することで、「親鸞会ではマインコントロールが行なわれている のか」ということについて、皆さん一人ひとりが考えるきっかけをつくりたいと思っています。

そして、親鸞会の会員の皆さんや、その周りの方々に、親鸞会の活動や、その存在意義について、今一度、考えて頂けたらと思っています。

親鸞会学友部の活動について

まず最初に、親鸞会の学友部とはどのようなものか、どんな活動をしているのか、簡単に説明したいと思います。

【学友部の組織について】

親鸞会には「学友部」という全国組織があります。
親鸞会会員の中で、主に大学生が所属する部門です。
ちなみに、親鸞会には学友部以外にも、支部や海外部、講師部、親友部などの部門があります。

学友部には、学友部を担当している講師部員(親鸞会の職員)とよばれる人たちがいます。
各大学の担当を受け持ち、それぞれの大学の学友部員を育成指導しています。
それらの人たちが、全国の大学にサークルを作り、活動を行なっています。

年々、その組織は改革されていますが、大体、以下のようなものです。

高森会長(親鸞会のトップ)−−布教局長(布教部門のトップ)−−学友部長(学友部のトップ)

  学友部長−−−

      東東京ブロック・・・・早稲田大学、立教大学、埼玉大学
      千葉ブロック・・・・・・千葉大学、法政大学、東京理科大学
      茨城ブロック・・・・・・筑波大学

      西東京ブロック・・・・東京大学、電気通信大学、明治大学(和泉)、日本大学、
                  信州大学、山梨大学、山梨学院大学
      神奈川ブロック・・・・慶応大学、明治大学(生田)、東京工業大学
                  神奈川大学

      富山ブロック・・・・・・富山大学、富山県立大学、富山医科薬科大学
      石川ブロック・・・・・・金沢大学、金沢工業大学、金沢学院大学、星陵大学
      福井ブロック・・・・・・福井大学、福井工業大学
 
      東海ブロック・・・・・・名古屋大学、名古屋工業大学、愛知学院大学
                  愛知県立大学、中京大学、名城大学、三重大学  
      岐阜ブロック・・・・・・岐阜大学、東海女子大学

      京都ブロック・・・・・・京都大学、京都工芸繊維大学、京都女子大学、同志社大学
                  立命館大学、仏教大学
      北大阪ブロック・・・・大阪大学、大阪外国語大学
      南大阪ブロック・・・・関西大学、大阪市立大学、近畿大学
      神戸ブロック・・・・・・神戸大学、関西学院大学、甲南大学、 岡山大学、岡山理科大学


     各ブロックには幹事(ブロックの責任者)と副幹事(副責任者)と言われる講師部員が
     います。また、ビデオ講師(高森会長のビデオ講演会を主催する職員)や、親友部員
     (事務作業専門の職員)がいる地区もあります。

     これらの人たちは、親鸞会から給与を貰って生活している、親鸞会の職員であり、
     大学生でも、大学の関係者でもありません。     

     また、ここ数年「全国作戦」といって、既存の組織のない上記以外の大学、たとえば、
     北海道大学、東北大学、新潟大学、広島大学、香川大学、鳥取大学、九州大学、
     宮崎大学、琉球大学といった大学に、短期間に集中して出かけ、勧誘活動していることも
     あります。すでに会員が数名いる大学もあります。
  

学友部の主な活動は、新人の勧誘、仏教の話を聞く毎日の部会、教えを勉強する勉強会、土日などに行われる各大学合同の講演会、そして、月に数回行なわれている、親鸞会の高森会長の法話への参詣、また高森会長のビデオ御法話の聴聞、などです。
また、ゴールデンウィークや夏休みといった、大学が休みの時期には、様々は合宿を行なっています。

ほとんどの大学では、大学近辺に部室をもうけ、そこが活動の拠点となっています。
中には、大学の公認を得て、学内にも部室をもうけている大学もあります。
学外の部室の多くは、親鸞会の名義で借りられ、家賃は宗教法人である親鸞会の会計から、出ています。

【勧誘について】

主に、新入生が入学してくる4月前後に、積極的に勧誘を行なっていますが、大学当局や他サークルの反対があるため、年々その時期の勧誘は難しくなっているようで、それ以外の時期にも小・中規模の勧誘は、年中行われています。
学祭の時期にも、多くの大学で勧誘が行われています。

なお、全国の大学にある親鸞会のサークルの部室の所在や、勧誘活動の詳細については、以下のサイ トの、「親鸞会 部室住所一覧」「勧誘マニュアル(必殺育成法、顕正トラの巻)」を御覧下さい。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

最初の接触


マインドコントロールについて

皆さんに、マインドコントロールといわれるものについて、よく知って頂きたいと思います。
そこで、これからは『マインドコントロールとは何か』(西田公昭・著)からの引用をもとに、マインドコントロールと言われているものと、親鸞会の中で私が経験したことや、感じたことを述べてみたいと思います。

※西田公昭著『マインドコントロールとは何か』とは、社会心理学を専門とする著者が、オウム真理教が地下鉄で神経ガスを散布する等の事件を引き起こした1995年に、マインド・コントロールについて一般読者向けに分かりやすく解説したものです。
裁判の参考資料として提出されたこともある資料も含み、マインドコントロールのことを知る上で重要な参考文献とされています。

はじめに断っておきますが、私は「親鸞会の全てがおかしい」とか、「親鸞会には早くつぶれてもらいたい」などとは思っていません。
また、「親鸞会が『マインドコントロール』といわれる手法を研究して、信者獲得や資金調達のために、多くの学生をだましている」とも思いません。
親鸞会の講師の人たちや、親鸞会の会員である先輩たちは、純粋に100%の善意で活動をおこなっていると思います。
悪意はまったくありません。

私自身も親鸞会で幹部として活動しているときは、「自分は一人でも多くの人を幸せに導くために、素晴らしいことをしている」と自覚して、活動を行なっていました。
また、周りの講師部員や幹部の人たちも、みなそのような信念で、必死に活動していました。
講師や先輩から、「破邪顕正(間違った教えを正し、正しい教えを明らかにすること)は人間の出来る最も崇高な行為であり、世界最高の生き方だ」と教えられたものでした。

また、親鸞会では統一教会やオウム真理教が批判されているような、「霊感商法」「殺人」「拉致監禁」といった反社会的な部分は、私の知る限り、現在のところはないように思います。

しかし私が驚いたのは、以下に引用している『マインドコントロールとは何か』に紹介されている、「破壊的カルト」と呼ばれる者たちのとる手法と、私が実際に、親鸞会で幹部として、長年活動してきたことに、多々、類似性がみられることです。
「なぜ、こんなにも類似している部分が多いのか」と不思議に思いました。
私はこのような類似性があることだけで、「親鸞会はマインドコントロールを行なっている」と結論づけるつもりはありませんが、このような多々類似性がみられることから、「親鸞会では、マインドコントロールが行なわれている」という批判があるのかもしれません。

何度も言いますが、親鸞会の講師部員や、先輩たちに悪意はありません。
相手をだましてやろう、などとはまったく思っていません。
ですから、「親鸞会でマインドコントロールが行なわれているのでは」というよりも、「親鸞会の活動と破壊的カルトのマインドコントロールの手法とは非常に似ているのでは」と言ったほうがいいのかもしれません。
少なくとも言えるのは、親鸞会の講師部員や先輩たちが、「マインドコントロールを行なっている」という自覚は全くないということです。

しかし私は、彼らのその悪意のなさが、非常に危険なのでは、と思います。
親鸞会の活動により、様々な影響を与えている側も、その影響を受けている側も、まったく自覚がないということです。
『マインドコントロールとは何か』の中にも、以下のように書かれています。

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マインドコントロールは操作者が何らかの結論を用意して、強引にそれに導く意思決定をさせるといった強制的な方法をとらない。
常に、行為者が『自ら考えたように感じさせる』のである。
『選択の自由があるかのごとく思わせる』のである。

つまり、操作者は意思決定の過程において、実際には、たくさん存在する「道具」と「材料」の中から、選んでほしい特定のものをたくみに仕組んで選ばせてしまう。
だから、もしマインドコントロールされているとしたら、自らが気づくことは困難である。

しかも、もし自分や周囲の誰かが、ここで説明したような状況におかれているとしたら、たぶん、それはマインドコントロールされていると客観視すべきである。

(『マインドコントロールとは何か』P197)
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では、マインドコントロールとは一体どのような手法で行なわれるのか、『マインドコントロールとは何か』を引用し、そして、実際に私が長年にわたって、親鸞会で幹部として活動し、経験してきたこと、感じたことを述べてみたいと思います。

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第一接触のパターン

被勧誘者が相手の話を聞くようになるのはどのようなときであろうか。
彼らの組織についての話しが、被勧誘者にとって、必ずすぐにも興味をひくものなのであろうか。

社会心理学では、被勧誘者が話しの内容にすぐには興味がわかない場合でも、相手の話を何となく聞いてしまう可能性が、他者からの操作によって高められることを明らかにしてきた。

破壊的カルトは、勧誘者と被勧誘者とが接触する「状況」に潜む、こうした力を駆使して、何度となく対話のできる状況へと誘導し、とにかく勧誘の話をする機会を獲得しようとすることが多いようである。

もちろん、勧誘の話そのものも、呈示の仕方によっては状況の強い拘束力を作り出す。
つまり、操作者がある特定の対話状況を構築することが、人に意思決定のためのボトム・アップ情報を特定化させるはたらきをもつ。
これが一時的マインドコントロールの原理である。

(『マインドコントロールとは何か』P84)
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親鸞会の主張を一言でいうと「人間にとって一番大事な『人生の目的(=崩れない幸せ)』が、唯一親鸞聖人の教えにだけ説かれている。
だから、親鸞会に入会して、その教えを聞き、『人生の目的』を果たそう(崩れない幸せを手に入れよう)」というものです。

しかし、現代の若者に、「人生について考えよう」とか、「人生の目的って大事だと思わないか」と声をかけたところで、「是非、その話しを聞きたい」と言ってくる学生は、大変少ないように思います。

そこで、一番最初に声をかける時には、「人生の目的」とも「親鸞聖人」とも、ましてや「親鸞会」とも、まったく言いません。
では、どのように声をかけるかと言うと、たとえば、「大学生活を充実させるポイントを紹介するよ」などと、声をかけてきます。
そして、勧誘部屋に連れて行かれると、そこであらためて、サークルの紹介をするためのバインダーを開いて、「人生とは・・・」と語り始めます。

(中には、声をかけた初日には、サークルの内容はまったく紹介せず、「新入生対象に先輩の有志があつまって、大学生活を紹介しているんだよ」と言い、大学生の一日のスケジュールや、大学構内の紹介、下宿生活の案内などだけ話しをして、新入生の連絡先を聞き出して次回の約束をとり、次にきてみると、サークルの紹介がなされ、実は「人生の目的」について、取り組むサークルだった、という勧誘を行なう大学もあります。)

参考までに、ある大学で合格発表や入学手続きの時に、実際に行なわれた勧誘の声のかけ方を親鸞会で作成されたプリントから、紹介いたしましょう。

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<声かけトーク>

こんにちは。
新入生?どう、受かった?(もしくは、手続き終わった?)
これで晴れて、○○大生だね。おめでとう!どう、一安心って感じじゃない?
よかったね。

ところで、何学部?(学部に応じて、学部をほめる)
僕は○○学部の○回生の○○○○っていうんだけど、名前は?(しっかり覚える)
いい名前だね、よろしく〜。

そうそう、ちょうどよかった!
今、新入生の為に、毎年恒例の特別企画、合格祝賀会を兼ねたサークルの紹介を、学生会館でやってて、みんなに来てもらって、今年も大好評なんだね。

来ないともったいない、為になる・役に立つ・得をする
おかしやジュースもあるよ。○○大学といえばやっぱこれだよ。
まだ、来ていなかった?さっき来た○○君も来てよかったって言っていたよ。
10分か15分くらいだから、今日しかないよ、今がチャンス!

・・・・・・などなど。

○○君もせっかくここまできたんだし、一緒に行ってみよう!!
じゃあ、ここにいる○○先輩が案内してくれるから。
○○君、案内してあげて。

(ある大学の親鸞会のサークルの声かけ原稿)
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このように、「人生とは何か」とか「人は何のために生きるのか」と、強烈に考えているような学生でなくても、初めての大学生活に不安を感じ、「少しでも大学の情報がほしい」と思ったり、「先輩たちもやさしいし、居心地がよさそう」との思いから、親鸞会のサークルに続けて足を運ぶ可能性は非常に高いと思います。
実際、親鸞会の学友部員に聞いてみると、「サークルに出会う前から人生の目的について、真面目に考えていた」という人は、思ったより少ないように思います。
このことから、どんな学生であっても、親鸞会のサークルに入ってしまう可能性はあります。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

続けて聞くようになるまで

承諾誘導のルール

人間には「承諾を誘導させるルール」があると言われています。
有能なセールスマンや、宗教の勧誘などの説得の実践現場にみられる、これらのルールを用いると、説得や要請に承諾する確率が高くなる、と言われています。

親鸞会のサークルに声をかけられ、最初に足を運んでも、講師部員や先輩たちは、自分たちが親鸞会の会員であることを隠していますので、このサークルが「浄土真宗親鸞会」だということも知らなければ、もちろん「親鸞会に入会したい」との思いも、全くありません。

では、なぜ、何気なく足を運んでいるうちに、結果的に親鸞会に入会し、親鸞会の活動に没頭するようになるのでしょうか。
そこには、様々な要因が考えられます。

返報性のルール
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破壊的カルトの勧誘は、一般にやさしくて非常に親切である。
親身に相談にも応じてくれる。
「楽しい」場や、「ためになる」イベントや集いに招待してくれる。
また彼らの勧誘は、真剣で真面目で一生懸命であり、誠意を尽くしてくれる。
ターゲットにされた被勧誘者は、こうした誘いに対して、返報性のルールをはたらかせて、話しくらい聞いてもいいのではないか、断るのは一度だけ参加してからにしよう、という気持ちになりやすい。

(『マインドコントロールとは何か』P93)
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人は、誰かからやさしくされると、「お返しをしなければならない」と思うものです。

親鸞会の講師部員や先輩たちは、非常に親切です。
それは、もちろん一人ひとりの性格にもよりますが、「なんとか目の前の新入生に、親鸞会の教えを分かってもらいたい」という気持ちを、講師や先輩たちはもっていますので、「新入生が喜んでくれるなら、続けて足を運んでくれるなら、できる限りのことをしよう」と思っている人がほとんどです。

実際、私もそうでした。
新入生のために授業の時間割を組んであげたり、過去問や過去のレポートをあげたり、安い自転車を探してあげたりしました。
また、新入生がなくした物を、夜遅くまで探し回ってあげるような先輩もいました。
逆に、先輩が新入生を不快にさせるような言動をとると、「なぜそんなことをしたのだ」と厳しく注意されたものでした。

このように親身になってもらうと、人間は「返報性のルール」といって、「価値のあるものを受け取ったら、それ相当のお返しをしなければならない」と、自動的に思うものです。つまり「先輩たちに、ここまでしてもらって申し訳ない」といった気持ちになり、先輩からの要請を断りにくくなるのです。

実際にやめた人たちに聞くと、「最後は親鸞会の教義には関心はなかったが、先輩たちに申し訳ないと思い、やめにくくなり、しばらく続けることになった」と言う人が少なくありません。
「返報性のルール」によって、その影響を受けているのです。

親鸞会のサークルでは、先輩たちの中には「我々のサークルは、新入生の面倒見のよさは大学一だ」と言う人も多くいました。
実際に、面倒見はいいと思いますし、やさしい人が多いです。
一方、サークルの外では、あまり親近感が湧きにくい大学の友人や、非常に厳しいバイト先や就職活動での人間関係といった環境があります。
そのため、「親鸞会のサークルは居心地がいいなぁ」と依存度が高まってくる人も少なくないでしょう。
「今までの人生で、これほどやさしくしてもらったことがない」という人もありました。

これは親鸞会のサークルの良い面だと思います。
しかし、その影響で、サークルのメンバー以外の人たちと人間関係を築けない学生もありました。
(もちろん、一番の原因は本人にありますが)
そうなると、大学では親鸞会のサークルにしか、友人がいなくなります。
すると、親鸞会のサークル以外に、行く場所がなくなり、いざ、親鸞会の教義や組織に対して疑問が湧いても、なかなかそこを出ようとは思えなくなります。
このような、親鸞会への依存度が高まることが、親鸞会をやめにくい理由の一つになっていると思います。

私は親鸞会会員の友人だけでなく、親鸞会のことを批判する人や、親鸞会には関心がない友人もいたほうがいいと思います。
そのような友人がいる人は、会員の中では、比較的少数だと思います。
私の周りには、あまりいませんでした。

人生の価値観は、親鸞会だけで築くものではないのですから、親鸞会のサークル以外の友人をもつことも、親鸞会を客観的にみるためには、非常に大切だと思います。
そうでないと、いざ、親鸞会に疑問をもっても、親鸞会への批判的な情報がほとんど入ってこなくなり、結局、親鸞会をやめることができないからです。

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コミットメントと一貫性

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コミットメントとは、社会心理学ではときどき用いられる用語だが、それは自分の立場を明白にする、立場に責任をもつ、といったような意味の概念である。

(『マインドコントロールとは何か』P94)
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ある破壊的カルトの勧誘では、何度も次の訪問を約束させ、電話や手紙で念には念を入れる。
そして、彼らは、一度、訪問したら、その帰り際には、必ず次の訪問の約束をとりつける。
多くの被勧誘者が集まっている状況では、めいめいに継続して参加する決意表明を、他者の面前でさせるという。

彼らの勧誘は、このようなコミットメントをとりながら、まずは、立ち止まらせる、次に雑談をする、一度だけ訪問させる、勧誘話を聞かせる、臨時メンバーにならせる、そして正規のメンバーにさせる、といった具合に、小さな要請から、大きな要請へと段階的に攻撃してくる。

ターゲットにされた被勧誘者は、自己に誠実であろうとして、また、人に悪い印象を与えたくない心理がはたらき、一貫した行動をとろうとする。
その結果、被勧誘者は強引な強制を感じることなく、操作者がもくろむ方向へと一歩ずつ、引き寄せられてゆく。

(『マインドコントロールとは何か』P98)
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新入生が一度サークルの集まりに足を運ぶと、必ず次の約束を取らされます。
そして、もう一度足を運ぶと、先輩たちは、また次回の約束をとってきます。
とにかく、「明日また来てみないか」と次回の約束をとられます。

親鸞会のサークルでは、特に4月は毎日のように活動があるのですが、入部当初から、明確に「活動は毎日ある」という大学はほとんどないように思います。
また、年間計画や月間行事などは、あまり発表されませんし、発表されたとしても、本当に大まかなものに過ぎません。

「活動は毎日あるので、休まないでほしい」というのが、新入生に対する先輩たちの本音ですが、あまり言うと、新入生から「そんなに厳しいのならいいです」とか「まだ、ここに入ると正式に決めた訳では、ありませんから」とでも言われるからか、しっかりそのような意志を伝えることは、少ないように思います。

新入生から「このサークルは、週にどれくらい活動があるのですか?」と聞かれても、たとえば「大体週に3回くらいだけど、来たい人がいるので、毎日でも行なっているよ」というように、非常に曖昧に答えます。
一応、ウソではない訳です。(私は非常にいやらしいやり方だと思っていましたが)

こうして、一番最初の頃は、新入生はとにかく次回の約束をとられるのです。
私はある先輩から 「とにかく次の約束をとろう。新入生に、『また来たい』と思わせられれば、ずっと、来させることができるのだから」と聞きました。
そして、後輩にもそのように言っていました。
私は幹部として、新入生と接していたとき、「この方法はうまいやり方だなぁ」と思っていました。
とにかく仲良くなってしまえば、次回の約束をとるくらいなら、それほど難しくもありません。

最初に、サークルの年間計画や、月間予定、また、4月には毎日活動があることが、詳細に発表され、そして、新入生はそれらに参加するかどうかを判断する、というよりは、とにかく「次もまた来ないか」と約束をとることで、結果的に新入生は、毎日、続けてサークルに顔を出すようになるのです。

何度かそのような状態を続けていると、いつしか、参加するのが当たり前となり、来る約束ではなく、休む許可を得なければならない、といった状況になります。
また、大学によっては、「入部」という明確な手続きもとられないまま、「いつのまにかサークルの一員になっていた」ということもあります。

あと、先ほども少し書きましたが、親鸞会のサークルでは、最初は「宗教法人 浄土真宗親鸞会」の名前はまったく出てきません。
講師の人も先輩たちも、自分たちが「親鸞会の会員」だということは、一切言いません。
(ごく一部、大学側の反対が非常に厳しいところでは、講師部員は「浄土真宗の講師」だと名乗っている大学もあります)
ですから、新入生は毎日足を運んでいる部室が、まさか「宗教法人の名義」だとは、知りませんし、「親鸞会」の存在など、全く分かりません。
つまり、最初は「親鸞会」の存在は一切、隠されているのです。
 
しかし、その存在は次第に、明らかにされてゆきます。

部会の中で、講師部員の口から「親鸞会」という名前がさらりと紹介され、しばらくして、親鸞会の高森会長についても紹介があり、その会長の法話に参詣しよう、という話が出て、いつも話をしてくれる「仏教に詳しい先輩」と思っていた人が実は、親鸞会の講師部員であり、そして、「親鸞会に入会しよう」と入会の勧めがなされるのです。

このようなことが、4月の入部から、毎日の部会、ゴールデンウィークに行なわれる新勧合宿、そして、5月、6月と進むにつれて、行なわれるのです。
つまり、サークルの活動が徐々に小出しにされ、少しずつ受け入れてゆくことによって、多くのハードルを越えてゆくことになるのです。

家族や友人にとっては、「なぜ、休日にわざわざ富山まで話を聞きにゆくのか」と、信じられないのですが、本人はそれほど「強制された」と感じることもなく、最初は存在さえ知らなかった「親鸞会」ですが、こうして「高森会長の法話への参詣」を繰り返し続け、「親鸞会会員」となってゆくのです。

また、上記の引用文に『多くの被勧誘者が集まっている状況では、めいめいに継続して参加する決意表明を、他者の面前でさせるという』とありましたが、たとえば、学友部で毎年、ゴールデンウィークに「新勧合宿」というものが行なわれています。
その合宿への参加を新入生にすすめる時、ある大学では、新入生歓迎行事の席は、一つのテーブルが6人がけになっており、事前に打ち合わせがなされ、必ず先輩と新入生がそれぞれ隣り合わせになるように座ります。

そして、そのテーブルには先輩3名と、新入生3名がいるのですが、新入生3名のうち、2名が新勧合宿の参加を申し込むと、残り1人の新入生の前で、申し込んだ2名の紹介を、わざと大げさに行ない、その場の雰囲気を盛り上げて、最後の一人も「みんな申し込んだのか…自分だけ申し込まないのも…」という思いにさせ、申し込みを無言で促すのです。
強要している訳ではなく、非常にうまいやり方だなぁ、と横で聞いていて思ったものでした。

親鸞会学友部の活動の中には、このような手法は、毎日の活動のいたるところにちりばめられており、新勧の歴史が長い大学ほど、洗練されており、先輩から後輩に指導がなされています。
ですから、新入生の立場としては、それほど、強制されたという気持ちも残らず、いつのまにか、先輩の導く方向へついて行くことになるのです。

そして、新入生が帰った後で、先輩たちの間で、今日一日の活動を反省する「反省会合」が行なわれます。
そこでは「今日の、あの言い方は非常に良かった」「あのやり方はまずかった」などと、おたがいの工夫点、改善点を話し合い、多くの新入生が、先輩の思うように導かれてゆくのです。

新入生には全く分からないのですが、先輩同士の間では、綿密な打ち合わせが行なわれています。
普通は、新入生が来ないであろう、朝早く、もしくは夜遅くに部室で行なわれていることが多いように思います。
「どの新入生に対して、誰が相手をするか」や、「どの新入生には、今日はどこまで話しをして、何をすすめるべきか(合宿の参加や何かの納金など)」といったことを、事前に打ち合せた上で、実行されています。

新入生の中には「なぜ、いつも同じ先輩が僕に話をするのか」と疑問に思う人もいますが、それは、一人の新入生に対して、担当の先輩が決まっているからです。
各新入生の理解度、家庭環境、金銭状況などが、なにげない会話の中で聞き出され、こまかく把握されています。
そして、各新入生に対して、適切な対応を適宜とる為に、一人ひとりの新入生に対して、担当の先輩が決まっているのです。

私は講師の人から、よくこんな話しを聞かされました。

「高森光晴布教局長が、昔、青年部長をされていた頃、高森先生が、『担当の会員を顕正しようと思ったら、まず、会員一人ひとりの、職業や家族構成、おいたち、考え方、好きな物、嫌いな物など、何でも知り尽くしていなければならない。』と教えて下さったそうだ。
だから、私たちもしっかり新入生の状況を把握しよう。」このような指導を受け、新入生に対して、組織的にきめ細かい把握がなされています。

詳しく知りたい方は、以下のサイトの「親鸞会必殺育成法 第6節『聞き出す』、第10節『金対策』」などを御覧下さい。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか 親鸞会資料室

特に4月は、親鸞会のサークルにとって、非常に大事な時期ですので、朝、先輩たちが部室に集まって、綿密な打ち合わせがなされています。
1限目の授業が始まる前に、先輩たちが部室に集まって、それぞれ、今日、誰にどんな話しをするか、誰に何をすすめるのか、昨日来なかった新入生に誰が会いに行くか、今日の部会後の話しこみのポイントは何か、などをお互い確認し合っています。

ですから、4月の時期に、朝、部室に行くと、先輩たちがたくさんいます。
私は新入生だった頃、何も知らず、朝、部室へ行ったことがあるのですが、思いのほか先輩が沢山集まっていたので、びっくりしたのを覚えています。
先輩になってから、そのからくりが分かった訳です。

また、たとえば、最初の新入生の歓迎行事で、先輩が新入生の為に組んであげる時間割がありますが、これはコピーされている大学もあり、先輩が管理して、新入生がどの教室で、何の授業を受けているか、また、どの時間が空いているのかは、全て把握されています。
それによって、その新入生が来なくなった時に、教室に会いに行くことができますし、新入生のあいている時間を細かく把握することで、あいている時間に部室によんで話をすることができ、新入生としては、「○○君は、○曜日の○時限目がたしかあいていたよね」と言われると、断りにくくなる訳です。

また、入部の際に氏名や住所、また自分のプロフィールを書く「入部用紙」にも、なにげなく、以下のようないくつかの質問が書かれています。

「この大学に、先輩や友人はいる?」
「親は?・・・・・・・・・1,放任、2,普通、3,過保護」
「パソコンは?・・・1,非常に得意、2,まあまあ、3,苦手」

これは、この新入生が今後、友人や親からどの程度、反対を受けるおそれがあるか、また、インターネットで「親鸞会に対する批判的なサイト」を見る可能性がどれほどあるのか、を把握する為のものです。

このように、様々な手法で、新入生の情報を把握しています。
本当に見事なものです。

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好意性の原理

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個人は好意を示してくれる相手に対して、好意的な行動を示してしまう、というルールがある。
好意を示してくれた相手に対しては、それ相当の価値あるものを返さなくてはならない、そうでないと相手に悪いという罪意識のような感情におちいってしまうから、それを避けるような形で、自動的に反応するようになっている。

(『マインドコントロールとは何か』P98)
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破壊的カルトの勧誘でも、被勧誘者の意見、立場などの類似性の高い勧誘者を用いることが少なくないようだ。
そして勧誘者は、場合によっては被勧誘者の話を聞きながら、「私も同じ悩みがあった」などと告げたり、大きくうなずいてみせたりといったことをするように、と勧誘マニュアルに載せられていたりする。

(『マインドコントロールとは何か』P99)
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次に「近接性」である。
破壊的カルトの人々は、電話に手紙、訪問と何度となく繰り返し、あるいは、パーティーや講演会に一緒に参加し、特に熱心に勧誘の話をするでもなく、何となくそばにいるという時間を長くするように心がけることが多い。
彼らは、被勧誘者が心を開いて話を聞いてくれる状況になるまで、勧誘という真の目的を告げずに、ひたすら待っていることさえもあるようだ。

(『マインドコントロールとは何か』P100)
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最後に「好意の相互性」である。
破壊的カルトの勧誘でも、相手をほめるなどしてお世辞を多用するところがある。
たとえば、彼らは被勧誘者に「あなたは良い人だ」「あなたは素敵な人だ」「あなたのように真面目に人生をみつめている人はめずらしい」などと、ほめちぎる。
ある破壊的カルトの元メンバーに面接すると、多くの人々が「私はそれまでそんなに誉められることもなかったので、相手をとても良い人だと思った」と述懐している。

(『マインドコントロールとは何か』P101)
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親鸞会の先輩たちは、新入生を勧誘する時は、とにかく明るくハイテンションです。
講師部や幹部の学生は、後輩たちに、明るく元気に振舞うようにと、学生に指導しているからです。
そして、新入生をことさらに誉めちぎります。
誉められて嫌がる人はいませんので、新入生は気分がよくなる人が多いと思います。
その誉め方についても指導が行なわれています。
あまりにもいやらしい誉め方をすると、不自然で逆に気分を害する新入生もいますので、「わざとらしい誉め方ではなく、自然な誉め方をしよう」と指導がなされています。
そのセリフにいたるまで、例をあげて練習が行なわれていることもありました。

以下、親鸞会学友部で作成されたプリントから、一部抜粋します。

<声かけ原稿>

合格おめで大会ってのやってるんだよ。
やっぱ人生、出会いでしょ。
けっこう為になるんだよ、うーん。
みんな来てるから、あはは、なんちゃって。
ゼミって知ってる?あっ、知らないんだ。ちょうどよかった、ちょっと行ってみよう!
ところで兄弟は?
そういえば、どこから来たの?
あっごめん、忘れてた。僕、○年の○○っていいます。よろしく〜。
ところで、お名前は?

それかわいいマフラーだね。
○○学部って、すごいね。
現役ってことは、集中力あるんだ
通学に1時間って、体だいじょうぶ?
そのセーター誰が選んだの?いいね。
寒いから、あったかいお茶でもどう?

<新入生勧誘における使えるフレーズ>

・まかせとけ、大丈夫!、ちょうどよかった!、よかったね〜
・みんな来ているよ、毎年恒例!、実際そう、ほんとにそう、
・じゃあ行ってみよう、ずっと待ってたよ〜
・今日しかないから!、来ないともったいない!、今がチャンス!!
・為になる、役に立つ、得をする
・みんな来てよかったって言ってるよ♪、休んでいってよ♪
・ここだけの話し!、君にだけポイントおしえちゃう!!

<ジェスチャーのポイント>

・手足を使う
・ともに喜ぶ
・握手する、拍手する
・うなづく
・直視しない
・真正面に立たない
・こちらのペースで
・足を止める
・ハイテンション
・少々強引でいい
・オーバーでいい
・自然に
・無言で近づかない
・沈黙しない
・ふる、ボケ、ツッコミ
・語尾をあげる
・明るい笑顔

<つなぎトーク>

・自宅か下宿か
・いい天気だね
・今日は誰ときたの?
・高校はどこ?
・どっから来たの?
・名前、学部、出身
・部活、趣味
・家族、兄弟
・同じ大学に入った友達はいるか
・試験どうだった
・なぜこの大学にきたの?
・昨日の過ごし方
・どんなテレビ見る?

(ある大学の親鸞会のサークルの勧誘原稿より)

また、たとえ誉めたり、話しをするのが苦手な先輩であっても、その場にいるだけで意味があるのだと、教えられます。
上記の引用にある「近接性」と言われるものです。
「特に熱心に勧誘の話をするでもなく、何となくそばにいるという時間を長くするように心がけることが多い」とありますが、話しができない先輩であっても、「熱心に話をしている先輩の横で、頷いているだけでいい、その時その場にいることが大事なのだ」と指導されます。

話しをする側としても、一人でもくもくと話しをするより、横で頷いてくれる人がいたほうが、話しはしやすくやる気も出ます。
また、聞く側としても、横で頷いている人がいると、その影響を受けるように思います。
このように、活動の中で、一つひとつの行動について、詳細に指導が行われています。
私は幹部であったとき、これらのことを自らも実践し、後輩にも指導していましたが、実にうまい方法だと、感心したものです。

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希少性の原理 

ある対象に対して、自由に選択の余地のない状況になると、自由度の広い状況よりも、魅力が高くなるという。
破壊的カルトの勧誘者は、時間と場所の希少性をさかんに主張する。
人が、ふと今の自分の現状や、何か人生を振り返ろうとしているとき、勧誘者はこのときとばかりに、「この出会いがあなたにとって幸せになる最後のチャンスなんだ」「今、決断しなれければ、あとで後悔しますよ」「他にはない素晴らしい教えです」というようなセリフで迫ってくるのである。
被勧誘者は、それに好奇心を抱き、話しを聞いてみないと、ひょっとしたら後悔するかもしれない、と思うようになる。

(『マインドコントロールとは何か』P102、103)
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親鸞会は「希少性」を強調します。
4月の勧誘時にも、「サークル紹介は今しかやっていないから」「今ならお得な情報がゲットできる」「この出会いが大切なんだ」などと、希少性を強調します。

また教義の面でも、「希少性」は強調されています。
「人間はいつ死ぬか分からない。もしかしたら、今晩死ぬかもしれない。だから、仏法は今、聞かなければならないのだ」と訴えます。
このように「希少性」強調されると、勧誘された新入生は「今、聞かなければならないのかな…」と関心を示すようになります。
つまり、希少性を強調することで、魅力が高まるということです。

これは親鸞会の高森会長の著書である『なぜ生きる』の中にも、このように出てきます。

▼「一息つがざれば次の生である。永久にもどらぬ人生となる。ただ今、人生の目的を達成しなければ、いつするというのであろうか。いつできるというのだろうか。永遠のチャンスは今しかない。刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔をのこさぬように」

(高森顕徹・著『なぜ生きる』P196)

親鸞会学友部の合宿では、講師部員や先輩たちによって、これらのことが繰り返し話され、希少性を強調します。
4月の勧誘を目前にしたある合宿の中で、新勧にそなえ、新入生に対して、相手の目みて、しっかり話しが出来るようにと、以下の高森会長の言葉が黒板に書かれ、合宿参加者が、2人1組になって、面と向かって叫びあう、という行為も行なわれました。

▼「死ぬまで死ぬまいと思っている。
 臨終まで何とかなれると思っている。
 もうだめだ、となった時、はじめてうろたえるのです。
 それでは手遅れです。聞きぬこう」

(高森会長の言葉)

「今、聞かなければならないのだ」と希少性を強調するのは、親鸞会の特徴とも言えるでしょう。

そのような「希少性」を繰り返し聞かされ、そして後輩にも訴えている幹部や先輩となれば、「親鸞会の活動」が人生のやるべき事の中で、最優先課題となります。
しかし、バランス感覚を欠いてしまい、大学の授業や、睡眠、食事、整理整頓といった日常生活がおろそかになり、授業を欠席しがちになったり、単位を落とし留年してしまう人や、体調を崩す人が実際に出ています。

その原因は、もちろん本人の管理能力の無さにもありますが、「今しかできないことだから」と強調する親鸞会の活動方針にも、問題があるように思われます。

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権威性の原理

人は権威者がいるとき、その人の行動の責任をあずけて、命令に自動的に服従しやすくなる。

破壊的カルトの勧誘でもこれを用いる。
たとえば、組織のメンバーには、有名大学や大学院の出身者や関係者である人がいると伝える。
組織のトップや一部のメンバーは、世界中の著名人と親交が深いことを伝える。
あるいは、政界や経済界、学術界の大物、権威ある機関や著名な人物が、自分たちの組織やその活動を高く評価していると吹聴する。
まだ、何も組織のことを理解していない被勧誘者は、それらの評価に自動的に反応して、とりあえず足を向けてみようとする。

(『マインドコントロールとは何か』P104、106)
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新入生が勧誘され、最初の頃に聞く部会の中には、トルストイ、芥川龍之介、またノーベル生理学賞を受賞した利根川進教授や、その他、歴史上有名な哲学者や科学者の有名な言葉が、数多く出てきます。
親鸞会の講師の人たちは、新入生に対して話をするとき、これらの言葉を効果的に使っています。
また、先輩たちは「サークルのOBは、医師や弁護士など、社会の第一線で活躍している人が多い」と紹介し、実際にそれらの人が来て、講演を行なうこともあります。
これらの権威に触れた新入生にとっては、それが一つの魅力となり、親鸞会の教義や組織に関心を示すようになると思われます。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

マインドコントロールに気づきにくい理由


マインドコントロールに気づきにくい理由

今まで述べてきたような環境におかれた新入生は、徐々に親鸞会のサークルの内部に入ってゆくことになります。
しかし、ここまで読まれた人の中で親鸞会の実際の活動に触れたことのない人は、「私は大丈夫だ」とか「他の人はこんなことに引っかかるかもしれないが、私には当てはまらない」と思う人も多いのではないでしょうか。

ところが、これまでに説明してきたマインドコントロールの影響は、「人間として自然に心の中に生じる感情」によるものが大きく、誰にでも起こりうる可能性があることだと思われます。
これらを巧みに利用すれば、外部からの影響を与えられていることをごまかすことも可能です。

そうした特徴のいくつかを、以下に紹介したいと思います。

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他者からの影響の過小評価

人は自己の以前の意見や感情をも、簡単に忘れることがあるという。
すなわち、マインドコントロールする側からいえば、個人に他者から何らかの影響を与えられたということを忘れさせる、あるいは、気づかせないことに成功すれば、人は自発的で自由な意思決定の結果であると、自らを信じさせることになろう。

人は一般的に、人に説得されたとはあまり思いたがらない傾向があることを示している。
破壊的カルトからの強い説得も、当人はそれをあまり認知しない傾向にあるといえる。
つまり、被勧誘者は「考える」という行為そのものさえあれば、集中的にある特定の組織のメンバーとの接触を繰り返し受けていても、自分の意志だけで判断したのだと思いがちなのである。

(『マインドコントロールとは何か』P107)
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私は新入生の頃、親鸞会の教えについて分からないことがあったり、合宿や大きな行事への参加に悩んでいると、多くの先輩に囲まれ、話しをされることがありました。
先輩たちから説得されればされるほど、私は「説得されたから、教えに納得した」「説得されたから、合宿への参加をきめた」と思われたくありませんでした。
私はあくまで、「自分で考えて、自分の意志によって、親鸞会の教義を正しいと選択し、合宿への参加を決めたい」と思っていました。

ですから、説得された結果、その影響をかなり受けて、親鸞会をよしとする選択を行なってきた訳ですが、自分では、「これは自分で論理的に判断して決めたのだ」と常に思っていました。

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コントロール感の錯覚

人は実際にはコントロールできない事象を、コントロールできると認知したり、実際以上にコントロール可能であると認知することがある。

破壊的カルトの勧誘において、被勧誘者は常にコントロール感を過信し、いつでもやめて元に戻れると考えている。
つまり、自分の意志次第で、どうにでも自由になれると思い込んでいることが多い。
しかし、それは自己についての「コントロール感の錯覚」であり、状況の強い力が彼らを拘束していることに気づいていない。
その力とは、たとえば一貫性であったり、返報性であったりする。
人はこのような心理的な力によって、拘束されるために、ひとたびは破壊的カルトに接近してしまうと、もし、遠ざかりたいと思ったときには、相当の苦労が必要とされる。

だから、多くの人は「やってみなきゃあ、分からない。とりあえず、経験してみてからでも遅くはない」という軽い気持ちで接触してゆくが、それは非常に要注意なのである。
入会した後、再び脱会しようと思っても、今度はなかなかやめることが出来ず、精神的にも物理的にも、数々の困難にあうことが多い。

(『マインドコントロールとは何か』P108,110)
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私も、いつでもやめられると思いながら、親鸞会のサークルに毎日顔を出していました。
また、先輩たちも「来るものは拒まず、去るものはおわず」と言っていました。
しかし、実際には、サークル内での自分をとりまく環境の影響をかなり受けて、知らず知らずのうちに、親鸞会の活動にのめり込んでゆきました。

入会する前も、入会した後も、教えに対して理解できないことが数多くありましたが、結局、講師の人や先輩と話をしても平行線をたどり、「教えの通りに実践すれば、教えの正しさが分かってくる」といった説明を受け、疑問は棚上げのまま、最後は「教えの実践」を勧められたものでした。

また、自分が幹部となってからも疑問はありました。
たとえば、「反証不能な因果の道理が、なぜいつでも、どこでも成り立つ真実だと言えるのか」と疑問に思っていました。
そんな私に、同じような質問をしてくる新入生や、後輩もいましたが、私は彼らに「頭でこね回しても分かるものではない。教えの通り、実践すれば、体で知らされることだ」と話していました。
私がそうであったように、後輩たちも、先輩の私が言うのですから、その言葉を受け入れて、教えの実践に取り組んでゆきました。
正直、自分で言いながらも、心のどこかで「便利な言葉だなぁ」と思っていました。

こうして、教えの通りに実践し、多くのお金や時間、労力を、親鸞会の活動に費やしてゆきました。
そうなると、「自分のこの努力が、間違いであってほしくない」「いや、間違いである筈がない」と後戻りできなくなってゆきました。

当時の私にとって、親鸞会をやめるということは、「今までつぎ込んできたお金や時間、そして労力も全て無駄であった」ということを意味し、「自分の選択は間違っていた」ことを、自ら認めることになります。
ですから、なかなかそのようなことは出来ませんでした。
そうなると、少々疑問が起きても、もう後には戻れなくなり、ひたすら前へ前へと進んでゆきました。
今まで費やしてきた時間やお金、労力があまりにも大きかったからです。


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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

勧誘活動における問題点

永続的マインドコントロールの実際

こうして、親鸞会学友部のサークルに勧誘された新入生が「サークルで話しを聞いてみよう」「親鸞会に入会しよう」「親鸞会で聴聞や活動を続けよう」と、「自分で判断して」親鸞会の活動に専念するようになるには、様々な周りの環境の影響を受けます。

では、実際にどのような過程を経て、親鸞会の活動にのめり込んでゆくのか、ここでは紹介してみたいと思います。

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誠実で魅力的な勧誘者

たいていの場合の破壊的カルトでは、勧誘することは、末端メンバーにとっての大事な「修行」であるなどの理由づけが与えられ、当人のためにも奔走したほうがよいことと位置づけられている。

しかし、末端のメンバーは、自分の属する集団の活動のすべてを把握していない場合が多い。
彼らが理解しているのは、集団の掲げる崇高な理想や目標、それにむかって邁進している清き仲間たちなのである。
したがって彼らには、人を欺こうなどという動機はなく、100%の善意で説得してくる。
それが説得力となる。

破壊的カルトのメンバーであった多くの人々が、口をそろえて「あんなに優しく、大切に扱われたことはなかった」と証言している。
このような勧誘者の手厚い対応は、対人魅力を獲得し、被勧誘者を「うれしい」、あるいは「気分がよい」といった情緒状態へ導く。
その結果、被勧誘者は、勧誘者に対する関心が高まり、好奇心を生じさせ、また情報の源として好意的に評価することになる。
それが、身体的にも魅力のある人であると、さらに効果が高まる。

(『マインドコントロールとは何か』P149、150)
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親鸞会の活動でも、勧誘活動(顕正活動と言われています)は、勧誘する本人の為になることだと、強調されています。
「信心決定していない者には、破邪顕正(勧誘活動)は仏縁となる」という高森会長の言葉もありますし、親鸞会の教えの中に、「信仰が進む(宿善が厚くなる)こと」として、以下の行為がすすめられています。
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問(28) 「宿善」が厚くなる順から三つあげよ。

答(28) (1)熱心な聞法
     (2)五正行の実践
     (3)六度万行の実践

(親鸞会発行 教学聖典5号より)
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親鸞会では、上記のように「仏法を聞くこと(聞法)」「おつとめ(五正行、仏前で正信偈を拝読すること)」「善(六度万行)の実践」の順に、信仰が進むこととして、すすめられます。
そして、実践すべき善の中でもすすめられるのが、「布施(施し)」であり、中でも「法施(仏法を伝える)」が最もすすめられています。

「破邪顕正は、この世で人間の出来る最も崇高な行為であり、世界最高の生き方である(高森会長)」といった言葉をはじめ、破邪顕正(勧誘活動)をすすめた高森会長の言葉は、山のようにあり、講師部員や幹部会員には、それらの言葉は珠玉の言葉であり、自身の中で勧誘活動の推進力となっています。
                              
逆に、以下に示した「仏法を伝えようとしない(破邪顕正しない)者は、仏弟子ではない」との、お釈迦様の言葉などによって、「自分が聞いているだけで、人に仏法を伝えようとしない者は、本当の仏弟子とは言えない」などと指摘されます。

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問(22) 破邪顕正せざる者は仏弟子ではない根拠を『涅槃経』のお言葉で示せ。

答(22) 僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。

(親鸞会発行 教学聖典6号より)
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このようにして、親鸞会では勧誘活動がさかんに勧められ、勧誘活動をすることが自分自身のためになる、と位置づけられています。

親鸞会の教えを受け入れ、勧誘活動に必死になる講師部員や幹部の先輩たちは、上記の『マインドコントロールとは何か』の引用にもあるように、「人を欺こうなどという動機はなく、100%の善意」で接してきます。
ですから、非常に親切であり、親身になって相談にのってくれますし、自分の時間やお金、労力をいとわず、接してくれます。

私も幹部として活動していたときには、「自分は世界で最も素晴らしいことを行なっている」「相手を本当の幸せに導くことが出来る集まりは、親鸞会以外にこの世に存在しない」と、まったく疑いもなく、そのように思っていましたし、その信念に基づいて、少しでも相手に喜んでもらえるなら、と新入生や後輩に精一杯の優しさで接していました。

ですから、そのような優しい先輩や講師部員に囲まれた新入生にとっては、本当に居心地がいいですし、「先輩たちのような人間に、自分もなりたい」と思う人もあるでしょう。親鸞会のサークルに足を運ぶ最初のきっかけが、教義に対する関心よりも、むしろ、やさしい先輩たちに惹かれた、という人も少なくないのでは、と思います。

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カムフラージュとタイミング

破壊的カルトの勧誘において、真の目的である「新メンバーの獲得」や宗教組織の名称をカムフラージュする方法をとるのである。
ある調査によると、最初から団体名を名乗られたのは、わずか5.9%に過ぎない。
また、67.8%の被勧誘者は、勧誘者から告げられるまで、組織の真の名前についても、どういった目的の活動組織であるとも気づかなかったという。

たとえば、ある宗教的破壊カルトは、勧誘者は「宗教団体か?」と聞かれた場合でも、それを否定するようにマニュアル化されている。

このように新メンバー獲得という目的を告げず、組織の名称もいつわることが、被勧誘者に説得されることを予期させず、それによって説得が効果的におこなわれることになると解釈できる。

特に宗教的な装いをした破壊的カルトの場合では、日本人の多くは宗教に対するイメージが必ずしもよくないため、こうしたカムフラージュで接近する場合も珍しくない。
あるいは、彼らは集団の教義やイデオロギーを、冊子や本、さらには、マスメディアを通じて、前もって流布させておいて、拒否的態度を取り除くように計画されている場合もある。

(『マインドコントロールとは何か』P150、151)
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私はこの「宗教組織の名称をカムフラージュする」といわれる部分が、親鸞会の活動の中で最も問題のあるところだと思っています。

最初にも書きましたが、全国の大学における親鸞会の勧誘活動では、宗教法人である「浄土真宗親鸞会」という名前は、最初はまったく出てきません。全国どこの大学でも、親鸞会のサークルは大学の一サークルとして、さまざまな名前がついて存在しています。

ですから、勧誘される新入生にとっては、まさか、このサークルが「宗教法人 浄土真宗親鸞会」のサークルだとは分かりませんし、親鸞会の存在を知らない人がほとんどですので、ほぼ100%気付くことはないと思われます。

しかし、今後の人生を大きく左右しかねない、信仰の問題の選択を迫るということにおいて、自分たちの「浄土真宗親鸞会」という宗教法人としての立場を意図的に隠して接してくることは、多くの人から批判されているように、大変大きな問題をかかえていると私は思います。

たとえば北海道大学大学院教授、櫻井義秀氏はこのように述べています。

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宗教団体を秘匿して勧誘することは単なる欺罔に留まらないといいます。
物事を良く知っているかどうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘することができます。
しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることができない内容が含まれています。
神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。
これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。
しかし、教団がこれらをあたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。
個人の人生を大きく左右する宗教的知識・論理をカモフラージュして教えることは、内心の自由に不当な影響力を行使する、許されない行為であるとされたのです。

(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)
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もちろん、彼らには、これらの行為を行なうことに対する、正当化された理屈があります。
それは、上記の引用にも書かれているように「日本人の多くは宗教に対するイメージが必ずしもよくないため、こうしたカムフラージュで接近する場合も珍しくない」とある通りです。

彼らは
「一般の人がイメージしている『宗教』や『仏教』と、私たちが伝えようとしている『親鸞聖人の御教え』とは全く違うものだ。
だから、いきなり『宗教です』とか『仏教を聞きませんか』と言ってみたり、『浄土真宗親鸞会です』と名乗ったところで、おかしなイメージを与え、誤解を生むだけなので、そのような言葉を使わないのである」

と説明します。

また、それを彼らは「悪意をもって嘘をついているのではなく、相手の幸せを念じての『配慮』である」と言います。
私も幹部として、活動していた時には、まったく疑いも悪意もなく、その理屈を受け入れて、そのようなことを行なっていました。
縁の浅い学友部員の中には、「親鸞会」の名を明かさないことに対して、後ろめたい思いを持っている人もいるようですが、全体的には、心からの善意で、そのような行為をおこなっている、というのは、たしかにその通りだと思います。

しかし、本当にそのような行為は問題ないのでしょうか?
大学のサークル活動とは少し異なりますが、
たとえば、訪問販売においては、訪問販売をする社員は、訪問したときに、まず「自らの立場」と「訪問の目的」を告げなければ、「訪問販売法」に触れる違法行為となります。
親鸞会の学友部員が、新入生を勧誘するということは、いわば「宗教法人 浄土真宗親鸞会」の商品である「親鸞会の教義」を紹介し、相手に売り込むのと同じようなものです。

また、同様に宗教団体であることを隠して勧誘をしていた統一教会は、違法伝道訴訟で明確に違法判決を受けています。
そうしたことを抜きにしても、新入生を勧誘するときに、「浄土真宗親鸞会」という自分たちの立場をまったく明かさないのは、あとで様々な問題が生じるように思います。

このような批判に対して、会員の中には、「サークルのメンバーの全員が会員という訳ではないので、あくまで大学の一サークルであり、それがイコール親鸞会ではない」と言う人もいます。
果たしてそうでしょうか?
彼らの言う「会員ではない者」とは、入会を勧めている途中の段階にいる新人であり、やがて会員となる人、もしくはサークルをやめていく人です。
また、その割合はごく少数です。

そして、何よりも彼らの活動拠点である大学構外の部室は、「浄土真宗親鸞会」の名義で契約されており、その家賃は「親鸞会」という宗教法人の会計から出ています。
中には、大学の反対を受け、「親鸞会」名義は都合が悪くなり、高森会長か、親鸞会の顧問の会計士の名義で、契約されているような大学もあったと聞いています。

講師部員から先輩に対して、
「部室の家賃もすべて出して頂いている私たちは、この御恩にお応えしなければならない」
「君らの出している会費だけで、部室の家賃をまかなえるとでも思っているのか」と、何度となく言われています。

私も何度も言われましたし、後輩にもそのように話しをしていました。

結局、各大学のサークルと親鸞会学友部の組織は、全くといっていいほど同じであり、「直接、親鸞会とは関係ない」とか「イコールではない」とは、とても言えない密接なつながりをもっているのです。

組織においても、頂点に学友部長という親鸞会学友部の講師部員がおり、その下に学友部の担当講師がいて、その講師がそれぞれの大学を担当しています。
各大学のサークルの部長(学生)は、担当講師の指示で動くのであり、部員についても、様々な行動について、担当講師の許可を逐一得て、行動しています。

たとえば、学生は「親にサークル活動を続けていることを反対されたが、どのように言って対応すればいいか」といった行動の多くを講師に伺い、その都度、細かい指示を受けて行動しています。
ある学友部員の親御さんが、子どもに誘われるので、親鸞会の行事に参加されたところ、ある講師部員が「お母さん、よく来られました」と近づいてきて、いろいろ話しをしてきたそうです。
その親御さんは「はじめて会ったはずなのに、家のことが何もかもつつぬけのようで、不気味に思いました」と、あとで言っておられました。

また、親鸞会学友部には、「必殺育成法」をはじめ、さまざまな勧誘のマニュアルがあります。
そこに書かれている巧妙な手法により、新入生の家族構成や、経済状況などをうまく聞き出し、相手の性格なども把握して、うまく入会まで導きます。
私は幹部であった頃、ある講師の人から、「新入生を育成するには、相手の家族構成、経済状況、長所や短所、性格など、あらゆることを把握していなければ、人ひとりを導くことなどできない」と言われました。
人にもよりますが、講師部員や親鸞会学友部の幹部の学生たちは、相手と仲良くなり、相手の心をつかむ技術は、非常にたけていると思います。

このように、各大学のサークルでは、親鸞会の講師部員による細かい指導のもと、親鸞会の方針に従って、講師部員の指示によって活動を行なっているのですから、「『浄土真宗親鸞会』という宗教法人と各大学のサークルは別のものだ」などとは、決して言えないのではないでしょうか。

もし、「大学のサークル」とその中の「親鸞会会員の集まり」が明確に分かれているならば、「別の団体だ」と言えなくもないですが、その「組織」も「会計」も「活動」も、明確に分かれているものとは、とても言えません。
少なくとも、外から見れば、まったく同じ集まりです。

私が幹部であるときも、大学当局や部員の親御さんから同じ指摘をうけましたが、なかなか反論できませんでした。
それでも、親鸞会と名乗らず勧誘し続けていられたのは、「自分たちが行なっていることは、全人類を本当の幸せに導く、最も崇高な行為である」との信念が常にあったからです。

しかし、「親鸞会に入会させること」が、「本当の幸せに導く行為」かどうかは、まったく主観的なものであり、あくまで個人の判断にゆだねられるものです。
自分たちにしか通用しない考えで正当性を主張し、全国の大学で活動をおし進めているのですから、多くの批判を受けるのは当然でしょう。

親鸞会学友部の講師部員や先輩たちには、自分たちに向けられている多くの批判について、最初から「とるにたらない非難中傷」と目を背け、自分たちの利益追求にだけ突き進むことなく、親鸞会の活動により苦しい思いをしている人たちの声に耳を傾けてもらいたいと思います。
そして、それらの批判を受け入れる度量がまだあるのなら、是非、全国の大学における勧誘活動において、「浄土真宗親鸞会」としっかり名乗って、「仏教や浄土真宗の教えを学ぶサークルだ」と公言してもらいたいと願っています。

このような意見が内部で全くおこらない、また、内部でおこっても、上からの力によってもみ消されてしまうようなら、組織として自浄能力を失った団体であるとみなされても、仕方がないと思います。

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ニーズの操作とアピール

いくつかの破壊的カルトの場合には、ニーズが被勧誘者に低い場合には、扇動してニーズを高める操作を行なうことがある。
つまり、不安や恐怖感を喚起しやすい社会問題を提示するとか、被勧誘者の弱点をうまく聞き出したり、調べたりしておいて、その点を攻撃する。

たとえば、戦争などの紛争、経済危機、環境汚染、伝染病、暴力事件やいじめ、不倫、子どもの非行など、現代社会に生きる誰もが頭を悩ますような、解決困難な危機的な情報をターゲットの関心にあわせて、いろいろ提供する。
つまり、本人に問題の解決をせまり、答えの出せない状況へと追い込み、依存心を高めるのである。            

ニーズとメッセージの組み合わせは次のように分類できる。

(1)自己変革欲求

罪悪感、剥奪感、コンプレックスといった個人的な欠点や弱点を標的にして、具体的な心の支えを提供すると説くような、治療的ないし訓戒的メッセージを与える。
たとえば、「もし学んだら、悩みが解決できますよ」「解決したければ、勉強すべきです」と言われる。

(2)自己高揚欲求

人生における有能感を与え、「生きがい」や社会貢献といった人生の目的を説明し、 …(略)…「あなたには、まだ未開発の隠された能力がある。それを引き出して変わることができる」「あなたの人生の目的がわかりますよ」などと言われる。  

(3)認知欲求

自分、世界、歴史、宇宙、霊界などの超自然についての理解に対する動機付けを高める。…(略)…歴史の法則性や世界の終末などについて、正しく認知しようと動機付けを高める。
たとえば、「科学では解明されていない驚異の世界がある、勉強したら分かりますよ」「あなたが謎に思っている全てのことが分かるんですよ。知りたいと思いませんか。」と言われる。

(4)親和欲求

親密な仲間集団を求める動機が満たされていない状態にある者に、孤独感をいやし、真に心を開いて語り合う場所と人を提供する。
たとえば、「同じような仲間がいるから、一緒に考えましょう」「唯一、真面目に真剣に人生を生きていける素晴らしい人たちが、あなたの友人になってくれますし、その仲間は親よりも素晴らしい」などと、アピールを繰り返してくるのである。

こうして被勧誘者は、彼らの主張を聞いてみるくらいはいいのではないか、と思うようになるのである。
誰もが気付くとおり、ここに取り上げたことに関して、多くの人が悩んでいたり、あるいは高い関心を寄せている。

(『マインドコントロールとは何か』P153,154)
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新入生が、「親鸞会の話しを聞いてみよう」と思う理由の中には、上記に分類されるような欲求があると思います。
親鸞会学友部の人たちに、「親鸞会の教義の中で、どのような内容に魅力を感じましたか?」と尋ねると、「理系の学生は『因果の道理』、文科系の学生は『無常観』に感銘をおぼえたと答える人が多い」ようです。
親鸞会が発行している機関紙「顕正新聞」に、かつて特集されていました。

「因果の道理について知りたい」という欲求は、上記の「認知欲求」にあたりますし、「人生の目的を知りたい」「人生について真面目に語り合いたい」という欲求は、「親和欲求」にあたるのではないでしょうか。

親鸞会に入会する学生の多くは「人は何のために生きているのか」とか「私たちの運命は、何によって決まるのか」といった、多くの人にとって、回答が困難な問題に対して、直接的な答えを求めたがるのだと思います。
大変難しい問題ですが、この世界に存在する多くの複雑な問題に対して、単純な解決があるなどと信じてはならないようにも思います。
個人の人生や、人間関係、経済や政治、国際問題などの複雑な問題に対して、他者が与えられる単純で明白な解決などあるのだろうか、と疑問に思う気持ちも大切だと、私は思います。


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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

問題の提示と解決への道

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無常観と罪悪観

勧誘者の話を聞く動機づけがターゲットの被勧誘者にできると、次に勧誘者は、個人のニーズに応じた明白な解決策や解答を提示する。
そしてこれまで被勧誘者が、他人から入手して試みてきた方法や手段では、いくら試みても今後も解決し得ないことを強調する。
つまり、勧誘者は被勧誘者の迷っている問題を理解し、右に行けばこうなる、左に行けばこうなる、などと明白に説明し、正しく歩むことのできる唯一の良い道が必然的にあるかのように説明するのである。

(『マインドコントロールとは何か』P155)
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人は皆、幸せになりたいと願っています。
大学に入学して間もない新入生も例外ではないでしょう。
しかし、現実はそんなに甘くはありません。
新入生が歩んできた、わずか18〜20年ほどの人生の中でも、受験戦争、友人関係のもつれ、失恋、家庭内の問題、病気や怪我など、様々なことで苦しい目にあい、自分の能力の限界が知らされ、いつも幸せを実感していると自信をもって言える人は、少ないのではないでしょうか。

親鸞会のサークルで部会を聞き続けることにより、新入生はこの世の解決困難な問題を突きつけられ、この世の無常観と、悪しか造れない人間観を提示され、
「今後、どれだけ自分が努力をしても、今まで味わったような、いつか必ず色あせるような儚い幸せしか手にすることが出来ない。
だから、このままでは、絶対に幸せにはなれない。
果たして、このままでいいのだろうか・・・・」
と思うようになります。

そこで、親鸞会では、「この世には、絶対に崩れることも色あせることもない『絶対の幸福』があり、それは親鸞聖人の御教えにだけ、説かれているのだ」と説明します。
そして「親鸞聖人の御教えを正しく説かれているのは、現在、高森先生しかおられない。
だから、絶対の幸福を得る為には、高森先生の御説法を聴聞しよう」
と、言うのです。

新入生にとっては、講師部員や先輩があたかも自分が今まで悩んできたことを、全て知っているかのように明解に説明し、そして、その解決方法も与えてくれるので、「この人たちならきっと、私のこの悩みに対する回答を与えてくれるだろう」と思うのではないでしょうか。
こうして、親鸞会の話しを聞こうという気持ちが出来上がります。 

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「現代社会の悲惨な点だけに注目して、被勧誘者に集中的に提示する。
現代社会の肯定的部分には一切、光を与えないのである。」     

(『マインドコントロールとは何か』P90)
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親鸞会の講師部員や先輩たちは、
「全ての人は死んでゆくときに、不安と後悔を残して死んでゆく」
また「人は心でも口でも体でも悪しか造れない。まことの善など一つもしたことがない」と強調します。
「だから、悪しか作れない人間が、死の問題の解決を後回しにして、他のことをしていても本当の幸せにはなれない。
死ねば必ず地獄に堕ちるのだ」と訴えます。

そして、若くして白血病で亡くなった女性の映像や、脳卒中で倒れたビジネスマン、孤独に死んでいった億万長者、脳腫瘍で苦しんで亡くなった野球選手のドキュメンタリーなどを繰り返し新入生に見せます。
 
私は個人的には「死の問題について考えること」や、「自己の罪悪について目を向けること」は、関心のあることであり、大事なことだと思っています。
しかし、その話し方が押し付けのようになったり、相手が嫌がることを執拗に繰り返すような行為となると、それによって大変嫌な思いをする人もあるのではないでしょうか。

もちろん、人生に不条理な面が無いとは言いませんが、それだけではないはずです。
人生は素晴らしいと言っている人もいるのに、そうした肯定的部分を無視して、人生の不条理な面、負の面だけを集中的に徹底するのは、問題があるように思います。

親鸞会をやめた人の中で、「死に怯えて心が暗くなり、何もできなくなった」「いつも自分の罪悪に目をむけて、とても辛かった」「善いことをしても、自分には下心があるのでは、と罪悪感を感じていた」「自分も他人も好きになれなくなってしまった」といったことを感じる人も、一人や二人ではありません。

これらの人に対しても、親鸞会では「そのような受け止め方間違っている、誤解だ」などという言い分が用意されており、言いことは沢山あるかもしれませんが、このように苦しい思いをしている人たちが実際に少なからずおられる事実に目をむけて、そして、なぜこれらの人たちが苦しい思いをしなければならなくなったのか、少しは考えてほしいと思います。

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問題の解決法を提示

何となく自分の人生に疑問を持ち、「生きがい」「使命」「生きる目的」とかを考えている人、あるいは、そのようにあおられた人には、「崇高」で鮮明な理想を提示し、個人としてどこを目指せばよいのか、社会をどこにリードすればよいのかを明白に提示し、メンバーとなって活動すれば、それが実現可能であることを強調する。 

(『マインドコントロールとは何か』P156)
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「目的もなく生きている人は、生きながらに死んでいるのと同じ。人生の目的を求めなければならない」
と、毎日のように繰り返し繰り返し聞かされてきた新入生は、親鸞会の示す「人生の目的」である、「絶対の幸福」になりたいと、強く思うようになります。
そして、絶対の幸福の身になるには、本当の親鸞聖人の教えを聞かなければならないが、現在の既成真宗教団は堕落して、本当の親鸞聖人のみ教えを説いていない、それを説かれているのは、親鸞会の高森会長ただお一人である、と説明されます。
だから、絶対の幸福になるには、高森会長の説法を聴聞しなければならない、と講師部員や先輩たちから言われます。

こうして、新入生は高森会長の法話に参詣するようになり、その高森会長の御心を教えてくれる講師部員や先輩の指導に従って活動しよう、それが人生の目的達成への最短距離であり、死後、地獄に堕ちる一大事(後生の一大事)の、唯一の解決の道なのだ、と認識するのです。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

親鸞会の教義を受け入れるまで

親鸞会の教義を受け入れる過程

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被勧誘者は、破壊的カルトが提供するビリーフ・システムにおいて、何か一つ魅力的なビリーフが生じて受容すると、その集団の提供する他のビリーフにも感心を抱くようになる。
また、提供する側も、受容させたビリーフとの必然的な関連を説明してくる。
そして、破壊的カルトは、少しずつ、被勧誘者の思考の作業場の真ん中のほうに、彼らの提供した全部のビリーフを集めさせ、セットとして「道具」を所有することの意義をアピールしてくるようになる。

被勧誘者の中には、一つが気に入れば、要請に応じて簡単に全部をまとめて受け入れてしまう人もいる。
これは、物の売買において、商品をあらためずに、これまでの実績から、売り手を信じて購入するのと同じである。
しかし、そんな簡単にいく人ばかりではない。

もちろん、被勧誘者は、破壊的カルトの提示する考えや問題解決法が本当かどうかを疑うであろう。
その疑いをかわし、正しいことだと信じさせていくには、あるいは被勧誘者がそれまで抱いてきた確信を揺るがすには、「リアリティの構築」が必要である。
つまり、彼らの提供するビリーフは、「現実」を正しく反映しているのだと感じさせること、そのための仕掛けがいくつかある。

(『マインドコントロールとは何か』P157,158)
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親鸞会の教えを聞いた新入生は、最初から全部を納得して受け入れるのではないと思います。
しかし、少なからず、自分が共感する部分があるから、「続けて話を聞こう」という気持ちになるのだと思います。
以下、親鸞会の教義について、いくつかのキーワードをあげてみました。

・無常観…この世は常が無く、続かないものばかりである。どんな幸せも必ず色あせる。肉体さえも最後は死んで滅びてしまう。

・罪悪観…人間は体で悪を行ない、口で悪を言い、そして心では悪ばかりを造り続けている。

・因果の道理…善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が、自分のやったことは自分に結果が返ってくるのであり、これには一切、例外はない。

・必堕無間…無常の世の中で、悪しか造れない我々は、因果の道理に従って、死ねば必ず地獄に堕ちる。

・絶対の幸福…本当の親鸞聖人の教えを、生きている間に聞き抜く体験(信心決定)をして得られる崩れない幸せ。

「親鸞会の話を続けて聞こう」と思うのは、私自身もそうでしたし、多くの学生が、「教えのどこかに関心をもつ」からでしょう。
親鸞会発行の「顕正新聞」によると、「文科系の学生は『無常観』、理科系の学生は『因果の道理』に感銘をおぼえた」とあります。

しかし、一方でよく分からない、納得のできない部分も多々あります。
たとえば、「罪悪観」については、自分の心を眺めても、毎日の新聞やニュースを見ていても、「人間は悪いことばかりを考え、行なっている」ということは頷ける、しかし「無常観」については、幸せが崩れるといわれても、死と言われても、どうもピンとこない。
また、人間必ず死なねばならないなど、当たり前ではないか、といった考えの学生も少なくないように思います。

また、私は教義の中では「無常観」には頷く一方で、「因果の道理」については「反証不能な因果の道理が、なぜ大宇宙の真理などと言えるのか」という疑問は、最後まで晴れませんでした。
ですので、因果の道理から導き出される「必堕無間」についても、「なぜそれが絶対間違いないといえるのか」と思っていました。

しかし、新入生の頃、講師部員や先輩たちからよく言われたのは「最初から全部分かるものではないから、自分の分かるところをよく聞いてゆけばいい」といったことでした。私は「疑問が晴れなければ、他の話しも真剣に聞けないので、分かるように説明してほしい」と質問を繰り返していましたが、講師部員や先輩たちは「言葉で説明するには限界があるし、教えの通りに実践してゆけば、分かってくるものだ」と言い、最後まで納得のゆく答えは返ってきませんでした。

こうして、自分の頷ける話を手がかりに「そうか、そうか」と聞いてゆきました。
そして、周りのみんなと歩調を合わせ、「新勧合宿」に参加し、高森会長の法話を聴聞しに出かけ、教学(教義の勉強)もするようにしました。
すると、不思議なことに、もっていた疑問を次第に問い続けることを忘れてゆきました。
そして、いつの間にか、親鸞会の教義の全てを受け入れるようになったのです。
自分の中でも、疑問は常にあり続けましたが、その疑問を問うことをやめてしまい、これから説明してゆくような、様々な周囲の影響を受け、親鸞会の全てを受け入れる心が働いていたと思います。

ここで私は何を言いたいのかというと、上記の『マインドコントロールとは何か』の引用にもあるように、
「被勧誘者の中には、一つが気に入れば、要請に応じて簡単に全部をまとめて受け入れてしまう人もいる」ということです。
私は多くの疑問をもっていたにもかかわらず、その疑問を解消しないまま、講師部員や先輩たちの「分かるところを聞いてゆけばいい」との言葉を聞いているうちに、次第に自分の中にある疑問を問い続けることをやめてしまい、いつしか親鸞会の活動に没頭するようなりました。

私は幹部となってから、多くの新入生に接しましたが、それぞれの新入生が、親鸞会の教義の中で、特に共感をおぼえる部分をもっていました。
私は、どの新入生が、どんな話の内容に特に強くひかれているのか、を把握していましたので、個人的に話す時には、相手の新入生に応じて、共感をおぼえる部分を強調したものでした。
自分の話が相手の新入生の胸に深く突き刺さると、「もっと続きが聞きたい」と相手は思うようで、次回の約束は、比較的簡単にとれました。

あと、引用の中には「簡単に受け入れてしまう人もいる」とありますが、私は親鸞会のすべてを「簡単に」受け入れたのではなく、かなりの時間を要しました。
しかし、以下に説明するような、「リアリティの構築」が働き、私も最終的には、親鸞会の教義のすべてを受け入れ、活動に没頭するようになってゆきました。

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個人的リアリティの構築

そのための仕掛けの一つは、ビリーフが個人の体験に基づいているという感覚、あるいは論理にかなっているという感覚を与えさせることである。

(『マインドコントロールとは何か』P158)
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「錯誤相関」という現象がある。
それは、実際には存在しない関係を認知したり、あるいは実際の関係以上に強い関係を認知することである。
人はランダムに起きている事象についても、すでにもっている信念を確認するデータとして誤って認知する。
つまり、二つの事象に相関する関係があると信じるならば、その関係が誤りである証拠を確認する以上に、その関係が正しい証拠に気づき、記憶してしまう。

(『マインドコントロールとは何か』P159,160)
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親鸞会の説く因果の道理は、三世(生まれる前の「過去世」、生まれてから死ぬまでの「現在世」そして、死んだ後の「未来世」)にわたって成り立つ大宇宙の真理である、というものです。
ですから、今、不幸な目にあっているのは、過去世の悪い行いが原因だとも言います。
私は生まれる前の過去世や、死んだ後の未来世まで含めると、とても「親鸞会の説く因果の道理は大宇宙の真理だ」とは理解できませんでした。
しかし一方で、この世のことだけで言うと、「善因善果 悪因悪果 自因自果(善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が返ってくる、また自分の蒔いた種は、自分に結果が返ってくる)」とは、「まあ、世の中そういうものだろう」という程度に納得していました。
(一切、例外のない真理などとは、思っていませんでしたが)

つまり、「親鸞会の説く因果の道理」には「理解できない部分」と「ある程度、納得した部分」がありました。
しかし、毎日のように、「善因善果 悪因悪果 自因自果」と聞いていると、次第に「すべてが、本当にそうなのかなぁ」と思うようにもなりますし、また、親鸞会の活動のために、多くの時間やお金や労力を費やしていましたので、「親鸞会の説く因果の道理が真理であってほしい」という期待や先入観は、自覚のない部分でかなりあったと思います。

そうすると、何か善いことをした後、善い結果が返ってきたり、悪いことをした後に、悪い結果が返ってくると、「因果の道理は、やはり真実なのだなぁ」と思うようになります。
善いことをしても、善い結果がかえってこなかったり、悪いことをしても悪い結果がかえってこないような場合があっても、「因果の道理に反すること」よりも、「因果の道理に合致すること」がより強く自分の中に残り、「やはり、毎日聞かされていることは、正しかったのだ」と思うようになりました。

こうして、多くの疑問を抱えていた「親鸞会の説く因果の道理」も、次第に自分の中で「やはり、講師の人や先輩の言う通り、大宇宙の真理なのでは・・・」と思うようになってゆきました。

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社会的リアリティの構築

人はふだん、自分の周りの他者がどのようにふるまっているのか、どのような考えをもっているのか、あるいは、どのように感じているか、ということも含めていいのだが、それらを参考にして、自分の行動を決定することがよくある。
つまり、私たちの行動とか、判断というのは、他の人のそれに非常に影響されている。

(『マインドコントロールとは何か』P162)
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破壊的カルトは、リアリティを構築させやすくするために、集中的接触による教化をおこなうことが多い。
具体的には、勧誘者は被勧誘者を合宿に参加させ、その間、外部との連絡を認めないという方法を用いる集団もある。

つまり、勧誘者は被勧誘者を、それまでその人が信頼してきた人々や情報源から隔離し、孤立させ、一方的に自分たちの集団のメンバーばかりに接触する機会を増やす。
そして勧誘は一人ずつが原則であり、友人や家族など、複数で接触してきた者であっても、バラバラにされることが多い。
勧誘者は、仮に、複数の人々に向かって勧誘するにしても、被勧誘者間では話しをさせないように場所や時間を管理する。

場合によっては、勧誘者は「まだ、あなたは理解していないから」などと適当な理由をつけて、被勧誘者に口外させないように言いくるめることもある。
カルトの元メンバーに対して質問した私の調査では、「家族や友人に、学んでいることを伝えないほうがいいと指示されたか?」という問いに対して、「そうだ」が76.9%、「ややそうだ」が9.2%であった。両者あわせて86%をこえる。
このようにして、伝道という目的をカムフラージュするだけでなく、集団外部へ一切の情報が漏れないようにしている。
その結果、外部からの妨害は少なくなると予想される。

 (『マインドコントロールとは何か』P163,164)
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親鸞会学友部の活動の中には、合宿が数多くあります。
入学の約1ヶ月後、ゴールデンウィークに行なわれる「新勧合宿」や、夏休みに行なわれる「夏合宿」、年末に行なわれる「冬合宿」、年が明け、大学の試験が終わる2月半ばから3月にかけて行なわれる「春合宿」をはじめ、その他にも、秋や短い休みの間にも、小さな合宿が多々行なわています。
特に新勧合宿と夏合宿は、5日間から1週間という、比較的長期間にわたるものです。

合宿に参加している間は、家族や友人から離れて、講師部員や先輩たちと寝食をともにします。
朝から晩まで、「親鸞会は絶対に正しい」「親鸞会が間違っている筈がない」と信じている講師や先輩たちとばかり接することとなります。
それらの人たちから、「親鸞会の教義の正当性」を繰り返し、強調されることとなり、その間、親鸞会の教義に対する批判的な意見は、一切入ってきません。

もちろん、最初の新勧合宿では「実家に電話もかけてはならない」と強制されるようなことはなく、むしろ、「毎日、両親に『元気にしている』と連絡するように」と徹底されています。
それは、家族の方に不信を与えないためでもあります。
他にも、家族の人たちに「合宿で何をやっていたのか?」と聞かれても、上手く答えられるように、専用の資料も渡されます。
それは、「親鸞会の教え」とは直接関係のない「上手な勉強のやり方」「健康管理について」「手帳のつけ方」などなど、先輩たちが自分の得意な「聞いて得する情報」を話す「分科会」と言われるもので、そこで使われる資料が新入生に渡され、「家族の方から何か聞かれたら、これを渡せばいい」と指導されています。

また、新勧合宿では講義だけでなく、スポーツ大会や、カラオケやゲームを行なう交流会なども設けられています。
これらのレクリエーションは昔に比べて、比較的数多く行なわれ、活動が柔軟になってきていることは事実です。
親御さんからの苦情や、反対を警戒してのことと、年々、変化する新入生の気質に対する対応でしょう。

しかし、合宿に参加している間は、親鸞会への批判的な情報は一切入らない、と言ってもいいでしょう。
その間に、「高森会長の法話への参詣の決意」や「親鸞会への入会」を勧められます。
地域や大学によっては、必ずしもそうではありませんが、長期の合宿で、何かの決意を迫られることは多いように思います。
私は講師の人から、「合宿中にすすめるのと、地元に帰ってから部室ですすめるのとでは、その環境は大きく異なる。
だから、できるだけ、合宿中にすすめきるのがいいんだ」とよく、言われたものでした。

私が幹部であった頃、「エンドレス座談会」と言われるものがありました。
5日間ある合宿の3日目か4日目くらいに、希望者に対して、夜を徹して語り合うというものです。
(それ以外の日は、就寝時間は決まっており、睡眠時間は確保されています)
その内容は「座談会」と銘うっていますので、質疑応答から始まることが多いですが、次第に「サークルをやめることへの説得」や「親鸞会への入会」を勧めることもよくありました。
夜2時、3時までかかって、入会を勧めきったことも1度や2度ではありませんでした。

上記の『マインドコントロールとは何か』の引用にもあるように、「被勧誘者間では話しをさせないように場所や時間を管理する」といったことが、親鸞会学友部の中でも行なわれています。
勧誘のマニュアル「親鸞会必殺育成法の巻」に詳しく書かれていますが、新入生同士をなるべく近づけさせない「引き離し対策」といわれるものそれです。
最初の頃は、新入生同士が集まっても、前向きな話しはあまりなく、サークルについての批判的な意見の言い合いや、サークルをやめる相談など、講師部員や先輩たちにとっては、後ろ向きな意見しかでないので、できるだけ、最初の頃は、新入生だけで話をさせないようにしよう、といった対策です。

具体的には、以下に一部を引用してみます。
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・同じ予備校の出身者はくっつけない
・同郷のものはくっつけない
・同じスポーツをしていたものはくっつけない
・同じジャンルの音楽が好きなものはくっつけない
・同じ所に住んでいる人はくっつけない

2人以上の新入生がくっついて、余計に良くなるなら、離す必要はないが、それは稀である。
大概、後ろ向きの発言の連発になる。
そこで、大学の規模にもよるが、引き離し対策ができるかどうかは、成果の大きな要素になる。

・部会時の引き離しを完璧にする。〜詳細は略〜

・ゼミの後、帰すタイミングも微妙にずらしながら。

どうしても、上記のような面々が一緒になってしまった場合、その場の先輩が気をきかせて、2人(あるいはそれ以上)が別れる最後まで、一緒に帰る。
その際、自分のカバンも持ってゆき、アルバイトに行くなどの理由をさりげなく作る。

場合によっては、本当に帰ってもよい。
そして、状況をその夜のうちに先輩に必ず報告する。
口で「今回は○○君が引き離しに一緒に帰ってよ」などと言えないので、玄関近くで目で合図したり、「そういえば○○君は今晩、バイトだったね、そろそろ行ったほうがいいんじゃない?」などのサインを送ることがある。
それを敏感に察知して、「そうね、じゃあみんな、折角だから、一緒に帰ろうか」と引き離しにゆかなくてはならない。
それを、鈍感にも、「え?そんなことありませんよ」では、ぶち壊しである。  

(親鸞会 必殺育成法の巻 第5節「引き離し対策」より)

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読んで頂けば分かると思いますが、親鸞会では、大学にもよりますが、講師部員や幹部の先輩たちが、こういった行動の一つ一つについて、とても詳細に指導をしています。

しかし一方で、このようなマニュアルを作ることには、異議もあったようです。
文章化すると、あまりに露骨すぎる表現となりますし、また流出する恐れもあります。
ですので、その危険性を考えられて、最近はあまりこのような文章化された、勧誘方法の具体的なマニュアルは少ないように思います。

また、この「引き離し対策」にしても、「新入生を引き離すこと」が目的ではなく、あくまで、その目的は「親鸞聖人の教えを伝えること」です。
ここではマニュアルの一部しか引用していませんが、そのようなこともしっかり書かれています。
以下に引用します。

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・基本的には、「先輩と話をしたほうが、他の一年生と話すより楽しい。得をする。」と思わせる。その為に信頼関係を築くことが大事。
(その後、「情熱」「清潔感」「さわやかな挨拶」「約束の大切さ」などが、細かく書かれています)

・目的は、引き離すことではなく、真実を伝えることである。

                  (親鸞会 必殺育成法の巻 第5節「引き離し対策」より)
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ですから、どこかの悪徳詐欺師のようなものでは、決してないと私は思いますし、彼らは本当に相手の幸せを念じて、これらのことを行なっているのです。
私自身もそうでした。
しかし、彼らの価値観は「親鸞会の教義は大宇宙の真理であり、親鸞会で聴聞をしなければ、本当の幸せにはなれない」というものですから、それを理解しない人に熱意によって、自分たちの意見を強要することには、多くの問題を含んでいるように思います。
 
このような、詳細な指導によって行なわれる「引き離し対策」により、新入生にとって、他の同学年の人たちから「親鸞会への批判的意見」は入ってこなくなるのです。

数年前、ある大学で、親鸞会に批判的な意見を持った新入生が、他の多くの新入生と連絡をとり合って、多数の新入生が一気にやめてしまった、ということがありました。
親鸞会学友部としては、そのようなことは何としても避けたいからか、「引き離し対策」をはじめ、新入生に「親鸞会への批判意見を聞かせないこと」は、大変重要な行為になっています。

「引き離し対策」以外にも、新入生に対して、「親鸞会への批判意見」を外部から聞かせないようなことは行なわれています。
以下に「親鸞会 必殺育成法」に書かれた内容について、説明いたします。

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<親対策>

新入生が親御さんの反対を受けても、その反対を乗り越え、「親鸞会の言っていることに間違いはない」という信念が固く築かれるまでは、「親対策」と言って、新入生が親から反対されないように、細かく指導がなされています。
初期の段階で新入生がうかつに親にサークルのことを話さないように分からせるには、先輩は新入生にどのような話をすればいいのかについて、一字一句原稿まで作られている徹底ぶりです。

その内容はあまりに膨大なので、知りたい方は、以下のサイトを御覧下さい。

『親鸞会 必殺育成法 第7節「親対策」』

これも、親鸞会の立場でいえば、「本当は親にも親鸞会のことについて紹介し、話を聞いてもらいたい」のです。
実際、このような親対策がなされる一方で、「サークルでどんなことをしているのか、知りたいという親御さんや家族の方がおられたら、是非、部室にお連れしたらいい」と言っています。
学友部では、近年「親子部会」という親御さんを対象にした部会も、全国の大学で設けられています。
そして、その結果、親鸞会に入会される親御さんもあります。

しかし、新入生の中に「親鸞会は正しい」という信念が固まらないうちに、親の反対を受けて、新入生がやめてしまわないように、「親対策」といったことを組織的に行なっているのです。

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<兼部カット>

大学内に数多く存在する親鸞会以外のサークルに新入生が入ってしまうと、そのサークルの先輩たちから、「親鸞会への批判的な意見」が新入生に入ってきます。
また、他のサークルの活動に関心がゆき、親鸞会の話しを熱心に聞くことがなくなってしまいます。
そこで、新入生が他サークルに入らないように、また、関心を持たないように、「兼部カット」と言われる行為が行なわれています。

詳しくは上記のサイト『親鸞会必殺育成法の巻』の「第8節 兼部カット」を御覧下さい。

このように、様々な手法により、講師部員や先輩たちは、「親鸞会への批判的な意見」が新入生の耳にできるだけ入らないようにしているのです。

私は、これらの「批判意見を聞かせない」というやり方を組織的に行なうことは、おかしいと思います。
多くの批判に耐え、一つひとつの批判意見にしっかり答え続けてゆくことが、親鸞会自身の為にもなることだと私は思います。
しかし親鸞会では、批判意見にあまり耳を傾けることもなく、会員にそれらの批判意見が届かないようにする傾向があるように思えてなりません。

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<ネット対策>

親鸞会の広報部門を担当している「弘宣部」では、インターネットの検索エンジンのシステムを逆手にとって、自分たちに批判的なホームページが検索結果の上位に出にくいようにしています。
これらの「ネット対策」と呼ばれる行為も、学友部で行なわれている「親対策」「兼部カット」と性質的には同じだと私は思っています。
そのようなことに力を入れるのではなく、正々堂々と、自分たちの意見を公言し、何事も隠すことなく、受ける批判には正面から答えてもらいたいと、願わずにおれません。

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<会員粛清規定>

親鸞会には「会員粛清規定」というものがあります。
それは、会に対する批判的な意見を言った人を処罰するという規則です。
このような決まりがあり、高森会長や、会長の御心を私たちに伝えてくれる講師部の人たちに、批判意見を言うなどとんでもない、といった雰囲気があります。
ですから、親鸞会では、一人ひとりの人間性は優しく真面目な人が多いという特徴がある一方で、自由に意見を述べる雰囲気がない、という特徴もあります。

(1) 支部長の指示に従わない。
(2) 講師部を批判する。
(3) 本会の機密を漏洩する。
(4) 本会の和を乱す。
(5) 本会の指示に対する批判的言動。
 (本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)

(会員粛清規定 第3条(2)組織破壊行為 より)

会のやり方について、会員自身が「何かおかしいのでは…」と疑問思っても、声をあげて高森会長や講師部員に意見を述べるといったことや、会員同士で批判意見を述べ合うようなことは、ほとんどないように思います。

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講師部聖則

また、親鸞会の講師部には、「講師部聖則」というものもあり、朝晩毎日唱和しています。
その1番目と2番目は以下のようなものです。

1、親鸞会講師部は、会長先生の御指示に無条件で従い、信心獲得を本といたします。
2、親鸞会講師部は、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

(親鸞会講師部聖則 より)
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親鸞会と運命をともにする講師部の方々が唱和する聖則ですから、親鸞会の高森会長や上司の指示に対して、「無条件で従う」というのは、ある意味当たり前なのかもしれません。

しかし、その講師部員が学友部を指導していますので、目に見えないところで、学友部内にも、講師部内と同じような雰囲気があるように思います。
講師の中には、比較的、学生の意見を自由に聞いてくれる人もありますが、そのような柔軟な人はごく少数だと感じます。
親鸞会の批判意見に関しては、あまり耳を傾けないように思います。
私の学生時代もそうでした。
学生の幹部の中には、的を得た批判的な意見を言う人もいましたが、彼らの意見は、担当講師の人には、あまり受け入れられませんでした。
「また、あいつが何かいっているのか」と言った感じで、あまり真剣に聞いていないような印象を受けました。

会長や上司の指示に無条件で従うと、毎日唱和している講師部員の指導によって、一切が動いている組織の中には、それらの講師部員の姿勢が学友部内にも、自覚もないうちに蔓延し、「批判は許されない」といった雰囲気があるように思います。

また、講師部だけでなく、学友部員などの一般の会員でも、親鸞会のサークルに勧誘され、中で話しを聞き続ける間に、様々な個人的リアリティ、社会的リアリティの影響を受け、親鸞会の教義に魅力を感じ、「親鸞会の教義は、大宇宙の真理だ」と思うようになれば、高森会長の言うことは、「全て正しい」「間違っているはずが無い」と思うようになると思います。

私も幹部であったときは、「高森会長先生の言われることに、間違いがあるはずが無い」と全く疑いもなく思っていました。
もし、おかしいと思うようなことや、疑問に思うことがあっても、それは「高森会長が間違っている」のではなく、「自分の理解が間違っている」のだと、思うようになっていました。

私は新入生であった頃、当時のサークルの部長に、
「もし高森先生がまちがっておられたら、どうしますか?
このサークルの主張は、全て間違いとなりますよ」
と聞いてみたことがあります。
その時、部長は「そんなことは、あるはずが無い」と真顔で言っていました。
私は、「ものすごい自信だな…なぜ、そんなことが言えるのか」と、その部長の姿に違和感を感じたのを、今でも覚えていますが、しかし、親鸞会で幹部となり活動していれば、当たり前の対応だとも言えます。

親鸞会のサークルに勧誘された新入生が、毎日サークルで話を聞き、合宿に参加し、やがて入会して、親鸞会に対する批判的な意見を聞く機会もなくなり、自分の周りは親鸞会に肯定的な人ばかりと接することにより、様々な社会的リアリティが構築され、「親鸞会が正しいに違いない」と思う効果は、非常に大きいと思います。

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行動スタイル

勧誘者は、被勧誘者がいくら虚偽であろうと指摘しても、少しもひるまず、何度でも繰り返して同じ主張を述べてくる。
そして、何度でも同じ主張を繰り返されるうちに、被勧誘者の心の中に、「ここまで主張するのは、やはり本当なのかもしれない、私が間違えていたかもしれない」といった疑問が生じてくる。  

(『マインドコントロールとは何か』P165) 
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上記で述べたように、講師部員や一部の幹部の親鸞会に対する自信は大変なものです。
大学入学間もない新入生が少々のことを言っても、微動だにもしません。
そして新入生は、毎日毎日、親鸞会の教義を繰り返し聞き続けることになります。
一般的に言って普通の人は、心から自信をもって言えることや、断言できることなどは、それほどないように思います。
ましてや、18〜20年あまりの人生経験しかない、新入生にとってみれば、なおさらです。

ですから、自信一杯、断言口調で話しをしてくる講師部員や先輩に触れた新入生は、
「先輩たちがここまで自信一杯、そして何度も何度も必死に言われるからには、正しいことに違いない」
「やはり、自分が間違っているのでは…」と思うようになります。
自分に対する自信が崩壊し、先輩への魅力を感じ、親鸞会に惹かれてゆくのだと思います。

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権威

被勧誘者自身が得意としない分野の内容については、権威者からの情報という手がかりを見出すことができる場合、それにリアリティを感じてしまう。
権威者とは、たとえば有名大学、有名人、マスメディアなどである。
あるいは「科学」「科学者」という権威も用いられることが多い。
もちろん、これらは本当の権威者である必要はなく、装うだけでよいし、破壊的カルトはそれを常に用いている。

(『マインドコントロールとは何か』P165)
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 「一時的なマインドコントロールの原理」の中の、「権威性の原理」の部分でも触れましたが、新入生が勧誘され、最初の頃に聞く部会の中には、歴史上有名な哲学者や科学者の有名な言葉が、数多く出てきます。
講師部員は新入生に対して話をするとき、これらの言葉を効果的に使います。

また、先輩たちは「サークルのOBは、医師や弁護士など、社会の第一線で活躍している人が多い」と紹介し、実際にそれらの人が来て、講演を行なうこともあります。
これらの権威に触れた新入生にとっては、「あのような社会的に権威のある人が言われることだから、正しいことなのかも知れない」という思考が働き、親鸞会に関心を示すようになると思います。

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多数者の影響力

人は、ある意見に対して多数の人が妥当、あるいは正しいと信じていることに強く影響されてしまう。
破壊的カルトの勧誘でも、被勧誘者は、出くわす人すべてから、まったく同じことを聞かされる。
あるいはまた、確信のもてない被勧誘者には、複数で囲んで熱心に講義する。

(『マインドコントロールとは何か』P166,168)
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勧誘された新入生は、毎日サークルに顔を出すようになり、講師部員や先輩たちによる「引き離し対策」「親対策」「兼部カット」の影響を受け、「親鸞会は正しい」と主張する人たちと多くの時間を過ごすようになります。

また、新勧合宿のような、外部から「親鸞会への批判的な情報」が入ってこなくなる環境では、特に、周りの影響を強く受けると思われます。
周りのみんなが真剣な顔で講師部員の話を聞いているのを見たり、また、熱心に親鸞会の教義の正当性を主張している先輩たちに触れ続けていると、「やはり、親鸞会の言っていることは正しいのでは」と次第に思うようになります。
このように、勧誘された新入生は、次第に「多数者の影響力」を大きく受けるように思います。

もちろん、これらは講師部員や先輩たちが、積極的に意図したものではなく、自然とそのような状況が発生しているのでしょうが、以下のような「多数者の影響力」を積極的に駆使している部分もあります。
先にも書きましたが、新勧合宿の参加をすすめる時に、「周りのみんなも申し込んだから、君も申し込まないか」と、直接言わなくても、すでに申し込んだ新入生の姿を見せることによって、まだ、申し込んでいない新入生に対して、無言の圧力で「みんな申し込んだのだから、君も申し込まないか」と訴えることもあります。

とにかく、あらゆる手段を駆使して、講師部員や先輩たちは、「自分たちの中で善とされること」を新入生に積極的にすすめますし、また、これまでに述べた様々な周囲の影響を受けて、新入生は親鸞会の教義や活動を受け入れるようになると思われます。

あと、「多数者の影響力」について、以下のように述べられている部分もあります。

これは、ある社会心理学者の実験について書かれた部分です。
どんな実験かと言うと、被験者の学生たちに、とても理解しがたいエッセイをいくつかに分類するという、非常に難しい課題を与え、あるグループには、「分からなければ、質問にきてもよい」と言い、また別のグループには、「分からなくても、質問に来てはいけない」という条件を設定しました。

すると、次のようなことがおきたそうです。
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そうした結果、「質問にきてもよい」とした被験者グループでは、「他の人が質問にいかないのは課題の解決方法を理解しているからで、自分だけが課題を難しいと思っているのだ」と推論したという結果を示したのであった。
そして、もう一方の質問できない被験者グループでは、多くの人が「みんな課題が難しいと思っている」と推論した。

つまり、実際には非常に難しい課題で、多くの人が困難を感じていたにもかかわらず、誰も質問にいかないのを見て、自分だけが分かっていないことに困惑し、恥ずかしく、質問にいけないという状況になってしまったのだ。
そういう心理がみんなにはたらいて、現実には、誰も質問にいかないという現象が起こった訳である。

私が行なった研究調査でも、ある破壊的カルトの勧誘では、被勧誘者のそれぞれに、他の被勧誘者はみんな自分よりも真剣に講義を聞き、内容をよく理解しているという認知が相互に生じていたことを示している。
この現象がリアリティを高めていったと理解されよう。

(『マインドコントロールとは何か』P169)
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親鸞会では、勧誘した新入生に対して「質問大歓迎だよ」「遠慮なくどんな質問でもしていいよ」と言います。
しかし、新勧合宿に参加し、高森会長の法話にも参詣し続け、学年があがってくると、なかなか質問しにくい状況が生まれてくるようです。
「先輩なのに、こんなことも分かっていないの?」と周りに思われたくないので、なかなか質問できなかった、と言っていた人が、私の周りにもたくさんいました。

このような状況があったからこそ、稀に先輩になっても、新入生と同じように、分からないことを聞き続ける先輩がいると、「先輩なのによくあんな質問できるなあぁ」「素晴らしいなぁ」という評価を受けていました。
そこまで質問できる勇気のある人はいいのですが、先輩になればなるほど、質問しづらくなる雰囲気があり、多くの人が、高学年になるほど、質問しるのが難しく、また恥ずかしいと感じていたようです。

それは、親鸞会学友部の活動の中では、先輩になればなるほど、「後輩に話をして当然」「先輩なら、後輩に聴聞の復習をすべき」という雰囲気があるからです。
私の知っている人で、聴聞が終わったあと、一人で聴聞の記録をつけ復習をしていると、ある講師から、「なぜ君は後輩と一緒に聴聞の復習をしないのか?なぜ、後輩に話しをしないのか?」と問い詰められ、苦しい思いをしていた、と語っていた人がいました。

このような状況の中で、「先輩ほど質問しづらくなる」というのは、当然のようにも思います。
私は分からないことを、分かったふりをする、またさせられるのではなく、分からないことは分からないと自由に言える雰囲気は、とても大事だと思います。
特に宗教を純粋に信仰する上で、教義や活動について、疑問に思ったことを自由に聞ける環境は、非常に大切だと思います。

親鸞会では、講師部員も幹部の先輩も「質問大歓迎」「無理やり信じろとは言わない、疑問に思ったことは、遠慮なく質問してほしい」と言います。
しかし、多くの人から聞いてことを考えると、実際の雰囲気は、なかなかそのようになっていないのでは、と感じました。
口では言いませんが、一部の講師や幹部の先輩の中には、「この忙しいのに、今さらそんなことを私に聞くな。そんなことも分かっていないのか?」という気持ちが少なからずあるのではないでしょうか?


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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

自己否定と無条件服従

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被暗示性の高揚

被勧誘者は、熱気のこもった集団の雰囲気に影響されて、理性的判断よりも感覚的判断に従ってしまうことがある。
私の調査研究では、破壊的カルトの主催する合宿セミナーに参加した人々の中に、感動した人や興奮した人が多くいたことが明らかになっている。

(『マインドコントロールとは何か』P169,170)
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新入生が初めて参加するゴールデンウィークの「新勧合宿」や、夏休みに行なわれる「夏合宿」では、特に(他の合宿もそうかもしれませんが)参加した人たちの中に、感動したり、興奮した人は多いように思います。
新入生が一番最初に参加する、春の新勧合宿では、合宿の最後に新入生の中でも特に前向きな新入生を講師部員が選んで、みんなの前で、「親鸞会のサークルに出会えた喜び」を語る場が設けられていました。
中には、本当に感情が高ぶって、感動のあまり涙を流すような新入生もあったと思います。

逆に、合宿が終わって地元に戻り、普段の生活が始まると、合宿での感動や興奮が薄れるように思います。
ですから、合宿中、感情的に興奮した状態にある時に決意した「親鸞会への入会」や「高森会長の法話への参詣」といったことについて、合宿後に「なぜ、あんな決意をしたのだろう」と思う人もいるようです。
感情が高ぶり、様々な周囲の影響を受けていた結果、このようなことが起きるのでしょう。

毎日の部会や、土日に多くの学生が集まる行事などで、それなりに立場のある人が話しをする場合でも、部会の中で大きな声を出して、怒号することがあります。
ある講師が「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれているのでは」という批判について話す中で、
「親鸞会がマインドコントロールを行なっているなど、ふざけるな!!」
「全然、仏法が分かっていない者たちが、いっているだけだ!!」
「あんな言葉を聞いて信仰がぐらつくようでは、幼稚な信仰だったということだ!!」
「一体、今まで何を聞いてきたのだ!!」
と叫んだりします。

それを聞いた学生は、感情が高ぶり、興奮したりして、親鸞会の正当性を感じるのかもしれません。
感動や興奮といった生理的な現象を相手に起こさせることによって、自分の意見を受け入れさせるといった手法が用いられているようです。

私は絶叫した講師部員が、部会の後、「あれくらい激しく言わないと、分からんだろう」と言っていたのを何度も聞いています。
これを聞いて私は、「聞いている学生の感情を揺さぶって、納得させよとされたのだな。
もう少し、筋道立てて、相手に分かるように話す方法はないものだろうか・・・。」
と考えさせられました。

これらの、話しを聞いている学生たちの感情を興奮させるといった行為は、日頃、毎日のように学生と接している大学の担当の講師が話すよりも、いつもはいない学友部で立場のある人や、他の部門から招かれてきた人が話すほうが、より効果的だと、講師の人たちが話していました。
いつも話をしている人から言われると、学生は「またあの話か」と聞いてしまいますが、日頃あまり会わない人や、立場のある人から言われると、感情的に大きなショックを受けるのではないでしょうか。

私は学生時代幹部でしたので、担当講師の人から、
「今度、○○講師が来て下さるが、自分の地区や大学のことで、何か言ってもらいたいことはないか?」
と聞かれたものでした。

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奥の深さの強調

宗教的な破壊的カルトの場合には、教義の奥の深さ、高度性を強調される。
被勧誘者がある程度、協議に魅力を示し、また理解してからも、さらにまだまだ高度なレベルがあり、ずっと学んでいかなくてはならない、もっと修行をしていかなくてはならない、と強調される。

私の調査でも、ほとんどの被勧誘者は、常に「疑問は勉強してゆくうちに分かる」などと言われ、疑問を保留にされていることを確認している。

これによって、破壊的カルトは常に教義の矛盾をかわすことが出来るようになるし、被勧誘者の教義への興味を常に引きつけておくことが出来るようになる。
つまり、何かしらの被勧誘者が腑におちない点に出くわしても、「これはまだ、自分が未熟であるから」という解釈を自らが行ない、集団へのさらなるコミットメントが高まることになる。

(『マインドコントロールとは何か』P170,171)
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親鸞会には「教学試験」と言われるものがあります。
これは、教義を学ぶ上で、たくさんの試験が行なわれ、それぞれ、合格していくと、「学階」(教学の段階)があがります。
下から、「導師」「大導師」「講師」「大講師」「学師」(それ以上もあります)と言って、段階に分けられています。
親鸞会の教義をある程度、理解してからも、まだまだ高度なレベルがあり、ずっと学んでいかなければならないのです。

また、親鸞会では「教えの理解が足りない」「教学力がない」ということもよく言われます。
教学講義などで高森会長の話に矛盾を感じたり、疑問を持っても、
「君はまだ教えの理解が足りないからだ。
もっと先生の御著書を読んで勉強しなければならない」
となるわけです。

これにより、会員の心の中に、様々な疑問が起きても、
「自分が分かっていないだけなのかなぁ・・・」
「こんなことを思う自分が悪いのかなぁ・・・」
といった感情が起き、疑問が保留状態となっても、そのまま活動を続けるように思います。

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実践の優先

私の事例研究では、10代の終わり頃から、20歳代で破壊的カルトのメンバーになった人の多くが、最初に勧誘話を聞くことになったきっかけは、一般的な意味での教養が身につくといった期待性が高く、いつでもやめられるつもりで、勧誘者の「些細な要求」に応じたことを示している。

たとえば、「話しを聞くだけなら…」「会場に行くだけ…」「ちょっとだけ体験してみるだけ…」といった、常にこうした些細な要請に応じることの繰り返しがある。
この些細な承諾の積み重ねが、いつの間にか被勧誘者を遠い所まで連れていくのである。

破壊的カルトは「やっているうちに分かる」というセリフを多用しながら、勧誘する場合が多い。
「分かってからやろう」という理屈で拒絶しようとしても、
「今やらないと、危機に間に合わないかもしれない」
「いつもそうやってチャンスを無にしてきたのではないか」
と強調してくる。

(『マインドコントロールとは何か』P171)
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「些細な承諾の積み重ねが、いつの間にか被勧誘者を遠い所まで連れて行く」とありますが、親鸞会では、勧誘の当初、「親鸞会」とも「宗教法人」とも言いませんので、勧誘された新入生の中には、最初は「大学の情報が得られるから」「教養が身につくかもしれないから」「他のサークルは、4月中は本格的に活動していないといわれるので、ちょっと話しを聞いてみようか…」といった些細な理由で、親鸞会のサークルに足を運ぶことが多いように思います。

しかし、次第に、「毎日の部会への参加」「新勧合宿への参加」「高森会長の法話への参詣」「親鸞会への入会」というハードルを設定され、その都度、乗り越えてゆき、親鸞会の活動にのめりこんでゆくのだと思います。

そして、親鸞会では、「実践すること」が次第に強調されます。
最初の頃は、とにかく毎日の部会で同じようなことを、何度も何度も繰り返し聞くことになります。
そして、もう少し進むと、「ある程度、親鸞会の教義に納得し、かつ、それでも疑問はある状態」になります。
すると、講師や先輩たちは「頭だけでは分からないので、教えの通り実践してみよう」「実践して初めて分かるから」と言い、「実践の大切さ」が強調されます。

実践の大切さについて、以下のような高森会長の言葉もあり、講師部員もこのような言葉を持ってきて、何度も何度も実践の大切さを強調します。

▼実践は宗教の生命です。実践の脈々たる生命を失った宗教は、朽ち果てるより途はないのです。

(『親鸞会結成30周年記念大会』での、高森会長の言葉)

私は「三世を貫く因果の道理」について、「絶対に間違っている」とも言いませんが、「それが大宇宙の真理で、いつでもどこでも成り立つものだ」とは、到底理解ができません。これは人間には真偽を確認することが出来ない理論です。
「因果の道理は大宇宙の心理である」との思いは、一つの宗教的信念であり、「宗教的信念は、真偽を決定することはできません」と、親鸞会発行の『人生論対話』にもある通りです。

ですから、「三世因果の道理」に従って教えられている「死後、地獄におちる一大事(後生の一大事)」も「絶対に間違いだ」「親鸞会はおかしい」とは言いませんが、必ずしも「正しいことである」「大宇宙の真理だ」などとは、私には理解できません。
「そうなのかなぁ…」と信じることは可能ですが、それは宗教的信念によって、「正しいと思い込み、信じる」のであって、真偽など分かりません。

ですから、なぜ「親鸞会の教義を、大宇宙の真理だ」と理解して、親鸞会の活動に没頭できるのか、私には分からないのです。
もちろん、私もこれまで親鸞会の幹部として、10年以上もの間、活動してきた訳ですが、そのようなことを出来たのは、様々な周囲の影響を受けて、「親鸞会の言うことは、正しいに違いない」と信じていたからに過ぎません。

学友部の活動の中では、講師部員も幹部の先輩も、「親鸞会の教えは大宇宙の真理だ」と言う人は多いのですが、新入生の頃の私には、「なぜそう言えるのか」、よく分かりませんでした。
ですから、いろいろ質問をし続けていました。
しかし、決まって「実践してみなければ、真実だと知らされることもない。
君はそうやって頭をこね回すのではなく、もっと日常生活の中で実践しなさい」と言われたものでした。

しかし、教義への疑問があるままで、明確な回答もなく、「よし、実践しよう」という気持ちには、なかなか、なれませんでした。
ですから、何度も質問を続けていました。
しかし、結局最後は決まって「実践しなさい」「体にかけて実践することが大事なのだ」と言われました。
その結果、いつまでたっても、「なぜ、三世を貫く因果の道理が、いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理だ、と理解できるのか」が分かりませんでした。

親鸞会では、このように「実践の大切さ」が強調されます。
高森会長の作った歌に「弥陀を殺すに刃はいらぬ、腐った頭で考える」というものがあります。
その意味について、座談会で会員の一人が質問したところ、会長はまず「自分の頭が腐っていると思っている人はいません。(しかし、全人類の頭は腐っているの意)」と答えていました。
これは、「私たち人間が、仏の智恵で説かれた仏の教えに対して、ああだこうだ、と考えてみたところで、分かるものではない。」ということで、「仏様の教えられる通り、実践すればいいのだ」ということです。

親鸞会では、教義的に「釈尊の教えを正しく伝えられた親鸞聖人の教えにしたがいましょう。
それには、親鸞聖人の教えを現代で、ただお一人正しく伝えられている、高森会長の指示に『絶対無条件服従』しましょう」と教えられます。
(もちろん、このような直接的な、露骨な言われ方はされませんが)先にあげた、「親鸞会講師部聖則」や、以前、親鸞会では「純会員」という制度が設けられていましたが、その定義は、以下のようなものでした。

高森先生を無二の善知識と仰ぎ、ご教導に無条件に従い、親鸞学徒の模範として、次の項目を実践する会員を純会員という

一、正御本尊を安置する。

一、正御本尊以外の礼拝対象物には、一切関わりをもたない。

一、一切の他の宗教や東西本願寺等と縁を絶ち、それらの宗教団体や個人に、
   寄付、奉仕活動など一切しない。 

一、本会の活動には積極的に参加する。

(浄土真宗親鸞会 純会員の定義)


親鸞会では、高森会長や講師部員の指示に、自分の考えを入れず、ハイと素直に従って実行する会員ほど、評価されていました。

「教えに従い、無条件服従することの大切さ」について、親鸞会ではよく以下のような話を聞きました。
蓮如上人の言行録が記された「蓮如上人御一代記聞書」の192番目に、
「蓮如上人が道宗というお弟子に向かって、ある時、『琵琶湖を一人で埋めなさい』と言われたところ、道宗は何の疑問や反発もなく『はい、分かりました』と答えた」という話しが引き合いにだされ、
「このように仏教の先生が『やりなさい』と言われることに、『そんなことできるのだろうか』とか『できるはずがない』と疑問や反発をおぼえていては助かりませんよ、先生の言われることなら『出来ないと思うようなこと』も『出来るのだ』と心得なさいよ」と教えられています。
この「蓮如上人御一代記聞書」の192番に、高森会長は「無条件服従」というタイトルをつけています。

また、以下のような高森会長の言葉もあります。

○思うだろう

釈尊はイダイケに出来ない善をなぜ、と思うだろう。
イダイケが素直に取り組んだのは、「出来ないことを教えられるはずがない」と釈尊を信じたからである。
丁度、「御一代記聞書」に蓮如上人が「何事も出来るとおもうべし」とあるように。

(高森会長から会員へのメッセージ)

高森会長は多くの言葉をメッセージとして会員にむけて作っており、これもその一つです。

この言葉について、学友部ではよく説明がなされていました。
「すすめられたことに対して、あれこれ理由を考える前に、素直に取り組まなければならない。
イダイケ(昔インドにいたお釈迦様の信者)も素直に取り組んだだろう。
それはイダイケが「お釈迦様が出来ないことをすすめられるハズがない」と信じたからだ。
仏法を聞くときには、善知識(仏教の先生のこと)の仰せを深く信じて、その仰せのままに、実行しなかったら、この道を前へ進ませて頂くことはできないのだ」というものです。

この「無条件服従」の教えを、親鸞会の講師の人たちは力強く、熱一杯すすめるのですが、聞いている人からすれば、「なぜ、無条件服従しなければならないのか」という疑問は当然でてくるでしょう。

たしかに、仏教の教義として「仏の智恵でとかれたお釈迦様の教えに、我々人間が『ああだ、こうだ』と計らっていては、信仰は進まない」と教えられるのかもしれませんが、無条件に服従することが出来ず、疑問を持っている人に対しては、「無条件に服従しよう」と思えるところまで、しっかり質問に答えるべきではないでしょうか。

それを、質問に誠意をもって答えることもなく、「言葉は相対的なもので、説明するのは限界があるから」などと言い出したり、
最後には結局「実践しなければ分かるものではないのだ」
「なぜ仏教の先生の仰せにハイと従えないのだ」などと、疑問を棚上げにした状態で、「実践すること」だけを強調したり、
とにかく実践することを強要するのでは、「本当にどんな質問にもこたえられるのかなぁ…」と思われても、仕方ありませんし、様々な問題が後で起きるのでは、と思えて仕方ありません。

この、親鸞会の教義上の「無条件服従」という要素が、会の方針に批判的な会員を処罰する、先に紹介した「会員粛清規定」などに反映し、事実上、会長や講師部員に対して、批判などできなかったり、疑問を持つことに強烈な罪悪感を感じさせることになっているのだと思います。

しかし、私は会の方針であっても、たとえば、先の学友部のマニュアルに掲載されている、新入生に対しての「引き離し対策」や「親対策」「兼部カット」といった行為は、明らかにおかしいと思いますし、
また、勧誘の際に「親鸞会」と名乗らないことや、新入生に対して、講師部員や先輩が信心決定してもいないのに、「私は信心決定した」と言う、または、そのような誤解を受ける表現を使うことは、問題だと思います。

私の周りにも、親鸞会学友部のこういった行為に不信を感じている会員は、少なからずいました。
ところが、実際には講師部員には、何も言えない雰囲気が蔓延していましたし、批判する会員は、講師部員から煙たがられたものでした。

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光法戦

また「実践の大切さ」ということで、実践をすすめられたのが勧誘活動とともに、「光法戦への参加」ということがあげられます。
光法戦とは、「親鸞聖人のアニメシリーズ」(全7巻)を訪問販売する活動です。
ここ数年はあまり行なわれていないようですが、かつては、会をあげて大々的に行なわれていました。
大学が休みになる夏休みや春休みといった期間に、全国光大作戦と言って、「九州作戦」「中国作戦」「北海道作戦」と言って、九州や中国地方、また北海道へ、多くの会員が出かけて、1週間や2週間、長い人は1ヶ月や2ヶ月の間、アニメの頒布活動に専念するというものです。

これは、何かの訪問販売活動をされた方なら分かられると思いますが、なかなか、自分の持っている商品を求めるお客様にはめぐり合えないものです。
この親鸞聖人のアニメは1本1万5千円、7巻セットで10万円します。
そのような高価なアニメですから、そう簡単に販売できるものではありません。
私も、このアニメ頒布活動に何度も参加しましたが、訪ねても訪ねても断られ、肉体的にも精神的にも大変厳しかったのを覚えています。

学友部では、夏休みや春休みなどの期間を利用して、この光作戦に参加しよう、と勧められていました。
講師の人たちからすれば、学生に対して、「地元でうじうじしていないで、いっちょ遠隔地にでかけ、思いっきり活動してきたらどうだ」と言いたかったのでしょう。
実際に出かけた学生もたくさんいました。
そして、大変厳しい活動に身をしずめてゆきました。

このような活動に没頭するとどうなるかと言いますと、まず普通の人なら、精神的に苦しくなり、「自分は一体、何のためにこんなことをしているのだろう」と弱い心が出てきます。
そこで投げ出せばそれで終わりなのですが、その壁を乗り越えて活動に専念してゆくと、やがてその苦しい経験をしたことにより、「自分のやっていることに間違いはない」「いや間違いであってほしくない」という信念がより強固なものになってゆきます。
多くの時間やお金、そして労力を費やして、このような苦しい活動を経験することで、「親鸞会の言っていることは正しい」「そうであってほしい」との期待や先入観といった思いはより強いものになってゆくのでしょう。

現在、学友部では、「全国作戦」といって、既存の組織のない大学へでかけて、勧誘活動を行なっています。
京都の学生が「北海道大学」へ出かけたり、東京の学生が「九州大学」まで行ったりします。
このような全国作戦や、光大作戦に長期間でかけた学生の多くは、たくましくなり、より信念の強い会員となるようで、このような活動が盛んにすすめられています。

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アイデンティティーへの攻撃

破壊的カルトは、「自己否定しなさい」とか、「自分を神にささげなさい」さもなくば、「救われない」「幸せになれない」ととくことが多い。
…したがって、勧誘者にとってみれば、この「自己ビリーフ」をしっかり受容させないと、被勧誘者を、提供した新しいシステムで完全にはコントロールできない。
アメリカの破壊的カルトの研究者、カシュマンもこの点を強調している。
…徹底的に今のままでは危機的状況を回避できないので、きれいさっぱり過去の自分とは決別して「生まれ変わる」ようにと威圧的に迫るのである。
…つまり、被勧誘者は、ここにきてはじめて、犠牲を強いられるのである。
それも、もはや後戻りの簡単ではない大きな犠牲であり、それまで、「いつでもやめられるから」という気持ちが、それ以後は「こうした現実なのだから、仕方がない」から「これしかない」に変わってしまう。

(『マインドコントロールとは何か』P172,173)
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とにかく、親鸞会の活動にのめり込めばのめり込むほど、「自己否定」をしなければならなくなってきます。
この「自己否定」とは、教義的には
「後生の一大事(死後、地獄に堕ちる)という大問題は、人間の力で何とか出来るものではなく、阿弥陀仏の不思議なお力によってしか、解決の方法はない」というものです。
誤解のないように言っておきますと、これは決して、「日常生活を送る上で、『何も考えない腑抜けになれ』『とにかく、文句を言わず従順になれ』と言っている訳でありません。

しかし、教義にそのような部分がある訳ですから、会員は「高森会長の話しを、自分であれこれ考えることなく、素直に受け止めなければ」という気持ちになります。
それが教義のみならず、会の方針や活動の内容などにも及んでいるように思われます。
会長の決めた方針や、講師部員の指示を素直に受け止め実行するのが、いわゆる「模範的な会員」であり、批判など出来ない空気があります。

また、そのような気持ちが自分の中におこってきても、「これは、親鸞会の活動がおかしいのではなく、こんなことを考える自分が間違っているのだ」と、罪悪感を感じるようになります。

上記の引用に「アイデンティティーへの攻撃」とありますが、最近読んだ、斉藤孝の本にも、「マインドコントロールはアイデンティティを奪う恐ろしい技術だ」と、以下のように書かれていました。

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マインドコントロールは、一人ひとりの生きてきた歴史をふくみ込んだ「アイデンティティー」を根こそぎ奪って、人格改造をしようとする恐ろしい技術だ。
これに引っかかると、自分を自分にしてくれている人間関係がすべて断ち切られて、戻る場所が奪われてゆく。
これを、絶対に甘く見てはいけない。
…マインドコントロールと教育は、一緒くたに出来ないものだ。
マインドコントロールとは、一人ひとりのそれまでのアイデンティティーを剥奪するもので、教育は本来、アイデンティティーを育てるものだからだ。  

(斉藤孝『スラムダンクな友情論』P84〜88)
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私は「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれている」と断言する訳でもなく、また「親鸞会では、善良な会員の人たちを騙し、金儲けや人集めをしている」などと、言っているのではありません。
しかし、10代後半や20代前半という、多感な時期の若者に、熱意からとはいえ、一つの主張を強要するようなことがあるならば、彼らの精神的な成長に大変な影響を及ぼすのではないか、と思うのです。

親鸞会の学友部員を子どもにもつ親御さんが、「親鸞会のことを話すと、息子(娘)が、人が変わってしまったようになる」と言われるのを、何度も聞いたことがあります。
また、ある親御さんが、親鸞会の行事に参加されて、「全員、同じような顔をしていて怖かった」と言われていました。
このような感想をもたれる人は、決して少なくないように思います。
自己を否定し、同じようなことを思い込んで、同じような勧誘マニュアルを覚えて、同じことをしゃべり、人間味がなく、個性を失っているのでは…、と思われても仕方がないのかもしれません。

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ここまでくれば、その後は、それほど難しい技術はいらないと思われる。

勧誘者は、教祖や代表などの組織のトップリーダーを絶対的権威者として中心に位置づけ、さらに構造化させ、リーダーが発するすべてのビリーフを、無条件に意味のあるものとして受け入れていくようにすすめる。
ひとたび、その組織の思想を全部受け入れてしまうと、被勧誘者は、その組織の絶対的な権威者から発せられらというだけで、どんな内容であっても価値を生じるようになる。

(『マインドコントロールとは何か』P175)
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こうして、「親鸞会の言うことは正しい」と信じて、親鸞会の活動に多くの時間やお金、そして労力をつぎ込んで、もう後戻りができなくなった学生は、「後生の一大事の解決」のために、自己を否定し、高森会長や、講師部の指示を疑うことなく受け入れるようになるのだと思います。
組織の頂点にいる会長の発言や指示に、疑問や疑いのメスをいれるということは、真面目な会員にとっては考えられないこととなっています。
「会長先生が仰ったことだから」「○○講師が言われたことだから」といった理由で、疑うこともなく受け入れて、より活動に没頭し、それこそ純粋に進んでゆくことになります。
私自身も、幹部であった頃、そのような気持ちで、一心不乱に活動を続けていました。

親鸞会のつくったアニメ「世界の光 親鸞聖人」の第2部に、ご縁の浅い法然上人の弟子が出てきて、「あの人たちが言われるのだから、間違いなかろう」といって、教義的に間違った方向へ進んでしまう場面があります。
親鸞会としては、おかしな者として描いているのでしょうが、ある後輩が「私たちも同じような気持ちで、会長先生や講師の人の指示を受け入れているではないですか?」と言ってたのを思い出します。

できることならば、会員の皆さん、特に若い学友部の皆さんには、もう少し自分の力で考える力と判断力、そして意見をいう勇気をもってもらいたいものです。



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なぜ批判を受け入れられないのか
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帰属感・正義感

破壊的カルトのメンバーが、どのような心理状態になるのかについて、その代表的なものをまとめてみる。
まず、集団への帰属感・正義感である。
自らの組織への強い忠誠心と、帰属意識やそこでの活動の正当性などを抱き、集団への好意的な評価を下している。
次に、自集団の思想の高度性・優越性である。
彼らは自らの組織の思想が高度であり、自分の理解をより深いものにしようと努め、その思想であるビリーフによって、身の回りに生じている現象を解釈しようとしたりする。
そして、そのカルトのメンバーであることに、特別の使命感をもったり、名誉や誇りを抱いている。
また、脱会を余儀なくされたり、反逆的な思考をもつことの罪意識と罰への恐怖をも抱いている。
さらには、自分たちの集団に批判的な人々への反発ないし、敵意を強く抱き、自集団への批判が根拠のない中傷であると信じているのである。

(『マインドコントロールとは何か』P177,178)
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ここは特に、親鸞会にあてはまる部分が非常に多い表現だと感じました。 

「まず、集団への帰属感・正義感である。
自らの組織への強い忠誠心と、帰属意識やそこでの活動の正当性などを抱き、集団への好意的な評価を下している。」
とありますが、親鸞会で真面目に活動するようになると、
「自分たちしか真実知らされた者はいない。
真実知らない世間の人たちは不幸な人々であり、この真実を一人でも多くの人に、一刻も早く伝えなければ」という正義感、使命感にか たてられます。

そして講師や幹部は、いかに会長の指示に無条件で従っているか、その忠誠心を競い合っています。
その為、会を批判している人を密告することが奨励されています。
講師の人の中には、「講師部の和を乱す情報を得た者は、その提供者と、情報と、その日時を直ちに報告すること」と、文章化までされて、批判する者も、批判を見逃した者も、処罰されます。

「次に、自集団の思想の高度性・優越性である。
彼らは自らの組織の思想が高度であり、自分の理解をより深いものにしようと努め、その思想であるビリーフによって、身の回りに生じている現象を解釈しようとしたりする。」とあります。
親鸞会会員は、「親鸞会以外の他の宗教団体、思想、哲学、学問は取るに足らないもの」と過小評価するようになると思います。
自分たちの教義に非常に自信をもっており、その高度性、優越性を誇りとしています。
しかし、実際にしゃべらせてみると、案外、質問に答えられなかったりして、教義に対する自信は単なる強い思い込みからくる会員の人もあるようです。

また、「身の回りに生じている現象を解釈しようとしたりする」とありますが、親鸞会会員は「因果の道理は大宇宙の真理である」と心から信じていますので、この世の中で起きる全てのことは、因果の道理に従って生じていると思っています。
身の回りで起こることを、常に因果の道理に当てはまることとして、解釈します。

因果の道理には、「自因自果」といって、「自分の運命の全ては、自分のまいたタネが生み出したものだ」という教えがあります。
たとえば、「ある赤ん坊が通り魔の犠牲になった」としても、次のように解釈されるのです。

赤ん坊に全く無関係なことが、赤ん坊におきる筈がありません。
必ず、赤ん坊自身に殺される原因があったのです。
通り魔に殺されるという結果は、その時、その場へ通り合わせたことが、根本原因なのです。
それは、子ども自身の過去世の宿業に違いありません。

(高森会長・著『こんなことが知りたいA』P8 こんなことも前世の宿業か)

親鸞会の説く因果の道理は、「結果がいつ返ってくるか」「具体的に、どういう行いに対してどういう結果が返ってくるのか」といったことがハッキリ説かれておらず、非常に曖昧な部分が多いために、どんなことに対しても、いくらでも解釈できるようになっています。
そのような理論によって、会員の人たちは、上記のようなことも含め、ありとあらゆることを、「因果の道理に反しない、当然の結果である」と解釈します。

また、「そして、そのカルトのメンバーであることに、特別の使命感をもったり、名誉や誇りを抱いている」とあります。
親鸞会の講師の人たちや幹部の学生は、親鸞会会員であることに大変な使命感や名誉、誇りをいったものを持っています。
そのような使命感から、時間やお金、体力を惜しむことなく、必死で新入生を勧誘するのです。
高森会長から、学友部の勧誘活動に寄せられた以下のような言葉もあります。

合掌 

いよいよ顕正戦。
君らこそ、現代社会における唯一の正統な仏法者であることの大自覚をもって戦いにのぞんで貰いたい。
君らの青春の謳歌は破邪顕正戦に凱歌をあげることである。健闘を念ずる。

(親鸞会発行ロータスP5『会長先生からのお葉書』) 

親鸞会の会員の人たちは、自分たちだけが真実知らされたものであり、親鸞会の会員以外は、いまだ真実知らない人たちだ、と思っています。
学友部では、高森会長からこのような言葉をもらい、講師も学生もより大きな使命感をもって、活動をしています。 

次に、「また、脱会を余儀なくされたり、反逆的な思考をもつことの罪意識と罰への恐怖をも抱いている」とあります。
会員が、親鸞会の活動や教義に疑問をもっても、今までのべてきたように、なかなか会に対する批判的な意見を述べることはできない雰囲気になっています。
そのような批判的な意見をもっても、「こんなことを考えてしまう自分が間違っているのでは…」という罪悪観が湧き起こってきます。

また、仏教の教えの中に、人間の造る罪の中で特に重いといわれるのが、「謗法罪」と「五逆罪」です。
「謗法罪」とは、「仏法をそしる罪」であり、「五逆罪」とは「五つの大きな罪」ですが、その中には「和合僧を破る」という罪があります。
これは「仏法を説く集まりの和を乱す罪」です。

つまり、会員にとっては真実を説く団体である親鸞会や、その会長や講師部員を批判したり、その指示に従わないことは、大変恐ろしい「謗法罪」であり、「五逆罪」になるのです。
ですから、真面目な会員ほど、そのような批判的な思いや疑問が自分の心の中に生じても、「自分は今、大変恐ろしいことを思っているのでは…」という気持ちになるでしょう。

そして、「さらには、自分たちの集団に批判的な人々への反発ないし、敵意を強く抱き、自集団への批判が根拠のない中傷であると信じているのである。」とあります

会員の中には、親鸞会のことをあまりよく思わない家族や友人に対して、非常に嫌悪感を感じ、「なぜ、私がこれだけ一生懸命に話しをしているのに、分かってくれないのか」と、はげしい苛立ちを持つ人もいるようです。
「自分たちは真実知らされた者」という意識が非常に強いですから、そんな自分たちが受け入れられないと、周囲の人たちと衝突するのでしょう。

親鸞会の会員が、他の宗教団体の人と議論をして、話しが平行線になり、終わることも多いのですが、そんな時、親鸞会の会員の中には「結局、彼らは全然、何も分かっていない。どうして、自分たちが間違っていることに気付かないのだろう」と思う人もいるようです。
しかし、逆の立場からみれば、全く同じことを言われるでしょう。

親鸞会は今まで、多くの批判を受けていますが、自分たちが他の団体へ行なっているのは「正当な批判」であり、外から受ける批判は「根拠のない批判」や「悪辣な非難中傷」だと思っている会員も少なくないように思います。
たしかに、親鸞会に対する批判の中には、口汚く罵るだけのものも、ありますが、それにしても、相手をそのような感情にさせる原因が、自分たちの過去の行いにある訳ですし、また、正鵠を得た批判も数多くあります。
親鸞会は胸に手をあてて、静かに反省すべき時期にきているのでは、ないでしょうか。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

情報の管理

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外部からの情報の遮断

破壊的カルトのマインドコントロールでは、操作者はメンバーに届けられる外部からの情報を遮断する。
メンバーは自分のビリーフを誤りと証明する情報の獲得機会が減少し、逆に正しいことを証明する情報の獲得機会が増大する。
それに加えて、その情報は常に集団メンバーによる多数の合意性や上司、ないし教祖の権威性によって強化され、ビリーフはより強固なものとなろう。

(『マインドコントロールとは何か』P178)
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親鸞会学友部のマニュアルにもあるように、会が組織的に行っている「引き離し対策」や「親対策」「兼部カット」といった行為によって、新入生には、親鸞会に批判的な情報はあまり入ってこなくなります。
そして、毎日行なわれる昼部会や夕部会に参加するため、同じ学科の友人と接する機会も少なくなり、日頃会って話しをするのは、大半が親鸞会会員である、講師部員やサークルの先輩たちだけとなります。
そうなることで、親鸞会に否定的な情報は自然と入ってこなくなり、逆に、親鸞会に肯定的は情報ばかりが入ってくるようになります。

そして、ゴールデンウィークに行なわれる新勧合宿に参加すると、5、6日の間か、長ければ1週間以上、ほとんど、家族や親鸞会以外の友人と接することもなく、テレビや新聞を見る機会もほとんどないまま、外界の情報が遮断された状態の中で、朝から晩まで、親鸞会の講師や先輩たちと、寝食をともにし、毎日講義を聞き続けることになります。

もちろん、合宿の中には楽しいレクリエーションや、スポーツ大会もありますから、肉体的、精神的に疲れ果ててしまうようなことは少ないのでしょうが、周りは全員、親鸞会に肯定的な人ばかりであり、「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理だ」と思っている人ばかりですから、先にのべた「多数者の影響」をはじめ、様々な影響を受けて、「親鸞会こそ真実伝える唯一の団体」との信念が、新入生の心の中に、次第に芽生えてくるでしょう。
新勧合宿に参加することによる、親鸞会を受け入れる心理状態になる影響は、相当なものがあると思います。

講師の人たちも、新勧合宿をすすめきれなかった新入生に対しては、「彼はかけがえのないご縁を失ってしまった」「地元で同じご縁を求めることは、ほとんど不可能に近い」とも言っていました。

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閉鎖集団

彼らの生活は忙しく、通常の情報収集活動をする暇など、与えられない。
自らの集団内部で広報している新聞や雑誌以外は読まないように指導している場合もある。

(『マインドコントロールとは何か』P179)
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親鸞会の活動にのめり込むようになると、確かに忙しくなります。
先輩になると、週に数回行なわれる朝会合、毎日の昼部会、夕部会、そしてその他様々な会合が、夜遅くまであります。
また、何よりも後輩の面倒をみたり、新しい人を勧誘する活動が増え、それらの活動による肉体的、精神的負担は相当なものです。
私も幹部であった頃は、多くの後輩を担当していましたので、一人でいる時も、「彼(彼女)の仏縁を守るためには、自分は何をすればいいか」と四六時中考えていました。

ですから、会の活動以外の、大学の勉強やアルバイトなどとの両立は、大変厳しく、肉体的、精神的にかなり疲れきっていたようにも思います。
本当な昔から、沢山本を読んで勉強し、何にでも好奇心を示すほうでしたが、疲れてくると、そのようなことをする気持ちが起きず、ただただ、親鸞会の活動に没頭してゆきました。

たしかに、本や新聞、テレビを見る時間が、ないかといえば、嘘になりますが、そんなことに時間を使うくらいなら、大学の勉強もしたいし、会の活動でしなければならないことが沢山ありましたので、なかなか世間一般の情報を収集することは、時間的にも困難ですし、またそのようなことをする気があまり起きないほど、疲れていることが少なくなかったように思います。

また、読書については、親鸞会では、世間一般の僧侶や仏教の学者が書いたものは、あまり読まないほうがいい、と指導されていました。
もし、部室でそのような本を読んでいると、必ず先輩が一言釘をさしていました。
私の知っている人で、「大沼法竜」の書いた本や、「七祖聖教」を読んでいた人が、講師部員に厳しく指摘されることもありました。
それらの本を取り上げられた人もいたようです。

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自由の拘束

いくつかの破壊的カルトのメンバーは、自分の家を離れて共同生活する。
その際、メンバーのそれまでの職業や学業を捨てさせられ、フルタイムでの活動を余儀なくさせられる。
彼らは、許可なく親や知人などに会いにいくことも許されない場合が多い。

そして、共同生活では、彼らは一人になれる空間はほとんどないという。
また、彼らの生活では、スケジュールがつまっていて、起床から就寝まで、時間的自由が少ない。
ある破壊的カルトの元メンバーの自由時間を調査したところ、一日のうち一時間以内と答えたものがほとんどであった。

また、自分の家に住むメンバーにしても、仕事や学校を終えたあと、勧誘や資金調達などの活動をしなくてはならず、時間や体力には余裕がない。

(『マインドコントロールとは何か』P179)
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一般の学生や社会人の会員が、家を離れて共同生活するようなことは、ほとんどないように思いますし、あったとしても、親鸞会が組織的にすすめているという訳ではありません。
学生の中には、親鸞会の部室に居住する人もいましたが、親鸞会としても、部室の管理責任などの問題もあり、誰でも住んでいい、という訳ではありませんでした。

ただ、講師部の人たちは、みな全国に担当が決められているので、家を離れて共同生活をして、活動しているようです。
もちろん、講師となれば、それが職業なので、そうならざるを得ないのですが、実家近くの事務所に居住していた講師が、上司に無断で家族に会いに行ったり、家に帰ったりして、厳しく注意されている人もありました。
このようなことを知ると、「許可なく親や知人などに会いに行くことも許されない」と言われても仕方がないように思います。

これを読まれた人の中には、「一般の会社でも、労働時間中に、仕事をやめて実家に行ったり、家族に会うのは、よくないことだろう」と言われる人もあるかもしれません。
ですから、休日に実家に帰るのは、別にいいように思いますが、親鸞会の講師部員に関しては、土曜も日曜も祝日も、休日などありません。
1年の中で、年末年始の数日を除いて、ほぼ365日、毎日任務に従事しています。
ストレスがたまり、肉体的、また精神的に、余裕がなくなるのも当然といえるでしょう。

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ゆがんだ情報処理

先入観や期待が、個人の記憶や判断などの思考過程をかなり支配する。
私たちが社会に起こっている現象を理解しようとするときには、その目で見ているもの以上のことがたくさんある。
つまり、私たちの視覚というのは、あるものがそのまま丸ごと見えるというのではなく、見たいもの、あるいは、見得るのではないか、と期待しているものが見えるのである。

人はひとたびは破壊的カルトのメンバーになると、その立場を守る方向で、情報を自動的に処理してしまいがちなのである。
このような情報処理の性質が、彼らの親などの外部のものとの対話をすれちがいにさせる、主要な原因の一つとなっているといえよう。

また人は、一度ある情報を正しいと思い込んでしまうと、それが後になって誤りであることが分かっても、非合理ではあるのだが、その誤りであると分かった考えに影響されて行動してしまうことがある。

破壊的カルトのメンバーは自分のビリーフの誤りに気づいても、なかなか合理的に思考できない。
もしも、誰かが誤りに気づかせても、彼らは「わかっている」と言いながらも、知らず知らずのうちに、そのビリーフにしたがって行動することもある。
今までビリーフを支えていた根拠がなくなっても、人はひとたびビリーフを形成してしまうと、それに固執する傾向にあるということだ。

(『マインドコントロールとは何か』P182-185)
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私は親鸞会の活動に、時間やお金、労力を費やせば費やすほど、「自分が今までしてきたことが、間違いであるはずがない、間違いであってほしくない」「自分が親鸞会に入会し、多くのお金や労力を費やしてきた選択は、間違っていなかったのだ」といった心理が働きました。
そのような期待や先入観が常にあった為、身の回りにどんなことが起きても、常に「親鸞会が正しい」という合理的な解釈をしてきたように思います。

そうなると、少々どんな事態に直面しても、誰から何を言われても、「親鸞会は間違っている」という考えにはならないように思います。
親鸞会の学友部員の中には、反対する両親と衝突する人が少なくないように思います。
私も両親にはかなり反対されながら、活動を続けていましたが、結局、どんなことを言われても、自分の信念が弱まることはなく、逆に反対されればされるほど、言い返し、自分の信念は固まったものでした。

結局、自分を含めた親鸞会会員にしか通用しない理屈で、一歩もゆずることなく、主張し続けていましたので、親の立場からすれば、いつもすれ違いで終わっていたのだと思います。
今振り返ると、両親には、本当に申し訳ないことをしてきてしまったと、反省しています。

親鸞会会員の皆さん、特に若い学生の皆さんには、家族の方々が反対されるのは、皆さんの為を思ってであり、なぜ、そこまでして反対をされるのか、その理由や気持ちを、難しいことではあるかもしれませんが、客観的に、そして冷静に、考えて頂きたいと願っています。

私も学生時代、そのようなことは分かっているつもりでありましたし、親の反対を受け、衝突していた後輩にも、「親御さんの立場にたって、親の気持ちを理解する努力をしなければならない」と指導していましたが、結局、親との衝突が絶えなかったのは、自分が分かっていなかったからであり、自分にも多くの非があったと思います。

もし、皆さんがクリスチャンや創価学会の人と論争をしても、考えを曲げようとしない相手が多いと思います。皆さんとしては、「明らかに私が正しく、相手が間違っているのに、なぜ相手は気付かないのだろう」と思うでしょう。皆さんとしては、「なぜキリスト教や、創価学会のようなおかしな教えを信じられるのか」と、疑問に思われることと想像します。

しかし、立場を変えて、皆さんの家族の方からみれば、皆さんもそのように思われているということです。親鸞会会員である皆さんからすれば、「極めて論理的で、合理的な考えによって、親鸞会を選択したのであり、親鸞聖人の教えに比類する宗教や思想など、あるはずがない」と思っておられるでしょう。

しかし、人間は一度、ある信念がかたまり、そのことにかける時間やお金、労力が大きければ大きいほど、過ちに気付いても、なかなか、元に戻れないものです。親鸞会以外の宗教団体の方々がそうであるように、親鸞会会員の皆さんもそうなのかも知れません。自分が「親鸞会こそ唯一真実伝える団体」だと判断した根拠は、自分では今はなかなか気付かないだけで、案外、ほんの些細なものかもしれません。しかし、その親鸞会の活動のために費やしてきた労力や、払ってきた犠牲は決して小さなものではないでしょう。ですから、そのような人ほど、なかなか、後戻りできないものです。

「親鸞会が正しい」という信念は、あくまで自分がそのように「信じている」に過ぎないものであり、誰にでも客観的・論理的に説明できる、明確な根拠や論理があってのことではありませんでした。しかし、自分の中に築かれた「親鸞会は正しい」という信念に固執している為、会員である本人には、その事実をなかなか客観的にみれないのだと、私は思います。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール
感情の管理
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自集団の情報だけに注目させる
破壊的カルトのマインドコントロールでは、操作者はメンバーに自己や自集団に対しては好意的な感情を抱かせて、外部の集団に対しては、否定的な感情を抱かせるように方向づける。こうすることによって、破壊的カルトは、メンバーには常に自集団の情報だけに注目するように仕向けるのである。

(『マインドコントロールとは何か』P185)

まず、親鸞会のサークルに勧誘され、先輩たちと接するようになると、大変、親切な人たちだと感じる人が多いでしょう。実際に、私が学生であった頃も、「面倒見のよさでは、他のどんなサークルの追随も許さない」と、新入生たちに言っていましたし、先輩たちも後輩に心をかけるのに必死でした。

「新入生に、教え以外のことで、『こんなサークルには、もう来たくない』と思われてはならない」と講師からも指導を受け、新入生に対しては、非常に親身に接していたものでした。その結果、教えの理解がそれほど進んでいない人であっても、余程、他にやりたい事がなければ、先輩たちの親切な言動に好意を感じて、サークルに残ったものです。

逆に、サークルから一歩外に出れば、些細な心のすれ違いで傷つくこともある友人との関係や、また、厳しいバイト先でも人間関係、そして、なかなか本音の部分で分かり合えない家族関係と、否定的な感情も多々あるかと思います。(もちろん、これらは親鸞会が仕向けたものではなく、世の中そういうものなのでしょうが)

これは親鸞会だけではなく、どこの宗教団体など、ほとんど同じだと思いますが、共通の信仰、理念をもっている人たちが集まると、共感できる部分も多く、内部の人たち同士は、それなりの好意を抱くことでしょう。また、先輩からみれば、なかなか振り向いてくれない多くの学生の中で、自分たちに理解を示してくれる貴重な後輩たちですので、大事にするのでしょう。

このような周囲の状況により、親鸞会のサークルに勧誘された新入生にとっては、親鸞会のサークルは非常に居心地のよいところであり、それに比べると、外の世界は非常に厳しく、冷たい世界と受け止めるでしょう。

また、教義的にも、親鸞会は自分たち以外の一切の宗教や思想は間違っているものだと主張しますので、本願寺やキリスト教、また新興宗教の団体などの他の宗教団体には、嫌悪感を持っており、機関誌などでは他宗教、他宗派(特に本願寺)への批判記事が頻繁に掲載されます。それらの団体に所属する人に対して、あまりいい感情を抱いていないでしょう。中でも、親鸞会を批判するような人たちは、感情的に特に許せないのではないでしょうか。そのような感情から、自然と親鸞会のサークルの中にいると、内へ内へと固まってゆくのだと思います。

私は親鸞会をやめてから、親鸞会会員以外の多くの人たちと出会いました。親鸞会を批判する大学教授やカウンセラーの人たち、キリスト教の牧師、本願寺の僧侶など、親鸞会の幹部であった時には、あまり接したこともない人たちです。親鸞会の幹部であった頃、あったこともない、これらの人たちのことを、相当、嫌悪感をもって認識していましたが、実際に会ってみると、皆、人間味あふれるきさくな方々で、非常に親切な人たちでした。

ですから、感情の面でも、親鸞会にいた時には、様々な影響を受けていたのだと思います。

外的回避
破壊的カルトのメンバーは、常に被害者意識をあおられ、外部の集団が自分たちを迫害し、攻撃し、組織をつぶそうとしたりしていると考えるようにさせられている。

(『マインドコントロールとは何か』P185)

昔は親鸞会が表立って本願寺を激しく批判した結果、本願寺も親鸞会を激しく批判していましたので、その頃は「本願寺は親鸞会をつぶそうとしている」と思っていた幹部や会員も、少なくなかったかもしれません。しかし、今は本願寺も親鸞会に対して、積極的に批判をしているようではありませんし、完全に親鸞会を異端派扱いして、無視していますから、本願寺に対しては、親鸞会も被害者意識などは、ほとんどないでしょう。

今日ならば、親鸞会はインターネット上で多くの批判を受けていますが、もしかしたら、私の作成したこのようなサイトに対しては、「こいつらは、親鸞会の勧誘を妨害しようとし、親鸞会をつぶそうとしている」と被害者意識を持っているのかもしれません。

離脱の恐怖
破壊的カルトは、集団の外部にいると何か不幸や危険なことがあると生じるといった恐怖感、今しか機会がないという切迫感、自分の力ではどうすることも出来ないという無力感を与えることがある。

これによって、メンバーは情緒的な混乱状況に置かれる。そして同時にメンバーは、その自己破滅状況から、唯一の救いの主である教祖への依存心や忠誠心を高めるメッセージを提供される。事実上、行動の選択肢をなくしてしまうのである。これらの情緒的混乱が、信者に教義に背くような思考を生じにくくさせ、もし生じても恐怖ですぐに打ち消させてしまい、ビリーフの強化・維持に機能していく。これは「思考停止の技術」と呼ばれている。

(『マインドコントロールとは何か』P186)

親鸞会では、やめる人に対して、「君は後生の一大事の解決をあきらめるのか?」とか「君は地獄に堕ちてもいいのか?」などと言って、やめないように説得します。「後生の一大事」「地獄に堕ちる」といった言葉を突き付けられると、今まで真面目に信仰してきた親鸞会会員にとっては、「別に地獄に堕ちてもいいですよ」とは、思っていてもなかなか言えないでしょう。今まで親切にしてもらってきた、目の前の講師や先輩に、不真面目な人間だという印象を持たれてしまい、そのような印象をもたれたくないと思うのが普通の人間です。

「あなたは人生の目的を考えたことがありますか?」と聞かれると、真面目な人ほど、「そんなこと考えたことないですよ」と、答えにくいようなものです。真面目な人なら、「こいつは、人生について何も考えていない人間だ」と思われたくないものでしょう。

今まで、自分に対して親身になってくれ、親しくしてきた講師部員や先輩から、情熱一杯、「君は後生の一大事という人生最大の問題をあきらめてしまうのか?」「君は本当に地獄に堕ちてもいいのか」と言われると、感情的に断れない人が多いのではないでしょうか。

親鸞会に対する批判の中に、「親鸞会は地獄に堕ちると言って脅す」といったものがあります。それに対して、高森会長が座談会で答えたことがあります。その答えとは、「闡提(せんだい)」という言葉に対する説明でした。

「闡提」とは仏教の言葉であり、涅槃経には『死骸のごとし』と説かれており、「自分はまだまだ死なないと平気でせせら笑っている心」のことです。肉親や知人の死を聞くと、驚いて同情の涙を流すこともありますが、本心では、自身の死について、蚊が刺したほどにも驚いていない、そういった私たちの心の奥底にある本心です。「地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばない心」などとも表現されています。

座談会での会長の答えを、かいつまんで言うと、「人間とは『地獄に堕ちる』と聞いても、100円落としたほどにも、驚かないものだ。だから『親鸞会は地獄に堕ちると言って脅す』と言うものがいるが、驚くどころか、驚かないのが、我々人間の本性だ。」といったものでした。

しかし、実際に親鸞会をやめようとした人や、親鸞会の会員と話しをした人が、親鸞会の人たちから、「地獄に堕ちてもいいのか」などと言われたことによって、そのような批判が出てきたのであり、言われた人にとってみれば、「地獄に堕ちるぞ」と脅されたとしか思えなかったのだと思います。そんな嫌な思いをした人が実際におられて、そのように言われているのではないでしょうか?

たしかに、普段の日常生活に戻れば、我々人間は、「死」について思いをめぐらすこともなく、「地獄に堕ちる」とも、「明日死ぬ」とも思わず生きているのが実態かもしれません。しかし、親鸞会の講師や先輩から、「君は親鸞会をやめて、後生の一大事の解決をあきらめるのか」とか、「地獄に堕ちてもいいのか」などと言われて、非常に嫌な思いをした人、精神的に追い詰められた人が、実際におられたということです。私も幹部であった頃、そのような声は聞いていました。

なぜ親鸞会は、そのような人たちの気持ちを受け止めず、教義的な理屈だけをふりかざして、自分たちの正当性ばかりを主張するのか、と私は思うのです。

今日、情報化社会となり、誰でも簡単にインターネットで情報が得られるようになった今、親鸞会はインターネット上でも、多くの批判を受けています。しかし、それらの批判に対しても、親鸞会の学友部では、1つ1つ取り上げて、教義的な解釈をもってきて、反論をつくり、講師部員が学生に徹底しています。なんとか、学友部員がやめないようにと必死なのでしょう。

彼らの気持ちも分からないでもないですが、実際に嫌な目にあい、苦しい思いをされている方々がいるのですから、それらの人たちの声に耳を傾けて、その気持ちを理解する努力も、是非してもらいたいと、私は切に願っています。

カルトのアイデンティティー
個人はカルトに入ることによって、社会的アイデンティティーを獲得する。つまり、個人が「非個人化」を起こして、所属する組織のメンバーとして自己を同一化することによって、自らが所属する集団である内集団と、それ以外の外集団どの区別が明確化し、内集団のみが社会的比較の源泉になると考えられよう。

自分たちだけが、特別な使命をもった選ばれたエリートであると考え、格別のこと(真理)を知った唯一の集団と信じさせるのである。したがって、組織の外部の人々を、知性が低く邪悪な者と軽蔑したり、そうした人たちではあるが、いつかはメンバーに加えてやって、救ってあげなければならないという使命を自認している。

(『マインドコントロールとは何か』P186,187)

親鸞会で勧誘活動をしたことがある人ならば、親鸞会会員がもっている使命感というものが、分かると思います。親鸞会の会員の人たちは、「真実知らされたのは、私たち親鸞会会員だけであり、世間の人たちは真実知らない不幸な人たちだ。だから、それらの人たちに一刻も早く、真実をお伝えしなければならない」とみんな思っています。 

先ほどあげた、以下の高森会長から学友部(昔の学生部)に向けられた言葉をみても、その期待ぶりや、この言葉を会長からもらった学生たちの使命感の高揚は大変なものだと、想像できるでしょう。

合掌 

いよいよ顕正戦。君らこそ、現代社会における唯一の正統な仏法者であることの大自覚をもって戦いにのぞんで貰いたい。君らの青春の謳歌は破邪顕正戦に凱歌をあげることである。健闘を念ずる。

(親鸞会発行ロータスP5『会長先生からのお葉書』) 

親鸞会会員は相当な使命感でもって、「親鸞聖人の御教えを、一人でも多くの人たちにお伝えしなければならない」と思っています。「自分たちが、腐敗した本願寺を倒し、真宗改革を成し遂げるのだ」と使命感に燃えています。上記の『マインドコントロールとは何か』の文章にもあるように、「自分たちだけが、特別な使命をもっている」「格別のことを知った唯一の集団」だと、疑いもなくそう思っている人は少なくないでしょう。

親鸞会学友部のサークルに勧誘された新入生が、やがて入会し、「他の人たちは知ることが出来なかった真実を、自分は知ることができた。これは大変喜ぶべきことだ。」と感じるようになると、使命感をもつ先輩たちと一緒になり、勧誘活動に勇ましく立ち上がるようになるでしょう。

親鸞会の会員の人たちは、外部の人のことを、「知性が低く邪悪な者」と軽蔑するようなことはないように思いますが、親鸞会の会員以外の一般の人のことを「真実知らない人たち」とか「世間の人たち」といった言い方をして、自分たちと区別しています。

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール
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自己知覚
破壊的カルトのメンバーは、自集団の思想について、まだ全部理解していないという認知があり、常により深い理解をしようとする。そのために一番良いのは、その集団でのさまざまな活動に奔走することであると指示される。また古参者は、新参者に対して「今は分からなくても、やっているうちに理解してくる」などといったメッセージを与えるという。

(『マインドコントロールとは何か』P189,190)

親鸞会学友部のサークルに勧誘され、続けて話しを聞いてゆく人の中で、「因果の道理は、本当に大宇宙の真理なのか」といった疑問をもつ人は、少なくないと思います。すると、講師部や先輩が「それは、実践しないと分からないことだ。だから、頭であれこれ考えているヒマがあったら、体を動かして、教えの通り実行してみよう。実際に、体にかけて実践しないと何も知らされないから」と言います。
 
また、親鸞会の教義の中にも、「信仰が進む」(専門用語で、「宿善が厚くなる」と言います)こととして、聴聞(仏教の話しを聞く)、勤行(正信偈を拝読する)の次に、「善の実践」をあげています。つまり、「教えに従い、善いことを実行しよう」ということです。中でも勧められるのが、「法施」(仏法を伝える)と「財施」(お金や物、労働力などを施す)です。これらの活動を熱心に勧められるようになります。

生理的剥奪と生活の管理
生理的なストレスを与えることが、マインドコントロールを助長するのではないかと考えられる。ストレス状況とは、生理的に喚起された状態ともいえ、それが人間の情報処理に影響を及ぼしている。また、ストレス状況の連続にともなう心身の疲労も、個人を取り囲む状況の変化に対する感受性を低下させることになると思われる。要するに、注意が散漫になってゆく。

(『マインドコントロールとは何か』P192)

破壊的カルトの日常生活は、パターン化され単調であるという。各メンバーは、毎日の細かいスケジュールが上司によって決められ、食事さえも決められていることもある。そんな状態に加えて、メンバーは常に上司に相談し、指示を与えられることが多いために、解決方法の未知な問題には遭遇しにくくなり、意思決定に迷うことなく、自動的に対処するようになる。

(『マインドコントロールとは何か』P193)

かつては学生に「行動予定表」を提出させるということもあったようですが、現在、学生や社会人である一般の会員の日常生活が単調であり、細かいスケジュールが上司によって、決められるといったことは、あまりないように思います。これは、どちらかというと、親鸞会の中の講師部養成機関である「顕真学院」に当てはまるように思います。

顕真学院は、講師部を目指す人たちが入学しなければならない、講師を養成する為の学校です。
福井県のあわら市にあり、顕真学院の生徒(学院生と言います)たちは、学院担当の教授たちとともに共同生活を行ない、朝から晩まで、様々な細かい指導を受けています。その細かな指導は際立っており、将来、講師部となり、激しい活動に耐えながら、高森会長や、講師部の上司に無条件服従するための強い信念を育成するための機関として働いています。

なお、顕真学院については、別のサイトを立ち上げて、詳しくその様子や問題点を述べてみたいと思います。
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異性感情の抑制
破壊的カルトのメンバーは、異性への思慕や性的欲求などを極端に抑制することを求められることが多い。ただし、一部の幹部や集団トップには例外的に許されている場合が多い。

(『マインドコントロールとは何か』P193)
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学友部では基本的に、男女交際を禁止しています。
学友部の男女が、公然と交際をしていることなど、ほとんどありません。
あったとしても、それは隠れて行なわれています。
もし、発覚すれば、いろいろと問題になりますし、講師部員も、交際している男女があることを知っても、できるだけ、他の学友部員には知られてほしくないようです。

男女交際が禁止されているのは、おそらく、異性同士が恋愛感情をもつと、教えへの関心や、会の活動に対する気持ちが弱くなり、活動を休みがちになって、2人だけの行動をとることが多くなると、親鸞会の講師の人たちは考えているからではないか、と思われます。
親鸞会学友部では、このような男女の問題を通称「男女問題」と言っています。

この「男女問題」を指摘するためか、ある地区で学友部の責任者の人が、かつてこのような話をしてました。
「八大地獄の中で、七番目の大焦熱地獄とは、『比丘尼を犯した比丘が堕ちる地獄』だ。
これは、仏法を求める女性に対して、己の欲を満たすために淫らな行為をおこなった者が堕ちる地獄だ。
仏法を求める為に集まった男女が、色欲のとりこになって邪淫の罪を犯すのは、大変恐ろしい罪なのだ。」

もちろん、中には行き過ぎた関係もあるのかもしれませんが、私は、10代後半から20代前半の男女が、お互い恋愛感情を持つのは、極めて常識的であり、一般的なことだと思います。
男女の交際を禁じるという親鸞会のこれらの行為は、非常に問題があるのではないか、と思います。

逆に、大学を卒業して社会人になり、学友部から支部へ移籍するようになると、一転して、会員同士の結婚をすすめられます。
社会人になると、仕事の忙しさや、家族の反対で、会をやめてしまう人が少なくないからか、会員同士をくっつけて、やめないようにしようとする思惑があるのではないでしょうか。
会員でない人と結婚した会員が、「なぜあの人は、会員でない世間の人と結婚してしまったのか」と言われている人もありました。

肉体疲労
破壊的カルトでは、メンバーに激しい活動を強いていることが多い。特に睡眠時間が少なく、食事も貧しかったり、回数が制限されているために、破壊的カルトでの生活は、相当疲れる。

ある破壊的カルトの例では、メンバーは日々に課題目標をたてて、その目標を決死の覚悟で達成すべく行動し、時間内で達しない場合は、時間を延長してでもおこなう。その課題は基本的に、新メンバーの獲得や資金調達に関わる肉体労働であることが多い。そして、それ以外の時間は、自分自身の修行であったり、教義の勉強にあてられている。目標は、新メンバー獲得ならば勧誘する人数であり、資金調達のための募金や販売ならば、収集した金額である。

ある破壊的カルトの元メンバーに、当時の睡眠時間を調査した。これによると、4時間から5時間睡眠という人が多い。こういった、短時間の睡眠時間が継続しながらの激しい活動は、かなり厳しいものと思われる。

(『マインドコントロールとは何か』P194,195)

講師部員や、学友部の幹部となると、親鸞会の活動が大変忙しい為、真面目に活動する人ほど、睡眠時間も少なくなるのでは、と思います。よく、学友部の幹部の間で、「電車の中で座ると眠ってしまい、降りる駅を寝過ごしてしまうので、電車の中ではなかなか座れないなぁ(笑)」と、話していたものです。また、ある講師の人に、「なぜ、講師の皆さんはタバコを吸わないのですか?」と尋ねたことがありますが、「タバコを吸うヒマがあったら、寝たい」と答えたのが印象的でした。

とにかく、講師部員や、幹部の多くは、クタクタに疲れるほど、朝から晩まで活動しています。それらの人たちの中には、多くの会員の前にいるときと、一人でいるときの様子が全然違う人もいます。ある学友部員の幹部は、みんなの前では大変元気なのに、大学で一人歩いている姿をみると、下を向き、肩をすぼめて、大変暗かったのを覚えています。また、ある講師の人は、学生の前では大変明るく元気なのに、一人駅の構内を歩いている姿を時々みかけた時は、同一人物とは思えないほど、表情が暗く、疲れきって、とぼとぼ歩いていました。相当、無理をしていたのでしょう。

親鸞会の活動には常に目標が掲げられ、その目標に向かって、みんな必死で活動しています。
掲げられる目標は、決して楽に達成できるものではありませんので、目標達成に向けて活動する上で、精神的にも、肉体的にも大変、疲れることとなります。

また、講師部の人たちには「活動指令書」というものがあります。
毎月、

勧誘の人数、
高森会長の法話への参詣人数、
御報謝(財施)の金額

などの目標がそれぞれ設定されており、各講師部員は自分の目標を達成する為に必死です。
その「活動指令書」について、ある本部長の方(講師部の中でも、その本部の責任者にあたる人)が、
▼「会長先生が、講師部員の活動があまりにも不甲斐ないから、設けて下されたものだ」
と言われていました。
ですから、いつも、講師の人たちは、クタクタになるまで活動し、そのような講師の指導を受け、幹部の学生も必死で活動しているという訳です。

昔と比べれば、今の学友部の活動はそれほど、激しくないのかもしれませんが、
約10年ほど前、例年の3倍の目標が掲げられ、全国の大学で勧誘活動が激しく行なわれた年もありました。
幹部の学生は、睡眠時間をけずり、使命感に燃え、朝から晩まで必死で活動していましたが、
ある大学の幹部の学生が、疲労からか、心臓発作を起こし、部室で亡くなるという事件もありました。
その学生の友人から聞いた話ですが、「A君は、毎日3、4時間ほどしか、寝ていなかったらしい・・・彼はいつも『僕は3時間睡眠が丁度いいんだ』と言っていた」そうです。
もちろん、本人は正義感と使命感に燃えて、活動していたのでしょうが、悲しい結果に終わってしまった痛ましい事件でした。

(余談ですが、この事件のあと、彼が死の前に謹書したという高森会長の「お言葉」が学生に配られ、彼の死を無駄にするなと、さらなる活動の推進が叫ばれました。
当時の学生本部長にそんな気は無かったと思いますが、彼の死が利用されたと感じた学生は少なくなかったと思います)

そこまでいかなくても、過去、激しい活動や御報謝により、肉体的にも精神的にも、大変な疲労の為についてゆけず、やめてしまった幹部の学生も少なくないように思います。特に大学の部長など、責任ある立場になると、講師の人からは目標を達成せよと言われ、後輩たちは疲労の為か、活動の意欲を失い、動かなくなり、上からと下からの板ばさみになり、精神的な負担はより一層、重くのしかかるようです。
そんな時に、「無理をしなくていい」「休んだほうがいい」と、適切に、優しく声をかけてくれる人がいればいいのですが。

また、学友部だけの活動ではないですが、親鸞会は「光法戦」というアニメの頒布活動を会をあげて行なっています。ここ数年は、それほど盛んに行なわれていないように思いますが、ほんの数年前までは、会をあげて活発に行なわれていました。全国の支部で、毎月何十本、何百本という目標が掲げられ、達成にむけて、激しい活動が行なわれていました。

このアニメは1本1万5千円、7本で10万円するものですので、少々戸別訪問を行なっても、そんな簡単に欲しいという人はいません。
かつて私も、親鸞会で行なわれた光法戦に2週間ほど、参加したことがあり、来る日も来る日も歩き続けましたが、なかなか、販売することなどできませんでした。
この光法戦は、肉体的にも楽な活動ではありませんでしたが、ここで私が言いたい問題は、むしろ、目標達成を押し付けられることにより、精神的な負担が生じることです。

過去、親鸞会の光法戦でかかげられてきた目標は、大変大きなものでした。
その目標があまりにも大きく、とても達成できないようなことも少なくなかったのですが、どの支部でも担当講師からは、「何が何でも目標を達成するのだ。そうでなければ、目標を与えて下さった高森先生に申し訳ない」といったことが、幹部に向けて言われていました。

そして、なかなかアニメの販売本数が伸びない、しかし、だからといって、講師部員に「目標達成できません」とも言えない幹部の会員は、仕方がなく、自分でそのアニメを買い、自宅の押入れなどに抱え込むことになりました。ある会員さんの自宅の押入れをあけると、沢山のアニメが出てきたそうです。
このあまりに悲惨な活動現場の状況は、改善されないでいたようですが、ついに、高森会長の耳に入り、会員が抱え込んでいたアニメを、会が買い取ったということがあったそうです。

親鸞会の活動では、目標をかかげて、それに向かって必死に活動することがよくなされています。
もちろん、「何の目標ももたず、ただやみくもに活動するよりは、明確な目標をもって、活動するほうがいいに決まっている」というのが、親鸞会幹部の持論なのでしょうが、その目標達成が本来の意味からはずれ、とにかく数字をあわせることが大事なのだ、となってしまうと、様々な問題が起きるのだと、これまで親鸞会で行なわれてきた光法戦や、学友部の勧誘活動を通して、感じました。

親鸞会の会員数は、ここ数年減少傾向にあるようですが、今年は「2000畳の正本堂を会員で埋め尽くそう」と、大変な数の入会目標が掲げられているそうです。
これまでと同じような悲劇が起こらないようにと、祈るばかりです。


切迫感
破壊的カルトのいくつかは、どんなに厳しい活動であっても、今こそ集団での活動に邁進していかなくてはならない状況にあることを強調されている。

破壊的カルトのメンバーは、このような切迫感によって、常に活発に活動することを余儀なくされるのである。切迫感は、メンバーにとって緊急事態ともいえる。緊急時における、人間の意思決定では、外界の情報を幅広く取り入れる能力が低下することが分かっている。

(『マインドコントロールとは何か』P196)

親鸞会では、真面目な人であればあるほど、必死で勧誘などの活動に励んでいます。それは、「後生の一大事(死後、地獄に堕ちる)の解決」の為であり、後生(死)はいつやってくるか分かりませんので、常に自分に切迫した問題となります。その為、指導する立場にある講師部員や、幹部も、「今宵の後生に間に合わなかったら、どうするのか?本当に今の程度の活動で、後悔はないか」と、聴聞や活動を必死ですすめます。「希少性」のところでも書いたとおり、親鸞会の教え自体に「今しか聞けない」「今しか求められない」という切迫感がある訳ですから、会員も真面目な人であればあるほど、切迫感をもって活動しています。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール
最後に
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選択の自由があるかのごとく思わせる
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これまで示してきたように、マインドコントロールは操作者が何らかの結論を用意して、強引にそれに導く意思決定をさせるといった強制的な方法をとらない。
常に、行為者が『自ら考えたように感じさせる』のである。
『選択の自由があるかのごとく思わせる』のである。

つまり、操作者は意思決定の過程において、実際には、たくさん存在する「道具」と「材料」の中から、選んでほしい特定のものをたくみに仕組んで選ばせてしまう。
だから、もしマインドコントロールされているとしたら、自らが気づくことは困難である。

しかも、もし自分や周囲の誰かが、ここで説明したような状況におかれているとしたら、たぶん、それはマインドコントロールされていると客観視すべきである。

(『マインドコントロールとは何か』P197)
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ここがマインドコントロールの最も恐ろしいところでしょう。
「操作者が何らかの結論を用意している」訳でもなく、「強引にその結論に導く意思決定をさせるといった強制的な方法をとる」訳でもありませんので、マインドコントロールの影響を受けている人は、そんな影響を受けているという自覚はなく、「自ら、考え選択したように感じる」のです。
つまり、後々、マインドコントロールから目覚めると、「なぜ、自分はあのような選択をしてしまったのか」と後悔の念に陥るのですが、「それは、あなた自身が選んだ道でしょう」と言われると、何も言えなくなってしまいます。

私は最初にも述べましたように、「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれている」と断言している訳でもなく、「親鸞会など、早くつぶれてほしい」などとも、思っていません。
親鸞会に出会って、喜んでおられる方々が沢山おられるのを知っていますし、そのような方々にとっては、親鸞会の存在も、大変意味のあるものであり、必要なものなのでは、と思っています。

親鸞会の講師や幹部の人たちの心にあるのは、決して「金儲け」や「人集め」といったことではなく、「全人類を本当の幸せに導く、唯一の教えである、親鸞聖人の御教えを、一人でも多くの方々にお伝えすること」なのです。
彼らは100%の善意で、この行為を一生懸命行なっているのです。
それは、長年、幹部として、親鸞会で活動してきた私は、その気持ちはよく分かります。 

新入生の前では善人ぶった顔をしながら、裏では私服を肥やし、私利私欲を貪っている、といった姿とは余程縁遠く、本当に、みんな真面目で一生懸命です。
(一時、会の最高幹部の女性問題や横領などが非難されたこともありましたが、仮にこれらが事実だとしても、人間の集まりですから、そうしたこともあるだろうと思います)
彼らの立場にたてば、「なぜ私たちが、こんな非難を受けねばならないのか」と、不思議で仕方ないかもしれません。

しかし、親鸞会との出会いを喜ぶ人たちがいるを一方で、親鸞会をやめた人の中には、「なぜ自分は、学生時代の貴重な時間やお金を、あのような活動に費やしてしまったのか」と後悔し、取り戻せない貴重な時間を振り返り、苦しい思いをしている人が少なくないように思います。

もちろん、自らの判断で選んだ道ですので、責任は自分にあるのかもしれませんが、そのような多くの人たちが、親鸞会を選択したことへの自責の念にかられ、苦しんでいる姿をみるにつけ、私は「なぜ、こんなことになってしまうのだろう」と思いながら、いろいろ悩みました。そして、マインドコントロールについて書かれた本を読みすすめてゆくうちに、多々考えさせられることがありました。

親鸞会への批判の一つに、「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれている」という批判があります。その批判が正しいのかどうか、是非、みなさん一人ひとりに考えて頂きたいのですが、親鸞会の講師部員や幹部の皆さんには、親鸞会の活動により、苦しい思いをしている人たちがいることを知って頂き、それらの人たちの声を少しでも受け止めて、「自分たちには、改善すべき点はないのだろうか」と、胸に手を当てて、一度、心静かに考えて頂きたいと思います。

この世の中には、多くの人間が存在しています。そして、自分と違う考えをもった人たちがたくさんいます。当然、自分と全く正反対の意見を持った人も少なくないでしょう。

もし、全人類が親鸞会会員であり、「親鸞会の説く教えが大宇宙の真理だ」「高森会長の仰せには、無条件に従うべきだ」と思っている人ばかりなら、そんな人に対して、親鸞会が自らの価値観によってのみ動き、その正当性を主張しても、何の問題もないのかもしれません。しかし、親鸞会と出会い、喜びに満ち溢れた人生となった人がいる一方で、親鸞会の活動によって、苦しい思いをしている人も、同じくらいおられるかも知れません。

親鸞会の講師の方々や、幹部の人たちには、是非一度、自分たちに寄せられる批判に耳を傾けて、そして、「もしかしたら、自分たちにも改めるべき点があるのでは・・・」と考えて頂けたらと思っています。そして、親鸞会の会員の皆さんも、親鸞会を批判している人たちも、ただ感情的に罵りあい、お互いの正当性だけを主張して、相手の意見を「取るに足らないもの」と認めないのではなく、お互いの立場を理解し、その気持ちを分かち合うことで、親鸞会にめぐり合い、幸せを感じる人が増え、親鸞会の活動によって苦しむ人が減ってゆくのかも知れません。

私は10年数年もの間、親鸞会で活動し、親鸞会の幹部としてその裏も表もみてきました。自分が長年、所属していた団体には、是非よくなってもらいたい、との願いから、過去の経験をふまえて、このような場で意見を述べさせて頂きました。

親鸞会の講師部の人たちや、幹部の皆さんには、信仰という今後の人生において決して小さくない影響を与える問題を、10代後半の若者たちに突きつけることを、是非、慎重に行なって頂きたいと、切に願うばかりです。

<終わり>



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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集の公開にあたって


2005年11月、私は「なぜ私は親鸞会をやめたのか」と題するサイトを公開しました。公開直後はそれほどでもなかったのですが、しばらくして親鸞会の講師部の方をはじめとして、現会員、元会員、学生会員のご両親といった方から、思いもしなかったほど多くのメールを頂くことになりました。

内容は「早期に愚かな間抜けなサイトを削除されることを希望します。」 「謗法の大罪を犯していますからね。浅知恵ではわからんかもしれませんが、それなりの覚悟をしておいてください。」といったものから、「サイトの運営、頑張って下さい。応援しております。」「このサイトを作成された勇気に、尊敬の念を抱いております。これからも頑張ってください。」といったものまで、多岐にわたっております。

中には子供さんが親鸞会で活動されていることに悩み、「あなた様からの助けをいただけたらと、わらをもすがる気持ちで書いています。」とメールを寄せてこられ、特急列車に乗って、見も知らない私に会いに来られたご夫妻もおられました。こうした方々を通じて、私も親鸞会の問題で悩んでいる方が、想像以上に沢山おられることを知りました。

この「反響集」では頂いた沢山のメールから、掲載の了承を頂けた方のみについて公開しています。今後も皆さんからのメールを順次掲載する予定です。

今後も皆さんからの感想、投稿をお待ちしております。なお、メールを頂いた方の情報については絶対に秘密を厳守し、如何なる事があっても他言することはありません。送信された方の同意無く掲載することもありませんので、ご安心下さい。

ご意見・ご感想はこちら

なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
投稿文(1)
機関誌には高森先生の偉大さ・まばゆさをこれでもかという位賞賛する言葉が溢れており、他の情報に接することは夢にも思わなかったので、自分がまるで一人取り残されたように感じたものでした。

投稿文(2)
今後、親鸞会を、そして勧誘などの組織的活動を続けられるのも自由です。しかし、人生は一度しかありません。もう一度、限られた情報のなかで思考停止ばかりして自分と向き合うことから逃げてばかりおらず、棚上げしていた問題に対して、真正面からむき合ってみませんか?

投稿文(3)
そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

投稿文(4)
勧誘において仏教を聞いているという自分たちの立場を明確にしないことを改善したいと思っています。

投稿文(5)
姑息な手段を使わず、初めに親鸞会を名乗り、自分たちはこうこうこういう考えをもっており、このように行動しているとどうどうと宣言してほしい。そしてその考えに同調した人は正式な親鸞会のメンバーになればいいし、同調できなかった人は親鸞会をやめればよいと思います。

投稿文(6)
親鸞会に入ってその方たちが幸福なのであれば、それはそれでいいでしょう。しかし、私の目には誰も幸せそうには写りませんでした。必堕無間、必堕無間と叫びながら必死に救われようとしがみついている姿のようにしか見えませんでした。

投稿文(7)
今まで親鸞会で費やした時間は何だったんだと、無気力感に捕らわれる方もいらっしゃるかもしれません。無駄なことなど決してありません。親鸞会が真実ではなかったとしても、その全てが悪意に満ちているわけではありませんから。

投稿文(8) NEW
親鸞聖人の教えも法律も守らない団体が、親鸞聖人のお名前を看板としていることに、強い違和感を覚えてしまいました。

投稿文(9) NEW
私自身が学友部の活動によって仏教と出会い、また過去に活動に関わってきたことを考えると、このような意見を述べるのは胸中複雑な思いがあります。しかし、今の布教のやり方によって教えに対してまで不信を持つ人が多くいる現状を見るにつけ、こういう形であっても声をあげなければならないと思った次第です。

投稿文(10) NEW
親鸞会に入ってから今までの間で初めて「後生の一大事は確かにあり、親鸞会にいて助かるかどうかはともかくそれ以外では絶対に助からないから、親鸞会で仏法を聞くしかない」という考えが崩れました。

メールより(1)
私も納得できないことを棚上げしたまま、みんなと一緒にやる活動の雰囲気に酔っていたのだと思います。と言っても、酔い切れない部分があり、とても幹部にはなれませんでしたが・・

メールより(2)
親鸞会の教義が正しいとも間違っているともいえませんが、結局は「信じている」に他ならなかったということです。

メールより(3)
実は自分だって親鸞会が真実の団体だと確証出来るわけじゃないのに、どうしてこうも無批判に受け入れているのだろうかと思ったのです。

メールより(4)
わき出してくる疑問も、「まだまだ教えが分かっていないからだ」ということで、必死に押さえていたからと思います。

メールより(5)
「親鸞会の活動方針や、周りの人が悪いのではなく、自分が悪いのだから・・・」と、自分を責めている姿が、いとおしく、痛々しく、親としていたたまれなく思っております。

メールより(6)
1年間でいくら払いますという、誓約書みたいな御報謝(建立御報謝?)で、50,000円と書いたら、少ないと言われて、一気に冷めました。そして、覚めました。

メールより(7)
いまは会の反社会的な面を糾弾するというより、昔の仲間とまた会いたいなという懐かしい気持ちです。かつての仲間の大半はもう退会してると思うんですが、残念ながら再会はほぼ不可能でしょうね。

メールより(8)
親鸞会以外に生きる選択肢が見出せなければ、自らの疑念を押し殺してでも、わずかに残った「この教えこそが本物かも知れない」という可能性に向かって精進しようとするでしょう。

メールより(9)
『高森先生を無二の善知識と仰ぎ、ご教導に無条件に従い、親鸞学徒の模範として、次の項目を実践する会員を純会員という。』 入会した時にこの文を見ていたら逃げていたと思いますが、知らず知らずのうちに「それが正しいことなんだ」と思い込むようになっていったのだと思います。

メールより(10)
何も知らない新入生に嘘をついて勧誘することには反対です。だんだん小出しにする方法や、新入生同士を近づけないことや、サークルに縛り付けることなどを止めて頂きたいと思っています。

メールより(11)
会員の皆さんは、先生のおっしゃる一言一言を、とても敏感に感じます。私のように思っている者がいることも、知って頂ければと思い、このような意見を述べさせて頂きました。

メールより(12)
サイトを一読させていただきました。これを見て、今日親鸞会を辞めることを決意しました。本当にこのようなサイトを見ることができて、良かったと思います。

メールより(13)
両親に毎度毎度うそをついて富山まで行くのが悲しく、また申し訳ない気持ちでいっぱいでした。夜行バスに揺られている間何回涙を流したか数えられません。

メールより(14) NEW
「絶対解決、その道はここ一つ!」なんて言ってる宗教は、他にもいくらでもある。親鸞会は、そんな中の小さな一つに過ぎない。

メールより(15) NEW
「会に対する批判は許さない」という体質、唯一の真実といいながら除名という慈悲のかけらも感じられない処分…。会の独善的・独裁的な体質に気づき、不審は募っていきました。

『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へ
自分自身どうしても『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方にたずねたいことがあり、2005年11月30日にメールを送りました。その全文を公開致します。

『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へ
反論サイトが出来ていました。それについての私の主張は後日掲載の予定ですが、執筆にあたって制作者に尋ねたいことがあり、2005年12月8日にメールを送りました。その全文を公開します。

『続・なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ その2
私が『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へ出したメールからの返信が届きました。不誠実な対応に失望しましたが、更にその方へ出した返信の全文を公開します。

『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 相互リンクなど
2006年4月6日に上記サイト管理人から頂いたメールへの返事です。ようやく相互リンクに応じて頂けましたが、こちらの質問には依然無視をしているので、この機会に再度質問をしています。

『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/5/1
2006年4月27日に上記サイト管理人から頂いたメールへの返事です。沢山の質問を頂きましたので、それに御返事をさせて頂きました。

『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/5/16
2006年5月6日に上記サイト管理人から頂いたメールへの返事です。「私の目的は果たせられた」とのことでしたが、重ねて疑問点を尋ねる事に致しました。

『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/5/22 NEW
2006年5月20日に上記サイト管理人から頂いたメールへの返事です。当方からの疑問点については、都合の悪い部分は一切、答えてないように思いますので、再度質問することにしました。

『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/6/2 NEW
2006年5月30日に上記サイト管理人から頂いたメールへの返事です。相変わらず当方からの質問には答えて頂けませんので、再度質問することにしました。その後、先方からの反論・返信は無くなりました。

現会員の方からの反響
現在親鸞会の会員である方から、どのようなメールが来ているか、かいつまんでお知らせ致します。

リンク
なぜ私は親鸞会をやめたのか|ホーム
続・なぜ私は親鸞会をやめたのか
なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて
高森顕徹氏と親鸞会の問題(投稿文)
親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか
明橋大二医師と親鸞会
さよなら親鸞会〜元会員から見た親鸞会のすがた

参考サイト
浄土真宗親鸞会について考えるページ ジャンヌ
浄土真宗親鸞会被害家族の会
浄土真宗親鸞会の謎

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私と親鸞会
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私は8年間親鸞会に籍を置いていましたが、幹部ではありませんでした。その為か、外部の情報にも満遍なく触れることが出来、自分の意志を持って退会することが出来たのは幸運だったと思います。その中であったことをこれからお話ししたいと思います。

入会〜青年部にはいるまで
私は○○大学でフロントサークルで勧誘を受けてから、入会するまでに他の人よりは時間を多くとったと思います。一つの考えを押しつけられるのは耐えられないと思いましたが、断ると長時間説得されて、こっちが反論できにくくなってしまって、結局負けてしまったのと、先輩達が私の一生を真剣に考えてくれているという熱意に動かされたのと、いかにも莫大なお金をかける価値があると思わせられてしまったのが大きいと思います。今から考えれば、本当に愚かだったと思います。

それからは毎日部会があって、勉強と両立させるのには大変で、1年留年してしまいました(私の要領が悪かったのもあると思いますが)毎日毎日部会があるのは本当に忙しいと先輩に言ったら、「1日たりとも無駄に出来ない」という答えが返ってきました。

1、親鸞会にどういう気持ちで入ったか
私は最初大学で、親鸞会のフロントサークル(「古典を哲学する会」と名乗っており、もちろん親鸞会の前衛組織であることは隠されていました)に勧誘を受け、面白そうだと思って、そのまま続けてサークルの行事に参加していました。フレッシュセミナーといわれる黄金週間の合宿には、遅れて参加しました。先輩に当たる人が車で送って下さって、有難かったのを覚えています。

フレッシュセミナーで記憶に残っているのは、寸劇会でした。オウムの洗脳に打ち勝つ内容、「因果の道理」で姓名判断等の誤りをうち砕く内容、人生の目的を聞き求めるのに失敗した人が、後悔しないよう人生の目的を求める人を励ます内容、があったのを覚えています。(だいぶ後になって知ったのですが、この合宿では新入生同士が仲良くならないように工夫をして、参加者にはここであったことを親に言わないように指導するということが行われていたのです)

それから後も何回か部会に通っていました。内容に引かれたのは、「親の大恩十種」とか、「なぜ人生は生きなければならないのか」というものもありますが、特に「キリスト教と仏教の比較」に魅力を覚えました。

私はその頃、米国軍の沖縄での問題とか、小林よしのりの書いたものの中で取り上げれた、第二次世界大戦中の西欧列強の問題と、当時の日本の戦争体制との比較について、心の中で重く引っかかっていましたので、それが宗教的なものに起因すると教えられたときは非常に意義あるものだと感じました。

加えて、三世十方を貫く因果の道理と、死んでも続く幸福を手にする方法が仏教に教えられていると聞き、私はいい事を聞いたと思ったものです。

私はその親鸞会のフロントサークルと別のサークルを掛け持ちしていたのですが、別のサークルで先輩に冷たい言葉をかけられ、自分は受け入れられないんだと落ち込んで(今から考えると愚かな事でした)、もう一方の、親鸞会のフロントサークルを続けて行った方が良いに違いないと思って、誘われたときは講座に行っていました。

サマーセミナーを経て、その年の終わり近くに入会することになったのですが、そこまで至るには「人生は苦なり」という講座の内容に非常に衝撃を受け、また本当にそうだなと思っていたのと、「人生はむなしくこの世は苦しみばかり、だから求め抜いて悔いの無いものを求めよう」というところに感銘を受けており、先輩の親切さと熱意に折れたからだと思います。だから、一時親鸞会が背景にあるということを隠されて気分がもやもやしても、それを自分で振り払って入会したのです。

ただ、先輩に「このサークルは親鸞会の組織だったのか」と問うた際、「組織だったらなんだというのか」と返されたのには少し怯みました。その後にその目的を諄々と説かれはしましたが。

「人生の目的」に惹かれて入会したとはいえ、金銭的な負担、とられる時間は大変なものでした。自分は宗教との関わり方を全然判っていなかったので、「苦労すればするだけ人生の目的に近づく」といわれれば、お金や時間をつぎ込んで、先輩にほめられるようなやり方で「仏縁」を求めていきました。

下宿を空けることも多くなり、家との連絡も途絶えがちになるので、夏休みで帰省したときやたまたま両親とあったときなど、お金をどの位つぎ込んでいるのか、毎週遠い所の講演会ばかりに行くなんて異常だ(これについては、先輩が「親御さんは教えが判っていないから反対するんだ」と言われました。確かに、親鸞聖人の元には後生の一大事一つのために、田畑を売り払って、交通や治安の発達していない中を関東の同行が命懸けで聞きに行ったと歎異抄にありますし、蓮如上人が「世間の仕事を辞めてでも聞かなければならないのが仏法だ」と言われているので、私にはそれ以上反論のしようがなく、従わなければ自分は驕慢で不埒な者ということになり、もし聞きに行かなかったとしても自分の心を責めなければならない羽目に陥ることになります)、等等、責め立てられて居たたまれなくなったことも少なくありません。身内には、お金をお布施につぎ込んでいるのではないかといぶかられ、また家族全体で詰問されたこともありました。

それを先輩に話すと、「船が進めば進むほど波が高くなっていくように、仏法を求めようとするとき、(横の)道を進んで行けば行くほど、辛くなる」といわれ、数少ない理解者に励まされたような気持ちになり、かえって会へ対して従う心を強めることになりました。

そういうことが起こったのには、一つにはあまりにも俗物的な父親の姿に反発したから、というのもかなりあったと思います。「こんな程度の人間に説得されるぐらいなら、先輩達に従っていた方がずっとましだ」という思いが、親鸞会に居続ける一つの原因になっていたようです。「反対している親は教えが判らないので」入会したことは伏せておこう、と思うのにも何一つ抵抗を覚えませんでした。親に「最後、味方は親しかいない」といわれても、それがかえって白々しく響いていました。

そして、教義の一つである「雑行・雑修・自力の心」について講義されたとき、自分は他の一年生のように質問したりしないで、黙っていようと思いました。物事についてあまり深く考えることがなくなってしまい、人生の目的を解決するのに自分が色々と口を挟んでも無駄になるだけなのだろうと思いはじめていたからです。その話を聞いて「それって一体?」という思いが起こったのですが、私はその疑問にさっさと蓋をしていました。それよりも、明るいところ(人生の目的を知らされた喜び、因果の道理、世界でただ一つの真実等など)に目を向けよう、としていました。ただ、当時の学生部担当講師のトップクラスに当たる方が、その教義について書かれたプリントの内容がどれだけ学生に浸透しているかを確かめるために、学生に手を挙げさせて確認したのには閉口いたしました。

青年部では、学生部ほどには束縛はきつくはなかったのですが、それでもやはり組織に対して批判を持つ人は多かれ少なかれ指摘されて決して褒められることはなく、アニメビデオ販売・高森会長の講演会への勧誘人数の目標というものが存在していました。それは、高森会長が、会員に対して少しでも光に向かえるようにするために設けられたものだと言う意味の説明がされていました。

青年部の先輩の人達は世間の楽しみや情報を色々と教えてくれる人が多かったので、私もそれなりに楽しかったのは事実です。学生部にいたら決して触れることの出来なかったであろう娯楽も、楽しむ自由はかなりありました。

また青年部では、密かな形ではありましたが、組織のあり方や方針に批判的なことを言う人がいました。私は内心、批判を口に出すことに恐怖を覚えており、純粋に親鸞会に従うのが親鸞学徒のあるべき姿だというように教えられていたので、それを殆ど鵜呑みにしていましたが、頷けるところはありました。今思うと、親鸞会の全体統制的なところが出ていたと思われる点を2,3あげると:

1,「ご報謝」と呼ばれる献金の話がなされるときに、講師が自分の担当する地区の会員が新婚旅行に外国へ行ったことを引いて、そのような用途に使うことを否定的に話していたこと。これは個人の自由であり、他人が干渉する問題ではないと思います。

2,40周年記念大会にちなむ献金を、「何に使うのだろうか」という疑問を出した人がいたらしく、それについて指摘する内容の話があった。

3,親鸞聖人のアニメーションの中の台詞を、パロディ化して笑いをとるのに使ったり、面白くして喋っている学生会員がいることに会合で触れられ、高森会長が激昂して、学生部のトップに当たる講師を叱責したことを聞いた。しかし会長自身は、アニメの台詞を、聴衆の笑いをとるところで使っていた。今思うと、息苦しい雰囲気が流れていると思うし、理不尽な感じがする。高森会長だけは、何をしても罪を免れるエホバのような存在なのだろうか?

2、何が疑問になったか
そのまま青年部に移っても活動・聴聞を続けていましたが、自分の中で疑問が薄々と生じてきていました。

○周りを見ていると、聴聞が終わっても悔し涙を流す人は見当たりませんでした。「信心決定」まで求め抜こう!という叫びを、彼らはひょっとしたら死ぬまで繰り返していくのでは、という思いが初めの頃一瞬きざしましたが、そのときはまた別の考えに移ってしまっていました。(多くの学生たちが、「光に向かって頑張ります」とか「求めさせて頂けて幸せです」という声を発するのを耳にしていましたが、「救われた喜び」を語る学生が誰も居なかったのは、今から考えるとおかしいと思います)

加えて、信心決定できないのは自分達会員の懈怠な心が悪いので、真実お叫び下さっている会長に罪はない、という内容のことをしばしば聞かせられるので、絶えず教えの判っていない自分自身を卑しめられるように仕向けられ、その裏には「会員はどれだけ物心両面で犠牲になっても文句は言う資格はないのだ」というメッセージが込められているような気がします。

○親鸞聖人のアニメが1本15000円するのに、親や身内に買ったのはなぜかと聞かれて、うまく説明できず「お前は愚かだ」「大金を出して買ったのに見てもいないなんて」などと問責されて、その後一人になってみて、なぜ自分は勧められたとき、もっとよく考えた末に購入を検討しなかったのかと思って後悔しました。そしてそのことを2人の先輩に告げたら、どちらからも納得のいく答えが返ってこず、まるでアニメの値段が15,000円であるのは当然のような態度で、失望させられました。

また、アニメ第3部の上映会の際、ある会員の方が「また金儲けか」と発言して、高森先生がその会員を除名処分にしたことを聞いて、非常に恐怖を覚えました。しかし、「諸仏に守られる身の高森先生が、謗られたからといって、地獄行きといわれる会員を除名にするなんてずるいな」という思いも少しあり、引っかかっておりました。そういう思いがきざした自分は多分ひねくれているのに違いない、と当時は思ったことがありました。ただ、アニメに関しては、なるべくセンスとか、ストーリーとかに否定的な言葉が浮かんでくるのを恐れて、それらのことを思わないように自分の心を押さえ付けていました。

しかし、アニメの値段はあまりにも高額で、一般の人が軽々と買えるようなものではないと思います。愚かなことに、私はそのアニメを勧めることが光に向かうことになるのだと信じて、アニメビデオの頒布活動に、自分も出なければと言う思いで訪問販売に参加していました。親鸞会の活動の一環として行っているにもかかわらず、その事を伏せて人々にアニメを売っていると言うことがモラルに反するとは少しも思わず、人々を助けるための行動だと信じてやっていたのが本当に恥ずかしく思います。

今思えば、「光に向かう」活動をしていれば、その一体感と光に包まれている感覚が心地よいので、それ以上深く考えることは、色々な現実が見えてくるので、心の底では恐ろしくて出来なかったのだと思います。

○高森先生には無条件で服従しなければいけないと聞いて、背筋がぞっとしました。信心決定するのにそんなことまで必要なのかと思いました。

そして、ある女性が昔、高森会長が亡くなったときに自分も命を終わると言ったときに非常に感じ入った、というようなことを聞いたとき、私は驚いたものでした。

今思うと、この考え方が脳の隅々まで行き渡れば、自分は全く取るに足りない存在であり、自分の考えは破棄すべきものであるという、人間的な中身を丸ごと捨て去った存在になるより他なくなるでしょう。

大学時代にエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』について講義を受けたのですが、あの本についてもっと深く勉強しておくべきだったと思います。あれにはマインド・コントロールや、問題のある宗教団体での出来事にも少なからず当てはまる事柄が多く述べられていることをずっと後になって知ったからです。その中で、特にルターやカルヴァンの唱えたキリスト教教義についての文章や、ナチスと人々の自由との関係、「権威主義的性格」について述べられている文章は、会員の方には思い当たるところが多いだろうと思います。

親鸞会に入っていた頃、そこまで深く分析することが出来なかったのは、自分の属している会を批判して罪を作り、地獄行きの可能性が高まってしまうことに対する恐怖心のせいで精神的にストッパーがかかってしまい、ある種の思考停止状態になっていたからだと思います。

○教学講義では、覚えるようにといわれたプリントの文章を、間違わずにアシスタントの講師が覚えてきて暗唱したように見えても、高森先生に「違う」と言われたのを聞いて、私は内心「話が違うだろう」と思ったものです。それを別の先輩に言うと、「高森先生はそんな浅い気持ちで書かれたんじゃないと思う、だから何度も覚え直して聴聞のご縁にしたら良い」と返事されましたが、私は釈然としませんでした。

高森会長の教学講義ですが、あの講義は、会員が親鸞聖人の教えについて正しい言葉で語っているとしても、言葉の面であら探しをして無理矢理誤りを探し出し、否定すると言うことが多かったように思います。そうして、高森会長は親鸞聖人の御心を深く理解されたお方、会員はそれを判らない浅はかな懺悔すべき人間である、という思いを注入される、というのが毎回のパターンだったと思います。

そんなことがあっても、機関誌には高森先生の偉大さ・まばゆさをこれでもかという位賞賛する言葉が溢れており、他の情報に接することは夢にも思わなかったので、自分がまるで一人取り残されたように感じたものでした。周りの先輩達からは、「あれはおかしい」という言葉を聞くことができませんでした。

こういう事が重なるたび、それらを真面目に考えようとすると、ひどい精神的な混乱に陥ることが少なくありませんでした。周りの先輩達に相談しようとしても、まともな答えは得られないだろうという諦めもありました。(会にいた頃、高森先生賛美の嵐に一瞬だけ不自然さを感じました)

○ある時は「何でもいえる自由な組織」を目指されている、と言われ、ある時は「目標・会の方針に対して不満を持つことは恐ろしいことだ」といわれ、ひどく矛盾を感じたことがありました。会員はその時その時の都合でいいように使われる、高森先生に比べてごみ切れのような存在なのかとも、申し訳ないのですが、正直思ってしまったことがあります。

私の思いを述べさせて頂くと、こういう矛盾は教えの中にもあって、「善をしても後生の一大事解決に間に合わない」といわれる一方で、そのような身だと知らされるまで、命懸けで善に励めと言われることに混乱を覚えました。一生懸命善に励もうとしているのに自分は悪い者だと聞かされるのには、精神が分裂しそうな思いがしました。

○ 「御報謝(財施)」について、私は親に言わないようにしてそれに参加していました。
勿論、それが崇高な目的のために使われるのなら喜んで参加したい、という思いがありました。
しかし、やや懐疑的な会員から「世間が不況なのに、上は判っていてご報謝しろ、と言われるんだろうか」と言われた時、こんなにはっきりと言う人を珍しいと思いました。
でもすぐに私は罪悪感にとらわれてしまい、先輩にそのことを報告してしまいました。

でも後になって私も、
「会に対して不満を持つなとか、批判するものは除名だとか、そんな団体にお金をつぎ込むなんて訳が分らない」
と先輩に言ったとき、会員なら御報謝に不満を持つなといわれ、黙り込んでしまったことがありました。
どんな否定的なことも、献金制度に対しては自分達に口を挟む権利は無いのだろうかと訝しく思いました。

○「なぜ生きる」とか「光に向かって100の花束」が出始めたとき、世界に向かってアピールしようとしているらしいことを察しました。 (ただこれらが出版されたとき、会員が地区で(?)お金を出して貰ってそのお金で上記の本を何冊か買い込み、本の売上ランクを上げてベストセラーになるように工作する、という作戦が行われ、私も参加しました。今考えると奇妙な話ですが、私はこれも親鸞聖人のみ教えを伝えるためにやっていることなんだから悪いことではないのだという気持ちの方が、強く働いていました。)

しかし、学生部(学友部)の勧誘における問題点、会内部での金銭集め・活動の過激さ等の問題点を無かったことにして頬かむりして、これから世界で光り輝こうとしているなんてずるいな、と割り切れない気持ちになりました。(その当時は教えに対して文句が言えなかったので、親鸞会がワールドワイドな存在になりそうだと聞いてもある部分は納得していたのですが)

○高森先生が説法の中で、身体障害者にたいして差別用語を使ったときも、周りの人が笑っていたのには唖然とし、誰も疑問を挟む人がいないのにはおかしいと思いました。たとえ私がそれを先輩に指摘しても、「無常が迫っているのにそういう些細なことに捕らわれていてはいけない」と返されてしまいました。そういう高森会長の発言で「おかしい」と思うところが何回かあっても、「(善知識なのだから)目を瞑らなければならない」とか「批判することは居丈高になることだ」と無理矢理自分を押し殺し、親鸞会の会長に従う従順な会員となるよう、自分を鋳型にはめようとしていました。

3、何を思って親鸞会を抜けたのか
私は最後の数年間は、法話に参詣することも学生時代よりは少なくなり、人生を投げた不良会員になっていました。
しかし数年前に教学講義の受講資格に、

(1) 親鸞会の方針に対し不平不満を言わない
(2) 親鸞会を誹謗するものがあれば上司に報告する
(3) もし親鸞会を誹謗する者を見逃したときは、どんな処罰も覚悟する


というような項目が追加されました。
これが出来たきっかけは、親鸞会の御報謝制度を冗談で冷やかした人がいたから、と聞いたように記憶しています。
私は妙に息苦しいものを覚えました。

私はこの頃から、自分が段々心理的に追いつめられてしまったように感じ、親鸞会の会員は勿論(今思うと、なぜ彼らはすんなりと教学受講資格の変更を受け入れることが出来たのか、疑問に思います)、家族に対しても心を開くことが難しくなり、架空の話し相手を作り出して頭のなかで会話をすることが一つの習慣になっていました。

同じ息苦しさは、支部で親鸞会の高森先生の法話に参詣しなかったことで、講師と上司の会員から2人で問い詰められたときにも感じました。教学講義の受講制度のことについてまた信頼できると思われる別の先輩に聞くと、「仏法を聞くためと割り切れ」とか「自分を殺さなきゃいけない、でも暗い話じゃない」と返されたのですが、私はそこでも釈然としませんでした。

そのうち、インターネットをはじめとして、親鸞会の情報を目にするようになり、自分と同じことを考えていた人が沢山いることを知って、ぐっと開放された思いがしました。

みんな、親鸞会に対して問題点を指摘し、疑問・正当な不満を感じている人が決して少なくないんだということを知ってほっとしました。情報の取捨選択には苦労しましたが、品のない罵倒もしばしば見掛ける一方で、知性の溢れる正当な批判や冷静な意見もきちんと出されており、思わず目を見張るものがありました。

ネットの情報を見ていくうちに、統一協会について書いた「マインド・コントロールの恐怖」とか「統一協会 マインド・コントロールのすべて」を入手して読み、統一教会のやり口と私が親鸞会で体験してきたことが、驚くほど似ていると思いました。

特に似ていると感じた点をあげます:

○統一教会の前衛組織であるビデオセンターで、バックの組織を隠して勧誘すること=親鸞会の学友部で、最初は親鸞会のフロントサークルであることを隠して、哲学サークルと名乗って学生を勧誘すること。

○被勧誘員に対して、最初は自分達の組織について親への口外を禁止すること、初期においては新入生同士の横の繋がりを阻止するよう操作すること。

○後輩から先輩へのホーレンソウの徹底。

○思考停止・無条件服従が奨励されること。

あと、文鮮明の恩を強調して会員を活動に駆り立てるところも、親鸞会会長の恩を強調して会員を煽り立てようとするところも酷似していると思いました。

それから程なくして退会を決意し、退会は実現しました。

親鸞会が冷たい檻で手錠のように思え、私がこのまま親鸞会の教義に心理的に束縛を受けていても、私にとって良いことは起こるのだろうかと思い始めていたし、本や周りの事象を見てみますと、親鸞会で教えられる「因果の道理」や「難度海の丸太や板切れ」等などのタームで物事を処理するのにはあまりにもそれらが複雑で、単純ではないのだろうということに気付き始めていました。(「苦しみが次から次へとやってくる」のは本当だと思っていたので、そこはある程度納得していました)

キリスト教や、他の宗教についての本もざっと見ておく価値はあるだろう、と思うようになっていました。(キリスト教では因果の道理を認めないし、神に祈れば罪を許されるという教えが犯罪の増加につながると聞いておりましたが、キリスト教についての本を詳しく読んでみると、事はそう単純ではないだろうと思うのです。)親鸞会で言うところの「世間」のことを体験し、「世間」や自分とその周りの現実のことをもっと見、精神的に幅を広げることに魅力をより多く感じ始めていたのも、自分の中で退会を促すことになったと思います。出てみて、いかに親鸞会が自分にとって受け入れがたい団体かというのが感じられるようになりました。

ある先輩からは「気が狂いそうになっても親鸞会から離れられないのは、教えが正しいから」だとか、「阿弥陀仏の御念力」だとか、まるで恋人が赤い糸とつながれているような口ぶりで言われていましたが、今思うと自分の心をコントロールされ、批判・異質な声が一切シャットアウトされた中で誘導され、信じる心を作り上げられていただけだったのではないか、とすら感じるようになりました。第一、「阿弥陀仏の御念力」は、ダミーサークルで最初は「宗教とは関係ない」と嘘をついて入れられ、情報操作されないと届かないようなものなのでしょうか?

それから、機関誌での親鸞会賛嘆も、離れてみるとますます茶番臭さが目に付くように思います。親鸞会に籍を置いていた最後の方の期間、私は会内が異様な熱気を帯びていくのに反して、心が冷えていっていたのでした。それ以来、私はどの人に対する仰々しい賛美・神格化の言葉も、冷めて見るようになり、軽い人間不信の状態が出来てしまったように思います。

親鸞会にはいると、親鸞会教義以外の考え方に耳を傾け、吟味してみるという機会は非常に得がたくなります。周りの事柄を「人生の目的達成」に必要か不必要か、で分けてしまう考え方に身を委ねるようになり(またそうして処理することは非常に頭を働かせるのが楽になります)、物事の見方が薄いものになってしまうおそれがあります。

また私の場合、0か100かで物事を決めようとする傾向が強くなってしまったと思います。恐らく、上にあげたことと無関係ではないと思います。 親鸞会内で、信頼できると自分が思った会員に対しても、自分の生き様、家族のこと、社会的な関わりについて深いところまで話し合おうとするときには、そこに大きな障害が立ちはだかるように思います。まず高森会長まこと、親鸞会ありきで物事を考える場合が多く、思考をその枠からはみ出させることはなかなか難しいと思われるので、もし自分がそれらの事に疑問を持ち始めて心が揺らいでいる場合、上記にあげたような人とは話がかみ合わなくなり、失望を味わう可能性が高いからです。むしろ親鸞会に対して一定距離を保ち、ドライで醒めた考えを持つ人に出会えれば、その方が幸運でしょう。

私の経験から申しますと、誤って元々の身内との関係が事実上切り捨てられてしまっていたのと、親鸞会の人に対して心を開くのが難しくなっていて、お面を付けて過ごすような心持ちの状態が長く続いたことの後遺症で、周囲の人との対人関係の築き方にも支障が出てしまいました。

ですから親鸞会に入れば友達が沢山出来るだろうと期待を持たれた方には、予めその事を申し上げたいと思います。

あと、特に親鸞会への入会を勧められている方に申し上げたいのですが、親鸞会に入って仏法を求めることになってもお金や体力面、精神面での苦労が報われるかどうかは全く判らない、保証できないということを念頭に置いておかれることをお勧めしたいです。

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私が親鸞会に入ったきっかけ
大変興味深く拝読いたしました。ずいぶん前のことですが、わたしもかつては親鸞会で活動していたものです。思えば青春時代といわれる20代前半のすべてを親鸞会にどっぷりとつかって過ごしてきました。当時は会員のまだいない大学に乗り込んでは、その大学に新しく真実の風を吹かそう、と勧誘に燃えていましたし、当時の芦原の研修センター(現・顕真学院)で行われた合宿も思えば懐かしい思い出になっています。

まだ当時は高森先生も若くて、聴聞は月に10日以上はあったと思います。平日には普段の土日にはなかなかきけないようなお話もよくありました。そのため、勧誘の合間には食費も切り詰めてアルバイトしては旅費を捻出し、結果として学業が疎かになったために留年してしまいました。もちろんきちんと単位を取っていた学生会員も多かったので留年は自分の蒔いた種の結果だったといえます。しかし、人生の目的の達成のためなら、少々の犠牲は当然である、と当時は思い込んでいたのです。

私は大学生活において、親鸞会に出会う前は大学生活に対してむなしさを感じていました。いくつかのサークルに入っていたものの、どうも軽い感じがしてなじめませんでした。そして筋の通った、確固とした信念を欲しいとも思っていました。そこへ登場したのが親鸞会の学生会員の人々でした。彼らは非常にまじめで、信念からくる厳しさと優しさをあわせもっていて、人間的に尊敬できる先輩ばかりでした。当時の私は教えそのものよりも、先輩たちの人間性に惹かれていきました。

そして私もまた、彼らが深く尊敬し、崇める高森先生が無二の善知識であることを確信するようになっていきました。そして管理人さんが抱いておられたような「因果の道理は宇宙の真理か?」とか、「死後の世界の実在は本当なのか?」など、入会当初に持っていた多くの疑問はいつのまにか棚上げされ、きいていけばいつか知らされてくるのだろう、と思っていました。

激しい活動と深まる疑問
当時は親鸞会の教義を真実と信じ込み、自分も他人もみな死んだら無間地獄に落ちてしまうのを唯一救うことができるのが親鸞会である、後生の一大事を知らずに眠りこけている哀れな人々をたたき起こさなければならない、と思い込み、使命感に燃えていました。

しかし、私は外面的には活動をいくら頑張っていても、内心では無常観も罪悪感もさっぱり感じられない自分の姿もよく見えていました。「五欲」などの煩悩を感じたそばから、正当化して合理化しまおうとする情けない自分に気がついていたのです。例を挙げますと、「殺生が罪というのならば、抗生物質を飲んでバクテリアを殺傷するのだって罪になるのではないか?」「人間はウソをついていないと思っていても毎日毎日自分に対してウソをついているのではないか?」などの屁理屈を考えては、「結局は生きていく上で必要なもろもろのことを『悪』と決め付けても、いつまでたっても罪悪観は深まってこないのではないのか?」などと合理化しようとするのです。

当時の私は「全か無」的な極端な発想をしていました。一方では「人間は所詮善というものなどはできない」と教えられ、同時に、「善が、身をもってできないと知らされるまで一生懸命求めよ」と教えられます。最大の善は聴聞、ついでお勤め、法施である破邪顕正と教えられています。聴聞のためにバイト三昧し、勧誘・育成活動のために睡眠時間も削って頑張りぬきました。

この調子で毎日頑張っていたら結局は宿善が開発する前に過労で死んでしまうのではないか?しかしそのくらい励まなくては自分の罪悪は見えてこないはずだ、と信じ、毎日毎日最高の善といわれる破邪顕正という名の勧誘・育成に励んでいました。教学も頑張り、学階講師になり、(退会で叶いませんでしたが)本気で大講師試験の合格を目指していました。

当時、「善が身をもってできないと知らされる」ということは、は文字通り死ぬ気でがんばらなければ知らされるはずもなく、そこまで頑張らなければ人生の目的など達成できるはずがない、と考えていました。キリスト教会に乗り込み、原理研の人を捕まえては議論を吹っかけ、本願時に乗り込んでは破邪顕正し、僧侶に警察を呼ばれたこともありました。他の会員が誰もいない他学の学内でランダムに勧誘しては、話しこむ日々も続きました。

そんな高いテンションをずっと維持できるはずもありません。しかし、自分でも納得できない中途半端な状況で日々がどんどん過ぎていくのは耐えがたいことでした。「今日はなんとか全力で頑張れたのではないか?この調子ならば横の線を進んだのではないのか?」と思って少し喜べば翌日は反動で体力的にバテてしまい、疲れ果ててはリズムを崩してしまうといった感じで、やがて大学の講義でもアルバイトの家庭教師先においても、睡魔と格闘の連続が続くようになってきました。

そんな生活を繰り返しているうちに、やがて私は(いまから振り返りますと)ノイローゼあるいは「燃え尽き状態」になってしまったと思われます。授業にも出ず、活動もせずに自分の部屋でお聖教を読んではぼうっと考え事をしている日々が何週間も続きました。心配した先輩が精神科の受診を勧めましたが当時の私はそれを拒否しました。

そのあいだ、自分は親鸞会にこのままいても、いつまでたっても信心決定などはできないのではないか、などと考え続けていました。親鸞会では専任講師になって善知識に親近し、スーパーマンのような活躍をしてすら、信心決定したといって喜んでいる人をきかないというのに、ましてや縁の薄い自分ができるはずがない、と思うようになっていきました。

そして、退会へ
また、私は会の一般構成員一人ひとりは好きでしたが、一種の目標達成のノルマを背負い、密告を奨励し、退会者を呼び捨てにするなど、慈悲のあまり感じられない親鸞会組織に対しては最初から最後までどうにもなじめませんでした。

具体的には、もっとも高森先生に親近しているといわれる上級専任講師といわれた人々に対してそれほど「人徳」を感じませんでしたし、御同朋、御同行と同行の間に差別をつくることを嫌い、実質的な弟子たちから師匠と呼ばれる事を廃した親鸞聖人のみ教えなのに、どうして軍隊を摸した上下関係の厳しい組織が必要なのだろうか?とも思いました。

配慮と称して自分の身分や信心を偽ったり、新入生に対して親にウソをつくように勧めたりすることは、世間の倫理にももとる行為ではないのか?という思いもありました。

こういう気持ちが起こってくるのは、善知識に無条件服従する気がないからだ、信仰が進んでいないからだ、と会員さんはおっしゃるのかもしれません。しかし、0点か100点かの教えなのに自力の信仰が進んでいるのかどうかはどうやって見分けるというのでしょうか? また、弁論大会や顕正新聞の記事を読むにつけて、親鸞会では、高森先生にたいする服従心や勧誘実績をもって信仰の進み具合の目安にしているようにも感じられました。

学生部(学友部)において専任講師で上に立ち指導的立場に立つ方々はほとんどが多数の勧誘実績を挙げたかたがたでした。わたしのなかでは、どうにも親鸞会の組織のありかたは、親鸞聖人の理想とは違っているのではないか?という気持ちは日増しに強くなっていきましたが当時はそれを上手に頭の中でまとめることが出来ませんでした。そして、顕正戦の前に、全国の学生たちが大集合し、鉢巻を締めて顕正戦における勝利を熱く誓い合う姿を、まったく醒めた目で見る自分を感じていました。

同時に、いつまでたっても仏教の出発点にも立っていない自分がどうして信心決定などできるのだろうか? 単に絶対の幸福という世界にあこがれているだけなのではないのか? いくら活動しても聴聞しても、全然自分の深い罪悪は見えてこない。これは自分が無宿善であるからに違いないのではないか?

果ては、当時の私は「無間地獄に落ちるのが自分だとして、死んで脳と感覚器官を失ってしまって、何が苦悩を感じるというのだ?その主体は現在の『自分』ではないかもしれないではないか? 現に現在の自分は過去の自分を覚えていないではないか。しかもそれらを証明することは誰もできないのだ。そして、無間地獄といっても所詮は有限でないのか。」という屁理屈でもって、自分を納得させ、やがて親鸞会から完全に離れてしまいました。

親鸞会をやめてから
私は、しばらくの間、自分が人生の落伍者、あるいは人間失格者のように思えて勉学にも戻れず、無気力な状態が1年ほど続きました。しかし、やがて親や同級生の助けなどもあり、なんとか無事に大学を卒業することができました。そして卒業後についた仕事においては、予想もしないほど上司にも恵まれ、トントン拍子で仕事 がうまくいくようになり、まさに順風満帆といえる生活が長く続きました。

やがて、さらに十年近くたち、いろいろな縁があって再び「死」について考えるようになってきました。止めていたお勤めを再開するようになり、念仏を称えるようになって再び親鸞会の聴聞をしたいという気持ちが芽生えてきた頃、偶然インターネットによって「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や「ハトの会(閉鎖)」、あるいは「家族の絆(現・親鸞会被害家族の会)」、「十派一絡」という親鸞会について考えるサイトがあることを知りました。

そのなかで、驚いた事に、退会者のなかでも親鸞会教義を仏教学という広い視座から非常に緻密かつ客観的に分析しており、冷静に議論される方々がいらっしゃいました。彼らの立場は各々異なっておりましたが、そのなかの議論は常に会員よりも退会者の主張のほうに分があるように思えましたし、親鸞会の主張は失礼ながら同じ事を繰り返すテープレコーダーのように感じられました。

また、ダミーサークル問題など、親鸞会の組織上における問題点と親鸞会教義が密接な関連があることも知りました。ここに至り、私ははじめて親鸞会教義を冷静に眺め、相対視することができるようになったのでした。ネット上において種々の情報に関して、時間をかけて熱心に提供してくださった方々に対しては、この場をお借りして深く感謝いたしたいと思います。

今、わたしは、まさに管理人さんがおっしゃっておられるように、「これは、やめた者にしか分からないのかも知れませんが、不思議な安堵感と、開放感に満ち足りています。」

現会員さんたちが今後、親鸞会を、そして勧誘などの組織的活動を続けられるのも自由です。しかし、人生は一度しかありません。もう一度、限られた情報のなかで思考停止ばかりして自分と向き合うことから逃げてばかりおらず、棚上げしていた問題に対して、真正面からむき合ってみませんか?

そこには「不思議な安堵感と、開放感に満ち足りた」新しい発見があるかもしれません。

そして私自身も管理人さんと同様に、今では若い時分において親鸞会に出会い、自分の人生について、いろいろ考察を深めることが出来たことに対しては深く感謝しています。この貴重な経験は、現在活かされておりますし、今後の人生においても活かされていくと確信しております。

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親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。
早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない。
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目次
1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに
現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い
親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由
こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて
管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験
(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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勧誘において仏教を聞いているという自分たちの立場を明確にしないことを改善したいと思っています。
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現役の幹部の方からのメール
管理人です。

ある学友部の現役幹部の方とメールのやり取りを続けてきましたが、その方の意見を聞かせて頂き、いろいろ考えさせられることがありました。

今まで、いくら意見をのべても、親鸞会会員から、誠意ある回答が得られず、親鸞会の幹部の多くは、「親鸞会が間違っているハズがない」と思っているように感じていましたが、「このような幹部の方もおられるのだなぁ」と少し驚き、嬉しくも思いました。

あらためて申しますが、私がサイトを立ち上げた目的は、親鸞会を感情的に非難する為ではありません。「親鸞会など早くつぶれてしまえばいいのだ」などとは思っていません。

親鸞会と出会い、明るく喜びの人生になった人や、自殺を思いとどまり、今は元気に暮らしている人を私は何人も知っています。それらの人にとって、親鸞会との出会いは救いだと思います。

一方で、親鸞会の活動により、苦しい思いをしている現役会員さんや、元会員さん、また、その家族や友人の方々が、数多くおられます。ですから、私は親鸞会に、問題あるべき部分を自覚してもらい、よくなってもらいたいと思い、今まで意見を述べてきましたし、これからも親鸞会に訴えかけてゆくつもりです。

現役会員の方々にとって、親鸞会について、おかしいと感じることがあっても、会の中で批判の声をあげるのは、極めて難しいことだと思います。そこで、この方の意見で、是非、親鸞会に届けたい部分がありましたので、投稿を依頼したところ、快く承諾して下さり、文章を送って頂くことが出来ました。

この幹部の方の意見を聞くことにより、同じようなことを考えている学友部員の皆さんは、「こんなことを考えていたのは、自分だけではなかったんだ」「自分が悪い訳ではないんだ」と、救われることと思います。

また、何よりも講師部の幹部の人たちには、学友部の現役幹部の方が思っていることを知り、今後の活動のあり方を、よくよく考えて頂きたいものです。

では、以下に送られてきた文章を掲載させて頂きます。

関東の学友部の現役幹部です。

本サイトを含め、親鸞会に対する関連サイトを読ませて頂きました。

話題になっていることを私なりにまとめてみますと、教義面と布教面の2つに大きくわけられると思います。この2つについて、教義面に簡単に触れてから、私の信仰上の立場を明らかにし、その上で布教面(特に学友部)について、私の意見や感想を、以下のようにまとめ、申し上げたいと思います。

1.信仰上の立場
2. 学友部の勧誘における言動について

1.信仰上の立場
まず、教義に関して因果の道理は大宇宙の真理だと論理的に納得したのではなく、宗教的に信じているのだということですが、その通りだと私も思います。

第一印象として、長年、親鸞聖人の教えを聞いている人たちの中に、そのことを自覚していない人がいるんだなというのが正直な感想です。

お釈迦様は仏様ですから、仏様が教えられたことにわからないことがあるのは当然で、親鸞聖人でさえ「仏意測り難し」と仰られることもあります。猫に小判、豚に真珠で私たちに智恵がないからわからないのです。

ですから、私は三世因果の道理、真実の自己、そして、後生の一大事を説かれたお釈迦様のみ教えを信じ、その後生の一大事が平生の一念で解決できることを明らかにされた親鸞聖人のみ教えを信じ、さらに、それらの方々が教えられたことを正確に教えて下さる方が高森先生であると信じ、後生の解決を求めている親鸞学徒です。

2.学友部の勧誘における言動について
以上のことを踏まえた上で、特に学友部の勧誘方法

1.「聞けば必ず納得できる」という言い方について
2. 親鸞会であることを告げないことについて
3. バインダーについて

の3つについて話を進めていきたいと思います。

1.「聞けば必ず納得できる」という言い方について

まず、「聞けば必ず納得できる教え」という表現は、正確に言えば「親鸞聖人の教えを聞けば、必ず救われる教え」だとか「真実の仏教を聞けば必ずまことだったとハッキリ知らされる教え」だという意味で使っています。しかし、そのことを理解せずに使っているとしたら問題だと思います。

ただし、このような言い方は「仏説のすべてを人間の智恵で理解できるかのような誤解」を与えかねないので、個人的には別のもっといい表現はないかと考えています。

2.宗教法人浄土真宗親鸞会であることを最初に告げないということについて

これは私も問題だと思っています。

社会的モラルとしても、哲学サークルではなく、仏教(または親鸞聖人)から人生の目的を学ぶサークルだと言うべきだと思いますし、個人的には何のサークルかと聞かれたらそのように最近は答えています。

勧誘において少なくとも仏教を聞いているという自分たちの立場を明確にしないことを改善したいと思っています。どんな言い訳をしても仏教・親鸞聖人の教えと聞けば宗教というくくりになると思います。

宗教という言葉に悪いイメージがあるのならば、人生の目的があることを明らかにされた真実の宗教があることを伝えていかねばならないのが、親鸞学徒の使命だと思っています。

3.バインダーについて

バインダーも少々問題があると思います。他人から与えられた言葉で、しかも承認済みとなったら、新2年生や3年生の一部は、意味もわからずに言ってしまいます。話をするとき「お前の言っていることに根拠はあるのか」と、常に自分自身に問いただすことは重要なことだと思います。

やはり自分の言うことに責任を持つ意味でも、自分の言葉で話をするのがよいと思います。

以上、少々長くなりましたが、幹部として学友部で活動している経験から、私の意見を述べさせて頂きました。

勧誘方法や私たちの言動が問題となって、親鸞聖人の教えを聞くことができない人があったならば、それは大変残念なことです。難しい問題ではありますが、批判を受け止めて改善していくのが幹部の責任だと思います。

そのような努力をせずにいるのは、「楽に流されている」とか、「勇気がない」と取られても仕方がないように思います。

失礼しました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
何も知らない学生を騙して、人数を水増しするようなせこい真似は止めて頂きたい
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私はある大学の大学院の者です。私は浄土真宗親鸞会と関係をもちました。そして1,2ヶ月彼らと行動を共にしましたが、結局、私は彼らの考えについていけなくなり、サークルをやめました。 少し長くなりますが、私と親鸞会とのいきさつを述べさせていただきます。

今年の1月私が通学路を歩いていた時、私と同じ大学に通っていると思われる2人の学生が私に声をかけてきました。彼らは私に「僕たちはなぜ生きるをテーマにしてサークル活動をしているんだ。」と言ってきました。私は哲学が好きです。また就職活動における自己分析のために人生について同世代の人間と語り合うのは大いに結構と思い、私は彼らの話に付き合いました。話が盛り上がったところで、私は大学の食堂に連れていかれました。

そこには親鸞会の会員(当時はサークルのメンバーだと思っていた。)が数人いました。彼らの中にあきらかに私たちよりも年上の人物がいました。彼(以下便宜的にAさんとします)は自分の身分をあかそうとはしませんでしたが、私は直感で明らかに彼は大学関係者ではないことを悟りました。その彼が私に後日話があると言いました。

翌日、私は昨日と同じ食堂で彼と話をしました。彼はおもむろに親鸞聖人について語り始めました。昨日までは豊臣秀吉がどのこうの、川端康成がどうのこうのと歴史上の偉人について話が中心だったのに、今回は打って変わって、浄土真宗の話に偏っていました。私はその時このサークルは仏教について考察するサークルなのだなと素直に思いましたが、嫌悪感は抱きませんでした。私は仏教が嫌いではありませんし、当時親鸞会の存在など微塵も知らなかったのですから。

最後に、彼はいついつに講演会があるんだけど、来ないかと誘ってきました。講演の場所も大学の近くでしたので私は迷わず、はいと答えました。その後、私は昼休みにちょくちょくと彼らの会合に参加しました。彼らは非常にあいそよく私に接してくれて、私は決して悪い気持ちはしませんでした。

そして講演会の日がやってきました。私が会場に入って驚いたのが、人数の多さでした。なんと私の大学だけではなく、他大学の学生もたくさんそこにいました。そして、もう一つ驚いたことに、中年の講師が現れると、みんなが即座に正座をし、真剣に(私には熱狂的にすら見えました)彼の話に耳を傾けたのです。このシーンには、さすがの私もその異様さにものおじしました。

彼の話が終わると、会員の一人が今月のいついつに富山の高森顕徹先生の講演を聴きに行くことになりましたと発表しました。私は彼の名前を知ってました。なぜならば、彼の著書「なぜ生きる」を何度か読まされたからです。もちろん、私はその時彼が親鸞会の会長であることは知る由もありませんでしたが。私は会員に富山に行くように誘われました。私はすぐさま断りました。わざわざ富山まで行って聴くような価値のある講演とは思わなかったし、経費もやたら高かったからです。会員はすぐに私の意志を尊重してくれました。

講演が終わった後、鈍感な私もさすがにこのサークルはただのサークルではないことを薄々感じ取りました。家に帰って、すぐさまインターネットで親鸞、高森顕徹で検索をかけてみました。すると、親鸞会の名前が出てきました。ついでにこのサイトも発見しました。そして私の頭の中に、親鸞会=オウム真理教のような極端なカルトではないがそれに近い何かは確実に含んでいる組織とインプットされました。しかし、あくまで鈍感な私はあのサークル=親鸞会とまでは結びつけることができませんでした。

ある日、私はふと会員の一人に「このサークルは親鸞会と関係がありますか?」と質問しました。彼は「関係あるちゃあるけど、直接は関係ないね。」と言い、私をはぐらかしました。今日、私はこのサークルが親鸞会であることをはっきりと悟ったわけですが、この時彼が嘘を言った理由が未だに分かりません。

講演後、私は昼休み以外の時間帯にしばしば呼び出されるようになりました。研究や就職活動で忙しい中、私は正直うっとしいという気持ちが増大してきました。しかし、お人よしの私は断りきれず、いつも会合に参加しました。

そしてある日、Aさんが合宿に参加しないかと言ってきたのです。私は以前の講演の時と同様に断りました。しかし、彼はやたら執拗に私を合宿に誘おうとしてきたのです。この執拗さは例えて言うならば、たちの悪い押し売りのそれそのものでした。私はなんとか彼の勧誘を断りました。私はこの出来事でこのサークルにかなり嫌気をさしてきましたが、それでも土日や就職活動のない日は会合に参加し、部室にも何度か立ち寄りました。

そして私が確実に彼らと決別したいと思う瞬間がやってくるのでした。その日は、私はいつものように彼らの部室に立ち寄りました。Aさんが私を迎えてくれて、あるビデオを私に見せてくれたのです。それは富山での高森顕徹さんの講演でした。私がビデオを見終わった後、彼は「今度こそ富山に行ってくれるよな。」と私に言ってきました。その時の彼の態度は普段の愛想の良さが微塵も感じられず、むしろ脅迫めいた物言いでした。他のメンバーもよそよそしい感じでした。私はこの雰囲気がとても恐ろしく感じましたが、また丁重にお断りしました。

彼は全然私の言い分に納得せず、絶対に行かせるようなことを何度も口にしました。私は適当な理由をつけて、その場を退出しましたが、次に彼に会えば、間違いなく富山に連れていかれそうです。その晩、私は再びインターネットで、今度はより詳細に親鸞会について調べてみました。すると、私が部室と思っていたその場所は、親鸞会学友部の部室だったのです。遅すぎますが、私はあのサークルが親鸞会であることを確信しました。

メンバーは本当に良い人たちばかりです。だからこそ、私は2ヶ月という短い間でしたが彼らといて充実感を味わうことができました。しかし、人の都合も考えず、度々会合に呼び出すことや富山に行けとしつこく迫ってくる様にはとてもついていけません。だから、私は結局、サークルをやめました。

最初に断っておきますが、私は、親鸞会は消滅するべきだとか彼らの行動の全てが間違っているとは微塵も思っていません。日本国憲法では、集会・結社の自由及び信教の自由が認められています。無差別テロや拉致監禁等の反社会的な行動にさえ出なければ、彼らは大いに自分たちの考えや行動原理を主張してもかまわないと私は思っています。

しかしながら、なぜ生きるについて考察しているサークルだと、いかにも宗教団体とは無縁な文化系サークルを装って、何も知らない相手を勧誘したり、いつまでたっても自分たちは親鸞会の一員だと名乗らなかったりするのは、いくらなんでも卑怯だと思います。

これは彼らだけでなく、日本の社会そのものが悪いのかもしれません。日本では宗教団体は嫌われる傾向があります。宗教団体だけでなく、特異的な思想をもつ集団も嫌われます(もちろん、テロリストや過激派など国家の治安を極端に乱す集団は許されるべきではありませんが)。

日本人はしばしば外国人に思想がないと批判されます。私はその通りだと思います。日本では明朗快活、高いコミュニケーション能力、グローバルなものの見方ができる等がどの集団の一員になるとしても重要視されます。まず、明朗快活、
高いコミュニケーション能力についてですが、これらは対人関係をうまくこなすための手段であり、思想とは言えないでしょう。

グローバルなものの見方についてですが、これは一種の思想と言えるかもしれません。ところで、グローバルなものの見方とは一体何でしょうか?

人それぞれ意見があるでしょうが、例えば、アメリカのように海外に事業を積極的に展開し、市場を広げようとする思想のことを言うのならば、それはアメリカの受け売りであって、日本の思想とは言えないでしょう。

私が言いたいのは、日本は猿真似しかしないとかそういうことではありません。一般大衆が、グローバル化をなんとなく良いものと思い込んでいることを憂いているのです。

まずは、グローバル化の是非を問うべきでしょう。グローバル化に反対の人間あるいは集団がいても良いはずです。グローバル化を最も積極的に推進しているあのアメリカでさえも孤立主義という思想があるのですから。

日本人の大半はこの議論をすっとばします。その次に、もしグローバル化に賛成ならば何をもってグローバル化というのかについて討論するべきでしょう。アメリカのようにやれば良いのだというのであれば、先ほど言ったように猿真似でしかないでしょう。

まあ、大半の人間は、議論うんぬんの以前の問題で、マスコミやエコノミストによる積極的な宣伝によりグローバル化をなんとなく良いものと思い込まされているのが関の山でしょう。この日本人のあいまいさはグローバル化についてだけでなく、至る所で見受けられます。これは小泉内閣による構造改革に対する日本人の考えにも言えることでしょう。身近なところで言えば、とりわけ、最近の若者に多い、みんながやるから俺もやるという態度は思想のない日本人の典型的な行動パターンだといえます。

さて、話を親鸞会に戻します。親鸞会のやり口についてですが、さっきのグローバル化を例えに用いるならば、親鸞会幹部はマスコミやエコノミスト、私をはじめとする何も知らない学生たちは一般大衆ということができるでしょう。親鸞会幹部は親鸞聖人の教えはええもんやで、ええもんやでとひたすら唱え続けます。そこには、議論の余地がありません。

何も知らない学生、とりわけ宗教に対して今まで無関心だった学生の幾人かはなんとなく彼らの教えがいいものだと信じ込むようになるでしょう。私はサークルのメンバーである学部生の1,2年生の何人かと何度か話をする機会がありました。彼らは親鸞会の教えを何となく自信無さげに私に教えてきました。彼らが自信無さそうにみえたのは、もちろん私が年上なので気兼ねしていたということもあるのでしょうが、まだ親鸞会の教えを何となく良いものだと思いこんでいる漠然とした段階だったでしょう。

しかし、3年生以上の人間の大半は態度が違いました。親鸞会の教えを完全に良いものだとみなす人間が少なからず存在しました。何となく良いという考えは、その一線を越えると完全に良いという考えに徐々に変遷していきます。第2次世界大戦時、日本人は大きな過ちを犯しました。日清、日露戦争の勝利で浮き足だった日本人は、外国との戦争は何となく良いものだと思い始めるようになったのでしょう。その考えが徐々に変遷していき、狂信的な軍国主義を生み出す背景となったのだと思われます。

戦後60年たった今でも日本人の意識はあまり変わっていないのかもしれません。マッカーサー元帥は当時日本人の精神年齢は12歳だと明言しました。同じ日本人としてくやしいですが、今でもやはり日本人の精神年齢はあまり変わっていないのかもしれません。

最後に、今後の親鸞会の有り方について私なりに考えたことを述べたいと思います。

親鸞会は今後文化系サークルを偽って、何も知らない学生を騙して勧誘して、学友部の人数を水増しするようなせこい真似は止めていただきたいと思っています。私も騙された人間のうちの一人です。私は宗教に関して偏見をもっていませんし、むしろ大いに興味をもっています。だから、あのサークルは世界の色々な宗教についてああだこうだと議論を交わせる場だとばかり思っていました。

しかし、実情は親鸞聖人一辺倒、例えるならば、金太郎飴のように同じ考えしかもたない集団でした。そこでは、議論の余地がありませんし(なぜならば、彼らの理想はすでに完成されたものだからです。) 、親鸞聖人の悪口でも言おうものなら、全員からバッシングをくらったでしょう。私が言いたいのは、彼らに色々な考えをもってもらいたいということではありません。人生あるいは宗教について色々と論じることができるようなサークルであるように偽って、学生を勧誘しようとする態度が許せないのです。

私の大学の学生課では、サークルを装った親鸞会の勧誘が問題となっていると最近聞きました。彼らは姑息な手段を使わず、初めに親鸞会を名乗り、自分たちはこうこうこういう考えをもっており、このように行動しているとどうどうと宣言してほしい。そしてその考えに同調した人は正式な親鸞会のメンバーになればいいし、同調できなかった人は親鸞会をやめればよいと思います。私が親鸞会と縁を切った理由は一文化系サークルと自分たちを偽って活動している卑屈さに嫌気がさしたのと、彼らの一直線な考えに理解を示すことができなかったからだと自分を納得させています。

長くなりましたが、最後まで読んで頂き、有難うございました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
むしろ「人生を棒に振る」と確信しました。
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はじめまして。私は大学に通学している学生です。あるきっかけでこのサイトとの御縁がありましたので、拝見させていただきました。

私は2月程前にサークルに勧誘されました。大学のキャンパス内を歩いていると声をかけられたのですが、最初は社会調査的なアンケートに対しての返答でした。しかし、次第に社会的な批判の話が始まり、社会の矛盾性を強調しだしました。そして「人生の目的」について話し出すようになり、「自殺してはいけないのは何故か?」という説明を受けました。

この時点でまず不思議に思ったことが、その説明されてる方の言動です。話を聞いていると、「あれ?その部分さっきも聞きましたよ・・・」ということを何回も繰り返し話し出すのです。それも初めて話すかのように、浦島太郎の話や夏目漱石の話等をまるでロボットのように繰り返すのです。会話というよりも一人トークを延々と聞いている感じでした。そして、その日からゼミが始まったのですが、それ以降私は毎日缶詰状態で仏法を聞くようになりました。(仏教に関しては何の説明もされなかったので、これに関しては後に気付きました。)

仏法の説明は非常に分かりやすいものでしたが、それはあくまでも知識として入ってくる程度のものでした。仏教の根幹である因果の道理、六道輪廻、信心決定、必堕無間等の単語は覚えることは容易です

しかし、説明できないものは仏教にはないという割には、肝心要のその語意について質問すると別の用語を持ってきては同じことをクルクルと説明するだけなのです。「それで結局どういう意味なんですか??」と嫌悪の念を覚える程同じことをロボットのように繰り返すのです。

そして、最終的に弥陀の本願という言葉で締めくくろうとするのです。意味不明なので、「それでは具体的にどういう現象なのでしょうか??」と聞いても「それは経験者にしか解らないのだよ。」と答えます。「解らないのに何故、そのように悟った者の様な言い方、核心に満ちた言い方をするのだろう??」と私の心は嫌悪感を超えてむしろ悲しくなりました。

私が余りにも質問攻めをするもので相手は大変困っていました。というのも、仏法の話を聞いているだけであれば私も黙って聞いていることができますが、「神や占い、手相は迷信、邪教でありこれに関与する者は皆地獄に堕ちる」という説明をするのです。キリスト教もイスラム教も迷信、邪教だと言い、皆地獄に堕ちていくんだと聞いた時にはさすがに反論してしまいました。あげくの果てには「親鸞聖人の教えこそが仏教である。仏教の中でも浄土真宗(浄土真宗総本山を否定しているところを見ると親鸞会)以外は皆、必堕無間である。」と言い出すのです。

「一体、何様のつもりだ!!」怒りの念がこみ上げて来るのを抑えることができませんでした。私にはキリスト教の友、イスラム教の知人もいます。私は仏教に身を置く人間ですが、他宗教の方たちをどうすればあのように否定できるのか理解に苦しみます。宗教の一つにたまたま自分が属しているにしか過ぎないのですから。

親鸞学徒こそが救われる存在だと思い込んでいる方達がお話されると、思わず「井の中の蛙」という言葉が浮かんでしまいます。彼ら親鸞学徒は、世界中に広まっているキリスト教をも高台から見下ろしている気持ちに浸っているのではないでしょうか??あらゆる物を否定することによって、自分こそがNo1だぞと思い込みたい雰囲気が漂っているのが見てとれます。非常識にも程があります。「そんなに周囲を否定していないと不安なの?」と思わず声に出しそうになるくらいです。

私は宗教の規模は問題ではないと考えますが、どのような宗教であれ、それで人が幸せなのであればそれでいいと感じます。「アフリカの民族は皆地獄に堕ち、エスキモー族も皆地獄に堕ちる。何故ならば、かなしいかな彼らには親鸞聖人の御教えとの御縁が無いからである。」この言葉には驚かされます。世界にはキリスト教やイスラム教意外にも民族的なアミニズムが沢山存在しますし、各地域に応じたはるか昔からの知恵というものがあります。

「親鸞学徒万歳!!」と言わんばかりに周辺に必堕無間を叫んでいる姿は痛ましい限りです。他者に地獄に堕ちてもらわないと安心できないのでしょうか??そうしないと、自分が選ばれた者のように感じることができないのでしょうか?そのような狭い思考を続けるといずれ全てのものをも失いかねません。時間、労力に資金、そして自分そのものを。

彼らが今後とも全世界を否定して進んでいくのであれば、いつしか転ぶだろうと感じます。浄土真宗もあくまでも宗教の一角でしかないのだと感じます。それをしっかりと認識しないと危険です。親鸞会に入ってその方たちが幸福なのであれば、それはそれでいいでしょう。しかし、私の目には誰も幸せそうには写りませんでした。必堕無間、必堕無間と叫びながら必死に救われようとしがみついている姿のようにしか見えませんでした。

私はこのサークルで色々学ばせて頂きました。しかし、それらは皆机上の空論というものです。「この道では決して人生の目的は達成できない」と私は感じます。むしろ「人生を棒に振る」と確信しました。今日このサークルから抜けるつもりでいます。何故ならば、これは私にとって正しい道ではないという直感がはたらいたからです。

このサイトにお会いでき感謝しています。それでなければ私もズルズルと納得のいかない学生生活を強いられていたでしょうから・・・最後に彼らの行為は人を傷つけるだけではなく、自らを破壊する行為であるということに気づかなければ大変なことになるでしょう。特に学生は社会的にも内面的にも色々吸収するチャンスで溢れていると思います。広くこの世界を見ることができないと、狭い狭い自己に気付いた時にはもう手遅れかもしれません。その時にはもっとその教えにしがみ付こうとするでしょうから・・・この中毒的サイクルから脱しない限り、いつまでたっても自立した一人の人間として社会に貢献できないでしょう。

いつまでも子供のままではいけません。大変長い文章になってしまいましたが、読んで頂けると大変嬉しいです。色々書きたいことがあるのですが、感情が先走ってしまいどうも上手く仕上げることができません。申し訳ありません。また、色々コメント頂けると幸いです。

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無駄なことなど決してありません。
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元会員です。
管理人様より私の体験に基づく投稿をと勧められたので、少々書いてみることにしました。
今回はまず最初に、親鸞会の教義について簡単に書きます。
親鸞会の活動が時として妄信的になるのは、その教義に理由があると思うからです。
あまり親鸞会を知らない人が親鸞会を理解する手がかりになればと思います。

次に、教義に基づく活動として出てくる勧誘について書きます。
すでに多くの人が勧誘方法については詳細に書いていますので、あまり具体的なことは書きませんが、勧誘時の様々な問題点と親鸞会の教義との関連について少々ふれます。
現会員さんの中で、私の問題提起を心に留めて下さる方がいらっしゃれば幸いです。

最後に、親鸞会を辞めた人や辞めようと思っている人たちに、私なりのメッセージを書かせていただきます。


【親鸞会の教義について】

親鸞会で教えられていることについては、ご存知ではない方もいらっしゃるでしょう。
ですので簡単に教義を説明しておきます。

一言で言うなら、親鸞会の教義とは、
「全ての人は阿弥陀仏の本願によって救われる」
このことです。
もう少し詳しく書くと、
「阿弥陀仏という仏様が、全ての生きとし生けるものを絶対の幸福に救い上げると約束している。だから我々は救われるのである」
ということです。
これだけの説明で納得できる方がいるとは思えませんが、もし納得した方がいらっしゃったら、あなたは信心決定しています。おめでとうございます。
ほとんどの方はなんのことやらわからないと思いますが、これが親鸞会の教義の根幹です。

多くの会員さんが思っているような、極めて論理的な教義ではないことは言うまでもありません。
肝心要の“阿弥陀仏の本願”は、論理でわかるものではなく、体験してみなければ理解できない性質のものだからです。
しばしば、「親鸞会の教えは論理的である」との主張を聞きますが、私はそんなことはないと思います。
論理的な教学は、教えが正しいと思い込むための手助けに過ぎません。
ただ単に「全ての人は阿弥陀仏の本願によって救われるのだ」と言っても、何のことやらわからないどころか、それが本当のことだなどとも思えないので、「本当かもしれない」と思わせるために、お釈迦様や親鸞聖人の努力によって、論理的に組み上げられているのが教学です。
たとえるなら、そのままでは飲みにくい薬をオブラートに包んでいるようなものです。
体験するまで理解不能な阿弥陀仏の本願があくまでも根幹で、論理は本質的なものではありません。
ですので、私は教義についてアレコレ指摘する気はありません。
教学的な知識もありませんし。

「阿弥陀仏の本願」が真実かどうか、それについてここで議論するのは無意味でしょう。
それこそ信仰の問題であり、信心決定して真実だと知った人もいれば、そんなもの信じられるかと頭から相手にしない人もいます。
一応、誤解のないよう付け加えておきますが、
「阿弥陀仏の本願を体験すること」=「マインドコントロール等で信じ込んだ」
ではありません。
思い込みや洗脳といったものとはまた別の、極めて宗教的な体験です。
体験しないとどうにもわからない類のものです。

ここでわかっていただきたいことは、親鸞会の教義の根幹は、
「体験するまで理解不能な阿弥陀仏の本願」
であるということです。
体験するまでは本当かどうかなんてわかりません。
実際、信心決定するまでは「阿弥陀仏の本願なんて本当にあるのだろうか?」という疑念は消えないと教えられています。
そういう意味では、信心決定していない人は、幹部であろうと一般会員であろうと、心のどこかで、意識的あるいは無意識的にしろ、
「本当に親鸞会で活動を続けていていいのだろうか?」
という疑いを抱えています。
この疑いの心が求道心を超えると、会を辞めていくことになります。
ですので親鸞会においては、この疑いの心を可能な限り抑え込んでいけるよう、組織的にも個人的にも努力をするわけです。

たとえば教学もその一つです。
他の宗教と議論になった際、論理的に論破できたなら、
「やはり親鸞会の教えは正しいのだ」
と思うのはごく自然なことでしょう。
もちろん、他宗教を論破したからといって、阿弥陀仏の本願が正しいと証明されたことにはならないのですが。

高森会長への忠誠が賞賛されるのもそうです。
阿弥陀仏という理解不能な存在は信じられなくても、目の前で必死に説法する人のことは信じられます。
「声がつぶれるまで叫び続けるなんて、本当のことでなければできるはずがない」
高森会長を通して、阿弥陀仏の本願が真実であると確認するわけです。


【親鸞会を信じていますか】

しばしば誤解されますが、
「信心決定すると疑いの心が消える」ということと「疑いが消えたときに信心決定する」のは違います。
親鸞会でもそれは違うことであると教えられているはずですが、どうもこの誤解は根強いのか、
「疑念こそが信心決定を妨げている最大の要因である」
とされる雰囲気があります。
まあ確かに、疑念を抑えきれなくなれば脱会するしかないので、当たらずとも遠からずではありますが、組織的に疑念を抑えようとすると、どうしてもマインドコントロールじみた手法になってくるのは否めません。

例えば親鸞会会員以外との関わりを極力無くそうとするのも一つでしょう。
阿弥陀仏の本願のことなど頭から信じていない人と話をすると、
「やっぱりそんなものないんじゃないだろうか・・・」
という疑念がわき上がって来る可能性があります。
だから排除する。
阿弥陀仏の本願が真実であると本当にわかっていたら、排除する必要などどこにもありません。

大学での勧誘時に、組織名を隠して活動するのも、疑念の裏返しです。
「仏教だ、宗教だと言えば、アヤシイ団体だと思われるに違いない」
つまり、自分たちは「アヤシイ団体」に見えるという自覚があるわけで、本当にアヤシクないとわかっているのであれば、
「我々親鸞会はアヤシクなんかない!」
と堂々と名前を挙げて主張すればいいはずです。

親対策、兼部対策などもあるようですが、何故に親や他の同級生を頭から「反対勢力」と想定しているのでしょうか。
「仏教のサークルだと親が知ったら反対してくるに違いない」
「他のサークルの友達が知ったら、アヤシイ宗教だと言われるに違いない」
経験的にそう判断したのかもしれませんが、事実無根の反対ならば、堂々としていたほうが余程好感が持てます。
まさか、
「どうせ我々はアヤシイと思われるにきまってるんだ・・・」
などと卑屈にはなっていないと思いますが、
「真実の仏法は簡単にはわからない。誤解する人がほとんどだ」
と主張するのも少々思い上がっているように見えます。

隠したり、故意に誤解させるような表現でごまかしたりせず、正々堂々と、
「我々は親鸞聖人の教えを学んでいる真面目な宗教団体である」
ということを何故主張しないのでしょうか。
小細工を弄して信用を失うよりも、時間はかかっても社会的な信用を得ることのほうが、親鸞聖人の教えを広めるには有効だと思うのですが。
何故批判されるようなことを敢えてやり続けるのか、理解に苦しみます。

かつて私が学生だった頃、新入生の勧誘についての会合で、
「今までのやり方では(大学当局や父母に)敵視されるばかりです。反対されないような方法を考えるべきではないでしょうか」
という主旨の発言をしたところ、たちまち幹部講師の方に叱られ、
「どんなやり方をしても反対されるのだから、非難など恐れずにやらねばならない。もっと反対が厳しいところがある」
ということで取り合えげられませんでした。
後にその大学での勧誘は、大学側の取り締まりが厳しくなり、一切行えなくなりました。
私は先のことを考えて提案したつもりだったのですが、わかってもらえなかったようです。

真実の仏法をあきらかにしようとすると、非難の嵐が起こるものだと、親鸞会でそんなふうに言われているのを聞いたことがあります。
もちろん、いわれない中傷を受けることもあるでしょうが、世の中そんなに頭の悪い人たちばかりではありません。
「親鸞会に対する批判者は悪者だ!」
と短絡的に決め付けず、何故批判されるのか、批判されずに進める道はないのか、さらには好意的に認められるにはどうしたらよいのかを考えてもらえたらと思わずにはいれません。
そういう自己浄化能力が親鸞会にあるとわかれば、誰もアヤシイ団体だとは思わないはずです。
アヤシイ団体だという誤解がなくなることは、親鸞聖人の教えを広める上でも大いに役立つはずです。

私には、問題視される親鸞会の勧誘方法の全てが、
「自分たちはアヤシイんじゃないだろうか」
という疑いの裏返しのように思えてなりません。
自分の心にある疑いの心を、よく自覚すべきです。
自分自身の求道にとっても、それはプラスになります。


【脱会について】

親鸞会においては、脱会者のことを、
「敗残者である」
と呼んで非難するという話がちらほら聞こえてきます。
私自身の経験から考えると、これは少々極端な例であると言わざるを得ません。
そのような非難は、会員間で行われるものではなく、例えば幹部の立場にある人や、機関紙などの中での表現に限られているように思われます。
普通の会員が、脱会者のことを非難することはあまりありません。

むしろ、辞めていった人たちのことを語るときは、どこか寂しそうに、かつ後ろめたそうな表情で、
「xxさんか、どうしてるかな・・・。またご縁があるといいけど」
というようなことを言う場合がほとんどです。
余程の問題を起こさない限りは敵視まではされません。
実際、それまでの間は仲良く一緒にやってきた仲ですから、手のひらを返したように非難するというケースは珍しいことでしょう。

では何故、幹部や機関紙は厳しく脱会者を非難するのでしょうか。
それはもちろん、残っている人々が雪崩式に脱会するのを防ぐためです。
繰り返しになりますが、親鸞会会員は誰もが、信心決定するまでは心に疑いを抱えています。
親しい人が脱会したとなれば、その疑いの心がむくむくと頭をもたげかねませんので、上の立場からは押さえ付ける必要があるのです。
ましてや幹部クラスの会員が脱会した際にはそうせざるを得ないのでしょう。
残る会員に与える影響は大きくなりますから。
脱会者は親鸞会の教えに疑問を持って辞めたのではなく、脱会者本人に問題があったのだと、そう言わなければならないのでしょう。

もしかしたら、非難を口にする幹部の方自身も、疑念を感じてしまうことがあるかもしれません。
公然と脱会者を非難すれば、自分自身は簡単には引き下がれなくなりますから、自分に鞭打つ気持ちで非難している人もいることでしょう。
あくまでも心に余裕がないための非難であり、本心から脱会者のことを非難しているのではないと、私は思いたいのです。
少なくとも、私自身が脱会者について語るときには、そういう気持ちでした。

もしも脱会を考えているが非難が怖いという方がいらっしゃるなら、その非難はあなた自身の人格を否定するものではありません。
上記の通り、残る会員の疑いに根付く非難ですから、必要以上に怖がらなくてもいいと思います。

脱会する際に最も悩むのは非難ではなく、人間関係ではないかと思っています。
例えば新入生のときに勧誘されて、大学3年、4年まで活動していたような場合、親鸞会関係者以外に友人が居ないという状況がしばしば有り得ます。
疑いを抱く環境を徹底的に排除するのが親鸞会ですから、気が付けば自分の友人は全て親鸞会会員という人が多いはずです。
大学卒業後に親鸞会や関連会社に就職した人はさらにその傾向が強くなります。
そうした人は会員同士で結婚したりもしますので、友人どころか家族、職場の同僚も含めて親鸞会会員です。
こうなると、たとえ脱会しようと思っても、ほぼ脱会は無理でしょう。
まあ、だからこそ、ある程度の歳になると会員同士の結婚が推奨されたりもするわけですが。

会員だった当時、私も何人も脱会したいという人の対応をしてきました。
私自身、疑いの心はいっぱいでしたので、そうした人の気持ちは理解できていたつもりですが、脱会したいという人が必ず言っていたことは、
「私はxxさんのことが大好きなんです。お別れするのは嫌なのですが・・・」
毎日のように顔をあわせて、一緒に全国各地に出かけて、寝食を共にしていれば、別れがたい気持ちを持つのも当然です。
ましてや親鸞会の外には親しい友人もいないような人の場合は、なおさらでしょう。
不安もあるでしょうし、寂しかったり、悲しかったり、あるいは怖かったりもするでしょう。
そういう隔絶された人間関係に意図してしてきたのですから。
私自身も多くの人を、そうした環境に導いてきました。
今は申し訳なく、思います。

人間関係が不安で脱会をためらっている方へ。
確かに辛いことだとは思いますが、あなたの気持ちを理解してくれる人は必ず居ます。
例えばご両親、昔の友達、あるいはあなたと同じように悩みながら脱会した人など、決していつまでも孤独が続くわけではありません。

今まで親鸞会で費やした時間は何だったんだと、無気力感に捕らわれる方もいらっしゃるかもしれません。
無駄なことなど決してありません。
親鸞会が真実ではなかったとしても、その全てが悪意に満ちているわけではありませんから。
役に立つことを学んだり、身に着けたりしたはずです。
反面教師にすることすらできます。
前向きに考えましょう。


【さいごに】

親鸞会についてよく知らないという人には、多少なりとも親鸞会についてわかっていただければ嬉しく思います。
極端なカルトでもなければ、極めて真面目で健全な宗教でもない、中間に親鸞会は位置していると思います。
私としてはかなり好意的に書いたつもりですが、親鸞会について批判していることには変わりはありません。
願わくば問題点を見直し、健全な団体になってくれれば、こんな投稿文を書いた甲斐もあります。
また、親鸞会から脱会しようと悩んでいる方や、ご家族が会員で心配している方、脱会したものの孤独に苦しんでいる方の、多少なりとも励ましになればと願っております。

長文にお付き合い下さりましてありがとうございました。

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仏法も、世法も曲げる親鸞会
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先輩からいつも「親鸞会は、親鸞聖人の御教えを正しく伝えている。また、法律に触れるようなことはしていない。だから新興宗教とは違うのだ」と言われてきました。

しかし、この度の親鸞会の公開法論がネット上に公開されていることを知り、読んでみました。これを読んで非常に疑問に思うところがあり、「なぜやめたのか」に投稿させて頂こうと思います。(法論…仏教の議論のこと)

親鸞会・公開法論1
親鸞会・公開法論2
親鸞会・公開法論3

公開法論1は、F田講師が「善知識に会っていない者は異安心である」と、U田氏に法論を申し込んで始まったようです。F田講師は「弥陀の呼び声を聞くための絶対必要条件が、人間の言葉を“聴く”ことだ」という主張をされた結果、S尾氏にその点を追求され、答えられなくなってしまったようです。これはT森布教局長にも質問状が送られましたが、1ヶ月たっても返答をなさっていないようです。

公開法論2は現在進行中です。F田講師が、「救われたら『本当に救われたのだろうか』という思いは絶対に出てこない」と主張されて始まったようです。しかし、それに対するS尾氏の質問には答えずに、数十もの質問をS尾氏に対して行われました。これでは逃げておられるように見えます。F田講師は自らの間違いを認めておられるような気がするのですが、いかがでしょうか?

また、親鸞会では御本尊を退会時に返却しなければなりませんが、これが「浄土真宗の教えに反する」と指摘されました。これには反論できなかったようです。

公開法論3は、T森布教局長が他人に「誓約書」を書かせるのは、親鸞聖人の教えに反する、とS尾氏から申し込んだものです。根拠を挙げて間違いを指摘されたT森布教局長は、これもまったく答えることができないようです。親鸞会のトップの方が、教えに反すると指摘され、何の反論もせず、放置していてよろしいのでしょうか?

親鸞会では、この公開法論を読まないように指導しているようです。親鸞会が勝った法論は本まで作って読ませているのに、負けたものは隠すというのでは、何と言うか、戦時中の大本営発表と変わらないような気がします。

また、公開法論2においては、親鸞会が組織ぐるみで違法行為をしていることが指摘されています。しかも、F田講師が「訴えたければ勝手にどうぞ。」と開き直っておられるようで、読んでみてなんと言うか…唖然としました。また、公開法論3では、T森布教局長が、預かったお金を返す条件に「無関係な内容の誓約書を要求する」という行為をなされ、これが「違法行為ではないか」と指摘されています。

さらに、真偽は定かではありませんが、講師部員が、会員を狭い部屋に7時間も軟禁して暴力を振るったとか、会員の家に押しかけて夜中の3時半まで居座って帰らなかったとか、会員のプライベートな情報を漏洩したとか、会員を婚約者と別れさせるために、事実無根のスキャンダルをデッチ上げたなど、信じられない言動が多数指摘されています。

このように、親鸞会ではトップの方を始めとして、法律を遵守しようという精神があるのか非常に疑問に思いました。親鸞聖人の教えも法律も守らない団体が、親鸞聖人のお名前を看板としていることに、強い違和感を覚えてしまいました。

これ以上、聖人のお名前を汚すことはやめて頂きたいです。

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「やめていく人たちは仏教を分かっていなかったのだ」と言われますが本当にそうでしょうか
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私は現役の会員です。支部(一般会員の集まり)に所属してずいぶん経ちますが、かつて所属した学友部での活動を振り返ると、やはりその活動は本来のあり方ではなかったと感じています。

学友部(学生部)は発足当初は純粋に大学生のみの有志による集まりだったと聞いています。仏教の教えを学び求める団体として対外的にも認知されていましたし、教えそのものに誇りをもって堂々と活動していました。それが、いつの頃からか仏教を聞き求める集まりであることを隠すようになり、大学生活の情報や講義情報などを売りにして新入生を勧誘するようになってしまったのは実に悲しいことです。

「宗教に偏見のある時代だから、より多くの人に仏縁を結んでもらうためには仕方のないことだ」と言われますが、教えが真実であるという自信があるのなら、もっと正当なやり方もあるはずです。種々の新興宗教がやるようなことをして欲しくはありません。

また、大学に入りたての学生といった人達のみを対象として、どこかのアパートの一室だけで話をするのではなく、教えの内容そのものをもっとオープンに誰もが議論できる形で提示することは出来ないものでしょうか。学術的で公正な議論ならば、大学も門戸を開いてくれるでしょう。親鸞聖人の教行信証も当時の学術書の形式で書かれたものでした。確かに、真実そのものは証明も反証も出来ませんし、信仰と学問とは相いれない部分もあります。しかし、仏教が真実である「可能性」を世の中で一般的に議論されるやり方に則って明らかにしていくことも出来るはずです。高い教養を持つ人々からの論難にでもしっかりと答え得る知的誠実さが今、必要とされているのだと思います。また、教えを前面に出した活動にこそ誇りが生まれるのではないでしょうか。

以前、4月頃だったと思いますが、学生に話をしてほしいと頼まれ、仏教の話をしようと入念な準備をして行ったことがあります。しかし、実際に行ってみれば「話はいい」「10分くらいでどんな企業でどんな仕事をしているかを説明してほしい」といったことを告げられ、まるで「お前の話ではなく肩書に価値あるんだ」と言われたようでショックでした。ある学生が長々と私の肩書きについて説明し始めましたが「やめてくれ」と思わず遮っていました。まるで私が社会的地位を求めて今の会社に入ったかのような紹介で心外だったのですが、私の職業がなぜそこまで問題になるのでしょう。

学友部では講師部や親友部(事務職員)といった会の職員に対して一般の職業を「世間の仕事」と一段低く見る傾向があります。にも関わらず、新人に対してはことさら有名企業の社員や弁護士、公認会計士といった肩書をもち出したがるのは、やはり社会的権威の助けを借りようとする意識の表れなのでしょうか。世間の荒波にのまれ社会的責任を背負いながらも真面目に求道している職業人を心から尊敬してのことならばいいのですが、「朝から晩まで世間の欲に振り回されている」などという表現を今まで何度も講師の口から聞いてきました。

教え以外の様々な要因によって少しでも相手を安心させたい、というのは分かりますが、もっと仏教の教えにこそ自信をもつべきだと思います。また、スポットを当てるべきなのは、目立たないところで人知れず頑張っている人々のはずです。

私自身が学友部の活動によって仏教と出会い、また過去に活動に関わってきたことを考えると、このような意見を述べるのは胸中複雑な思いがあります。しかし、今の布教のやり方によって教えに対してまで不信を持つ人が多くいる現状を見るにつけ、こういう形であっても声をあげなければならないと思った次第です。おそらくは、仏教を分かっていない一会員の意見、と受け取られるのでしょう。しかし、常に対話していかなければならないのは仏教を知らない多くの一般人だということを忘れないで欲しいと思います。

そして、もう一つ言いたいことがあります。

この「なぜ私は親鸞会をやめたのか」というサイトにも反論サイトがあるようですが、そこに書かれている内容は会員である私が見てもとても誠実さが感じられるものではありません。上からものを言うような態度や批判者への個人攻撃に終始する姿は、同じ会員として恥ずかしい限りです。種々の非難に対して、事実と異なるのならば本当の事実を、理由があってやっていることならばその理由を一つ一つ丁寧に答える誠実さを見せて欲しかったと思います。内輪の人間にだけ通用するような独特の論理を振りかざしても、誰の心に響くというのでしょうか。

それにまるで、会の方針についていけない人間は仏教を聞く資格はない、と言っているかのようです。「やめていく人たちは仏教を分かっていなかったのだ」と言われますが本当にそうでしょうか。伝える側の責任、伝える側が変えていかなければならないことも非常に多くあると思います。

仏教を分かっていない私のような人間が意見すること自体問題視されるかもしれません。しかし、現場の声というものもあるはずです。以上、何かのきっかけにでもなればと思って書かせて頂きました。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
初めて、マインドコントロールの項を本当の意味で「読む」ことができるようになりました。
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数年前のことです。

教えは正しいと思っていて、後生の一大事も不安でしたが、自分の心がやりたくないと思うことを続けていくのは精神的に本当にきつく、心の中は、まともに求道しているとはとても言えない状態でした。

こういうときは講師の方に相談しなければならないと思いましたが、以前に真面目に相談したときに「楽がしたいだけだ」ときつく言われたショックがあり、結局相談には行けませんでした。

以下に、自分がなぜ「やりたくないと思う」かを何点か挙げます。

自分や家族の感覚では毎月実家(あまり遠くない)に帰るのが普通なのに、実質的に今後ほぼ全ての週末に、自分が実家に存在していることが不可能であること。仏法を抜きにしても、そういう感覚の人が周りにいなかったのも辛かったです。(おそらく淘汰されてしまっているからだと思います)
後輩に付き合ったり先輩会合があったりで、「下宿に寝に帰る」状態が続いていくこと。
「勉強=悪」という空気があり、流れに任せていると勉強をする時間がないこと。(これは時期や地方によって差があると思います)
部会や御法話を聞いていても最近は全く面白くなく、聞くことが苦痛になってきたこと。
わざと勘違いさせながら「ウソは言ってない」と言うことがありますが、このこと自体は講師の方がされるのだから必要なことなのだと思っていました。しかし、人間として心が痛む行為でもあるはずなのに、その様子を見せる人がおらず、非常に気分が悪かったです。
あるとき、もう無理だと思って、部室に行かなくなりました。部室へ行くにも(精神的な意味で)体が動かなくなったのです。体が動かなくなるのを待っていたようなフシもありました。
仏法を捨てたいとは思いませんでした。自分としては、幹部会合には参加せず、月に一回程度実家に帰るくらいの求め方で続けるのがいいと考えていました(もちろん相談して許可を得る必要はあると思います)。しかし、そういう求め方は学友部では実質的に不可能だと思いました。もしかしたら可能だったかもしれませんが、相談する勇気はありませんでした。

行かなくなると、当然空き時間がたっぷりできるのですが、家族に悲しい思いをさせ、今でも詳細を知らずに心配していること
自分の好きな学問や趣味の能力が全く錆び付いてしまったこと
これらのことが、今までよりヒマな分だけ思い起こされて嫌な気持ちになっていました。趣味や学問は丸太や板切れだと自分に叩き込んできたので、やる気も出にくいです。これは今でもそうです。

その後、何度か御法話に参加するなど、色々あって時間が過ぎました。

数ヶ月前に就職活動で、ある会社の説明会に行きました。自由な社風を謳っていて、社員はみな明るく、やる気に満ちていました。皆が論理的に物事を考え、全社員が自由に意見を出し合っていると言われました。しかし、説明会の様子では、社長やその周りの人に意見できる空気ではなかったです。

会社のためにと、自発的に残業や休日の勉強をするような空気もありました。「宗教みたい」と言われるそうで、2ちゃんねるでも酷く叩かれていると言っていました。

これには、自分の頭で考えて行動しているから宗教とは違うと反論していました。最先端の仕事ができるからお金は問題でないと言い、なかなかかっこいいですが、しかし給料は他より高いことを示していました。

その説明会の場で、親鸞会にかなり似ていると感じ、真実の教えを説く団体と、この変わった会社が似ていることに少し驚きました。その当時は、少しだけ意外に思っただけです。今にして思えば、似た構造のマインドコントロールだと思います。もっとも、似ているのはこの点だけなのだと思います。あと、この会社は、別にどこかの新興宗教が噛んでるというわけではないと思います。

数日前の夜、上に書いた家族のことなどを考えてなかなか眠れないことがあり、それで、起きた後に久しぶりに誹謗サイトを見てみました。(自分の感覚からすると「誹謗サイト」という呼び方でした)

元々、誹謗サイトは大学2年のときに試しに見て嫌な気持ちになり、それ以来ずっと見ないことにしていました。見ない方がいいと言われていたのもありますが、当時は共感する意見が見つけられなかったというのが大きかったです。

家族に心配をかけることをするのは真実を伝えるためだし、凡夫の智慧にのらない仏法を、科学で証明できないのも当然です。教えが真実ならマインドコントロールと呼ばれてもいいと思いました。自分も仏法を聞きたくないと思っていましたが、誹謗サイトは親鸞会を叩くばかりで見るべき内容がないと感じていました。

しかし、この「なぜ私は親鸞会をやめたのか」のページをリンク先と共に読み進めたところ、親鸞会に入ってから今までの間で初めて「後生の一大事は確かにあり、親鸞会にいて助かるかどうかはともかくそれ以外では絶対に助からないから、親鸞会で仏法を聞くしかない」という考えが崩れました。本当にありがとうございます。

今までにも、教えが正しいか否かを真剣に考えたことは何度もありました。以下のような理由で、正しいと結論を出していました。やや感情が入っているかもしれません。

高森先生に関するエピソードや、人物としての様子の違いから、普通の人ではない。
信頼できる先輩や講師が「この方の話はすごいと直感した」などと言っている。
教学講義で、教学力のある講師がシドロモドロになっているのを見ると、恐ろしいまでの教学力があるようだ。
信心決定していなければ、微妙な言葉の違いを判定したり、御文を現代語に意訳するなどできないと思う。
因果の道理で、善因悪果・悪因善果が絶対にないというイメージがつかないが、善因善果・悪因悪果という「傾向」があり、大象5匹くらいの力はあるという実感がある。
そもそも昔から自分という物質に意識がある理由がわからなかったが、仏智を得ればわかるのではないか。仏智のようなものは存在するのではないか。
教学を勉強すると、理論的で体系的、しかも一念や自力などの難しい概念もあり、とても嘘だけで構築する人がいるとは思えない。(これが一番大きかったです)
「高森顕徹氏の獲信体験」の項目で少し驚いて、更に親鸞会の教えが親鸞聖人の教えの通りではないという今まで考えたこともなかった内容を読んでいきました。しばらく親鸞会の人と会っていなかったというのもあったと思います。

これで、親鸞会の教えが正しくないと仮定しても矛盾はないかもという気持ちになり、そこで初めて、マインドコントロールの項を本当の意味で「読む」ことができるようになりました。

おそらく、現会員でこのサイトの文章の意味がわかる人はとても少ないと思います。これだけわかりやすく書いてあるのにです。

以前の自分では、マインドコントロールの話を読んでも、「教えが真実だから問題にならない」「正確に一人でも多くの人に伝えるにはそうするのがいいと高森先生が判断されたのだからネット上の意見など気にする必要はない」などと考えたと思います。

目の前の景色が変わりました。

気持ちが楽になった面もある一方、今まで「仏法のための苦労は無駄にならない」と自分に納得させてきた、家族のことや過ぎ去った時間の長さを思う辛さが、少しだけ大きくなりました。

最後に。部室に行かなくなってから今までの心の変化だけを書いたつもりが、意外と長くなってしまいました。今までこういうことを言う場がなかったので、気持ちの整理をするいい機会になりました。感謝します。
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私も納得できないことを棚上げしたまま、みんなと一緒にやる活動の雰囲気に酔っていたのだと思います。
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はじめまして。

今まさに、会を辞めようとしている学生部(当時)からの会員です。

「なぜ私は親鸞会を辞めたのか」「続・なぜ私は親鸞会を辞めたのか」どちらも拝見いたしました。このところ考え悩んでいたことが、分かりやすい文章で書かれていて、“誰かが私の頭を整理してくれたのか?”という気分でした。

私も納得できないことを棚上げしたまま、みんなと一緒にやる活動の雰囲気に酔っていたのだと思います。と言っても、酔い切れない部分があり、とても幹部にはなれませんでしたが・・

幹部ではなかったせいか、私自身に人徳(?)がなかったせいか、青年部(当時)へ移籍してからは、誰から聴聞に誘われるでもなく、会費を納めていればそれ以上何も言われない状態でした。聴聞しないでいると、当初感じていた疑問がまた出てきて、親鸞会以外の仏教の図書を読んだり、親鸞会を批判する図書を読んだりして、「やっぱり『親鸞会一筋』はおかしいんじゃないかな?」と思うようになりました。それでも、会から離れてしまうのは怖い気がしていました。

でも、パソコンを買い換える為にメールを整理していて“会の人からメールが来るのは、会費納入の督促だけだなぁ”と気付き、あまりにも空しくて退会を申し出たところ、“正ご本尊を返して下さい”とだけ連絡がありました・・・やっぱり空しかったです(笑)

なぜ正ご本尊を返却しないといけないのか、は疑問ですが、“なぜ”を棚上げしてきた今までと同様、黙って返却しようと思っています。

私も学生時代に「宗教的信仰」であることを理解し、もっと宗教として仏教を学べたらよかったのにな、と思います。

自分の思ったことだけをずらずら書き連ねましたが、自分が退会しようとするときに、このようなサイトが公開され、自分の考えがよりまとめられたことありがたく思います。

サイトに対して、いろいろな批判や反論もあるのかも知れませんが(あるのでしょうが)、私はこのサイトに感謝しています。

ありがとうございました。

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親鸞会の教義が正しいとも間違っているともいえませんが、結局は「信じている」に他ならなかったということです。
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私がいた頃には、おおよそこのようなものはなかったと思いますが、最近はこのようなサイトができたのですね。私も、長いこと親鸞会に対しての疑問が拭いきれませんでしたが、なんとか決着を付けて現在に至っています。

私も(学友部出身者の多くの人がそうだと思いますが)大学入学時に親鸞会の人に勧誘されたのが最初でした。元々、人生に対して虚無感を抱いていたこと、そして第一志望の大学に合格できなかったことなどから更に厭世的になっていた時期でした。

私は、いわゆる「人生の目的」を求めていたのかも知れません。

勧誘を受けて話を聞いたとき、私は宗教団体だと直感しました。しかし、滅多なことは無かろうと、親鸞会の会合に参加するようになったのです。

私は、周りの先輩からはどうせすぐにやめるだろうと思われていたようです。実際、大学入学当初はお金もなく、親鸞会の会合に参加することさえままならない状態でした。しかし、それでも会合だけは出続けました。

「合宿で人生の目的はハッキリする」という先輩の言葉に釣られていたのです。

「ハッキリする」を「達成できる」と勝手に解釈していた私は、新歓合宿終了後に、大きな失望を味わうことになりました。

しかし、自分の理解不足であったと、また会合に足を運ぶ日々になりました。また、高森先生の法話に参詣さえすれば、信心決定できる、と思っていました。

しかしそんなはずもなく、いつしかその思いは「親鸞会に入会すれば」に変わっていきました。

そうやって、ちょうどいくら追いかけても捕まらない影を追いかけるように、私は親鸞会の説く「無碍の一道」を追いかけ続けました。

入会もし、先輩にもなり、学階大導師になり、学階講師になり・・・・

しかし実は、親鸞会教義の中枢にある「後生の一大事」を頭の上で理解したのは、何年も後になってからでした。それまでは、説明することはおろか、理解すらもしていませんでした。

なぜ、こんな私が続けて聞いていたのか。それは端的に言えば「絶対の幸福」「無碍の一道」の世界への憧れでした。この程度でよくも親鸞会との縁が続いたものだと思います。

活動にも追われましたが、結局私は大学を留年することなく卒業しました。そして、卒業してからも親鸞会の法話には参詣し続けました。

しかし、「高森先生こそ真実のお方」「真実の教え」「先生こそ唯一の善知識」として、毎回のように報謝の行としてお誘いのみがやたらと強調され、会合では幹部が「高森先生の御心」と絶叫し、「決死報恩」を叫ぶ。

そのような空気が支配的であり、私のような者は存在が許されないのではとさえ思いました。今思えば、心の距離は埋めがたいものでした。

「この人たちは、なぜこんなに親鸞会一筋になれるのだろうか?」会員だった当時でさえ、そのように思ったことはしばしばでした。

もちろん、死の問題は放ってはおけない。早く無碍の一道に出させてもらいたい、そうは思っていました。

しかし、会員の皆さんは自覚がないと思いますが、何でもかんでも高森先生と同じになろうとしているような傾向が、親鸞会にはあるように思えてなりません。

教えの面でその通りだと思いこむことは仕方ありません。しかし、この世どう生きるかにおいてさえも同じようになるのは違和感を感じていました。

一例を挙げれば、言葉遣いです。また、仏教の教えそのものでなく作法などにおいてもそれは言えます。

すべては、「高森会長が絶対に正しい」と思いこんでいるところから来ていたのだと思います。

マインドコントロール、と言われると殆どの会員は血眼になって否定するでしょう。しかし、おそらくすべての会員の入信の過程において、何らかの形でマインドコントロールはなされていたと思っています。

私も「絶対の幸福」の確証もないまま存在だけを信じていましたので。

現在は当時と違い、離れて客観的に親鸞会を見つめられるようになりました。そのときに思うのは、親鸞会の教義が正しいとも間違っているともいえませんが、結局は「信じている」に他ならなかったということです。

元々、親鸞会への入会も「しなければ信心決定できない」との思いからでした。しかし、そのことについて後悔はしていません。時間が掛かりましたが、私は私なりに親鸞会との関係を処理してきたつもりです。

親鸞会にいることが喜びである人も少なくないでしょう。そういう人たちを、私がどうこう言うつもりはありません。

ただ、もし「親鸞会こそ唯一絶対の真実の団体」との信念から離れられず、しかしながら親鸞会が真実の団体であるかどうか、迷いが生じて苦しんでいる人がいるとすれば、そんな人にこのようなサイトは必要だろうと思うのです。

頑張ってください。

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自分だって親鸞会が真実の団体だと確証出来るわけじゃないのに、どうしてこうも無批判に受け入れているのだろうかと思ったのです。
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初めまして。

2ちゃんねる、という有名な掲示板から、このサイトにたどり着きました。

私も、大学生の時に入会し、10年以上親鸞会で幹部として活動してきました。
このサイトに掲載されている「必殺育成法」は実際に目にしたこともあります。
「引き離し対策」とか、さりげなく一年生の金銭状況を聞き出したりとか、懐かしいなぁと思いながら読んでいました。

あの時は全体部室に行くと、ホワイトボードに各大学の勧誘人数とか合宿参加人数とか入会人数が一覧になって書いてあり、私の大学はなかなか目標に達せず、「決意文」とか「誓約書」とかよく書いてました。
そういえば、夜中まで部室に残って担当講師と作戦を練っていたりもしました。

もちろん高森先生の御法話はどんなことがあっても休みませんでした。
アニメや高森先生の著書が出るたびに募られる御報謝にも当然の如く参加しました。
多分費やしたお金は全部で一千万円を下らないと思います。
教学聖典も全部暗記して、大導師試験や講師試験も突破しました。

自分で言うのも何ですが、会の中では結構模範的な「親鸞学徒」だったと思います(笑)。
あなたが幹部なら面識もきっとあるでしょう。
本部会館で親しくお話しをしたこともあるかも知れません。

私は「講師部員や幹部で信心決定している人がいないのでは」という点は余り気になりませんでした。
ただ、疑問を解消したわけではないのに、いつしか「親鸞会の教義が大宇宙の真理」であり、「高森先生が唯一絶対の善知識」と思いこむようになったのは、本当にその通りだと思いました。

思えば毎日活動が忙しく、友人は親鸞会の人ばかりで、高森先生の著書とか顕正新聞とかばかり読んで、いつも法友通信とかで「先生の御説法に感動しました!」的な話ばかり接していたわけです。そして、いわゆる職場の人とかは「どう生きるかしか知らない世間の人」というフィルタを通してしか接してなかったので、価値観がまるで親鸞会に染まっていました。

活動や教義に疑問が出てくれば「私の理解が足りないせい」だと思っていましたし、高森先生の御法話に感動出来ないのは「自分が真剣に聴聞してないから」と常に自分を責め続け、十年以上一時も心休まる暇がありませんでした。

私が退会することになったきっかけは、部屋で休んでいた時に、エホバの証人の人が布教に来たことです。2人ひと組のとても知的な女性が玄関で熱心に私を勧誘しようとしました。私は邪教に迷った可哀想な人だと思い一生懸命説得しましたが、2人の信念は揺るぎませんでした。

2人が去ってしばらく、あんな知的な人がどうして邪教に迷うようになるのか、なんであんなに一途になれるのか、と真剣に考えていました。すると、実は自分だって親鸞会が真実の団体だと確証出来るわけじゃないのに、どうしてこうも無批判に受け入れているのだろうかと思ったのです。そして、かつて自分が1セット10万円の親鸞会のアニメを一件一件売り歩いていた時のことが思い出され、あの2人と自分の姿が完全に重なりました。

その後は、マインドコントロールに関する本を読みあさりました。特に統一教会脱会者の手記など、自分のたどってきた心の道程とあまりに似すぎていて、怖くて途中で何度も本を閉じてしまうほどでした。

学生時代は勧誘方法や厳しい活動に疑問を感じましたし、社会人になってからは、あまりにも頻繁で高額な募財とか、高森先生に対する無条件服従とか、親鸞会への批判に対する粛正規定とかに、確かに疑問は感じていました。しかし一時はそういったことに疑問を感じても、その度に何かしら理由を付けて自分を納得させていました。そして何時しか何の疑問も抱かずに唯々諾々と従うようになっていました。

あのころはそれが信仰であり、仏縁であると思っていました。質素な生活をして親鸞会に財施をし、休む間もなく活動する人はみんなから賞賛され、まさにそれが信仰の表れだと思いました。そうしたことに疑問を持つ自分は仏縁の浅い人間だと感じていました。

自分の心はコントロールされていたんだなと思います。しかし当然親鸞会の中にいれば、自分がマインドコントロールしていたのだとは思いませんし、されているとも思えないでしょう。

いま思うと不思議なことですが、私も親鸞会だけが唯一絶対の真実の団体であり、それ以外はみんな邪教で、親鸞会を離れた人生など意味がないと本気に思っていたのです。だから親鸞会を離れるのには大変な勇気が必要でした。でも今親鸞会を離れてみると、まるで迷いから覚めたように、あの時の自分はどうかしていたと思います。

親鸞会にいたときは「人生は苦しい」といった情報ばかり与えられていました。それは否定しませんが、実は「人生って素晴らしい」って言っている人も沢山います。そうした人の言葉を「人生が分かっていない」とかってに決めつけて、あたかも親鸞会にしか生きる価値がないように思いこんでいました。

そうした無理な心の状態からようやく解放されたように思います。だから、「不思議な安堵感と開放感」という気持ちは、私にも実によく分かります。

私も一つの信仰として親鸞会に生きる人達を否定はしません。実際に会員の友人もいますし。でも自分自身はもう二度と親鸞会に戻るつもりはありません。それが今の正直な気持ちです。

私と同じような部分に疑問を持って退会された方がおられるのを知って、シンパシーと言えばいいのか(笑)、このサイトの存在価値は大きいと思います。これからも頑張ってください。



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わき出してくる疑問も、「まだまだ教えが分かっていないからだ」ということで、必死に押さえていたからと思います。
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たまたまサイトを見させてもらいました。

私も共感する部分が多く、このようなサイトを作られた行動力に感心しております。

私は大学生の間、親鸞会で活動していました。部長にはなりませんでしたが、新規大学開拓に乗り出すときに副部長として開拓に当たっていました。

思えば、一年生の頃はいろいろな疑問があったのに、いつの間にか親鸞会で教えられていることは正しいのだと思っていました。わき出してくる疑問も、「まだまだ教えが分かっていないからだ」ということで、必死に押さえていたからと思います。

しかし、あるときまたその疑問が強くわき出したとき、仕事などで大変だったこともあったと思います。もうこれ以上自分の気持ちがついて行けないと思いました。

あれからずいぶん経ちますが、離れてみてほっとしています。

もう昔のように戻る気はありません。

ほかにも、いろいろな矛盾に苦しんでいる人がいると思います。そういう人に見てもらいたいと思います。

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親鸞会の活動方針や、周りの人が悪いのではなく、自分が悪いのだから・・・
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少しでもお役に立てばとの思いで、書いております。

私は、会員の娘を持つ母親です。

我が子に勧誘され、いろいろなところへ聴聞に出かけました。

私には、我が子や、親鸞会員の皆さんが、一心になっておられる雰囲気が異様に感じられ、また、教義にも興味がわいてきませんでしたので、以後誘われても出向く気にはなれませんでした。

すると、我が子は、プレゼントをしてくれたり、これまでしなかった掃除をしたり、いい子を演じようと必死になっていました。

また、親鸞会に対しての疑問を投げかけると、

「親鸞会の活動方針や、周りの人が悪いのではなく、自分が悪いのだから・・・」

と、自分を責めている姿が、いとおしく、痛々しく、親としていたたまれなく思っております。

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50,000円と書いたら、少ないと言われて、一気に冷めました。そして、覚めました。
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今から10年ほど前、東京のある大学生のときに活動してました。

30歳になり、自分の人生を振り返ってみて、
あの頃のことを思い出して、ネットで調べていたら、
このサイトを見つけました。

私も、大学入学と同時にサークルに誘われて活動をしました。
1年の夏合宿後に、毎月2,000円の会費を払うやつ(名前も憶えてません。。。)に
入会しました。

1年間でいくら払いますという、誓約書みたいな御報謝(建立御報謝?)で、
50,000円と書いたら、少ないと言われて、一気に冷めました。
そして、覚めました。

結局、毎週のバス代など、お金も続かなくて、2年生の夏前には、部室に行くこともなくなりました。
両親の反対にあっている、など適当な言い訳をしてました。

お金以外にも、全てマニュアル的なものだったのだと気づいたのも、大きかったですね。

そして、そのまま自然消滅しました。

今思うと、あの50,000円は、どうなってたのだろうか?
正式に退会届などは書いてないのですが、書類上はどうなったのか?

その後、私は大学に会員以外の友人も作っていたので、
孤立するようなことはなく、大学生活を楽しく送り卒業しました。
今でも、その友人たちとの交流は続いています。

そして、今になって、あのとき、同じ学年で会に残った友人たちは、
どうなったのだろうか?
今は、何をしているのだろうか?

そんなことを、ふと思い出しました。

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私はいまは会の反社会的な面を糾弾するというより、昔の仲間とまた会いたいな〜という懐かしい気持ちです。
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大学3年で親鸞会を退会して5年以上経ちますが、私のいたころと本質は変わっていないみたいですね。久しぶりに会関連の掲示板などを見て回ってここを見つけました。

私の場合は教義や活動に最後まで確信が持てなかったために、2年で激しい活動からは離脱しました。それでも自分が声をかけて入会させてしまった人がいます・・・。

あなたは私なんかよりもはるかに深く会にかかわってきた人なので、それだけ親鸞会からの反撃も厳しいでしょう。また10年以上会にかかわってきたことで今後の人生も楽ではないでしょうが、かげながら見守っております。

私はいまは会の反社会的な面を糾弾するというより、昔の仲間とまた会いたいな〜という懐かしい気持ちです。かつての仲間の大半はもう退会してると思うんですが、残念ながら再会はほぼ不可能でしょうね。講師部に進んだ先輩もたくさんいましたが、今頃どうしてるのかな。

とりとめもない文章ですみません。どこかに元会員がわだかまりなく集まれる同窓会のような場を作れたらいいですね。

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親鸞会以外に生きる選択肢が見出せなければ、疑念を押し殺してでも、わずかに残った「この教えこそが本物かも知れない」という可能性に向かって精進しようとするでしょう。
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たまたまサイトを拝見いたしました。

同世代の元幹部の方かと思うと懐かしくというか、思わずメールしました。

私はかつて阪大で活動していた者です。途中、ある大学の新規開拓にはサブリーダーからリーダーとなって活動し、会員を辞める時は遺弟メンバーでしたので、いわゆる幹部でした。

このサイトを見て最初に思ったことは「Wさんが弘宣部長か、Aさんは死んだのか?」です。(笑)そんなことは置いといて、大変に感銘を受けましたし、意を得るところが多かったです。(管理人注・Aさんは別部門で元気で活動しておられます)

「そんなことはあってほしくない」という思いから、親鸞会の教義や活動を、なんとか正当化しよう、という心理が自覚もないまま、常に働いていたと思います。

といった部分は講師部員を含め現会員にも少なからずあると思います。なぜなら本来「なぜ生きるのか」「生きる目的は何か」「死ねば手放す物のために必死に生きることはできない」とまじめに考え、悩む人間は、ノドから手が出るほど「人生の目的」に飢えています。

多少教義をおかしいと感じても、親鸞会以外に生きる選択肢が見出せなければ、自らの疑念を押し殺してでも、わずかに残った「この教えこそが本物かも知れない」という可能性に向かって精進しようとするでしょう。

私が辞めた理由も入会当初にあった教義への疑問の再燃と身体的経済的疲労の蓄積によるものです。再燃した疑問とは、阿弥陀如来が無始から救済をしているのなら、全員救済が完了しているはずである(例:百年に一人が信心決定したと仮定 1/100年×∞(無限年)=∞(全員救済完了)、というもの等です。

辞めて8年近く経ち、ようやく親鸞会に関する夢(睡眠中のもの、希望という意味ではない)も見なくなりました。まだ全国で辞めたけど立ち直れていない方、辞めようと悩んでいる方、たくさんいると思います。このサイトを作成された勇気に、尊敬の念を抱いております。これからも頑張ってください。

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親鸞会に入会した時に、この文を見ていたら逃げていたと思いますが、知らず知らずのうちに「それが正しいことなんだ」と思い込むようになっていったのだと思います。
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退会した者です。サイトを拝見させて頂きました。有難うございました。

このようなサイトを作成された勇気に敬意を表します。親鸞会側から中傷するメールなど来ると思いますが、負けずに頑張ってください。応援しています。

会員の中には「正々堂々名前を出して意見を言ったらどうだ」と言う人もいるでしょうが、正直に意見を言える雰囲気など親鸞会にはないというのは、多くの会員が認識していることだと思います。

大学での勧誘時に「どんな質問もOKだよ」などといって寛容さを売り言葉にしていましたが、実態はそんなもの存在していません。ご存知だと思いますが。

ですから、このような「問題提起」の方法、意見を述べられる環境は大事だと思います。

教義に対して、深く考察することがなくなって、「このサークルの先輩たちが言うこと、そして、高森顕徹先生の言われることに間違いがあるはずが無い」という思考が働いてゆきました。サークルで聞く「親鸞会の教義」を、無条件で受け入れるようになってゆきました。

(『なぜ私は親鸞会をやめたのか』 1.なぜ私は親鸞会に入会しようと思ったのか より)

ここの部分は、非常に共感しました。私自身も、今振り返れば親鸞会の教義や高森会長が「無二の善知識である」ということを無条件で受け入れるようになっていきました。

高森会長については、最初は「仏教の先生」と紹介され、だんだん、

「本願寺の学者を相手に法論し、勝った」
「高森会長以外で、まともに仏法を説く人はいない」
「高森会長こそ現在の善知識」
「高森会長こそ無二の善知識」
「高森会長は親鸞聖人の生まれ変わり」
「高森会長の教えに無条件に従わなければならない」
「高森会長は親鸞聖人以上の方だ」(管理人注:このような発言がなされているのかと疑問を持たれる方もあると思いますが、私も同じ事を聞いたことがありましたので、掲載致しました。)

と、だんだんエスカレートしていったのだと思います。

正定聚という会発行の冊子に、「純会員の定義」というものがありました。

『高森先生を無二の善知識と仰ぎ、ご教導に無条件に
 従い、親鸞学徒の模範として、次の項目を実践する会員を
 純会員という。』

(親鸞会発行『正定聚』より)

親鸞会に入会した時に、この文を見ていたら逃げていたと思いますが、知らず知らずのうちに「それが正しいことなんだ」と思い込むようになっていったのだと思います。

「疑う」「なぜだろう、と疑問に思う」こと自体が悪いと。そう思い込ませるよう「マインドコントロール」が行われていたのだと思います。

実際には、高森会長が本願寺に本当に勝ったのかというと疑問がありますし(参考:親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか)、「一念の水際を説かれるのは高森先生しかいない」と言われますが、本願寺の中には信前信後の水際を説かれる人がいらっしゃいますし(一部ですが)親鸞会で言われることは、根拠なく「自分達だけが唯一真実を知らされた団体なんだ」と叫んでいるように思いました。

正直、こんな団体にいた自分が恥ずかしいです。ただ、会員の多くは立派な方が多いですし、尊敬できる方も多数いらっしゃいましたので、「あの方々が言われるのだから間違いなかろう」と安易に信じてしまったのだと思います。

偏った意見だけを聞くのがいかに危険か、身にしみて感じられました。

これは、やめた者にしか分からないのかも知れませんが、
不思議な安堵感と、開放感に満ち足りています。

(『なぜ私は親鸞会をやめたのか』 6.最後に より)

これは、やめた者にしか分からないです。私も安堵感と開放感に満ちています。そして、自由に仏教を聞き、話ができる環境にいることをうれしく思っています。

親鸞会にまだ残っている人も、外の世界を見て、視野を広げてほしいと願うばかりです。

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何でも御縁と言って、何も知らない新入生に嘘(あえて嘘と言わせてもらいます)をついて(宗教じゃないと言って)勧誘することには反対です
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現在大学3年生で、大学1年生の4月から9月まで親鸞会に関わった者です。

入学式前に書類を取りに行ったときから誘われて、たった半年だけれど、真剣に活動を行っていたと思っています。

同学年の中でも先頭をきって7月には会員になっていました。

4月から6月までは、ちょっと普通とは違うけれど、仏法のお話しは大変に奥深いし、先輩とも仲良くなったし、居心地良いし、他に信頼出来る人はいないし…という理由から、楽しく活動していたと思います。(活動と言っても私の場合は先輩に連れられて講師の方やビデオ・合宿・富山での説法をほぼ毎日のように聞くということなのですが。)

事実、初めての一人暮らしで、仲の良い友達も出来ず、空回りしていた4月当初、先輩達だけが、頼りになる存在でした。

7月後半、ある事件をきっかけに、親鸞会を辞めようと思ったことがありました。

うちのアパートにはおばあちゃんが持って行きなといってくれたお札が本棚の上に立てかけてあったのですが、以前に先輩からそういうものはしまった方が良いと言われたので、ずっと伏せてありました。

しかし、うちに不審者が入り、心配した母が駆けつけてくれたことがあったのです。ひと段落して雑談をしてた時、母が、「あ、神様が倒れてるよー。」って言って、そのお札を立て直してくれたんです。

母が帰った後に、私はそのお札をもう一度伏せることがいやでいやでたまりませんでした。なんでお母さんの気持ちを踏みにじらなくちゃいけないんだろうって、気持ちでいっぱいでした。

また、母が来たとか、不審者が入ったとか、何でわざわざ全部を先輩に話さなくちゃならないんだろうって、思ったのです。

私は、親鸞会に入った理由は主に、一人ぼっちの大学生活を恐れてた気持ちが強かったのですが、思い切って辞めたいということを先輩に伝えました。

そのときに、先輩がうちに来て、説得をしてくれました。

その内容は、主に、死後の恐怖についてでした。その話が怖くて怖くて、泣いてしまいました。自分は今まで全然わかってなかったんだと、思いました。

そして、その事件以降も続けることにしたのです。

しかし、7月後半から辞めるまでの約2ヶ月間は本当に辛いものでした。

死の恐怖も辛かったけれど、何が一番辛いって、自分を責め続けることが一番辛かったです。

今まで自分のことがどちらかと言えば好きだったのに、人間の悪の部分の話を自分に当てはめたり、良い事をしても、自分には下心があるんだって考えたり。。。自分を責め続けて、いつも心を痛めてました。普通にふるまっていても、なんとなくいつも怯えているような感じでした。

自分に親切にしてくれる人にも、この人は自分の悪に気付いていないだけだと考える自分も嫌だったし、なんとなく、他人(親鸞会に入っていない人たち)のことを素直に見れない自分がいました。もちろん、そんな自分はやっぱり悪だと思うことがすごく辛かったです。

そして、9月、私の退会を決定付けることがありました。

それまでも、納得いかないことや疑問・不安に思うことがたくさんありました。

・なんで早起きは善なのかという疑問に先輩の返答が一瞬止まったこと。

・御報謝と御法礼の違いを先輩に聞いたときに答えてくれなかったこと。

・はじめは特に何も言われなかったビデオ御法話、ゲスト講師の御法話にも財施を施すようになったこと。

・部室での講師の御法話に先輩たちが財施してる雰囲気がうかがえたこと。

・自分専用のアニメビデオを先輩達は持っているということがなんとなくわかったこと。

・富山での御法話も同じお話を何度も聞くようになったこと。

・新しい子が聞きにきているとき、自分は先輩に特に何も言われていないけれど、仏法的なことを喋ってはいけないというような雰囲気だったこと。

・将来自分が好きになった人が他宗教のときはどうすれば良いなか。

・自分を好きになってくれる人はいるのか。(正直、宗教をやっているということにうしろめたさを持っていました。それでも、それすらうしろめたく思わないようにしようと努力しようとしていたのですが。)

・他の人をなんとなくばかにしている発言が感じられたから。

・○○さんに彼氏がいるという情報や、△△君の嫌いな食べ物の情報などが、紙に書かれて先輩達全員はそれを把握しているらしいということを同級生の子に聞いた。

それから、何度も何度も先輩に、私は教えを、信心決定を信じることが出来ないという相談をしていました。

信じたいけど、信じられたら気持ちが楽になると思うのだけれど、信じ切ることが出来ないです。と、相談していました。

先輩は優しい方だったので、それは信心決定出来るまでは、だれでも、そんな不安はあるんだよ。と、こんな私でも阿弥陀仏は救ってくださるのだろうかっていう不安はあるんだよ。と、お話してくれました。

私は、先輩はその救ってくださるのかどうかに疑問があるのではく、その教え自体が本当であるかどうかに疑問を持ってしまう自分がいる、と、更に相談しました。先輩は教え自体が本当だというのは信じていますか、と聞いたら、それは本当だと信じている(言える)。と言っていました。どうしたら、そうなれますか、と聞いたら、それは話を聞いたら、これは嘘じゃないなって思えるよ、と答えました。

だから、こんなに先輩にもお世話になったし、いつか信じることが出来るなら、こうなったら聞いていこう…と決めていたのです。。。が、

後期の勧誘について話していたときに、どう言ったら初めについてきてくれるかなあという話し合いを先輩方がしてました。

私は、「私は、『ゼミの説明って何かもう聞いた?』って声掛けられましたよ〜。」って答えました。そしたら、先輩が、「ああ、それは新入生って初めのときって何も知らないから、知らないことを聞くと、それ何ですか!?ってなるんだよね〜。だから今の時期は使えないかな。」みたいな感じで答えられました。その時、私は、辞めようと決めました。なんでも嘘も方便で過ごそうとしていることが信じられませんでした。

また、家に帰り、親鸞会の反対サイトを見つけて、もちろんすべてが本当とは限りません、嘘もあるかもしれませんが、自分の経験とぴったりのことが多々書かれてあったので、それも弾みにして、勢いで辞めることにしました。

もちろん、その後も先輩が話をしにアパートにも着たのですが、今はやりたくない、他のことを楽しみたい、自分のことを責めて毎日を過ごすのはいやだ、という旨を伝えました。もっと歳を取ったらやるかもしれない、でも、今こんなふうに過ごすのはいやだ、というような感じで伝えました。もちろん先輩からは、死はいつかやって来るものなのに、その解決をしなくて良いのかということも聞かれました。それでも、かたくなに断りました。

その後、私はすぐに気持ちが晴れたわけではありません。半年〜1年くらいはずっと心が死や悪のことで重くて辛かったです。もちろん、覚悟の上だったけれど、頼れる人は誰もいなく、学校が始まってはじめの2日くらいは泣いてばかりいました。

そんな私を救ってくれたのは家族です。金曜日は授業を取っておらず、月曜日も午後から授業だったので、週末は帰っておいで、と言ってくれたのです。片道約8000円くらいかけて、毎週実家に帰っていました。お金がかかって本当に申し訳なかったのですが、何も言わずに迎え入れてくれて、本当に嬉しかったです。週3日は実家にいれたので、他の日もがんばれました。

また、他学科の友達と週1回同じ授業を取ったり、学科の友達にも少しずつ話しかけるようにして、凄い、というわけではないけれど、少しずつ友達が出来ていきました。

実家に帰る回数も2週間に一度、とか、だんだん減らしていきました。

2年生になってキャンパスが変わり、すごく悩んだけれど、色んな人に相談して、励ましてもらって、あるスポーツのサークルに入りました。

今、そのサークルをすごく楽しんでいます。あのとき勇気をくれた皆に感謝です。

友達も、そんなに多くはいないけれど、信頼出来る友達が出来、今では実家にもほとんど帰らず、充実しています。

信仰の自由は否定しないし、自分が携わっていたことにより宗教に対する偏見は無くなったし、信仰する人を否定することには反対です。

ただ、何でも御縁と言って、何も知らない新入生に嘘(あえて嘘と言わせてもらいます)をついて(宗教じゃないと言って)勧誘することには反対です。

死とか、悪とか、簡単に出して良いものだとは思えないんです。

必死に救おうという気持ちがあるのはもちろんわかっているのですが、そのことを知らない方が良かったって思う人も必ずいるんです。(私はそうです。話を聞かなかった頃に戻りたい、何も知らなかったころに戻りたいって良く思っていました。)

だから、だんだん小出しにする方法や、新入生同士を近づけないことや、サークルに縛り付けることなどを止めて頂きたいと思っています。

今日は、急に思い立って検索してみたらここにたどりついたのですが、こうして振り返ってみると、私はまだまだだなーってことにたくさん気付きました。真剣なつもりでも、疑問や、感情がたくさんあったんだな、と思いました。

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私のように思っている者がいることも、知って頂ければと思い、このような意見を述べさせて頂きました。
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私は現在、ある支部で聞法している者です。

このサイトの存在は、以前から知っていましたが、この度、少し述べさせて頂きたいことがあり、メールを送らせて頂きました。私は、これからも親鸞会で聞法するつもりであり、会を辞めるつもりはありませんが、管理人さんの言われたいこともよく分かります。

今回は、先日の御法話に参詣して、少し思ったことを述べさせて頂きます。よろしくお願いします。

先日2月5日の日曜日に、正本堂で行なわれた御法話で、高森先生がおっしゃったことについてです。
五逆罪についてお話しをされている時、アシスタントの講師の方が、五逆罪を一つずつ黒板に書いてゆかれました。
そして、5つ全部を書き終わったところで、先生は「これ、ここ(デジタルボードでしたか)には出るんか?」と聞かれました。
しばらくして、デジタルボードに五逆罪が表示されました。
すると、先生は操作をしている人に、「出るのなら、『出る』とか『出す』とか言えよ。」とおっしゃられ、直後に「これ、すぐに忘れてしまうんや」と笑いながら、言われました。

先生はご説法に真剣になっておられるからか、デジタルボードを活用されることまで気が回られないのかもしれませんし、それはむしろ、アシスタントの方がされることなのかもしれません。
しかし私は、この時、先生がおっしゃったことが、心にひっかかり、なかなか忘れられませんでした。
正直な気持ちを申しますと、憤りを感じてしまいました。

それは、デジタルボードをはじめ、根拠装置、映像・音響設備など、正本堂のすべては、多くの会員の皆さんの尊い御報謝によって、造られたものだからです。
私も、「会長先生の御説法を、皆が一同で聞かせて頂きたい」との願いのもと、わずかな額ではありますが、精一杯、御報謝させて頂きました。

私が担当させて頂いている会員さんの中には、本当に必死で御報謝された方々が沢山おられます。
わずかな年金から、節約に節約を重ねられ、御報謝された年配の方。
経営していた会社が倒産にあい、自分ひとりが生きていくだけで精一杯なのに、その中、家族を養いながら、財施された方、などなど…。
みていて、「本当に大丈夫だろうか…」と心配するくらい、必死で御報謝されていました。
これらの多くの方々の、血と汗と涙の尊い浄財によって、建てられたのが正本堂だと思います。

その正本堂の設備の一つである、デジタルボードの活用について、先生御自らが、「すぐに忘れてしまうんや」とおっしゃられたことは、正直、私は大変なショックを受け、憤りを感じてしまいました。


おそれおおいことではありますが、会長先生が念仏谷十八番地で、貧しい生活の中、ご布教なさっておられた頃には、決して出てこない言葉ではなかろうか、と思ってしまいました。
もちろん、先生がイバラの道を歩んでこられたご苦労に比べれば、私たち会員一人ひとりの努力など、全然足元にも及ばないものだということは、それはもう、よく分かります。

今回の御説法でも「弥陀は命をかけて約束しておられるのに、聞かせて頂く者が居眠り半分で聞いておって、火花が散るか!」とお叱り頂いたことは、忘れられません。
自らの聞法姿勢を反省させられるとともに、弥陀の命がけのご苦労を、また命がけでお説き下さっている先生のご苦労を偲ばずにおれませんでした。

私のような者が、言えることではないのかもしれませんが、会員の皆さんは、先生のおっしゃる一言一言を、とても敏感に感じます。
私のように思っている者がいることも、知って頂ければと思い、このような意見を述べさせて頂きました。では、失礼いたします。

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今日、親鸞会を辞めることを決意しました。
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サイトを一読させていただきました。これを見て、今日親鸞会を辞めることを決意しました。本当にこのようなサイトを見ることができて、良かったと思います。

自分は3ヶ月弱ほど親鸞会の活動に関わっていた学生です。「人生の目的がある」、そして「科学と唯一矛盾しない教えである」と言われたことに惹かれたのです。

このサイトを見るまでは自分はそのことを盲信しておりました。しかしこのサイトを見てからは、無意識のうちに抑えていた疑問がいろいろと湧き上がってきました。

例えば、

・「財施は金額ではなく心が大事」なのに、「学生大会の御法礼は3000円以上だ」と言われたこと。

・「仏法は真剣に聞かせていただこう」と言うのに、先輩たち(自称信心決定者を含む)のなかには身体を揺らす人がいたこと。

・初めて来た方がいるときは宗教色を極端に見せないように注意されたこと。

・信心決定したのにも関わらず、法話中や法論において高森会長に慈悲の心があまりみられなかったこと。

・・などなどです。

親鸞会を辞めた後、明るい気持ちでこれから生きていけるかが不安になります。しかし「不思議な安堵感がある。」とあったので、自分も何とかなるでしょう。親鸞会からの批判もあって大変だとは思われますが、どうか批判に負けないでください。応援しております。

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
両親に毎度毎度うそをついて富山まで行くのが悲しく、また申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
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はじめまして、私は関東地方の学友部学生です。
現在では、何とかして退会をしようと試みております。

そんななか貴サイトを見つけ、幹部の方でもこのようなことを思うのかと感じ入っておりました。

私は自宅生でしたが、両親が心配性で、サークルで合宿に行くといったところで毎月御法話にいくことですら、とても厳しく、両親に毎度毎度うそをついて富山まで行くのが悲しく、また申し訳ない気持ちでいっぱいでした。夜行バスに揺られている間何回涙を流したか数えられません。サウナに止まって、隣でおじさんのいびきを聞きながら無性に親に申し訳ない気持ちを感じ、眠れなくなったことも何度もありました。

そのほかにも、大学生の本分を無視しているような学友部の活動に疑問を感じています。毎週土日にはビデオ御法話、もしくは富山で聴聞、そのほか地元での講演会・・・、飲み会やコンパといったものもそうですが、大学生でしかできないような活動はたくさんあるのにそれらが阻害されているような気もします。

また組織的みなが同じ考えを持っているというのは正直、少し気持ち悪い印象を今となっては持ちます。
私は運良く、支えてくれる友人、忠告をしてくれる友人、そして私を受け入れてくれる友人がいたため現在は社会復帰を果たし、残るは会に別れを告げようとしています。

いま切実に祈るのは、このサイトがもっと世間的に認知されて、公正な判断ができる機会を多くの人が持ち、私のように後悔をするものが減ることだけです。

会から謗法の者と罵られても、このサイトは私のようなものの希望です。
頑張ってください。

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私が親鸞会を辞めた理由
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信心決定してないのに他の人間を勧誘していること。

しかも、私を勧誘した会員は、「自分は親鸞会で実際に絶対の幸福になったし、他にもここで聴聞して、実際に信心決定した人はいっぱいいる」と言った。

ところが後になって、「ああ、あれはそう言わないと、君がついて来ないと思ったから。方便だよ」・・・だと!!!(怒)あったりめえだよ!実際にそんな信心決定という体験があるのかどうか、こっちが知りたいのはそれ一つじゃないか!「信じる」という曖昧なものでなく、疑いようのない体験があり、事実なんだ、っていうそこが肝心なんだろうが!信心決定したって言うから今まで聞いてきたんじゃないか!それを、嘘だった、だと?

「これであなたの病気は絶対に治ります。私もこの薬で治ったんです。他にも実際に治った人が大勢います。」って薬を売りつけておいて、「ああ、自分が治ったっていうのは嘘だよ。他の人のこともよくわからないんだけど・・・。だってそうでも言わなきゃ買わなかったでしょ?」っていうのと全く同じだ。治った人が実際にいるって自信マンマンにいうから買ったに決まってるじゃないか!

勧誘してる個人は善意のつもりでも、いや、善意だけにますます恐ろしい。悪質極まりない。いくら人間的には誠実な人が多くても、やってることは詐欺だ。よくもそんなことができるもんだ、と、心底怖くなった。

はじめは「絶対だ!間違いない!」と勢い良くて、嘘だとわかると、急にしんみりと語りだす。「でもさ・・・どうせならさ、必ず治るって言ってるものに懸けたいじゃないか・・・」な〜んだ、、、最初とずい分温度が違うことで。そんなレベルだったのかよ!

信心決定に魅力を感じないこと
信心決定すれば、人は死ねば無間地獄に落ちて未来永劫苦しみ続けることが推測ではなく、疑いようのない現実として「わかる」のだそうな。もし、そんな地獄絵が自分の目の前に現実として腹の底まで見えるようになったら、それこそが自分は永遠の地獄に落ちたってことさ。

自分が信心決定したら、他の信心決定していない無数の人間たちが、これ以上なく苦しみ続けるサマを永遠に見続けることになるんだよ。

食事どきに悲惨なニュース見るだけでも不幸な思いになるのに、ブラウン管も通さず、食事中も寝ている間も、マンガ読んでても好きな人とセックスしてても、その地獄絵を腹の心でまざまざと絶え間なく見るんだよ。

自分だけは大海を貝殻で干すより、地球を持ち上げるより難しい確率で助かった、ラッキーな人間だ。ああ幸せ幸せ、これ以上ない幸せ〜♪なんて感じられるのが幸福の境地なんかね。そんな境地に何の憧れもないね。

自分が信心決定して、「この地獄絵は現実本当なんだ、助かる道は親鸞会で、たった今、絶対の幸福になる道だけだ!」とわかったなら、幸福なんて感じるゆとりなんかないよ。

自分の目の前の地獄絵の人を救うには、今、地獄絵の無数の人々を信心決定させなきゃならないんだから。

寝てる場合じゃない、幸福だの平和だの喜びを感じる余裕はない、一瞬の心の休まる間も笑うゆとりもない、食事も電車に乗るのも歩くのもとんでもない!たった今、信心決定させなければならないんだから。そして、今、無数の人間が信心決定していない。

この現実は、「信心決定は私にとっては幸福ではない」っていうことの何よりの証明なのさ。

信心決定したら「生活」なんて悠長なことできないのさ。生きてなんかいられないさ。信心決定した途端、全身から血を噴きだして狂いねじれておっ死んじまうさ。

「あなたの理屈ではそうかもしれないが、絶対の幸福というものは、そんなものではないのです。あなた如き愚か極まりない凡人がどんなに考えあぐねたところで、信心決定の境地ははかり知れないのです。」っていう現会員がいる。

はあそうかいそうかい。で、あんたは信心決定しなさったのか?フフン、やっぱりな。

愚か極まりない凡人のあんたが、親鸞会を聞けば必ず信心決定できるって、根拠もなく信じ込んでるだけだろ?そんな愚か極まりない妄想、何万回聞かされようが、な〜んの説得力もないのさ。

あんたもどうせ、勢いこんでそうは言ったものの、しんみりと語り出すんだろう。

「親鸞会に背を向けたって、死ぬのが怖いのは本当だし、どうせ人生は苦しいことの連続、諸行無常の現実なんだ。それなら、どうせならそれを絶対に解決してみせる!その道がここにただ一つある!っていうほうがいいじゃないか・・・」

それだけだろ?「絶対解決、その道はここ一つ!」なんて言ってる宗教は、他にもいくらでもある。親鸞会は、そんな中の小さな一つに過ぎない。

お前は愚か極まりない煩悩具足だから、お前如きの思考では説明のつかない、人智を超えたものに救済があるってことで、自分で考えることを停止させられるのも、同じやり方の宗教は他にいくらでもあるね。

親鸞会をやめる時、「死ぬのが怖くないのか!」と言われた。
はあ?親鸞会にいたら死ぬのが怖くなくなると思ってんのかね??

死ぬのを恐れることぐらい、自分に許してやったらどうなんだ。親鸞会の教義を信じていたら、自分が死んでいく時、自分が真剣に求道しなかったから、こんなに恐ろしいのだ、苦しいのだ、無限の地獄に落ちていくのだ、と、ただでさえ地獄の死を、自分でさらに首を締めながら、本当に無間地獄を作り上げて死ぬんだろうな。可哀想に・・・
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こんなことをいつまで続ければいいのだろう?
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数ヶ月前にこのサイトを知りました。

私は求道歴10年余の会員ですが、ここ数年、2つの理由により退会を考えておりました。

1つは管理人様と同じ「高森先生の説法の質が落ちてきたのではないか?」という疑問。もう1つがここ数年で激しくなってきた言論封殺に対する不審です。

私は体調や学業・仕事の関係から、学友部(当時は学生部でしたが)時代から平日の活動にはあまり参加できていなかったのですが、それでも聴聞だけは欠かさないように努めてきました。

しかしいつの頃からか、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」から進まなくなった本部ご法話、アシスタントへの指摘の繰り返しだけで時間が過ぎていく冗長な教学講義に、「こんなことをいつまで続ければいいのだろう?」という疑問を抱くようになりました。

しかし、私も「同じ話を聞かせていただくのが仏法」「信仰が進めば同じ話でも違うように聞こえるのだ」と叩き込まれていた為、このような疑問を抱くのも自分の信仰が浅い故だと、真剣に聞法しようと自分に言い聞かせてきました。

そんな中、私にとって衝撃的な事件がおきました。学生時代お世話になった先輩(講師部に進まれた方です)が除名処分を受けたのです。支部も違う私には当然詳細な経緯を知る術もありませんでしたが、大変なショックを受けました。

お世話になった先輩だから、という欲目もあるのでしょうが、「全人類が救われる唯一つの道といいながら、なぜその道を絶つようなことができるのか」「その方に聞き違えがあったというのなら、まず法施をするのがあるべき姿ではないのか」と激しい憤りを感じました。

思い返せば、その以前にも同様のことはありました。
本部で正本堂建立についての話があった時のことだと思います。
野次を飛ばした学友部員がいましたが、その人も除名処分になったと記憶しております。

聴聞に対して疑問を抱きはじめたところに加えて、「会に対する批判は許さない」という体質、
唯一の真実といいながら真実を求めて入会した会員に対する除名という慈悲のかけらも感じられない処分……。
遅まきながら会の独善的・独裁的な体質に気づき、不審は募っていきました。


人生の目的を求めたいという気持ちと、会に対する疑問の間で揺れていたときにこのサイトを見つけ、皆様の体験談を拝見した次第です。その後も聴聞や会員の人との話を通して色々と考え、この度退会を決意するに至りました。

親鸞会に対して疑問を抱いていても、なかなか口には出せないものです。逆に「私の宿善が薄いからだ」と自責の念に駆られることもあるでしょう。(私のような熱心に活動していたとはいえない者さえそうなのですから、一生懸命活動されている方はなおさらではないでしょうか)

このサイトで退会した方、現役会員の方の意見を伺うことができて、自分自身の本当の思いを客観的に見つめなおすきっかけを頂きました。管理人様には心より御礼申し上げます。
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『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へ
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私が『なぜ私は親鸞会をやめたのか』と題するサイトを製作してすぐに、親鸞学徒の1人と称する方から、反論サイトが公開されました。

それにを受けて私が『続・私はなぜ親鸞会をやめたのか』を公開したことは、既に何度か記している通りです。

内容についての私の意見は、『続・私はなぜ親鸞会をやめたのか』に書いているとおりですが、自分自身どうしても『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方にたずねたいことがあり、2005年11月30日に以下のメールを送りました。その全文を公開致します。



はじめまして。

私は「なぜ私は親鸞会をやめたのか」「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」の管理人です。

この度は、私のサイトを読んで下さり、その感想を『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』として公開して頂き、有難うございます。

あなたに対して、まずひとつ、お願い、と言いますか、提案があります。

実は私のサイトから、貴方のサイトへリンクを貼っております。これは元々「続・なぜ〜」を製作したきっかけが貴方の製作された「〜を読んで」であり、各所引用もさせて頂いておりますので、リンクさせて頂きました。

同様に、貴方のサイトからも私のサイトにリンクを貼って頂き、相互リンクとして頂けないか、ということです。

貴方のサイトも私のサイトへの感想という形をとっており、引用も多くしておられるようですので、閲覧者への配慮という点でも、私のサイトにもリンクを貼って頂きたいと思っております。

その他にも、あなたにお尋ねしたい事があります。

それは「サイトデザインがあまりにも似ている事」です。

当初、私が作ったサイトは、何の装飾も無いものでしたが、それなりにナビゲーションやリンクを工夫していました。

貴方が「〜を読んで」を公開された当初、私の作ったサイトデザインを殆ど模倣しておられましたね。私の組んだコードをそのまま使われたようにも、お見受けしましたが、いかがでしょうか?

私は貴方の製作されたサイトが、あまりに似たデザインであった為、閲覧者に余計な混乱を与えると思い、知人の協力を得てデザインを変えました。

すると、しばらくして貴方のサイトも殆ど私のサイトと同じようなデザインの変更をされました。

URLも非常に似ていますし、「たまたまデザインが似てしまった」という事ではないだろうと思いますが、いかがでしょうか。

貴方のサイトの主張については、私は何の異論もありませんし、お互いに意見を述べて、批判しあうのは意義のあることだと思っています。貴方は、サイトにあげた文章の中で、私に対して「あわれみを感じる」とか「幼稚でこっけい」と書かれていましたが、そんな事を気にするつもりも、特にありません。

ただ、ネット上のモラルの問題として考えたときに、貴方が殆ど意図的としかおもえないデザインの「盗用」を行ったのは一体なぜなのか?教えて頂けないでしょうか?

少なくとも貴方のこうした行為を見て、私はあまりいい気分はしませんでしたし、少なくない方が同じような思いを抱く事と思います。貴方が親鸞会の会員であるなら、多少モラルに反する事をしても、相手に不快な思いをさせても、あえてデザインを一緒にしなければならない、という理由があったのだと思います。その理由を教えて頂けないでしょうか?

私のサイトでも触れましたが、「宗教団体でありながら、宗教ではないといって勧誘する」「未成年に保護者の了承を得ずに、夜中まで話をして、その場で親鸞会への入信を迫る」「退会者に対してみんなで悪口を言ったりする」という例を中心に、会員、非会員、会員のご両親といった方々から、親鸞会の活動の実態や、親鸞会に対する感想が沢山メールで送られてきています。

それらのメールを見ていると「唯一絶対の真実である親鸞会の教義を広める為ならば、多少相手に不快な思いをさせたり、モラルに反する事をしてもいいのだ」という意識を持った方が、親鸞会には少なくないのではないかと、個人的に感じています。

ですから、一歩、親鸞会を離れたときに、なぜ、あのような事を平気でしていたのだろうかと、自分のしてきた事を大変、悔やんでおられる方も、少なくないようです。事実私にも、「嫌がらせ」に近いようなメールがきています。

私は、貴方がそうだと申し上げているのではありませんが、たとえ些細な「デザインの盗用」であっても、今回の一件は、そうした親鸞会の「体質」といえる面を反映しているのではないかと、危惧しているのです。

貴方が誇りあるウェブデザイナーなら、他のサイトのデザインを参考にする事はあっても、今回のような露骨な事はされないでしょう。貴方をそうさせてしまった理由を是非お教え頂きたく思います。

尚、このメールの内容は私の管理するサイトで公開させて頂き、貴方のお返事も同様に公開させて頂きたい、と考えております。つきましてはその点についても同意を頂ければと思います。

では、お返事をお待ちしております。

どうぞ、よろしくお願いいたします。



残念ながら、現在の所、まだ『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』の制作者の方からはお返事を頂いておりません。

もしお返事を頂き公開についても同意を頂けたならば、同様にここに掲載するつもりです。

※先方からお返事を頂きました。ただ、公開の許可を頂いていないので、掲載することは出来ません。その後私から送ったメールについては、こちらをご覧下さい。

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『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へ
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私が公開した、『続・私はなぜ親鸞会をやめたのか』への反論として、『「続・私はなぜ親鸞会をやめたのか」を読んで(http://shinrankai.9jp.net/index.html)』が公開されました。

内容についての私の意見は、後日まとめて公開する予定ですが、執筆に当たって、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方にたずねたいことがあり、2005年12月8日に以下のメールを送りました。その全文を公開致します。

なお、このメールは上記サイトの管理者からの返信という形となっております。返信の内容自体は、先方から公開の許可を頂いておりませんので、現時点では掲載出来ません。ご了承下さい。

お返事頂き、有難うございます。

『デザインを真似られた理由』についてお書き下されなかったのは、残念でしたが、あらためて、その理由をお尋ねしたいと思います。よろしくお願いいたします。

リンクやデザインについて、今後、ご検討を頂けるとの事、感謝しております。先に頂いた返信ですが、私のサイトで公開させてよろしいでしょうか?その点についてもご同意を頂きたいと思います。

新しいサイトも拝見させて頂きました。
『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』にあるご意見も尊く聞かせて頂きました。

私は、お互いが自由に意見を述べあい、批判をすることは意義のあることだと思っています。今回、発表されたサイトへの、当方の見解も後日明らかにしたいと思っておりますが、まず最初に、私の立場をハッキリと述べておきたいと思います。

私は、「本願寺の関係者」ではありませんし、貴方様の仰るところの「京都に本拠地を置く布教使の某グループ」とも関係ありません。

もちろん、貴方様は団体名を明記しておられませんが、私自身そういった言葉から連想される団体とは、何のかかわりも持っておりません。

また、貴方が「面白いやりとり」として紹介された発言も、私ではありません。

その点については、ハッキリとここで誤解を解いておきたいと思います。

さて、私が貴方のサイトに対する見解を発表する前に、貴方の発表されたサイトについて、下記の質問をさせて頂きます。

○「京都に本拠地を置く布教使の某グループ」とは高森先生がかつて所属しておられた、「浄土真宗華光会」の事でしょうか?名前が明らかに出来ないのならば、それはなぜでしょうか?理由をお聞かせ頂きたいと思います。

○今まで創価学会や本願寺など、相手を名指しで積極果敢に法論や破邪をしてこられた親鸞会が、どうしてこの団体だけは「某グループ」という、まるで奥歯に物の挟まったような言い方しかされないのでしょうか?

また、親鸞聖人の教えからかけ離れていると断言されるのでしたら、「親鸞聖人のみ教えを明らかにする」のが使命と公言しておられる親鸞会は、なぜ従来行ってきたように法論をし、機関紙や法戦などで顛末を公表されないのでしょうか?

そうせずに、名前も出せずに内輪で非難するだけの姿は、本願寺に質問状を送り、直接行動を起こされてまで回答を要求した、親鸞会の歴史を知っている身からすると、随分と違和感を感じてしまうのですが、なぜでしょうか。

もちろん貴方から親鸞会の公式見解を聞けるとは思いませんが、サイトで明快に「親鸞聖人の教えからかけ離れている」と断言されていましたので、ご存じかと思い、ここにお尋ね致します。

○マインドコントロールについても、詳細なご見解を聞かせていただき、有難うございます。

貴方は識者の論文を引用した上で、マインドコントロールは「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、親鸞会を貶めようとしている」と主張しておられました。

ところで当方が指摘した、親鸞会で行われている「宗教法人を明らかにしない勧誘」については、なぜか貴方のサイトでは反論どころか一切触れられていませんでしたね。

そこで、いくつか情報を提供した上で、質問をさせて頂きます。

貴方は、

私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール論争」はほとんど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごとケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。

(平成17年8月23日 中外日報  櫻井義秀 「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」 )

との北海道大学大学院教授、櫻井義秀氏の文章の引用の後、

入信をめぐる「マインドコントロール論争」は、ほとんど不毛と、専門家も断じています。

と主張しておられます。

しかし櫻井氏は、こうした自身の「マインドコントロール論」批判を、

「統一教会やエホバの証人や一部のジャーナリストが、私の全く意図しない場面で使おうとしている」

と指摘し、いわゆる「青春を返せ訴訟」での証言について、

証言において、あろうことか、筆者の「マインド・コントロール論」批判の論文も引用されたが、趣旨を取り違えていたように思われた。つまり、筆者は「マインド・コントロール論」による入信の説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、「マインド・コントロール」という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めてきたし、そのような教団を批判する場合の方法に関して、「カルト」「マインド・コントロール」論に代わる批判の論点を持つべきであるという議論を展開してきたつもりであった。それは宗教社会学を専攻しているものとしてはごくありふれた学問的立場であるといえよう。しかしながら、筆者の意に反して、筆者の1996年の論文は統一教会側が「マインド・コントロール論」を否定する際に、日本の研究者による証拠資料として提出された。筆者は統一教会の入教・勧誘活動を是認するものではなかったし、「マインド・コントロール論」を批判することで、「青春を返せ訴訟」原告の論理をうち砕こうという気など毛頭なかった。

(「マインド・コントロール」論争と裁判- 「強制的説得」と「不法行為責任」をめぐって)

と主張しています。

そして、その青春を返せ訴訟の判示における、統一協会による勧誘行為の違法性については、

・勧誘等の方法が、長年の組織的勧誘等の経験に基づいた手法に基づき、組織的体系的目的的に行われているという点。

・被告協会の協会員は、上記のように、組織的体系的目的的に宗教団体である被告協会への加入を勧誘などするに当たり、当初はこの点を厳に秘しているという点。

をあげた上で、こう説明しています。

宗教団体を秘匿して勧誘することは単なる欺罔に留まらないといいます。物事を良く知っているかどうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘することができます。しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることができない内容が含まれています。神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。しかし、教団がこれらをあたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。個人の人生を大きく左右する宗教的知識・論理をカモフラージュして教えることは、内心の自由に不当な影響力を行使する、許されない行為であるとされたのです。

(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)

櫻井氏はこのように自身の「マインドコントロール批判」が不当に使われていると主張した上で、論文や講演などで繰り返し「宗教団体の正体を明かさない勧誘の違法性」について触れています。

私はそれらの論調を知った上で、西田公昭氏の著書を引用し、

「浄土真宗親鸞会」という宗教法人として認可された名前があり、部室の名義もほとんどは、その宗教法人名であり、部室の家賃なども、親鸞会が出資しているにもかかわらず、「親鸞会」という名前は、最初の勧誘では一切明かされないこと。

そして、「高森会長の説法を聴聞しに、富山県にある本部会館に毎月行く」ことや「財施と言って、献金をすすめられること」など、最初は一切説明されなかった自分たちの活動の中身を、新入生に対して、次々と小出しにしてゆき、いつのまにか、本人の意志で納得して選んだ形をとること。

と事例を挙げて、こうしたやり方は問題があると主張を致しました。

これらの批判についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、こうした手法を批判する事は「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

○同様に勧誘マニュアルなどで明らかになっている、「引き離し対策」「親対策」。また、「未成年者に対して、両親の同意を得ずに、合宿などの場で深夜まで宗教団体への入会をすすめる」などの行為についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、これらへの批判も、「親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

このメールについては、従来と同様に私のサイトで公開する予定です。

貴方からのお返事についても同様に公開したいと思っておりますので、出来ればご同意を頂きたいと思っております。

以上、よろしくお願いいたします。

2005年12月19日、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方からお返事を頂きました。

残念ながら「公開する必要はない」とのことでしたので、頂いたお返事についてはここで公開する事は出来ません。

簡単に先方の返信の内容を書くと、サイトデザインをまねた理由は「きれいに読みやすく作ろうとしたら、結果的にそうなってしまった」、本願寺の関係者や京都に根拠地を置く本願寺布教師の某グループと誤解していることについては「主張が同じなら仕方がない。誤解だというなら違うと言うことを証明して下さい」、また私のした質問については「答える必要性を感じない」とのことでした。

まるで誠意の感じられない文章であり、私としても大変残念に思います。

そこで、こちらから更に、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方に返事をし、その内容を公開致しました。是非ご覧下さい。

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『続・なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ その2
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2005年12月8日に『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方に送ったメールについて、12月19日、先方からお返事を頂きました。

残念ながら「公開する必要はない」とのことでしたので、頂いたお返事についてはここで公開する事は出来ません。

簡単に先方の返信の内容を書くと、サイトデザインをまねた理由は「きれいに読みやすく作ろうとしたら、結果的にそうなってしまった」、本願寺の関係者や京都に根拠地を置く本願寺布教師の某グループと誤解していることについては「主張が同じなら仕方がない。誤解だというなら違うと言うことを証明して下さい」、また私のした質問については「答える必要性を感じない」とのことでした。

まるで誠意の感じられない文章であり、私としても大変残念に思います。

そこで、2005年12月26日こちらから更に、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方に返事をし、その内容を公開致しました。

お返事頂き、有難うございました。
返信が遅れて、申し訳ありません。

メール読ませて頂きました。

きれいに読みやすく作ろうとしたら、結果そうなってしまいました。
貴殿のサイトが、よくできているのだと思います。

そうですか、分かりました。

主張が同じであれば、同一人物か、代弁者とみなされてもしかたないでしょうね。
誤解だというなら、証明してください。

申し訳ありませんが、それはこちらのセリフです。単に主張のごく一部が似ているという程度で、何の根拠もなく、私の立場を誤って書かれることに、こちらは困っていますし、正直、不快な気分です。

あなたは今回、公開されたサイトで以下のように述べられています。

まさに、「マインド・コントロールといわれるものと類似点が多々ある」などという理由で親鸞会を非難しているこの人物に警告を発しているといえましょう。「類似点がある」ということなら、どんな集団でも、「類似点がある」のですから。

類似点があるといった、極めて曖昧な理由で、私のことを誤って認識され、そのように書かれることに、非常に迷惑していますし、また、不快な思いを感じています。

もし、あえて類似点があるといった理由だけで、私のことを認識されるなら、あなたが、今回発表したサイトの上記の部分は、あなた自身が行なっていることです。

親鸞会が「マインドコントロールを行なっている」と言われても、仕方のないことでしょう。あなた自身が私に対して行なっていることと同じです。

あらためて、申し上げます。

今回公開されたサイトで、そちらがいきなり一方的に、私のことを「本願寺の関係者」だとか、「京都に本拠地を置く布教使の某グループ」と言われているので、それらの部分を撤回して頂きたいと思います。

今後も、そのように書かれるなら、そちらこそ私が「本願寺の関係者」であることや、「京都に本拠地を置く布教使の某グループ」に所属していることを証明して頂きたいと思います。その根拠を教えて頂きたく思います。

ただ主張の一部が似ているといった、極めてあいまいな理由ではなく、たとえば、それらの団体の名簿に私の名前が明記されているとか、明確な理由をお願いいたします。

もし、事実であるなら、あなたがどのように書かれて、そしてそのことで私が不快な思いを感じても、それは事実なのですから、私のほうが忍耐しなければならないことかも知れません。ところが、まったく事実無根のことを言われて、本当にこちらも迷惑しており、不快な思いをしています。

そのようなことを分かって頂けないでしょうか?誠意ある方なら、どうぞよろしくお願いします。

貴殿からの質問には、答える必要性を感じないので、あしからず。

正直、不誠実なあなたの返答に失望しています。

質問の中には、以下の部分のように、あなたの作られたサイト自体に対する質問もありますが、なぜ答える必要性がないと感じられるのでしょうか?

私はそれらの論調を知った上で、西田公昭氏の著書を引用し、

「浄土真宗親鸞会」という宗教法人として認可された名前があり、部室の名義もほとんどは、その宗教法人名であり、部室の家賃なども、親鸞会が出資しているにもかかわらず、「親鸞会」という名前は、最初の勧誘では一切明かされないこと。

そして、「高森会長の説法を聴聞しに、富山県にある本部会館に毎月行く」ことや「財施と言って、献金をすすめられること」など、最初は一切説明されなかった自分たちの活動の中身を、新入生に対して、次々と小出しにしてゆき、いつのまにか、本人の意志で納得して選んだ形をとること。

と事例を挙げて、こうしたやり方は問題があると主張を致しました。

これらの批判についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、 こうした手法を批判する事は「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、 親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

○同様に勧誘マニュアルなどで明らかになっている、「引き離し対策」「親対策」。また、 「未成年者に対して、両親の同意を得ずに、合宿などの場で深夜まで宗教団体への入会をすすめる」 などの行為についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、 これらへの批判も、「親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

上記の表現に間違いがなければ、そのように理解して、今後、あなたのサイトへの意見を述べさせて頂きますので、他の質問はいいですが、上記の質問にはお答え頂きたいと思います。間違いがあれば、分かるように、遠慮なく言って頂いてけっこうです。

では、どうぞよろしくお願いいたします。



もし先方からお返事を頂き公開についても同意を頂けたならば、ここに掲載するつもりです。

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2006年4月6日に、『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』の管理人様からメールを頂きました。内容はこちら(『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』内のページ)に有るとおりです。

それについて当方が返信したメールを掲載致します。

--------------------

『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』の管理人様へ

メール有難うございました。

> 学生の活動についてのご質問でしたので、責任者でもない私には、答えることができませんし、
>その必要性もないでしょうと、前回申し上げたのです。分からないものが答えても、意味がない
>からです。それをなぜ誠意がないなどと言われるのか、理解に苦しみます。
>
> 私に聞かれても、おかどちがいというものです。
>
> そういうことは、親鸞会に直接質問すべきことでしょう。

もう一度、私のメールをよくお読み下さい。

私が聞いているのは、あなたが「反響集を読んで」に書かれた、
以下の部分についてのことです。

「正すべき点は、今後正されていくことと思います。
誰であろうが、違法行為や、他人に迷惑をかけるようなことをしてはならないのは、
当然のことですから。」

この部分についての質問ですので、これを書かれたあなたにお尋ねするしかないのです。
これについて、以下のように質問しているのです。

1、あなたが「今後正されてゆくことと思います」と書かれた「親鸞会の正すべき点」
とは、具体的にどのようなことを指しておられるのでしょうか?

2、また、私が挙げた以下の4項目は、「親鸞会で今後、正されるべき点」だと
思われますか?思われませんか?
よろしければ、その理由も書いて頂くと、よりあなた方の意見を正しく知ることが出来、
うれしく思います。


(1)、勧誘の際に、「浄土真宗親鸞会」という自分たちの立場を名乗らないこと。
また、声をかける最初の段階で「仏教を学ぶサークル」「親鸞聖人の教えを
学ぶサークル」と言わないこと。

(2)、「引き離し対策」「親対策」「兼部カット」といった行為をマニュアルまで作って、
組織的に行い、新入生の耳に、親鸞会への批判意見が入らないように巧みに
情報操作していること。

(3)、新入生に対して、先輩が「信心決定している」と偽ること。また、そのような
誤解を与えかねないような表現を平気で使い、あたかも信心決定が簡単に
出来るかのような誤解を与えていること。

(4)、「聞けば誰でも論理的に納得できる話だ」と言い、あたかも仏説の全てを、
「人間の智恵で、全て理解できる」と誤解を与えかねない表現を使っていること。


今までも、学友部の活動について、いろいろ書かれておられるあなたですし、
学友部の活動にも、何度も携わってこられたあなたでしょうから、
まさか、「学友部の活動など、まったく知らない」とは言えないでしょう。

私が質問した内容には、学友部の活動についてのものもありますが、
それは「学友部の責任者として、今後の活動をどのように改善してゆくのか」を
聞いているのではないのです。あなたの意見を聞いているのですよ。
読解力のあるあなたなら、私が何を聞いているかは、よくお分かりだと思っています。

あなたが書かれた文章について、疑問に思ったから質問しているのです。
ご自分で書かれた文章に責任をお持ちなら、お答えください。
いつまでもこちらの質問に答えて下さらなければ、何も進みません。
一方的に質問ばかりをされるのは、いかにも親鸞会会員らしいですね。

昨年から、何度、質問しても答えないのはあなた方なのですから、
まず、こちらの質問にお答え下さい。そうしなければ、何も進展しません。

よろしくお願い致します。


> それをしようとしないのは、本当に正したいという気があるのか、実際は、事実無根の
>いやがらせをしているだけではないのか、と疑われてもしかたないのではありませんか。
>
>まして、それを理由に「相互リンクをはらない」などというのは、おかしなことではありませんか。
>

相互リンクは、あなた方が貼られるはるか以前から、貼っていますよ。
「おかしなことではありませんか」とは、こちらのセリフです(笑)

あなた方こそ、お互いの意見を述べているのに、なぜ相互リンクを貼るだけの
作業がこれほど、遅れられたのでしょうか?

あなた方は、「親鸞会は実にオープンな団体だ」と思われているようですが、
過去、多くの人たちが指摘してこられたとおり、「親鸞会は批判意見を何とか必死に
隠したいのでは」と、思われても仕方がないかと思います。

リンクさえ貼ろうとしてこなかった、あなた方のそれらの行為により、
そのような批判を受け続けているのですよ。自業自得ではないでしょうか。


あと、この間送らせて頂いた質問は、まだあります。
以下の質問にも、すみやかにお答え下さることを願っております。

この質問の内容も、あなた方の書かれた文章についての質問です。
あまりに長い間、私のメールを無視してこられたので、
どれがどの文章か、分からなくなっているのではないでしょうか?

返答よろしくお願いいたします。


貴方は識者の論文を引用した上で、マインドコントロールは「きわめて日常的で、人間社会の
どこにでもある内容ばかり」であり、「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、
親鸞会を貶めようとしている」と主張しておられました。

ところで当方が指摘した、親鸞会で行われている「宗教法人を明らかにしない勧誘」については、
なぜか貴方のサイトでは反論どころか一切触れられていませんでしたね。

そこで、いくつか情報を提供した上で、質問をさせて頂きます。

貴方は、

私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール
論争」はほとんど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における
本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごと
ケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。

(平成17年8月23日 中外日報  櫻井義秀 「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」 )

との北海道大学大学院教授、櫻井義秀氏の文章の引用の後、

>入信をめぐる「マインドコントロール論争」は、ほとんど不毛と、専門家も断じています。

と主張しておられます。

しかし櫻井氏は、こうした自身の「マインドコントロール論」批判を、
「統一教会やエホバの証人や一部のジャーナリストが、私の全く意図しない場面で使おうとしている」
と指摘し、いわゆる「青春を返せ訴訟」での証言について、

証言において、あろうことか、筆者の「マインド・コントロール論」批判の論文も引用されたが、
趣旨を取り違えていたように思われた。つまり、筆者は「マインド・コントロール論」による入信の
説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、「マインド・コント
ロール」という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めて
きたし、そのような教団を批判する場合の方法に関して、「カルト」「マインド・コントロール」論
に代わる批判の論点を持つべきであるという議論を展開してきたつもりであった。それは宗教社会学を
専攻しているものとしてはごくありふれた学問的立場であるといえよう。しかしながら、筆者の意に
反して、筆者の1996年の論文は統一教会側が「マインド・コントロール論」を否定する際に、日本の
研究者による証拠資料として提出された。筆者は統一教会の入教・勧誘活動を是認するものでは
なかったし、「マインド・コントロール論」を批判することで、「青春を返せ訴訟」原告の論理を
うち砕こうという気など毛頭なかった。

(「マインド・コントロール」論争と裁判- 「強制的説得」と「不法行為責任」をめぐって)

と主張しています。

そして、その青春を返せ訴訟の判示における、統一協会による勧誘行為の違法性については、

・勧誘等の方法が、長年の組織的勧誘等の経験に基づいた手法に基づき、組織的体系的目的的に
行われているという点。

・被告協会の協会員は、上記のように、組織的体系的目的的に宗教団体である被告協会への加入を
勧誘などするに当たり、当初はこの点を厳に秘しているという点。

をあげた上で、こう説明しています。

宗教団体を秘匿して勧誘することは単なる欺罔に留まらないといいます。物事を良く知っているか
どうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘
することができます。しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることが
できない内容が含まれています。神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。
これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。しかし、教団がこれらを
あたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、
その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。個人の
人生を大きく左右する宗教的知識・論理をカモフラージュして教えることは、内心の自由に不当な
影響力を行使する、許されない行為であるとされたのです。

(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)

櫻井氏はこのように自身の「マインドコントロール批判」が不当に使われていると主張した上で、
論文や講演などで繰り返し「宗教団体の正体を明かさない勧誘の違法性」について触れています。


私はそれらの論調を知った上で、西田公昭氏の著書を引用し、

「浄土真宗親鸞会」という宗教法人として認可された名前があり、部室の名義もほとんどは、
その宗教法人名であり、部室の家賃なども、親鸞会が出資しているにもかかわらず、
「親鸞会」という名前は、最初の勧誘では一切明かされないこと。

そして、「高森会長の説法を聴聞しに、富山県にある本部会館に毎月行く」ことや「財施と言って、
献金をすすめられること」など、最初は一切説明されなかった自分たちの活動の中身を、新入生に
対して、次々と小出しにしてゆき、いつのまにか、本人の意志で納得して選んだ形をとること。

と事例を挙げて、こうしたやり方は問題があると主張を致しました。

これらの批判についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、
こうした手法を批判する事は「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、
親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

同様に勧誘マニュアルなどで明らかになっている、「引き離し対策」「親対策」。また、
「未成年者に対して、両親の同意を得ずに、合宿などの場で深夜まで宗教団体への入会をすすめる」
などの行為についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、
これらへの批判も、「親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

上記の表現に間違いがなければ、そのように理解して、今後、あなたのサイトへの意見を
述べさせて頂きますので、他の質問はいいですが、上記の質問にはお答え頂きたいと
思います。間違いがあれば、分かるように、遠慮なく言って頂いてけっこうです。

では、どうぞよろしくお願いいたします。
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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
『 なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/5/1
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2006年4月27日に、『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』の管理人様からメールを頂きました。

それについて当方が5月1日に返信したメールを掲載致します。

--------------------

「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」の管理人様


「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の管理人です。
メール有難うございました。読ませて頂きました。

> ようやくの返信、有難うございました。
> 残念なことに、こちらの質問には、何一つ、答えていただけませんでしたね。
>
これから、少しずつでも質問しますので、待って下さいね。
以前も言いましたように、忙しい中ですが、少しずつでも返信したいと思います。

ただ、あなたもこちらのメールを5ヶ月近くも無視続けていましたので、
申し訳ありませんが、もう少し気長にまって下さい。
私もあなたの返答を気長に待ち続けていたのですよ。


> お忙しいようですが、たとえば、(1)の質問など、なぜ答えられないのか、
> 私には理解できません。

なぜ答えられないのか、は「メールをうつ時間がないから」です。
前にもいったとおりです。電話や直接はなしをするのなら、早く答えられるのかも
しれませんね。

> 「ユートピア」というのは、「どこにもない場所」という意味です。ところが貴方は、
> 「信心決定という体験はあると思う。否定はしない」とも言う。「あるもの」なら、
> ユートピアとは言わないのですよ。
> 言葉の理解が、かなり混乱しておられるようですから、お尋ねしているのです。

私の文章をもう一度よく読んで頂けませんか?
あなたの言うように、「信心決定した世界=ユートピア」と表現している箇所が、
あったでしょうか?

私の言いたかったのは、「親鸞会の講師部員や幹部会員で、信心決定したと喜びを語って
いる人に、10年以上活動しても出会った事がなかった。それならば、信心決定という体験
があるのだとしても、親鸞会でそれが出来るのか、はなはだ疑問だ」と言っているのですよ。

そして、親鸞会にいても信心決定出来ないだろうと、内心そのように思いながら求道を
続けている人は少なくないように思います。そのような人たちを、「まるで理想郷を
追い求め、夢見る人たちのように思った」と表現したのです。

誤解を与えていたのなら申し訳ありませんが、そういう意味ですよ。
以下は、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の中の文章ですが、

> これはあくまで例えですが、親鸞会の会員の人たちは、人間の願望である「不老不死の
> 薬」を求めて、永遠に旅する人たちのようにも感じます。
>(もちろん、信心決定=不老不死ではありません)
>
> 手塚治虫の漫画『火の鳥』にも、そのような人間の願望が、描かれています。親鸞会の
> 会員の人たちをみていると、どこまでも、どこまでも、見つかる可能性の分からない、
> そんな理想を求めて夢見る人たちのように、感じました。

「信心決定=不老不死ではない」と書きましたが、「信心決定=ユートピアではない」
でもいいです。信心決定の体験自体を、「ありもしないもの」とは言っていませんよ。
「続・なぜやめたのか」で以下のように言っている通りです。

> 私は、「信心決定という体験があると思えない」「信心決定なんて、どうせ嘘っぱちだ」
> などと、言った覚えはありません。信心決定の体験自体を否定してはいません。
> 信心決定の体験はあるのだと、私は思っています。
>
> 私が言いたいのは「親鸞会で聴聞を続けて、信心決定できるのか」ということなのです。
> これは多くの会員の人が抱えている疑問です。私の周りにもたくさんいましたし、私が
> 幹部として活動していた時にも、このような質問をしてきた人が数多くいました。
>
> だからこそ、親鸞会の講師部員や幹部会員の中で、信心決定している人がいたら教えて
> ほしい、そして私だけでなく、同じ気持ちを抱いている人たちの疑問を晴らしてほしい
> と言っているのです。
>
私は最初からこのように思って、「なぜ」も「続・なぜ」も書いてきました。
あなたは、「手のひらを返すような豹変ぶり」と言われ、私が考えを変えたかのように
受け止めておられましたが(笑)

信心決定に対するこの思いは、まったく変わっていませんよ。
ただ、私はあなた方と違って、文章を書く専門家ではないので、分かりにくい部分や、
誤解を生じかねない表現はあったのかもしれません。

しかし、私の文章を読んでメールを下さる人の中には、「信心決定の体験がないだなんて
どこにも書いていないのに、なぜ、『読んで』の管理人はあんなトンチンカンなこと言って
いるのでしょうね」と言われる人はかなりありました。ですから、私も読んだ人の多くは
私の意見を正しく理解して下さっているのだな、と思いましたよ。


> こちらのサイトは11月にはすでに公開しています。10年幹部として聴聞されたと
> いうのですから、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は、すぐに理解できるはずだと思います
> が、どうでしょうか?
>
> 「忙しいから」ではなくて、本当は「答えられない」ということでしょうか。
>
いえ、そうではありません。
あなたも5ヶ月して、答えてくださったじゃないですか。
あれは「相互リンクできない」のではなく、「相互リンクはできるが、時間がかかった」
ということではないのですか?


> (3)(4)(5)にしてもそうです。
>
> 貴方自身のことをお尋ねしているのですから、答える気さえあれば、すぐにでも
> 答えられるものばかりです。事実、「時間がない」といいながら、いい訳を書く
>「時間は十分ある」ようですから。

失礼ですが、あなた方はこの作業が仕事の一つなのかもしれませんが、あなた方と違い、
私は親鸞会のことを考えている時間だけではないのですよ。
仕事もありますし、家庭もありますし、そのほかにもしなければならないことが、
特に最近、たくさんできたのです。それだけはよく分かって頂きたいと思います。

ですから、たしかに時間はかかっていますが、こうして返信しているではありませんか。
5ヶ月近く、だまり続けてきたあなた方と比べれば、評価されるべきことだと思います。
別に評価してもらわなくてもいいですけど(笑)。

とにかく、時間を下さい、もう少し待って下さい、と言っているのです。
今のあなたと同じような気持ちで、私もあなたからの返事をまっていたのですよ。
分かりますか?

もし、何かの掲示板で、「返答がないから、答えられないということですね(笑)」
などと、一方的に勝利宣言されたら、人によっては、「私は、お前らみたいに、一日中
掲示板にはりついている暇人ではないのだよ(笑)」と言いたくなるでしょう。

あなた方はずいぶん、あわてておられるようですが、何か切羽詰ったものでも
あるのでしょうか?何度も言いますが、少しずつでも返答しますので、もう少し、
待って下さいね。


> 私も多忙きわまる中、こうして貴方の疑問に、一つ一つ答えてきたのです。

そうでしたか。お忙しい中、ありがとうございました。


> 「時間はかかる」と言われますが、決して時間がかかる質問ではありませんよ。私なら
> 全部で5分もあれば十分です。

5ヶ月もの間、私の相互リンクの提案を無視した方の言葉とはとても思えませんし、22個もの質問に
5分で答えられる人がこの世にいるのか疑問ですが、心して受け止めさせて頂きます(笑)


> >あと、最近作った以下の新たなコンテンツに「事実と違う」といった反論や、
> >あなたのご意見があれば、何でも教えて下さい。
> >
> >親鸞会は本当に変わるのか
>
> あまりにも不誠実な内容ですね。
>
> たとえば、「いるようです」「あるようです」「いるようです」「いたそうです」
>「いたようです」などと、5回も伝聞、憶測を並べた挙句に、突如、太い文字で、
> 「これらの事実からも分かるように」などと平気で書く神経。
> これでは、とても信用できません。
> いかがわしい文章だと言われても、仕方のないことではありませんか?
>
申し訳ありませんが、どの部分のことを言っておられるのでしょうか?
私たちは十分、根拠をつかんで文章を書いています。しかし、あなたの意見を聞いて、
検討したいとも思いますので、できれば具体的に教えて下さい。


> >学友部の衰退は、親鸞会の言う通り、まぎれもなく、自因自果だと思います。
>
> 親鸞会が、いつそんなことを言ったのでしょう。

「親鸞会のいう通り」とは、「まいた種は必ずまいた本人に返ってくるものだ
(自因自果)」という部分を指して言っているのです。
親鸞会が総力をあげてテコ入れしなければならないほど、学友部が衰退している原因は、
外からの批判でもなければ、学生気質が変化しているからでもなく、まぎれもなく、
親鸞会のまいた種が、あなた方に返ってきている(自因自果)と言いたかっただけですよ。


> そもそも、「反証不能の因果の道理が、なぜいつでもどこでも成り立つ真理なのか」
> などと頓珍漢な非難をしている貴方です。「まぎれもなく、自因自果だと思います」と、
> なぜ言い切れるのでしょう。

学友部衰退の理由を考えると、親鸞会が今まで周囲の批判を無視して、自分たちの
都合だけを考え、横車を押し通してきたことに起因すると思ったから、「自因自果」だと
言ったまでです。親鸞会のまいた悪い種が、親鸞会に悪果となってかえってきているので、
「自因自果」だと言っているのですよ。

それとも、あなたは親鸞会学友部が衰退している原因はどんなところにあると思いますか?
ああ、学友部のことは知らないから、答えられなかったのでしたね。

>
> また、「退会された人は犠牲者か」云々の件ですが、私は、本当の親鸞聖人の教えに
> 触れた人なら、犠牲者など一人もいないと思っています。
> なぜなら、親鸞聖人の教えは、「一実円満の真教」だからです。
> この世にたった一つの、真実の教えだからです。

最新の顕正新聞の論説の内容ですね。あなたがたは、顕正新聞の発行に携わっている
方々でしょうか(笑)
ちなみに、統一教会の人も、創価学会の人も、エホバの証人の人たちも、自分たちの
教えが真実の教えと言っていますけどね。


>「自分は犠牲者だ」と思っておられる人が、もしあるとすれば(貴方もその一人で
> しょうが)、その大変な誤解を解くためにも、私のサイトをよくよく読んでいただき
> たいと願っています。
> そしてこれからも仏縁を大切にされ、親鸞聖人の教えを聞き求めていただきたいと、
> 切に念じています。

そうですね、そのお気持ちはよく分かりますよ。
ただ、「自分は犠牲者だ」と思っておられる人の誤解を解くために書かれた文章なら、
あのサイトの言葉遣いなどは、もう少し考えたほうがいいかと思いますよ。
あなたのサイトの人を見下すような書き方に、「大変不快感を覚えた」というメールや、
感想を沢山頂いています。現役の学友部幹部の人からもそのような感想をもらって
いますよ。しかし、たぶん自分たちにはそれがどの部分をさしていわれているのか、
おそらく分からないのでしょうね。分からないから書けたのでしょう。

ご縁を遠のけた人たちに対して、「これからも仏縁を大切にされ、親鸞聖人の教えを聞き求めて
頂きたいと切に念じています」と言われるあなた方のお気持ちは、私もよく分かります。
私も親鸞会の幹部であった頃、そのようなことばかり思っていましたから。

ですから、残念ながらやめたしまった人たちとも、私はできるだけ縁をもつようにしていました。
しかし、親鸞会の幹部の人たちは、相手が退会したが最後、もう縁をもとうとしないことが
多いように思います。現役の会員でさえも、大事な連絡がこないこともありますし。

なぜ、やめた人の仏縁を切に念じているのなら、仏縁を念じての行動に出られないのかが
よく分かりません。口で言っていることと、体でやっていることが、どうもチグハグな
気がしてならないです。


> 貴方は、そんな本願寺の僧侶と手を組んで、まじめな親鸞会会員に親鸞会をやめるよう
> にそそのかしているではありませんか。

申し訳ありませんが、なんのことでしょうか(笑)
いつ、私が「本願寺の僧侶と手を組んで、会員をやめるようにそそのかし」ましたか?
お言葉ですが、あなたは私のことを、誰かと勘違いされていませんか?
私のことを、あなたの心の中にいるある人だと思い込んでおられませんか?


> また貴方自身が、そんな本願寺末寺の身内ではありませんか。

私が「本願寺末寺の身内」なのですか?
何をさして、私のことを「本願寺末寺の身内」と言われているのか、
まったく分かりません(笑)
私の家族には、本願寺末寺の身内など、一人もいませんよ(笑)

何度も言って申し訳ありませんが、私のことを誰かと勘違いされていませんか?


まあ、私は本願寺の末寺の身内でも何でもありませんが、もし、本願寺末寺の
身内の人は全員、「本願寺関係者」であるのなら、親鸞会の会員さんの中にも、
「本願寺関係者」は沢山いるでしょうね。講師部にも幹部にも沢山いるのでは、
ないでしょうか?親鸞会はトップから末端まで本願寺の関係者であふれていますね。

何度もいいますが、私には「本願寺末寺の身内」など一人もいません。
誰ですか?あなたの言われる私の身内って?
父ですか母ですか?兄妹でしょうか?
いきなり断言されて、驚いているのですが、是非教えて下さい(笑)


> ところが貴方は、その「本願寺なぜ答えぬ」の内容を非難している。貴方のサイト
>「親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか」ですが、内容は、「ひどい」の一語。
> だれも相手にしないのも、当然でしょう。

「親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか」は私のサイトではありませんよ(笑)
どうも、あなた方は何か勘違いされていないでしょうか?

では、質問にお答えします。

> (1)「信心決定はユートピア」と述べておられましたので、親鸞聖人や蓮如上人の
> お言葉で、「信心決定という体験は間違いなくある」と明らかにいたしました。
> お分かりになりましたか?

これは、先ほどお答えしました。


> (2)「親鸞会の教義」と何度も繰返されますが、「親鸞会で教えられていること」
> と「親鸞聖人の教え」とは、どこか違いが有るのですか?

これも、前に送ったメールでお話ししたと思います。


> (3)「反証不能な因果の道理が、なぜ真理といえるか」というナンセンスな質問を
> 繰返していますが、貴方は「反証可能なものでなければ、真理ではない」と思って
> おられるのですか?

私が言いたかったのは、「親鸞会の説く因果の道理が、なぜ大宇宙の真理だと言えるのか?
そんな明確な根拠などないのでは?」ということです。
「反証可能なものでなければ、真理ではない」とは言いませんが、私が言いたかったのは
「『親鸞会の説く因果の道理が大宇宙の真理だ』との思いは、宗教的信念により、
信じているに過ぎないものだ」ということです。

ちなみにあなたは、「親鸞会の説く因果の道理は大宇宙の真理である」と思って
おられるのですよね?学友部はじめ、親鸞会が多くの批判にさらされるのも、
批判をする人は縁であって、あくまでその原因は親鸞会にある、ということに
そろそろお気付きになりましたか?
これから、おそらくもっと多くの批判にさらされるかと思います。

しかし、逆にこれの事態は、親鸞会にとっては、姿勢を正すチャンスだと、
私は思っています。何度も言っていますが、私は親鸞会にはやくつぶれてほしい、
などとは思っていません。親鸞会の問題ある部分を正して、親鸞会の活動のために
苦しむ人を一人でも少なく、そして、親鸞会に出会って本当によかった、という人を
一人でも多くしたいのです。

あなたがたをはじめ、親鸞会幹部の皆さんも、目を内側にみけるべき時がきたのだと
思います。


> (4)科学的な真理のすべては「反証可能な仮説である」ということは、少しでも
> 科学を勉強した人にとっては常識ですが、貴方はご存知ですか?

知っていますよ。
『99.9%は仮説』(竹内薫・著)という本に書いてありました。
あなたも読まれたそうですが、いかがでしたか?


> (5)「因果の道理は錯誤相関」と述べておられますが、因果の道理を根幹として
> 説かれた仏説を、貴方は否定するのですか?

「親鸞会の説く因果の道理が真実であると思い込む過程」を「錯誤相関」と言ったのです。
私が「因果の道理は間違っている」と、因果の道理を否定したでしょうか?
「親鸞会の説く因果の道理が大宇宙の真理だと、なぜ言えるのかが分からない」と
言っているのです。


> (6)キリスト教社会では、生まれた子供に親が洗礼を受けさせ、教会に通わせ、神の
> 存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等、これらを宗教とも言わずに
> 教え込み、信じるか信じないかの判断力さえない子供に信じ込ませています。
> 彼らは、天地創造や原罪、処女降誕、キリストの昇天や復活など、およそ今日の科学と
> 相容れない教義を、自然科学的法則や歴史的事実のように語り、クリスチャンは普遍的
> 真理として受け入れています。だから、その後自らの力で、教え込まれた知識体系に
> 客観的に反駁することができないのです。

親鸞会の会員さんも、自分の子供さんに一生懸命仏法わかって欲しいと思って、話を
しますよね。私はこれが悪い事だと、一言もサイトで書いた覚えはありません。

私はキリスト教を信じる気は毛頭ありませんが、自分が素晴らしい教えに出会ったから、
その教えを子供に伝えたい、と思うのでしょう。親がそう思うのなら、親の権限でそのように
子供に伝えれば良いのではないかと思います。と言いますか、「やめろ」と言っても、
親は「素晴らしい教えだ」と思っているのですから、やめることはできないでしょう。


> このことは、ユダヤ教でも、イスラム教でも同様です。
> 死んだら天国、神の国へいけると狂信して、自爆テロまでするものが、後を絶ちません。
> 「青春を返せ」どころか、「人生を返せ」ではありませんか。

イスラム教のすべてが自爆テロをする訳ではないと思いますよ。
私はイスラム教のことは詳しく知りませんが、おそらく、自爆テロ行為などを行っているのは、
一部の急進的な原理主義者ではないでしょうか?イスラム教を信仰している人が、
みな自爆テロを行うのではないと思いますよ。あのような行為をなげいているイスラム教の信者の
方々も沢山おられるように思うのですが。
もちろん、自爆テロなどの行為は、絶対に許されないことだと、私は思っていますよ。


> さて、これは内心の自由に不当な影響力を行使する、許されない行為では
> ないでしょうか。
> あなたの論法からすれば、これらの社会は、巨大なマインドコントロールをしている
> ことになるのではないでしょうか。

私のどの論法からすれば、こういう結論になるのですか?
あまりにも論理が飛躍しているように思いますので、主張を展開したいのなら、
そのあたりを詳しく教えて下さい。よろしくお願いします。


> (7) 作家の五木寛之氏は、「人生の目的」という本の「あとがきにかえて」 の中で、
>「悟り、来世、浄土、輪廻」などは物語だと書いています。
> この五木氏を、何と本願寺は賞讃しています。淨土を物語として「死んだらお助け」
> と説いているという点で、同じ程度と言うことでしょう。
> しかし、いかに共感して信じようとも、それが単なる物語であれば、やはりそれは、
> 現実の苦しみから逃避するごまかしにすぎません。
> いかに、死後の華降るお浄土を夢見ていようと、神の国を思い描いていようと、死ぬ
> ときには、「しまった。浄土も天国も御伽噺だった。神も仏も存在しなかった。
> 思い込んでいただけだった」と言うことになるでしょう。
> マルクスは、こんな宗教を「大衆の阿片である」といい、レーニンは、「毒酒」と
> 言ったのです。この世の救いを説かぬ本願寺の教えは、まさに、阿片であり、毒酒と
> いわれてもしかたありません。

> (8)後生の一大事は自明のこと、と言いながら、まったくそれを説かず、また解決の
> 一本道である「一向専念無量寿仏」も教えない本願寺が、もはや救いがたいほど腐敗
> 堕落の極に達していることは、貴方も認められているとおりです。これまで、本願寺の
> 多くの御門徒が、だまされてきた被害者であることを、貴方はどう思われますか。
>
> また、その本願寺被害者を何とか救おうとして、日夜、親鸞聖人の教えをお伝えして
> いる親鸞会の活動を、貴方は阻害しているのですが、その自分の行為が、本当に
>「人助け」だと思いますか。

本願寺に言いたい事があるのならば、どうぞ本願寺に行ってお話をして下さい。
手紙を書いても良いし、昔のようにはちまき締めて座り込みにいっても良いし、
それでも足りなかったら、「本願寺なぜ答えぬパート2!読んで管理人編」でも、
出されてはいかがでしょうか?

さて、「本願寺の多くの御門徒が、だまされてきた被害者」であるかどうかは、
私にはよく分かりません。浄土真宗の「教え」を聞きたいと思って、本願寺の門徒になったのに、
教えを聞かせてもらえないのなら、被害者だというのはよく分かりますが。

ある人たちが「被害者」か「被害者でないか」は難しい問題ではないでしょうか?

あと、本願寺のことをあまり私に聞かれても、おそらく詳しいことは、
何も答えられないですよ。
なぜなら、私は本願寺末寺の身内もいませんし、本願寺関係者でもないのですから(笑)


> (9)貴方のサイトを見た、何人もの退会した方から、「私は、あんな恩知らずに
> なりたくない」とか「親鸞聖人の教えは、今でも信じています。あんな卑劣な人間と
> 一緒にしないでください」というメールを数多くいただいています。貴方は、これを
> どう思いますか。
> つまり、貴方は、いろいろな事情で退会された方々の気持ちまで踏みにじり、傷つけ、
> 新たな被害者を生み出していることになるのですが、このことを人間としてどう思われ
> ますか?

もし、そのように思われた方が本当におられるのなら、私としても大変に心苦しい事です。
それらの方々がどのような事を感じ、どのように仰っておられたのか、是非そのメールを
公開して頂けませんか?私たちが「反響集」で公開しているように。


> (10)この世でハッキリ救われるという「平生業成」の教えが、親鸞聖人の教え
> 以外にありましたか?
> お得意のネットで調べてみて、結果はどうでしたか?
> 人生の目的が、親鸞聖人の教え以外に見つかりましたか?

すみませんが、私は別にネットは得意ではないですよ。
何度も言うようで申し訳ありませんが、あなた方は私のことを誰かと
勘違いされていませんか?

ただ、親鸞聖人の「平生業成の教え(この世でハッキリ救われる教え)」を
親鸞会で聴聞を続けることによって、体得できるのかは、今でも甚だ疑問です。
あなたはもう体得できましたか?親鸞会で何十年聴聞されている方でしょうか?


> (11)『顕正新聞』には、大学生の子供から仏法を聞いた両親の喜びの声が、
> しばしば掲載されています。「親には言うな」というような指導が本当になされて
> いるのなら、こんな事実はどうなるのでしょう。
> また、祖父母や親戚、友人と一緒に聞法、という話もよく聞きます。
>「ご恩のある人、大切な人に、仏法を伝えよう」という気持ちの表れではないで
> しょうか。
> 事実、一人の大学生から親へ、祖父母へ、お世話になった人たちへと、どんどん法の
> 輪がひろがっている事例が、いくつも報じられています。
>
> 「マニュアルどおりのことが組織的体系的に行われている」という貴方の主張と、
> まったく反しているこれらの事実を、貴方はご存知なのですか?

まず、子どもから親へ親鸞会の教えが伝えられている事実は私も知っています。
ただ、親対策といった行為が親鸞会幹部の作成したマニュアルに書かれていることも
事実です。「親鸞会必殺育成法」の最初のページにも書かれているように、
児玉氏、針谷氏、伊藤氏が関わって作成されたものです。
あなた方なら、それらの方にすぐにでも連絡がとれるでしょうから、本人に直接、
お尋ねになってはいかがでしょうか?

あと、大学生から親御さんに、どんどん法の輪が広がっている事例が、いくつも報じられ
ている」と言われますが、数多くいる学生会員の中で、どの程度の学生会員の親御さんが
聞いておられるのか、その割合を教えて頂けませんか?

ほんのわずかな例外を、まるで大多数おられるように言われては、誤解を生じますので。
児玉氏に聞けば、現役学友部員の数と、その中で親御さんが親鸞会の話を聞いておられる数が
分かりますので、比率が分かると思います。できれば具体的な数値を示して頂けると、信憑性が
高まるのですが、その比率でもいいですよ。


また、子供が親鸞会で聞いているからと、心配のあまり親鸞会に自らも聞きにいき、
そして自分も親鸞会で聴聞をし、入会された。でも、やっぱりこの団体はおかしいと
感じられて、相談に見えた方も一人や二人ではありませんよ。

ですから過去には子供さんがやめられるのと一緒に、子供さんと一緒に聞いていた
家族の方も全員がやめられるというケースもあったように思います。

そして、もちろん自分の子供が問題のある団体に入って、人が変わったようになって
しまったと、大変に苦しみ、心配なさっている親御さんは本当に数多くおられます。
貴方はご存知ありませんか?


> (12)「引き離し」「兼部カット」なども、仮にこれが事実としても「巧みな情報
> 操作」などという大げさなものでしょうか。熱心なサークルなら、どこでも「兼部する
> な」と言うし、それがいやなら、やめればいいだけの話です。「引き離し」など、
> みんなケータイのメール交換をして自由に連絡を取り合っている時代に、できるわけ
> がありません。
>
> それでも貴方は、「親鸞会ではマニュアルどおりのことが行われている」と強弁する
> つもりですか?

まず、そんな大げさなものでないのならば、あのマニュアルを公開することに、全く
異論はないと思いますが、いかがでしょうか?何しろ、熱心なサークルなら、どこでも
この程度の事はあるのですよね?

しかし、実際に親鸞会の弘宣部長である渡部氏から、
「著作権侵害であるから、削除せよ」との要請が来ています。
これは、なぜなのでしょうか。あなたはどう思われますか?

それとも、「あれらのマニュアルは親鸞会で作られたものではない」と主張されたいの
でしょうか?


> (13)あたかも仏説の全てを、「人間の智恵で、全て理解できる」と誤解を与えかね
> ない表現を使っている、とのことですが、そんな誤解をするのは、貴方くらいでは
> ないですか。
>「絶対の世界が、相対の人間の智恵で完全に理解できるはずがない」というのは、
> 大学生程度の知性があれば、普通は常識です。また、そのように何度も言われたはず
> です。
>
> 親鸞聖人も、弥陀の誓願を「難思の弘誓」「超世の悲願」「弥陀の誓願不思議」と
> 言われ、救われた絶対の境地を「不可称不可説不可思議の信楽」と喜んでおられる
> とおりです。
>
> 「仏説のすべてを、人間の智恵で理解できる」などとは、普通、誰も思いもしませんが、
> 貴方は思われたのですか?

いえ、「仏説のすべてを、人間の知恵で理解できる、と誤解を与えかねない表現を使っている」
というのは、私たちのサイトを読んでメールを下さった現役学友部幹部の方からが
言われた表現です。以下に示したものですよ。
ちなみに、この方はある大きな大学の部長もつとめた学生さんで、勧誘の時には前で見本を
見せるような指導的立場にいる人です。

なぜ私は親鸞会をやめたのか 反響集
/response/toko4.html

1.「聞けば必ず納得できる」という言い方について

まず、「聞けば必ず納得できる教え」という表現は、正確に言えば「親鸞聖人の教えを
聞けば、必ず救われる教え」だとか「真実の仏教を聞けば必ずまことだったとハッキリ
知らされる教え」だという意味で使っています。しかし、そのことを理解せずに使って
いるとしたら問題だと思います。

ただし、このような言い方は「仏説のすべてを人間の智恵で理解できるかのような誤解」を
与えかねないので、個人的には別のもっといい表現はないかと考えています。

私は、親鸞会のサークルに入る時に、「このサークルの話は聞けば必ず理解出来る、
聞けば必ず納得のゆく話、納得のゆかない話は一つもないから」と聞きましたし、
今でもそのように言われているという事実は、現役学友部の方々の証言によって、
すでに確認できています。

「うちのサークルで話をするのは仏説ですから、人間の知恵では理解出来ません。なにしろ、
絶対の世界ですから」と説明するのなら、誤解が生じることもなく分かりやすいでしょうが。


>(14)貴方が展開しているような、「マインドコントロール論による入信の説明」を、
> 専門家は不毛と断じ、「宗教社会学の議論からは認めることができない」と批判して
> いますが、それでも貴方は、「親鸞会はマインドコントロールしている」と言い張る
> のでしょうか。

専門家とは、北海道大学の櫻井教授のことでしょうか?
以前、統一教会という団体があなたとほとんど同じ事を言って、同じように櫻井教授の
意見を使って、「マインドコントロール理論は不毛である」と、青春を返せ裁判のときに
反論を行いました。

その事を櫻井教授は、「自分の言った事が理解されておらず、大変に心外な事であった」と、
事ある毎に言われています。そして、「特に宗教団体である事をかくして勧誘する
事は、大変問題がある」と、論文や講演で幾度も主張されていますよ。

もし、よろしけれ櫻井教授にメールでも送って、「自分たちの団体は宗教団体ではなく、
哲学のサークルだと言って勧誘しているけど、問題ありませんか?マインドコントロール理論は
不毛ですから。」と聞いてみられては、いかがでしょうか。

こうした誤解や拡大解釈が生じないように、静岡県立大学の西田公昭助教授は、「破壊的
カルトのマインドコントロール」とあえて定義し、その事例を事細かに説明しています。
私はそうした「破壊的カルト」の事例と親鸞会の勧誘が似ていると指摘している訳ですが、
その類似性については全く反論出来ないようですね。


> (15)親鸞会のように、過去50年間、反社会的な問題がまったくなく、地域の
> 皆さんとも良好な関係を保ち、学生たちにしても、「酒もタバコもやらず、ギャンブル
> や乱れた異性関係などもない、親鸞聖人の教えを学ぶ、まじめな集り」に対して、
> 「マインドコントロール」などという言葉自体が、そもそも不適切と思われますが、
> どうでしょうか。

統一教会やエホバの証人の学生も、酒やタバコをやっていないそうですが、それとマインド
コントロールと何か関係があるのでしょうか?
また、乱れた異性関係がないと主張していますが、本当にそうかどうか、一度あなた自身が、
自分の胸に手を当てて、じっくり考えてみられたら良いでしょう。

あと、親鸞会の歴史で反社会的な問題が全くないと言われていますが、各所の大学に
おいて、宗教団体を隠した強引な勧誘が問題になり、公認を取り消された所もあります。
これは反社会的な問題の範疇に入らないのでしょうか?

また、地元の人の信頼を得ていると言われますが、果たしてそうでしょうか。
私は親鸞会本部のある小杉町の家を回った事があるのですが、親鸞会に対して不快感を
示される方が沢山おられたのに驚きました。まさか、正本堂に見学に来た人が喜んで
帰ったから、というのが「地元の人の信頼を得ている」という根拠じゃありませんよね。
いかがでしょうか?


> (16)「整理整頓」「お世話になっている人に感謝しよう」「時間を守ろう」
>「あいさつしよう」などなど、人間として当たり前のことが、親鸞会ではいつも
> 勧められています。
> 因果の道理に基づいて、このような善をすすめることが、マインドコントロールに
> なるのでしょうか。

私がいつ、そんなことがマインドコントロールだと書いたでしょうか?
誤解があるかもしれませんから、教えて下さい。お願いします。
ちなみに、私も整理整頓、感謝の気持ちをもつこと、時間を守ることには、
心がけています。あなたからすれば、「お前は親鸞会に感謝などしていない。
恩をアダで返している」とでも、言われそうですが。
別に私は親鸞会と喧嘩をしようとか、親鸞会をつぶそうとか、そんなことを
思っているのではありません。そのあたりを、よく理解して頂きたいと思います。


> (17)人生の目的・信心決定に向かって、親鸞聖人の教えの根基「三願転入」を
> 説ききる親鸞会を、「マインドコントロールだ」などと、貴方は本当に思っているの
> ですか?

私がいつ、「三願転入を説く親鸞会はマインドコントロールだ」と言ったでしょうか?


> 最も大切な部分を隠して、誤解を与える事柄だけを、針小棒大にことさら取り上げる
> 論法は、まさに非難のための非難です。

サイトの趣旨と全く関係のない本願寺の非難をことさら取り上げるのも、
まさに非難のための非難だと、私は思いますが、いかがでしょうか。


> (18)親鸞会では、「仏」の説明で、仏法でいう真理は、「科学的真理でもなければ、
> 数学的真理でもない」と、必ず説明されます。つまり、自然科学的な法則とは違う、
> ということですが、10年も聞いたというのが本当なら、こんな初歩的なことも、
> 貴方は本当に知らなかったのですか?

私がいつ、「仏法でいう真理は、自然科学的な法則と同じ、と言ったでしょうか?


> (19)釈尊45年間の教えを、一度に新入生に伝え、理解してもらえる方法など
> あるのでしょうか。「小出しにして、いつのまにか本人の意志で納得して選んだ形を
> とる」のがいけないとするなら、およそ、人間同士の交渉は、すべて成り立たないと
> 思われますが、いかがでしょうか。

確認ですが、あなたは「だから、宗教団体だという事を隠して勧誘しても許される」
という事を言われたいのでしょうか?
ちなみに、同じ事を、昔、オウム真理教の上佑ゆうがテレビで言っていたような気が
します。


> こんな悪意に基づく無意味な非難が、貴方の場合、多すぎるのではありませんか。

「悪意に基づく無意味な非難」かどうかは、読者の方々が判断される事であり、
貴方が判断される事ではないように思いますよ。

悪意があるかないかなど、非常に主観的なものであり、分からないのでは
ないでしょうか?私はそんな「悪意をこめて非難している」つもりはありません。
ちなみに私から見れば、あなた方の文章の中に「悪意」や「いやらしいもの」を
感じる部分があります。立場をかえれば、受け止め方や見方もかわるように思いますよ。


>(20)結局、貴方の批判は「マインドコントロールとは何か」という本に書かれて
> いることに、事実かどうかも分からないようなことを、ただあてはめて、「だから
> マインドコントロールだ」と言っているにすぎません。
>
> こんな論法なら、どんな団体でもマインドコントロールしていることにできるのでは
> ないでしょうか。

事実かどうかも分からないこととは、どの部分をさしておっしゃっているのでしょうか?
よく分かりませんので、具体的にご指摘下さい。

あなたの言われるように、「どんな団体でもマインドコントロールしていることに
できる」のなら、なぜ、とりわけ親鸞会の活動が、各地で問題視され、マインド
コントロールだと指摘する人が絶えないのでしょうか?


私のサイトを読んで頂けましたか?このように書いているのですが。

--------------------------------------------------------------------------------
私たちは、「親鸞会がマインドコントロールを行っているのか、いないのか」ということ
に、ただ結論を下したいのではありません。私たちが「親鸞会はマインドコントロールを
行っているのではないか」という問題提起をしたのは、親鸞会の活動により、辛く苦しい
思いをしてきた人、そして今も苦しい思いをしている人が実際におられるからです。
--------------------------------------------------------------------------------


> (21)親鸞聖人の教えを学び、光に向かって人生を生きていくのなら、私は、
> 素晴らしいことだと思います。
> 貴方は、学生時代に仏縁を結び、社会に出て、いろいろな事情で仏縁が遠ざかった方に
> 対して、「マインドコントロールされていた、親鸞会の犠牲者だ」と思っているの
> ですか?
> そんな勝手な決めつけは、それらの方々に対して失礼であり、傷つける心無い言葉
> ではないでしょうか?

申し訳ありませんが…、いつ私が「学生時代に仏縁を結び、社会に出て、いろいろな
事情で仏縁が遠ざかった方のことを『マインドコントロールされていた親鸞会の犠牲者だ』
などと決めつけましたか?私のサイトをもう少しよくお読み下さい。
おそらく、偏った感情をもって読まれているので、そのような誤解が多々生じているの
だと思います。

私は退会した人全てのことを、「親鸞会の犠牲者だ」などと言ってはいません。
実際に本人の口から「私は親鸞会の活動により苦しい思いをした」と
言われている人がおられ、それらの人については、「親鸞会の活動により被害を受けた
犠牲者ではないだろうか…」と思っているまでです。

親鸞会を退会しても、親鸞会に感謝し、人によっては再入会される人もいるでしょうよ。
あなたの方が、余程勝手な決めつけが多いように思いますが、いかがでしょうか?


> (22)もし、それらの方々が、世の無常や自己の罪悪を知らされたことで苦しんで
> おられるのだとしたら、それこそ、仏教の結論であり、親鸞聖人が命がけで開顕された
>「一向専念無量寿仏」を説ききるしか本当の救いはないと思われますが、
> いかがでしょうか。

あなたが言われたいことはよく分かります。もし、あなたが本当にそのように思われる
のであれば、親鸞会の活動によって辛く苦しい思いをする人が、今後なるべく出ない
ように、最大限の努力をして頂きたいと、切に願っています。

私のサイトの反響集には、そうした人たちの声が多数掲載されています。
聞いた話しですが、親鸞会のサイトの中には随分作り話があるそうですが、
私の反響集には、作り話は一つもありませんよ。すべてメールを下さった方と何度もやり取りをして、
掲載しているものばかりです。

それらの方々のお気持ちをよく汲み取られて、、自分たちの何が問題なのか、
何度も何度も話し合って、問題となるべき所は改善して下さい。
私が思いますに、親鸞会のみなさんは優秀な方が多いですから、心の方向転換をされて、
問題点を改善してゆかれれば、今以上に多くの方々に喜ばれる団体になるのではと思います。

私は決してあなた方と敵対し、親鸞会の邪魔をしようと思っているのではありません。
このように言っても、「嘘つけ!」とか、言い訳としか思われないのかもしれませんが、
これは私の正直な気持ちですので、何度でも申し上げます。

どうか、親鸞会を本当に多くの方々に喜ばれる団体にして頂きたいと思います。
あなた方なら、親鸞会の中でも相当の影響力をもっておられるでしょうから、
できるはずです。切に願っています。

最後になりますが、このメールをうつのに2時間以上かかりました。
あなたは5分で返信できるといわれましたが、うつのが遅いのか、かなりの
時間を要してしまいました。しかし、あなたが何度もメールを下さっているので、誠意をもって
返信したいとは思いましたし、あなたからのメールに対して、感じることを
できるだけ端的に表現したつもりです。書く必要があり、書きたいことであったから、
書かせて頂いたことばかりです。

5月に入りますが、ゴールデンウィークも出張に出かけますので、これから、
ますます時間がないと思います。しかし、できるだけ返信はしっかりしたいと
思っています。

お互い意味のあるやり取りを、今後も続けられたらと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
では、失礼いたします。

管理人

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
『 なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/5/16]
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2006年5月6日に、『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』の管理人様からメールを頂きました。

それについて当方が5月16日に返信したメールを掲載致します。

--------------------

「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」の管理人様


お返事ありがとうございました。読ませて頂きました。

> 「10年聞法した幹部」と言われる貴方の文章に、あまりにも仏法に対する初歩的な誤解、勘違いが多いので、それを指摘し、正していただきたいと願ってサイトを立ち上げ、今もこうしてやり取りをしています。

有難うございます。私の文章に疑問を感じられ、20以上もの質問を下さっているのですよね。私もあなたとやり取りをし続け、あなたにお尋ねしたい疑問がますます増えてきました。これからもお互い意見交換をしっかりおこなってゆきましょう。

> 気の毒なお方とは思いますが、貴方を見下すつもりはまったくありません。
>
> 謗法の報いが案じられ、貴方の今後の人生を心配する気持ちからです。

心配をして下さり、有り難うございます。
私も親鸞会の未来を心配しています。


> >> 貴方は、そんな本願寺の僧侶と手を組んで、まじめな親鸞会会員に親鸞会をやめるよう
> >> にそそのかしているではありませんか。
> >
> >> また貴方自身が、そんな本願寺末寺の身内ではありませんか。
>
> >> ところが貴方は、その「本願寺なぜ答えぬ」の内容を非難している。貴方のサイト
> >> 「親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか」ですが、内容は、「ひどい」の一語。
> >> だれも相手にしないのも、当然でしょう。
>
> 上記は、すべて根拠の有ることです。
>
> そんなに必死に否定されるのですから、よほど認めたくないのでしょう。

本当に申し訳ないのですが、いつ私が「本願寺の僧侶と手を組んで、まじめな親鸞会会員に親鸞会をやめるようにそそのかした」のでしょうか?

あなたは完全に勘違いと思い込みをなされています。それは一体誰のことを言われているのでしょうか?根拠があるとのことですから、楽しみです。

あなたは私のことを「思い込みが激しい」と言われていますが、あなたが大事に隠しているその根拠が、私にまったく当てはまらないものだと私はハッキリいたしました。

必死に否定するも何も、してもいないことを言われるので困ったものです。
認めたくないというか、認める認めない以前の問題です。
あなたは必死に私が会員をそそのかしたと、認めたいのでしょうね。

あなたはおそらく私のことを誰かと勘違いなされているようですので、よかったら、その根拠とやらを、教えて下さい。私がやったことなら素直に答えます。しかし、まったく身に覚えがないことばかりです。


> しかし、心当たりは十分あるようですね。

あなたの期待を裏切るようで申し訳ないのですが、心当たりは全くありません。
なぜ、「心当たりが十分ある」と思っておられるのか、不思議でなりません。


> いずれ別な形で、あなた方の正体は明らかにされるでしょう。
>
> それが私の本意ではありませんが、因果必然、蒔いた種は必ずはえる、ということです。

どうぞ、私の正体を明らかにして下さい。私もいずれは分かることだと思っています。
しかし、「私の本意ではない」とか、あたかも自分が関わっていないような言われ方ですね。

あなたが中心となって、親鸞会を批判するものを追い詰める為に、必死に根拠をかき集めておられるのでしょう。想像にかたくありません。好きにして下さい。
しかし、あなたが何をしようと勝手ですが、5ヶ月の沈黙をやぶって、せっかくメールのやり取りをする気になられたのですから、こちらの質問にもこれからしっかりお答え下さいね。期待しています。


> それから、私のサイトも、このメールも、すべて私個人で書いているものです。
> 親鸞会の公式見解ではありませんし、「親鸞会はこうだ」と決め付けられても困ります。
>
> 思い込みの激しい方のようですから、念のため、確認します。

そうでしたか。あなたのこの文章を読んで、親鸞会発行の『本願寺なぜ答えぬ』のP40に、
『「オレは、本願寺の代弁者ではない」の強調に、思わず、ニヤリと、させられた。(中略)万が一、己の記述で、累を、恩義ある本願寺に、及ぼさないための、配慮かと、カングルほかない。』と書かれているのを思い出し、私も思わずニヤリとさせられました。

文中の「本願寺」を「親鸞会」にかえたら、まさしく今のあなたそのものです。


> さて、今回は質問に答えていただきました。
>
> (1)
> 「信心決定という世界はまちがいなくある。ユートピアではない」
> ということだと確認しました。
>
> 貴方の言いたい事に、「ユートピア」という言葉は適切ではありません。
> 何度もいいますが、貴方はもっと言葉の勉強が必要でしょう。

私がユートピアとの表現を使っているのは、親鸞会の講師部員や幹部の中で、信心決定して、信後の喜びを語っている人など一人もいないと思われるからです。

だから、親鸞会で聴聞を続けて本当に信心決定できるのか、ということが疑問なのです。親鸞会の講師部員や幹部会員、そして会員の方々をみていると、手にすることのできない信心決定というものを夢見て、ただただ追い求める人間の姿が垣間見えるから、私は親鸞会の会員の人たちを、「ユートピアを求める人たち」と表現しているのです。

「親鸞会の講師部員や幹部会員で、信心決定したと喜びを語っている人に、10年以上活動しても出会った事がなかった。それならば、信心決定という体験があるのだとしても、果たして親鸞会でそれが出来るのか、はなはだ疑問だ」という私の主張も分かって頂けましたでしょうか。


>> (2)「親鸞会の教義」と何度も繰返されますが、「親鸞会で教えられていること」
>> と「親鸞聖人の教え」とは、どこか違いが有るのですか?
>
> 貴方は、親鸞聖人の教えを親鸞会以外では学んだことがないと言われましたので、違いをお尋ねしても、無理でしたね。
> 教義的な内容も、もっともっと勉強が必要だと思います。

「親鸞会の教義」が「親鸞聖人の教え」だと万人に理解されるように、これからも頑張って下さい。たとえば、親鸞会の発行物には「華光会」を名指しで批判するような部分が見当たらないように思いますが、高森会長が在籍していた「華光会」に対しても、しっかり名指しで批判して下さい。名指しで批判できないのは何か理由があるのでしょうか?

それ以外にも「親鸞会の教義は、本当に親鸞聖人の教えと言えるのか?」と疑問を投げかける人たちは数多くいるように思います。これらの人たちに対して、これからも親鸞会にとっての破邪顕正を頑張って下さい。


> >> (3)「反証不能な因果の道理が、なぜ真理といえるか」というナンセンスな質問を
> >> 繰返していますが、貴方は「反証可能なものでなければ、真理ではない」と思って
> >> おられるのですか?

> > 私が言いたかったのは、「親鸞会の説く因果の道理が、なぜ大宇宙の真理だと言えるのか?
> > そんな明確な根拠などないのでは?」ということです。
>
> 因果の道理は仏説です。それを信じるかどうかは、貴方のご自由です。
>
> その仏説に対して、「反証不能なのに、真理といえるのか」という問い自体がナンセンスなのです。

分かりました。サイトでも述べてきたことですが、私は「親鸞会の説く三世を貫く因果の道理が、大宇宙の真理だ」となぜ言えるのか、その理由が分かりません。「親鸞会の説く因果の道理」は、あくまで宗教的な信念の一つであって、大宇宙の真理という明確な根拠は無い、という事でよろしいですね。


> >> (4)科学的な真理のすべては「反証可能な仮説である」ということは、少しでも
> >> 科学を勉強した人にとっては常識ですが、貴方はご存知ですか?
> >
> > 知っていますよ。
>
> それはよかった。勉強されましたね。
>
> それなら、(3)の意味も分かるでしょう。

「親鸞会の説く因果の道理は大宇宙の真理である」という絶対的な根拠は無く、「親鸞会の説く因果の道理も、他の宗教の教義も、絶対に反証は出来ないという点においては同じものなのだ」と分かりました。いかがでしょうか。


> >> (5)「因果の道理は錯誤相関」と述べておられますが、因果の道理を根幹として
> >> 説かれた仏説を、貴方は否定するのですか?
> >
> > 「親鸞会の説く因果の道理が真実であると思い込む過程」を「錯誤相関」と言ったのです。
>
> 支離滅裂です。
>
> 「錯誤相関」の意味が正しく理解できていますか。もう一度、よく勉強してください。

以下は『マインドコントロールとは何か』(西田公昭・著)の引用です。

「錯誤相関」という現象がある。それは、実際には存在しない関係を認知したり、あるいは実際の関係以上に強い関係を認知することである。人はランダムに起きている事象についても、すでにもっている信念を確認するデータとして誤って認知する。つまり、二つの事象に相関する関係があると信じるならば、その関係が誤りである証拠を確認する以上に、その関係が正しい証拠に気づき、記憶してしまう。
(『マインドコントロールとは何か』P159,160)

> われわれが思い込むとか、思い込まないに関係なく、「因果の道理は真理だ」と、釈尊がおっしゃっているのです。

ですから、「なぜ、親鸞会の説く因果の道理が大宇宙の真理だ、と言えるのか」と聞いているのですよ。親鸞会と出会うまでは、そのようなことを信じていなかったあなたが、このように信じるようになったのは、その道程がある訳です。その過程で、あなたは「親鸞会の説く因果の道理は大宇宙の真理なのでは…」と次第に信じるようになり、この世の全ての現象をこの道理に当てはめて理解するようになったのではないでしょうか?

そして、説明できないようなことでも、親鸞会の説く因果の道理は、きわめて定義が曖昧な部分がありますから、過去世を持ち出してくれば、何でも説明できてしまいます。そのような理解の仕方によって、今のあなたの信念が形成されているのですよ。その現象を「錯誤相関」と言っているのです。


> >> (6)キリスト教社会では、生まれた子供に親が洗礼を受けさせ、教会に通わせ、神の
> >> 存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等、これらを宗教とも言わずに
> >> 教え込み、信じるか信じないかの判断力さえない子供に信じ込ませています。
> >> 彼らは、天地創造や原罪、処女降誕、キリストの昇天や復活など、およそ今日の科学と
> >> 相容れない教義を、自然科学的法則や歴史的事実のように語り、クリスチャンは普遍的
> >> 真理として受け入れています。だから、その後自らの力で、教え込まれた知識体系に
> >> 客観的に反駁することができないのです。
> >
> >> このことは、ユダヤ教でも、イスラム教でも同様です。
> >> 死んだら天国、神の国へいけると狂信して、自爆テロまでするものが、後を絶ちません。
> >> 「青春を返せ」どころか、「人生を返せ」ではありませんか。
> >
> >> さて、これは内心の自由に不当な影響力を行使する、許されない行為では
> >> ないでしょうか。
> >> あなたの論法からすれば、これらの社会は、巨大なマインドコントロールをしている
> >> ことになるのではないでしょうか。

> > 私のどの論法からすれば、こういう結論になるのですか?
>
> 貴方の引用した文章に基づいてのことです。
> 何の飛躍もありません。よく読めば、分かっていただけるでしょう。

申し訳ありませんが、よく読んでも分かりませんでした。具体的に私のどの文章に基づいてそのような結論を下されたのか、教えて下さい。よろしくお願いします。


> 仏壇の前で、念仏を唱えていたおばあちゃんに、お孫さんが「ばあちゃん、何で念仏唱えているの?」と尋ねると、「こうして念仏唱えておれば、死んだら極楽へいけるんじゃから」と答えたというのです。
>
> 「信心為本」「唯信独達」(他力の信心一つで、人生の目的が達成できる)という親鸞聖人の教えが、まったく伝えられていないのが、現在の本願寺の実態です。
> と本願寺に対する怒りをあらわにされたのは、貴方がたではありませんか。
>
> 自分の述べたことを、忘れないでください。
>
> いまさら遠慮されずに、本願寺の誤り、ふがいなさ、親鸞聖人の教えを破壊する大罪を、ともに正していこうではありませんか。

分かりました。本願寺のふがいなさは、確かに以前も言ったように感じています。

親鸞会がより多くの人に喜ばれる団体になれば、本願寺の誤りを正し、多くの人に親鸞聖人のみ教えをお伝えすることになるのでしょう。ですから、親鸞会の問題点が改善されるように、私はその問題点について意見を発信しています。これからも、お互いしっかり意見交換し、多くの人に発信してゆけるよう、努めましょう。


> >> (9)貴方のサイトを見た、何人もの退会した方から、「私は、あんな恩知らずに
> >> なりたくない」とか「親鸞聖人の教えは、今でも信じています。あんな卑劣な人間と
> >> 一緒にしないでください」というメールを数多くいただいています。貴方は、これを
> >> どう思いますか。
> >> つまり、貴方は、いろいろな事情で退会された方々の気持ちまで踏みにじり、傷つけ、
> >> 新たな被害者を生み出していることになるのですが、このことを人間としてどう思われ
> >> ますか?
> >
> > もし、そのように思われた方が本当におられるのなら、私としても大変に心苦しい事です。
>
>
> 尊い反省です。忘れないでください。

分かりました。
ところで、前回のメールで以下のようにお尋ねしたのですが、いかがでしょうか?

> それらの方々がどのような事を感じ、どのように仰っておられたのか、是非そのメールを
> 公開して頂けませんか?私たちが「反響集」で公開しているように。

本当にそのように感じられた方々がおられるのならば、それらの方々の声を聞きたいと思っています。生の声を聞かせて頂いたほうが、より具体的に反省できると思います。

私がサイトに寄せられたメールを、「反響集」で多々公開したので、あなたは「反響集を読んで」に、「親鸞会の正されるべき点は、今後正されることでしょう」との反省意見を述べられたのですよね?ですから、実際に数多くのメールが寄せられているのなら、公開して頂けるとありがたいです。私にとってより具体的な反省材料になるかと思います。それとも、数多くの声が寄せられているというのは、嘘でしょうか?


> >> (10)この世でハッキリ救われるという「平生業成」の教えが、親鸞聖人の教え
> >> 以外にありましたか?
> >> お得意のネットで調べてみて、結果はどうでしたか?
> >> 人生の目的が、親鸞聖人の教え以外に見つかりましたか?
> >
> > すみませんが、私は別にネットは得意ではないですよ。
>
> 貴方がたのお仲間に、お得意な人物がいるということです。
> このようなサイトを制作して管理する人ですから、ずいぶん得意なはずですよ。
> 上記、まだでしたら、ぜひお調べください。
>
> 「この世で完全に救われる」平生業成の教えが、親鸞聖人の教え以外に存在するかどうか。
> 親鸞聖人の教え以外に、人生の目的があるかどうか。
> よくよく調べて、人生を選択されたらいいと思います。

私が親鸞会の問題として問うているのは、「親鸞会で人生の目的達成出来るのか?」ですよ。「この世で完全に救われる」という平生業成の教えで、親鸞会の幹部や講師部員で救われた人が存在するのかどうか、それが甚だ疑問なのです。本当におられるのなら教えてほしいと言っているのです。その事を一貫して問うているのですが、なぜ今に至っても答えて頂けないのでしょうか?これは、私だけでなく、会員の多くの人も疑問に思っていることです。そのような人がいないのに、「親鸞会で信心決定できる」と夢見て、求め続ける人ばかりだから、それを「ユートピアを追い求める人のようだ」と表現しているのです。

ちなみにあなたは会員暦何年でしょうか?もう信心決定されましたか?教えて下さい。
ただ私は、別にあなたが20年も30年も親鸞会で聴聞を続けていながら、信心決定されていない人だとしても、馬鹿にしたり、あなたの求める姿勢がおかしい、というつもりは全くありません。ただ、講師部員や幹部の中に、信心決定している人が本当にいるのならいると、いないのならいないと、親鸞会に表明してほしいのです。それは、あなたについても同じです。


> >> (11)『顕正新聞』には、大学生の子供から仏法を聞いた両親の喜びの声が、
> >> しばしば掲載されています。「親には言うな」というような指導が本当になされて
> >> いるのなら、こんな事実はどうなるのでしょう。
> >> また、祖父母や親戚、友人と一緒に聞法、という話もよく聞きます。
> >> 「ご恩のある人、大切な人に、仏法を伝えよう」という気持ちの表れではないで
> >> しょうか。
> >> 事実、一人の大学生から親へ、祖父母へ、お世話になった人たちへと、どんどん法の
> >> 輪がひろがっている事例が、いくつも報じられています。
> >>
> >> 「マニュアルどおりのことが組織的体系的に行われている」という貴方の主張と、
> >> まったく反しているこれらの事実を、貴方はご存知なのですか?
> >
> > まず、子どもから親へ親鸞会の教えが伝えられている事実は私も知っています。
>
> しかもその数は、最近どんどん増えています。
>
> 数や比率など知る由もありませんが、つまり、「親には言うな」などという「マニュアルどおりのことが行われている」というのは、まったく事実に反することなのです。

前回のメールで、以下のようにお尋ねしましたが、あなたはこれらの方々に聞いてみられましたか?

> ただ、親対策といった行為が親鸞会幹部の作成したマニュアルに書かれていることも
> 事実です。「親鸞会必殺育成法」の最初のページにも書かれているように、
> 児玉氏、針谷氏、伊藤氏が関わって作成されたものです。
> あなた方なら、それらの方にすぐにでも連絡がとれるでしょうから、本人に直接、
> お尋ねになってはいかがでしょうか?

私のサイトには、同じように「親に言うなと言われた」という人たちの声が沢山届いています。これらの人たちの声はみんな嘘なのでしょうか?最初の段階では、「誤解を与えるから親に言うな」といい、十分に時期が経ってから「親に言うように」と指導するのは、他の宗教団体と同じような気がします。

あと、前回のメールの以下の部分は読んで頂けましたでしょうか?
お答えお願いいたします。

> また、子供が親鸞会で聞いているからと、心配のあまり親鸞会に自らも聞きにいき、
> そして自分も親鸞会で聴聞をし、入会された。でも、やっぱりこの団体はおかしいと
> 感じられて、相談に見えた方も一人や二人ではありませんよ。
>
> ですから過去には子供さんがやめられるのと一緒に、子供さんと一緒に聞いていた
> 家族の方も全員がやめられるというケースもあったように思います。
>
> そして、もちろん自分の子供が問題のある団体に入って、人が変わったようになって
> しまったと、大変に苦しみ、心配なさっている親御さんは本当に数多くおられます。
> 貴方はご存知ありませんか?


> > > (12)「引き離し」「兼部カット」なども、仮にこれが事実としても「巧みな情報
> > > 操作」などという大げさなものでしょうか。熱心なサークルなら、どこでも「兼部する
> > > な」と言うし、それがいやなら、やめればいいだけの話です。「引き離し」など、
> > > みんなケータイのメール交換をして自由に連絡を取り合っている時代に、できるわけ
> > > がありません。
> > >
> > > それでも貴方は、「親鸞会ではマニュアルどおりのことが行われている」と強弁する
> > > つもりですか?

> > まず、そんな大げさなものでないのならば、あのマニュアルを公開することに、全く
> > 異論はないと思いますが、いかがでしょうか?何しろ、熱心なサークルなら、どこでも
> > この程度の事はあるのですよね?
>
> 論理のすりかえです。
>
> 「巧みな情報操作」ではないし、「だからマインドコントロールだ」などと主張する貴方の論法はかなり変ですよ、と言っているのです。

論理のすりかえではありません。
あなたは「必殺育成法」などのマニュアルの内容は、巧みな情報操作ではなく、一般社会で行われている事だと認識されています。しかし、あなたの言われる通りなら、なぜ、親鸞会の弘宣部長がわざわざ「著作権侵害」というクレームをつけてまで、削除しようとするのでしょうか?
そのことを考えて頂きたいと思い、あのように申し上げたのです。

「必殺育成法」は、間違いなく親鸞会で作成されたものです。それは、親鸞会の渡部弘宣部長が「著作権侵害」を訴えていることでハッキリしています。
では、なぜあのようなマニュアルが作成されたのか、それはあのような指導が実際に行われていたからです。

あなたは、「必殺育成法」に書かれていることは、現在の親鸞会学友部とは、まったく関係ないことかように主張されていますが、あのマニュアルはまぎれもなく、親鸞会の幹部が作成したものであり、非常に問題のある内容だと思われます。

まず、あなたはそれをお認めになりますか?


> >> (13)あたかも仏説の全てを、「人間の智恵で、全て理解できる」と誤解を与えかね
> >> ない表現を使っている、とのことですが、そんな誤解をするのは、貴方くらいでは
> >> ないですか。
> >> 「絶対の世界が、相対の人間の智恵で完全に理解できるはずがない」というのは、
> >> 大学生程度の知性があれば、普通は常識です。また、そのように何度も言われたはず
> >> です。
> >>
> >> 親鸞聖人も、弥陀の誓願を「難思の弘誓」「超世の悲願」「弥陀の誓願不思議」と
> >> 言われ、救われた絶対の境地を「不可称不可説不可思議の信楽」と喜んでおられる
> >> とおりです。
> >>
> >> 「仏説のすべてを、人間の智恵で理解できる」などとは、普通、誰も思いもしませんが、
> >> 貴方は思われたのですか?

> > 私は、親鸞会のサークルに入る時に、「このサークルの話は聞けば必ず理解出来る、
> > 聞けば必ず納得のゆく話、納得のゆかない話は一つもないから」と聞きましたし、
> > 今でもそのように言われているという事実は、現役学友部の方々の証言によって、
> > すでに確認できています。
>
> 「絶対の世界は、体験しないと分からない」という話は、だれでも納得できるでしょう。当然のことですから。
> だから、「納得のゆく話」というのは、そのとおりではないですか。
> 「絶対の世界が、体験しなくても頭で納得できる」などとは、だれも言わないでしょう。

それならば、言い方を考えた方が良いでしょう。
現役の学友部幹部の方が、以下のように指摘しておられる通りです。
「ただし、このような言い方は「仏説のすべてを人間の智恵で理解できるかのような誤解」を与えかねないので、個人的には別のもっといい表現はないかと考えています。」


> >> (14)貴方が展開しているような、「マインドコントロール論による入信の説明」を、
> >> 専門家は不毛と断じ、「宗教社会学の議論からは認めることができない」と批判して
> >> いますが、それでも貴方は、「親鸞会はマインドコントロールしている」と言い張る
> >> のでしょうか。

> > 専門家とは、北海道大学の櫻井教授のことでしょうか?
>
> 貴方が引用された文中で、ハッキリ断言しています。
> 落ち着いて、もう一度よく読んでみてください。
>
> 統一教会が、それをどう悪用したか知りませんが、親鸞会とは、何の関係もありません。
>
> 何の根拠もなく、霊感商法などの反社会的な行為を繰返す統一教会と同一視する貴方の論法は、ただの言いがかりです。

ですから櫻井教授に、「私たちは統一教会と同じように、宗教団体である事を隠しての勧誘などを繰り返している宗教団体ですが、問題ありませんよね。」と聞いてみて下さい。
私に聞くよりも、余程はっきりと答えて下さると思います。

「何の根拠も無い」「言いがかりだ」と言われたくないのなら、少なくとも統一教会と酷似した勧誘を行ない、統一教会と同じ批判を受けて、統一教会と同じ根拠を使って、統一教会と同じ主張で反論しないほうがよいのではないでしょうか?

あなたが「親鸞会と統一教会は、何の関係もない!」と一生懸命に否定しても、あなたの主張自体が「親鸞会と統一教会との類似性」を強調する結果となっているように感じます。

「主張が同じであれば、同一人物か、代弁者とみなされてもしかたないでしょうね。」と言われたのは、他ならぬ、あなたの言葉ですが、いかがでしょうか?


> > こうした誤解や拡大解釈が生じないように、静岡県立大学の西田公昭助教授は、「破壊的
> > カルトのマインドコントロール」とあえて定義し、その事例を事細かに説明しています。
> > 私はそうした「破壊的カルト」の事例と親鸞会の勧誘が似ていると指摘している訳ですが、
> > その類似性については全く反論出来ないようですね。
>
> 無意味な内容のくり返しですね。
> もう、この程度の反論しかできないのでしょう。
> 「破壊的カルト」は、そういう事実があるから、そう言われるのです。
> 親鸞会には、50年間、「破壊的カルト」と言われるような事実は、まったくありません。

あなたのように、無意味な内容と思う人もいれば、そうではない受け止め方をされている方々も、多々おられるようです。多くの方の反響を頂いていますのでよく分かります。

もしあなたが断固、親鸞会の正当性を主張したいのならば、過去長年にわたって批判され続けている、「親鸞会」という名前を隠した勧誘を、今後、二度と親鸞会がやらない事が必要だと思われます。

破壊的カルトと言われるような事実が全くない、素晴らしい団体が親鸞会ならば、その団体名を隠す理由など、何一つ無いように思いますが、いかがでしょうか?なぜいまだに、親鸞会学友部は、勧誘のときに「宗教法人浄土真宗親鸞会」と名乗らないのでしょうか?名乗れない理由が何かあるのですか?

自信があるなら、正々堂々と胸を張って言えばいいのです。たとえば講師の人なら、「私は、浄土真宗親鸞会の講師部員です。皆さんに親鸞聖人の教えをお伝えしたいと思い、こうしてこのキャンパスでお話しさせて頂いています。親鸞聖人の教えに関心はありませんか?」と。

つい最近も、ある宗教団体の人に駅前で勧誘されたのですが、「私は○○教会の○○と言います。イエス・キリストの救いについてお話させて頂けませんか?」と言っていました。親鸞会よりよほど透明性があると感じました。私自身は、キリスト教を信ずる気はありませんが、親鸞会の正体を隠す勧誘と比べれば、彼らの態度は余程立派だと思いました。なぜ同じ事を親鸞会は出来ないのでしょうか?


> >> (15)親鸞会のように、過去50年間、反社会的な問題がまったくなく、地域の
> >> 皆さんとも良好な関係を保ち、学生たちにしても、「酒もタバコもやらず、ギャンブル
> >> や乱れた異性関係などもない、親鸞聖人の教えを学ぶ、まじめな集り」に対して、
> >> 「マインドコントロール」などという言葉自体が、そもそも不適切と思われますが、
> >> どうでしょうか。
> >
> > 統一教会やエホバの証人の学生も、酒やタバコをやっていないそうですが、それとマインド
> > コントロールと何か関係があるのでしょうか?

> 「統一教会」や「エホバの証人」のような反社会的団体でもないし、「オウム」のような「破壊的カルト」でもない親鸞会に対して、「マインドコントロール」という言葉が不適切なのです。
>
> 大学でどのようなことがあるか知りませんが、若者が活発に活動すれば、いろいろなことがあるでしょう。
>
> > あなたの言われるように、「どんな団体でもマインドコントロールしていることに
> > できる」のなら、なぜ、とりわけ親鸞会の活動が、各地で問題視され、マインド
> > コントロールだと指摘する人が絶えないのでしょうか?
>
> 本願寺の僧侶など、ごく一部の人が、悪意を持って撒き散らしているから、誤解する人が絶えないのだと思っています。

親鸞会会員として、親鸞会を擁護したいお気持ちはよく分かります。

ただ、あなたのこの言葉を聞いて、ある破壊的カルトの教祖が「反社会的な行為は弟子が勝手にやった事だし、我々の団体がマスコミからバッシングされるのは国際ユダヤ組織の陰謀だ」と言っていたのを思い出しました。

是非、文中の「弟子」を「若者」、「国際ユダや組織」を「本願寺」に置き換えて読んでみて下さい。

親鸞会が「マインドコントロールを行っているのでは…」との疑いを持たれたり、そのように批判されたりする理由は、本願寺の悪意のある一部の人が言っていることだけに起因するのではないように思います。

高森会長の因果の道理の説法に、「自分に良い結果が返ってきた時には『自因自果』と思えるが、自分に悪い結果が帰って来た時には『他因自果』としか思えない。しかし、そんな都合によってコロコロ変わるようでは、大宇宙の真理とは言えない。『他因自果』ということは、万に一つ、億に一つもあり得ないのだ。」という内容がありました。

大きな正本堂が立った事は「親鸞会は世界に二つとない、素晴らしい集まりだから」と自画自賛し、批判を受けた時は「本願寺の僧侶などごく一部の人が悪意を持ってまき散らしているから」では、とても因果の道理を分かっているとは言えないように思うのですが、いかがでしょうか?

たしかに親鸞会に悪意をもって、いろんな事を言う人もいるのかもしれません。しかし、親鸞会が批判されているのは、それだけではないと思います。むしろ、親鸞会の活動、親鸞会会員の行為に主たる問題があるのでしょう。また、親鸞会に悪意をもつ人がいるのも、もとはといえば、親鸞会に原因があるのかもしれません。

それでもなお、あなたが「親鸞会が批判されるのは、悪意をもつ本願寺の一部の僧侶の仕業だ」と言われるのなら、それは「縄をウラム泥棒」ではないでしょうか?もしかしたら、あなたはこれでもまだ、「論理のすりかえだ」などと言われるのかもしれませんが、あなたのご意見を聞かせて頂くと、そのようにしか思えません。

失礼ですが、「お前は仏法が分かっていない」と見下す割に、あなたの理解はいかがでしょうか?

唯一の救いは、あなたの意見が「あなた個人のもの」であって、「親鸞会の公式見解」ではないということかもしれません。親鸞会もその点では、まだ自浄能力を残した団体なのかもしれません。あなたの意見が正当なものかどうか、誰か同じ親鸞会の人に聞いてみたら良いのではないでしょか。出来れば、親鸞会の講師部員や職員ではなく、一般の会員さんが良いでしょう。

そして、あなたが何度も言われているように、「大学でどのような事があるのか分からない」と言われるのでしたら、、今すぐ学友部の活動に参加する事をおすすめします。さらに、親鸞会学友部が反対を受けている大学の学生課に行って「私は浄土真宗親鸞会の○○といいます。私たちが批判されているのは、本願寺の僧侶などごく一部の者が悪意をもって批判しているからです…」という持論を、力一杯展開して来て下さい。もう二度と同じ事は書けなくなるのでは、と思われます。いかがでしょうか。


> > また、地元の人の信頼を得ていると言われますが、果たしてそうでしょうか。
>
> 本当です。
> 貴方の体験こそ、私にはとても事実とは思えません。
>
> もちろん、他宗教の方が、心でどう思っておられるかは別として、少なくとも、「親鸞会さんは約束をしっかり守る」「いつ行っても、会館の周辺がしっかり整備されていて、実にきれいだ」そして、「中は、驚くほど立派で荘厳」「みなさんの挨拶も気持ちがいい」と、一様に感心しておられます。

あなたの言われることが、全くの嘘ではないと思います。親鸞会会員の言動を見られて、感心される方もおられるでしょう。
ただ、たとえば親鸞会と取引のある業者ならば、親鸞会の事を悪く言うようなことはあまりないように思います。(もっとも、あるホテルの方は、親鸞会さんは実にキャンセルや変更が多くて、本当に困る、と言っていましたが…)
わざわざ会館に見学に来られるような方も同様でしょう。

ですから、これらの限られた人たちが感心しておられたことが、地元の信頼を得ているという根拠であるならば、サンプルの見直しが必要だと思います。

ちなみに、私の体験は本当です。
何度かありましたが、報恩講の時に、所属している地区が参詣目標に満たないとの事で、目標達成のために小杉の町に参詣のお誘いに行きました。

全く見ず知らずの人に、一生懸命仏法の話をしました。そこまでは聞いてくれるのですが、「親鸞会館に行きましょう」と言った途端に、相手の方の顔色が変わったり、それまで好意的だった人ががらっと変わったりするのを、私は沢山見てきました。中には露骨に親鸞会の悪口を言われる方もありました。

あの時は、「会館に一歩でも入れば参詣者としてカウントされる」という連絡が流れ、バスの運転手さんを会館内のレストランに必死に誘って、コーヒーをごちそうして、参詣目標を達成するなど、今思えばなんとおかしな事をしていたのだろうかと思います。こんな事ばかりしていたから、信頼を失ったのかもしれません。


> >> (16)「整理整頓」「お世話になっている人に感謝しよう」「時間を守ろう」
> >> 「あいさつしよう」などなど、人間として当たり前のことが、親鸞会ではいつも
> >> 勧められています。
> >> 因果の道理に基づいて、このような善をすすめることが、マインドコントロールに
> >> なるのでしょうか。
> >
> > 私がいつ、そんなことがマインドコントロールだと書いたでしょうか?
>
> 了解しました。
> 「因果の道理に基づいて、善をすすめることがマインドコントロールだ」などとは、とても言えませんね。

私は「親鸞会は因果の道理に基づいて善をすすめているから、マインドコントロールを行っていると言える」と主張したつもりはありません。


> >> (17)人生の目的・信心決定に向かって、親鸞聖人の教えの根基「三願転入」を
> >> 説ききる親鸞会を、「マインドコントロールだ」などと、貴方は本当に思っているの
> >> ですか?
> >
> > 私がいつ、「三願転入を説く親鸞会はマインドコントロールだ」と言ったでしょうか?
>
> 了解しました。
> 「三願転入を説く親鸞会はマインドコントロールだ」などとは、とても言えるはずがありませんね。

私は「親鸞会は三願転入の教えを説いているから、マインドコントロールを行っている」と主張した覚えはありません。「親鸞会はマインドコントロールを行なっているのでは」と疑問を投げかけている理由は、もっと別のところにあります。

それを「なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて」に書いたのです。
もう一度、読まれることをおすすめいたします。


> 同じ手法を使っても、よい方向に導けば、教育、善導といわれるし、悪の道を勧めれば、洗脳、マインドコントロールと言われるのです。

かつて、あなたと同じ事を、上祐という人がテレビで言っていました。
おそらく、あの人たちも「自分たちのしている事は教育であり、善導だ」と強く思い込んでいたと思います。
統一教会の人も、「自分は真実のキリストの教えにマインドコントロールされ、文先生という真実の先生に巡り会えた幸せ者だ」と言っていました。

宗教団体であることを隠して勧誘する事も、大学の決まりを破って勧誘する事も、講師部員が身分を詐称する事も、信心決定してもいない学生や講師が、あたかも信心決定したかのように新入生に誤解を与える表現を使うことも、あなた方にとっては、教育であり善導なのでしょうか。


> 「仏法でいう真理は、自然科学的な法則とはちがう」ということはお分かりですね。
>
> そして、「親鸞会は、仏法でいう真理を、自然科学的な法則とはっきり区別して説いている」ということも、分かっていただけましたか。

分かりますが、親鸞会が誤解を生じかねない表現を新入生に対して使っていることは、「反響集」にも掲載されている現役学友部幹部の方が指摘されている通りです。

あと、渡部隆志という親鸞会の弘宣部長をされている方がおられますが、ご存知でしょうか?この方が自著『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』に、以下のような事を書かれています。

「さて、仏教である。因果律に基づく仏説は、科学そのものといっていい。」
「『般若心経』の「色即是空、空即是色」が、現代物理学の先端をいくアインシュタインの相対性理論に現れる式、E=mc2(Eはエネルギー、mは物質の質量、cは光速度)と同じ意味であるとは、多くの物理学者が指摘するところ。」
「仏教の世界観が真理であることは、現象学が論理的に証明した後、量子力学、素粒子物理学などで実証されている。」


高森会長の著書『会報』にもこのような事が書いてありました。

「仏教は因果の道理にもとづき徹底的にかかる宇宙創造説を否定し宇宙の万有は因果の道理に順った生物の自己創造で万有は変化流転して止まず、何ら支配的な神は認めない。これは立派に科学的に証明し得るというより、寧ろ科学そのものというべきであろう。」


これらの表現を読むと、あなたの言われる「親鸞会は、仏法でいう真理を自然科学的な法則とはっきり区別して説いている」ということに、いささか疑問を感じてしまいますが、いかがでしょうか?

もし、よろしければ、これらの著述の内容を「こういう意味で言われているのであり、決して親鸞会は、仏法でいう真理と自然科学的な法則をごっちゃにしている訳ではなく、ハッキリ区別して説いているのだ」と説明して頂けないでしょうか?

ちなみに「「色即是空、空即是色」が、E=mc2と同じ意味」と指摘する「多くの物理学者」など、私はあまり聞いた事が無いのですが、あなたはそのような物理学者を知っていますか?あと、あなたはこの渡部氏の著書を読まれたことはありますか?


> >> (19)釈尊45年間の教えを、一度に新入生に伝え、理解してもらえる方法など
> >> あるのでしょうか。「小出しにして、いつのまにか本人の意志で納得して選んだ形を
> >> とる」のがいけないとするなら、およそ、人間同士の交渉は、すべて成り立たないと
> >> 思われますが、いかがでしょうか。
> >
> > 確認ですが、あなたは「だから、宗教団体だという事を隠して勧誘しても許される」
> > という事を言われたいのでしょうか?
>
> またまた、論理のすりかえです。

あなたの質問の意図がよく分かりませんでしたので、確認をさせて頂いています。人間同士の交渉といっても、色々あると思います。あなたの論理だと、キャッチセールスでさえ正当化されかねないようにも少し思います。

私の質問にお答え頂けますか?
確認ですが、あなたは「だから、宗教団体だという事を隠して勧誘しても許される」という事を言われたいのでしょうか?

私は親鸞会の勧誘マニュアルは、非常に問題のある内容だと認識しています。
「親鸞会が勧誘マニュアルに書いているような活動は、ごく普通の人間同士の交渉に過ぎず、正当性が認められる」という結論にされることは非常に問題があると思います。ですから「どこまでが『およそ人間同士の交渉』なのか」と確認しているのです。

けっして論理のすりかえではないと思いますが、いかがでしょうか?
私の質問の意図をご理解頂けたでしょうか?


> > 悪意があるかないかなど、非常に主観的なものであり、分からないのでは
> > ないでしょうか?私はそんな「悪意をこめて非難している」つもりはありません。
>
> 事実でもないことを事実であるかのように言いふらしたり、針小棒大に書きたてたり、誤解を与える事柄だけを取り上げて、何も知らない不特定多数の読者に、親鸞会に対する悪いイメージを植えつけたりするのは、悪意としか言いようがないでしょう。

何度も言いますが、だから「どこが事実ではないのか」と確認しているのです。
今までの指摘で出てきたのは、「親に言わない」というただ一点だけだと思います。
それすらもあなたの言われている事と、現実とでは随分違うように私は思っています。

再度、お尋ねします。「事実でもないことを事実であるかのように言いふらしている」部分とは、一体どこを指して言われているのでしょうか?「全てである」などと抽象的に言い放って、煙にまくのではなく、具体的にご指摘頂けたらと思います。よろしくお願いいたします。


> 因果の道理を信じられないところからくる愚痴が根本でしょうが、心の中が、かなり乱れておられるようです。
> 冷静になるためには、もっと時間が必要なのでしょう。

「親鸞会の説く因果の道理が信じられない」のは、あなたのご指摘どおりだと思っています。心が乱れているのか、冷静でないのかどうかは、分かりませんが。

もし、よろしければ、あなたも冷静になられて、「なぜ親鸞会がこれほどまでに批判されるのか」を、「親鸞会の説く因果の道理」の「自因自果」という言葉に当てはめて、よくよく考えて下さることを念じています。


> >> (20)結局、貴方の批判は「マインドコントロールとは何か」という本に書かれて
> >> いることに、事実かどうかも分からないようなことを、ただあてはめて、「だから
> >> マインドコントロールだ」と言っているにすぎません。
> >>
> >> こんな論法なら、どんな団体でもマインドコントロールしていることにできるのでは
> >> ないでしょうか。
>
> > 事実かどうかも分からないこととは、どの部分をさしておっしゃっているのでしょうか?
> > よく分かりませんので、具体的にご指摘下さい。
>
> ほとんど全部といっていいくらいです。

申し訳ありませんが、あなたのこの返答では、抽象的すぎて分かりません。
このような主張しかされないのであれば、「やはり具体的には指摘出来ないのでは…」と思ってしまいます。先ほども申し上げた通り、具体的にご指摘お願いいたします。改善の余地が有ると思えば、私も自分の文章をあらためたいと思っていますので。よろしくお願いいたします。


> >> (21)親鸞聖人の教えを学び、光に向かって人生を生きていくのなら、私は、
> >> 素晴らしいことだと思います。
> >> 貴方は、学生時代に仏縁を結び、社会に出て、いろいろな事情で仏縁が遠ざかった方に
> >> 対して、「マインドコントロールされていた、親鸞会の犠牲者だ」と思っているの
> >> ですか?
> >> そんな勝手な決めつけは、それらの方々に対して失礼であり、傷つける心無い言葉
> >> ではないでしょうか?
>
> > 実際に本人の口から「私は親鸞会の活動により苦しい思いをした」と
> > 言われている人がおられ、それらの人については、「親鸞会の活動により被害を受けた
> > 犠牲者ではないだろうか…」と思っているまでです。
>
>
> どんな活動でも、「苦しい思いをした」と言われる方はあるでしょう。
> それらの方々も、「決して、犠牲者などではない」と、私は申しあげています。
> それが光に向かっての苦しみであれば、すべてはムダではありません。
> 生かされる苦しみであり、報われる苦労です。
>
> 流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって返ってくるときが、必ずきます、ということを知っていただきたいと思います。

「なぜ生きる」の1部8章の一節ですね。
確認したいのですが、あなたが、「流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって返ってくるときが、必ずきます」と言われているのは、信後のことでしょうか?それとも信前のことでしょうか?もしくは、信前、信後に限らないことでしょうか?

あと、親鸞会の活動により苦しい思いをされている方や、今後される方に、あなたが接する機会がありましたら、どうか相手の心を閉ざすようなことをせず、相手の人たちの心をほぐして、なぜそんなことになってしまったのか、何を苦しく思っているのか、よくよく対話をしてほしいと思います。よろしくお願いいたします。

> >> (22)もし、それらの方々が、世の無常や自己の罪悪を知らされたことで苦しんで
> >> おられるのだとしたら、それこそ、仏教の結論であり、親鸞聖人が命がけで開顕された
> >> 「一向専念無量寿仏」を説ききるしか本当の救いはないと思われますが、
> >> いかがでしょうか。
> >
> > あなたが言われたいことはよく分かります。もし、あなたが本当にそのように思われる
> > のであれば、親鸞会の活動によって辛く苦しい思いをする人が、今後なるべく出ない
> > ように、最大限の努力をして頂きたいと、切に願っています。
>
>
> 本当に分かっていただけたのでしょうか。
> そうであれば、「苦しんでいる人は犠牲者」などという言葉は、絶対に出ないはずです。
> 仏の慈悲は、苦しんでいる人にこそ重くかかる、と言われます。
> 真実に向かった苦しみは、決して不幸ではありません。
> 最も、仏の慈悲に近い方です。
>
> あなた自身も、苦しいのでしょう。
> マインドコントロールされようと、されまいと、生老病死は、何人もさけられない人生の真実です。貴方の命も、刻々と死に向かっています。
>
> 「人生から気晴らしを除いたら、退屈と不安しか残らない。最後の幕は血で汚されている」とはパスカルの言葉です。
>
> 今の貴方の人生に、光はありますか。
> 「不思議な解放感」とやらは、今も続いていますか。

間違いなく続いています。これだけはハッキリ言えますよ。「本当に喜びは続いているのか?」と聞かれ、喜びが続いていないのに、「もちろん(続いていない)です」と答えるような、親鸞会学友部風の答え方ではありません。
不思議な解放感は、今も間違いなく続いています。その解放感は日増しに大きくなっているように感じています。


> 「気晴らし」は、所詮、「気晴らしにすぎない」ということが、まだ分かりませんか。
>
もしかしたら、親鸞会で聴聞を続けて、決して出来ない体験を死ぬまでもとめる行為こそ、「気晴らし」かもしれませんよ。

> 真実を謗り続ける貴方がたの人生は、果たして、どこに向かっているのでしょうか。
> 泣いても笑っても、真実の道は一本きりです。
> 私は親鸞学徒として、この真実の教えを一人でも多くの方にお伝えすることに、これからも努力を惜しまないつもりです。

あなたのお気持ちは分かりました。
親鸞会が、より多くの人に喜ばれ、問題点が改善されるように、あなたも努力を惜しまないで下さい。よろしくお願いいたします。


> そこで、貴方がたはいかがでしょう。
> 親鸞聖人の教えを信奉される方々なのでしょうか。
>
> もしそうなら、ぜひ聞法に足を運んでいただきたいものです。
> 二千畳で、親鸞聖人の教え「一実円満の真教」を聴聞しようではありませんか。
> 人生の目的どころではない。多生永劫の目的です。
>
> 過去の経緯など、どうでもいいではありませんか。
> 意地や我慢など、どうでもいいではありませんか。
> ちっぽけなプライドなど、どうでもいいではありませんか。

私もそう思います。親鸞会館に参詣させて頂く機会も、近々あるかもしれません。
その時は、過去の経緯や、意地や我慢、ちっぽけなプライドは捨てて、ともに方を並べて聴聞し、いろいろお話しをしたいですね。よろしくお願いします。


> さて、何回かにわたって、貴方がたとやりとりしてきましたが、貴方がたの非難を通して、親鸞聖人の教えに対する誤解を解き、少しでも仏縁になればという私の目的は、もう果たされました。
>
> 法友からも、
> 「どんな相手か、よく分かりました」
> 「因果の道理もまだ分からない方のようですから、時間がかかるかもしれませんね」
> という声も聞えています。
>
> もう、これで十分でしょう。
> 心ある皆さんには、お分かりいただけると思います。

あなたの目的が果たせたことは分かりました。私がやり取りさせて頂くことにより、何かのお役に立てたのなら、嬉しい限りです。

ただ、私はあなたから長文の質問を受け取り、ますます疑問に思うことがありますので、
毎日、非常に忙しいですが、これからも新たに沸き起こった疑問をお尋ねしてゆきます。
あなたの言葉に対する質問ですから、誠意ある方でしたら、私もここ何度か、あなたへの返答に励んできましたので、あなたも今度は私からの質問に逃げずに返答お願いいたします。

私は「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」の管理人である貴方に、大変感謝しています。あなたが反論サイトを立ち上げて下さったおかげで、私も自分の書いた文章を見直し、考察も深まり、新たなコンテンツを立ち上げてゆく事が出来ました。

また、あなたのサイトとの論争が話題になり、多くの現役会員の方や、元会員、会員の関係者、大学教授といった方からメールを頂き、執筆や投稿、サイト管理に協力して下さる方々もおられました。情報を提供して下さる現役会員の方々も数多くおられました。そして、私のサイトのアクセス数もかなり増え、多くのサイトからリンクもして頂きました。

おそらく、「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」の管理人であるあなたがおられなければ、私も「なぜ私は親鸞会をやめたのか」というたった一つのサイトを立ち上げるだけで、終わっていたことでしょう。

今まで、サイトの立ち上げやメールのやり取りで、多くの意見交換をさせて頂くことが出来、本当に有り難うございました。親鸞会をやめてからの自分の気持ちを整理することがかなり出来たと思っています。

今後とも、私のサイトに何かご意見がありましたら、いつでもメール下さい。お待ちしています。また、あなたへも時間を見つけて、お尋ねしたいことが沢山ありますので、これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


「なぜ私は親鸞会をやめたのか」管理人

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なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
『 なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/5/22
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2006年5月20日に、『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』の管理人様からメールを頂きました。

それについて当方が5月22日に返信したメールを掲載致します。

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「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」の管理人様


メール有難うございました。
読ませて頂きました。

これまで、5ヶ月の沈黙をやぶったあなたから、20以上もの質問が寄せられました。
「あなたの文章に対する疑問なので、責任もって答えてもらいたい」と言われましたので、
時間はかかりましたが、これまで一つ一つ答えてきました。

しかし、あなたは私からの質問にはほとんど答えておられません。
都合のいい部分だけ答えて、都合の悪い部分は一切、答えておられないように思いますが、いかがでしょうか。

そのようなあなたの姿勢では、「誠意がない」と言われても、仕方がないのでは
ないでしょうか?

私が公開しているサイトの文章に対して、親鸞会会員であるあなたが
多々、疑問に思われることはあるかと思います。そのお気持ちは分かりますし、
だからこそ、20以上もの質問となって出てきたのでしょう。

私も自分が書いた文章についての質問でしたので、精一杯答えたつもりです。
しかし、今回のあなたからの返事には、私の質問にはほとんど答えて下さっていません。

最近、現役会員の方からメールを頂く機会が増えてきましたが、
「『読んで』の返答の内容や、やり方は姑息で卑怯だと思う」というメールを頂いています。会員に不信を与えないためにも、私の質問に一つ一つお答え下さるよう、よろしくお願いいたします。親鸞会会員であるあなたの、誠意ある態度に期待しています。

また、現役会員の方が「講師部の人から『親鸞会への批判サイトは本願寺関係者が作っているものだ』と聞かされた」と言われています。もし私のサイトのことでしたら、ひどい勘違いです。おそらくあなた(のサイト)の影響でしょう。以下の質問の(1)にそのことをお尋ねしていますので、しっかりお答え下さい。


では、これまであなたと何度もやり取りをして、疑問に思うことが多々でてきたことを
お尋ねしたいと思います。あなたの言われたことについての疑問点ですので、しっかりお答え頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。


(1)あなたは私について「あなたは本願寺の僧侶と手を組んで、まじめな親鸞会会員に親鸞会をやめるようにそそのかしている」「あなたは本願寺末寺の身内だ」「『親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか』のサイトはあなたが作ったものだ」と言われています。この根拠を教えて下さい。「すべて根拠がある」とのことですので、楽しみにしています。よろしくお願いいたします。

ちなみに、あなたはどう思っておられるか分かりませんが、私は「ネットだからどうせばれないだろう」などと思って、このように尋ねているのではありません。あなたが指摘していることは、私にとってまったく身に覚えのないことばかりです。どうして身に覚えのないことを、認めることができるのでしょうか?何度も言いますが、あなたは完全に私のことを他の人と勘違いされているように思います。

是非、上記の根拠があるのならお示し下さい。よろしくお願いいたします。
根拠が示せないのなら、根拠もなく勝手に決め付けている、と思われても仕方がないでしょう。明確な根拠が出せない場合、また勘違いによるおかしな根拠である場合は、あなたのサイトの「やはり本願寺関係者でしたね」という記述は間違っているということですので、返答よろしくお願いいたします。


(2)なぜ、親鸞会は「華光会」を名指しで批判しないのでしょうか?高森会長が在籍していた「華光会」に対して、名指しで批判できないのは理由が何かあるのでしょうか?教えて下さい。


(3)あなたのもとに、私のサイトを見た何人もの親鸞会を退会した方から「私は、あんな恩知らずになりたくない」とか「親鸞聖人の教えは、今でも信じています。あんな卑劣な人間と一緒にしないでください」というメールが数多く届いている、と言われました。しかし、あなたはまだその中の1通を示されたに過ぎません。私が自分自身のいたらない部分を反省するためにも、そのようなメールが多数あるのなら、それらをお示し下さい。よろしくお願いします。それともメールは1通だけでしょうか?


(4)私が問うているのは、「親鸞会で人生の目的達成出来るのか?」です。親鸞会の幹部や講師部員で救われた人がおられるのなら教えて下さい。ちなみにあなたは会員暦何年でしょうか?もう信心決定されましたか?教えて下さい。


(5)『親鸞会必殺育成法』は親鸞会の幹部が作成したものだとお認めになりますか?もし、お認めにならないのなら、その理由をお聞かせ下さい。


(6)あなたは「親鸞会は、仏法でいう真理を、自然科学的な法則とはっきり区別して説いている」と言われています。しかし、親鸞会の渡部弘宣部長の著書『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』や高森会長の著書『会報』の以下の記述を読むと、疑問を感じてしまいます。

「さて、仏教である。因果律に基づく仏説は、科学そのものといっていい。」

「『般若心経』の「色即是空、空即是色」が、現代物理学の先端をいくアインシュタインの相対性理論に現れる式、E=mc2(Eはエネルギー、mは物質の質量、cは光速度)と同じ意味であるとは、多くの物理学者が指摘するところ。」

「仏教の世界観が真理であることは、現象学が論理的に証明した後、量子力学、素粒子物理学などで実証されている。」

「仏教は因果の道理にもとづき徹底的にかかる宇宙創造説を否定し宇宙の万有は因果の道理に順った生物の自己創造で万有は変化流転して止まず、何ら支配的な神は認めない。これは立派に科学的に証明し得るというより、寧ろ科学そのものというべきであろう。」

これらの著述の内容を「こういう意味で言われているのであり、決して親鸞会は、仏法でいう真理と自然科学的な法則をごっちゃにしている訳ではなく、ハッキリ区別して説いているのだ」と説明して頂けないでしょうか?


(7)ちなみに「「色即是空、空即是色」が、E=mc2と同じ意味」と指摘する「多くの物理学者」など、私はあまり聞いた事が無いのですが、あなたはそのような物理学者を知っていますか?あと、あなたはこの渡部氏の著書を読まれたことはありますか?


(8)あなたは「釈尊45年間の教えを、一度に新入生に伝え、理解してもらえる方法などないのではないか」「『小出しにして、いつのまにか本人の意志で納得して選んだ形をとる』のがいけないとするなら、およそ人間同士の交渉は、すべて成り立たないと思われる。」と主張されています。

これらの主張から「だから、宗教団体である事などを隠して勧誘しても許される」という事を言われたいのでしょうか?それとも「宗教団体である事などを隠して勧誘するのは、悪いことだ」と思われますか?


(9)あなたは私のサイトについて「事実でもないことを事実であるかのように言いふらしでいる」「針小棒大に書きたてたり、誤解を与える事柄だけを取り上げている」と言われています。では、それらはどの部分なのか、分かるように具体的にお示し下さい。
本当にあなたの言われるとおりなら、記述内容を検討しますので、どうぞよろしくお願いいたします。


(10)あなたは「どんな活動でも、『苦しい思いをした』と言われる方はある。それが光に向かっての苦しみであれば、すべてはムダにはならない。生かされる苦しみであり、報われる苦労である」と言われています。では、「光に向かっての苦労」と、「そうでない苦労」は、どこで区別するのでしょうか?

では、あなたからの質問にお答えいたします。

> ただ、看過できない点がありますので、確認いたします。
>
> >「必殺育成法」は、間違いなく親鸞会で作成されたものです。それは、親鸞会の渡部弘宣部長が「著作権侵害」を訴えていることでハッキリしています。
>
> ここで弘宣部長は「誰の著作権侵害」を訴えておられるのでしょうか。
> 「浄土真宗親鸞会の著作権」ですか?
> それとも、ある特定の人物の著作権ですか?
> それをハッキリさせてください。

質問の意図がよく分からないのですが、あなたは、渡部弘宣部長が訴えているのは、
「ある特定の人物の著作権」なのか「親鸞会の著作権」なのかを知りたいと
いうことでしょうか?

本当に知られたいのなら、渡部弘宣部長にお尋ねすればいいと思います。
アドレスはご存知かと思いますが、t-watanabe@jdss.jpです。

私に何を聞かれたいのですか?看過できないとまであなたは言われているので、
もう少し、質問の意図が分かるようにお願いします。


>>(14)貴方が展開しているような、「マインドコントロール論による入信の説明」を、
>>専門家は不毛と断じ、「宗教社会学の議論からは認めることができない」と批判して
>>いますが、それでも貴方は、「親鸞会はマインドコントロールしている」と言い張る
>>のでしょうか。

> 自分の「マインドコントロール論」が破綻した腹いせでしょうか。
> この件に関する貴方の文章も、意味不明です。

申し訳ありません。腹いせで書いたつもりは全くありません。
「意味不明」だけでは、抽象的で理解しづらいですので、「どこがどのように意味不明なのか」を具体的にあげて頂けるとありがたいです。

あなたの主張には、このような抽象的な表現が多いので、こちらもしっかり理解できずにいます。是非、具体的に教えて下さい。あなたの言われる意図をこちらも正しく理解したいと思いますので、よろしくお願いいたします。


> 結局、貴方が最大の問題として繰り返し述べていることは、「親鸞会ということを言わない勧誘」ということのようですが、大学のサークルで学生さんたちが勉強会などを開く場合には、そんなこともあるでしょう。
>
> いろいろなことを縁として、仏縁を結ばれる人があるということです。
>
> やましいことがあるから隠しているのだろう、などというのは、下衆の勘ぐりというものです。
>
> いろいろな誤解もあるでしょうが、親鸞会の正しい姿を知っていただけば、いずれも解消されることだと思います。

1回、2回、数名の有志で勉強会を行うのなら、あなたの言われるようなことも、
もしかしたらあるのかもしれません。(それでも、外に向けては「親鸞会」と
名乗るべきだと私は思いますが)

しかし、勉強会だけに限らず、新人を勧誘する活動においても、自分たちの団体名を
名乗らないですし、そのような不透明な勧誘をもう何年も続けているのが親鸞会学友部です。多くの批判にされされているように、明らかに異常です。

そのことを以下の文章で指摘しているのです。

「親鸞会は本当に変わるのか」
大学における巧みなカモフラージュ
/kawaru3.html

名乗らないのは、「名乗れない」からです。その理由が必ずあるのです。結果には原因があると親鸞会では教えられているのではないでしょう?
その「親鸞会と名乗れない理由」とは一体なんでしょうか?

あなたは、どんな理由だと思われますか?「下衆のかんぐり」などではない、
彼らの立場からみた正当な理由があるのでしょう。あなたは、どう思われますか?
あなたのご意見を聞かせて下さい。


> いつでも、どうぞ。
> 貴方の後生の一大事は、あなた自身が真剣に聴聞する以外に解決の道はありません。
> ただし、その前に、貴方のサイトに関するすべての責任を取ってもらわなければなりません。

分かりました。機会があれば、是非参詣させて頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

「参詣するなら、その前にサイトに関する全ての責任をとってもらう」とは、具体的にどのようなことを意味しておられるのでしょうか?サイトを公開していることで、何か責任が生じるような問題でも起きているのでしょうか?どのようなことをすれば、責任をとったことになるのでしょうか?分かるように教えて下さい。よろしくお願いいたします。


あと、私のことを以下のように言われていますが、

> 因果の道理を否定する貴方は、仏法者ではなく、間違いなく外道です。
>
> だから、仏法の真髄を説かれた親鸞聖人の教えが、貴方には片鱗も理解できていないのです。

まず、私は「親鸞会の説く因果の道理は大宇宙の真理」だという主張を、否定も肯定もしていません。「それが大宇宙の真理であるのかどうかは分からない」「親鸞会の説く因果の道理が大宇宙の真理だと思うのも、宗教的な信念に過ぎないのでは」と言っているのです。これは「なぜやめたのか」を書いたときから、主張していることです。
「手のひらを返すような豹変ぶり」ではありませんよ。

そして、「親鸞会の説く因果の道理が、大宇宙の真理であるのかどうかは分からない」と言っているのは、「因果の道理が三世を貫いて、大宇宙において原理法則として成り立っているのかどうかが分からない」という意味です。
善いことをするのを否定したり、悪に誇っている訳ではありませんよ。

「親鸞会の説く因果の道理が、三世を貫いて大宇宙の真理として寸分の狂いもなく働いている」ということをどうして理解できるのか、疑問なのです。それは宗教的な信念により、信じているに過ぎないのでは、と言っているのです。
しかし、私はできるだけ善いことをしたいですし、悪い事はしたくない、と勿論思っています。

ただ、このような気持ちがあるからといって、必ずしも「因果の道理は大宇宙の真理だと信じて行動している」ことにはならないと思いますが、いかがでしょうか。

親鸞会では、「一生懸命、勉強するのも、勉強すれば成績があがると信じているからであって、それは因果の道理を信じているからだ」といった分かりやすい説明がよくなされていますが、それは、この場合における「勉強すること」と「成績があがること」の因果関係を経験則から学んで知っているのであって、「だから、親鸞会の説く因果の道理は、三世にわたって成り立っている大宇宙の真理である」などと結びつけるのは、あきらかに論理の飛躍があるように思います。

しかし、親鸞会を批判する人たちを、「因果の道理を否定している外道である」と表現するのは、親鸞会会員に対しては、非常に有効な表現方法だとは思いますよ。
「因果の道理を否定する外道」とは、非常に使い勝手のいい言葉だな、と思ってしまいます。


> まじめな聞法者の真摯な苦しみも、仏法をなんとかお伝えしたいという方々の苦労も、まったく理解できないのです。

あなたも、親鸞会の活動で苦しんでいる人たちの心の痛みをまったく理解できていないのではないでしょうか。だから、会員である人からも、「『読んで』の管理人の返答には、嫌なものを感じる」と思われるのではないでしょうか。


> 貴方は気づいておられないでしょうが、そんな精神の幼児性が、文章の随所に現われています。

貴方は気づいておられないでしょうが、このような相手を貶めるような言葉を、あなたはよく使っておられます。このように言われるのなら、「精神的な幼児性が現れている文章」を具体的に教えて頂けないでしょうか?よろしくお願いいたします。


親鸞会には問題点も多いと思っていますが、よいところも多々あると思いますし、親鸞会の存在意義はいろいろあるかと思います。自分がかつて所属していた団体には、是非、よくなってもらいたいと思いますので、会員であるあなたにも、私の意見を通して、そのことをよくよく考えて頂きたいと思います。

では、お返事お待ちしていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

「なぜ私は親鸞会をやめたのか」管理人
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『 なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ 2006/6/2
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2006年5月30日に、『なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』の管理人様からメールを頂きました。それについて当方が6月2日に返信したメールを掲載致します。

その後催促のメールも送りましたが、現在に至るまで先方からの反論・返信は無くなりました。

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「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」の管理人様


「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の管理人です。
お返事頂き、ありがとうございました。読ませて頂きました。

まず、私からの質問に一切お答え下さっていないようで、非常に残念でした。
あなたは、私からの質問に答えない理由を以下のように言われています。

> また、貴方の質問は、すでにお答えしたことの繰り返しや、私とは無関係なものばかりです。
>
> あとは、ご自分で勉強されたらいいでしょう。
>
> いつまでも、他人に頼ってばかりでは、成長がありませんよ。

「すでに答えたことの繰り返し」とは、どの質問のことを言われているのでしょうか?あなたが返答されていたのに、私が読み飛ばしていたでしたら、申し訳ありません。どの部分をことを言われているのか、簡単にでけっこうですので、教えて頂きたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

あと、私がした質問に、「あなたと無関係な質問」があったでしょうか?もし、そのようなものがありましたら、申し訳ありませんでした。
しかし、以下の質問は本当にあなたに無関係な質問でしょうか?

以下の(1)から(9)の質問は、いずれもあなたが私に言ってこられた言葉から生じた疑問を質問していることです。あなたが言われなければ、でてこなかった疑問であり、質問です。あなたの言ったことについて、あなたにお尋ねしていますので、ご自分の述べられたことを自覚しておられるのでしたら、責任ある回答をよろしくお願いいたします。

(1)あなたは私について「あなたは本願寺の僧侶と手を組んで、まじめな親鸞会会員に親鸞会をやめるようにそそのかしている」「あなたは本願寺末寺の身内だ」「『親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか』のサイトはあなたが作ったものだ」と言われています。この根拠を教えて下さい。「すべて根拠がある」とのことですので、楽しみにしています。よろしくお願いいたします。

ちなみに、あなたはどう思っておられるか分かりませんが、私は「ネットだからどうせばれないだろう」などと思って、このように尋ねているのではありません。あなたが指摘していることは、私にとってまったく身に覚えのないことばかりです。どうして身に覚えのないことを、認めることができるのでしょうか?何度も言いますが、あなたは完全に私のことを他の人と勘違いされているように思います。

是非、上記の根拠があるのならお示し下さい。よろしくお願いいたします。
根拠が示せないのなら、根拠もなく勝手に決め付けている、と思われても仕方がないでしょう。

明確な根拠が出せない場合、また勘違いによるおかしな根拠である場合は、あなたのサイトの「やはり本願寺関係者でしたね」という記述は間違っているということですので、返答よろしくお願いいたします。

(2)あなたのもとに、私のサイトを見た何人もの親鸞会を退会した方から「私は、あんな恩知らずになりたくない」とか「親鸞聖人の教えは、今でも信じています。あんな卑劣な人間と一緒にしないでください」というメールが数多く届いている、と言われました。しかし、あなたはまだその中の1通を示されたに過ぎません。私が自分自身のいたらない部分を反省するためにも、そのようなメールが多数あるのなら、それらをお示し下さい。よろしくお願いします。それともメールは1通だけでしょうか?

(3)私が問うているのは、「親鸞会で人生の目的達成出来るのか?」です。親鸞会の幹部や講師部員で 救われた人がおられるのなら教えて下さい。ちなみにあなたは会員暦何年でしょうか?もう信心決定されましたか?教えて下さい。

(4)『親鸞会必殺育成法』は親鸞会の幹部が作成したものだとお認めになりますか?もし、お認めにならないのなら、その理由をお聞かせ下さい。

(5)あなたは「親鸞会は、仏法でいう真理を、自然科学的な法則とはっきり区別して説いている」と言われています。しかし、親鸞会の渡部弘宣部長の著書『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』や高森会長の著書『会報』の以下の記述を読むと、疑問を感じてしまいます。

「さて、仏教である。因果律に基づく仏説は、科学そのものといっていい。」

「『般若心経』の「色即是空、空即是色」が、現代物理学の先端をいくアインシュタインの相対性理論に現れる式、E=mc2(Eはエネルギー、mは物質の質量、cは光速度)と同じ意味であるとは、多くの物理学者が指摘するところ。」

「仏教の世界観が真理であることは、現象学が論理的に証明した後、量子力学、素粒子物理学などで 実証されている。」

「仏教は因果の道理にもとづき徹底的にかかる宇宙創造説を否定し宇宙の万有は因果の道理に順った 生物の自己創造で万有は変化流転して止まず、何ら支配的な神は認めない。これは立派に科学的に 証明し得るというより、寧ろ科学そのものというべきであろう。」

これらの著述の内容を「こういう意味で言われているのであり、決して親鸞会は、仏法でいう真理と自然科学的な法則をごっちゃにしている訳ではなく、ハッキリ区別して説いているのだ」と説明して頂けないでしょうか?


(6)ちなみに「「色即是空、空即是色」が、E=mc2と同じ意味」と指摘する「多くの物理学者」など、私はあまり聞いた事が無いのですが、あなたはそのような物理学者を知っていますか?あと、 あなたはこの渡部氏の著書を読まれたことはありますか?

(7)あなたは「釈尊45年間の教えを、一度に新入生に伝え、理解してもらえる方法などないのではないか」「『小出しにして、いつのまにか本人の意志で納得して選んだ形をとる』のがいけないとするなら、およそ人間同士の交渉は、すべて成り立たないと思われる。」と主張されています。

これらの主張から「だから、宗教団体である事などを隠して勧誘しても許される」という事を言われたいのでしょうか?それとも「宗教団体である事などを隠して勧誘するのは、悪いことだ」と思われますか?

(8)あなたは私のサイトについて「事実でもないことを事実であるかのように言いふらしでいる」 「針小棒大に書きたてたり、誤解を与える事柄だけを取り上げている」と言われています。では、それらはどの部分なのか、分かるように具体的にお示し下さい。本当にあなたの言われるとおりなら、記述内容を検討しますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(9)あなたは「どんな活動でも、『苦しい思いをした』と言われる方はある。それが光に向かっての苦しみであれば、すべてはムダにはならない。生かされる苦しみであり、報われる苦労である」と言われています。では、「光に向かっての苦労」と、「そうでない苦労」は、どこで区別するのでしょうか?


以上の九つの質問に対して、返答をよろしくお願いいたします。

親鸞会の高森会長は、以下のようにおっしゃっていますよ。

「他を批判した以上、最後まで、その内容には、責任を負うのが、常識人のとるべき態度である。ところが、その常識を、公然と、じゅうりんしてはばからぬ、自称、仏法者が存在するのだ。」 (『本願寺なぜ答えぬ』高森顕徹・著)

会長先生はこのように仰っておられますよ。もし、あなたが私のサイトを批判されたにもかかわらず、ご自分の書かれた文章に対する責任を負わず、私からのメールに返答されないようなら、まさに、会長先生が仰せの「常識を公然とじゅうりんしてはばからぬ自称仏法者」ではないでしょうか?

また、親鸞会の機関紙『顕正新聞』には、以下のように書かれています。

「親鸞聖人のみ教えは、演出やハッタリ、一時のお祭りムードで伝わるようなものではない。今日一日、目の前の人に、まず全力で伝え抜く。非難に耐え、誤解を解き、質問にはとことん答える。”こんな真実、世界のどこにもない、これは叫ばずにおれん”と相手が心から思えるまで、深く深く、真実の言葉を打ち込む。」(顕正新聞18年3月15日号 論説「心の荒野を開拓する」より)

「顕正は、迷信との対決だ。はじめは鉄板に種を蒔いているように感じる。「お前、何考えとるんだ」と、ぼろくそに言われることもあろう。そこを、信念をもって話してゆく。議論がうねり始めてからが勝負だ。時間をかければ、相手の論理は必ず破れる。」 (顕正新聞18年3月15日号 大喝「大事なのは熱だ」より)

真実を叫べば、反発や反論は出るものです。それらの疑問、質問に徹底的に答え、激論が交わされてこそ、あなた方の言われる真実も明らかになるのではないでしょうか?

もし、自分に都合の良い質問にばかり答え、都合の悪い質問や議論には一向に答えようとされないのであれば、あなたは、会長先生の仰せにも、顕正新聞の内容にも反する親鸞学徒と言えない者となりはしないでしょうか?

どうか、二度と「答える必要性を感じない」とか、「私には関係のない質問だ」などと言われることなく、私からの質問に誠意をもって、お答え頂きたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

> 結局貴方は、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉には、何一つ触れることができませんでしたね。
> 「親鸞会の教え」と繰返すばかりでしたが、すべては仏説であり、親鸞聖人、蓮如上人の教えです。

過去にあなたがサイトの中で、「なぜ親鸞聖人のお言葉が出てこないのか?」と聞いておられましたので、それにはすでに答えてきましたがいかがでしょうか?それこそ、今まで何度もやりとりしている通りです。分かられなければ、過去、私が述べた部分をお示しいたしますので、よろしくお願いします。

> 仏法で最も恐ろしいと教えられる罪を繰返しながら、それを、廊下にゴミを捨てたほどにも感じていない今の貴方には、何を言っても届かないのかもしれません。
>
> そんな貴方の姿を、はてしない流転輪廻を繰返してきた過去の己の姿として、反省するご縁とさせていただきました。
>
> 私は、釈尊、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を光として、親鸞学徒として生きていきたいと思っています。

「親鸞学徒として生きていきたい」とのあなたの思い、尊く思います。先ほども述べましたが、高森会長も言われているように、「他を批判した以上、最後まで責任をもつ」ために、私の一つ一つの質問にしっかりお答え頂きたいと思います。

また、親鸞会の機関紙に書かれているように、親鸞学徒として反論や反発から逃げられずに、返答よろしくお願いいたします。

もし、返答をなされないようであれば、非常に無責任であり、高森会長の言葉や顕正新聞に述べられている親鸞学徒の姿に反するのではないかと思います。あなたが「親鸞学徒として生きていきたい」との願いも、言葉だけがむなしく響いているようです。

どうか、誠意あるご返答よろしくお願いいたします。


> 結局貴方の「マインドコントロール論」は、「親鸞会と名乗らないから問題」という1点になってしまいましたが、これはまったくつまらない議論です。
>
> 親鸞会と聞いてご縁を結んだAさんと、はじめは親鸞会と聞いていなかったBさんと、同じご法話に参詣し、同じように教学を学び、同じように親鸞聖人の教えを求めたとして、貴方の言い分では、Aさんは問題ないが、Bさんはマインドコントロールされている、ということになるのでしょうか。
>
> かわいいというか、取るに足りないことです。
>
> マインドコントロールということの本質を理解していないから、このようなことが疑問になるのでしょう。

私は「Bさんがマインドコントロールされている原因は、『最初に親鸞会と聞かされなかったこと』だ。ただその一つの理由で、Bさんはマインドコントロールされていると言えるのだ」と言ったでしょうか?

あなたのほうこそ、私がこれまでマインドコントロールについて、述べてきたことを誤解されているのではないでしょうか?

また、Bさんのような多くの人が、「親鸞会に騙された」「親鸞会という自分たちの立場を隠していた」「親鸞会の人たちは、最初、親鸞会とも言わないし、立場も詐称している」などと親鸞会を批判するようなら、やはり親鸞会に問題があるのではないでしょうか?

あと、あなたは「取るに足らないことです」と言われていますが、これは「親鸞会学友部が最初に親鸞会と名乗らずに新入生に近づき、勧誘することは、特に問題ではなく、取るに足らないことだ」という意味でしょうか?「取るに足らないこと」とは、何のことか、分かるようにご説明お願いいたします。

> >ただ、看過できない点がありますので、確認いたします。
> >
> >>「必殺育成法」は、間違いなく親鸞会で作成されたものです。それは、親鸞会の渡部弘宣部長が
> >>「著作権侵害」を訴えていることでハッキリしています。
> >
> >ここで弘宣部長は「誰の著作権侵害」を訴えておられるのでしょうか。
> >「浄土真宗親鸞会の著作権」ですか?
> >それとも、ある特定の人物の著作権ですか?
> >それをハッキリさせてください。
>
>
> 上記の件は、やはり、まともな返答はできませんでしたね。
>
> 教えていただいた通り、弘宣部長にメールをしてお尋ねしたところ、回答を頂きました。
>
> それによりますと、『「顕正虎の巻」「必殺育成法」は、作成者の承諾なしに掲載されているとすれば、著作権侵害になり、infoseekの規約に違反する』という内容をプロバイダに送信した、というものでした。
>
> つまり、infoseekの規約第17条第1項4号の「他の会員、第三者もしくは当社の著作権、商標権等の知的財産権を侵害する行為」に該当している可能性が非常に高い、という訴えであるということです。
> 「親鸞会の著作物」であることは、どこにも触れられていません。
>
> それを「間違いなく親鸞会で作成したことがハッキリした」とは、貴方しか言えないことでしょう。

渡部弘宣部長様から、そのように教えて頂いたとのこと、分かりました。
おそらく、渡部弘宣部長も『最も重要な点』は隠すしかなかったのでしょう。

昨年11月18日に、浄土真宗親鸞会弘宣部長の渡部氏の代理人から頂いたメールに、

>貴殿が管理する特定電気通信設備に掲載されている下記の情報の流通により会の権利が侵害された

とあり、

>侵害されたとする権利:
>著作権、プライバシー権
>削除を求めます。

と書かれていますが、この部分は教えて下さらなかったでしょうか?

渡部氏は、「会の権利が侵害された。侵害されたのは著作権である」とハッキリと書いておられます。

著作権法第7条に、「著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権、著作権、出版権、実演家人格権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。」とあります。

しかし、親鸞会は「著作者」でも「著作権者」でも「出版権者」でもないのに、「会の著作権が侵害された」と主張しておられるのでしょうか?

それとも、「親鸞会のものだとは言わないが、親鸞会の著作権が侵害されたので、削除を求める」というのが親鸞会の主張なのでしょうか?

もしそのようなことなら、「親鸞会に都合の悪い情報を消すために、法的根拠もなく圧力をかけてきた」と思われても仕方がないのではないでしょうか。「大宇宙の真理を伝える唯一の団体であり、地域住民からも信頼されている」といわれる親鸞会がそのようなことをするとは、私には考えられないのですが…いかがでしょうか?

渡部氏はあなたに「あれらのマニュアルは親鸞会で作られたものではない」とは、言わなかったのでしょうか。おそらく、この点を渡部氏は自分で分かっていて、誤魔化すしかなかったのではと思います。

是非、もう一度このことを渡部氏に尋ねてみて下さい。
よろしくお願いします。

あと、以下の部分についても、あなたが言われたことの意味がよく分かりません。
返答よろしくお願いいたします。

> いつでも、どうぞ。
> 貴方の後生の一大事は、あなた自身が真剣に聴聞する以外に解決の道はありません。
> ただし、その前に、貴方のサイトに関するすべての責任を取ってもらわなければなりません。

分かりました。機会があれば、是非参詣させて頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

「参詣するなら、その前にサイトに関する全ての責任をとってもらう」とは、具体的にどのようなことを意味しておられるのでしょうか?サイトを公開していることで、何か責任が生じるような問題でも起きているのでしょうか?どのようなことをすれば、責任をとったことになるのでしょうか?分かるように教えて下さい。よろしくお願いいたします。

「なぜ私は親鸞会をやめたのか」管理人
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現会員の方からの反響
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メールを寄せられた方の中に、どうしてこのサイトは退会者の文章ばかりを反響として掲載して、現会員の方からのメールがないのか、という質問を頂きました。それについて、説明を致します。

このサイトには、現会員の方からのメールも沢山頂いております。しかし、会を擁護する立場の方からは、「サイトを閉鎖せよ」「謗法の大罪を覚悟せよ」といった非常に感情的なメールの他には、「法的に責任を取って頂く」という類のメールしか届いていないのです。

当方はそういったメールを掲載しても良いと考えているのですが、こちらから返信をしても何の音沙汰もないので、残念ですが現状では掲載出来ません。

それ以外での現会員の方からのメールとしては、親鸞会について深刻な疑問や悩みをお持ちの方が非常に多く、最近は学友部の幹部や福徳会員、講師部員といった方からのメールもあります。しかし内容があまりに具体的であるため、送られたご本人が掲載を希望されないほか、こちらとしても様々なリスクを考え掲載は出来ないと考えております。

その他には、親鸞学徒と称する方から、当サイトへの反論サイトが出来ておりますので、これも広義の意味で会員の方からの反響と思ってよいと思います。

ただ、大変残念なのは、こうしたサイトで当方を「京都の本願寺布教使の某グループ」や「本願寺の関係者」と言ってみたり、「かわいそうな人」「思いこみの激しい人」「変な人」「悪質な中傷」「迷いの姿そのもの」「幼稚な信仰」といった言葉が頻繁に現れることです。

私自身は「本願寺」でも「某グループ」でもありません。その事だけは誤解をただしておきたいと思いますが、それ以外はどんなことを言われようと、別段構いません。自らが大切に思い、信じてきた「親鸞会とその教義」を、守ろうと思って、必死になっておられるのでしょう。そのお気持ちは、よく分かります。

ただ、こうしたサイトを作成される方が、親鸞会によって悩み、苦しんでいる方々の声の十分の一でも聞き、「教えがわかってない人」「欲に流された人の愚痴」と切り捨てるのではなく、真摯にその人達の声を受け止めることが出来たらならば…私の元にこれだけ沢山の方からメールが来ることもなかったでしょうし、私に感情的な言葉を投げつける必要もなかったのではないかと思うのです。

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高森顕徹氏と親鸞会の問題
高森顕徹氏と親鸞会の問題
この文章は「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を公開してまもなく、投稿文として寄せられてきたものです。高森顕徹氏は本当に親鸞、蓮如両聖人に続く「唯一の善知識」なのか。下の文を読んで1人1人が真剣に考えて頂きたいと思います。

投稿文|高森顕徹氏と親鸞会の問題
1.親鸞会の集金システム
2.法もまた財なり、財もまた法である
3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
4.高森顕徹会長への礼賛
5.なぜ隠すのか

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか

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高森顕徹氏の著書のルーツ
高森顕徹氏の獲信体験
明橋大二医師と親鸞会

参考サイト
浄土真宗親鸞会について考えるページ ジャンヌ
浄土真宗親鸞会被害家族の会
浄土真宗親鸞会の謎



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高森顕徹氏と親鸞会の問題
1.親鸞会の集金システム
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親鸞会ではどのくらいお金がかかるのか
世の中の新宗教・新々宗教の問題を論ずるときに、必ず問題になるのがお金の問題です。
ここでは親鸞会におけるお金の問題についてお話し致します。

実際に親鸞会の会員はどの程度のお金を出しているのでしょうか。
何人かの現会員・元会員に、過去一年間親鸞会関連で使ったお金を列記してもらいました。

現役学生会員(大学生)Aさんの場合

正本堂+地下道御報謝:約30万(付帯設備の御報謝も含む)
その他御報謝:約3万くらい(もっとあるかも)
会費:約15万
本部行事御報謝:約15万(降誕会・報恩講や学生大会などを含む)
合宿費:約6万くらい
交通宿泊費:約23万(平均9000円として)
地元行事御報謝:約6万(一月5000円計算。多分もっとある)

合計 約98万円/年 (内、交通宿泊費など親鸞会以外に支払われたもの 約23万円)

これは、決して親からの仕送りのみで生活している人のことではありません。
Aさんは、住居費以外のほぼ全て(学費も含め)を自分の収入と貯金などから捻出しています。その大きな収入源は、アルバイトと奨学金です。

ひと月にどれくらい親鸞会にお金を使っているか、具体的な数字を出してくれました。

食費(おごり、及び合宿は含まず)   10536円
雑費(雑貨類+後輩へのおごり+仏花) 25545円
親鸞会関係(交通宿泊+会費+御報謝) 93833円
地元交通費(部会やアルバイト)   8640円

合計 138554円

これは、正本堂落慶法要の月であったため、学生の御法礼30000円(一般は50000円)が含まれています。
全体の3分の2は親鸞会関係で使っているということになります。
しかし、これは決してオーバーな数字ではありません。
この人は、「多いときには御報謝(財施)や会費等だけで月に20万円くらい使いました」と語っています。

そして、一般の会員の場合はもっと多くなります。

元一般会員Cさんの場合(独身 20代)

正本堂+地下道 約60万
支部の御報謝 約8万
会費 約25万
御法礼 約26万(御法話5000円、支部行事、報恩講等含む)
新春大会 2万
サイン入り御著書 10万(落慶法要の御法礼を含む)
交通費 約15万
宿泊費 約5万

合計 約151万/年 (内、交通宿泊費など親鸞会以外に支払われたもの 約20万円)

繰り返し申し上げることですが、これらの財施の額は特別な物ではなく、一般的な会員と比べても決して多くはない、と言うことです。
私の知っている現役会員は「年200万円位は余裕で使っている」と言っていますし、幹部クラスですともっと多額のお金をつぎ込んでいる人も珍しくはありません。

『別冊宝島・救いの正体』で親鸞会のルポタージュが掲載されたときも、元会員が大学1年生の4月から2年生の6月までで、65万円を親鸞会に費やしたことを証言しています。親鸞会に入り立ての新入生でさえそうなのですから、会員歴の長い会員については推して知るべしでしょう。

お金を出した人ほど、前の席で法話が聞ける
もちろん、これらの財施は強要されるものではなく、あくまでも任意のものです。

では、実際にどのように財施が募られているのでしょうか。

まず会費です。これは次のように決められています。(2006年時点)

10燈会員    100万円/月 恩徳報謝賞 証賞
 9燈会員     50万円/月 恩徳報謝賞 信賞
 8燈会員     25万円/月 恩徳報謝賞 行賞
 7燈会員     15万円/月 恩徳報謝賞 教賞
 6燈会員     10万円/月 恩徳報謝賞 教賞
 5燈会員      7万円/月
 4燈会員      5万円/月
 3燈会員      3万円/月
 2燈会員      2万円/月
 1燈会員      1万円/月
 学燈会員    7000円/月
  親会員     3000円/月
 学生会員    2000円/月


以上のように会員は会費事に細かく区別されています。

また、6燈以上の会員は「福徳会員」となり一般会員と区別されるため、銀製の特別なバッチを付けることが出来ます。
親鸞会の本部会館にいけば、銀のバッチを付けた人が意外に多いことに気づかれると思いますが、それらはみな、月に10万円以上の財施を会に納めている人達です。
これらの人達は「恩徳報謝賞」という賞をもらえ、名前が全会員に発表されます。

さらに1燈以上の会員は、「整列番号」といって、どれだけ高森顕徹氏の法話を前の席で聞けるか、という並び順を決める番号をもらえるのですが、これもこの会員の種別を基準に決定されます。
つまりお金を沢山納めている人ほど、前で法話が聞けるわけです。
この番号は参詣の際に着用する名札に明記されます。

これを疑問に思う人には、「仏縁の深さによって席が決まる」と言うように会内では指導されていました。

更に法話の際には「御法礼」が集められます。
高森顕徹会長の法話の場合、通常だと御法礼額は5000円と決まっています。
降誕会や報恩講の時は、1日1万円、2日で2万円になるほか、
40周年記念大会や、正本堂落慶記念法要のような特別な行事の時は、2日で4〜5万円となっています。

さらに、「御法話の御報謝」というのもあり、高森顕徹会長の法話の場合は1万円以上でリボン1つ、2万円で2つなど細かく規定されており、このリボンを付ければ前の方に座れる、といったものです。
これも特別な行事のある時は、「5万円の御報謝で高森先生の特別な著書が頂ける」といった記念品の案内があり、その額に応じた御報謝が募られます。

このように、一度本部会館に参詣すると、名札の整列番号やリボンの有無で、誰がどれだけ財施しているのか一目で分かってしまうのです。
「名誉欲ですよ。金銭的に苦しかったが、幹部として少ししか財施していないと思われるのが嫌だったので、無理にでもせずにおれなかった」とある元幹部は語っています。

その他、毎日のように行われる地元地区の法話や会合で、一回500〜1000円程度の御法礼を納めるほか、交通費もそれなりにかかります。



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高森顕徹氏と親鸞会の問題
2.法もまた財なり、財もまた法である
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正本堂建立御報謝

ほかに正本堂建立御報謝、と言うのもあります。
正本堂とは、平成17年11月に完成した1万人収容の大講堂のことで、120億円程度(公表されていない)の費用がかかっていると言われています。

これだけの巨額なお金を、僅か1万人程度の会員で集めようとしたのですから、その過酷さは想像に余りあるでしょう。

正本堂の募財は平成9年から始まりましたが、ある北陸の会員は、
「御報謝額が足りない、何度も募り直しがあり、その度に幹部が顕正室に集まって何時間も財施の意義を聞かされた。
御報謝の予約用紙を書き換えるまで返してもらえない雰囲気だった。」と証言
しています。

しかしこのあとしばらくは正本堂の着工は始まらず、会の財政が厳しいと言うことで、暗に「正本堂御報謝の納入を先送りにしてその分を会費の増額にまわすように」という指導が行われています。(その時幹部会合などではよく「親鸞会あっての正本堂ですから」と言われていました。)

その後、平成14年に正本堂の着工が始まると、再び正本堂御報謝の募り直しが始まり、平成17年の完成後も費用が足りないとしてさらなる財施の募り直しが行われています。

その他にも、
月に2〜3回しか使わない、駐車場と大講堂を結ぶ地下道(20億円以上)、
金ピカの鷲のマーク(3億円?)、
仏壇・仏間(不明)、
大型映像装置(不明)
といった募財が次々と行われ、
建立後も、壁画を書くといっては一口10万円の御報謝が募られたり、
85万円の座布団の募財など、次から次へと休みなく募財が行われています。


その中、
ロビーに大きな有名な画家に書かせた松林の絵を掲げたり、
多額の費用をかけて地下道の出口を削り、ベルサイユ宮殿風の柵と天女のレリーフを付けたり、

などの作業も行われてきました。

正本堂に募財した人は銘板に名前が書き記され、その納入額に応じて名前の大きさも変えられています。

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親鸞聖人が泣いておられます
親鸞会はどんなに教えを説いても、相手が自発的に財施をされない限り、一円の請求もできませんし、してはなりません
(中略)
その親鸞聖人の教えを伝える親鸞会は、物も金も如来聖人からお預かりしたものですから、一人でも多くの人に親鸞聖人の教えをお伝えするためにのみ、使わせていただいているのです。
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【顕真 平成15年6月】

財施はお金や物を、人に施すことです。大切なのは、量の大小ではなく、心であると教えられています。

【とどろき 平成17年3月】
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私は決して財施が悪いと言っているのではありません。
話を聞くのに講堂が必要なのは言うまでもないことです。
人件費も必要です。
宗教者は霞を食べて生活しているわけではありません。

しかし、自分自身が親鸞会の募財に密接に関わった身として、親鸞会の募財活動が「相手の自発的な財施」に限られていたのかどうか、極めて疑問に思います。

支部長、副支部長、地区長などの幹部約十数名が、顕正室にあつまり、目標に満たない額をどう募ってゆくか、という話しになりました。

目の前に、それぞれどの地区で、誰がいくら納入しているのか、が書かれた名簿を置いて、みな腕組みをして悩んでいます。

結局、お金を出すのは、その場にいる人以外にありません。

支部長が「○○副支部長、あなたの地区はあとどれくらいできますか…」と、支部長も言いづらそうにされながら、副支部長に聞かれ、副支部長は「う〜ん…」と腕を組んだまま、黙ってしまいます。

そのようなやり取りを、何度も何度もして、時間は夜11時、12時となってゆきました。

そして、「もう自分たちが言うしかない。そうしないと帰れない」というような異様な雰囲気になってゆき、支部長が「私があと○○万円頑張ります」と言い、しばらくして、副支部長が「じゃあ、私はあと○万円やります」となります。

何人かの人が、自分の予約額を追加してゆきました。
それでもあと数万〜10万程、目標に満たないので、沈黙が続く中、「分かりました!私がやります!!」と最後支部長が言って、目標を上回り、ようやく全員が帰れる、と言った感じでした。

時間は夜1時過ぎでした。

形は「自主的なもの」ですが、こんな財施が本来の財施なのか、と正直、憤りを感じました。


【元幹部会員からのメール】

この体験は決して特殊な物ではなく、全く同じ経験を私も幾度もしています。

また、大講堂に数億の金ぴかのマークを付けて威容を誇ったり、高価な絵や装飾品で飾り立て、自分の著書を皮の装幀を施し配布して、その度に会員に高額な募財を募る様なやり方が、果たして「親鸞聖人の教えをお伝えするためにのみ」の募財と言えるのでしょうか。

そして、お金を出した人がより前で聞け、ほぼ財施額によって決まる番号のついた名札の着用を義務づけるようなシステムは、果たして「大切なのは、量の大小ではなく、心である」と言えるのでしょうか。

私は会内にいたときに、「言っていることと、やっていることが違いすぎないか」と幾度となく言われました。
当時は財施の心構えを分かっていない人だと思いましたが、いまはそう思われても仕方のない部分が、親鸞会には沢山あると思っています。

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こんなことでは後生の解決どころか、この世の事すら解決出来ないではないか、情けない。
それどころか又、会費があがったとか、又お金を集めるとか、思ってはならぬ心がムクムクと出て来ます。
財施をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心が出て来ます。

【顕正新聞 昭和44年5月】

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思えば我々親鸞会々員が今日こうして生まれ難き人間界に生を受け、聞き難き仏法を聞かせて頂いているのも阿弥陀仏、そして高森顕徹会長先生ましませばこそである。
いわば世界中で最高の洪恩を蒙っている幸せ者である。
ところが我々は、受けた恩徳は無量であるのに返す財施は限りあるどころか雀の涙ほども出来ない横着者であるこれでは助かりようがない。

【同紙 昭和45年5月】

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どうせくだらんところにしか使わない金だ。
それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。
酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、これが真の仏法者の務めである。
何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。
(中略)
親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。

【同紙 昭和53年10月】
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「もういい加減な求道はできません。何としても今生で信心決定するため、新本部財施に命をかけます」

【同紙 昭和61年6月】
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財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。
家や田んぼを売っても損はしないのです。
計算して財施するというのは嫌々ながらやることです。
そうではなく、喜んでお金を出す。
それが喜捨なのです。
家を売っても、アパートで生活すればいいのです。
喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。

(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)


【米本和広著 教祖逮捕 p165】

金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)


【顕真 平成15年9月】

親鸞会に在籍していたとき、活動の中心は募財であり、いつも何かの御報謝を集めるのに必死でした。
沢山お金を出せば「○○さんは仏縁深い」と褒められ、会費を減額したいと申し出るとその理由を何度も聞かれました。
学生時代は「無駄遣いをしないように」と金銭出納帳の提出を求められました。

さらに、かつてはチューリップ企画から親鸞聖人のアニメが出るたびに「アニメ製作御報謝」、今は1万年堂出版から、高森顕徹会長の著書が出るたびに「出版記念御報謝」が募られました。

当時「出版記念御報謝」は、「高森先生の御著書の宣伝費として使われる」というふれこみで、10万円以上の御報謝には「高森先生のお歌入りの本が頂ける」となっていました。
事実ならば、1万年堂出版という会社の宣伝費が会員の浄財でまかなわれていた訳です。

また、会内には「遺弟会」といって、特に仏縁が深いと言われる若者が認定される集まりがありますが、一定額以上の財施をしていないと選考対象にすらなりません。

月に一回教学講義という高森顕徹会長自らの講義が行われているのですが、これも一定額以上の財施か、もしくは規定の活動日数をこなした会員でないと受講資格は与えられません。

親鸞聖人の著作に、直接に財施を勧められた文章はありません。
また、財施と救いを結びつけられたような文章もありません。
もちろんだからといって、親鸞聖人が財施をすすめられなかったと言っているのではありません。
しかし親鸞聖人が、家を売ってもアパートで生活すればいい、などと果たして仰ったのでしょうか。

またそうした事を会の機関誌に書いたり、説法で話したり、席順や受講資格を財施の多寡によって決めたり、仏縁の深さを財施額ではかるようなやり方をしてまでお金を集める親鸞会を、もし親鸞聖人が知られたらなんと言われるでしょうか。

私は会にいたときは
「集め方が問題なのではない。
お金では幸せになれないし、真実の仏法の為なのだから」
と必死で疑問を押し殺していました。
しかしそれは今になって思えば、自分の信仰が崩れるのを怖れて、考えたくないものに蓋をしていたのかも知れません。

蓮如上人はこう言われています。

▼ 仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、大小仏になるべしいふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

【歎異抄 第18章】

▼ これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。

【蓮如上人 御文章 1帖目11通】

▼ 信心のとおりおば手がけもせずして、ただすすめといふて銭貨を、つなぐをもて一宗の本意とおもひ、これをして往生浄土のためとばかりおもへり。これおほきにあやまりなり。

【蓮如上人 帖外御文章】

親鸞会が本当に親鸞聖人・蓮如上人の教えに即したところなのか、今一度考えてみる必要があると思うのです。


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高森顕徹氏と親鸞会の問題
3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
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高森顕徹会長について

親鸞会を知るには、まず会長の高森顕徹会長のことを知らなければなりません。
高森顕徹氏は浄土真宗親鸞会の創始者であり、現在の会長です。
その生い立ちは次のように説明されています。

彼は1929(昭和4)年、氷見庄の「安心惑乱」の舞台となった富山県氷見市の本願寺派寺院に生まれた。
45年の敗戦の年に、彼は16歳で特攻隊に志願し、戦後復員してきた。
復員後まもなく、彼は龍谷大学の専門部に進み、翌年、18歳のときに信心決定したといわれる。

龍谷大学の専門部から仏教学部に転じた彼は、1951年、卒業とともに、在学中からの布教活動を強化し、翌52年、早くも68名の会員を集めて「徹信会」を発足させた。
親鸞会の前身である。
そのころの高森師は、よく「死線を越えて」という腕章をつけて、辻説法に立っていたという。

やがて、活動の拠点はしだいに富山県西部の中心都市高岡市に移り、1957年、同市前田町に布教のセンターともいうべき徹信会館(後の親鸞会館)が建設された。
翌年、会は宗教法人となり、会名も浄土真宗親鸞会と改まる。
この間、彼は、1947年に得度して僧侶の資格を得ているが、70年には本願寺派の僧籍を離脱している。

【小沢浩著 新宗教の風土より抜粋】

私が親鸞会にいたときは、高森顕徹氏は「無二の善知識(正しい仏法の先生)」であり、高森顕徹会長以外には親鸞聖人の教えを正しく伝える人はいないと、言われていました。

それは、「信心決定(阿弥陀仏に救われること)」という体験と、「正しい教学」を備えた人でなければ、真の「善知識」とは言えない。
その2つを兼ね備えた人が高森顕徹会長であり、高森顕徹会長が唯一の善知識とされていました。
そして、「善知識は助かる為の全因縁なり」と言われ、善知識に従わずしては後生の一大事(全ての人は死ねば無間地獄に堕ちるということ)の解決は出来ない、と言われていたのです。

絶対無条件服従
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釈尊は「善知識はさとりを得る道の大因縁、全因縁なり」と仰言っておられる。
又、「善知識があったら十里、二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、身肉手足をも供養すべきである」とも般舟三昧経に教えておられるとおり、私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。
その御化導に私見をはさんでいては万劫聞いても助からない。
ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。

【顕正新聞 昭和49年12月】
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親鸞会で際だっていたのは、善知識への絶対無条件服従でした。
高森顕徹会長をもって無二の善知識としている親鸞会では、それはそのまま高森顕徹会長への絶対無条件服従を意味することになります。

では、なぜ無条件服従しなければならないのでしょうか。少し長いですが、引用します。
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親鸞会の我々には今、二つの目的がある。
一つには自身の信心決定であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。
いずれも世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件服従できるか否かにかかっているといえよう。

このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実我々はどうであろうか。

自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従は極めて難しい事である。
理性が満足せねば、善知識の仰せに対し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をところかまわずもちあげる始末、それでもまだ足りず、自らの怠惰な求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。
この心こそが曠劫流転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受けつけぬ元凶であることを知らねばならない。

仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なのであり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。

蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せになっている。
これは「私も判らぬ、しかし何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたものである。

我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。
これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。

この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。

【顕正新聞 昭和54年8月】

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赤尾の道宗が蓮如上人から、
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたとき、
「はい畏まりたる」と無条件服従している。
この人の言うこと、どこまで本当だろうか、と思っていては仏法を聞き開くことはできない。
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたら、「はい」と答える心構えが信前信後を通じて尊いのだ。

【顕正新聞 平成4年9月】

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つまり親鸞聖人が「よき人(法然上人)の仰せをこうむりて信ずるほかない」と仰り、蓮如上人が「何事も何事も知らぬことも開山(親鸞聖人)のされたようにするのがよろしい」と仰ったのが、無条件服従の根拠だと言われるのです。

しかし本当に、高森顕徹会長への「無条件服従」は、親鸞聖人の御心にかなったものだったのでしょうか。
以下は親鸞会の顕真学院生と講師部員が、1日2回唱和している「聖則」の文章です。

▼ 会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。


【親鸞会 顕真学院・講師部聖則より】

確かに親鸞聖人は法然上人に従われ、蓮如上人は親鸞聖人のされたことに従われました。
しかし、蓮如上人が、「親鸞聖人は法然上人に従われたのだから、私にも無条件で従え」と仰るようなことが果たしてあったのでしょうか。
そしてそんなことを毎日唱和させるようなことを、果たしてされたのでしょうか。

それだけではありません。一般会員にも下記の粛正規定を徹底しています。

会員粛清規定第3条(2)組織破壊行為

    (1) 支部長の指示に従わない。
    (2) 講師部を批判する。
     (3) 本会の機密を漏洩する。
    (4) 本会の和を乱す。
    (5) 本会の指示に対する批判的言動。
      (本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)

【親鸞会 会員粛正規定】


「唯一絶対の真実を説く団体」なのに、粛正規定まで作って会の批判を封じる必要がどうしてあるのでしょうか。

蓮如上人は教えておられます。

▼ 順誓申されしと云々。常にはわがまへにてはいはずして、後言いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ、聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

【蓮如上人 御一代記聞書】

蓮如上人は「世間の人は、自分の前では何も言わずに、陰で悪口をいうといって腹をたてるものである。だが、わたしはそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである」といわれているのです。

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また、蓮如上人はこうも仰います。

▼ 故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。
「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。

さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。
そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。
さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。

【蓮如上人 御文章1帖目第1通】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・r
「弟子一人ももたず」と仰った親鸞聖人が自らに無条件服従を徹底されたとは、私は聞いたことがありません。

もちろん、親鸞聖人を慕う人々が自ら付き従った事は間違いないでしょうが、機関誌で幾度も無条件服従を徹底し、定訓を作って1日2回自分への忠誠を誓わせ、粛正規定を作ってまで批判を封じることを親鸞聖人や蓮如上人がされたとは、私にはとても思えないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カルト信者の特徴は、教団の教えは絶対に正しく、それに疑いをもつことは間違いであり、悪だと考えることである。
教義に疑問を抱いても、それは自分の不完全さを証明するものでしかなく、不完全さを補うには、いっそう教義に忠実であらねばならないという逆の機制が心にはたらく。
何かの事情で教義が変わってもこの機制は変わらない。
教団の教えは常に正しく完全であり、不完全で間違っているのはいつも自分の考えや感じ方のほうなのだと見なすのである。
教義と自分のこの関係は、理想と現実を比べ、現実は間違い≠ナあるとするある種のユートピア思想と似ている。

【オウム真理教信徒救済ネットワーク編著 マインドコントロールからの解放】
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指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。
こういうの楽だなあって思いました。
自分で何も考えなくていいわけですからね。
言われたことをそのままやっていればいい。
自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。

(出家をする動機として)自分でものを考えなくていい。
決断しなくていいというのはやはり大きかった。
任せとけばいいんだぁって。
指示があって、その指示通りに動けばいいんです。
そしてその指示は解脱をしているという麻原さんから出ているわけですから、すべてはきちんと考えられているんです。 

【村上春樹著 約束された場所で】

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私は親鸞会がカルトだとは言っていません。オウムと同じだとも思いません。ただ、この一点を見て比べた場合、どうしてここまで似てしまうのだろうかと、疑念を感じずにはおれないのです。


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高森顕徹氏と親鸞会の問題
4.高森顕徹会長への礼賛
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絶対無二の大指導者

・こんな時こそ、この世はもちろん、未来永遠私達を大勝利に導くべき、大指導者が必要ではありませんか。真実弥陀の本願を声を限りに叫んで下さる我が会長、高森先生こそ、人生の戦法をあきらかに教えて下されている絶対無二の大指導者でございます。

・ここに始めて高森顕徹会長先生の説法を聞かされた私は、あの真剣な血の滲むような説法と、その御姿は絶対の慈愛にあふれ、あれ程までに私達を暖かく、慈しまれる御心に、私の心は激しい感動におそわれずにはいられませんでした。

・こういう高森先生のお姿に、ある者は七百年昔の親鸞聖人を偲び「昭和の親鸞聖人」と驚嘆するのであり、ある者は限りなき信頼感が沸き出でて「絶対の善知識」と仰ぐのであり、求めても求めても無碍の大道まで導く僧侶に一人もめぐり遇えず、真の善知識を求めてやまなかった者には「無二の善知識」「全世界唯一の名匠、善知識高森顕徹会長先生」と欽慕せずにおれないのである。

・今まで周囲の方が善知識高森先生高森先生と仰言るので私も心十分もないのに善知識高森先生と簡単に云っていた気がするのです。先生、でも今は違います。絶対無二の弥陀の真実の暖かい慈悲一杯の善知識高森先生と判りました。

「高森先生こそ親鸞聖人のお生まれがわりだ。浄土真宗の要の中の要こそ高森先生に聞かねば判らぬぞ、何が何でも明るい世界まで出させて頂くのだ、永遠の親を求めよ」と力強く聞けよ聞けよと勧めてくれたのです。

・それにしても、お釈迦さま、そして親鸞聖人のみ教えと、寸分の違いもなく、ご説法下さる高森先生、どうしてこんなすばらしい先生にめぐり遇えたのかと、本当に不思議でなりません。

・高森先生は、無上仏のお力の偉大さを、全身全霊で讃嘆しておられます。まるで大宇宙に立っておられるようで、ただ善知識の仰せにひれ伏し、無上仏が尊く思われてなりません。

・浄土真宗滅亡寸前の時に立ち上がってくださった高森先生の大偉業は、永劫に輝きを残すことと信じます。真宗の夜明けはもう始まっています。この時に間に合った私は何と幸せ者でしょうか。

【以上、顕正新聞 昭和42年〜平成15年】
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高森先生はまさに、大悲仏智そのままに、時には大教育者であられ、また、『なぜ生きる』や、種々のご著書の大哲学者・大文学者であられます。大いなる感動で、賛仰申し上げずにおれないのです。広大なご恩徳に報いられない懈怠の愚かさを懺悔申し上げ、高森先生こそ、まさに親鸞聖人であり、阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝しながら、ただただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ばかりでございます。

【顕真 平成16年7月】
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親鸞会の機関誌から抜き出した高森顕徹会長への礼賛記事のほんのごく一部です。
親鸞会にいた人ならみな知っていることですが、親鸞会の出版物は高森顕徹会長への賛美に溢れ、会合でも常に高森顕徹会長への信順が誓われます。
高森顕徹会長へ寄せられた手紙を掲載する「法友通信」では誰しもが高森顕徹会長への尊敬を表し、弁論大会では常に「高森先生のご苦労」が語られます。

以下は元会員の言葉です。
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高森先生が地元に御法話に来るときは、それはもう大変でした。
何ヶ月も前から、何百万という御報謝を集めるのに必死でした。
代表施主といって、30万円位の御報謝をした人は高森先生と握手できることになっていました。
そういった人も募らなければなりませんでした。
講師の方と一緒に、会場や職員のホテルを確保し、ビラをまき、お誘いをし、それこそ仕事や家族を犠牲にして、必死で頑張ったものです。

ところが、そうして準備しても、御法話の2日前位になって突然「先生はお疲れのためお休み」となってしまうのです。
御法話はビデオ上映。
もちろん、出した御報謝の返金などありません(別に返金して貰いたいと思ったわけではありませんが、あのお金はどこに消えたのでしょう…)。
そんなことがしょっちゅうありました。


一番辛かったのが、半年くらい富山の御法話以外、先生が殆ど休んでいたときです。
どうせ地元の御法話も中止になるだろうと思いましたが、それでもいつもの通り必死に御報謝を集めました。
みんな先生はどうせ来ないと思っていましたから、何度も何度も支部の幹部で会合しても、なかなか御報謝は集まりませんでした。
そして、案の定3日前に「先生はお疲れでお休み」と連絡が入りました。

なんでもっと早く知らせてくれないのかと思いました。
担当の講師からは、ビデオといっても先生が来られるのと一緒だから、そのつもりで臨むようにと話がありました。

普通の責任ある社会人ならまずあり得ないような身勝手なことをされても、当時は「先生は私たちのことを思ってご無理をされて、お体をこわされたんだ。ギリギリまで悩んでおられるからいつも直前のキャンセルになるんだ」と思っていました。

いや、思わなければとてもやってゆけなかったのです。

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【元幹部会員の証言より】

高森先生は講義の間中長いこと椅子に座ったままで、アシスタントの講師に色々話をさせるのですが、些細としか思えない言い回しに「違う、違う」を連呼するばかりで午前中の2時間が終わることもあり、明らかに機嫌が悪いように見えることも少なくなく、アシスタントが可哀想に思えたこともよくありました。
(私が些細と思っているだけで、実は大事な所なんだとその時は思っていましたが、いま思うとそう思いこまされていたのかな…とも思います)

講義の内容はひと月前の講義と殆ど一緒。
同じところからちっとも進ま
ず、先輩は「深い教えだから何度お話ししても足りないんだよ」とか「真実は何度聞いてもわかるものではないから」言っていましたので自分もそう思いこんでいましたが、まわりには明らかに、もううんざり、といった空気が漂っていました。
それでも、聞法は苦しいものだし、同じ事を何度も聞くのが聴聞なんだと教えられていましたので、それなりに自分を納得させていました。

驚いたのは、教学講義で高森先生が「観無量寿経が釈尊の出世本懐経だ」と言われたことでした。
今まで聞いたこともないことでしたので、驚いてノートに付けましたが、次の教学講義では「そんなことは言うはずがない、私は言わなかった」ということになってしまい、まわりのアシスタントの人も、確かに先生は仰らなかった、といって終わってしまいました。
そしてその後、「真剣な聞法のために」という理由で、教学講義のビデオ録画は中止になってしまいました。

親鸞会では高森先生は絶対に正しい人であり、それに異論を挟めるような雰囲気ではありませんでした。
上の人ほど高森先生の一挙一動に心酔し、何か疑問に思うことがあっても、「先生の深い御心だから」ですませてしまう。

みんな「どうしたら先生の御心にかなうか」とか「何としても先生のご恩にお応えしなければ」「こんな目標も達成できないようでは高森先生に申し訳ない」って。そんなことばかり思ってるし、口にしている。

高森先生は親鸞聖人のお生まれ代わりと言われていましたが、親鸞聖人ってこんな方だったんでしょうか…

【元学生会員からのメール】

私は決して、ある特定の人物を賛美するのが悪いと言っているのではありません。ただこうした讃辞の嵐の中で、一個人を絶対視するのは危険ではないかと危惧しているのです。

人は自分が確信を持てないとき、あるいは状況が曖昧なとき、他の人々の行動に注意を向け、それを正しいものとして受け入れやすい。赤信号だったが、みんな平気で渡っていたので自分もそうした。ある町の小さな事件が全国に及ぶ暴動に発展する。これらは追認性にしたがった行動といえる。

カルトの勧誘者にとって、この原理の応用は簡単である。たとえば、教祖の説法会に参加させたとしよう。教祖の話を聞いてもよくわからない。ところが、まわりの人はみんな感動して説法に聞き入っている。悦びに満ちた顔をしている。そこで、「あの方は、きっとすばらしいことを言っているのだ」と思ってしまう。

【オウム真理教信徒救済ネットワーク編著 マインドコントロールからの解放】

本当の浄土真宗の教えに個人崇拝はないことを、蓮如上人は、こう仰っています。

されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。

【蓮如上人 御文章2帖目第11通】

親鸞会の何が問題か   <<前  次>>

 1.親鸞会の集金システム
 2.法もまた財なり、財もまた法である
 3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
 4.高森顕徹会長への礼賛
 5.なぜ隠すのか

なぜ私は親鸞会をやめたのか|ホーム

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高森顕徹氏と親鸞会の問題
5.なぜ隠すのか
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高森顕徹会長の「贅沢」

「高森顕徹会長は質素な生活をしておられる」と私は会内にいたときによく聞きました。
実際に、高森顕徹会長の家は特別に立派だったり大きいわけではありません。
しかし、本当のところはどうでしょうか。

高森顕徹会長の移動用には、改造した2台の高級外車と会長専属の運転手、さらに会長専用のバスもありました。
さらに法話会場での控え室として使う、ベッドルームまで備えた2階建てバスがあり、更に会長の食事を作る料理人と専用の厨房車まで同行
しました。

現在は地方の御法話はありませんが、あの多額の財施を募って建立された「正本堂」の7階は会長のフロア。
豪華で広い車入れから、説法に立つ演壇、控え室、専用のエレベーター、さらには7階の会長のフロアまで全て一般の区画とは完全に隔たれています。
会長の食事を作るための専用の大きな厨房があり、大勢の人達が会長の接待に携わっています。


そして高森顕徹会長が東の端にあるレストランに行くために、専用の渡り廊下まで、一般会員が通る通路とは別に作られています。
本部の隣町にある親鸞会の「弘宣部ビル」でも、会長専用の玄関に会長専用のエレベータ、7階は会長のフロアになっています。


そして、これらの事実は一般の会員には、通常知らされることはありません。

他にも、
今の「正本堂」を豪華や絵画や壺、レリーフで飾り立て、
自分の著書を紅白の牛革で飾って記念品とし、その度に高額の財施を募るやりかた

は、会員であった私から見ても理解しがたいものでした。
それでもやはり「高森先生の深い御心だから、私には理解できなくて当然だ」と思っていましたが…。

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私がカウンセリングをして救出した人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは
「金銭のためにやっている」のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。
多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。
にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである。

【スティーブ・ハッサン著 マインドコントロールの恐怖】
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私も決して、高森顕徹会長が金銭欲のために親鸞会を立ち上げたとは思っていません。
ただ、その生き方を垣間見るときに、「祖師は紙衣の九十年」とたたえられた親鸞聖人の質素な姿とは、どうしても重ね合わすことは出来ません。

そして、親鸞聖人を自分より上の権威としながらも、自らの解釈を絶対無二のものとし、一切の批判を禁じる姿にもまた、限りなき違和感を感じるのです。

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華光会と高森顕徹会長

会員から「善知識」と崇め奉られる高森顕徹は一九二九年、浄土真宗本願寺の末寺に生まれた。
四九年に得度するも、本願寺の現状に疑問を抱き、「浄土真宗華光会」の増井悟朗氏に師事したあと、五二年に徹信会を結成した。
五八年に浄土真宗親鸞会に改称すると同時に、宗教法人格を取得する。

【米本和広著 教祖逮捕 p156】
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榊原の呪縛が解けるきっかけは、四年前、増井悟朗という西本願寺僧が出演したNHKのテレビ番組『こころの時代』を見たことだった。
僧の話は、罪悪感と無常観を乗り超え、目の覚めるような信心決定に達する喜びを語った内容だった。
あまりにも親鸞会の教えと似ていると榊原は思った。

早速僧の書いた本を取り寄せて読むと、驚きはさらに増す。
京都で「浄土真宗華光会」という宗教団体を主宰する会長であること、高森は昭和二十年代、華光会に所属し、同会で育ったこと。
増井と高森には、華光会を創始した伊藤康善という共通の師匠が存在したことなど、知らなかった事実が次々と明らかになったのである。

榊原にとっては、唯一絶対の善知識であるはずの高森に師匠がいたという当たり前のことさえ新鮮な驚きだった。
増井悟朗著『念仏の雄叫び』(法蔵館)には、龍谷大学時代の高森が信心決定したとき、「『おい、きみ、よかったなあ』と、手を取り合って法悦を喜びあいました」と、真剣な求道時代の体験談が書き記されている。

【別冊宝島 救いの正体より、『親鸞会はカルトか、伝統仏教か』】
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最後に、高森顕徹会長と華光会との関連にふれておかなければなりません。

高森顕徹会長が若い頃、伊藤康善氏に師事したことはよく知られています。
伊藤氏は華光会創始者であり、真宗興正寺派の学頭だった人です。
そして、高森氏は華光会現代表の増井氏に伊藤師の主著「仏敵」を勧められ、まもなく信心決定したと、増井悟朗著『念仏の雄叫び』には記されています。

彼(高森顕徹氏)は、私から手渡されていた恩師(伊藤康善師)の入信体験記「仏敵」にかじりついて、無常観、罪悪観をつき進めて、ついに獲信したようでありました。
後で知ったことですが、私を知るまでの彼は、本願寺の総会所の説教聴聞に熱心に通っていたようです。
説教の後で講師室を訪ねては、「地獄、極楽はありますか」と質問を重ねていました。
どの講師も即答する人がない。
その応答ぶりで、その人の不信心がピンとくる。
誰に尋ねるすべもなく、彼は、悶々をしていたというわけです。

【増井悟朗著 念仏の雄叫び】
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このことが本当かどうかはわかりません。
信心とはその人の心の問題であり、増井氏が著書で書いてあることが事実だととしても、「あの信心は間違いだった」と言われてしまえばそれまでだからです。

ただ、あれほどに「師主知識の恩」を説く高森顕徹会長が、自身を導いた「知識」には全くふれないこと。
華光会で『化城を突破して』という本まで出版していながら、現在そうした過去は会員には一切知らされていない事。
そして、本願寺や創価学会などを名指しで徹底的に批判している親鸞会が、一つだけ名前を出せないで批判しているのが「華光会」である、ということは事実です。

平成11年親鸞会は、『これが獲信か』というパンフレットを全会員に徹底しました。
その内容は華光会を名指しせず、「京都に本拠地を置く浄土真宗本願寺布教使の某グループ」とし、伊藤氏を「I先生」、増井氏を「M先生」と書き、徹底的に非難攻撃しています。

その某グループ(華光会)からの書籍の引用とする体験談は、書籍名やページ数など一切なく、検証・確認することがまったく出来ません。
そして、全く別の土蔵秘事(真宗の異端)の体験談を挿入するなど、故意に悪印象を狙っているとしか思えない部分もあります。

今まで親鸞会は、本願寺や創価学会に果敢に法論を挑み、双方の立場を明らかにした上で堂々と法論していました。
しかしなぜか華光会に対してはそういった姿勢は全く見られません。

それは、まるで知られたくないことを隠していると言われても、仕方がないような批判の仕方なのです。

※華光会と高森顕徹会長の関係については、著書の類似という点から、「高森顕徹氏の獲信体験」「高森顕徹氏の盗作疑惑」にて更に掘り下げて論じています。
是非ご覧下さい。


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なぜ私は親鸞会をやめたのか
高森顕徹氏の著書のルーツ


高森顕徹氏がかつて浄土真宗華光会に所属し、伊藤康善氏に師事していたことは有名な話です。

しかし親鸞会は現在その事を明らかにしていません。

それどころか、華光会を「京都に本拠地を置く浄土真宗本願寺布教使の某グループ」として、名前を出さずに非難しているのは承知の通りです。
(詳細は、高森顕徹氏と親鸞会の問題の中の「なぜ隠すのか」。また、『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へをご覧下さい。)

仏教では「相伝」が大事だと言われます。
なぜ自分が教えを受けたルーツを明らかにしないのか。


また、華光会が親鸞聖人の教えを曲げているのならば、なぜ創価学会や本願寺に対して行ってきたように、名前をあげて正々堂々とその誤りを正そうとせず、華光会の名称を伏せた会員向けのパンフレットをつくり、内輪で非難しているのでしょうか。

あまりにも腰砕けなそのやり方に疑問を抱き、華光会関係の資料を調べていたところ、伊藤康善氏の著書に、高森顕徹氏の著書と殆どそっくりな箇所が多数見つかりました。

執筆年から伊藤康善氏の著書を高森顕徹氏が見て書いたのは明らかですが、それは、「参考にして」書いた、という範疇をはるかに超えていて、殆ど「丸写し」に近い箇所もあります。
著作権意識の向上した現代に於いては、盗作と言われても仕方がない
かも知れません。

特に『現代の教行信証』といわれた高森顕徹氏の主著『会報』に、こうした箇所が多く見つかったことは驚きでした。
現在『会報』は絶版となっていますが、『会報』が『現代の教行信証』ならなぜ絶版となるのか。
その理由の一端を垣間見た
気が致します。

今回は『ハトの会』にて「decult」氏があげた伊藤康善氏の著作の引用に、当方が高森顕徹氏の著作の引用を加筆したものを公開します。
これだけでなく、高森顕徹氏は伊藤康善氏だけでなく、大沼法竜氏についても同様の疑惑を持たれており、あわせて公開致しました。

尚、引用した各書籍の初版発行年と著者の略歴を、このページの最期に記します。

高森顕徹氏の著書のルーツ
1.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(1)
2.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
3.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(3)
4.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)
5.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(2)
6.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(3)
7.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(4)
8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

リンク
なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集
高森顕徹氏と親鸞会の問題(投稿文)

大沼法龍師の言葉
さよなら親鸞会|高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです
親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか
親鸞会の本尊論を再考する
親鸞会の本尊論に対する疑問

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著者略歴と本サイトにて引用した著書の初版発行年

伊藤康善

1897年(明治30年)奈良県新庄町に生まれる。
仏教大学(現龍谷大学)卒業。
真宗興正派学頭。
浄土真宗華光会創始者。
1969年(昭和44年)没。72歳。
著書・編書に『教界諸氏・安心調べ』『善き知識を求めて』『化生の世界』『死を凝視して』『我らの求道時代』(いずれも華光会刊)他多数。

教界諸氏『安心調べ』 1929年
求道物語『仏敵』 1921年
『化生の世界』 1954年
『死を凝視して』 1942年

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大沼法竜           

1895年生(明治28年) 北九州に生まれる。大正10年3月仏教大学本科卒業。宗教法人「親鸞会館」を設立、代表役員として活動。著書に、「おやごころ」「随想録」「本派本願寺の危機 どちらが異安心か」「法界」「八万の法蔵は聞の一字に摂まる」など。

『法界』 1958年

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高森顕徹

1929年(昭和4年)、富山県氷見市に生まれる。龍谷大学卒業。現浄土真宗親鸞会会長。著書に『会報』『白道燃ゆ』『こんなことが知りたい(1〜4)』(親鸞会刊)『光に向かって100の花束』(1万年堂出版)他。監修として『なぜ生きる』(1万年堂出版)

『会報』 1967年〜1975年
『こんなことが知りたい』 1969年〜1982年
『白道燃ゆ』 1974年


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なぜ私は親鸞会をやめたのか

高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(1)
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伊藤康善著『安心調べ』P113

それからはたのむ一念を毛嫌いするようになった。嘘と思うなら西本願寺系の布教使の説教を聞いて御覧なさい。たのむ一念を角立てて説く坊さんは一人もいない。皆が二種深信の上で説教して、弥陀の親心を有難く受けたのが信心だと言う。その上は喩話で誤魔化すのである。

高森顕徹著『会報第二集』

たのむ一念を毛嫌いするようになったのである。嘘と思うなら西本願寺系の布教師の説教を聞いてごらんなさい。たのむ一念を角立てて説く人は一人もいないから。みな二種深信の上で説教して弥陀の親心を有難く受けたのが信心だという。その上は喩話で御魔化すのである。
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伊藤康善著『安心調べ』 P136
聖教は神聖にして、句面の如く拝すべく、一字一句加減すべからず、…

高森顕徹著『会報第三集』
それは三世を貫く仏説なるが故に、神聖にして句面の如く拝すべきで一字一句加減すべからず、浄
土より使わされた如来の声を文字に示したものである。
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伊藤康善著『安心調べ』 P141
真宗の安心は根本から転覆される。信心正因、称名報恩が真宗の本旨で、念仏はすべて信後報謝の念仏に限るのであるが、この通りだとすると、信の対象は称名であり、初一念に念仏の声があることになる。言わば念仏は信心を親として生まれる子であるがこの説を認めると、子が親を生むことになる。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
若し、このような称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。
信心正因、称名報恩が、真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである。
いわば念仏は、信心を親として生まれる子供であるが、称名念仏さえしていれば助かる、というのは、子供が親を生むという、馬鹿げたことになる。
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伊藤康善著『安心調べ』P142〜P143
善導や法然が称名本願を説いたのは、観経下々品の往生に腰を据えて、大経の本願文を見たのである。それは諸行に対して念仏易行を説いたので、行々相対の法門という。親鸞が念仏為本より信心為本を勧めたのは、大経そのものに据わって、願成就文から、本願を見たのである。大経には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就にも称名はない。信一念の往生である。ここから本願をみると正しく信心往生である。乃至十念の称名は三信に収まって、唯信独達の教義が成立する。行々相対より唯信別開の絶対門になる。

高森顕徹著『会報第五集』
善導大師や法然上人が称名本願を説かれたのは『観無量寿経』下々品の往生に腰を据えて本願を見たからである。それは諸行に対して念仏の易行を説いたものであるから行々相対の法門という。親鸞聖人がその念仏為本より信心為本を勧められたのは『大無量寿経』そのものに据って願成就文から本願を見られたのである。『大無量寿経』には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就文にも称名はない。信一念の往生である。こゝから本願を見ると正しく信心往生である。乃至十念の称名は三信に収まって唯信独達の法門が成立する。行々相対より唯信別開の絶対門になって真仮廃立は完了するのである。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(1)』
では彼ら邪義者の言う根拠はどうなるのかと申しますと、善導大師や源信僧都、法然上人が、称名正因が弥陀の本願のように教えられたのは、『観無量寿経』の下々品の往生に腰を据えて『大無量寿経』の本願文を見られたからなのです。それは、諸行に対して念仏易行を説かれたもので、これを行々相対の法門といいます。
ところが、親鸞聖人がその念仏為本より信心為本を打ち出されたのは、『大無量寿経』そのものに据わって、願成就文から本願文を見られたからなのです。『大無量寿経』には「称南無阿弥陀仏」の御文は一カ処もありません。願成就文には、称名念仏は誓われてなく、信一念で往生出来ると説かれています。
この本願成就文から弥陀の本願をみますと、絶対に信心正因になるのです。故に、本願の乃至十念の念仏は三信(信心)に収まって、唯信独達の法門が成立するのです。行々相対より唯信別開の絶対門になるのです。
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伊藤康善著『安心調べ』P192
いざ鎌倉!という大事の無常が逼迫する時は、平素の喜びは何処へやら飛んで、この種の不浄言葉が出るものだ。ここは智恵や学問や聴聞では通れぬ難入難信の信一念であって、誰も彼も薄紙一重のところで誤魔化しているものの、怪しいと思う心は一つである。

高森顕徹著『会報第二集』
どんなに平生喜こんでいても、いざ鎌倉!という一大事の無常が逼迫する時は、平素の喜びや感謝や懺悔は何処へやら吹き飛んで煩悶し地団駄を踏んで死んでゆく。ゆく先が浄土ならよろしいが、こんな根性では無間地獄へ堕在するのは必定だ。ここは智慧や学問や合点では通れぬ。難入難信の信一念の関門を通っていないと、誰も彼も薄紙一重のところで、誤魔化されてはいるものの、怪しいと思う心は一つで疑心である。
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伊藤康善著『安心調べ』P246
峻厳火を吐き、鬼気人に迫るような…。廃立の厳しい親鸞聖人の信念は、決して春画を見て手淫しているようなものではない。機の計らいを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底へ落とせるだけ叩き落として、生死の断頭台上に生首を突き出してやる残忍毒語の説法がなくてはならぬ。

高森顕徹著『会報第三集』
たまに求道だの体験だの、獲信の世界を明らかに説く者があると、馬鹿坊主共は丁度、月経の上った女が嫁いじめや、まゝ子いじめをやる根性で、異安心じゃ、違っていると一斉にわめきたてて、よってたかって追放する。廃立の厳しい親鸞聖人の教えは決して春画をみて手淫しているような感情の遊戯ではないのだ。

高森顕徹著『会報第五集』
機の計いを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底に堕せるだけ叩き堕して、生死の断頭台上に生首を突き出して下される峻巌火を吐き、鬼気迫る善知識の説法にあわなければ、突破出来ない難中の難の境地であることも牢記しておかねばならぬ。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(4)』
生死の断頭台上に生首を突き出して下される、峻厳火を吐く善知識の説法にあい、宿善開発の一念でなければ通れない、難中之難の境地であることも申し添えておきましょう。
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伊藤康善著『安心調べ』P254
しかし如何に有り難い同行に接し、名僧知識の教えを受けても仏法を求むる人自身に、真剣な求道心がなければ、結局畳の上の水稽古になってしまう。

高森顕徹著『会報第五集』
だから我々が如来の金剛信に徹せんとするには先ず何を置いても真の知識を求めねばならぬ。併し如何に尊い名知識の教えにあっても求める人に後生の一大事の真剣さがなければ結局は畳の上の水稽古になってしまう。

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伊藤康善著『安心調べ』P254
命を捨てて法を求めよと言うが、それは形容詞ではなく実際命を捨てるのである。

高森顕徹著『会報第三集』
命をすてゝ法を求めよというが、それは単なる形容詞ではなく、実際に命を捨てるのだ。



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なぜ私は親鸞会をやめたのか
高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
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伊藤康善著『安心調べ』P255〜P256
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。

高森顕徹著『会報第二集』
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。

高森顕徹著『会報第二集』
そこには払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪ってもなお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のドン底へ鮮かに徹底する仏智である。真実の信心は断じてぼんやりしたものではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
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伊藤康善著『安心調べ』P257
金剛信に徹して解脱光輪の慈照を蒙れば、吾等の家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信ずる。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
金剛信に徹して、解脱の光輪の慈照を蒙れば、我らの家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信ずる。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(5)』
金剛信に徹して解脱の光輪の慈照を蒙れば、吾らの家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信知させられる。
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伊藤康善著『安心調べ』P259
体験の宗教が宣伝の宗教と思われ、小児が利刀を弄び過ぎたために、すっかり切れ味が無くなったのが真宗教団の現状である。だからそんな説教を聞いている地方の同行信者に至っては、すっかり親鸞の精神と離れた安っぽいお助けの俗信仰になっている。彼らの頭に描いている仏は別に阿弥陀仏に限ったわけではなく、天理教徒がお勧めすると、すぐ南無天理王になり、金光教徒が勧めると、すぐ天地金の神になる。キリストの神に代えても差し支えなく題目の信仰になっても心持ちは一つで、同じような信仰だ。雑行雑修を嫌い、迷信邪教を排斥する真宗門徒が、一番多く雑行雑修に走り、迷信邪教に溺れるのもこのためで、彼ら布教使もその信徒拡張運動には、門徒ばかりを覗っている。一番早く転がり易いからだ。

高森顕徹著『会報第四集』
坊主にして然りだから門徒に仏壇と神棚を並存させていてもなんの矛盾も感ぜず、報恩講や年忌仏事も営むが、神社の祭礼には敬神といって大童になり、神主を招いて神前結婚や地鎮祭をやってもなに不思議もなく平気なものである。だから天理教が勧めに来るとすぐ南無天理王命になり、金光教が勧めるとすぐ天地金の神になる。創価学会がせめると阿弥陀仏の尊像を焼いて板マンダラを拝む。キリスト教の神に代えても、生長の家になっても皆同じようなものだと考えているから門徒もの知らずと馬鹿にされている。雑行雑修を嫌い、迷信邪教を最もきびしく排斥する真宗門徒が一番多く雑行雑修に走り、迷信邪教に溺れるのは当然といわなければならぬ。
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伊藤康善著『安心調べ』P261
もしそれ宿善開発し、あらゆる疑情を収めて、当相脚下三千丈の谷底に転落せんか、如来の廻向信は、げにこの貪瞋煩悩の大地より光明を放ち、その破闇満願の名号原理として含む浄土の実在も直観せられる。

高森顕徹著『会報第二集』
あらゆる疑情を収めて当相脚下三千丈の谷底に転落せんか、如来の大信心は、げにこの貪瞋煩悩の大地より光明を放ち、「ただのただもいらんただじゃったただじゃった」とおどり上がるのである。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(5)』
善知識のご化導によって宿善開発して仏智満入すれば、その破闇満願の名号原理として含む、昿劫流転の自己の真実も、三世因果の道理も、弥陀や浄土の厳存も直感されるのです。
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伊藤康善著『安心調べ』P286
信巻の三心釈を見ると、如来の三信と衆生の三心とを比較研究して、如何にも罪悪観の深まったのが信仰のように説いてあるが、これを帰結する御文は「疑蓋まじわることなし」と9ヶ所も同じ文を出して信疑廃立で結んである。

高森顕徹著『会報第二集』
これを信疑決判といい親鸞聖人は『教行信証』信巻の三心釈には如来の三信と衆生の三心とを比較研究なされて最後には「疑蓋まじわることなし」と九ヶ所も同じ文を出して信疑決判で結んでいられることをみても、その重要性が判るであろう。

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伊藤康善著『安心調べ』P303
吾々親鸞学徒は、祖師聖人の「教行信証」に立ち、覚如上人の「改邪鈔」、蓮如上人の「御文章」に一貫した願成就の信一念の錦の御旗をふりかざして進む。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
我々真宗人は、親鸞聖人の『教行信証』に立ち、覚如上人の『改邪鈔』、蓮如上人の『御文章』に一貫している信心正因、称名報恩の錦の御旗を、振りかざして進むのである。

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伊藤康善著『安心調べ』P305
吾々の先徳はこの行信の戦のために流血惨事の法難をくぐっている。観経の念仏を破って大経真実の信心を示すのは親鸞学徒に命ぜられた無上使命である。たとえ浄土宗の者がその史実を否定しても我が親鸞聖人は何故に三百余人の法然門下の中に、信行両座の座を別けなければならぬか。いくたびも廃立をさきとして、願成就の信一念を示しても、迷い易き衆生はまたしても観経の念仏に腰を据えようとするのだ。ただに法然門下において信行の戦をなすのみならず、親鸞門下においても信行両座の戦いは絶えず繰り返されているのだ。

高森顕徹著『顕正』
吾々の先徳は、此の行信の戦いの為に流血の惨事の法難をくぐっている。自力の念仏を破って他力真実の信心を示すのは我々に命ぜられた無上の使命である。たとえ浄土宗の者が、その史実を否定しても、我が聖人が何故に三百八十余人の法然門下の中に信行両座の座を分けなければならなかったか、いくたびも廃立をさきとして唯信独達の仏意を教えても信に惑い行に迷い易き衆生は、信楽開発することを忘れて、またしても自己の称える念仏をアテ力にしようとするのだ。
ただに法然門下に於て信行の戦いがなされたのみならず、親鸞門下に於ても信行両座の戦いは現在も絶えず繰り返されているのだ。

高森顕徹著『会報第五集』
我々の先徳は、この行信の戦の為に流血の惨事の法難をくぐっている。『観無量寿経』『阿弥陀経』の念仏を破って『大無量寿経』成就文の真実の信心を明示することは我々に課せられた無上の聖使命なのである。背師自立の攻撃も孤立無援も覚悟の上で、我が親鸞聖人は何故に三百八十余人の法然門下の中に信行両座を別けなければならなかったのか。いくたびも廃立を先として願成就の信一念を示しても行に迷い信に惑い易き衆生は、またしても『観経』『小経』の念仏に腰を据えようとするのだ。曠劫流転の自力の執心が、最後に逃げ込む牙城がこの念仏なのである。故にこれは決して七百年以前の法然門下に於いてのみの戦いではなく、現今の浄土真宗の中に於いても信行両座の戦いは絶えず繰り返され、それは龍華の御代まで続くことを覚悟しなければならぬ。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(2)』
背師自立の攻撃も、孤立無援も覚悟の上で、親鸞聖人は何故に三百八十余人の法然門下の中に、信行両座を別けられねばならなかったのか。
いくたびも廃立を先として信心正因を明示されても、行に迷い信に惑い易き人々はまたしても念仏に腰を据えようとするのです。
曠劫流転の自力の親玉が最後に逃げ込む牙城が、この念仏なのです。
故に、これは決して七百年以前の法然門下に於てのみあった戦いではありません。現今の浄土真宗の中に於ても、信行両座の戦いは絶えず繰り返され、それは龍華の御代まで続くことを覚悟しなければなりません。
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伊藤康善著『安心調べ』P309
浄土真宗の教えは、悪人のみを救う教えでもなければ、善人のみを救うものでもない。如来の大悲によって猫も杓子も救うような大ざっぱな教えではない。真宗は慈悲門でなくして智慧門である。慈悲ならば三世諸仏にもあるが、智慧は弥陀一仏に限る。随ってそれは極難信の教えであって、宿善深厚の大機に非らずんば味わうべからざる難透、難解、難入、難信の法である。

高森顕徹著『会報第三集』
真宗の教えは悪人のみを救う教えでもなければ善人のみを救うものでもない。如来の大悲によって猫も杓子も救うような大ざっぱな教えでもない。真宗は慈悲門ではなくして智慧門である。慈悲ならば三世の諸仏にもあるが、智慧は弥陀一仏に限る。随って、それは極難信の教えであって宿善深厚の大機でなければ味わうべからざる深法である。
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伊藤康善著『安心調べ』P310
真実報土の往生には二種深信が立たねばならぬ。我々凡夫も二種深信が立たねば報土往生はできぬ。我々のような煩悩心のない善導大師や、41品の無明を破った弥勒菩薩も二種深信が立たねば往生はできぬ。すでに化土往生せる無量千万億の往生人も二種深信なくば報土往生はできぬ。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(3)』
真実報土に往生するには、必ず二種深信がなければならないと、親鸞聖人は教えておられます。
二種深信が立たなければ、私達凡夫も大信海化現といわれる善導大師や、四十一品の無明を破った弥勒菩薩も、報土往生は出来ません。
すでに化土往生している無量千万億の往生人も、二種深信がなければ報土往生は出来ません。


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なぜ私は親鸞会をやめたのか
高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(3)
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伊藤康善著『安心調べ』P311
それは本願疑惑心である。定散自力心である。雑行雑修の心である。不了仏智である。自力迷情である。化土往生人もこの疑惑心がある間は12大劫の間、疑城胎宮に留まらねばならぬ。三世諸仏もこの自力心ある間は華光出仏の仏とは成れぬ。弥勒菩薩もこの迷情ある間は展転五道の衆生である。大心海化現の善導大師もこの無明心ある間は曠劫流転の機たるを免れぬ。吾等もこの自力迷情ある間は如来本願の敵であり、断じて生死出離は望まれぬ。

高森顕徹著『会報第二集』
これこそ古来「猶お隔つ一重の関」といわれる本願疑惑心であり、定散自力心であり、雑行雑修自力の心であり、不了仏智であり、自力の迷情である。化土往生人も、この疑心ある間は十二大劫の間、疑城胎宮に金鎖をもってつながれねばならぬ。三世の諸仏もこの自力心ある間は成仏は出来ぬ。弥勒菩薩もこの迷情ある間は展転五道の衆生である。大心海化現の善導大師も、この無明心ある間は昿劫流転の機たるを免れぬ。勿論吾らもこの自力の迷情ある間は必堕無間は断じてのがれることは出来ないのだ。

伊藤康善著『安心調べ』P314
今日果たして真宗の布教使にして、誰が願成就の仏智の一念を喧しく言う者があるか。自他力廃立、信疑廃立を説く者があるか。寝ぼけ面に親不孝の声を張りあげて、念仏のお助けだの、親様の慈悲だのと観経安心を説く者は多いが、誰が「改邪鈔」に示されたような廃立のすっきりとした、一念の水際の立った願成就の信一念を示す者があるか。示す人のないのは、その体験がないからだ。これじゃ百年河清を待つも真宗の興隆は望むべからず。形ばかり千万の門信徒を誇るとも浄土は易往而無人である。

高森顕徹著『会報第五集』
今日、果して真宗の僧侶にして誰がこの願成就の仏智の一念を水際たてゝ説く者があろうか、自他力廃立、真仮廃立を説く者があるか。ねぼけ面に親不孝の声を張りあげて念仏のお助けだの、親さまのお慈悲だのと観経安心や、阿弥陀経安心を説く者は多いが誰が廃立のすっきりした一念の信心を示す者があるか。示す人のないのは、その体験がないからだ。これでは百年河清を待つも真宗の興隆は望むべからず、形ばかり千万の門信徒を誇るとも浄土は易往而無人である。

伊藤康善著『安心調べ』P315
破邪なくして顕正なく、突撃せずして勝利はない!信仰は群敵の中へ廃立の利剣にて斬り込む白兵戦だ。寸刻の猶予もなく微塵の妥協も許されぬ。断じて行えば鬼神も道を拓く。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
しかし、破邪なくして顕正なく、突撃なくして勝利はない。
真実の信心は、群敵の中へ単身、廃立の利剣を持って斬り込む白兵戦である。
寸刻の猶予も微塵の妥協も許されぬ。断じて行えば鬼神も道を開く。

伊藤康善著『仏敵』P22
「正直で来いというのが神様です。善人になって来いという
のが諸仏です。悪人目掛けて救うぞよと呼びかけるのはただ阿弥陀様だけです。こ
んな仏様が法界広しといえどもどこにおられますか?」

高森顕徹著『こんなことが知りたい(2)』
正直になってこいというのが神です。善人になってこいというのが諸仏です。
極悪人めあてに救うぞというのは阿弥陀仏だけです。こんな仏は法界広しと雖も絶対にありません。

伊藤康善著『死を凝視して』P24〜P25
求道の動機が何であろうと、仏法の話を聞いても本を読んでも、それは他人事として聞かずに、自己のうえに照らして聞くことです。そうして、自分の心の動きに注意していれば、だんだんと自己の姿が見えてきます。一日の中に、何回もチェッと不足に思う心が起きましょう。その心の動きを見ていくのです。自分を掘り下げていくのです。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(4)』
仏法をきいても本を読んでも他人事として聞かず、自己の上に照らしてきくことです。そして自分の心の動きに注意してゆくのです。
一日の中に何回も「ちぇっ」と不足に思う心がおきましょう。
その心の動きを凝視し自分を掘り下げて行くのです。

伊藤康善著『死を凝視して』P45
こう示すと先生は、なにも他力本願の教えだから、そんなに信心の安心のと難しいことはない。慈悲な仏様は、足らぬところは足して、なんとか都合よく救って下さるだろうという希望がありましょう。……。自力疑心の逃げ場所は、最後の牙城をそこに求める。その城を破るのが難しいのです。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(2)』
このように申しますと貴方の心の隅に、「だがお慈悲な阿弥陀さまだから、そこのところを足らぬところは足してでも、なんとかして助けて下さるだろう」という望みがあるでしょう。
自力疑心の逃げ場所は最後の牙城をそこに求めるのです。その牙城を破らなくては真実の弥陀の救いには遇えません。

伊藤康善著『死を凝視して』P49
いつまでもぐずぐずと考えていられるような余裕ある人生と思われるのですか。……。三千世界の火の中も、踏み破って来いと仰せられる仏説がわかりませんか。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(2)』
三世の諸仏もアキレて逃げたのはその根性です。何時までもグズグズ考えている余裕はありません。
三千大千世界の火の中も踏み破ってこいと仰せられる仏説が分かりませんか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

伊藤康善著『死を凝視して』P109
刻々と迫り来る死におののきながらも、食欲の蜂蜜を求むる。藤づるはもう寸断されているのに、まだこんなことを考えている。もしこんなあさましい根性を見抜いた弥陀がいなければ、私は今のきわになって、どんなに狼狽するであろう。
「正直で来いというのが神様です。善人になってこいというのが諸仏です。悪人めあてに救うぞというのはただ阿弥陀様だけです。こんな仏様が法界広しといえどもどこにおられますか」……。一呼吸一呼吸が死の影に襲われている自分だ。こんな衰残の身で何ができよう。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(2)』
刻々と迫る死におののきながらも尚生きんとする意志の衝動に燃えて、五欲の蜂蜜を求めて走ってゆく。藤ヅルはすでに寸断されているのに、まだそんなつまらぬことを考えています。
阿弥陀仏は、その浅間しい貴方の根性を見ぬいて大悲の涙を流し給うているのです。正直になってこいというのが神です。善人になってこいというのが諸仏です。
極悪人めあてに救うぞというのは阿弥陀仏だけです。こんな仏は法界広しと雖も絶対にありません。
一息一息が死の影に襲われている貴方です。今更何ができましょう。

伊藤康善著『化生の世界』P2
アフリカの砂漠で、千古の沈黙を守るスフィンクスは、われわれに謎の質問を与えたといわれる。「初めは四本足で歩き、中ごろには二本足となり、終わりには三本足となる動物は何か?」彼は、道を通る人々に、この質問を投げて、答えられないものを食い殺した。つまり、人間に向かって「人間とは、何ぞや」と問うのである。スフィンクスは、ナイル河畔に奇怪な姿をあらわす、古代民族の神像ではない。彼は、たえずわれわれの生活に近づいて、「お前は、何か?」と、問うているのである。哲学も、宗教も、文芸も、科学も、この問いに対するわれわれの答えである。われわれは、ひとりひとり、この問いに答えなければならない。彼の前では、代弁も、受け売りの知識も認められない。

高森顕徹著『会報第一集』
アフリカの砂漠に千古の沈黙を守るスフィンクスは、「初めは四本足で歩き中頃二足となり、終りに三足となる動物は何か」と道を通る人々に、この謎の質問を投げて答え得ない者を喰い殺した。つまり人間に向かって人間とは何ぞやと問うのである。
スフィンクスはナイル河畔に奇怪な姿を現わす古代民族の神像ではない。彼はたえず我々の生活に接近して「お前は何か」と問うているのである。
哲学も文芸も科学も宗教も此の問に対する答である。
我々は一人々々此の問に答えなければならない。
彼の前には代弁も許されなければ受売りの知識も間に合わないのだ。

高森顕徹監修『なぜ生きる』
エジプトの砂漠に千古の沈黙をまもるスフィンクスは、
「始めは四本足で歩き、中ごろは二足となり、終わりに三足となる動物は何か」
と旅人に問いかけ、答えられない者を食い殺したという。
つまり、人間に向かって、「人間とはなんぞや」と問うのである。
政治も経済も科学も、医学、文学、哲学、宗教も、この問いに答えんとしている、といえよう。
一人一人がこの問いに、答えなければならない。
彼の前には、代弁もゆるされなければ、受け売りの知識も間にあわないのだ。

伊藤康善著『化生の世界』P25
また、私の知人で、ある銀行の重役をしている男がある。彼の兄は、私の小学生時代の友達であった。性質の善良な働き手であったが、仏教は全然聞かずに三十代で死んだ。その後十年たって、この重役の妻が、難産の恐れがあるので八ヵ月すぎた胎児を手術した。その朝、重役の枕辺に死んだはずの兄が飛びついて来て、「おれを殺す奴があるから、早く助けてくれ」と叫んだ。夢がさめて、すぐ自動車を病院へ飛ばしたが、すでに手術は済んだ後であった。アルコール漬けになった胎児を眺めると男の子であった。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
ある銀行の重役の兄が、とても善良な人で世間から尊敬されていたが、少しも仏法を聞かずに死んだ。
その後、重役の妻君が難産の怖れがあるというので、八カ月すぎた胎児を堕胎した。
その朝、重役の枕辺に、死んだ筈の兄が飛びついてきて、「俺を殺す奴がいるから早く助けてくれ」と叫んだ。
夢がさめて、直ぐ自動車で病院へ行ったが、すでに手術の後だった。アルコール漬けになった胎児を眺めてガク然としたという話を聞いた。

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 8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

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なぜ私は親鸞会をやめたのか
高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)
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大沼法竜著『教訓』はしがき
皆さま、一輪のお花が美しく咲いていますのも一朝一夕ではありません。
(中略)
ある婦人が博士のところに行き「この子供の教育をどんなにしたらよいでしょうか」と尋ねられた時「もう遅いですね」「まだ生れたばかりでございますが」その子供を本当に教育しようと思ったらあなたの祖母から教育してこねば遅いですよ」と申されたそうですが胎内教育も大切であり、胎外教育も勿論必要には違いありませんけれども、親となるべき資格を持ちますには今日今時より先ず自分自身より教育せられなければなりません。貴女の行が子供に恥しいことはありませんか、針が進まなければ糸は正しく縫えておりません。
(中略)
……因果の道理の正しいことを知らず、無慚愧の生活をし放縦邪悪の行為をして冥から冥に入るために子孫の者は悪を悪とも知らず、罪を罪とも知らない生活をして、この世からなる恨み呪い破滅のどん底に苦しみ、永劫の苦患を受けなければなりません。それはとりもなおさず自身の破滅と共に家族は悲境に陥り、社会には害毒を流し……
世の中の母とならるる方々よ、小学校より以上の教育の必要も当然すぎるほど当然には違いありませんが、智育に偏重して徳育及び宗教々育を忘れてはなりません。
(中略)
ある方が母となるには百以上お伽話や有益な話を知らなければその資格がないと言われてありますが、子供を産むだけでは下等動物と何等簡ぶ処がありませんよ。
ご承知でございますか、僅か一つか二つではいけませんよ。面白い話の中に小さい魂に奮発心を喚起させ不屈の精神を培い、遊惰の害虫を駆除し、安逸の邪念を除去し、忠君愛国謙譲慈敬の善心を養い、孝養父母社会浄化の良風を教え、浮華放縦邪見驕慢の悪心を除き、忘恩反逆没義背信の蛮風を去り、金剛石を宝玉と磨きあげてくださるのはあなたの舌一枚にその責任はあるのです。

大沼法龍「心の転換」
闇に向う者は滅ぶ
光に向う者は栄える
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高森顕徹著「光に向かって」はじめに
一ページをぬりつぶす、印相の広告が、しばしば大新聞に掲載される。
(中略)
高校や大学が林立していても、知育偏重で、徳育が忘れられているからではなかろうか。
高僧に、ある婦人が、子供の教育を尋ねると「もう、遅いですね」
「まだ、生まれたばかりですが」
「その子供を、本当に教育しようと思えば、貴女のお母さんから始めねば」
といわれて、驚いたという。
”いくたびも、手間のかかりし、菊の花”
一輪の花が、美しく芳香を放っているのも、一朝一夕ではないのである。
況や子宝を、立派な人格者に育成するには、並大抵の辛苦ではない。
学校教育も、勿論大切だが、なんといっても、人間形成は家庭教育、とりわけ親の心構えにある。
(中略)
子供を産むだけでは、下等動物と、何ら簡ぶところがない。
因果の理法を知らず、放縦邪悪な行為をすれば、この世から、恨み、呪いの苦患を受けねばならぬ。
それは、自身の破滅のみならず、子供をも悲境に追いやることになる。
針が正しく進めねば、糸は正しく縫えるはずがないのだから、親は、姿にかけた教育を、心がけねばならない。
”百以上の、お伽話や有益な話を知らなければ、親の資格がない”と、ある教育者は道破する。
面白い話の中に、小さい魂に奮発心を喚起させ、不屈の精神を培い、遊惰安逸の妄念を除去して、金剛石を、宝玉に磨きあげるのである。
光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。
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大沼法竜著 「法界」 P65
華厳経は釈尊の自内証の経で、高遠の真理を説かれるから大衆は如唖如聾、それで程度を低めて四十年間調機誘引されたのが阿含、方等、般若の諸経である。愈愈上根大衆の為に金色の姿をして法華妙典の説法の最中に悲泣雨涙の請に応じて王宮に降臨し給うは為凡の経を説く為であり、自力の修行より他力の乗托すべき事を顕はすのである。観経を説き終って霊鷲山に帰り、残りの経を説かれたから法華と念仏は同時の経である。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P65 上段
釈尊が自内証のままを説法せられたのが華厳経であるが、文殊、普賢の二菩薩のみは聞いたが、その他聴衆は如聾如唖であったので、グッと程度を低めて阿含経、方等経、般若経を説き四十余年間、調機誘引されて遂に自力の出世本懐経たる法華経を説いていられる最中に王舎城の一大悲劇により韋提希夫人の請を入れて王宮に降臨して観無量寿経を説かれ霊鷲山にかえられて法華経の残りを説かれたから法華経と観無量寿経は同時の経といわれるのである。
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大沼法竜著 「法界」 P380
この欲は限りがなく底が知れない、恰も水が物を潤す如く而も深さが知れないから青い、青いから青鬼と教えたのだ。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P70 中段
そして何時も満足出来ない奴で恰も水が物を潤す如く而も深さが知れないから青いー青鬼と教えられている。

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大沼法竜著 「法界」 P380
怒とは心の上に奴と書いて有る。あの奴が邪魔する、この奴が居りさえしなければと心の中で殺して居る相が怒であり、激い事は火のようであり、真赤になるから赤鬼と言ったのである。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P79 上段
怒るとは心の上に奴と書いてある。あの奴が邪魔するからだ。この奴がおりさえしなければと心の中で殺している相が怒であり、激しいことは火の様であり、真赤になるから赤鬼にたとえられている。

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大沼法竜著 「法界」 P380
愚痴の痴の字は智慧が病気に掛ったと言う字で、正しき判断を失う、蒔いた種を知らず業が報うて驚いて、こんな筈ではなかったがと不平で世の中を呪うて居るのが愚痴である。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P80 上段
愚痴は愚も馬鹿なら痴も知恵が病気にかかっている字だから、同じく阿呆で正しき判断が出来ないから蒔いた種を知らず業が報うて驚いて、こんなはずではなかったにと不平で世の中を呪いネタミとウラミで何度でも

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大沼法竜著 「法界」 P368
然るに我がこころを眺むれば心中閉塞のその中、勝他我慢に無智我見、放逸無慚に嫉視反目、蛇蝎奸詐に強欲非道、煩悩具足で缺げた物がない。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P84 上段
勝他我慢に無智我見、放逸無慚に嫉視反目、蛇蝎奸詐に強欲非道、煩悩具足で欠けめがない我々の心を

大沼法竜著 「法界」 P337
善導釈していわく『南無と言うは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏と言うは即是其行なり、斯の義を以ての故に必ず往生する事を得と言えり』と教えてあるが、南無とはたのむ機の方であり、阿弥陀仏と言うは助くる法の方であり、たのむ機の方までも十劫の昔六字の中に成就して有るから法体成就の機法一体と言うのであるが

高森顕徹著 「会報 第2集」 P46 上段
善導大師は「南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生する事を得るといえり」と教えて南無とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。

大沼法竜著 「法界」 P337
下三品の人間は無善造悪で業に攻められ、苦逼失念で苦に追い立てられて居るのだ。念仏は称えて居るけれども因縁を結ぶだけであって何時の世にかは往生を得るので即得往生をしたのでない。遠生の結縁と成るだけで次生に往生即成仏を得るのではない、別時意である。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P47 上段
下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
(略)
だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。

大沼法竜著 「法界」 P338
善導が、大体、観無量寿経は心想るい劣の韋提が対機ではありませんか、定散二善に堪えない機を救うのが阿弥陀仏の目的ではありませんか、第九の真身観の仏は光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と申されたのは下根下劣の下三品を念仏によって救済するのが目的ではありませんか。
(略)
散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品がどうして観念が出来ましょうに。仏の慈悲は苦なる者においてす、岩上の者よりは溺れて居る者から救わなければなりません、だから付属の文に来れば廃観立称して有るではありませんか。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P48 下段
観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。

大沼法竜著 「法界」 P339
南無と言うは帰命、亦是発願廻向の義であり阿弥陀仏と言うは即是其行、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其人の行となる。願と行とが六字の中に調えて有るから必ず往生する事を得るのではないか。願行具足々々と言って凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行かれない。仏の願行を機無円成するが故に仏の世界に行かれるのではないか

高森顕徹著 「会報 第2集」 P49 上段
南無というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中にととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫が願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。

大沼法竜著 「法界」 P86
法の側から言えば因位の万行、果地の万徳、三世十方法界の功徳を集めて衆生に廻向するとか、阿弥陀如来は久遠実成の覚体、無始本有の極理なり、迷悟染浄一切の万法ことごとく阿弥陀の三字に摂在せずということなしとか、法蔵菩薩の三業二利の功徳とか、無上甚深の功徳利益の広大なることさらにその極まりなきものなりとか

高森顕徹著 「会報 第2集」 P50 下段
名号の中には迷悟染浄一切の功徳を包含し、因位の万行、果地の万徳、三業二利の功徳、三世十方一切の功徳が成就せられてあるから『大無量寿経』には「無上の功徳」と説き、

大沼法竜著 「法界」 P232
お前は一念を判ると説くかい、判らぬと説くかい。
判る人には判る、判らぬ人には判らないと説きます。
それなら時が判るかい。
実時ですか、仮時ですか。
実時。
実時なら分秒に掛らないのだから判りません。
仮時。
仮時なら信楽開発以後だから判ります。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P95 上段
私は「判る人には判る、判らぬ人には判らぬ。」という。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P95 中段
実時は極速だから我々の分秒にかからないから絶対に判らないが仮時が判らない筈がない。

大沼法竜著 「法界」 P258
歎異鈔の御言葉は、信後の懺悔であるけれども、信前の入口にいる者が、御言葉の真似をして、得手に聞いて勝手に行うので、聖人の真髄を把握してはいないのだ。聖人も唯円房も、真剣な求道の後に到達し得た境地で、信後の懺悔であるのを、信前の不安いっぱいの者が、「御講師さん、私は疑うてはいませんけれど、どうも喜びが出ませんが、これで宜敷う御座いましょうか」

高森顕徹著 「会報 第2集」 P141 下段
これは聖人と唯円の信後相続の上の深い懺悔の言葉であって信前の入口に立っている者の窺い知ることの出来ない信境でケタが違うのだ。慶べないのを懺悔するのなら尊い姿であるけれども慶べないのが当り前で平気で

大沼法竜著 「法界」 P259
祖師の信後の信仰を、信前に引き下して、疑いに免許を与えている曖昧な信仰ではないか。

高森顕徹著 「会報 第4集」 P19 中段
信後の尊い懺悔の言葉を信前の者が引きずり下して、信前の同行の疑心を包む道具に使うから、

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なぜ私は親鸞会をやめたのか
高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(2)
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大沼法竜著 「法界」 P381
三学を八聖道に合わして見ると
正語、正業、正命、の三は戒に当り、
正念、正定の二は定、
正見、正思の二は慧に当り、
正精進は戒、定、慧の三学に通ずるのである。

更に三学と六度との関係は
持戒は戒、禅定は定、智慧は慧、
精進は戒、定、慧の三に通じ、
布施と忍辱には相当するものはないが強いて当てれば
布施は慧に
忍辱は戒に治めてもよいと思う。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P8 上段
この三学を八正道に合わせると
戒に正語、正業、正命。
定には正念、正定。
慧には正見、正思惟がおさまり、
正精進は三学に通ずるものである。

更に三学と六度万行の関係をみれば、
戒には持戒、忍辱
定には禅定、
慧には布施、智慧
精進は戒定慧三学に通ずるものである。

大沼法竜著 「法界」 P69
第十九願を福徳蔵と言うは少善根福徳の因縁という文字から来るので、物柄は観経開説の定散二善、三福九品の諸善万行で善導はこれを雑行と言はれたのである。自力の根性が捨たらないから自分は修諸功徳し得るものと自惚れ、他力の念仏は甲斐なき者の修すべき行とさげすんでいるのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P54 中段
第十九願を福徳蔵というのは、少善根福徳の因縁という言葉から出ているが、その内容は『観無量寿経』に説かれている定散二善、三福九品の諸善万行のことである。善導大師はこれを雑行と名づけられた。真実の自己が判らず、自力の根性が捨たらないから自分は善根功徳が積めれると自惚れて、他力念仏なんぞは、弱い人間のやる行だとさげすんでいるが、

大沼法竜著 「法界」 P69
第二十願を功徳蔵と言うは不可思議功徳の功徳から来るもので、小経に不可以少善根福徳因縁と定散二善を嫌貶し、多善根多福徳の名号を開示しているけれども、極致に到達し得ない機類だから雑修の域を離るる事が出来ない。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P54 下段
第二十願を功徳蔵というのは、名号不思議の功徳からいわれたもので『阿弥陀経』には不可以少善根福徳因縁と定散二善を廃して、多善根多福徳の名号を説いて称名念仏を策励しているが、「これだけ称えているもの」「これだけ有難いもの」という自力の執心がとれないから雑修の域を離れ切れないものである。

大沼法竜著 「法界」 P69
第十八願を福智蔵と言うは仏智の不思議を聞信し、真実の智慧を諦得さして頂いて福と徳とを含摂する智慧なるが故に福智蔵と言う。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P55 中段
第十八願を福智蔵というは仏智の不思議を聞信する一念は仏智を諦得させて頂くが、その仏智は福と徳の真実の智慧であるから、福智蔵といわれるのである。

大沼法竜著 「法界」 P70
誘引し悲引するのは真実に誘導せんが為であって、行巻の結歎の文には「能く三有け縛の域を出で、能く二十五有の門と閉ず、能く真実報土を得しめ、能く邪正の道路を弁ず、能く愚痴海を竭して、能く願海に流入せしむ、一切智船に乗ぜしめて諸の群生海に浮ぶ、福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ」とあって、三願転入の深竟が発揮してある。

大沼法竜著 「法界」 P69
この三蔵も前の二は方便蔵で後の一つが真実蔵であって

高森顕徹著 「会報 第5集」 P55 中段
『教行信証』行巻に「能く三有け縛の城を出して、能く二十五有の門と閉ず。能く真実報土を得しめ、能く邪正の道路を弁じ、能く愚痴海を竭し、能く願海に流入せしむ、一切智の船に乗ぜしめ、諸々の群生海に浮び、福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ」と仰せられ方便蔵を廃捨しなければ、絶対に真実蔵には入れない廃立法門を説示なされている。

大沼法竜著 「法界」 P73
第十九願を要門と言う、門は出入の出来る処、通入する処である。八万の法蔵がこの要の門を通って他力不思議の境地に通入するのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P55 下段
要門とは十九願をいう。門は出入する処、通入する処という意味である。八万の法蔵はこの要の門を通って始めて他力不思議の境地に通入するのである。

大沼法竜著 「法界」 P53
私は今仏力不思議によって安養浄土を観見さして頂きましたが末代の悪人女人は何によってお浄土を見せて頂きますかの問いに、浄土を見ようとすれば心を静めなければならない、と十三の観念を説き、観念の出来ない者は善根を励みなさいと九品の往生を教えたまえる説法の微妙な巧説は阿難尊者さえも其の真意を得ない程の巧みさである。即ち十三の観念を説く真最中、第九の真身観に光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と念仏が一寸頭角を顕わしているが、この念仏が称名念仏である事に気がつかないのである。(これを後に源信和尚が往生要集に引用されたのを、叡空上人が念仏衆生とは仏を念ずる衆生という意味で観念である
と説明したのを源空上人が御師匠様あの念仏衆生とあるは称名念仏ではありませんか。
いや観念だ、総相観〜(略)〜
源空上人を破門したのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P56上段
即ち、韋提希夫人が「我は今仏力不思議によって安養浄土を観見させて頂きましたが末代の悪人はどうしてお浄土を見せて頂けるのでございましょうか」と釈尊に尋ねた時「浄土を見ようとすれば心を静めなければならない」と仰有って十三の観念の方法を説かれたものが定善十三観である。その定善十三観の説法の真最中、第九の真身観に「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と念仏が説かれたが、この念仏が称名念仏とは誰も気がつかなかった。法然上人の師であった、叡空上人は観念の念仏としたのに対して法然上人は称名念仏とせられた。その法論が原因で法然上人は破門せられたといわれている。続いて釈尊は「しかし、観念の出来ない人は善根を励み
なさい」と仰って九品の往生を教えられたのが散善の説法である。

大沼法竜著 「法界」 P54
九品の中、上六品は根機に応じて諸善を説き、下三品に来て念仏が教えてあるが、これは廃観立称の素晴らしい説法の仕方である。

大沼法竜著 「法界」 P73
廃観立称して之を阿難に付属して真門に送る。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P56下段
そして九品の中、上六品は根機に応じて諸善を説き、下三品に来て始めて念仏を教え、最後に廃観立称して、これを阿難尊者に付属して真門に送られたのである。

大沼法竜著 「法界」 P73
第二十願を真門と言う、真実と言はず真門と言うは、広大無辺の真理の境地が有るからそこに遅滞せしめず、果遂せしめんが為に門の字を使用する。

定散二善の少善根福徳の因縁を以ては彼の国に生ぜずと嫌貶し、念仏を開示すれども定散の機執を浄尽することを得ないから若一日若七日と自力を策励し来迎を期するのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P56下段
真門というのは第二十願のことであるが、真実といわずに真門というのは、これから先に不可思議の絶対の境地があるのだから、そこまで遅滞させず、果遂させんが為に門の字を使用するのである。

「定散二善の少善根の福徳の因縁をもっては彼の国に生ることを得ず」と諸善万行を廃して念仏の大功徳を明示されて、若一日乃至若七日と自力念仏を策励し、来迎を誓われるのであるが、

大沼法竜著 「法界」 P67
 執持名号若一日乃至若七日一心不乱に固執したのが浄土宗となり、其人臨命終時に全力を注いだのが時宗となり、聞説阿弥陀仏を諦得したのが浄土真宗となったのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P57上段
執持して一日乃至七日一心不乱に念仏を策励して助かろうとしたのが浄土宗となり、命終の時に来迎を受けねば助からぬと、心の顛倒せぬように努力するのが時宗となったのである。

大沼法竜著 「法界」 P76より
第十九願の機類を邪定聚の菩薩と言う。
(略)
この機類は自分の能を知らず定散二善に堪え得る者と自惚れて修行しているから邪に定まる機と言うのだ。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P58上段
邪定聚の機というのは第十九願の人達をいう。これらの人達は自分の真価が判らないので定散二善、諸善万行をつとめられるものと自惚れて修行している人達であるから邪に定まる機というのである。

大沼法竜著 「法界」 P77
第十八願の機類を正定聚の菩薩を言う。三千世界の者は皆助かっても、私一人は助かる柄でなかったと、往生の望みの綱の切れた逆謗の屍が、誓願不思議に貫かれた一刹那、三千世界の者は皆堕ちても私が参らなければ親が泣くと言う大自覚を得た時を、信受本願前念命終即得往生後念即生と言うのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P58下段
正定聚の機というのは第十八願の人達をいう。十方微塵世界の者はみな助かっても私一人は出離の縁あることなしと無間のドン底へ叩きおとされた悲泣悶絶の一念に若不生者の念力で行きかえり、弥陀の本願はわれ一人の為であった。われを離れて弥陀はなし弥陀をはなれてわれはなしの大自覚を獲た人をいうのである。これを『愚禿抄』に「本願を信受するは前念命終なり即ち正定聚の数に入る。即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る、また必定の菩薩と名くるなり」と聖人は喝破なされている。

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高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(3)
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大沼法竜著 「法界」 P80
第十九願の桁にいる邪定聚の機類の往生は雙樹林下往生とて、釈尊入涅槃の時のような淋しい分かれをしなければならない化土往生である。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P60上段
雙樹林下往生というのは第十九願の邪定聚の人達の往生である。釈尊が八十才で雙樹林下で涅槃に入られた時のような淋しい分れをしなければならぬ化土往生である。

大沼法竜著 「法界」 P80
第二十願の桁にいる不定聚の機類の往生は、難思往生とて第十九願よりは一歩進んだ往生であるけれども、第十八願の難思議往生には及ばないので議の一字が省かれてあるのだ。第二十願の行者も化土往生である。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P60上段
難思往生は第二十願の不定聚の人達の往生で第十九願よりは尊いが第十八願の難思議往生よりは劣るので議の一字をとるのである。これも化土往生である。

大沼法竜著 「法界」 P80
化土はそんなに沢山あるのかと言えば化土巻に「良に化の仏土の業因千差なれば土も復応に千差なるべし」と仰せられたように、各自の顔容が違うように、心が全部違うから、日々の生活の業因がまちまちだからその結果は千差万別である。疑城胎宮、懈慢辺地、七宝宮殿、胎生、胎宮、此の人生に生れても、同じ人間でありながら果報が全部違うように化土に往生しても其人其人の修因に応じて感果を得ているのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P60中段
一口に化土といっても懈慢、辺地とか七宝宮殿、疑城胎宮とか胎生、胎宮といわれているように非常に多い。『教行信証』真仏土巻には「良に化の仏土の業因千差なれば、土もまた応に千差なるべし」と仰せられているように、業因がいずれも自力各別であれば、その結果も又各別になるのも当然至極であろう。

大沼法竜著 「法界」 P12
浄土真宗の特徴は
1、山上の宗教を山下の宗教とし
2、僧侶の宗教を俗人の宗教とし
3、貴族の宗教を庶民の宗教とし
4、賢者の宗教を愚者の宗教とし
5、自力の宗教を他力の宗教とし
6、修行の宗教を仰信の宗教とし
7、祈祷の宗教を無祷の宗教とし
8、禁欲の宗教を自然の儘の宗教とし
9、方便権仮の宗教を真実深妙の宗教に転化した
処に真宗の特徴が有る。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P86上段
山上の仏教を山下の仏教にし、
禁欲の仏教を自然のままの仏教とし、
僧侶の仏教を俗人の仏教とし、
聖者の仏教を凡愚の仏教とし、
貴族の仏教を庶民の仏教とし、
自力の仏教を他力の仏教とし、
祈祷の仏教を無祈祷の仏教にせられた等、
親鸞聖人の開顕なされた浄土真宗の特徴は多々あるが

大沼法竜著 「法界」 P22
信仰の一段となれば妥協を許さぬ秋霜烈日の尊厳さを具現されていたに違いない。聖人の特徴の中の特徴は信仰の三大論争によって発揮されてあるが、いかに信仰が熾烈であったか、親切であったか、無遠慮であったか、妥協を許さなかったか、これが美点であると共に欠点でもあった。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P86下段
それは寸刻の猶予も微塵の妥協も許さぬ秋霜烈日の尊厳さをあらわしている。如何にそれは熾烈であったか、如何に無遠慮であったか、如何に妥協を許さなかったか、如何にきびしかったか、如何に親切であったか、真仮廃立に全生命をかけられた聖人のはげしさが三大じょう論に鮮明に発揮なされている。

大沼法竜著 「法界」 P44〜45
6、第三体失不体失の論争
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、念仏のお徳によって死後極楽往生さして頂く事が有難いと善慧房の喜んでおられるのを聞いていた聖人が、善慧房様、死んで極楽往生がそんなに有難うございますか、私は生きている間に往生が決まったとは猶有難う御座います。
何を仰有る善信房、聖道門は此土入証、浄土門は彼土得証、死んで極楽参りをさして頂くから往生浄土と言うではありませんか。
それは結果ではありませんか、その原因は今信楽開発して心の往生の出来た人が死後の往生が決まるのですから現在で約束が決まらなければなりません。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P87中段
善慧房証空が「念仏のお徳によって死後極楽往生させて頂けるのが阿弥陀仏の御本願の有難さである」と得意満面で大衆に説法していた。
  
高森顕徹著 「会報 第5集」 P87下段
「只今貴師は、弥陀の本願は死後(体失)でなければ助けて(往生)下さらぬと仰有ったが、この親鸞は只今往生させて頂いたことを喜ばずにおれません。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P88上段
「何を親鸞殿は言われるか、聖道門は此土入証だが、わが浄土門は彼土得証、死んだ後で極楽参りさせて頂くからこそ往生浄土と言うのではありませんか、

高森顕徹著 「会報 第5集」 P88中段
「そのことはこの親鸞もよく承知しているが貴師の仰有るのは結果でありましょう。誰でもが浄土往生が出来るのではありますまい。現在信楽開発して魂の解決、心の往生の出来た人のみのことではありませんか。現在往生出来ない者がどうして死後浄土へ往生出来ましょう。

大沼法竜著 「法界」 P37
5、第二信心一異のじょう論

大沼法竜著 「法界」 P39
伝絵上7段に「大師聖人源空の御前に、聖信房、勢観房、念仏房以下の人々おほかりし時、はかりなきじょう論をしはんべることありき。そのゆへは聖人の御信心と善信が信心と、いささかもかはることあるべからず、ただ一つ也」と満足し切った自分の信念を述べられた時、かの人々「君がいくら偉いか知らないが、善信房口が過ぎはしないかい、深智博覧、智慧第一の御師匠の信心と弟子のお前の信心と同一とは以てのほかだ。」

高森顕徹著 「会報 第5集」 P91上段
三大じょう論の第二は信心同異の法論である。「大師聖人源空(法然)の御前に、聖信房、勢観房、念仏房以下の人々おほかりし時、はかりなきじょう論をしはんべることありき。その故は聖人の御信心と善信(親鸞)が信心といささかも、かわることあるべからず、ただ一つ也」(御伝抄7段)とあるように、このじょう論は、親鸞聖人が満々たる自身を述べられたことから始まったのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P91下段
「親鸞殿、貴師は如何に秀れていられようとも、少し口が過ぎはせられぬか、深智博覧智慧第一のお師匠さまの信心と弟子である貴師の信心と同一とは驕慢至極であり、自惚れも甚しいではござらぬか」

大沼法竜著 「法界」 P41
聖道門を去って浄土門には帰しているけれども仏凡一体、機法一体の境地に到達せず、水と油を混ぜたような機法合体の信仰の者が多い、掻き混ぜた時は一体のようであっても、手を離せば直に水と油が分かれている。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P92上段
水と油を混ぜたように、かき混ぜた時は一体のようであっても暫くたてば直に水と油が分かれるように、一度は聖道門自力の仏教を去って、他力浄土門に帰してはいるが、未だ仏凡一体、機法一体の一味平等の他力の大信海に帰入しておれない彼らとしたら、


大沼法竜著 「法界」 P43
法然上人は泣き泣き法蔵に入って5回も7回も一切経を読破して自己の無能に驚き、極悪最下の機が極善最上の法に生かされた、宗教の極致に到達された方であり、

高森顕徹著 「会報 第5集」 P92中段
法然上人が泣き泣き報恩蔵に入って5回も一切経を読破して、自己の出離の縁なき相に驚き、極重の悪人が極善無上の妙法に生かされた一念の体験を話されても自分らには、そのような鮮やかな一念の体験がない。

大沼法竜著 「法界」 P39
処が聖人は私は智慧や学問が同一と言っているのではありません、弥陀より賜る他力の信心が同一と言っているのです。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P93上段
「皆さん、お聞き違い下さいますな、この親鸞は智慧や学問、才覚やお徳が御師匠さまと同じだと言っているのではありません。
 (略)
ただ、阿弥陀如来より賜った他力の信心一つは微塵も異ならぬと申したのでございます」 

大沼法竜著 「法界」 P40
平等の大慈悲の真如の月は、大海でも、琵琶湖でも、池でも、洗面器でも、盃でも水の有る処には平等に影を宿すのです。私等の智愚、貧富、老幼、貴賎、善悪、男女によって救済に左右、上下の区別の有る筈が有りません。他力より賜る信心ならば同一でなければ平等の証果が得られませんと断固として

高森顕徹著 「会報 第5集」 P94中段
平等の大慈悲の月は大海でも小さな池でも、盃の水へも、木の葉のツユにも、ドブ溜の中にでも、水のあるところには平等に影を宿すように、我らの智愚、貧富、老幼、貴賎、善悪、男女の差別によって救いを左右される阿弥陀仏ではない。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P94下段
同一の信心でなければ平等の証果は得られない。

大沼法竜著 「法界」 P42
聖人が御師匠の信心と私の信心とが唯一つだと大胆に言えたのは絶対の境地に立っておらるるからだ。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P95上段
親鸞聖人がお師匠さまの信心と私の信心は全く同じだと大胆に不敵に無遠慮に喝破されたのは絶対不二の境地に立っておられたからである。

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 8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

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高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(4)
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大沼法竜著 「法界」 P30
お師匠様、あなたのお弟子は380余人おられますが、現当二世の幸福を得て、未来永劫平等の真証を得らるる方が何人位いいられますでしょうか。善信房よ、人間の信仰と言うものは表面から見たのでは判断は出来ないだろう。それなら私に調べさして頂けないでしょうか。
やって見るもよかろうと

高森顕徹著 「会報 第5集」 P97中段
「お師匠さま。親鸞は、どんな不思議な宿縁がございましてか、お師匠さまに遇わせて頂きその上、380余人もの、法友に恵まれ、
(略)
この世だけの友達では情けのうございます。あまたある法友の中で真に現当二益の絶対の幸福を得て未来永遠に平等の真証を得らるる方が何人位あるだろうかと案じられてなりません。」
「親鸞、そなたもそのことを考え煩っていたのか。この法然も常に案じていたことだ。しかし、信心は心の問題だから仲々表面だけでは判断が難しいが、どのようにして確かめようとするのじゃ」と尋ねられた時、わが聖人は、さも満足そうに「私に一つの名案がございます。私にまかせて頂けましょうか」「結構なことだ。それこそ本当の親切というもの。そなたの思う通りにやってみられるがよかろう」

大沼法竜著 「法界」 P31
本日は信の座と行の座とを分別する事になりましたから各々その座にお就きを願います。詳しく説明すれば行不退、信不退、行不退とは行前信後、信不退とは信前行後、不退とは成就の文の即得往生住不退転の意味で信仰を獲たと同時に往生を得て、あとずさりしない仲間入りが出来る、再び流転しない仲間入りが出来たと言う、自覚、決定心を得た位である。行とは名号一行、勝易の二徳の有る名号を称えたので往生が決まるのか、名号を信じた徳で往生が決まるのかと言う問題である。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P99中段
「本日は御師、法然上人の認可を頂き皆さんに是非お尋ねしたきことがございます。ごらんの通り今ここに、行不退の座と信不退の座を設置致しました。いずれなりとも各自の信念にもとづかれてお入り願いたい」と言われたのである。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P99下段
詳しく説明すれば、不退とは『本願成就文』の「即得往生住不退転」の意味であり、往生を得て、絶対の幸福を得た位のことである。その絶対の幸福になるには行でなれるのか、はた又、信でなれるのかという問いが行不退か、信不退かということでなのである。
行は念仏一行のことであり勝易の二徳のある念仏を称えさえしておれば往生が決定し絶対の幸福になれるのか、破闇満願の徳のある名号六字を信じた徳で往生が決定し、絶対の幸福になれるのか。 

大沼法竜著 「法界」 P32
聖覚法印、信空上人に次いで熊谷蓮生房が信不退の座に就き、其他は去就に迷い判断に苦しみ、曖昧な信仰でうろついていたから聖人自明を記し、最後に法然上人も信不退の座に就くべしと仰せられたとすれば、大勢至菩薩の化身と仰ぐ法然上人、阿弥陀仏の来現と慕う親鸞聖人の御二人を除いては380余人の中で信不退の座に就いたのは僅かに3人ではないか。此の御二人を師匠と仰ぎ法友として親しみながら、しかも仕事片手の俗人ではなく身心を捧げた僧侶ではないか。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P101下段
果してその実、決然として信不退の座に就いた者は聖覚法印と信空上人の二人しかいなかった。ややあって遅参した熊谷蓮生房は、ただならぬ有様を見て驚き「親鸞殿、何ごとがござったのか」と尋ねた時、聖人はことの次第を説明なさると、即座に「然らばこの蓮生房、信不退の座に入れて頂きます」と漸く信の座は三人になったが、その他の380余人は、その去就に迷い、判断に苦しみ「更に一言をのぶる人なし」と『御伝抄』にはある。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P103中段
やがて聖人も自名を記して信不退の座に進まれたのは当然である。かくて最後に380余人注視の中に「源空も信不退の座につくべし」と法然上人もまた信不退の座につかれた。

大沼法竜著 「法界」 P36
祖師が法然の教団の隆盛を念ずるの余り、両座を判別した事が、師匠の前で侮辱を与えた事になるので御伝抄には「そのとき門葉あるひは屈敬の気をあらわし、あるひは鬱悔のいろをふくめり」と書いてあるが、後悔した事は、自分の信仰の不徹底さを懺悔して真剣に求道しようと発憤したのではない。

高森顕徹著 「会報 第5集」 P103下段
「その時、門葉あるひは屈敬の気をあらわし、あるひは鬱悔のいろをふくめり」(御伝抄)とあるように、一応は驚いてへり下りはしたがそれは自分の信心の不徹底さを懺悔してのことではなく、

大沼法竜著 「法界」 P13〜15
紫雲殿縁起に、聖人26歳の時、京都より叡山に帰る途中、赤山明神の玉垣より美しい女性が顕われて、善信房様、私は比叡の峰に登り度いと思いますがお連れ下さいませんか。
貴女は此の山の掟を御承知ないのですか、この山は結界の地と申しまして、五障の霞みに迷うている女人は登る事が出来ません、三従の谷深く破れている女人は行く事が出来ない規則です。
まあ伝教程の大学者が涅槃経の中の一切衆生悉有仏性の文字が読めなかったので御座いましょうか。それならお尋ね申しますが、結界の地には鳥も獣も雌はいないのですか、鳥や獣の雌が住んでいるのに人間の女人が何故登れないのですか。
聖人は一言の返辞が出来ない。
貴殿は末代の智者で御座います、この道理をよく弁えて下さい、いくら山上に水を湛えていても谷川に流れて田地を潤さなかったなら人々の利益にはなりません。
僧侶がいくら山上で修行して救われても、一般の人々が救われる宗教でなかったなら万機普益ではありません。何卒悪人、女人の救われる宗教を弘めて下さいませ。これはお逢いした記念に差上げますがこの玉は天の日が加わった時に光を放ちます、それは千日の後に思い当ることが有りましょう。千日とは三年の後、玉日の姫との結婚となり、

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部解説書 P20
京都市街を離れ、比叡山のふもとの赤山明神の前を通りかかられた時である。(正しくは赤山禅院といい、比叡山延暦寺の別院である。現在の京都市左京区修学院)どこからともなく麗しい女性の声が響いてきた。「親鸞さま、親鸞さま」振り返ってみられると、そこには天女かと思えるような美しい女性が立っていた。
「私を呼ばれたのは、そなたですか」
「はい。私でございます。親鸞さまに、ぜひ、お願いがあって。どうかお許し下さい」
「この私に、たのみ?」
「はい、親鸞さま。今からどこへ行かれるのでしょうか」
「修行のために、山へ帰るところです」
「それならば、親鸞さま。私には、深い悩みがございます。どうか山にお連れください。この悩みを何とかしとうございます」
「それは無理です。あなたも御存知の通り、このお山は、伝教大師が開かれてより、女人禁制の山です。とても、お連れすることはできません」
「親鸞さま、親鸞さままで、そんな悲しいことを仰有るのですか。伝教大師ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」
「えっ、涅槃経?」
「はい、涅槃経の中には、『山川草木悉有仏性』と説かれていると聞いております。すべてのものに仏性があると、お釈迦さまは、仰有っているではありませんか。それなのに、このお山の仏教は、なぜ女を差別するのでしょうか」
「…」
「親鸞さま、女が汚れているから、と言われるのなら、汚れている、罪の重い者ほど、よけい憐れみたもうのが、仏さまの慈悲と聞いております。なぜ、このお山の仏教は女を見捨てられるのでしょうか」
聖人は、返す言葉もなく、ただ聞いておられるばかりであった。そこへ、止めを刺すように、
「親鸞さま。このお山には、鳥や獣のメスは、いないのでしょうか」
「そ、それは」
「汚れたメスが入ると山が汚れると言われるならば、すでに鳥や獣のメスで、この山は汚れています。鳥や獣のメスがいる山へ、なぜ人間のメスだけが、入ってはならないのでしょうか」
「…」
「親鸞さま。お願いでございます。どうか、いつの日か、すべての人の救われる真実の仏教を明らかにしてくださいませ。親鸞さま。お願いでございます」
女性は、包みから綺麗な玉手箱を出して、親鸞聖人に渡した。箱の中には、美しい宝玉が入っていた。聖人は、一礼して、山への道を進まれた

大沼法竜著 「法界」 P16〜17
昨日まで酒色に耽った平家の落人が、俄に頭を丸めたからとて精進潔斎の出来る筈がない、夜になれば徒とうを組んで遊女通いをするのを見せつけられた聖人が、自分一人なりとも仏道の真実に生きようと圧えれば圧える程煩悩の蜂は飛び立ち、殺そうと思えば思う程猛威を震う恐ろしさ、遊女通いをして酒池肉林の楽しみをしている他の僧侶と精進潔斎を誓うて煩悩を制し得るものと自惚れている自分とどちらが清僧なのだろうか。或時二人の僧侶が、女を見まい、物を言うまいと約束をして托鉢に出た、途中小川の丸木橋の上で美人に出会い、抱えて反対側に渡したら、今一人の僧侶の怒りは物凄く、帰るが早いか怒鳴りつけた、
朝の約束を忘れたか、
知っているよ、
知っているなら何故女を抱えて渡したのだ、
そんな事が有ったなあ、
白ばくれるな、
俺は邪魔物が有ったから抱えて除けただけだ、お前は今迄抱えていたか
と逆襲されたそうだが、実行する者と思い続けている者とどちらが罪は重いのだ。宗教は心の動きに重きを置くのではないか、それなら自分は色欲の虜となって思い通しに思うている恐ろしさ、

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ P31
ナレーター「この頃、源平の合戦に敗れた平家の落ち武者たちは、厳しい源氏の追及を逃れるため、にわか坊主になって治外法権の比叡山に潜んでいた。彼らは昼間こそ、殊勝そうにしているが、夜になるとかつての酒池肉林が忘れられず、山を抜け出しては、祇園や島原の遊女と戯れていたのであった」

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ P32
親鸞聖人「ああ、何たることか。人間の目はごまかせても、仏さまの目はごまかせないのだ。オレだけでも、戒律を守り抜いて見せるぞ」

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ P34
親鸞聖人「ああ、何たることか。オレは、体でこそ抱いてはいないが、こころでは抱き続けているではないか。それなのに、オレほど戒律を守っている者はないと自惚れて、彼らを見下している。心の通りにやっている彼らの方が、よほど私より正直者ではなかろうか」

大沼法竜著 「法界」 P41
20カ年の修行も百夜の祈願も外に向かって救いを求め、諸悪莫作衆善奉行と自力修繕に全霊を打込み、廃悪修善に魂を捧げ、定水止観に専注しても、散乱粗雑の心はやまず、見れば見る程、あせればあせる程深淵に沈む哀れな存在に悩む時、聖覚法印に逢い、あなたは顔色が勝れないが御病気ですか、
はい心の悩みで御座います。
その人生苦難の生死の苦海を渡す舟人は吉水の禅房の法然上人より他にありません、
それこそ観音のお告げなりと喜び、聖覚法印に伴われて禅房を尋ねられた時

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ P40
ナレーター「百日の祈願をなされたが、なおも、一大事の後生に苦しまれた聖人は、夢遊病者のように、京の町へと出てゆかれるのであった」

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ P41
聖覚法印「ありがとうございます。親鸞殿、少々お顔の色がすぐれられないようだが」
親鸞聖人「はい、聖覚殿。肉体はどこも悪くはありませんが、親鸞、心の病気で苦しんでおります。聖覚殿、あなたはこの魂の解決、どうなさいましたか」

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ P43
聖覚法印「親鸞殿。あなたのその苦しみは、必ず解決できます。ぜひ、法然上人に、お会いしてください」
親鸞聖人「聖覚殿。ぜひ、法然上人のもとへお連れください」
聖覚法印「いいですとも。さあ、行きましょう」

大沼法竜著 「法界」 P26
往生の望みが絶えた時が、出離の縁有ることなし、地獄は一定住家ぞかしと、切り堕とされたが先か、我能く汝を護らんの親の念力が貫いたが先か、他力廻向の念力が届いたが先か、自力機執の手を離したが先か、言亡慮絶、不可称不可説不可思議の信楽、無条件も無条件一分一厘増さず減さずの素地の儘、裁かず捨てず有りの儘地獄遁れただけでも大事だに52段の証りとは不思議の中の不思議で御座いますと法然上人の膝に泣き崩れた時、上人は善信房の肩をさすりながら五濁悪世の泥田の中に信楽開発の白蓮華、善信房でかしたぞ、五劫思惟の本願はそなた一人の為であったのだ、と誉め讃えられ、共に手を取り合って再び迷わぬ身にさして頂いた身の仕合せに感泣されたのであった。

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ  P49
「いずれの行も 及び難き 親鸞 地獄は一定 すみかぞかし」「弥陀五劫 思惟の願は ひとえに 親鸞一人が ためなり」
親鸞聖人「あー。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。あー、不思議なるかなや、不思議なるかなや。弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり」

アニメ 世界の光 親鸞聖人 第1部シナリオ  P50
親鸞聖人「上人さま、ありがとうございました」
法然上人「よく聞き抜かれた、親鸞殿。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

大沼法竜著 「法界」 P382
光りに向いて進む者は栄え、闇に向いて走る者は亡ぶ

高森顕徹著 「光りに向かって 第1集」 『はじめに』
光りに向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。

大沼法竜著 「法界」 P47
百年の後に知己を求めているのだ

御葉書 平成12年3月
百年の 知己を求めて ひとり往く

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 8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

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高森顕徹著『会報』に関する基礎知識
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高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

『会報』とは、高森顕徹氏が1956年から1970年にかけて執筆した仏教書。
ガリ版刷りで会員に配布されていたものでしたが、後に5冊の書籍となります。
書籍化されても、一部例外を除いて活字化はされず、手書きの文字のまま印刷されています。
頒布は会員のみで、御報謝の目安は1冊1万円でした。

1997年には、『会報』が『私の道』と改題して出版されると、顕正新聞などで発表されました。

ところが翌1998年ウエブサイト『浄土真宗親鸞会 脱会者の集い ハトの会』が「どちらが先か」と題して、主に華光会創始者、伊藤康善氏の著書と『会報』など高森顕徹氏の著書の類似点を公開します。
その内容は「高森氏が伊藤氏の著書を盗作した」と言われても仕方のないものでした。

その後『ハトの会』は「誹謗中傷」との度重なるクレームを受け、閉鎖されましたが、その後もインターネットの掲示板などで、大沼法竜氏との著作の類似点などが次々と明らかにされます。

1999年には親鸞会は『これが獲信か』というパンフレットを全会員に配布。
そこでは華光会と思われる団体を、「京都に本拠地を置く浄土真宗本願寺布教使の某グループ」とし、伊藤氏を「I先生」、増井氏を「M先生」と書き、「土蔵秘事に類するもの」と厳しく非難していますが、本願寺や創価学会など今まで名指しで非難してきた親鸞会が、この時だけは『華光会』と名指しせず、極めて不自然な内容となっている事は、「なぜ隠すのか」で指摘されている通りです。

その後「現代仏教界の最高峰に位置する著作」と言われた『会報』は廃刊となり、1997年から出版準備が進められていたはずの『私の道』についても、2006年現在、何ら発表は有りません。

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参考 『私の道』出版準備開始を伝える顕正新聞
高森先生著『私の道』 出版準備始まる

高森先生の代表的著述『会報』が、親鸞学徒の熱望により、書名『私の道』として出版準備が進められている。

責任者は岡崎海外本部長。

『会報』とは高森先生が、昭和三十一年十二月一日(第一号)から昭和四十五年十一月一日(第百四十六号)まで、心血を注いでご執筆なされたものである。

現在は第一集から第五集まで孔版印刷で頒布されているが、仏教とは何か、後生の一大事、阿弥陀仏の本願、五重の義、真仮廃立に至るまで、仏教の真髄が開顕されている。まさに高森先生の『私の道』と言われるべき、現代仏教界の最高峰に位置する著作である。出版形態は『白道燃ゆ』と同じB6判で上下二巻となりそうだ。出版時期は流動的である。

【顕正新聞9年2月15日号】
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追記:その後、光に向かってなどの著作でも盗作が発覚しました。詳細は下記リンクをご覧下さい。

大沼法龍師の言葉
さよなら親鸞会|高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです

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なぜ私は親鸞会をやめたのか
高森顕徹氏の獲信体験
18歳の獲信体験
親鸞会会長の高森顕徹氏が、18歳のときに獲信(阿弥陀仏の本願によって救われること)したことはよく知られています。高森氏本人はかつて、毎日新聞編集員横山真佳氏のインタビューにこう答えていました。

──高森さんは、氷見の浄土真宗の寺の出ですね?

高森 そうです。だが仏教が大きらいで、寺を出ることばかり考えていたのです。それで軍隊に志願して寺を出たのですが、戦争に負けて帰ってきて、それから龍谷大に入った。そしてその龍谷大に入って間もなく、親鸞聖人の教えに導かれて無礙の一道に生かされたのです。

──学生時代に?

高森 そう。二十年に戦争に負けて、このときは特別で十一月に入学を許された。その翌年ですから、本当に間もなく。それから龍谷大に残って七年やりました。なぜやったかと言うと、教学をやっとかないかん。正さなければならない。いつかその時が来る。その時は本願寺の学者が相手だと、それで勉強をしたのです。

──しかし、なぜそんなに簡単に無礙の一道へ出られた?

高森 簡単じゃあないですよ。それはもう血みどろでした。

【月刊住職1984年7月号】
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そしてそのときの体験を、当時所属していた華光会の雑誌で、高森氏は以下のように書いています。

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何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。

求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々

これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏

今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。

【華光会発行『華光』第5巻第5号「私の信仰体験」】

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ここに記されている『仏敵』とは、華光会創始者の伊藤康善氏の著書の事です。
ちなみに高森氏は獲信間もない頃、学友や同行の獲信を念じて伊藤氏の著書を薦めていたと言われています。

しかし今は一転して華光会を「異安心の集団」として批判しているのはご承知のとおりです。
この華光会を批判するパンフレットとして「これが獲信か」が平成11年に親鸞会から出版されていますが、それにはこう書いてあります。

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「夫れ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。一念とは、是れ信楽開発の時尅之極促を顕わし、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証信巻)

真実の信心には、一念がある。一念とは疑い晴れて大満足に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ渡った一念、驚天動地の一刹那をいう。

聖人は、「極速円融之真詮」とも仰有っている。長い間かかって少しずつ諦得する信心なら極速とはいわれない。聞即信の一念の早業で、微塵の不足もなく大満足させられるから円融の真詮といわれるのである。

曇鸞大師は、「譬えば千歳の闇室に、光若し暫く至れば、即便ち明朗なるが如し。闇豈室に在ること千歳にして去らずと言うことを得ん耶」(浄土論註)と教えられた。千年前から闇に閉ざされていた部屋も光が差し込んだ瞬間に、闇が晴れるように、阿弥陀仏の不可思議の願力に摂取されるのは、一瞬のことなのだ。

【親鸞会弘宣部『これが獲信か』 第4章「信仮の分際知らず」】
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華光会の信仰を批判するパンフレットに、「阿弥陀仏の不可思議の願力に摂取されるのは、一瞬のことなのだ。」と明言しているにもかかわらず、高森氏自身が18のときに書いた体験談には「次第にその迷雲も晴れ」とあります。

本当に一瞬で摂取される救いを高森氏が体験したのなら、なぜ「次第に迷雲も晴れ」という体験談を書いているのでしょうか?

18歳当時の高森氏は、この親鸞会の批判パンフレットによると「異安心」という事になります。


20歳で発刊した「獲信の記録」

18歳で獲信したと語る高森氏は、その後20歳で華光会から『化城を突破して』という本を出版します。
これはその後再版の際に『獲信の記録』と改題されており、内容は題名のとおり華光会でかかわった人たちの「獲信の記録」を聞き、高森氏の編著によりまとめたものです。最後には当時の師匠、伊藤康善氏との座談会の記録が収められています。

その中にはこんな体験談が収められています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。
だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。これが獲信したというものであろうか?

まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐが如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。

「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね。」

不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。ああ、このままだった、このままだった。

【高森顕徹編著「獲信の記録」華光社】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一方、後になって華光会を批判した『これが獲信か』では、ここに高森氏が載せているような体験が、明確に否定されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「獲信」したときも不安なら、「先生」に「このままでよい」と言われてもなお、よく分からなかったとある。が、他力信心は、そんな曖昧な体験ではない。

「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽くまで凡夫直入の真心を決定しましましけり」(御伝鈔)親鸞聖人の獲信は、こう記される通りの、明らかな体験であり、ご著書はすべて救われた歓喜に満ち満ちている。蓮如上人も『御文章』に、「他力信心ということをば今既に獲たり―乃至―今こそ明かに知られたり」と仰有っている。

ハッキリしなければ安心できない。兎の毛、羊の毛の先にある塵ほどの疑心があっても救われたとは言えぬから、親鸞聖人は、『教行信証』に九回も、「疑蓋(疑心)雑ること無し」と書かれているのだ。

Hさんのような「これがご回向さま?」「これが信心?」などという疑心のある他力信心など絶対にないのだ。また、真実信心は、時間がたってから、じわじわと知らされてくる体験でもない。

(中略)

M氏自身も、「獲信」を他人に「真偽を確かめてもらって」やっと安心するという「つもり」信心であったのだ。グループの者たちも、同じような体験ができると、皆に「よかったね」「それでいいのだ」と称讃されて安心してしまうから、とても十八願他力の世界までは進めない。

「知識は針の如く、同行は糸の如し」

知識の針が曲がれば、同行の糸も曲がらざるを得ない。知識の針がいい加減なところで止まれば同行の糸も徹底はできないのである。それどころか、「信なき悪知識に順えば地獄へ堕つるなり」で、彼らの後生には、必堕無間の一大事が待っているのだ。

頭狂えば尻尾まで狂う。悪知識の恐ろしさが知らされるばかりである。

【親鸞会弘宣部『これが獲信か』 第3章「つもり信心グループの悲劇」】

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「頭狂えば尻尾まで狂う。悪知識の恐ろしさが知らされるばかりである」と記されていますが、高森氏が20歳のときに出した『獲信の記録』の内容は、今の親鸞会が批判している「悪知識」の教えとまるで変わらないことがわかります。
18歳で真実の信心を獲たはずの高森氏は、なぜこんな体験談を自らの編著に掲載しているのでしょうか。

一つだけ言えるのは、本当に「兎の毛、羊の毛の先にある塵ほどの疑心があっても救われたとは言えぬ」信心を高森氏が獲ていたのなら、こんな体験談を本にして出すことなど絶対にしなかっただろう、と言うことです。


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批判を受け入れられない親鸞会

高森氏がその著書『会報』などで、華光会時代の師匠である伊藤康善氏の文章を大量にコピー、改変して、自分の著作として出版していたことは、高森顕徹氏の著書のルーツで触れたとおりです。
この事実がインターネット上で明らかにされた後、「現代の教行信証」と言われていた『会報』は、その理由も明らかにされないまま廃刊になりました。

このページで引用した「これが獲信か」というパンフレットには、華光会を批判しながらも「浄土真宗本願寺の布教師の某グループ」として、華光会の名前は一切あげていません。
華光会という名前が、公に知られては都合の悪い理由でもあったのでしょうか。

そして今も、親鸞会は異安心狩りに熱心に取り組んでいるようです。

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「本当に救われたのだろうか?」は疑情と言うのだよ。

信心決定すれば、この疑いは微塵もなくなる。「本願に対する疑いがある」のは、まだ救われていない証拠です。


これを信疑決判というのです。

だから、上田祥広君の信心は、疑心往生という異安心だ。

彼の話は、親鸞聖人のみ教えを破壊する邪義であり、大謗法である。そんな邪義に同調し、宣伝している君も、大変な罪を作っていることになる。

猛省せよ。そして、しっかり教学を勉強しなおしなさい。

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まともな人間には、とても書けないことだ。

「読んで吐き気がした」という法友が多い。

言うまでもなく、上記の行為は、どれもこれも異常であり、とても仏法者とか、親鸞学徒と呼べるようなものではない。

除名になって当然である。

2月の合宿でも、3月の合宿でも、福岡でも、北海道でも、君たちは、親鸞聖人のみ教えや、高森先生のご教導に対して誹謗中傷を重ねている。

仏とも法とも知らなかった君たちが、手取り足取り、懇切にご教導いただきながら、よくこんなことができるものだ。

お世話になった高森布教局長へも、あのような失礼極まるブログを立ち上げている。

法論などという以前に、人間として異常というしかない。

【親鸞会・公開法論2 福田琢也支部長から斎尾裕史氏へのメール】

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福田氏の主張するところの「疑心往生」の体験談を掲載した書籍を、自らの編著で堂々と出版していた20歳の高森顕徹氏は、「親鸞聖人のみ教えを破壊する邪義であり、大謗法」なのではありませんか?

人の信仰を声高に異安心と決め付けて除名にし、「読んで吐き気がした」「人間として異常」といった言葉で相手を見下しているのが今日の親鸞会の姿ですが、「阿弥陀仏の化身」「親鸞聖人のお生まれ変わり」と賛美する高森氏については、会員に誓約文を書かせてまでその批判を禁じていることに、何の矛盾も疑問も感じないのでしょうか。

同行より起請文を取るまじき事

念仏する同行、知識にあいしたがわずんば、その罰をこうぶるべきよしの起請文をかかしめて、数箇条の篇目をたてて連署と号する、いわれなき事。

【覚如上人『改邪鈔』】

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偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。反対者を「愚者」であると見なすとともに、自己を「真理に達した人」であるという。かれはみずから自分を「真理に達した人」であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものである。

ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。

自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

【釈迦『スッタニパータ』より】

彼らに、他を批判する前に自らの姿を見つめよといっても、それは到底無理なことなのかもしれません。

私は数十年前に親鸞会を除名になった方に、会って話を聞いたことがあります。

その人は当時の高森氏の法話が「あまりに獲信の体験談が多い」ので、「弥陀の本願を説くのが説法であって、体験談ばかり話すのは説法ではない」と言った所、除名になったそうです。

今の親鸞会が「華光会は獲信の体験談ばかりだ」と批判していることは、皆さんもご承知のとおりです。


なぜ私は親鸞会をやめたのか|ホーム

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なぜ私は親鸞会をやめたのか
明橋大二医師と親鸞会
真生会富山病院・明橋大二氏とは
明橋大二氏は2006年10月現在、富山県射水市にある真生会富山病院の心療内科医師であり、高森顕徹氏監修の「なぜ生きる」、単著では「輝ける子」「子育てハッピーアドバイス」(どちらも1万年堂出版)と幾たびもベストセラーを重ね、現在フジテレビ「笑っていいとも」の育児コーナーにレギュラー出演している医師です。氏の勤務する真生会富山病院のウェブサイトよりプロフィールを抜粋すると、

・国立京都病院内科、名古屋大学精神科、愛知県立城山病院をへて、現職
・新湊市立作道小学校スクールカウンセラー
・富山県児童虐待対応相談チーム委員
・高岡児童相談所嘱託医
・NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと副理事長

となっています。しかし明橋氏にはここでは書かれていないもう一つの顔があります。それは浄土真宗親鸞会会員としての明橋氏です。そして、明橋氏がベストセラーを重ね有名になった背景には、親鸞会という宗教団体の存在が深く関わっています。


では親鸞会とは一体どんな団体なのでしょうか。ルポライターの藤田庄市氏は「新潮45」にこう書いています。

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 正体を隠した宗教勧誘は、統一教会だけではなく、ここ一〇年ほどの間に目立ってきている現象である。

 全国の大学で活発に活動をくり広げる浄土真宗親鸞会も、その代表的な宗教である。
最近、高森顕徹という人物が書いた『光に向かって 100の花束』(1万年堂出版)という本が新聞広告を大きく打ち、ベストセラーにもあがっている。
奥付め著者紹介には一行もないが、この高森こそ信者の尊崇を一身に集める親鸞会の会長である。
同会は戦後に創立され、信者数約一〇万人、本部は富山県小杉町にある。

 親鸞会学生部の正体隠し勧誘の舞台はダミーサークルである。
三月末、他のサークルがまだ活動していない入学手続きの日に、彼らはキャンパスにくり出す。

 親鸞会にもかなりこまかいマニュアルがあり、それに従って新入生の勧誘を行う。
哲学のサークルを名乗り、「人生の目的を考えたことがありますか」と一人で歩いている新入生に問いかける。
しかし最近では、宗教的イメージをやわらげるため、いきなり人生の目的とはいわず、「それにキナコをかけたような充実した大学生活を送ろうと思わない?」などと話しかける。

 部室は学外のマンションを借りている。
教義を親鸞会のものと告げずに教えるのは、OBや大学講師、大学院生と称する人間である。
が、じつは彼らは講師部員という親鸞会のスタッフであり、肩書きは偽りだ。
卒業生でない場合もある。

 親鸞会であることを新入生に隠すため、一昨年のあるマニュアルには約百項目の「禁止事項」が連らねてある。

「先生(高森会長)のお名前は出さない

「本会の話はしない」

に始まり、

「宗教ですかの質問には、はっきり否定する。決してあやふやにしない」

と正体隠しを図っている。

 興味深いのは、布施や会費について新入生に感づかれないための注意が冒頭にあることだ。

「御報謝(布施)の話はしない。予約額の報告、納金のやり取りもしない」
「財布をカバンから出す時、見られないように注意する。納金は後ろで一年生がいないときにする」


など。
これは親鸞会の学生の間で金銭の動きが盛んなことを示している。
ひと月に五万〜一〇万円を布施や活動に注ぐのは普通のようだ。
ある女子学生の母親は、娘が仕送りを布施に出してしまうため、「親鸞会は商売のようだ」と嘆いていた。

新潮45 2001−9月号 シリーズ・現代のカルト第三回
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なぜ著名な児童精神科医とこのような団体が関係していると言えるのでしょうか。ここでは明橋大二氏と親鸞会との関わりについて詳しく掘り下げて行きます。

親鸞会医学部生としての明橋大二氏
学生時代、明橋氏が親鸞会会長の高森顕徹氏に出した年賀状が、同会の機関誌「顕正新聞」に掲載されています。

京都市 明橋 大二
謹賀新年
 真実に会わせて頂いて以来三年間、名利にだまされ、法を疑い、どうしても真実一路に徹しきれなかった私です。
 しかし「医師の資格をもった専任講師たれ」とのお言葉を頂いた上は、二河の道を全力で猛進します。そして、必ず今年中に信心決定します。

顕正新聞59年1月15日号

「医師の資格を持った専任講師たれ」というのは親鸞会の高森会長の言葉だと思われます。そして、明橋氏は高森会長の期待に応え、医師国家試験に合格します。

医学部に勝利の凱歌

全員合格、八名の医師誕生 親鸞会病院設立に大躍進

 六十年春の医師国家試験に本会医学部の受験生八名が、見事に100%合格の快挙を成し遂げた。仏心を体現した医師を結集した親鸞会病院の設立を目指す医学部。今回の全員合格で理想の実現に大きく前進した。

【中略】

 ○○医学部長は、
「皆、よく頑張った。明年も九名ほどの医学部生が国試に臨むが、医師が二十人ほどになれば、親鸞会病院の建設も、具体化してくるだろう。医師として勤務するようになると、世俗の誘惑も多くなるだろうが、何のために医師になったのか、目的を見失わずに、善知識のご期待に応える医者として成長してもらいたい」
 と、合格の喜びと、医学部の将来について語った。
 昭和五十三年に発足してから七年、親鸞会医学部は今回合格の八名が、既に医師として活躍している○○医師らと合流し、医療の第一線で真実開顕の旋風を一層強く巻き起こしていくことだろう。(T・A)

【中略】

明橋大二医師(25) 精神科 国立京都病院勤務

顕正新聞60年6月15日号

 
ここで言う善知識とは、高森顕徹会長の事です。以下は明橋氏自身による決意文です

新医師の決意 2 研修後、講師部へ

明橋大二(26) 精神科 国立京都病院勤務

 今日の医学界は、ガン末期患者の看護、心身症の増加などの問題を通して、宗教的なものへの要請が非常に高まっています。
 しかし、その現状はキリスト教の牧師や、似而非仏教者ばかりがのさばって、全く下らぬ議論を繰り返しています。
 そんな現実を見れば、とても黙ってはいられないのです。現代における唯一正統の仏法者として、善知識が今ここにましますこと、死んだ後生に一大事のあることを、力の限り叫んでゆきます。

今後の方針
一、大学卒業後、内科を二年間、精神科を四年間、研修する。
二、研修後、講師部に入れていただく。
三、将来、親鸞会病院で、精神科外来を開くかたわら、青年精神医学、末期患者の臨床の専門家として、著作活動、講演活動を行う。
四、病院内で定期的にご法話を開催する。

顕正新聞60年8月15日号

実は明橋氏が勤務する「真生会富山病院」こそ、ここで言われている「親鸞会病院」が具現化したものであり、そもそも「真生会」とは高森会長が付けた名前です。

その後も明橋氏の高森会長に対する深い忠誠は続きます。

命がけのご説法に感銘 み跡に従い、報恩を誓う
特専部・医師 明橋大二

合掌
 善知識高森先生、その後ご法体如何でしょうか。
 日曜日、施主として一番前でご説法聞かせて頂きましたが、文字通り、高森先生の骨が砕け、肉の軋る音が聞こえるようでした。
 控室では、机に向かうにもはいずり上がるようにして、やっとのことで起き上がられる、と随行者の方からお聞きしました。
 身を粉にして、骨を砕いて、それでご恩返しができるなら、楽なものだと仰有る高森先生。あまりの境界の違いに、胸の締めつけられる思いをしながら、同時に自分も、先生のみ跡に従い、先生の億分の一、兆分の一でも苦労をさせて頂きたいと決意せずにおれませんでした。
 先生が、死を覚悟で日曜の壇上にお立ち下されたお陰で、初めて万劫にも逢い難い善知識とのご縁を結ぶことのできた人がいます。私と同じ下宿で龍大文学部の二回生です。
 高森先生の説かれる真実の仏法には、あまりに(自分の心に)引っかかる所が多すぎて、震撼させられる思いだ、とその夜語ってくれました。
 彼だけではありません。私も、高森先生が今にも砕けそうなご身体を引きずって、ご説法にお立ち下されたなればこそ、後生の一大事の解決の道を教えて頂いた一人です。
 高森先生の命がけのご説法を決して無にすることのなきよう、毎日の活動に今まで以上に精進し、一刻も早くご恩返しできるよう頑張ります。

顕正新聞61年10月1日号

明橋医師の布教活動
医師となった明橋氏は、上の言葉の通り、布教にも積極的に取り組みます。

アニメで深まる患者さんの仏縁
医師 明橋大二

合掌
 先日、名古屋に行ったおり三ヵ月ぶりに、アニメ第4部を求められた元患者さん宅を訪問してきました。
 その方は、毎日、欠かさずアニメを見ておられました。しかも驚いたことに、今までどんな薬を飲んでも治らなかった幻聴(家の外から悪口を言う声)が、親鸞聖人のアニメを見るようになって、ほとんどなくなったといわれるのです。
 今まで、自殺を考えるほど苦しんできただけに、どれだけこのアニメに感謝しているか分からない、と言われました。さらに、「でもね、私、まだ、だめなんです。まだ、阿弥陀仏の御声が聞けないのです」と、言われるではありませんか。
 半年前には親鸞聖人のお名前は知っていても、教えはまったく知られなかった人が、アニメを毎日毎日、見ているうちに、求道に決勝点のあることを知られ、信仰に悩んでおられる……、思わず涙ぐんでしまいました。
 心の病気も、肉体の病気も治していただくアニメ、本当に有り難うございます。

顕正新聞8年5月1日号

「アニメ」とは親鸞会の製作した「世界の光 親鸞聖人」のアニメーションの事であり、富山県射水市に本社を置く「株式会社チューリップ企画」から販売されています。

チューリップ企画とは親鸞会の製作した布教アニメの頒布のために作られた会社であり、本社は「親鸞会ビル」と呼ばれる7階建ての建物の2階です。ちなみにこのビルの最上階は高森会長の利用するフロア、それ以外のフロアは2階を除いて全て浄土真宗親鸞会弘宣部(広報部門)が利用しており、高森会長専用の玄関とエレベータまで備えられています。明橋氏の全ての著書を発刊している1万年堂出版は、この株式会社チューリップ企画の出版部門であり、同社の社員はほぼ全員が親鸞会の会員です。

親鸞会はかつて会員を総動員して、この7本セットで10万円するアニメ「世界の光 親鸞聖人」の戸別訪問による頒布活動を全国で推進しました。「元患者」とありますが、明橋氏は一体どんな立場でこの人に接していたのでしょうか。

医師 弁護士による仏教講座 各地で大評判

 特専部員の仏教講座が各地で好評を博している。
 本会特専部は医師、弁護士、建築士、会計士など専門分野で活躍する親鸞学徒の集まりである。日常業務で高度なサービスを提供する一方、親鸞学徒の使命である破邪顕正にも先陣を切っている。
 その一つが、各地での仏教講座である。毎月定期的な開催で、地元の人々に確実に真実の仏法を伝えている。
 石川県金沢市では、「親鸞聖人に学ぶ」と題して弁護士の○○○○氏が講座を開いている。本会顧問弁護士も務め、多忙な同氏。スケジュールの調整に苦労する時もあるというが、月一回の講演に立って今年九年目を迎える。
「遺産相続ではお金を持っている家ほど醜い争いが起こる。お釈迦さまの仰有るように有無同然です」
など、弁護士ならではの話題も随所に。ソフトな語り口で、時にユーモアも交えての話は定評があり、ファンも多い。
 特専部員の主な仏教講座は、○○○医師、○○○○弁護士、○○○○医師の「医療と仏教を考える会・講演」(大阪市)、明橋大二医師の「医師が語る歎異鈔」(愛知県)、○○○○医師の「医療と仏教」(東京都)、○○○○弁護士の「弁護士が語る釈迦と親鸞」(石川県)等がある。
「どう生きるか」に詳しい専門家は世にたくさんいても、それに加えて「なぜ生きるか」をハッキリ解答できる人は雨夜の星である。
 仏心を体現した専門知識集団・特専部は世の師表として、濁世に一際光芒を放っている。

顕正新聞10年6月15日号

精神医学の限界
 心療内科医師(特専部) 明橋大二

合掌
 歎異鈔第四章は、医療の目的と限界を知らされる、私の大好きな章です。一度苦しみを抜いてもまた苦しみが起きてくるのは、精神科では特によくあることです。
 苦悩の根源を解決せねば、本当の救いにはなりません。まず、自身が急いで仏になれる身になり、医療を通じて阿弥陀仏の本願を全人類に伝えることこそ、医師の聖使命と思わずにおれません。
 決して聖道の慈悲で終わるために、この道を進んだのではないぞ、と厳しく自戒して進ませていただきます。

顕真11年9月号法友通信

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1万年堂出版と明橋氏

このことから、明橋氏は医療を通じて親鸞会の教義を広める事が、自分の使命だと思っている事が分かります。
そしてその集大成とも言える活動を平成13年に開始するのです。

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高森先生監修『なぜ生きる』ご発刊「苦しくとも、生きねばならぬ、理由は何か」。全人類永遠のテーマに、明快に答える大著・『なぜ生きる』が、四月二十日、全国の書店で一斉に発売された。
 著者は明橋大二(精神科医)、伊藤健太郎(哲学者)の両氏。高森先生が監修され、親鸞聖人のみ教えが光彩を放っている。

【中略】

『なぜ生きる』は、発売第一週から、全国総合ランキングで第五位と、堂々たるデビューを飾った(トーハン調べ)。今後、『光に向かって100の花束』以上のブームが巻き起こると予想される。

顕正新聞13年5月15日号

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ここで触れられている「光に向かって100の花束」、そして「なぜ生きる」の発刊に際しては、親鸞会の会員から「発刊記念御報謝」として多額のお金が集められました。
そして同会の職員や会員による、拡販を目的とした大規模な購買活動も行われました。
朝日新聞や読売新聞といった全国紙にも次々と広告が掲載され、結果それぞれ60万部、40万部を突破するベストセラーとなるのです。

全く無名の新興出版社であった「1万年堂出版」から、同じく無名の著者の著作が続けてベストセラーになった事は、何か不自然なものを感じさせました。
文芸評論家の斎藤美奈子氏はこう書いています。
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『光に向かって100の花束』という、なんだかめちゃくちゃ売れている本がある。

著者の高森顕徹氏は「浄土真宗親鸞会会長」という肩書きだが、どことなく正体不明。
某誌の連載(『月刊百科』二〇〇一年四月号)で、戦前の修身の教科書にも似た不気味な本だという意味のことを書いたら、読者からハガキが来た。
「浄土真宗親鸞会」とは、本人たちは否定しているが、いわゆるカルト教団であり、大学のキャンパスなどにも出没しているという。
そんな特殊な本が一般書として売れているのは怖いこと、と書かれてあった。

ははあ、なるほど、やっぱりねえ。
と思って、そのまま忘れていたのだが、『編集会議』六月号で気になる記事をみつけた。

「ベストセラー鑑定人 井狩春男のこの本が売れる理由」という連載コラム。
ここで井狩さんはびっくり仰天の告白(自慢?)をなさっているのである。

< すでに50万部を突破しているのに、この本を取り上げる新聞や雑誌が極めて少ないのはなぜなのか?/新興宗教の出版部ではないかと勘違いしているのだろう。違っている。富山のピデオを中心とした企画会社の出版部である。なぜ知っているのかといえば、起ち上げの際に富山から小生のところへ相談にやってこられたからだ

以下、1万年堂出版という社名も、第一弾として出す本の内容も、『光に向かって100の花束』という書名も、ご自身がアドバイスして決まったことだとの打ち明け話が続く。
売れたのは<たまたまだが宣伝費はタップリあったからで、宣伝のオンパレードであるから、情報が読者に充分に届いて、当然のように売れている>と。


噂の真相 2001年7月
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ここで書いている「富山のビデオを中心とした企画会社」は、アニメ「世界の光親鸞聖人」の株式会社チューリップ企画であり、その出版部とは言うまでもなく1万年堂出版です。たしかに1万年堂出版の宣伝は、新聞の全国紙にも何度も大きな広告が掲載され、ご覧になった方も少なくないと思います。ではなぜ、無名の出版社に「たまたまだが宣伝費がタップリあった」のでしょうか。その理由は、皆さんの想像にお任せいたします。

その後、同会の機関誌「顕正新聞」にはなぜか明橋氏の名前はめっきり登場しなくなり、代わりに書店に明橋氏の書いた1万年堂の育児本が積まれました。もちろん、月に数回行われる親鸞会本部での行事に行けば、そこに明橋氏の姿を見る事が出来ます。

私は、明橋氏の精神科医としての能力や人格に異を唱えるつもりは全くありません。また、誰がどんな信仰やどんな使命を持って生きようとも、それは自由です。

しかし今でも私は、子供が親鸞会にのめり込んでいく事を心配する親御さん、親鸞会に疑問を持つ人、親鸞会をやめたいという会員、正体を隠した親鸞会の勧誘を問題視する大学関係者といった、様々な人からの悩み、苦しみ、相談を受け続けています。

明橋氏は現在著書の販売も好調で、講演やテレビ出演に引っ張りだこで多忙な毎日を送っているようです。しかし、明橋氏を起用する教育団体やマスコミの方が、明橋氏のバックに浄土真宗親鸞会という宗教団体の存在する事。そして、浄土真宗親鸞会がどんな宗教団体であるのか、知って頂ければと思っています。

(明橋氏は2007年1月7日、浄土真宗親鸞会より特専部賞を受賞しました)

※参考リンク

1万年堂出版(当ウェブサイト掲示板のスレッド)

井狩春男さんと「光に向かって」(バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳)

親鸞会資料集内コンテンツ・SK作戦指示書
(明橋氏の著作「なぜ生きる」が親鸞会で組織的に購入指示されていた事を裏付ける資料)

高森顕徹氏と親鸞会の問題

親鸞会録音資料

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浄土真宗親鸞会の謎


■はじめに

 浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)とは、「親鸞の教えを忠実に継承する」と公言している宗教団体である。そのため浄土真宗の正当な一派を主張し、自らを伝統宗教と位置づけているが、ダミーサークルを使った勧誘やマインド・コントロールに類似したプログラムなど、破壊的カルトに通ずる一面もある。また本山も末寺も存在せず、一般的に浄土真宗のイメージとされている西本願寺派や大谷派をしつこく批判している点からも、同じ浄土真宗各派とは一線を画した存在であると言えよう。
 彼らの勧誘活動は金大でも活発なため、私は金大ぁゃιぃサークル一覧や独り暮らしの罠で、ダミーサークルを紹介した。しかしこれに親鸞会からクレームが付き、後述の経緯でそれまで使用していたサーバーから追い出されてしまった。私は旧サーバーはもちろん、親鸞会を恨んではいない。しかし、これを期に親鸞会について考察を深めることとした。浄土真宗親鸞会は、破壊的カルトか、あるいは伝統宗教か。その判断は、読者一人ひとりに委ねたい。


■旧サーバー追放までの経緯

 まず、私が如何にして旧サーバーを追放されたかを説明します。なお、メールを直接貼り付けることは法律上できないのでご了承下さい。

1.ファーストコンタクト
 親鸞会から最初のコンタクトがあったのは6月7日(月)のこと。「浄土真宗親鸞会 弘宣部」という送信者のメールを開くと、1.親鸞会を誹謗中傷する記事が、金大ぁゃιぃサークル一覧と独り暮らしの罠に書かれている 2.親鸞会を名誉を毀損しているサイトにリンクが貼られている 3.以上の理由で、親鸞会関係の文章の全文削除を望む とし、放置すると管理人には法的責任が発生する(特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律第3条)との内容が書かれてありました。これは同じ内容がサーバーにも送付されたようで、サイトは即座にアクセス禁止措置が取られました。
 私はサーバー管理会社に連絡し、「アク禁食らったんだけどどうすれば解除されるんですか?」と問い合わせました。すると管理会社のオペレーターの方に、「問題記事を一時削除してください。そうすればアクセスを解禁します。記事の復活については当該団体と協議してください」と言われ、親鸞会関係の記事を削除し、「協議中のため現在公開できません」との一文を貼り付けました。
 しかし問題が残ります。それは親鸞会がこちらの反論に応じず、一時削除の状態をなし崩し的に恒常化させようと協議しなかった場合どうすればよいかということでした。この点についてオペレーターの方に尋ねたところ、「その場合は議論喚起の意味も含めて、削除部分を復活してもいいです」との回答をいただきました。そのため私は一時削除の状態でアク禁を解いていただき、親鸞会には「どの部分が中傷にあたるのか具体的にご指摘ください」とのメールに、「数日中にご回答いただけない場合は問題の記事を復活させます」との文章を加えて送りました。
 尚、このとき独り暮らしの罠のファイル名を「hitorigurashinowana.htm」から「wana.htm」に変更しています。これはファイルをアップしたとき使ったftpツール(web上にファイルをアップする専用のツール)の調子が、その2ヶ月ほど前から悪くてうまく作動しなかったので、やむなくブラウザのファイルマネージャを使っていたのですが、ブラウザを使う場合は「ファイル名は20文字以内にしなければならない」という制限があり、ファイルをアップすることも変更することも消すこともできなかったので、仕方なく短くしたファイル名でアップし、旧ファイルはオペレーターの方に事情を説明して削除していただきました。尚、ファイル名を変更したことは親鸞会にも通達しています。しかし、このことが後に隙を生むことになったのです。

2.こちらからの質問
 私の元に第二のメールが届いたのが、6月9日(水)。「回答」というファイル名だったため、誹謗中傷にあたる部分の具体的な指摘があるのかなと思いきや、その内容は「全文が中傷にあたります」云々。まったく説明責任を果たしていませんでした。
 このままでは埒が開かない、というかもしかしたら引き延ばし工作である可能性もあるため、こちらからいくつか質問をしてみることにしました。その内容は、

1.昨年金沢大学内で活動していたサークル「しゃべりば」は、貴会関係者がその中枢を担っているか。もしくは貴会に関連したサークルであるか。
2.貴会の信者であった金沢大の学生が、水難事故にあって亡くなったことがあるか否か。
3.貴会の勧誘方法として、「■私の体験談」に書かれているような方法(二人一組の勧誘、『生きる意味』や『人生の目的』という台詞など)を指導しているか。または信者の勧誘方法にそのような実態があるか。
4.貴会関係者が2003年の4月7日に、石川県立図書館(金沢市観光会館の向かい)の一室を借りているか否か。

の4点。これは「YES」ならば私の記事に間違いはないわけだし、「NO」であっても3以外は簡単に調べられることなので、嘘をついていることを立証できる。「わからない」なら事実の正否を判断する能力はなく、「答えたくない」なら真実だと言っているようなものです。
 親鸞会の勧誘は私自身が体験したものであり、また私や友人を勧誘した人間の携帯電話番号を、裁判所を通して照会すれば親鸞会会員であるか否かは簡単に掴めます。勧誘の舞台となった県立図書館にも部屋を利用した記録が残っているはずですし、その気になれば全国の元会員に証言を頼むこともできます。いずれにせよ裁判になったら確実に分があるので、この時点では何事もなく終わると思っていました。

3.楽勝モード
 6月14日(月)、いよいよ彼らから、「具体的な」中傷部分の指摘が返ってきました。内容は、1.「ぁゃιぃサークル」と称して親鸞会を名指ししている 2.「カルト」「洗脳」などの誹謗表現が含まれる 3.伝聞・推測に基づく記事ばかり とのことで、「全文を恒久的に削除せよ」とのことでした。1に対しては「『ぁゃιぃサークル』というのは親鸞会ではなく『しゃべりばサークル』のことで、宗教サークルなのにそれを隠している点を『ぁゃιぃ』と表現した」と回答し、2については譲歩し、ある程度表現を和らげました。3の伝聞・推定に関しては「情報源となったサイト『家族の絆(現浄土真宗親鸞会被害家族の会)』がソースとして信憑性が高く、そのサイトが訂正しない限り当方も訂正しない」と回答しました。ちなみに後で知ったんですが、弁護士さんによると、万一「家族の絆」の内容が嘘でも、信用しても仕方ない事情があるので名誉毀損には問われないんだそうな。
 さて私からの質問に対する親鸞会の返答は、「我々には答える義務はない」とのこと。つまり「正否には言及しないけど、嘘だったら我々に対する名誉毀損だから削除しなさい」といっているわけで、こんなものに応じられるわけがありません。「立証責任はあなた側にあるんです」と書いてありましたが、嘘であると主張することすらしない相手に立証責任はあるんでしょうか。いずれにせよ、公共の利益を生む事実に則した中傷は刑事でも民事でも違法にならないし、私は十分立証責任を果たせるわけですが。
 ここまでくれば大船に乗ったような気分でした。もはや明日裁判でも勝てる状態じゃないかと思うぐらいの気持ちで、このやりとりをどう読者に発表しようか考えていたくらいです。それでも地盤をさらに固めるため、完全には断言できない「親鸞会員の金大生が事故で亡くなっている」との一文などを削除しました。

4.記事復活
 6月14日の返信を最後に、親鸞会からの音信が途絶えました。6月7日以来、私が出したメールにはすべて、「返信される場合は数日内にお願いします」との一文をつけていました。しかし最後のメールから一週間経った6月21日(月)になっても、私の主張に対する反論のメールはやってきません。そこでもう諦めたのだろうと思い、記事を復活させることにしました。しかし念には念を。まずサーバー管理会社に事情を説明し、「メールが来なくなったので記事を復活させてもいいですか?」と問い合わせたところ、「お客様の手続きには不備がまったくないので、再アップしていただいてかまいません」との返事を頂きました。これで完璧、そう思った私は譲歩箇所の訂正をした上ですが、全文の再公開に踏み切ったのでした。

5.逆転
 記事を復活して3日後の6月24日(木)、親鸞会からメールが届きました。タイトルは最初のメールと同じく「削除要請」。騒ぐならもっと早くしろと思いながら、私はそのメールをクリックしました。が、その内容は私の想像外の物でした。以下要点をまとめると、

1.「協議が継続中であるのにも関わらず、なぜ記事が再掲載されているのか」
2.「このままでは法的手段をとらざるを得ず、それがどのような結果をもたらすかは大学生ならお分かりでしょう」
3.「会からのメールが届いていない可能性もあるので、以下に6月14日に送ったメールの写しを掲載します」として6月14日に私が受け取ったメールのコピペ

 問題はもちろん、第3の要点。初めはわけがわかりませんでしたが、つまりこれは私のメールが届いていないことを指摘しているわけです。私はこの前後、数名の方とメールのやり取りをしています。なぜ、今まできちんと届いていた親鸞会へのメールだけが、突然届かなくなってしまったのでしょうか? 半信半疑でしたが、私はとりあえず「そのメールは届いています。むしろこちらのメールが届いていなかったかもしれないので、以下写しを送付します」として、6月14日に私が送ったメールを即座に送り直しました。
 しかしその後web上の自分のサイトにアクセスすると、アクセスが禁止されていました。最初にクレームがついたときと同様に、これは一時的な処置だろうと思った私は、すぐさま前回同様当該箇所を削除したページをアップし、サーバー管理会社にアク禁を解除してもらおうための手続きをしました。しかし、オペレーターの反応は冷たいものでした。
 以下、そのときのチャットの再現です。再現といってもコピーしておいたものを基にしているので、重要な箇所は抑えてあります。

サイトの担当者が応答するまでしばらくお待ち下さい。
あなたは現在'オペレーター'と会話モードに入っています。
オペレーター: こんにちは。サービスサポートです。ご質問をどうぞ
いでぢ: 私貴社の無料サービスでサイトを運営している者ですが、当HPの記事に関して宗教団体から苦情が届いたようで、アクセス禁止になっています。
オペレーター: HPアドレスを教えて下さい。
いでぢ: (URL)です
オペレーター: はい、停止されております。
いでぢ: 以前も同じ団体から苦情をいただき、該当部分のみを削除して運営を再開しており、今回も同じ部分を削除して再アップいたしましたので、閲覧を再開していただけないでしょうか。
オペレーター: 申し訳ございませんが、このようなサイト内容は禁止されております。弊社のサーバーのご利用をご遠慮下さい。
いでぢ: 基本的にすべて事実で、中傷には値しないと考えておりますが、それでも禁止でしょうか。
オペレーター: 削除したに関わらずURLを変更してから再度記載されている事が分かっております。
オペレーター: どうしても記載したい場合は法的手段をとって下さい。
オペレーター: 弊社に警察からこの内容を記載しても良いという連絡があった場合は再開致します。
いでぢ: それは誤解です。まずURLを変更したのはページ名が20字を超えていて、内容変更ができなかったからです。
いでぢ: また再度掲載したのは会からのメールが来なくなり、予めオペレーターの方に「該当団体からメールが来なくなった場合はどうすればいいでしょうか?」とお尋ねしたところ、議論喚起のためにも再アップしてよいとのアドバイスをいただいたからです。
いでぢ: また、再アップする直前に貴社のオペレーターの方に了解をとっております。
オペレーター: 警察などからの連絡がない限り再開致しません。ご了承下さい。
オペレーター: それではクローズ致します。
サイトの担当者が会話を終了しました。

 最後の3行、「警察などからの連絡がない限り再開致しません。ご了承下さい。」と、「それではクローズ致します」の間は一秒もなく、ほぼ同時に会話を終了され、それ以上書き込むことができませんでした。民事不介入の警察がそんな連絡するわけがないので、事実上の永久追放ということになります。対応のタイミングから、親鸞会がサーバー管理会社に何らかのメールをしたことは簡単に推測できますが、それまで親切に対応してくれ、「問題は当事者間で解決してください」と言っていた管理会社にこのような対応をさせたのは何だったのでしょうか?

まとめ
 旧サーバーにおける私のサイトは、今完全にアクセスできない状態になっています。ヤフーの無料メールはその後も何事もなかったかのように機能していますが、親鸞会からの返信は未だに届いていません。一面では、法的に正当性を主張できないと判断した親鸞会が、圧力でサイトを潰しにかかったという見方もできますが、もちろん本当に私のメールが届かなかった可能性もあります。
 ただひとつ言えることは、私の記事が親鸞会にとって都合の悪いものであったこと、そしてそれを己への戒めと捉えるのではなく、叩き潰すべき対象として判断したということです。相手の質問に「答える義務はない」などと言って、相互が納得する解決の道を敢えて探らないというのが親鸞聖人の教えなのでしょうか? 果たして、このようなことが「絶対の幸福」につながるのでしょうか?

 私が6月14日に送ったメールの全文はこちら


■親鸞会の謎

 それでは親鸞会に関して、私が疑問に思っていることをまとめてみよう。

●信者獲得法の謎
 親鸞会は若者の会員が非常に多いという。これは恐らく全国の大学に信者を中心としたサークルを展開しているからだろう。金沢大学では1年前には「しゃべりば」というサークルがあった。またかつては「歎異抄研究会」「アルタ」などの名前で活動していたこともあるらしい(1999年に金大生が亡くなったのは「学芸サークル」という宗教サークルで、親鸞会系)。このようなダミーサークルは全国の大学に存在し、新入生を「生きる意味」など極めて類似した文句・方法で勧誘している。つまり、各大学のサークルを親鸞会が指揮していると考えれるのである。これはオウムや統一協会にも見られる組織展開手段である。
 ではその勧誘方法とはどういったものなのか。独り暮らしの罠も参照してほしいが、宗教色を払拭し、生き方についてディベートするサークルとしてアピールし、宗教サークルであることを新入生に明かすのはゴールデンウィークが明けてからだという。これは明らかにダミーサークル(隠れ蓑サークル)である。恐らくこのことを彼らに問い詰めると、次のように弁解するだろう。「これは方便だ。宗教には偏見があるから、もし宗教団体だと明かせば入る人は皆無だろう」と。しかし考えてみてほしい。これは嘘によって選択の自由を制限していると言えるのではないだろうか。自由はあらゆる情報を吟味してこそ意味のあるものである。家族でもない人間、それも大学生に対して、自らの信仰の自由を与えないというのは憲法にも反する行為ではないか。

●マインド・コントロール疑惑
 カルトにはマインド・コントロールがつきものだが、親鸞会もマインド・コントロールに類似した勧誘を行っている。
 たとえば「約束カード」。これは新入生が信者と交わした約束を書きとめ、常に持ち歩かされるカードであるが、これは「一貫性のルール」という心理を刺激している。つまり人間には約束するとそれを守ろうとする法則があり、また書き留めて他人に見せることでさらに効果が上がってゆく。この場合、見せる相手が好意の対象ならば尚更である。
 「社会的比較の制限」も重要な効果がある。人間は親しい人や他人、マスメディアなどから情報を汲み上げ、それによってある物事に対する概念(ビリーフ)を形成・変化させていくが、親鸞会ではこれら外から情報を与える存在をカットされることがある。たとえば「よく話が理解できていないうちは他人に話さないほうがいいよ。変な宗教に引っ掛かったんじゃないかってみんな心配しちゃうから」とか、「ネットや仏教の本は嘘ばかりだから見ないほうがいい。特にネット上には根拠の無い中傷で会を陥れようとする人がいるからね」などと指導して外部の情報から遠ざけている。コンパは「つまらないので出席しないほうがいい」と説得してくるため、これを忠実に守ることは付き合いの悪い人間だと思われ、友達を減らす原因にもなる。さらに驚くべきことに、親鸞会では新入生同士が仲良くなることを防止するよう指導しているという。結果新入生にとってビリーフを形成するための情報源は親鸞会信者しかいなくなり、親鸞会の教義を受け入れやすくなるのだ。ゴールデンウィークには合宿があり、その効果はさらに跳ね上がる。
 他にも、高森会長の権威を高める操作、「教義を実行しなければ地獄に落ちる」と言って地獄絵図を見せることでイメージ的な恐怖による脱会の防止、好意と返報性の法則の応用など、親鸞会の新入生を取り込む方法はマインド・コントロールの技術を類似した部分が多く発見できる。このようなマニュアル化された方法は予めマインド・コントロールを意図しているのか、それとも単に偶然の一致なのかは断言を避けるが、少なくとも親鸞会を自ら選んだと思い込んでる人の多くは、統一協会など他の宗教団体に勧誘された場合でも同じ結果になるだろう。(ちなみに、親鸞会の新入生教育プログラムは統一協会のそれとよく似ている気がする)

●教義の謎
 親鸞会は新宗教・新新宗教と呼ばれるのを極めて嫌う。戦後誕生した宗教法人であるからそのような呼称の定義には入っているが、彼らの主張によると、親鸞会は浄土真宗の開祖である親鸞聖人の教えをそのまま現代に引き継いでいるために伝統宗教であって、決して新興宗教ではないのだという。ではその教義を見てみよう。
 非常に簡略化すれば、「人間が救われるには阿弥陀仏の本願に救ってもらう以外方法がない。阿弥陀仏の本願に救っていただくには、正しい仏法を伝えてくださる親鸞会会長の説法を聴聞するしかない」ということになるようだ。つまり「救われるためには会長の説法を聴け」ということである。そしてカルトには付き物であるが、会長の説法を聴くためにはお布施(会内部では財施と呼ぶ)が必要なのである。会長も人間であるからお布施を集めなければならないのは当然だが、「救われるためにはお金が必要」という公式が会内部に完成しているのは間違いがない。
 また、救われるためには他人に教えを広めることも勧められるという。それはつまり「周りの人を会員にすればするほど救われやすくなる」ということだろう。親鸞会系サークルが新入生勧誘に力を入れているのもそれが理由かもしれない。なんだかねずみ講のような話であるが。
 まとめると、親鸞会の信者は救われるまで会長にお布施を払い続け、また信者を増やす仕事を喜んでこなすということである。教義一つ一つに敢えて目を向けず、大きな視野で全体を見回すと、このようなシステムが構築されていることがわかる。オウム真理教は麻原の言葉を信じ実行することで救われると信者に刷り込んでいた反面、具体的な教義は仏教をベースにしたものだった。親鸞会とオウムの違いが、テロと集金の違いだけでないことを祈るばかりだ。

●webサイトの謎
 親鸞会関係の書籍は少ない。また創価学会や統一協会、エホバの証人と比べ遥かにマイナーな宗教である。そのため親御さんなどが「これはカルトではないか?」と疑問を持ったとき、手軽に調べられるのはインターネットである。しかし目ぼしいキーワードでgoogle検索にかけると、信者やシンパのサイトがたくさん出てくるのである。
 たとえば「浄土真宗親鸞会 カルト」というキーワード。このとき一番最初に出てくるのは「親鸞会の真実 なにが息子を変えたのか」というページ。タイトルも、目次も、「はじめに」の文章も、いかにも被害者家族の体験談のような雰囲気を出している。少なくとも私はこのページを知ったときはそう思った。しかし読み進めると「親鸞会は伝統宗教である」「妻が入信してもいいと思った」など、シンパであることが明かされる。これは単に私が先入観を持っていただけだと言うこともできるが、このサイトの作者は会の勧誘方法やシステムにまったく疑問を感じていない。また、「はじめに」で最終的に拒絶することになる住職には感謝を示しているのに、質問に答えてくれた親鸞会信者の方にはお礼を述べていないのはなぜだろうか。
 さて同じキーワードで2番目に出てくるのは「メディアの見た親鸞会」というサイト。ここでは最初にサイト作者が信者を友人に持つ人間とし(本人が信者であるかははっきりさせていない)、「親鸞会に反社会性はない」と断言した上で、書籍・新聞メディアによる親鸞会に関する報道を紹介している。もちろんそこには『「救い」の正体』のような親鸞会を批判した文章は紹介されていない。
 さてこの二つのサイトを見ると、面白いことがわかる。まず「メディアの見た親鸞会」というサイトの参考リンクを見ると、「親鸞会の真実」がそこに入っている。では「親鸞会の真実」を参考リンクを見てみると、今度はこちらからも「メディアの見た親鸞会」が紹介されている。一体どちらがどちらの内容を参考にしたというのだろうか?(現在は訂正されている) ちなみに、「メディアの見た親鸞会」に紹介されていなかった『「救い」の正体』は、「親鸞会の真実」のほうでは紹介されている。
 もう1つ傑作な例を挙げよう。「浄土真宗親鸞会 2ちゃんねる」と検索する。すると大量に出てくるのが「親鸞会ちゃんねる」。 驚くなかれ、これは親鸞会信者の、親鸞会信者による、親鸞会信者のためのBBSである。(現在はBBSではなくなっています、なぜか)
 一方で親鸞会は、ネット上の反対意見をひたすら封じ込めてくる。当サイトも中傷を理由に記事削除を訴えられたが、これは親鸞会について多少でも否定的な記述をしたサイトに同様に来るもので、多くのサイトが閉鎖されている。しかし一部のサイトはしっかりしたサーバー管理者の下で運営を続けている。相手がそのようなサイトの場合は会かシンパが類似した名のサイトを立ち上げ、検索者がそちらのサイトに流れるようにしているようだ。たとえば反親鸞会サイトの「家族の絆 御父兄に知って頂きたい『宗教法人浄土真宗親鸞会』」に対しては「家族の絆 親鸞会父母の会」、中立的に親鸞会を考えておられる「浄土真宗親鸞会について考えるページ『ジャンヌ』」に対しては「浄土真宗親鸞会について考える〜ジャンヌな部屋〜」など。これは批判意見の封じ込めともとれるのではないだろうか。ちなみに、家族の絆を運営してるのはNONSECTさんだが、NONSECRETという人物が「浄土真宗親鸞会の極秘情報を掲載」した「親鸞会マル秘情報局」という親鸞会擁護系サイトもある。
(グーグルの検索結果の順位はすべて平成16年7月のものです)

●排他性の謎
 親鸞会は浄土真宗各派に対して非常に敵対的である。たとえば本願寺派に対して、「いままで親鸞聖人の教えをネジまげて大衆をだまし、仏法を食いものにしてきた人たち」だと非難したビラを北陸一帯にばら撒いたことや、本願寺に座り込んだこともある。これは自分たちこそが親鸞聖人の教えを継承しており、メジャーな宗派は異端だと主張しているのだろう。しかしいくら対立していても、各家庭にビラを撒くのは明らかにやりすぎではないだろうか。他にも、創価学会を初め多くの宗教と対立している。戦争になると国民の愛国心が高まることが多い。親鸞会の起こすこのような対立は、会内部の一体感を構築する手助けになっているのではないだろうか。

●会内階級の謎
 親鸞会は上下関係の存在を否定しているが、その実明らかに会員に上下の差があることは、全国のダミーサークルがマニュアル化された勧誘方法を取っていることからもわかる。会の学生組織には「講師」がおり、講師は下部会員に教義を講じたり、相談を受けたりすることで生活している。
 親鸞会の末端信者はことあるたびに講師に報告・連絡し、相談している。特に会員であるがゆえに起きる家族とのトラブルを解決するためのアドバイス(指令?)を受けているようだ。これが徹底されている信者の場合は、親が必死で脱会を説得し、本人がその気になったときも、どうしても講師に相談してしまい振り出しに戻ることになる。これは統一協会やものみの塔(エホバ証人)でもよくある事態だ。なお講師部のほかにも特専部、弘宣部などがあり、この中でもきちんと区分けがされている。これはオウムが幹部を「○○大臣」とランク付けていたことにも通じるのではないだろうか。
 さてそのような役職とは別に、教学の度合いをランク分けする「学階」というものがある。これは資格検定のように有料のテストを受け、その試験をパスしていくことによって如何に親鸞会の教えが頭に入っているかが証明される。テストの内容は親鸞会の教えのテキストを空で書き写すことである。句読点や改行も厳しくチェックされる。こうして会内部に宗教エリートが誕生する。と同時に、同じ文章を何度も何度も書くのであるから、刷り込みの効果もあるのではないだろうか。


■まとめ

 以上のように、親鸞会は新興宗教ではないと主張していながらも、様々な「カルト的なもの」を含んでいる。奇跡体験や超常現象とは無縁のようだが、しかし会長のみが救世主であるかのような教義と、その会長に自動的に大金が集まるシステム、そしてマインド・コントロールを彷彿させる教育体系が確立しているのである。親鸞聖人の教えは確かにありがたいもので、それを正確に伝えることには意義があるかもしれない。しかしノーベルが人類の発展のために発明したダイナマイトが戦争で大量の人間を死に陥れたように、素晴らしい教えが悪い使われ方をすることもありうるのだ。親鸞会に限らず、宗教を考えるときは是非考慮に入れてほしいことである。
 私は親鸞会はオウムのような狂気のテロ集団にはならないとは思う。しかし、統一協会のような巨大集金マシーン、創価学会のような狂信集団になる可能性は十分孕んでいると思うし、現在そうでないとも言い切れない。親鸞会がこれからどのように発展していくのか、心配は尽きない。


参考URL・文献

 家族の絆
  http://homepage2.nifty.com/nonsect/

 ジャンヌ
  http://homepage1.nifty.com/you/

 別冊宝島 「救い」の正体
   宝島社

 マインド・コントロールの恐怖
   スティーヴン・ハッサン著 浅見定雄訳 恒友出版

 マインド・コントロールとは何か
   西田公昭著 紀伊国屋書店

 統一協会マインド・コントロールのすべて――人はどのようにして文鮮明の奴隷になるのか
   郷路征記著 教育史料出版会

 浄土の本
   学習研究社



■追加報告

(平成16年10月17日)
 本コンテンツを製作した平成16年7月以降、親鸞会とそれを取り巻く状況は徐々に変わりつつあります。カルト問題に詳しい紀藤正樹弁護士が自身のWebサイトに親鸞会公式HPと家族の絆にリンクを張ったり、批判的なキーワードでgoogle検索すると批判的なサイトやカルト研究会も上位にランクされるなど、会に対する風当たりは厳しくなってきていると思われます。その一方、親鸞会側でも家族の絆の反論サイトを開設するなど、対策を講じているようです。(家族の絆反論サイトはアクセス解析がなされているので、読みたい方はgoogleで探して自己責任で閲覧してください)

(平成17年4月5日)
 16年の11月ぐらいに、家族の絆の批判サイトが現在私が使ってるサーバーに移転してきました。サーバーが同一なのでgoogleで検索した際同一サイトとして認識されることがあり、最近になってこのサイトが表示されない場合も出てきました。うぜー。


(平成18年1月31日)
 参照してほしいリンクとして、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」をご紹介します。親鸞会シンパサイトでは決して語られることのない親鸞会と会員の内実を赤裸々に暴露しており、さらに内部文書を公開することでいかなる教育プログラム=マインド・コントロールが行われているか知りうることが可能です。




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般舟三昧

般舟三昧(はんじゅざんまい)とは、心を集中することによって諸仏を眼前に見ることが出来る境地のことである。原語のpratyutpannabuddha-sa?mukh?vasthita-sam?dhiは、「現在の仏がことごとく前に立つ精神集中」の意で、その略語を音写して般舟三昧と言う。また、諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんざんまい)ないし仏立三昧(ぶつりゅうざんまい)とも意訳される。

現存する仏典の中では、阿弥陀仏およびその極楽浄土 [注 1] について言及のある最古の文献 [注 2] であり、三昧によって極楽浄土の阿弥陀仏を現前に見ることが述べられている。このことから浄土経典の先駆と考えられる。 [注 3] [1] ただし、極楽浄土への往生を願うのではなく、現世での般舟三昧の行によって見仏を目指す点に後世の浄土教信仰との相違がある。 [2] また一方で、この経典の「行品」に見られる空の思想 [注 4] 般若経典に通じるものであり、 [注 5] この点でも空観を説くことが比較的少ない後世の浄土経典と趣を異にする。 [3] [4] [5]

諸本[編集]

漢訳[編集]

以上の4本が現存し、このうち支婁迦讖訳三巻本および一巻本が多く用いられている。闍那崛多訳は内容が多く、後世の増補を含むと考えられる。三巻本と一巻本のいずれを真の支婁迦讖訳とするかは異説があるが、一般的には三巻本が支婁迦讖訳とされることが多い。 [6] [7] [8] [9]

チベット語訳[編集]

内容は漢訳の闍那崛多訳本とよく対応する。

サンスクリット原典[編集]

完本は存在しないが、ルドルフ・ヘルンレ(Rudolf Hoernle)が中央アジアで発見した断片がある。支婁迦讖訳の擁護品(闍那崛多訳で言えば称賛功徳品)の一部に相当する。

後世の展開[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 支婁迦讖訳では阿弥陀仏の極楽浄土は梵語スカーヴァティー(sukh?vat?)の俗語形を音写して「須摩提」と表記される。
  2. ^ 西暦179年の支婁迦讖訳『般舟三昧経』が現存する最古の例である。西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したとも伝えられるが、欠本となっており現存しない。
  3. ^ 最初期の浄土経典である支謙訳『大阿弥陀経』(『無量寿経』の異本のひとつ)との関連が指摘される。
  4. ^ 「念仏を用うるが故に空三昧を得る」、「この三昧を証すれば空定なること知る」「解を以て空を見る者は一切想念無し」などの句がある。
  5. ^ 最初期の般若経典であり、『般舟三昧経』と同時期に漢訳された支婁迦讖訳『道行般若経』(『八千頌般若経』/『小品般若経』の異本のひとつ)との関連が指摘される。