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本当の御利益のある信心とは? 

● 善光寺縁起 
● 本尊
● 善光寺如来御書箱
● 善光寺如来御書箱 資料
● 縁起 説話
● 仏教伝来

破折

● 本尊疑惑
  日蓮大聖人
  海音寺潮五郎
● 「縁起」はどの経典にあるのか?
● なぜ秘仏なのか?
● 食法餓鬼
● 大集経
阿弥陀仏(浄土門・大本願) 破折

● 女人不成仏
● 五逆は救えない
● 八相作仏がない
● 釈尊 「唯我一人のみ 能く救護を為す」
● 三種の阿弥陀仏
▼ 阿弥陀如来が久遠実成の釈尊の垂迹仏
● 厭離穢土 欣求浄土
● 実行不可能な理想論 四十八願
● 捨閉閣抛
● 法華経 が 正法
● 破和合僧
● 酒肉五辛

大勧進 破折

● 大勧進
● 護摩
● 大本願と矛盾しないのか
● 智証大師は天台・伝教に背いているのでは?
● 法華経最第一

● 値段に差は?





善光寺縁起 公式HPから

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。

『善光寺縁起』によれば、
御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像
といわれております。
この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。

後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました。

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。

戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555年)、武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました。


戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。江戸時代に入ってからも火災に遭いましたが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって集められました浄財をもって、宝永四年(1707年)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。

近代を迎え、交通網の発達とともに参拝者は増加し、今日では年間約600万人もの方々がこの地を訪れます。平成十年(1998年)2月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、善光寺梵鐘が世界平和の願いを込めて全世界に向けて響き渡りました。


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御本尊 善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)

善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。
中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。
しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません。

『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。
その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています。

御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれております。人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているというのです。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」(※1)という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めて参りました。

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※1
市民タイムス 平成15年(2003年)9月2日(火)

善光寺如来と聖徳太子の往復書簡 

ー九州年号の秘密ー

古賀達也

 奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているものがあります。その中には信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられてきました。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられています。封印されていますので、誰も読んだ人はいないはずでした。ところが、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。その文面は次のようなものです。

「一念構揚無息留何況七日大功徳我待衆生心無間汝能濱度山豆不護二月廿五日勝髪調御」

 最後の「勝髪」とは聖徳太子のこととされています。他の二通は写しがありません。また、法隆寺の方針として、未来永劫にわたって開封しないことが決められていますので、今後も見ることはできません。
 しかしちょっとおかしなことに気付きます。
『日本書紀』によれば、法隆寺は天智九(六七〇)年に火災で全焼し、「一屋も餘ること無し」と記されています。
それなのになぜ善光寺如来からの書簡は無事だったのでしょうか。もし無事であったのなら、そのことが『日本書紀』に記されていないのも変です。
また、聖徳太子はともかくとしても、仏像である善光寺如来が手紙を書くというのも妙なものです。
 こうした疑問を解くために、封印された法隆寺の方は無理でも、善光寺には記録が残っているのではないかと調査しました。すると、あったのです。もちろん後代の写しですが、善光寺如来と聖徳太子の書簡とされるものが、三往復合計六通記録されていたのです。
 それは『善光寺縁起』などに掲載されていたのですが、中でもわたしが注目したのは『善光寺縁起集註』という江戸時代に書かれたものでした。そこには、先の手紙(返信)に対応する、聖徳太子から善光寺如来に出した次の文がありました。

「御使黒木臣名號稻揚七日巳此斯爲報廣大恩仰願本師彌陀尊助我済度常護念命長七年丙子二月十三日進上本師如来寶前斑鳩厩戸勝髪上」

 ここで注目されるのが、「命長七年」という年号です。このような年号は大和朝廷にはありません。この他にも、『善光寺縁起』には「喜楽」「師安」「知僧」「金光」「定居」「告貴」「願転」「命長」「白維」という年号が散見されます。鎌倉時代に成立した『平家物語』にも「善光寺炎上」の段に「金光」という年号が残されています。
 これら一見して馴染みのない年号を、江戸時代の学者、鶴峯戊申はその著書『襲国偽僧考』に記しています。鶴峯はこれらの年号を「九州年号」という古写本から写したと書き留めています。また、古くは平安時代に成立した『二中歴』という辞典にも、これらの年号が連綿と記されています。
 年号とは政治的権力者が発布するものですから、近畿の大和朝廷が未だ年号を作っていなかった時代(六世紀から七世紀)に、九州には年号を公布し得た権力者がいたことになります。これを歴史家の古田武彦氏は九州王朝と名づけ、志賀島の金印をもらった倭奴国から卑弥呼の邪馬壹国へと続いた、日本列島を代表する王朝(倭国)であったとされました。
 そうすると、善光寺如来と聖徳太子の書簡とされていたものも、実は九州王朝と善光寺の間で取り交わされたものではないでしょうか。一方、法隆寺の本尊である釈迦三尊像光背銘に記された「法興」という年号も大和朝廷のものではなく、『襲国偽槽考』に九州年号として紹介されています。とすると、焼けた法隆寺が再建された時、その本尊として九州王朝の寺院にあった釈迦三尊像を法隆寺に持ってきたことになります(古田武彦説)。そして、善光寺との書簡も。

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資料

「なぜ、太子が善光寺如来に送った手紙が法隆寺に在るのか」ということである。

手紙が全部で二通なのか三通なのかという問題はあるが、どちらの場合でも、太子が如来に送った手紙が法隆寺に残る「善光寺如来御書箱」の中に含まれていることに違いはない。

常識的に考えれば、太子が送った手紙は善光寺が所有していてしかるべきではないのか。だが、善光寺サイドに太子の手紙を所蔵したという伝承はない。実際に善光寺(それが如来直筆のものではないとしても)と太子の間で手紙の往復があったのだろうか。

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善光寺の御本尊様の印相は特徴的であるといわれております。中央、阿弥陀仏の印相は、右手は手のひらを開き我々の方に向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印です。これは法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表される、飛鳥・白鳳時代頃の仏像に特徴的な印相です。左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相をしています。その掌の中には真珠の薬箱があるといわれています。また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っておられます。このような特徴を全て備えた一光三尊阿弥陀如来像を通称、善光寺式阿弥陀三尊像といっております。

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善光寺縁起

『善光寺縁起』とは、善光寺御本尊の故事来歴をつづった霊験譚です。
平安時代末期には全国的に広まっていたといわれ、多くの人々の信仰を集めました。


お釈迦様が印度・毘舎離国の大林精舎におられる頃、この国の長者に月蓋という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりました。しかし、長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。
さすがにお釈迦様のおいでと聞き、長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ました。しかし、「今日供養すれば毎日のように来るであろう。むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。

月蓋長者には、如是という名の一人の姫君がありました。両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。
ところがある年、国中に悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。
長者は王舎城の名医・耆婆大臣を招くなどあれこれ手を尽くしました。しかし、何の効き目もありません。万金を投じ人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、お釈迦様に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。

長者は初め不本意でした。ですが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎に参り、お釈迦様の御前に進み、従前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。
お釈迦様は「それは我が力にても及ばぬことである。ただ、西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。

長者はお釈迦様の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を続けました。この時、彼の阿弥陀如来様は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。
すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにして治まり、如是姫の病気もたちどころに平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく、如来の光明を礼讃いたしました。

長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再びお釈迦様におすがりいたしました。
お釈迦様は長者の願いをおかなえになるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとしました。
竜王はお釈迦様の仰せに従い、この竜宮随一の宝物をうやうやしく献上いたしました。

さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来様の来臨を請いますと、彼の三尊仏は忽然として宮中に出現なさいました。そして、阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫の光明とお釈迦様の白毫の光明は共に閻浮檀金をお照らしになりました。
すると不思議なことに、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生この新仏に奉仕致しました。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める仏様であったのです。そして、この三尊仏は印度で多くの人々を救い結縁なさいました。

時は流れ、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来様が百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。
百済国での教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げられました。百済国の人民は老若男女を問わず如来様との別れを悲しみ、如来様が船で渡る後を追う者さえありました。

欽明天皇十三年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。

さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。
炎々たる猛火はたちまちにして向原寺を灰燼にしました。ところが、彼の如来様は不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしました。しかし、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。

万策尽き、ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。そして、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励しました。ここに初めて仏法は盛んになりました。
聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来様は一度水面に浮上され、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。

その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。
如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。

善光は初め如来様を西のひさしの臼の上に御安置し、やがて御堂を建てて如来様をお移しいたしました。ところが翌朝、善光が参堂いたしますと、尊像の姿はそこにはありません。慌てて家に帰ると、いつのまにか最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。
また、善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でした。そうしたところ、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯されました。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれます。
如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下されました。
こうして、三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称しました。以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。


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仏教伝来

552年(壬申)説[編集]

日本書紀』(以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている[1]。この上表文に関しては後世の文飾[2]の可能性が高く、上表文を核とした書紀の記述自体の信憑性に大きく疑問が投げかけられている。ただし、十七条憲法大化改新詔と同様、文章の内容が後世の装飾であったとしても上表文の存在そのものを否定する材料とまでは言えないとして、552年伝来の事実そのものはあったとする見方もある。


日本書紀』「欽明十三年」「冬十月 百濟聖明王 更名 聖王 遣西部姫(※旧字)氏達率怒「口+利」斯致契等 獻釋迦佛金銅像一躰(旧字) 幡蓋若干 經論若干卷 別表」


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飛鳥時代[編集]

日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代552年欽明天皇13年)に百済聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。

仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸をとして仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国四天王寺大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。

天武天皇大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。


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「十三年冬十月、百済の聖明王、西部、姫氏達率怒□斯致契らを遣はし、釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干,経論若干巻を献る。…群臣に歴問ひて日く、『西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曽て看ず。礼ふべきや不や』と。蘇我大臣稲目宿禰奏して日さく、『西蕃の諸国、一に皆礼ふ…』と。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏して日さく、『今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ』と。天皇日く、『宜しく情願ふ人,稲目宿禰に付けて、誠に礼ひ拝ましむべし』と」

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『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため宣化天皇3年(538年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている

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日本の仏教のはじまりを語る時に「公伝」という言葉が用いられる。この言葉には私的な伝来とは異なった、公の国家間の伝達を重視する意味があると思われる。「公伝」の記録のうち、『日本書紀』は五五二(欽明天皇十三)年に、百済の聖明王(聖王)が使いを遣わして仏像、経論、幡蓋を伝えたと記す。一方、『元興寺縁起』、『上宮聖徳法王帝説』は公伝の年次を五三八(宣化天皇三)年としている。現在のところ、『日本書紀』の仏教関連の記事には潤色が多く、史料的な価値は低いと考えられるため、五三八年説をとる見解が一般的である。ただ、この説も絶対というわけではなく、百済の記録を視野に入れて両説を再検討する見解も出されている。

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破折

● 善光寺縁起によると、仏教伝来 552年説を取る。

  日本書紀 には 
「欽明十三年」「冬十月 百濟聖明王 更名 聖王 遣西部姫(※旧字)氏達率怒「口+利」斯致契等 獻釋迦佛金銅像一躰(旧字) 幡蓋若干 經論若干卷 別表」

つまり、

「欽明天皇の13年に百済の聖明王が金銅の釈尊像一体を献上した。」 と記述されている。

 献上されたのは明らかに 『釈迦仏 金銅像 一躰』 とあり、 「阿弥陀佛」 ではない。
また 一光三尊形式(光背が一つに阿弥陀・観音・勢至の阿弥陀三尊でもない。 それでは 三躰 となってしまう。 

この違いをどう説明するのか?

仏教伝来の金銅の釈尊に擬して、ニセモノを造り、権威付けたのではないか?

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● 日蓮大聖人  も善光寺如来について大いに疑義を呈している。

 第三十三崇峻天皇位につき給ふ。太子は四天王寺を建立す。此釈迦如来の御舍利なり。馬子は元興寺(がんごうじ)と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候ひし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑(おうわく)これなり。(四条金吾殿御返事 建治三年秋 五六歳 1177)

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● 海音寺潮五郎 氏も同じく疑義を呈している

小説 聖徳太子


伝説では、長野の善光寺の本尊は、この時難波の堀江に投げすてられた仏像であるということになっているが、もちろん信ぜられることではない。信ぜられない理由はいろいろあるが、その一つは、善光寺の本尊は阿弥陀仏であると聞くのに、この時の仏像は釈迦仏である点である。
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● 善光寺由来  因縁話など自宗の正当化のために、誰でもどのようにでも作れる。

そもそも、どの経典に、このような善光寺縁起なる説話があるのか?
その経典を示すべき。→ どの経典にも「善光寺縁起」などの説話は全く存在しない。

以下の聖人方はかように仰せである。

●龍樹菩薩云く「修多羅(経典)に依るは白論なり。修多羅に依らざるは黒論なり」。

●天台云く「復修多羅と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」。

●伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずることなかれ」。

← ■ 「若し仏の所説に順(したが)はざる者有らば、当に知るべし、是れの人は是魔の眷属なり」 (涅槃経)」

この経文と過去の聖人方の仰せによれば、経文にない本尊の縁起話を勝手に作って民衆を誑かしている善光寺は

魔宗 邪宗 の類ではないのか?

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● 「本尊も絶対秘仏で見せない。 善光寺如来御書箱 も見せない。」  では、まさに迷信の領域であり、凡そ、道理と合理性を重んじた釈尊の教えと遠くかけ離れている。

善光寺縁起にあるように本当の生身の如来で、一切衆生を救うのならば、常日頃から衆生の中へ分け入って、一人一人を直に救済すべきではないのか?

善光寺縁起では、阿弥陀如来は当初は、衆生が求めれば、姿を現し、以後、民草の中へ出でて、直に声をかけ、親しげに交わってきたではないか。
なぜ、中世から引き籠っているのか?
それでは民衆は救われないではないか。

釈尊の生涯は常に民衆の中で法を説いてきたではないか。

今の、善光寺如来の一切姿を見せない在り方とは、天地雲泥の違いである。

つまりは、 善光寺とは、史実と異なる迷信を捏造し、無智な民衆を誑惑して約1400年もの間、莫大な布施を簒奪してきた仏法を利用した詐欺・ペテンの集団の類ではないのか。

正法念処経 に曰く

「不浄の法を以て人の為に宣説(せんぜつ)し、財を得て自供(じぐ)せるも布施を行わず、蔵を挙げて積聚(つ)み、是の人、此の嫉妬覆うを以て、命終りて悪道の中に生まれ、食法餓鬼の身を受けたるなり」

 つまり、衆生に不浄の法を説き、財を得ても人には施さない。富を積んで、嫉妬のに覆(おお)われているゆえに悪道に堕して食法餓鬼となる。ということである。

本尊を捏造し、ありもしない因縁話を作り上げ、長い期間、日本全国乃至世界中から布施を受け続けてきた善光寺の僧侶らは、まさにこの食法餓鬼の境界に堕ちることであろう。

その食法餓鬼の姿も記しておこう。

飲食の代りに説法を食べる。身体は大きく、体色は黒く、長い爪を持つ。人の入らぬ険しい土地で、悪虫にたかられ、いつも泣いている。

そうである。

よくよく反省懺悔して、善光寺僧を辞すべきである。


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大集経

「大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂
我が滅度の後の五百歳の中には
解脱堅固、
次の五百年には禅定堅固已上一千年、
次の五百年には読誦多聞堅固、
次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、
次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」
(撰時抄 建治元年六月一〇日 五四歳 836)


正法 解脱堅固
    禅定堅固
像法 読誦多聞堅固
    多造塔寺堅固
末法 闘諍言訟して白法隠没せん


→ ならば、末法となっている現在は釈尊の仏法は全て灰燼に帰す。ということではないか。
なのに、なぜ今、像法過時の隠没した仏法の残滓(残りカス)を信仰するのか。


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● 阿弥陀仏は浄土三部経に由来する仏である。
 
浄土三部経には 女人成仏 二乗成仏 悪人成仏(「往生」ではない)は説かれていない。(表面上言っているようでも、その具体的な現証が説かれていない)

→ 阿弥陀仏にすがっても 女人・二乗・悪人 は救われない。

女人不成仏 参照

35 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、六字の名号を聞きて、喜び信じさとりを開く心を起こし、女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、わたしは決して仏になりません。 
(女人往生の願・にょにんおうじょうのがん)

女人の身に生まれることを忌み嫌っている。
明らかに女性差別・蔑視 である。

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●  阿弥陀仏の48願中 18願 「唯除五逆誹謗正法」 (ただ五逆と謗法をおかした者だけは救うことはできません。)

「悪人往生」 といいながら 「五逆」は救えない。 

五逆とは
殺父 殺母 殺阿羅漢 出仏身血 破和合僧

ならば、親殺し、僧侶殺しは絶対に救われない。

現代で親殺しは頻繁に起きている。

それらは皆救われないことになる。

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● 阿弥陀仏 のこの現実世界における八相作仏はない。

@ 下天(げてん)       兜率天(とそつてん)からこの世に降下(こうげ)すること。
A 託胎(たくたい)      母摩耶夫人の胎内に宿ること。
B 出胎(しゅったい)     ルンピニー園に誕生すること。
C 出家(しゅっけ)      修行のため王宮を出ること。
D 降魔(ごうま)       悟りの障害となる魔を打破すること。
E 成道(じょうどう)     菩提樹の下において悟りを開き仏となること。
F 転法輪(てんぽうりん) 衆生のために種々の説法をし、教化すること。
G 入涅槃(にゅうねはん) 拘尸那掲羅(くしながら)において涅槃に入ること。

つまり、架空の仏であり、現実社会に実在しない。
実際にこの世に出でて衆生を教化したことがない。

一方、釈尊は

■ 法華経譬喩品第三

今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ 能く救護を為す
復教詔すと難も 而も信受せず

■「唯我一人のみ 能く救護を為す」 この現実社会で 釈尊一人のみ一切衆生を救済する仏 と明言されている。

阿弥陀仏を本尊とすることは、この釈尊のこの、「唯我一人のみ 能く救護を為す(釈尊一人のみ一切衆生を救済する仏)」との御言葉に背いていないか。 

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三種の阿弥陀仏

@ 無量寿経 法蔵比丘の十劫成道の阿弥陀仏

A 法華経迹門化城喩品 大通智勝仏の十六王子として、西方極楽浄土に住して法華経を弘通する阿弥陀仏

B 法華経薬王品二十三 釈尊の垂迹・化身の一人としての阿弥陀仏


@ ■ 無量寿経

「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。・・・・ 成仏してより已来、おおよそ十劫を経たまえり。」

法華経寿量品 釈尊の 五百塵点劫成道(久遠成道)に遠く及ばない。
つまり、釈尊が元の仏で、阿弥陀仏は遥か後の仏。

浄土門の言う 「久遠実成の阿弥陀仏」 など、全く根拠のない妄説である。

A 法華経化城喩品には、大通智勝仏 第9番目の王子、阿弥陀仏は、西方の衆生済度の任を受ける。
この現実世界の娑婆世界の衆生済度は第十六番目王子の釈迦如来。

阿弥陀仏など全く他土無縁の教主。
この娑婆世界の衆生の教主ではなく、信仰しても全く意味がない。

B 法華経薬王品 久遠実成が顕れ終わった後には、阿弥陀仏も久遠実成の釈尊の垂迹仏となることが示される。


以上、阿弥陀仏を本尊とすることは明らかに邪義

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善光寺側 特に大勧進から想定される邪難

▼ 阿弥陀如来が久遠実成の釈尊の垂迹仏  

では本体は釈尊なのだから、釈尊を差し置いて、垂迹仏である阿弥陀仏を本尊とすることは、本末顛倒。大変な無礼・非礼・

例えて言えば

一番の恩人のその本人に感謝しお礼を言わずに、その人が写っている鏡の像に、一生懸命お礼を言っている姿。
たいへん滑稽であり、失礼でもある。
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教義
 
阿弥陀仏とは西方十万億土の極楽世界の仏 

この世で救われず、現実改革できず、来世 西方十万億土に生ずる

「欣求浄土 厭離穢土」 この世を穢れた土と厭い、どこにあるかも証明されていない架空の土である、「浄土」などという現実離れした理想郷に、死んだら行ける。。。などと妄想する。

結果

厭世思想 諦めが強い 現実逃避 退廃的 優柔不断 自殺願望 ・・・・などの悪影響が顕れる。  

現実の様々な問題を解決・救済できない教えなど正しいはずがない。

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● 四十八願など、およそ現実には全く不可能なことばかりである。

このような教えでは 妄想ばかり、空想ばかり、口ばかり、の現実離れした理想論ばかり、綺麗ごとばかりで 地に足の着いていない精神思考構造となる。

参照 四十八願

1 設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚

たとえわたし(法蔵菩薩)が仏になることができても、わたしの国に地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいるとするならば、わたしは決して仏になりません。 
(無三悪趣の願・むさんまくしゅのがん)

2 設我得仏国中人天寿終之後復更三悪道者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が命終後に再び地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥るならば、わたしは決して仏になりません。 
(不更悪趣の願・ふきょうあくしゅのがん)

3 設我得仏国中人天不悉真金色者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が金色に輝く身にならない限り、わたしは決して仏になりません。 
(悉皆金色の願・しっかいこんじきのがん)

4 設我得仏国中人天形色不同有好醜者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の姿や色が同じではなく、美醜の差があるならば、わたしは決して仏になりません。 
(無有好醜の願・むうこうしゅのがん)

5 設我得仏国中人天不識宿命下至不知百千億那由他諸劫事者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。 
(令識宿命の願・りょうしきしゅくみょうのがん)

6 設我得仏国中人天不得天眼下至不見百千億那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、天眼通を得ずに、数限りない諸仏の国を見通すことができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(令得天眼の願・りょうとくてんげんのがん)

7 設我得仏国中人天不得天耳下至聞百千億那由他諸仏所説不悉受持者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない諸仏がたの国の様子を見通すことができないならば、わたしは決して仏になりません。
(天耳遥聞の願・てんにようもんのがん)

8 設我得仏国中人天不得見他心智下至不知百千億那由他諸仏国中衆生心念者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、他心通を得ず、数限りない諸仏がたの心を知り尽くすことができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(他心悉知の願・たしんしつちのがん)

9 設我得仏国中人天不得神足於一念頃下至不能超過百千億那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、神足通を得ず、一瞬間に数限りない諸仏がたの国々を飛び回ることができないなら、わたしは決して仏になりません。 
(神足如意の願・じんそくにょいのがん)

10 設我得仏国中人天若起想念貪計身者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が想念を陥ってわが身に執着するならば、わたしは決して仏になりません。 
(不貪計心の願・ふとんげしんのがん)

11 設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り必ずさとりを得ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(必至滅度の願・ひっしめつどのがん)

12 設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、光明に限りがあって数限りない諸仏がたの国々を照らさないならば、わたしは決して仏になりません。 
(光明無量の願・こうみょうむりょうのがん)

13 設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるならば、わたしは決して仏になりません。 
(寿命無量の願・じゅみょうむりょうのがん)

14 設我得仏国中声聞有能計量下至三千大千世界声聞縁覚於百千劫悉共計校知其数者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が長い間、協力し計算してその数を知ることができるなら、わたしは決して仏になりません。 
(声聞無量の願・しょうもんむりょうのがん)

15 設我得仏国中人天寿命無能限量除其本願修短自在若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう、ただし願によりその長さを自由にしたいものは別でそうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(眷属長寿の願・けんぞくちょうじゅのがん)

16 設我得仏国中人天乃至聞有不善名者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、悪を現す言葉があるとでも耳にするならば、わたしは決して仏になりません。 
(離諸不善の願・りしょふぜんのがん)

17 設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、ずべての世界の数限りない仏が皆わたしの名をほめたたえないようならば、わたしは決して仏になりません。 
(諸仏称名の願・しょぶつしょうみょうのがん)

18 設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

たとえわたしが仏になることができても、すべての人々が、 
○心のドン底からまこごろこめて 
○わたしに信仰のすべてをささげ 
○わたしの浄土に生まれたいと願うそうして 
○わずか十声でも念仏を称えるこのようでなければ、わたしは決して仏になりません。ただ五逆と謗法をおかした者だけは救うことはできません。 
(至心信楽の願・ししんしんぎょうのがん)

19 設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての人々がさとりを目ざしもろもろの功徳を積み重ね心からわたしの国に生れたいと願うなら命終のとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(至心発願の願・ししんほうがんのがん)

20 設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心廻向欲生我国不果遂者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての人々がわたしの名である六字名号を聞きて、この国に思いをかけ、多くの功徳を積んで心からこの功徳により、わたしの国に生まれたい願うなら、その願いをきっと成就させましょう。そうでなければわたしは決して仏になりません。 
(至心回向の願・ししんえこうのがん)

21 設我得仏国中人天不悉成満三十二大人相者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、仏と同じ三十二相のすぐれた相を完全に備えなければ、わたしは決して仏になりません。 
(具足諸相の願・ぐそくしょそうのがん)

22 設我得仏他方仏土諸菩薩衆来生我国究竟必至一生補処除其本願自在所化為衆生故被弘誓鎧積累徳本度脱一切遊諸仏国修菩薩行供養
十方諸仏如来開化恒沙無量衆生使立無上正真之道超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他方仏土の諸菩薩衆が、私の国に生まれてくれば必ず一生補処という菩薩最高の位を得るでしょう、ただしその菩薩の願によってはその限りではなく、人々を自由に導くため堅い決心で多くの功徳を積み、すべてのものを救い、諸仏の国に行き菩薩として修行し、数限りない人々を導き、最上の証りを得させようとするものは別で、菩薩通常の各段階の行をこえ出て即座に限りない慈悲行を行うこともできるのです。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(還相回向の願・げんそうえこうのがん)

23 設我得仏国中菩薩承仏神力供養諸仏一食之頃不能遍至無数無量那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けて、諸仏を供養するにあたり、一度食事の短時間にそれら無数の国々に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(供養諸仏の願・くようしょぶつのがん)

24 設我得仏国中菩薩在諸仏前現其徳本諸所欲求供養之具若不如意者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、諸仏の前で功徳を積むにあたり、供養の品を望みのままに得られないなら、わたしは決して仏になりません。 
(供養如意の願・くようにょいのがん)

25 設我得仏国中菩薩不能演説一切智者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、この上ない智慧について自由に説法ができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(説一切智の願・せついっさいちのがん)

26 設我得仏国中菩薩不得金剛那羅延身者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強い体が得られないなら、わたしは決して仏になりません。 
(得金剛身の願・とくこんごうしんのがん)

27 設我得仏国中人天一切万物厳浄光麗形色殊特窮微極妙無能称量其諸衆生乃至逮得天眼有能明了弁其名数者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく色も形もくらべものなく極めてすぐれています。かりに多くの人々が天眼通を得てそのありさまを明らかに知り尽せるようであれば、わたしは決して仏になりません。 
(万物厳浄の願・ばんもつごんじょうのがん)

28 設我得仏国中菩薩乃至少功徳者不能知見其道場樹無量光色高四百万里者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩でもし功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝やき、百万里の高さであることを知らないなら、わたしは決して仏になりません。 
(道場樹の願・どうじょうじゅのがん)

29 設我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心に保ち、人々に説き聞かして、自由自在に弁舌をふるう智慧が得られないならば、わたしは決して仏になりません。 
(得弁才智の願・とくべんさいちのがん)

30 設我得仏国中菩薩智慧弁才若可限量者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるならば、わたしは決して仏になりません。 
(弁才無尽の願・べんざいむじんのがん)

31 設我得仏国土清浄皆悉照見十方一切無量無数不可思議諸仏世界猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、国土は清らかで明鏡に顔をうつすようにすべての諸仏の世界を照らし出して見ることができましょう、そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(国土清浄の願・こくどしょうじょうのがん)

32 設我得仏自地已上至于虚空宮殿楼観池流華樹国中所有一切万物皆以無量雑宝百千種香而共合成厳飾奇妙超諸人天其香普熏十方世界菩薩聞者皆修仏行若不如是者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、大地から天空まで宮殿・楼観・流水・美花など国内一切のものが宝物と芳香で成りその荘厳は天人の世界にすぐれその荘厳は天人の世界にすぐれその芳香をかいだ菩薩は皆、仏道に励みます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(妙香合成の願・みょうこうごうじょうのがん)

33 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類蒙我光明触其身者身心柔軟超過人天若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界のものが、わたしの光明にてらされてそれを身に受けたなら身も心も和らぎ、天人や人々をこえすぐれるでしょう、もしそうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(触光柔軟の願・そっこうにゅうなんのがん)

34 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類聞我名字不得菩薩無生法忍諸深総持者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界の人たちが、六字の名号を聞きて、菩薩の無生法忍と、教えを記憶して忘れない力を得られないならば、わたしは決して仏になりません。 
(聞名得忍の願・もんみょうとくにんのがん)

35 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、六字の名号を聞きて、喜び信じさとりを開く心を起こし、女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、わたしは決して仏になりません。 
(女人往生の願・にょにんおうじょうのがん)

36 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸菩薩衆聞我名字寿終之後常修梵行至成仏道若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の菩薩が、六字の名号を聞き、命終後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名梵行の願・もんみょうぼんぎょうのがん)

37 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸天人民聞我名字五体投地稽首作礼歓喜信楽修菩薩行諸天世人莫不致敬若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の天人や人々が六字の名号を聞いて、土下座してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら天の神や世の人々は残らず皆、うやまうでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(作礼致敬の願・さらいちきょうのがん)

38 設我得仏国中人天欲得衣服随念即至如仏所讃応法妙服自然在身若有裁縫擣染浣濯者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、衣服を欲せば、思いままにすぐに現れ、仏の心にかなった尊い衣服を自然に身につけているでしょう。裁縫、染め直し、洗濯の必要はありません。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(衣服随念の願・えぶくずいねんのがん)

39 設我得仏国中人天所受快楽不如漏尽比丘者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ちきった修行僧と同じでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(常受快楽の願・じょうじゅけらくのがん)

40 設我得仏国中菩薩随意欲見十方無量厳浄仏土応時如願於宝樹中皆悉照見猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が思いのままに、すべての数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願いどおりに明鏡に顔をうつすように、宝樹の中にそれらをすべて照ら出してはっきり見ることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(見諸仏土の願・けんしょぶつどのがん)

41 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字至于得仏諸根闕陋不具足者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 
(聞名具根の願・もんみょうぐこんのがん)

42 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得清浄解脱三昧住是三昧一発意頃供養無量不可思議諸仏世尊而不失定意若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞けば、皆清浄解脱三昧を得て直ちに数限りない諸仏を供養ししかも三昧の心を乱さないでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名特定の願・もんみょうとくじょうのがん)

43 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字寿終之後生尊貴家若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞きけば、命終後に人々から尊ばれる家に生まれることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名生貴の願・もんみょうしょうきのがん)

44 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字歓喜踊躍修菩薩行具足徳本若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞けば喜び勇んで菩薩の修行に励み多くの功徳を完全に身に具えるでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名具徳の願・もんみょうぐとくのがん)

45 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得普等三昧住是三昧至于成仏常見無量不可思議一切諸仏若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞いて皆、普等三昧を得て、仏になるまでの間、数限りないすべての諸仏の姿を身奉ることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名見仏の願・もんみょうけんぶつのがん)

46 設我得仏国中菩薩随其志願所欲聞法自然得聞若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が聞きたく思う説法を自然に聞くことができないなら。わたしは決して仏になりません。 
(随意聞法の願・ずいいもんぽうのがん)

47 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至不退転者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが、六字の名号聞いて不退転の位に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(聞名不退の願・もんみょうふたいのがん)

48 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至第一第二第三法忍於諸仏法不能即得不退転者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが、六字の名号を聞きて、直ちに音響忍、柔順忍、無生法忍を得ることができず。また諸仏の説法において不退転の位に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(得三法忍の願・とくさんぽうにんのがん)


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阿弥陀仏を信仰する浄土門 開祖 法然 が著わした 選択集 には
「法華経及び、聖道門(浄土三部経(阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経)以外の全ての経典)を 捨てろ、閉じろ、閣おけ、抛うて 阿弥陀仏だけにすがれ。(趣意)」 と主張している。

しかし法華経には

■ 法華経譬喩品第三

「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん。地獄より出でて当に畜生に堕すべし、若しは狗・野干、或は驢(ろ)の中に生まれて身常に重きを負ふ。此に於て死し已はって更に蟒身(もうしん)を受けん。常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如くならん」

と説かれており、まさに法華経を「捨てろ、閉じろ、閣おけ、抛うて」と誹謗していることになる

浄土宗は 堕地獄の業因を積む、大謗法、大邪教


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阿弥陀仏の48願中 18願 「唯除五逆誹謗「正法」」 ただ五逆と謗法をおかした者だけは救うことはできません。

この「正法」が 法華経 であることの文証
 
■正直に方便を捨てて 但無上道を説く(法華経・方便品第二)

■舎利弗に告ぐ 斯の経を謗ぜん者は
若し其の罪を説かんに 劫を窮むとも尽きじ(譬喩品第三 181)

法師品(ほっしほん)
■「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」

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阿弥陀仏を本尊とする浄土宗の歴史はまさに 破和合僧 であり、五逆罪 である。
よって、阿弥陀仏の48願中 18願 「唯除五逆誹謗正法」 ただ五逆と謗法をおかした者だけは救うことはできません。  この誓願の通りの救済できない除外例となり、阿弥陀仏では救われない。

参照

浄土宗歴史[編集]

法然在世時の歴史は、法然の生涯を参照。

法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空弁長幸西長西隆寛親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。

嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。

その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院湛空知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。

一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。

その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観良栄、白旗派の聖冏聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。

応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。これにより浄土宗は幕府の手厚い保護を受けることになる。なお、このとき西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されている。

江戸幕府が倒壊したあと、廃仏毀釈の混乱のなかから養?徹定福田行誡らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする浄土宗本派が分立するが、1961年の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、1977年に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。

一方、西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。

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 善導 観念法門経 「酒肉五辛を手に取らざれ、口にかまざれ。手にとり口にもかみて念仏を申さば、手と口に悪瘡付くべし」と禁めている。
  法然上人は起請を書いて云はく「酒肉五辛を服して念仏申さば予が門弟にあらず」
  であるならば今の念仏宗の僧侶は皆、開祖に背く師敵対の堕落僧ということになる。

  「不浄にして念仏を申すべし」とは当世の念仏者が大妄語を言っているに過ぎない。

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 本坊大勧進 http://www.daikanjin.jp/daikanjin/daikanjin.html

勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。 
 弘仁8年伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。 
 大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております。



 護摩祈願  http://www.daikanjin.jp/kigan/goma.html

護摩とはご本尊前に護摩壇を設け、種々の供物をその護摩釜に投じ入れて供養し、智慧の炎によって諸々の罪障煩悩を滅して願いごとを成就させる密教の修法です。
智証大師円珍作と伝えられる当山の不動明王は、古来より厄除け不動尊とし て庶民の信仰を受け親しまれ、また日本三大不動尊の一つして崇め奉られてきました。
大勧進では皆さまの諸々の所願成就のため、一日5回の時間を定め護摩祈願を奉修しております。
詳しくは当山護摩堂係までご相談ください。

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● 大本願 浄土門 の開祖 法然 は 選択集に 浄土三部経以外は 捨・閉・閣・抛 せよ と主張している → この中には 大日三部経 も含まれるのではないか?
であるならば、大勧進側は、この主張にどう反論するのか?
また大本願側は、捨てるべき真言三部経を用いている大勧進側を厳しく糾弾すべきではないのか?
大勧進と大本願が共存しているなど、まさに妥協の産物であり、清浄な仏教門徒としては恥ずべき姿である。

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 @ 智証 作 と言われている 不動明王 を本尊と恃む これは一体、どの経典に示されているのか。 釈尊が「不動明王」を信じ恃め、と示されているのか?
  
  
  A 智証独自の「五時教判」 → 「円劣密勝」 
  これは 法華経 涅槃経 大日経 を → 第五時の説法 とする
  しかし 
  法華経 → 初  
  涅槃経 → 中 
  大日経 → 後  

と分類し結果 大日経 が 法華経 よりはるかに優れる と主張している。

   これは 天台大師・伝教大師 の立てた 五時教判 に背く我意我見であり 師敵対行為 ではないのか。

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● 法華経最第一 の文証


方便品第二

■ 正直に方便を捨て 但無上道を説く 

法師品第十

■ 「已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」

法師品第十

■ 「薬王、今汝に告ぐ、我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり」。

見宝塔品第十一

■ 我仏道の為に 無量の土に於て
始より今に至るまで 広く諸経を説く
而も其の中に於て 此の経第一なり

安楽行品第十四

■ 此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り、

薬王菩薩本事品第二十三

■ 海為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て、最も為れ深大なり。

■ 須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。諸経の中に於て、最も為れ其の上なり。

■ 衆星の中に、月天子最も為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。千万億種の諸の経法の中に於て、最も為れ照明なり。

■ 帝釈の三十三天の中に於て王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

■ 仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

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● 法華経以外は不可

方便品第二

■ 世尊は法は久しくして後要(かなら)ず当(まさ)に真実を説き給ふべし

■ 十方仏土の中には  唯(ただ)一乗の法のみ有り二無く亦(また)三無し

■ 諸仏世に出でたもうには唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず

■ 若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば
我則ち慳貪に堕せん 此の事は為めて不可なり

譬喩品第三
■ 今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ能く救護(くご)を為す(※ 釈尊以外は不可 本尊足り得ない 依枯依託成り得ない


→ 智証大師は 釈尊の仰せに背いているではないか?

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 護摩祈願が 3000円 5000円 7000円 と 札の大きさで値段が変わる、とあるが、御利益には違いはあるのか?
あるとすればどういう理由からか。
ないとすればどうして値段の差が必要なのか? 



本当の御利益のある信心とは? 

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