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浄土真宗僧侶を【破折】す。
この度メンバーが浄土真宗僧侶と文書法論している中で出てきた【邪難】について【破折】を加える
▼ 【邪難】 1 ▼ 法華経を信受できない者は余の深法で利益せよ。とある「深法」とは他に無量寿経にしかない。だから法華経でも無量寿経を勧めている(趣意)
【破折】 ① 深法 とは他の経典にも多出
【破折】 ② 余 の意味は?
▼ 【邪難】 2 ▼ 「釈尊の仏法が滅尽した後の「末法」において衆生を救済できるのは無量寿経に説かれている阿弥陀仏だけ。」(趣意)
【破折】 ①
補足 1 ▼ 「後の五百歳」 を ▼ 「釈尊滅後直後の五百年」 とする【邪難】 への【破折】
補足 2 後 を 二回繰り返す必要はない
【破折】 ② 百年という限定つき
【破折】 ③ 「百歳」 は 「永遠」 か?
▼ 【邪難】 3 ▼ 「 法華経 と 無量寿経 は同時に説かれている。だから、 「四十余年未顕真実」 の文は当てはまらない。」
【破折】 ① 法華経では阿闍世は既に釈尊に帰依していた
【破折】 ② 無量寿経では 王子 法華経では 王
【破折】 ③ 法華経に「中座」した既述なし
■ 「阿闍世、王位に登りて第八年に仏は涅槃したまへり」 (善見律毘婆沙巻三) について
▼ 【邪難】 4 四十八願中の 唯五逆と誹謗正法の者を除く の 「正法」 とは何か
【破折】 ① 浄土真宗系曰く 「法華経 も 無量寿経 も 本懐経」
【破折】 ② 浄土三部経は 極楽浄土へ 往生 することが目的の経
▼ 【邪難】 5 ▼ 法華経は難信難解 難解難入 であるから、末法の劣機は救われない(趣意)
▼ 【邪難】 6 ▼ 法華経を釈尊が説いたと証明せよ。
▼ 【邪難】 7 地獄なんてどこにある?
▼ 【邪難】 8 無量寿経 に 「此の経、最第一」 とある
▼ 【邪難】 9 天台の五時の教判の時代区分には多くの矛盾点が指摘される。
【破折】 五時教判は大綱を纏めたもの
▼ 【邪難】 10 大無量寿経には ■ 「一乗を究竟して彼岸に到る」 とあり、弥陀の本願こそ一乗究竟の極説であることは明白
【破折】 これは極楽浄土で法華経を修行して成仏するというまさに文証
【破折】 法華経の文に「法華最第一」は更に明白
【破折】 法華経以外は不可 との経文
【破折】 法門上でも明白な勝劣
▼ 【邪難】 11 観無量寿経 で 韋提希夫人 が 釈尊 に 「提婆がなぜ、あなたの従兄弟なのですか」 と尋ねている。
■ 教義【破折】
往生 であって 即身成仏 ではない
女人成仏できない
現実社会の仏ではない
現実逃避
五逆は救えない
四十八願
三種の阿弥陀仏
捨閉閣抛
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【邪難】1
▼ 法華経を信受できない者は余の深法で利益せよ。とある「深法」とは他に無量寿経にしかない。だから法華経でも無量寿経を勧めている(趣意)
★ ネタ元は以下であろう。
http://blog.goo.ne.jp/basyauma21/e/64588dec1998842f02c447a6fd83e064
法華経と浄土三部経(二つの深法)
また『法華経』には
『大無量寿経』が出世本懐経である
と示している御文があるのだ。
一切経の中で深法と説かれてあるのは
法華経と大無量寿経しかない。
無上甚深の教えであるということだ。
ところが『法華経』には
この法華経を信じ得ない者のためには
如来の余の深法を教えよとあり、
その言葉を釈尊は受けて、
『大無量寿経』のみを深法と呼び
出世本懐経として開顕していられる。
『法華経』の
「信受せざらん者には、
当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし」
の御文の意味は
法華経を如実に実践できない者には、
余の深法によって救いを得べきである
ということである。
『大無量寿経』にはそれを受けて
「一向に意をもつぱらにして、乃至十念、
無量寿仏を念じたてまつりて、
その国に生れんと願ずべし。
もし深法を聞きて歓喜信楽し、
疑惑を生ぜず」
一向専念無量寿仏の身になり、
弥陀の本願(深法)をまことと
聞きぬいた時、
大安心・大満足の絶対の幸福の身に
なれると説かれているのだ。
これによって、法華経では助からないことを
知らせて大無量寿経に送り込む法華方便の
明らかな文証となるのである。
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【破折】 ①
「深法」の語は、法華経と大無量寿経のみではない。
因みに法華経での出所
■ 世尊大衆に在して 深法 の義を敷演したもう (妙法蓮華経序品第一)
■ 若し衆生有って、信受せざらん者には、当に如来の 余の深法 の中に於て、示教利喜すべし。(妙法蓮華経嘱累品第二十二)
■ 爾の時に行者、普賢の 深法 を説くことを聞いて、其の義趣を解し、憶持して忘れじ。(仏説観普賢菩薩行法経)
他経での用例
0125増壹阿含經 (ぞういつあごんぎょう)
■ 能廣説義分別 深法 。所謂普照比丘尼是 (※ 能く廣く 深法 の義を分別して説け。) 所謂是れ普照比丘尼。
■ 所謂掘多長者是。能説 深法 。所謂優波掘長者是。 所謂掘多長者是なり。 (※ 能く 深法 を説く。 ) 所謂優波掘長者是なり。
■ 如來所陳靡不承受。唯願世尊。與諸比丘説此 深法 。 (※ 諸の比丘は此の 深法 説く )
■ 與諸比丘説此 深法 。聞已奉行。
■ 唯願如來。普爲衆生廣説 深法 。
■ 聞者得篤信分別 深法 要
■ 是時尊者大目&M020078;連以 深法 之語。
■ 此 深法 中竟不受化各取命終。
などなど、枚挙に暇がない。
更に、他の経典にも多々あるが、ほんの触りだけ挙げる。
1463毘尼母經
■ 應説何法而得受解。衆若應聞 深法 當爲説 深法 。
【邪難】者が言う、
▼ 「一切経の中で深法と説かれてあるのは法華経と大無量寿経しかない。」
↑とは全くの嘘である。
か、もしくは全くの不勉強の極みである。
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【破折】 ②
■「余の深法の中に於て、示教利喜すべし」 について
法華経当該経文
■ 未来世に於て、若し善男子、善女人有って、如来の智慧を信ぜん者には、当に為に此の法華経を演説して、聞知することを得せしむべし。其の人をして、仏慧を得せしめんが為の故なり。若し衆生有って、信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て、示教利喜すべし。汝等、若し能く是の如くせば、則ち為れ、已に諸仏の恩を報ずるなり。(妙法蓮華経嘱累品第二十二)
この意は
「第一にまず法華経を修行せしむべし。 法華経を信受できない者には、「余」の深法で化導せよ。」 との意。
語句解釈
「余」
1 そのほか。それ以外。
2 あまって残ったもの。残り。あまり。残余。
↑ つまり、法華経が最優先であり 他経はその 「余り」 、という意義。
むしろ、 「法華経最第一」 の傍証となる経文ではないか。
決して、
▼ 「法華経 では助からないことを知らせて 大無量寿経 に送り込む法華方便の明らかな文証」
とはならない。 全く逆の意義である。
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【邪難】 2
▼ 「釈尊の仏法が滅尽した後の「末法」において衆生を救済できるのは無量寿経に説かれている阿弥陀仏だけ。」(趣意)
無量寿経
「当来の世に経道滅尽せんに、
我慈悲を以って哀愍し、
特にこの経を留めて止住すること百歳せん、
それ衆生あって、この経に値うものは
意の所願に随って、みな得度すべし」
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【破折】 ①
法華経にも末法の後に広宣流布し衆生を救済する。との文がある。
■ 安楽行品第十四
文殊師利、菩薩摩訶薩にして、後の末世の、法滅せんと欲せん時 に於て、斯の経典を受持し、読誦せん者は、嫉妬諂誑の心を懐くこと無かれ。
■ 同
文殊師利、菩薩摩訶薩にして、後の末世の、法滅せんと欲せん時に於て、法華経を受持すること有らん者は、在家、出家の人の中に於て、大慈の心を生じ、菩薩に非ざる人の中に於て、大悲の心を生じて、応に是の念を作すべし。
是の如きの人は、即ち為れ、大いに如来の方便随宜の説法を失えり。
聞かず知らず覚らず、問わず信ぜず解せず。
其の人、是の経を、問わず信ぜず解せずと雖も、我、阿耨多罪三藐三菩提を得ん時、随って何れの地に在っても、神通力と智慧力を以て、之を引いて、是の法の中に住することを得せしめん。
■ 分別功徳品第十七
悪世末法の時 能く此の経を持たん者は
則ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足するなり
■ 妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」
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補足
① この 「後の五百歳」 を ▼ 「釈尊滅後直後の五百年」 とする【邪難】がある。
が、全く不可。
歴史的事実として、釈尊滅後の直後の500年間には、全く法華経は広く広まってはいなかった。
であるから、この経文通りにはならなかった、ということになり、釈尊の詔勅は実行されず、予言も外れたことになる。
とすれば釈尊は仏の資格はなかったことになり、仏法そのものも信仰するに足らない、ただの妄言ということになる。
となれば、法華真実、爾前権教方便、などと論じることもそもそも無意味なこと、となり、仏教について熱く論じ合うこと自体、ナンセンスなことになる。
しかし、正しく仏法を信行する者にとって、その体得した境界の真実からして、釈尊の教説が全くの虚妄だったなどということは絶対に在り得ない。
だとすれば、釈尊滅後の直後の五百年間に法華経が広く広まっていなかった史実から、上記の経文は、 釈尊滅後の五百年 を指していないことは明白である。
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次の観点として、
もし ▼ 「後の五百歳」 を ▼ 「釈尊滅後直後の五百年」 とするのなら
■ 「我が滅度の「後」、「後」の五百歳」
と 「後」 が二回繰り返される必要がない。
「我が滅度の 後の五百歳 」 で良い訳である。
敢えて二回繰り返された意義は、
■ 我が滅度の「後」、(正法一千年・像法一千年の)「後」の 五百歳
という意義であると拝する。 これは大集経の五百年毎に時代相を区切って論じている義と相通じていると考えることが一番道理にかなっているからである。
「五百歳」 という義に合わせて詳しく言えば
■ 『我が滅度の「後」、
(正法一千年( 解脱堅固五百年 ・ 禅定堅固五百年)・
像法一千年( 読誦多聞堅固五百年 ・ 多像塔寺堅固五百年)の)
「後」 の 五百歳』
との意義である。
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② また、▼ 「大集経の成立が法華経より後であるから法華経の中に大集経の予証が説かれるはずがない。」 との【邪難】があるが、
これは僧宝による仏法伝持の深義が分からぬ門外漢の浅見である。
つまり、法華経の深義も、大集経の深義も、釈尊滅後当初から連綿と相伝・伝持されており、時と機に叶い発現し経典化されていったのである。
歴史的、文献的に経典成立した時期が前後してもその本質的な内容の整合性においてはなんら齟齬はないのである。
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本題に戻る
■ 無量寿経
「当来の世に経道滅尽せんに、
我慈悲を以って哀愍し、
特にこの経を留めて止住すること百歳せん、
それ衆生あって、この経に値うものは
意の所願に随って、みな得度すべし」
この「経道滅尽した時に、無量寿経だけを留め置く(趣意)」 との意義を、
「釈尊の説いた経典も教えも全て灰燼に帰した時。阿弥陀仏の教えだけが残る」
と捉え、浄土門では、
▼ 「このような表現が無量寿経にしか説かれていないから浄土門こそ最尊である。(趣意)」
と主張してるが、一代仏教を全体観から見れば、その主張は我田引水に過ぎない。
「経道滅尽」 とは、大集経の「 釈尊滅後二千年以後の「白法隠没」した「末法」」 と同義との解釈が、一代仏教を概観した正当な見解である。
同様の表現は法華経他、他経にもあるからである。
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例証
■ 涅槃経・四依品・菩薩品・月喩品など
「是の大般涅槃経が地中に隠没するを以って正法の衰相といい、この経が没し終って諸の大乗経も滅没し、この経が誹謗された時は仏法が久しくして滅す」(趣意)
■ 涅槃経 「正法滅し非法増長した悪世においても、再び是の大般涅槃経が現れ大教下を与える」(趣意)
■ 法華経薬王品二十三
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。
悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん。宿王華、汝当に神通の力を以て、是の経を守護すべし。所以は何ん。此の経は則ち為れ、閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞きくことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん。
」
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であるから、 「経道滅尽云々」 の文も、浄土宗・浄土真宗などが主張するがごとき、特段 無量寿経 だけが優れている根拠とはならない。
更に、 無量寿経 と 法華経 の文義を比較してみても、明らかにその経勢に勝劣・強弱が認められる。
かたや、無量寿経 ■ 「留めて止住すること百歳」 であり、
一方 法華経 ■ 「閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」 である。
無量寿経 は 「百年」 という 限定付き、賞味期限付き、 であるのに対して、
法華経 は 「断絶してはならない、未来永劫に!」 との意である。
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尚、この 「百歳」 をサンスクリット原典まで引き出して、 「永遠」 と、無理に解釈しているむきもあるが、それこそ牽強付会であろう。
そのようにある語句だけをサンスクリット原典での語に依って意義を与えようとするならば、全ての経典に対して論者の思惑のままの解釈も成り立ち得るのである。
漢語に訳す時に訳者が原語の意義を汲んで訳出したのであるから、 「永遠」 ならばそれを想定できる訳語が付与せられるはずである。
「百歳」 と訳したからには相応の根拠があるはずであり、(必ずしも文字通りの 「百年」 に拘泥することは愚としても、) 「有限性」 は否定できないであろう。
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【邪難】 3
▼ 「 法華経 と 無量寿経 は同時に説かれている。だから、 「四十余年未顕真実」 の文は当てはまらない。」
その根拠は、 観無量寿経 に
■「耆闍崛山(ぎしゃぐっせん)より没し、王宮に出でたまふ」 との文があるからである。
この耆闍崛山とは霊鷲山のことであり、この時に釈尊は法華経の説法をしていたがそれを中断し、王舎城の王宮へ観無量寿経を説くために向かわれたのだ。(趣意)」
参照
蓮如 御文章4帖目3通
「むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、
一乗法華の妙典をとかれしとき、
提婆・阿闍世の逆害をおこし、
釈迦、韋提をして安養を
願わしめたまいしによりて、
かたじけなくも霊山法華の会座を没して、
王宮に降臨して韋提希夫人のために
淨土の教を弘めましまししによりて、
弥陀の本願この時にあたりて盛んなり。
このゆえに法華と念仏と同時の教と
いえることは、この謂なり。
これすなわち末代の五逆・女人に、
安養の往生を願わしめんがための方便に、
釈迦、韋提、調達、闍世の五逆をつくりて、
かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、
かならず安養の往生を遂ぐるものなりと、
知らせたまえりと知るべし。」
元ネタ
http://blog.goo.ne.jp/basyauma21/c/18cae8f381a547cec2ad47a9354ecfea/1
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【破折】
全くの事実誤認。不勉強の極み。これを言い出した、蓮如は実に勉強不足である。(か、知っていて、しらばっくれてこう言ったとしたら、宗教的ペテン師である。)
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【破折】ポイント ①
■ 法華経序品第一
韋提希の子・阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。 各、仏足を礼し、退いて一面に坐しぬ。
法華経序品第一 の時期において 阿闍世 は既に王位に就いた後であり、しかも釈尊に帰依していた。
ということは、 浄土門 の言う 「王舎城の悲劇」 は 法華経序品以前 ということになる。
→ 法華経 の説法を中断して 観無量寿経 を説きに王宮(王舎城)へ赴かれた、との説は通らない。
観無量寿経
■ 「耆闍崛山(ぎしゃぐっせん)より没し、王宮に出でたまふ」
との経文は、 「釈尊が法華経以外の説法を、耆闍崛山でされていた時」
あるいは、 「釈尊がただ耆闍崛山に居られた時」 とも解釈すべきである。
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【破折】ポイント ②
しかも
観無量寿経
■ 「爾の時、王舎城に一人の太子あり、阿闍世と名づく」
には、このように 「太子」 とあり、まだ 「王」 ではない。
時間的経緯は以下の如く
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阿闍世「太子」 →
提婆達多と師として唆され、父王を幽閉する →
阿闍世、母から父王の愛の真実を告げられる →
驚き改心し父王の縛を解こうと家臣を急行させる →
父王、阿闍世に父殺しの罪を犯させないために自害(ある説) →
母の嘆き →
釈尊が応じて説く・観無量寿経 →
深い悲嘆の中に、阿闍世、王位に就く →
阿闍世、慙愧し悪腫瘍出来 →
耆婆大臣に勧められる →
釈尊の元へ →
帰依 →
法華経の会座に参集
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観無量寿経では「太子」
法華経では「阿闍世「王」」
であるから、 観無量寿経 は、 法華経序品第一 よりかなり前に説かれていることは明らかである。
ならばまさに 「四十余年未顕真実」 つまり真実経ではない方便の教である。
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【破折】ポイント ③
法華経のどこにも、
「釈尊が韋提希の悲嘆を知り、説法を中座して、王舎城へ向かわれた」
などという記述は全く存在しないのである。
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また、浄土門の根拠は、以下の論にも依っているらしいが、これにても全く矛盾はない。
■ 「阿闍世、王位に登りて第八年に仏は涅槃したまへり」 (善見律毘婆沙巻三)
【破折】 ④ 善見律毘婆沙 とは釈尊の経典ではない。
が故に、記述の内容に必ずしも拘泥すべきではない。
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善見律毘婆沙(ぜんけんりつびばしゃ)
僧伽跋陀羅(そうぎゃばっだら)訳
(大正大蔵経 No.1462)
P?li Samantap?s?dik?
『善見律』 または 『善見論』 ともよばれているこの聖典は,仏音(ぶっとん)/ブッダゴーサが著わした,南方仏教(上座部)に伝わる戒律に対する註釈書である。
したがって,上座部における比丘戒(びくかい)や比丘尼戒(びくにかい)が中心に述べられているが,最初の部分には,第1回から第3回までの経典編集についての記述や,アショーカ王の王子であったマヒンダが,当時のセイロン(スリランカ)に仏教を伝えたこと,などが述べられている。
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仮に、 ■ 「阿闍世、王位に登りて第八年に仏は涅槃したまへり」 (善見律毘婆沙巻三)
だとしても、
【破折】 ⑤ 法華経の説法の期間は8年間との説を採れば、全く矛盾はない。
耆闍崛山 におられた 釈尊 が 王舎城へ赴かれ 観無量寿経 を説く →
阿闍世が王位に就く(釈尊入滅8年前) →
耆闍崛山 において 法華経 を説き始められる (8年間説かれ入寂)
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【邪難】 4 ▼ 四十八願中 十八願の
■「唯、五逆と誹謗正法の者を除く」
の 正法 が 法華経 であることを証明せよ。
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【破折】 ① 浄土真宗では 無量寿経 と 法華経 を 本懐経 と 認めている。
問題は、無量寿経 と 法華経 の 勝劣 である。
しかし、既に論証した如く、無量寿経 を最尊とする根拠は全て崩れたのであるから、 法華経 勝 無量寿経 劣 は決定的である。
となれば、四十八願の 十八願 ■「唯、五逆と誹謗正法の者を除く」 との 「正法」 とは 法華経 以外に存在しない。
無量寿経 は釈尊が説かれたものであるが故に、既にその立場・位置・価値・存在意義などが説き籠められているのである。
ただ、浄土門の者たちが、方便・他土の仏である阿弥陀仏に執着する余り、一代仏教を総観する冷静な眼を失っているだけのことである。
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【破折】 ②
無量寿経 下
■ 仏、阿難に語りたまわく、
「彼の仏国に生ずるもろもろの菩薩等は講説すべき所に常に 正法 を宣べ、智慧に随順して違なく失なし。
浄土三部経は つまるところ 『一切の衆生は阿弥陀を念ずれば極楽浄土へ 往生 する。』 という経典である。
とすれば、その目的地である 極楽浄土で説かれる 「正法」 とは何なのか?
ここをよくよく熟慮すべきである。
つまり、やはり、浄土三部経 はあくまで 方便・随宜 の経典であり、結局は 正法 を修行するための前段階の経典ということである。
それは 浄土三部経では 往生 はするが 成仏できる とは説かれていない点でも証明できる。
参照
であるから、無量寿経 下 にある以下の経文も大いに首肯できるのである。
■ かの国に生まれんと願ずれば、すなわち 往生 を得、 不退転 に住せん。
唯五逆と 正法 を誹謗せんとをば除く。」
経典上に 衆生の成仏 が説かれていない以上、浄土三部経の目的は あくまで極楽浄土への 往生 にある。
しかも、その極楽浄土での修行は明確に示されていない。
にもかかわらず、上記の経文にある 不退転 とは 何の修行に対して 不退転 なのか。
これまさに 正法 に対しての 不退転 であり、 その 正法 とは まさに後に説かれる 真実本懐の 法華経 の修行と拝することこそ、道理に則った理解である。
であるから、法蔵比丘の四十八願 の第十八願
■ たとえ我仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽して我が国に生まれんと欲し、乃至十念せん、もし生まれずば、正覚を取らじ、
唯五逆と 正法 を誹謗せんとをば除かん。
の、 正法 とは、やはり 真実本懐の 妙法蓮華経 であり、その 妙法蓮華経 を指向して、方便・権教の中に説き込められた、釈尊の深慮と拝するのである。
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更に教義の内容的に、浄土三部経では全く不完全である。
●
1、往生 であって 即身成仏 ではない。
以下の表は、浄土三部経 に用いられる 往生 と 成仏 の語数と、その 関連者・対象者 を検索した結果である。
往生 | 関連・対象 | 成仏 | 関連・対象 | ||
観無量寿経 | 11 | 衆生 | 0 | ||
無量寿経 上 | 1 | 衆生 | 5 | 全て 阿弥陀如来・法蔵比丘 に関することで、衆生の関しての箇所ではない。 | |
無量寿経 下 | 24 | 衆生 | 1 | 観音 勢至 両菩薩に関する箇所 衆生は無縁 | |
阿弥陀経 | 1 | 衆生 | 1 | 阿弥陀仏 |
表に明らかなように、 衆生は 往生 するだけであって 成仏できる とは全く説かれていないのである。
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2、女人成仏 二乗成仏 悪人成仏(「往生」ではない)は説かれていない。
女性は成仏できない。
参照
35 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、六字の名号を聞きて、喜び信じさとりを開く心を起こし、女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、わたしは決して仏になりません。
(女人往生の願・にょにんおうじょうのがん)
女人の身に生まれることを忌み嫌っている。
明らかに女性差別・蔑視 である。
こんな不平等な教えが、完璧・本懐・最尊・最勝 である訳がない。
法華経では 畜身・女身の竜女が即身成仏したのである。
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● 阿弥陀仏 のこの現実世界における八相作仏はない。
① 下天(げてん) 兜率天(とそつてん)からこの世に降下(こうげ)すること。
② 託胎(たくたい) 母摩耶夫人の胎内に宿ること。
③ 出胎(しゅったい) ルンピニー園に誕生すること。
④ 出家(しゅっけ) 修行のため王宮を出ること。
⑤ 降魔(ごうま) 悟りの障害となる魔を打破すること。
⑥ 成道(じょうどう) 菩提樹の下において悟りを開き仏となること。
⑦ 転法輪(てんぽうりん) 衆生のために種々の説法をし、教化すること。
⑧ 入涅槃(にゅうねはん) 拘尸那掲羅(くしながら)において涅槃に入ること。
つまり、架空の仏であり、現実社会に実在しない。
実際にこの世に出でて衆生を教化したことがない。
一方、釈尊は
■ 法華経譬喩品第三
今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ 能く救護を為す
復教詔すと難も 而も信受せず
■「唯我一人のみ 能く救護を為す」 この現実社会で釈尊一人のみ一切衆生を救済する仏 と明言されている。
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● 教義
この世で救われず、現実改革できず、来世 西方十万億土に生ずる
厭離穢土 欣求浄土 この世を穢れた土と厭い、どこにあるかも証明されていない架空の土である、浄土 などという現実離れした理想郷に死んだら行ける。。。などと妄想する。
結果
厭世思想 諦めが強い 現実逃避 退廃的 優柔不断 ・・・・などの悪影響が顕れる。
現実の様々な問題を解決・救済できない教えなど正しいはずがない。
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教義の矛盾
悪人往生 といいながら 「五逆」は救えない。 殺父 殺母 殺阿羅漢 出仏身血 破和合僧
ならば、親殺し、僧侶殺しは絶対に救われない。
現代で親殺しは頻繁に起きている。
顕如 教如 の時、その確執・対立から 東本願寺 が生まれた。
これなどは 破和合僧 であるから 以後の浄土真宗僧俗は全て救われない、ことになる。大矛盾である。
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以下の四十八願など、およそ現実には全く不可能なことばかりである。
このような教えでは 妄想ばかり、空想ばかり、口ばかり、の現実離れした理想論ばかり、地に足の着いていない精神思考構造となる。
参照 四十八願
1 設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚
たとえわたし(法蔵菩薩)が仏になることができても、わたしの国に地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいるとするならば、わたしは決して仏になりません。
(無三悪趣の願・むさんまくしゅのがん)
2 設我得仏国中人天寿終之後復更三悪道者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が命終後に再び地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥るならば、わたしは決して仏になりません。
(不更悪趣の願・ふきょうあくしゅのがん)
3 設我得仏国中人天不悉真金色者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が金色に輝く身にならない限り、わたしは決して仏になりません。
(悉皆金色の願・しっかいこんじきのがん)
4 設我得仏国中人天形色不同有好醜者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の姿や色が同じではなく、美醜の差があるならば、わたしは決して仏になりません。
(無有好醜の願・むうこうしゅのがん)
5 設我得仏国中人天不識宿命下至不知百千億那由他諸劫事者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。
(令識宿命の願・りょうしきしゅくみょうのがん)
6 設我得仏国中人天不得天眼下至不見百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、天眼通を得ずに、数限りない諸仏の国を見通すことができないならば、わたしは決して仏になりません。
(令得天眼の願・りょうとくてんげんのがん)
7 設我得仏国中人天不得天耳下至聞百千億那由他諸仏所説不悉受持者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない諸仏がたの国の様子を見通すことができないならば、わたしは決して仏になりません。
(天耳遥聞の願・てんにようもんのがん)
8 設我得仏国中人天不得見他心智下至不知百千億那由他諸仏国中衆生心念者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、他心通を得ず、数限りない諸仏がたの心を知り尽くすことができないならば、わたしは決して仏になりません。
(他心悉知の願・たしんしつちのがん)
9 設我得仏国中人天不得神足於一念頃下至不能超過百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、神足通を得ず、一瞬間に数限りない諸仏がたの国々を飛び回ることができないなら、わたしは決して仏になりません。
(神足如意の願・じんそくにょいのがん)
10 設我得仏国中人天若起想念貪計身者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が想念を陥ってわが身に執着するならば、わたしは決して仏になりません。
(不貪計心の願・ふとんげしんのがん)
11 設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り必ずさとりを得ることができないならば、わたしは決して仏になりません。
(必至滅度の願・ひっしめつどのがん)
12 設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、光明に限りがあって数限りない諸仏がたの国々を照らさないならば、わたしは決して仏になりません。
(光明無量の願・こうみょうむりょうのがん)
13 設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるならば、わたしは決して仏になりません。
(寿命無量の願・じゅみょうむりょうのがん)
14 設我得仏国中声聞有能計量下至三千大千世界声聞縁覚於百千劫悉共計校知其数者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が長い間、協力し計算してその数を知ることができるなら、わたしは決して仏になりません。
(声聞無量の願・しょうもんむりょうのがん)
15 設我得仏国中人天寿命無能限量除其本願修短自在若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう、ただし願によりその長さを自由にしたいものは別でそうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(眷属長寿の願・けんぞくちょうじゅのがん)
16 設我得仏国中人天乃至聞有不善名者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、悪を現す言葉があるとでも耳にするならば、わたしは決して仏になりません。
(離諸不善の願・りしょふぜんのがん)
17 設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、ずべての世界の数限りない仏が皆わたしの名をほめたたえないようならば、わたしは決して仏になりません。
(諸仏称名の願・しょぶつしょうみょうのがん)
18 設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
たとえわたしが仏になることができても、すべての人々が、
○心のドン底からまこごろこめて
○わたしに信仰のすべてをささげ
○わたしの浄土に生まれたいと願うそうして
○わずか十声でも念仏を称えるこのようでなければ、わたしは決して仏になりません。ただ五逆と謗法をおかした者だけは救うことはできません。
(至心信楽の願・ししんしんぎょうのがん)
19 設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての人々がさとりを目ざしもろもろの功徳を積み重ね心からわたしの国に生れたいと願うなら命終のとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(至心発願の願・ししんほうがんのがん)
20 設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心廻向欲生我国不果遂者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての人々がわたしの名である六字名号を聞きて、この国に思いをかけ、多くの功徳を積んで心からこの功徳により、わたしの国に生まれたい願うなら、その願いをきっと成就させましょう。そうでなければわたしは決して仏になりません。
(至心回向の願・ししんえこうのがん)
21 設我得仏国中人天不悉成満三十二大人相者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、仏と同じ三十二相のすぐれた相を完全に備えなければ、わたしは決して仏になりません。
(具足諸相の願・ぐそくしょそうのがん)
22 設我得仏他方仏土諸菩薩衆来生我国究竟必至一生補処除其本願自在所化為衆生故被弘誓鎧積累徳本度脱一切遊諸仏国修菩薩行供養
十方諸仏如来開化恒沙無量衆生使立無上正真之道超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他方仏土の諸菩薩衆が、私の国に生まれてくれば必ず一生補処という菩薩最高の位を得るでしょう、ただしその菩薩の願によってはその限りではなく、人々を自由に導くため堅い決心で多くの功徳を積み、すべてのものを救い、諸仏の国に行き菩薩として修行し、数限りない人々を導き、最上の証りを得させようとするものは別で、菩薩通常の各段階の行をこえ出て即座に限りない慈悲行を行うこともできるのです。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(還相回向の願・げんそうえこうのがん)
23 設我得仏国中菩薩承仏神力供養諸仏一食之頃不能遍至無数無量那由他諸仏国者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けて、諸仏を供養するにあたり、一度食事の短時間にそれら無数の国々に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。
(供養諸仏の願・くようしょぶつのがん)
24 設我得仏国中菩薩在諸仏前現其徳本諸所欲求供養之具若不如意者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、諸仏の前で功徳を積むにあたり、供養の品を望みのままに得られないなら、わたしは決して仏になりません。
(供養如意の願・くようにょいのがん)
25 設我得仏国中菩薩不能演説一切智者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、この上ない智慧について自由に説法ができないならば、わたしは決して仏になりません。
(説一切智の願・せついっさいちのがん)
26 設我得仏国中菩薩不得金剛那羅延身者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強い体が得られないなら、わたしは決して仏になりません。
(得金剛身の願・とくこんごうしんのがん)
27 設我得仏国中人天一切万物厳浄光麗形色殊特窮微極妙無能称量其諸衆生乃至逮得天眼有能明了弁其名数者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく色も形もくらべものなく極めてすぐれています。かりに多くの人々が天眼通を得てそのありさまを明らかに知り尽せるようであれば、わたしは決して仏になりません。
(万物厳浄の願・ばんもつごんじょうのがん)
28 設我得仏国中菩薩乃至少功徳者不能知見其道場樹無量光色高四百万里者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩でもし功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝やき、百万里の高さであることを知らないなら、わたしは決して仏になりません。
(道場樹の願・どうじょうじゅのがん)
29 設我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心に保ち、人々に説き聞かして、自由自在に弁舌をふるう智慧が得られないならば、わたしは決して仏になりません。
(得弁才智の願・とくべんさいちのがん)
30 設我得仏国中菩薩智慧弁才若可限量者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるならば、わたしは決して仏になりません。
(弁才無尽の願・べんざいむじんのがん)
31 設我得仏国土清浄皆悉照見十方一切無量無数不可思議諸仏世界猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、国土は清らかで明鏡に顔をうつすようにすべての諸仏の世界を照らし出して見ることができましょう、そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(国土清浄の願・こくどしょうじょうのがん)
32 設我得仏自地已上至于虚空宮殿楼観池流華樹国中所有一切万物皆以無量雑宝百千種香而共合成厳飾奇妙超諸人天其香普熏十方世界菩薩聞者皆修仏行若不如是者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、大地から天空まで宮殿・楼観・流水・美花など国内一切のものが宝物と芳香で成りその荘厳は天人の世界にすぐれその荘厳は天人の世界にすぐれその芳香をかいだ菩薩は皆、仏道に励みます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(妙香合成の願・みょうこうごうじょうのがん)
33 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類蒙我光明触其身者身心柔軟超過人天若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界のものが、わたしの光明にてらされてそれを身に受けたなら身も心も和らぎ、天人や人々をこえすぐれるでしょう、もしそうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(触光柔軟の願・そっこうにゅうなんのがん)
34 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類聞我名字不得菩薩無生法忍諸深総持者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界の人たちが、六字の名号を聞きて、菩薩の無生法忍と、教えを記憶して忘れない力を得られないならば、わたしは決して仏になりません。
(聞名得忍の願・もんみょうとくにんのがん)
35 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、六字の名号を聞きて、喜び信じさとりを開く心を起こし、女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、わたしは決して仏になりません。
(女人往生の願・にょにんおうじょうのがん)
36 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸菩薩衆聞我名字寿終之後常修梵行至成仏道若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の菩薩が、六字の名号を聞き、命終後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(聞名梵行の願・もんみょうぼんぎょうのがん)
37 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸天人民聞我名字五体投地稽首作礼歓喜信楽修菩薩行諸天世人莫不致敬若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の天人や人々が六字の名号を聞いて、土下座してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら天の神や世の人々は残らず皆、うやまうでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(作礼致敬の願・さらいちきょうのがん)
38 設我得仏国中人天欲得衣服随念即至如仏所讃応法妙服自然在身若有裁縫擣染浣濯者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、衣服を欲せば、思いままにすぐに現れ、仏の心にかなった尊い衣服を自然に身につけているでしょう。裁縫、染め直し、洗濯の必要はありません。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(衣服随念の願・えぶくずいねんのがん)
39 設我得仏国中人天所受快楽不如漏尽比丘者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ちきった修行僧と同じでなければ、わたしは決して仏になりません。
(常受快楽の願・じょうじゅけらくのがん)
40 設我得仏国中菩薩随意欲見十方無量厳浄仏土応時如願於宝樹中皆悉照見猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が思いのままに、すべての数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願いどおりに明鏡に顔をうつすように、宝樹の中にそれらをすべて照ら出してはっきり見ることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(見諸仏土の願・けんしょぶつどのがん)
41 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字至于得仏諸根闕陋不具足者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。
(聞名具根の願・もんみょうぐこんのがん)
42 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得清浄解脱三昧住是三昧一発意頃供養無量不可思議諸仏世尊而不失定意若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞けば、皆清浄解脱三昧を得て直ちに数限りない諸仏を供養ししかも三昧の心を乱さないでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(聞名特定の願・もんみょうとくじょうのがん)
43 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字寿終之後生尊貴家若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞きけば、命終後に人々から尊ばれる家に生まれることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(聞名生貴の願・もんみょうしょうきのがん)
44 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字歓喜踊躍修菩薩行具足徳本若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞けば喜び勇んで菩薩の修行に励み多くの功徳を完全に身に具えるでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(聞名具徳の願・もんみょうぐとくのがん)
45 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得普等三昧住是三昧至于成仏常見無量不可思議一切諸仏若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞いて皆、普等三昧を得て、仏になるまでの間、数限りないすべての諸仏の姿を身奉ることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。
(聞名見仏の願・もんみょうけんぶつのがん)
46 設我得仏国中菩薩随其志願所欲聞法自然得聞若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が聞きたく思う説法を自然に聞くことができないなら。わたしは決して仏になりません。
(随意聞法の願・ずいいもんぽうのがん)
47 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至不退転者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが、六字の名号聞いて不退転の位に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。
(聞名不退の願・もんみょうふたいのがん)
48 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至第一第二第三法忍於諸仏法不能即得不退転者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが、六字の名号を聞きて、直ちに音響忍、柔順忍、無生法忍を得ることができず。また諸仏の説法において不退転の位に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。
(得三法忍の願・とくさんぽうにんのがん)
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三種の阿弥陀仏
① 無量寿経 法蔵比丘の十劫成道の阿弥陀仏
② 法華経迹門化城喩品 大通智勝仏の十六王子として、西方極楽浄土に住して法華経を弘通する阿弥陀仏
③ 法華経薬王品二十三 釈尊の垂迹・化身の一人としての阿弥陀仏
① ■ 無量寿経
「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。・・・・ 成仏してより已来、おおよそ十劫を経たまえり。」
法華経寿量品 釈尊の 五百塵点劫成道(久遠成道)に遠く及ばない。
つまり、釈尊が元の仏で、阿弥陀仏は遥か後の仏。
浄土門の言う 「久遠実成の阿弥陀仏」 など、全く根拠のない妄説である。
② 法華経化城喩品には、大通智勝仏 第9番目の王子、阿弥陀仏は、西方の衆生済度の任を受ける。
この現実世界の娑婆世界の衆生済度は第十六番目王子の釈迦如来。
阿弥陀仏など全く他土無縁の教主。
この娑婆世界の衆生の教主ではなく、信仰しても全く意味がない。
③ 法華経薬王品 久遠実成が顕れ終わった後には、阿弥陀仏も久遠実成の釈尊の垂迹仏となることが示される。
以上、阿弥陀仏を本尊とすることは明らかに邪義
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【邪難】 5 ▼ 法華経は難信難解 難解難入 であるから、末法の劣機は救われない(趣意)
■ 方便品第二
諸仏の智慧は、甚深無量なり。其の智慧の門は、難解難入なり。一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり。
→ 法華経が凡智で計り難いほど勝れている、との意。
劣機の衆生を救えない、という意味ではない。
例
随喜功徳品 五十展転の功徳
分別功徳品 一念信解の功徳
■ 無量寿経
「難きが中の難き、此の難きに過ぎたる無し」 とある。
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【邪難】 6 ▼ 法華経を釈尊が説いたと証明せよ。
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反詰して曰く 「浄土三部経を釈尊が説いたと証明できるか?」
もし、「釈尊でなくとも良い。」とするならばなぜ信じることできるのか?その根拠。
法華経を釈尊が説いた、と歴史学的に証明することは不可能であろう。
それは浄土三部経も同じこと。
であるならば、教法の高低浅深により優劣を決判する以外にはない。
上記の通り、浄土三部経の教義内容は、明らかに法華経より劣っている。
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【邪難】 7 ▼ 地獄がどこにあるか歴史的事実で証明せよ。
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【破折】 実に愚か。
反詰して曰く 「では、西方十万億土はどこにあるのか、歴史的事実で証明せよ。」 以上。
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【邪難】 8 ▼ 「此の経、最第一」 という文がある。(趣意)
浄土三部経に限らず、どの経典にもそれらしい表現はある。
■ 法華経法師品第十
薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経
而も此の経の中に於て 法華最も第一なり
爾の時に仏、復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、
我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり。薬王、此の経は、是れ諸仏の秘要の蔵なり。
この一段を拝すれば、過去・現在・未来において法華経最第一、との意義が読み取れる。
過去・現在・未来の時期を明確に示しての「最第一」との表現は、法華経以外にない。
→、他経の表現を凌駕して法華経最第一の証拠。
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浄土門では 「法華経及び、聖道門を 捨てろ、閉じろ、閣おけ、抛うて 阿弥陀仏だけにすがれ。(趣意)」
■ 法華経譬喩品第三
「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん。地獄より出でて当に畜生に堕すべし、若しは狗・野干、或は驢(ろ)の中に生まれて身常に重きを負ふ。此に於て死し已はって更に蟒身(もうしん)を受けん。常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如くならん」
→ 堕地獄の業因を積む、大謗法、大邪教
浄土真宗系のブログにある、▼「無量寿経最第一」の【邪難】を【破折】する。
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【邪難】 9 ▼ 法華経 と 浄土三部経 (五時の教判の矛盾点)
天台の五時の教判の時代区分には多くの矛盾点が指摘される。
① 華厳経 の中に 祇園精舎 が出てくる。
成道後21日間に説かれたはずの華厳経の中に祇園精舎が出てくるのである。祇園精舎といえば、強信であったギッコドク園長者が釈尊に寺を寄進しようとした。ところが、その土地が祇多太子の所有であり「土地に黄金を敷き詰めなければ譲れぬ」と破格の条件を出してきた。長者は驚かず、土地を金貨で埋め尽くそうとした。その気概に驚いた祇多太子が、共に寄進されたのが祇園精舎である。そんな経緯で建てられた祇園精舎が21日間で建てられる筈がない。
② 華厳経には舎利弗、目蓮というお弟子が出てくる。舎利弗・目蓮といえば、釈迦十大弟子のトップに挙げられる両人である。
しかし、彼らが釈迦如来にお会いするのは成仏後、7~8年ごろである。当然21日間に出てくるはずがない。
③ 阿含経の中に釈尊入滅の相が説かれている。阿含経といえば華厳経の後に説かれたお経だといっている。ところが阿含経の中に80歳で入滅される釈尊のお姿が説かれてあるのだから不思議である。これからも分るように釈迦一代の教えを時代区分すること自体が問題なのである。経典はそのような構成になっていないからである。
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【破折】 → 【「天台の五時の教判の時代区分には多くの矛盾点」 というが、まったく矛盾していない。
日蓮大聖人は 『守護国家論』 に 五時教判 を示される中で、
■ 「大部の経大概(おおむね)是くの如し。此より已外諸の大小乗経は次第不定なり。或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く。皆義類を以て之を収めて一処に置くべし」(平成新編御書122㌻)
と示されている。
すなわち天台の五時教判は釈尊五十年の説法を最初から順番に並べたものではなく、経典の意義・内容を鑑み、五時に括って分類したものであるから、各経典の説法時期に前後があって当然である。】
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【邪難】 10 ▼ 法華経 と 浄土三部経 (浄土三部経 は 方等時 の経典か)
天台の五時の中でもっとも誤りとされるところは浄土三部経が方等時に属する方便の経だとする点である。
その根拠であるが、天台は方等時には二乗(声聞・縁覚)を弾可(しかりつける)する二乗弾可の教えが説かれてあるとしている。
大無量寿経には「二乗非所測」と二乗の測りしるところに非ずと二乗を弾可している。
そして、浄土三部経は最高の教えである一乗の妙典である法華経の導く為の方便の経典であると位置づけた。
ところが大無量寿経には「一乗を究竟して彼岸に到る」とあり、弥陀の本願こそ一乗究竟の極説であることは明白である。
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【破折】① この 「一乗を究竟して彼岸に到る」 との箇所は その段の冒頭はこうである
■ 『仏、阿難に語りたまわく、
「彼の仏国に生ずるもろもろの菩薩等は講説すべき所に常に正法を宣べ、智慧に随順して違なく失なし。』
つまり、極楽浄土に住まわる菩薩衆が 正法 を修行する姿と功徳を説かれているのである。
その中に 「一乗を究竟して彼岸に至る」 とは、まさに 法華経 を修行しているとの文証であり、極楽浄土では結局 正法=妙法蓮華経 を修行して
究竟して 彼岸=成仏 できる というまさに文証である。
一乗 が 法華経 であることの文証は以下に列挙してある。
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【破折】② →【たとえ 浄土三部経 に 「一乗を究竟云々」 の文があろうと、法華経には、
■ 「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう」(方便品・法華経102㌻)
■ 「十方仏土の中には 唯一乗の法のみ有り 二無く亦三無し 仏の方便の説をば除く」(方便品・法華経110㌻)
■ 「今此の経の中に、唯一乗を説きたもう」 (信解品・法華経198㌻)
■ 「若し人信せずして 此の経を毀謗せば 則ち一切 世間の仏種を断ぜん」(譬喩品・法華経175㌻)
■ 「我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり」(法師品・法華経325㌻)
■ 「此の経は、方便の門を開いて真実の相を示す」 (法師品・法華経328㌻)
■ 「我仏道の為に 無量の土に於て 始より今に至るまで 広く諸経を説く 而も其の中に於て 此の経第一なり」(宝塔品・法華経354㌻)
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● 法華経最第一 の文証
方便品第二
■ 正直に方便を捨て 但無上道を説く
法師品第十
■ 「已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」
法師品第十
■ 「薬王、今汝に告ぐ、我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり」。
見宝塔品第十一
■ 我仏道の為に 無量の土に於て
始より今に至るまで 広く諸経を説く
而も其の中に於て 此の経第一なり
安楽行品第十四
■ 此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り、
薬王菩薩本事品第二十三
■ 海為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て、最も為れ深大なり。
■ 須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。諸経の中に於て、最も為れ其の上なり。
■ 衆星の中に、月天子最も為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。千万億種の諸の経法の中に於て、最も為れ照明なり。
■ 帝釈の三十三天の中に於て王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。
■ 仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。
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● 法華経以外は不可
方便品第二
■ 世尊は法は久しくして後要(かなら)ず当(まさ)に真実を説き給ふべし
■ 十方仏土の中には 唯(ただ)一乗の法のみ有り二無く亦(また)三無し
■ 諸仏世に出でたもうには唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず
■ 若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば
我則ち慳貪に堕せん 此の事は為めて不可なり
譬喩品第三
■ 今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ能く救護(くご)を為す(※ 釈尊以外は不可 本尊足り得ない 依枯依託成り得ない)
等と説かれており、法華経が一仏乗の最勝の経典であることを動かすことはできない。
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さらに、法華経には
① 女人成仏・
② 悪人成仏・
③ 二乗作仏、
④ 十界互具・百界千如・一念三千
⑤ 久遠実成 (仏の本因・本国土を明かし、衆生との結縁の次第を明かす)
が説かれて、一切衆生の成仏の道が開かれている。
これに対し、浄土三部経にはこのような法門はまったく説かれていない。
一切衆生の成仏を説き明かしていない経典には、一切衆生を救う力はない。】
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【邪難】 11 ▼ 法華経と浄土三部経(観無量寿経は法華経より前の経か)
観無量寿経 で 韋提希夫人 が 釈尊 に 「提婆がなぜ、あなたの従兄弟なのですか」 と尋ねている。
その答えを法華経の中で答えている。
だから 観無量寿経 より、 法華経 が後だという。
しかし、この主張は当てはまらない。
・観無量寿経 で 韋提希夫人 が尋ねている時、 釈尊 は無言の説法の途中であったから答える必要がなかった。
・法華経 は 舎利弗 に対して答えているのであり、 韋提希夫人 の問いに対しての返答ではない。
・たとえ 韋提希夫人 の問いに対しての答えなら、 方等時 からどんなに短くとも20年以上の時間が経っているのに、そんな忘れたころになぜ答えられるのか。
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【破折】 → そもそも、このような主張はしていない。 全くの事実誤認である。
もし、反論するならば、その当該箇所を、法華経より示せ。
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