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▼ ※@「解釈を差し挟む余地が生まれるから、言葉による伝法を釈尊はあまり信じず、弟子に説法をメモする事を禁じたのです。」
実践して悟る。
つまり、密教がお釈迦様の本意だったと言う事です。

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   ★ ↑ いやはや〜〜。真如教徒はこんなこと書いて投稿してたんだ〜。
いや、実は対論している時は、投稿の始めの部分をちらっと見て、今回の対論の核心部分でないと判断した箇所は、じっくり読んでなかったんですよね〜。

▼ ※@「解釈を差し挟む余地が生まれるから、言葉による伝法を釈尊はあまり信じず、弟子に説法をメモする事を禁じたのです。」

いやいやいや、、、これ一体誰がこう言ったの?
真乗でしょう?
自分の方こそ自分の宗派理論でメチャメチャもの言ってるじゃん。

研究者によると釈尊在世当時は本当に尊いものは書かずに命で受け止めることが作法・慣例・しきたり・決まり事だったということである。
それは仏教に限らず、バラモン教においても同様で、真の尊い教えは暗誦して伝持していったそうである。
しかし、だからといって言葉を信じていなかっただなんてとんでもない。
釈尊がいかに教説を大事にしていたかその一端を示そう。

妙法蓮華経如来寿量品第十六
爾の時に仏、諸の菩薩、及び一切の大衆に告げたまわく、
諸の善男子、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし
復大衆に告げたまわく、
汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし
又復、諸の大衆に告げたまわく、
汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし
是の時に菩薩大衆、弥勒を首と為して、合掌して仏に白して言さく、
世尊、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし
是の如く三たび白し已って、復言さく、
唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし

   ★ ↑ もうこれ以上何を言う必要があろう。

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密教が低劣な下等な教えであることは、もう破折し尽したので、今更ここでとやかく言う必要はない。

33 大問題! 金剛薩?(こんごうさった) はどうやて肉体のない法身である大日如来から法を授かったのか? 
34 大問題! 真言付法の第三祖 龍猛 は 竜樹菩薩ではなかった? 
35 大問題! 龍猛 は 金剛薩? などいう得体の知れない もの からどうやって法を承けたのか?
36 なんと! 真言宗付法の第四祖 龍智は 寿命700歳だって!え〜〜〜?? これをまともに信じている人はいるのか?
37 真言宗伝持 第5祖 善無畏 第6祖 一行 は、なんと!天台大師の一念三千と、法華経寿量品の久遠実成を盗み取って、真言密教へパクっていた! 
38 弘法の大矛盾、大悪党ぶりを徹底的に暴く
39 対論相手が 真言宗の伝持の八祖が偽りだったことを認める  『ああ!確かに論破されている!』

この辺を見れば誰でも一目瞭然。

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で、ここで一考察。

大概、新興宗教は「考えなくていいの。ただ実践することで分かるのよ。」というところが多い。

創価学会然り。(昔、日蓮正宗創価学会時代は違ったがね。)
顕正会然り。
幸福の科学
霊友会
立正佼成会
etc.。。。
今迄多くの新興宗教の教会長クラスと対論してきたが、ほぼ全てがこの類である。
なぜそうなのか? 簡単ですよね。
これは、自宗の教義を少し頭の良い者が論理的に追及していくと必ず矛盾・破綻が露見してしまうからである。

そして、他門との法義論争を嫌う傾向にある。
これも上記と同様の理由。
他門の少し賢い者だったら、その宗派の教義の矛盾を追及され暴かれてしまうからである。

この真如教徒も同様の洗脳下にある。
最初は真如教徒にしては珍しく論議を吹っかけてきたのである。
しかもこの教徒は自分は相当に賢い、どんな奴でも論破できる。と自負していたのであろう。
事実今まで、どんな者と論争しても恐らく勝ち抜いてきたであろう。(どんな卑怯で姑息な方法を使ってでも。)
この者の論争の仕方は、まさにディベートであって、どんな方法でもいいから相手を言い負かし、自説が正しいことにすればいい、という方式である。
そのために繰り出してくる理屈は、形振りかまず、とにかく言い抜いて、それを論破されそうになると、また形振り構わず、理屈を捻り出し、、、、とこれをどこまでも続けて、相手が呆れてバカバカしくなって諦めるのを待つ。
そしてそこで勝利宣言をする。「向こうは逃げた。私は勝った。私の理論が正しかった。」と。こういう手法である。
しかし、今回はそうはいかなかった。
そもそも、真如苑如きの、伊藤真乗如きの教義では正統・王道の仏教である日蓮正宗に適うはずもない。
ただ、この教徒は、自宗に入れ込んでいるから当然真如苑の方が正しい、と思い込んでいる。
しかもかつて創価学会員だったというから、よけい自信がある。
自分は創価学会を卒業した身だ。
ところが彼の盲点は、創価学会などは、真の日蓮大聖人の教義を学んでいなかった出来損ないの集団だったということである。
その上、当方には生憎、論議に集中できる時間が豊富にあった。
彼は普通に仕事をしている。
私の追及や反論に対してどんなに理屈を捏ね回して書いてきても、即また再反論されてしまう。
しかも当方は諦めない。そこは創価学会の教宣部らとの文書対論で鍛えに鍛えられている。
絶対に諦めない。どんどん破折文書がUPされる。
屁理屈がもう間に合わない。しかも論理的に完全に反論不能な案件がどんどん増えて山積みされていく。。。。
そういう心理状況だったんですね。
やりとりしていて、それは手に取るように分かっていた。
そういう状況に追い込まれてきたものだから。伝家の宝刀をチラつかせ出したのである。
つまり、「言葉じゃないんだ」
これである。事実上の論争からの逃避。遁走宣言。
しかし、そもそも論争を吹っかけてきたのは真如教徒からである。
このことを本人も知っているので、あからさまに「論争拒否」はできない。
で、ここがこの者の姑息なところ。
「仏教は言葉じゃないんだ。理屈じゃないんだ。ただ実践で体得するものなんだ。」
これまさに、先ほど指摘した新興宗教の信者の思考を停止させる指導性である。
そして論議拒否の姿勢である。
ちょこっと外に出て日蓮正宗信徒と打ち合いをしてみたら負けそうになってきたので、結局お母ちゃんの懐へ逃げ帰っていくわけである。

ま、試合も終わったことだし、対局を振り返って解説してみました。
今後閲覧者の皆様が邪教徒と対論する時の参考にしてください。
読み直さないので、乱筆乱文、誤字脱字はごめんなさい。


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