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真如宛

● 沿革
● 長男死亡
● 有罪判決
● 次男死亡
● 本尊
● 実践

破折ポイント

● 教祖一家の内紛 
● 本尊迷走
● 涅槃経には、寝釈迦像・不動明王・十一面観世音菩薩を本尊とせよとは説かれていない
● 仏性と霊能は関係ない
● 霊能者はマニュアルで指導
● 霊魂 など仏教ではない
● 真如霊界など仏典にない
● 抜苦代受 など単なる言い訳・こじつけ
● 結局 金
● 涅槃経は最勝の経ではない
● 法華経と涅槃経の比較
● 真言宗からも逸脱
● 伝統仏教・真言宗の権威にすがる
  @ 涅槃経を依経 矛盾
  A 釈迦像を祀る 矛盾
  B 系譜の矛盾
● 本音
● 魔の眷属
● 現証

参考 霊能は心理的作用
    15億で仏像落札
    際限ない寄付金

● 信者への忠告
● 教祖一家の離散
● 教祖一家の離散の矛盾

● 補足
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【創立】 昭和11年2月8日

【創始者】 伊藤真乗・友司夫妻

【現継承者】 伊藤真聡(真乗の三女)

【信仰の対象】 教主が彫刻した久遠常住釈迦牟尼如来

【教典】 『大般涅槃経』

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団の沿革

▲ 真如苑(しんにょえん)は、伊藤真乗(しんじょう)・友司(ともじ)夫妻が「誰でも霊能者になれる」と主張して設立した、真言宗系の在家教団です。

  ▼「誰でも霊能者になれる」と主張したのは事実ですが、正確には誰でも涅槃経の説く「常楽我浄」に至れると主張しており、霊能はその道標に過ぎません。

   ★ → 常楽我浄 の境界とは具体的にはどういう常態か。実際それを体達したのか?


▲ 当初は真言宗系を自称 途中から涅槃経を所依の経典に

  ▼ また、真言宗系とは何か?真言宗の定義に依ります。
本尊は大日如来ではない(大日如来は化佛)し、宗祖は伊藤 真乗です。

   ★ → 宗祖 伊藤真乗 とする仏教的根拠は?


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 易鑑定からのスタート

伊藤文明(真乗の本名)は明治39年農家の二男に生まれましたが、彼の生家には「甲陽流病筮抄(こうようりゅうびょうぜいしょう)」という易書が伝えられており、小学校に通う頃から父にこれを教え込まれました。

文明は23歳の時、「大日本易占同志会」に研究生として入会し、一年で所定のコース終了。周囲の人間に占いを施す。

そして昭和7年、27歳の時に又従兄弟(またいとこ)にあたる内田友司と結婚し、このころから易による鑑定や人生相談などを始めました。
友司の祖母は霊能者。伯母の油井玉恵に伝承されたという。

かくして、真乗は易占い、友司は霊能で信者獲得開始。
当時は、新興宗教への特高の目が厳しく、それを逃れるために易の研究生時代に知り合った人物の仲介で
昭和10年から11年にかけて、文明は成田山新勝寺と関係を結び、自宅にその講中(信徒組織)として「立照閣」を設立し、本尊を「大日大聖不動明王」と定めました。
十年暮れ、不動尊像を入手。
11年正月から夫婦で寒行。妻の友司はその満願(まんがん)の日に神がかりとなり、同席していた伯母の玉恵から霊能者としての相承を受けて霊能者になったのだそうです。

昭和11年2月、伊藤文明・友司夫妻は宗教一筋の生活に入ることを決意しました(真如苑では、この日を立教の日としています)。

ところが同じ年の6月、3歳の長男・智文が風邪をこじらせて急死してしまいました。

▲  これは設立間もない教団にとっては大事件であり、この解決のために夫妻は高尾山にこもって荒行を行い、「長男の死は、他人の苦の身代わりになった(抜苦代受)」と勝手な結論を導き出しました。

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  ▼ 長男、智文の没後、100ヵ日法要の時に友司が智文を霊視しました。
地獄のような燃え盛る炎の中から人々を救っている姿が示され、智文の死を機会にそれまで祈祷の願い事しかしなかった人々が、文明(真乗)の話に耳を傾ける事になったと言います。

   ★ → 一体、どこに書いてあることか?
しかもその真偽はどういう基準で判定しているのか?
客観的証拠は提示できるのか?
つまり、教団が、このような第三者が客観的に確認もできないようなことを言うことなど、何とでも言える、ということ。

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  ▼ また、このころから接心修行で霊能者が苦痛を直に感じたりすることがなくなり、信者の先祖霊や関係霊が示されるようになったと言います。


   ★ → 全く根拠不明。教団関係者の宗教的主観的な発言など、極めて信用度が低い証言の類。

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  ▼ ただ、ある事実についてそれを善意に捉えるか、悪意に捉えるかはそれを聞いた人次第です。

   ★ → 真言亡国 男子早逝 という厳罰を地でいっているまさにその象徴的な現証ではないか?と指摘しているだけ。
善意、悪意、という感情論で指弾している事柄ではない。
敢えて言うならば、その男子早逝に代表される真言系害毒を、誠意と勇気を持って相手に伝える行為は、むしろ「善意中の善意」であろう。


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  ▼ 私が特筆したいのは、全てを投げうって半年たらずで長男を亡くすという目に遭った教主夫妻が匙を投げなかったという事です。

   ★ → 誤った宗教の害毒に毒されてしまえば、つまりは魔に魅入られれば、もはや通常の人間性豊かな感覚は失われ、どんな不幸もそれを不幸と考える感覚が麻痺してしまう。

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  ▼ 私だったら「インチキな宗教をしてしまった」と嘆き、恨み、さっさと元の職場に復職したことでしょう。というか、立ち直れずに自殺するでしょう。

   ★ → 魔に魅入られた者達は、正常な思考能力を失い、正しいものの見方が出来ず、その結果、正しい反省、慙愧ができない、ということ。


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  ▼ しかも自分の家内安全を願っての立教ではなく、「こんなに悩み病める人が多いのなら、自分としても二束の草鞋ははけない」と衆生を救うために立教しています。

   ★ → どの宗教でも、立宗神話など何とでも言える。書ける。


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  ▼ 長男、次男の早逝の件は世間の見方とは裏腹に、私は真乗夫妻がニセモノの聖者ではなかった事の証だと捉えています。

   ★ → それは、貴方が、既に魔に魅入られて、正常な価値判断が出来なくなっているだけの事。

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  ▼ 誰にも形では真似できない事だと思います。

   ★ → そんなことより、真言の修業にのめり込んだら、結果、男子二人とも幼くして失くしてしまった、この現実の方が重大事。
「師は針の如し、弟子は糸の如し」
つまり、宗祖の姿に弟子・信者は似てくる。
宗祖の方向性が間違っていれば、その苦痛・苦悩の道を万人に味あわせることになってしまう、その罪業がいかに大きいか深く思慮すべき。

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  ▼ お釈迦様も、伊藤夫妻も、教えてくれるのは
「困難のない人生を求めるよりも、困難を乗り越える智慧を求めなさい。そして、その知恵を他にも施して他の人生も豊かにしなさい」
という事ではないでしょうか?

   ★ → 男子早逝 という真言亡国の害毒を世の中にまき散らしても、云う事だけは誰でも、綺麗ごとは言えるものである。
では、現実に真如苑信徒が、男子早逝の害毒を知らず内の飲まされ続けながら、一体どういう方法で、
  ▼ 「困難のない人生を求めるよりも、困難を乗り越える智慧を求めなさい。そして、その知恵を他にも施して他の人生も豊かにしなさい」
 このようなことを世に為せるのか?
美辞麗句だけならば、政治家でも、実業家でも、夢想家でも、誰でも言える事。

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  ▼ そうした私の解釈はともかく、長男、智文の死を境に接心で先祖の状況が解るようになり、接心がスムーズになったと言う事実から抜苦代受という教義が生まれたようです。

   ★ → これなどはまさに真如苑教団内の理屈であって、社会的に何ら客観性、正当性を持たない内輪話である。
しかも、「接心」「抜苦代受」など、そもそも、正当な仏教的行為なのかどうかすら論証、証明、されていない、教団内の単なる理論と行動に過ぎない。

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「まこと教団」から「真如苑」へ

▲ 昭和13年8月、伊藤文明は現総本部の地に「真澄寺(しんちょうじ)」を建立し、真言宗醍醐派の「立川不動尊教会」を設立しました。

  ▼ 立川不動尊教会の設立は昭和13年10月4日です。

▲ そして同じころ、文明は京都にある真言宗醍醐派の総本山・醍醐寺三宝院で出家得度し、昭和16年には「大阿闍梨(だいあじゃり)」の位を得て、名前を文明から真乗に改めました。
   
  ▼ 文明の出家得度は昭和11年5月19日です。

文明を醍醐寺に縁付けたのは浦野という僧侶です。文明の出家当時の房号は「天晴」。
昭和13年12月に房号を「真乗」、院号を「金剛院」と醍醐寺第96世座主佐伯 恵眼門跡より与えられています。
当時は、今のように誰でも灌頂を頂ける時代ではなかったそうですが、佐伯門跡は直々に真乗に伝法灌頂を授け、昭和18年3月5日に畢えています。
そして昭和23年、伊藤真乗は大衆教化(たいしゅうきょうけ)を目的として「まこと教団」を設立しました。
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▲ ところがその2年後、教団は元教団幹部から「教団内の修行場でリンチが行われている」と告訴され、真乗は検挙・起訴されました。
これがいわゆる「まこと教団事件」です。
この事件で、真乗は懲役7か月(執行猶予三年)の有罪判決を受けました。

そして教団は、この事件によるイメージダウンを回避するため、昭和26年6月に教団名をまこと教団から「真如苑」に改称し、真乗が教主に、友司が苑主に就任しました。

  ▼ 真如苑の「真如」は、まこと教団事件当時、病床にあった真乗の二男が予言した言葉と佛を表す言葉である事から「真如」の名を頂き、囲いが無く誰でも入って来られる教団という意味で「苑」の名を頂き「真如苑」としたもので、イメージダウン回避の狙いもあったのでしょうが、一番重要な要素は「心機一転」だったという話を聞いております。

   ★ → それも教団内からの話であって、教団が自己正当化、もしくはイメージUPするために何とでも言える事。(それは別に真如苑に限られて事ではない。)
問題は、そういうカラクリがどこの教団でも当然行われているのに、その教団内、あるいは教団上層部から打ち出されている内容を、無批判に信じて理性的、客観的に判断せずにいる姿勢が、無智・頑迷ということ。

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その後の展開

昭和27年7月、15歳の次男・友一が、カリエスで闘病の末に死亡しました。
このころから教団は、所依(しょえ)の教典を真言密教(しんごんみっきょう)経典から『大般涅槃経』に転換しました。
そして昭和32年には、真乗が自らの手で身長約5メートルの涅槃像(寝釈迦像)を彫刻し、これを本尊としました。
そして昭和42年8月、妻の友司が関西巡教中 急死。55才
昭和44年には真乗の再婚問題をめぐって伊藤家内に利権争いが生じ、三女・真砂子が自殺未遂事件を起こし、結果として長女と次女が教団を離脱しました。
昭和58年、三女・真砂子が真聡と改名し、平成元年の真乗の死後、真聡が苑主となり、四女・真玲がそれを補佐する体勢で、現在に至っています。
60年頃、真乗への反発から、長女・次女が離脱。(創価へ)

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教義の概要

いろいろな本尊

教団では、昭和32年に真乗が刻んだという「久遠常住釈迦牟尼如来(寝釈迦像)」を本尊としています。
しかしこれは立川総本部内にある発祥第一精舎(ほっしょうだいいちしょうじゃ=道場)に祀(まつ)られていて、
同本部内の真澄寺には「涅槃法身不動明王」と教団創立時の「大日大聖不動明王」を安置し、
さらに発祥第二精舎には「十一面観世音菩薩」を祀っています。
信者宅 写真本尊「久遠常住釈迦牟尼如来(寝釈迦像)」

教団ではこれらの立てわけについて、

(1)釈迦如来・・・真理身としての自性輪身
(2)観世音菩薩・・真理身は法を説かないので、正法輪身として教えを説く
(3)不動明王・・・教えを守らない者に強制的に守らせる教令輪身

というように定義し、これらの仏像等の建立によって「衆生の化導法(けどうほう)が整った(=三輪身満足)」などと言っています。

▲ さらには「不動明王は真言密教(東密)の流れをくみ、十一面観音は天台密教(台密)と縁が深く、そこに涅槃経に即した涅槃像を祀ることにより、東密・台密・真如密の日本三密が成就した」ということも言っています。
↑どこの経典にもこのような説はない。真乗の思いつき、こじつけ以外の何物でもない。

  ▼ これを宗教のオリジナリティと捉えるか、こじつけと捉えるかは読む人次第です。

例えば法華経には事の「一念三千」がない。ですから日蓮大聖人は如来寿量品に事の「一念三千」を沈めたとします(ここは議論の余地があるでしょうが「文底秘沈抄」を書いている事からそう断じます)。
御書以外のどこにそんな事が書かれているでしょうか?
本尊に髭曼荼羅を据える事や、その中に法華経とはほとんど関係がない愛染明王が描かれている事も同様です。
今まで誰も説いたことのない事を説かないのであれば一宗派を立てる必要などありません。
凡人ならざる方の言い分が全て理解できるのであれば、教えなど求める必要はないでしょう。

   ★ → 宗教の本来的な姿とは、存在の全て、また生命の究極的真実の姿を説き明かし、その実相に即して、真の幸福を実現するためでなけらばならない。
各宗教によって説き示される、宇宙観・存在の在り様、生命の姿、教義、実践、修行法などなどは宗教によって、まさに千差万別である。
しかし、存在の本質的姿、生命の究極的真実が、見解の異なる多種多様な解釈になるはずはない。
良く言う、「真実は一つ」である。
では、なぜに宗教ごとに種々雑多な本尊や教義や修行法が乱立しているのか。
簡単である。つまり 「存在の全て、また生命の究極的真実の姿」を悟りもしない者達が、好き放題に、勝手気ままな宇宙観・生命観を説き、それに基づき教義を立て、本尊を建立し、修行法を導き出したからである。
しかし、「真実は一つ」でなければならない。
つまり、正しい宗教は一つに帰結する道理である。
では、正しい宗教をどう判定するのか。
ここに、厳正な宗教選別の基準が必要となる。
ここに、実に合理的な判断基準として、「五重相対」がある。
日蓮大聖人の創始されたものである。
これは、自分が日蓮大聖人を信奉しているから無批判に言うのではなく、あらゆる角度から客観的に見て、正当性があると判断できるからである。
今回の論点は、真如苑信徒への論なので、この五重相対の全ての説明は省くが、その第一項目 内外相対について少し触れておきたい。
この内外相対はつまりは、この現実世界を貫く方程式である因果律に則り世界の在り様や生命を説き明かしているかどうか?による判定基準である。
つまり、全ての事象を「因果律」で解明し切れているかどうか?
簡単に言えば、全ての事象の原因を解明しているのか?という観点である。
この観点で分析すれば、仏教以外、例えば、キリスト教などを代表とする「天地創造」を「神」という実体の知れない何者かが行った、とする類の宗教は全部アウトである。
神そのものの「存在原因」が解明されていないからである。
ここで、仏教以外の全ての宗教・哲学は排除されなければならない。
つまり、仏教の祖、釈尊以外の聖人・賢人と言われてきた人々は、全てアウトということになる。
ここまでは、貴方も十分承知の話だと思います。

問題はここから。

では、その真実実相を悟られた釈尊はその後の世界をどのように予言されていたか、見通されていたか、ということが重要。
ザックリ言えば、
釈尊は滅後概ね2000年以降に、自らの仏法が滅び功力を失う。
その時に真の仏の悟りと力を持った者が顕れ、その後、真の法華経に依って長遠の遠き将来まで、衆生を救済する。
ということ。

末法の教主は誰か?

伊藤真乗氏が 仏の悟りを得ているという、前仏、釈尊による予証がない限り、信用すべきではない。
むしろ魔説として厳しく排除すべき。

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立川総本部敷地内

地蔵菩薩 獄苦代受

稲荷 弁財天 護法善神

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▲  教義と実践

霊能 易占い 真言密教を混ぜ 
そこへ、釈尊(お釈迦様)最後の説法である『大般涅槃経』を根本の経典とし、この経典に説かれる「一切衆生・悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)」の経文によって、誰もが仏性を有し霊能を具(そな)えていると定義し、その霊能を開発し霊位を向上させることによって「常楽我浄(じょうらくがじょう)」の歓喜の境涯(きょうがい)を顕(あらわ)すことができるとしています。
(仏性=霊能 と勘違い)

  ▼ 間違いではありませんが、仏性=霊能ではありません。
より近い定義としては 仏性=良き個性 です。
私の経験上、 霊能 = 良き個性 ではないですし、
もし霊能=仏性なら私は真如苑を辞めます。
霊能者でも個性に問題がある方は非常に多いですし、真如苑を辞める霊能者もたくさんいます。

   ★ → ▼「霊能者でも個性に問題がある人は非常に多い」  →  これこそ問題ではないか
本来正しい宗教ならば、修行を積んだ者達は、一部の例的な不徳も者もいようが、概ねは人徳が備わって、人からも尊敬される人格者になっていかなかったら、何のための宗教であろうか。
また、釈尊がそういう修行を積んだ者の中に「個性に問題のある人が非常に多い」宗教を認めるであろうか。
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朝夕に写真本尊に涅槃経読誦 

▲>さらに、教団では「三つの歩み」を信者に義務づけています。

  ▼義務でも強制でもありません。

自主的に行うものでなければ意味なしとされています。
ただ、それが建前になってしまい、指導的立場の教徒が被指導的立場の教徒に反強制的に行わせるという事は事実としてあると思います。

   ★ → だとすればそれも教団そのもののの宗教として歪んだ教義・本尊からくる人間性の破壊ではないか?

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(1)「お救(たす)け」・・・布教・勧誘活動
(2)「歓喜」・・・金銭の寄付
(3)「奉仕」・・・教団のさまざまな活動に労力を提供

これらを行うことによって、自身の持つ「悪因縁(あくいんねん)」を断ち切ることができるなどと教えています。

▲>さらに、この三つの歩みを行う基盤となるのが、霊能者の指導により菩提心(ぼだいしん)の向上を目指す「接心」と呼ばれる修行です。


  ▼ 上の図表は接心の条件ではなく、「会座」参座の条件ではないでしょうか?


▲ ちなみに真如苑でいうところの「霊能」「霊能者」というのは、世間一般や他の新興宗教・神道の概念とは少し違い、

この教団では「霊能」について、

▽ 「接心修行を中心にして、そこに顕現される涅槃の正法に即した神通変化を示す力」
▽ 「人々の仏性をおおっている三毒の妄炎を吹き消して涅槃を示す智」

などと定義し、さらに

「霊能者」については、

▽ 「迷いの中に生きる人々を、真如の教えを通して常楽我浄の世界に導く道標者」

などと意味不明の定義しています。

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  ▼ 真如苑の霊能とは、涅槃経の理を学ぶためのものであり、霊能者とはそれを取り次ぐ経験者です。

時には先祖が示されたり、時にはその霊能者が知るはずもない事実を当てられたりしますが、それは必要に応じてのことであり、目的はあくまで涅槃経を身に着ける為です。

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▲ さて「接心」とは、信者が、教祖の長男・次男の霊と感応した霊能者と対座して、霊能者が話す霊言(ミディアム鏡)を聞き、問題を解決したり心を浄(きよ)めたり、霊能を開発するというものです。

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  ▼ 長男・次男と感応できる霊能者は出家の職員で行を終えた霊能者だけです。
普通の霊能者は長男・次男の指示を受ける眷属霊を感応します。

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教祖の長男(智文=教導院)と次男(友一=真導院)は若年で死去しましたが、教団では「これは信徒の苦悩を代わりに受けて(抜苦代受)早くこの世を去ったのだ」と教えていて、信徒の病気が治ったり苦難から救済されるのはこの二人の働きによるとして、「両童子様」と呼んで祀っているのです。

またこの「接心修行」にはいくつかの種類があり、

▲ (1)「向上接心」・・・自身の修行として月に1回は必ず参加する(※ある信者から聞いた古い情報であるが 1000円)

  ▼ 現在では、月に1回が望ましいというものです。18歳以上は1,000円、それ以下は500円です。

(2)「相談接心」・・・霊告によってさまざまな悩みを解決するための指導を受けること(※ 2000円)

  ▼ 3,000円です。

悩み解決と言っても涅槃経の理に沿った上での事ですから、人間的に必ずしも良い方向性が示されるとは限りません。

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(3)「特別相談接心」・・・(2)を特別に行ってもらうもの(※ 

  ▼ 7,000円だったと思います。

相談接心よりも霊的に深く問題を見つめる為に修するものです。

(4)「鑑定接心」・・・事業・縁談などについて、易で鑑定してもらうもの(※ 1万〜2万)

などです。

  ▼ 8,000円だったと思います。
鑑定接心は人間の利益的な側面が確かに強いと思います。
よって、あまり頻繁に修するものではなく、修する前に自分の指導者や事務局への相談が必須と言われています。

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もちろんこれらの接心に参加するには、必ず寄付金が必要になります。

何百回もの接心や、霊位を向上させるための
「大乗会」
「歓喜会」
「大歓喜会」
「霊能会」
という4段階の
「相承会座(そうじょうえざ)」
に参加することによって、

 信者は霊能を磨き、仏性を開発することができるというのが
真如苑の教義
なのです。

真如苑では、入信者に対して「小乗」→「大乗」→「歓喜」→「霊能」という段階的ステータスが用意されていて、これによって信者は競争意識を煽(あお)られ、ネズミ講のような形の中で信者集めに狂奔(きょうほん)し、お金を積み、行を重ねる、というようなシステムになっています。

  ▼ 霊能者とは涅槃経の理を取り次ぐものであると申し上げました。
他人に対して教化したこともなく、自ら涅槃経の理を実践して困難を乗り越え、信仰の実績を持たないものに初心者をはじめとする他の教徒に教えを取り次げるでしょうか?霊位がステータスだなどと言うのは誤解です。それだけの信心の実績の証という意味では確かにステータスでしょうが、別にそれでお金がもらえるわけでもちやほやされるわけでもありません。
「信心している人」としての責任の方が重いです。下手に愚痴も言えなくなります。
ちなみに、ちやほやされれば霊能者でも信心が狂います。
霊能者で真如苑を辞めていく霊能者は概ね「金銭」「権威」「情」のどれかで辞めます。
故に霊能者であってもある意味、信心経験者に過ぎずただの人です。
私の指導者も高い霊能をお預かりしていますが、私は人格者だとは思っておりません。

   ★ → 「高い霊能をお預かり」している人が、人格者ではない」 。。。。  こんな矛盾に気がつきませんか?

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邪宗教である理由

 本尊に迷走する真如苑

昭和10年の不動明王に始まり、

昭和32年には寝釈迦像、さらに

昭和54年には十一面観音を加えて、

「衆生の化導法(けどうほう)が整った(=三輪身満足)」などと主張した伊藤真乗ですが、それでは

● 衆生の化導法が整う以前の信者たちというのは「救済されなかった」ということになります。

その時々の思いつきで本尊を追加したりするから、こういうワケの分からないことになるのです。

信仰の根本である本尊がこの有り様では、どんなにもっともらしい理屈をこじつけても、ご都合主義の批判は免れません。

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  ▼ この方のHPは拝見していますが、私と佛教観・仏像観の違いがあります。
「救済されなかった」とはどういう意味でしょうか?
そもそも佛教というのは、人を悟らせる教えです。人を悟らせるのが救いと考えるのか、人の困難(家内安全・病気平癒等)を解決するのが救いなのか?
仏教は、本来は人を悟らせるものですが、普通の人はそんな事には興味がありません。
そこで加持祈祷による利益というものが注目されました。佛の力で病を治すとか、安産祈願するというニーズに仏教は答えて行きました。
その過程で、信心とは商売繁盛や病気平癒の利益を願うものという風潮すら生まれました。

   ★ → そもそも、この仏教の捉え方が間違っている。
真言系の目先の現世利益のため、呪い、戦勝祈願 などの祈祷は、それ自体が、既に本来の仏教の教えでなはい邪教なのである。

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◎ 真言が邪教である所以。

「四十余年未顕真実」
大日経 金剛頂経
 蘇悉地経 は 未顕真実の全て方便経 

更に 大集経 に「白法隠没」と説かれ一切の釈尊の仏法は功力を失う。 

「涅槃経に云く「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」」


法華経 優  涅槃経 劣 の証明

→ 涅槃経にいくら諸経の功徳を説かれていても、それは、法華経で漏れた衆生の救済のための再説であり、既にそこに方便味が含有しているのである。

→ 「四十余年未顕真実」 他、法華経最勝 の経文に従わなければ仏弟子ではない。

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  ▼ 伊藤夫妻も、当初はこの衆生のニーズに応えなければなりませんでした。
こうして長男・次男は早逝したわけです。
この文脈で経済苦や病苦から救われた人は真言宗の末寺だったころから沢山居ました。
その意味では(利益的には)信者は涅槃経を説く以前から救われていたでしょう。

   ★ → それはまさに 「魔の通力」 であり、仏教の説く、真の救済ではない。
真言などまさに邪教の代表。そこに起こる利益らしきものは全て真の即身成仏を妨げ、誑かす「魔の所為」に他ならない。
それは真の救済などとは全く違う。むしろ真逆の方向へ衆生を引きずり込む魔の所業。

【参考】

魔の通力 魔の所為 とはどのようなものか。

● 天魔(てんま)
第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである。

● 第六天
『大智度論』巻9いわく「此の天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う。」と、他の者の教化を奪い取る天としている。

● 魔
人を迷わすもの。修行をさまたげ、善事を害する悪神。人間わざでない、不思議な力をもち、悪をなすもの。

● 魔力
人を迷わせる悪魔の力。また,人間わざとも思えない不思議な力。まりき。

● 「増一阿含経巻27」には、魔王波旬に色力、声力、香力、味力、細滑力の五力あり と説かれる。

● 魔王の名を波旬といい、種種の力を有し、また魔女魔軍等あり、常に仏及びその弟子等を?(女+堯)乱し、善事を妨礙せしことを記すものなり。


法華経

■ 初め仏の所説を聞いて 心中大いに驚疑しき
将に魔の仏と作って 我が心を悩乱するに非ずやと 132下-01

→ 魔は仏のように振る舞い、衆生を惑わすこともある。との意義が読み取れる。

■ 世尊は実道を説きたもう 波旬は此の事無し
是を以て我定めて知りぬ 是れ魔の仏と作るには非ず
我疑網に堕するが故に 是れ魔の所為と謂えり 133下-01

→ 仏は、真実、成仏できる道しか説かない。
魔は、本当に成仏できる道を説けない。
しかし、命が曇っている者には、魔が仏にも見える。

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一般的な 魔の所為 通力 用例

寿永元年9.13
(翌日の法会に雨が降ることを案じて)
日来、雨の気有り。今日已に降る。恐らく天魔明日の事を妨げる歟。
歎く為り 云々

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建久二年5.1
託宣が降りた例
(佐々木定綱を引き渡す由を聞き、山門衆徒力を得る)
誠に是天魔之所為也。左右能わず 云々。

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  ▼ 一方で、仏教の本来の目的である悟りの世界へと教化するのには涅槃経が不可欠と一宗をたてたのですから、それ以前の教徒はある一定の所までしか行けなかった、行けた人は出家の内弟子だけだったとみるのが現実に近いでしょう。

   ★ → それこそ、伊藤真乗が、未熟、未完成であった証拠。
そもそも、伊藤真乗を末法の救済者とする根拠は経典上、全くない。


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  ▼ また、天台宗でも様々な仏様をお祀りするし、真言でも同じです。

   ★ → 双方、既に邪教であり、それをもって真如苑の正当化には全くならない。
むしろ邪教のお仲間であることを自ら認めたに等しい


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  ▼ これを「本尊の乱立」と見る人は実は偶像崇拝、形に捉われて本質を見失っていると私は思います。
私たち佛徒は何かの材質でできた仏像を拝んでいるのではなく、そのご内証を心に頂いているのです。

   ★ → もしその説ならば、「一切衆生悉有仏性」なのだから、別に仏像や本尊を立てる必要もなく、そもそも、我々自身の内証は「仏」なのだから、自分自身でも鏡に映してその「内証」を拝めばいいんだし、もっと言えば、修行する必要もないでしょう。
これこそ、仏教の本義を弁えない愚かな論。


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  ▼ 逆に「本尊乱立」と主張して他宗を批判し、髭曼荼羅だけが全てと思っている人こそ、結局、髭曼荼羅に書かれている内容も解らないままに偶像崇拝しているだけだと言うと言いすぎでしょうか?

   ★ → 日蓮大聖人が釈尊が予証した末法の教主  
ならば、その方が建立された本尊を、教えの通りに、唯一無二と信じ拝することが正しい在り方。
本尊=仏の命、悟りそのもの その甚深の内容が予め分かるなど在り得ないでしょう。
信を以って智慧に替える。 信によって、自ずと仏と等しい境界へなるのである。
境地冥合 感応道交 である。


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  ▼ 例えば、弘安2年、本門戒壇の本尊として日蓮聖人が書き遺された曼荼羅を未来永劫、その形を護持していくなどという説は偶像崇拝以外の何物にも思えません。


   ★ → では、物体・色法である「偶像」を介さず、「仏の内証」にどういやって到達するのか、証明して見せて下さい。

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  ▼ 形の佛を拝む発想しかない人が、形を通して佛の内証に触れようとする衆を批判したとして、その批判に十分な根拠などありません。「俺が正しいからお前ら間違っている」としか言っていないのです。

   ★ → 日蓮正宗では、形の仏を拝むなど、教えていませんね。 まさに「戒壇の大御本尊の御内証」を拝するのである。
その証拠に、日蓮正宗における全ての曼荼羅御本尊は、その表層的な形式にいては、様々な姿で顕されている。
どの御本尊においても「戒壇の大御本尊の御内証」を御魂魄とされているのであり、御本尊を「モノ」として拝しているのではない。
であるから、
▼ 形の佛を拝む発想しかない人が、形を通して佛の内証に触れようとする衆を批判したとして、その批判に十分な根拠などありません。「俺が正しいからお前ら間違っている」としか言っていないのです。
その批判は、全く的外れ、空振りの批判である。

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  ▼ 釈尊は、形ある者は必ず滅ぶと説かれている(大般涅槃経純陀品)のに、本門戒壇の本尊を未来永劫護持するというのは佛の教説にも反しています。

   ★ → ここも実に非想的な見解。だれも、戒壇の大御本尊をそのまま何もせず未来永劫に護持するなどとは言っていないし、事実今まで750年間もそうであった。
戒壇の大御本尊を信敬する僧俗が、異体同心にして、戒壇の大御本尊を永遠ならしめるために、護持し奉るのである。
つまり、必要な手当て、御衣替えなど人為的御奉公をさせていただきながら戒壇の大御本尊を永遠ならしめていくのである。

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また、真如苑が依経(えきょう=よりどころの教典)としている

 『涅槃経』には、

「釈迦如来が久遠常住(くおんじょうじゅう)である」とか、
「不動明王やら十一面観音を本尊に立てて拝め」

などとはいっさい説かれていません。


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  ▼ 如来常住については純陀品からその理が詳しく説かれているとあります。
また、「如来常住」の文字は名字功徳品第六にも明確に書かれています。
というか、「如来常住」は涅槃経の特徴です。


   ★ → 『如来常住』 という文言が出ているとはいえ、涅槃経には 釈尊成道の根本因相が明かされていない。
それが示されているのは法華経如来寿量品第十六だけ。
「我本行菩薩道」
釈尊は明らかに、長遠の間 「菩薩」の修行をして、「仏」になった。
つまり、釈尊が如来になったのは始まりがある。「有始」なのである。
「如来」を釈尊に約して解釈した場合、それは無始無終でないので「常住」ではないのである。
であるから「如来」を短絡的に「釈尊」としか思えない思考が、そもそも事実誤認の見当ハズレであり、浅薄なのである。
ここに、釈尊が五百塵点劫のその前、当初(そのかみ)に菩薩として修行した仏教は一体何か?その時の「仏」は誰か?
という命題が解明しなければ、真の仏道を成就することはできない。

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  ▼ 逆に、法華経には日蓮大聖人が久遠元初の佛だと書かれているのでしょうか?

   ★ → 「語」そのものは説かれていないが、「義」は明白である。
涅槃経の御言葉 「義に依って語に依らざれ」を噛み締めるべきであろう。

法華経の文上に上行菩薩が釈尊より上位であるとする文証 


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   ▼ また、本尊については、そもそもお釈迦様は「俺を本尊として拝め」と仰せになっていないし、まして髭曼荼羅を拝めとは一切説かれていません。

    ★ → 釈尊像、他の形像を本尊とすることはむしろ法華経の教旨つまり、釈尊の本意に反する。
「法」を 「経」を本尊とすべきことは、随所に見られる。

法を本尊とし塔を建てよ

また日蓮大聖人御建立の十界曼荼羅本尊は、釈尊から付嘱された法華経の要法であるから、余人が云々することはそもそもナンセンスであり、上行菩薩再誕、日蓮大聖人以外にその甚深の義は知り様筈もないのである。

釈尊は既に上行菩薩に末法の衆生救済を託し、その教法を付嘱されたのであるから、末法今時では、上行再誕の日蓮大聖人が顕された仏法を素直に修行することが即釈尊の御心に適う仏道修行の在り方である。

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▲ やはりこれも伊藤真乗の勝手な思いつきであり、

● 涅槃経の経旨(きょうし)にも背(そむ)くものです。

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  ▼ 不動明王は東密、十一面様は台密、それらを受け入れるなと言う涅槃経の教旨はありません。

名字功徳品には「八大河悉くこの大般涅槃に帰する」とあり、涅槃経の教旨通りです。
「諸説の種々の妙法、秘密深奥蔵門、悉く皆この大般涅槃に入る」と全く法華一乗を掲げる天台の妙法も、真言の秘密深奥蔵門も大般涅槃に入って行くという明確な聖句が残されています。

   ★ → では、涅槃経で本尊は何を立てるべきかどう書かれているのか?明示せよ。

そもそも、語句の解釈が浅薄 この経文にある「妙法」とは特段天台大師の「妙法」に特化した意味ではなく、また、「秘密深奥蔵門」も真言を指してっていることではない。

→ 法華経と涅槃経の優劣 で論証。 涅槃経は、法華経を骨とした、その再説。

天台大師が分析したごとく、

  1. 追説追泯(ついせつついみん)、涅槃経は法華経の説を重ねて追って述べた。
  2. 贖命重宝(しょくみょうじゅうほう)、涅槃経は命である法華経の仏性常住をあがなう宝である。
  3. ?拾教(くんじゅうきょう)、涅槃経は法華経の救いに漏れた機根の低い衆生のための教えである。
  4. 扶律顕常(談常)(ふりつ・けんじょう、だんじょう)、涅槃経は仏滅後における隔歴次第の修行を説いて戒律を守るよう扶(たす)けた方便の教え。


この役目、立場である。

その全体観を掴まずに、膨大な経文の中から、自見を正当化しようとして文を漁れば、誰人がどのような説を立てようが、正当化できてしまうであろう。

そもそも大集経の予言の通り、釈尊の仏法は滅後二千年で隠没したのである。

その後は、末法の教主 の立てる仏教を学び、実践する以外、全て邪教と知らねばならない。

東密も、台密も そもそも真言系であり、真言関連の本尊など、「四十余年未顕真実」である方便教によるところの宗派であり、釈尊の真実の教えではない。
更にはその釈尊の教説全てが、滅後二千年で功力を無くすのであるから、二重に無力、不要な本尊である。
その上、真の仏の化導を紛らわせ、妨げるものが「魔」であるから、まさに「魔の本尊」といわねばならない。 


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● 讃題の変遷

南無不動明王
   ↓
南無真如一如  南無大般涅槃経
   ↓
南無真如一如大般涅槃経

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 「霊能」は仏教とは無縁の外道義

真如苑では、「誰もが仏性を有し霊能を具(そな)えている」と定義し、その霊能を開発し霊位を向上させることを勧めています。

「一切衆生・悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)」

というのは「すべての人にはことごとく仏性(仏界)が有る」ということですが、この

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▲ ● 「仏性」と「霊能」は何の関係もありません。

仏法が説かれた目的は、すべての人々を成仏に導くことです。
成仏とはもちろん死ぬことではなく、「成」とは「開く」の義であり、我が身そのままに仏界(仏性)を開くことを「成仏」というのです。
そこには、霊能などという意味不明のいかがわしいモノはまるで関係ないのです。

教団の言う「常楽我浄(じょうらくがじょう)の歓喜の境涯」というのは、仏法ではこの成仏の境涯のことを指すのであり、霊能力を高めるだの霊位を向上させるだの、そういう馬鹿げたモノといっしょにされては困ります。

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  ▼ そういうものではない事は前述のとおりです。

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▲ また教団では、霊能者の霊言を聞いたり指導を受ける「接心」なる修行がありますが、そもそも霊能などは、仏教とは何の関係もない外道(げどう)です。
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  ▼ 霊能や奇跡的なお力については、大般涅槃経四相品第七を拝読してください。「種々の神通変化を示現す」と示されています。
また神通については法華経の観世音菩薩普門品にも「神通力者 当知是人 功徳不少」とあり、法華経においてさえもその存在を前提しています。

   ★→ 神通の意味の解釈が全く不可

では、真如苑でしている、接心だの霊能者と呼ばれている者たちがしている行為が、経典に説かれる「神通」の意味であると、経文上、明確に証明してください。
つまりは、伊藤真乗がそう決めた、というだけのことでしょう。

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● 神通 とか 神力 の真の意味

観世音菩薩普門品第二十五
567下-03
無尽意、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊ぶ。
爾の時に無尽意菩薩、偈を以て問うて曰さく、
世尊は妙相具りたまえり 我今重ねて彼を問いたてまつる
仏子何の因縁あってか 名づけて観世音と為すや
妙相を具足したまえる尊 偈をもって無尽意に答えたまわく
汝観音の行を聴け 善く諸の方所に応ず
弘誓の深きこと海の如し 劫を歴とも思議すべからず
多千億の仏に侍えて 大清浄の願を発せり
我汝が為に略して説かん 名を聞き及び身を見
568下-01
心に念じて空しく過ぎざれば 能く諸有の苦を滅す
仮使害の意を興して 大いなる火坑に推し落さんに
彼の観音の力を念ぜば 火坑変じて池と成らん
或は巨海に漂流して 龍魚諸鬼の難あらんに
彼の観音の力を念ぜば 波浪も没すること能わじ
或は須弥の峯に在って 人に推し堕されんに
彼の観音の力を念ぜば 日の如くにして虚空に住せん
或は悪人に逐われて 金剛山より堕落せんに
彼の観音の力を念ぜば 一毛をも損ずること能わじ
或は怨賊の遶んで 各刀を執って害を加うるに値わんに
彼の観音の力を念ぜば 咸く即ち慈心を起さん
或は王難の苦に遭いて 刑せらるるに臨んで寿終らんと欲せんに
569下-01
彼の観音の力を念ぜば 刀尋いで段段に壊れなん
或は枷鎖に囚禁せられて 手足に?(きへん+紐の右 旁)械を被らんに
彼の観音の力を念ぜば 釈然として解脱することを得ん
呪詛諸の毒薬に 身を害せんと欲せられん者
彼の観音の力を念ぜば 還って本人に著きなん
或は悪羅刹 毒龍諸鬼等に遇わんに
彼の観音の力を念ぜば 時に悉く敢えて害せじ
若しは悪獣囲遶して 利き牙爪の怖るべきに
彼の観音の力を念ぜば 疾く無辺の方に走りなん
?(虫+元)蛇(がんじゃ)及び蝮蠍(ふくかつ) 気毒の煙火の燃ゆるごとくならんに
彼の観音の力を念ぜば 声に尋いで自ら廻り去らん
雲雷鼓掣電し 雹を降らし大いなる雨を?(さんずい+樹の右 旁)がんに
570下-01
彼の観音の力を念ぜば 時に応じて消散することを得ん
衆生困厄を被って 無量の苦身を逼めんに
観音妙智の力 能く世間の苦を救う
神通力を具足し 広く智の方便を修して
十方の諸の国土に 刹として身を現ぜざること無し
種種の諸の悪趣 地獄鬼畜生
生老病死の苦 以て漸く悉く滅せしむ

真観清浄観 広大智慧観
悲観及び慈観あり 常に願い常に瞻仰すべし
無垢清浄の光あって 慧日諸の暗を破し
能く災の風火を伏して 普く明かに世間を照す
悲体の戒雷震のごとく 慈意の妙大雲のごとく
甘露の法雨を?(さんずい+樹の右 旁)ぎ 煩悩の?(焔の右 旁の下が臼+炎)(ほのお)を滅除す
諍訟して官処を経 軍陣の中に怖畏せんに
彼の観音の力を念ぜば 衆の怨悉く退散せん
妙音観世音 梵音海潮音
勝彼世間音あり 是の故に須く常に念ずべし
念念に疑いを生ずること勿れ 観世音浄聖は
苦悩死厄に於て 能く為に依怙と作れり
一切の功徳を具して 慈眼をもって衆生を視る
福聚の海無量なり 是の故に応に頂礼すべし
爾の時に持地菩薩、即ち座より起って、前んで仏に白して言さく、
世尊、若し衆生有って、是の観世音菩薩品の自在の業、普門示現の 『神通力を聞かん者は、当に知るべし、是の人の功徳少からじ。』
仏、是この普門品を説きたもう時、衆中の八万四千の衆生、皆無等等の阿耨多羅三藐三菩提の心を発しき。

   ★ 引用が長くなりましたが、この 観世音菩薩普門品第二十五の文を拝すると、「修行者が観音の力を念ずる → 種々の困難が解決する」
そういう趣旨である。
また、結局は、生老病死の根本問題を解決し、成仏の境界を開くことが本当の目的であることも明瞭である。
しかも、貴方が提示した当該文『神通力を聞かん者は、当に知るべし、是の人の功徳少からじ。』も、
「この観世音菩薩普門品第二十五で説く観音の諸難を解決する不思議な神通力を信受した者は、功徳甚大である。」
という意味であって、どこにも 「信徒が霊能者となって霊能を開く」 などの意義は存在しない。

全文通して、一体どこに、「信者が霊能が開いて、それにまた階層があって、それにお金払って相談してどうのこうの」、という意味があろうか?
神通 神力  と言う意味を全く取り違えている。

つまり、伊藤真乗と云う者は、仏教の本質が全く分かっていない、邪師・魔師の類、ということである。 

更には、伊藤真乗が、この東国の島国、日本で 昭和年代にそのようなことを勝手に決めて、勝手に弘めていいのかそれを経典で証明してください。


● 貴方に教えていだいた、涅槃経の以下の箇所

http://www.archive.org/stream/kokuyakudaizky08tokyuoft#page/247/mode/2up

大般涅槃経 四依品第八 168 41

「爾の時に佛、迦葉菩薩に告げたまはく、善男子、我涅槃の後當に百千無量の衆生、是の大涅槃微妙の経典を誹謗して信ぜざる有るべし」

P168 41節

P170 49節

P172 54節

以上を拝見しましたが、この経文のどこが、伊藤真乗氏を予証しているということになるのですか?
明確に詳細に客観的に説明してください。


● 「神通」 との語は以下の経文にも使われているが、これと、真如苑で行われている、接心 や霊能 とどう関係があるのか、証明してください。


■ 無量義経十功徳品第三

爾の時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく、
汝等当に此の経に於て、応に深く敬心を起し、法の如く修行し、広く一切を化して、勤心に流布すべし。常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして、各法利を獲せしむべし。汝等、真に是れ大慈大悲なり。以て神通の願力を立てて、是の経を守護して、疑滞せしむること勿れ。汝当時に於て、必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして、見聞し、読誦し、書写し、供養することを得せしめよ。是を以ての故に、亦疾く汝等をして、速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん。 

■ 妙法蓮華経序品第一

爾の時に弥勒菩薩、是の念を作さく、
今者世尊、神変の相を現じたもう。何の因縁を以て此の瑞有るや。今仏世尊は、三昧に入りたまえり。是の不可思議にして希有の事を現ぜるを、当に以て誰にか問うべき、誰か能く答えん者なる。
復、此の念を作さく、
是の文殊師利法王の子は、已に曽て、過去無量の諸仏に親近し供養せり。必ず応に此の希有の相を見たるべし。我、今当に問うべし。
爾の時に、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、及び諸の天、龍、鬼神等、咸く此の念を作さく、
是の仏の光明、神通の相を、今当に誰にか間うべき。

爾の時に弥勒菩薩、自ら疑を決せんと欲し、又、四衆の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、及び諸の天、龍、鬼神等の衆会の心を観じて、文殊師利に問うて言わく、
何の因縁を以て、此の瑞、神通の相有り、大光明を放ち、東方万八千の土を照したもうに、悉く彼の仏の国界の荘厳を見るや。
是に於て弥勒菩薩、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を以て問うて曰く、
文殊師利 導師は何が故ぞ
眉間白亳の 大光普く照したもう
曼陀羅 曼殊沙華を雨らして
栴檀の香風 衆の心を悦可す
是の因縁を以て 地皆厳浄なり



我常に此に住すれども 諸の神通力を以て
顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ

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▲ このようなモノには何も意味が無いどころか、逆にこのような妄言に悪影響を受けて人生が狂う例はいくらでもあります。

そもそもが、真如苑の霊能者にはマニュアルがあり、これにしたがって「霊言を述べている」ということなので、外道の霊言ですらないのです。
こんなモノに耳を傾けるだけ損をします。

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  ▼ エビデンスもなく、裏も取らずに批判するのは議論でも何でもありませんし答えようがありません。
一応、最後まで頑張りますが「霊能者のマニュアル」って何ですか?
確かに書物はあるようですがマニュアルではないですし。
「そんな事はありません」としか言いようがありません。

(※注 エビデンスとは、証拠・根拠、証言、形跡)


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 霊界だの霊魂だのは仏教ではない

真如苑では、

「霊界にいる先祖の霊魂が苦しんでいるので、その霊のタタリで現在が良くない。これを除くために、真如苑で護摩や施餓鬼(せがき)の供養をするように」

などと勧めています。

▲しかし、仏教では「死んだ後も、個々人の我(が)が霊魂として永遠不滅に存続する」というような説を「常見(じょうけん)」と呼び、これを否定しています。

  ▼ 常見とは「死んだ後も、個々人の我(が)が霊魂として永遠不滅に存続する」ことを肯定するものです(「アートマンの不滅」)。それを否定するのを「断見」と言います。
貴方の説明は断見の説明です。

更に仏教では「無記」と言って死後の世界を積極的に論じてはいません。

   ★ → 長阿含 にも八大地獄が説かれている。
貴方のいう「無記」とは、仏道修行に全く無意味な質問について釈尊が答えなかった。という意味。
例えば、「如来は死後、存在するのかしないのか。」といたような質問。
我々の死後のことは、生前の因果と縁によって成り立つという教説は存在している。


▲ 仏教では死後の生命は法界にあって前世の因果を感じながら、縁にあってまた生じると説き、因果を無視した「霊界」や「霊魂」の存在を否定しています。

  ▼ 経典を示してください。

霊魂を救うものとして「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経」という経典があります。
これは餓鬼の世界に堕ちていた阿南尊者の亡き母を救う法を釈尊が教えたという経典です。

   ★ → 全く的外れ。   
正当な仏教では 「因果を無視した「霊界」や「霊魂」の存在を否定しています。」 ということであって、死後の生命が感じる苦楽を否定しているものではない。

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  ▼ また、霊界や霊魂の存在を否定しているならば日蓮正宗ではお盆やお彼岸、葬式はしないですか?

   ★ → 死後の生命は自らそれまでの業因のまま苦楽を受けているのだから、そこへ、故人の縁者が善を積み、その功徳を回向し、その縁により、亡者の苦を楽に転ずるがために当然、仏事・法要など行う。
問題は、その亡者へ回向する方法が、正当な因果律に則っているかどうか、ということ。

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▲ 霊魂「のようなもの」というのは確かにありますが、それはこの因縁の大原理によって変相流転する生命の一面をかいま見たに過ぎません。

  ▼ 「誰が」が、「どのような方法」でそのようなものを見たのですか?
言っている事は真如苑の霊能の片鱗そのものですが?

   ★ → 真如苑の霊能者でなくても、世間でも亡霊、幽霊、霊魂、の類を見たり、感じたりする人は数多いる。
別に真如苑の霊能者だけが特別な能力という訳ではない。

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 訳の分からない霊能者やら邪宗の坊さんやらが、テレビ等で好き勝手なことを言ったりしてますが、あれは実は仏教とは何の関係もない外道義なのです。

ましてや

▲  「真如霊界」などというものは、もちろん仏教典のどこにも説かれていない、真如苑が勝手に作り出した創作世界に過ぎず、何の根拠もない荒唐無稽なものです。 


  ▼ 先の「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経」などは、人間世界以外の世界が存在する事を前提としているし、そのような目に見えない世界を前提しないものは宗教ではないのでは?

法華では先祖や、それらが存在する世界を観念する事は一切なく、ひたすら哲学をするように法華経研究しているのですか?

   ★ → 既述の通り。全く文意が読めないで一人切りきり舞いして怒りを顕にしている。滑稽なだけ。

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  ▼ 日蓮正宗の御尊師が彼岸の時に「故人の魂を懇ろに供養いたしました」と仰っていましたがあれは嘘ですか?

貴方か御尊師のどちらかが嘘をついている事になります。
貴方の「霊界など経典にない(したがって存在しない)」が正しいなら、御尊師は嘘つきですよね?
こうなると論理必然的に別の問題が生じます。
法華経を奉ずるものは嘘をつくのかと。「法華経を説くもの=嘘もつく」という図式が出来てしまえば、その時点で日蓮正宗は信用できない宗教になりますし、貴方の主張も信用できないという事に論理的になってしまいます。
発言には気を付けるべきでしょう。

    ★ → ここも同様。既に述べた通り。日蓮正宗では、別に死後の生命を否定している訳ではない。
正当な因果律による死後の生命の説明がなされないで、ただ「霊が苦しんでいる。」だの、「霊の苦しみが生者に障っている」だの、と高額な供養の出汁に使っていることが悪しき宗教だ。という意味で言っているだけの事。
そういう文意も読めず、感情的に吼えている姿は、力いっぱいパンチを繰り出して、スリップして転んだボクサーのように、まことに滑稽至極。

その上で、では、訊くが、貴方が悩んでいる霊能者ですが、「真如苑をやればそのような無慈悲な人格となる。」という図式が出来てしまえば、その時点で真如苑は信用できない宗教になりますし、貴方の信じる真如苑も正しくない、という事に論理的になってしまいます。

となるのではないですか?

発言には気を付けるべきでしょう。??

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ついでに言えば

▲ ● 「両童子様」などというものも、伊藤が若死にした息子のことを言いつくろうために創作した存在であり、それが信者を利益するなど、何の根拠もないデタラメです。

  ▼ まず、長男が亡くなって、あの世の信者の先祖霊が解るようになりました。

次男が亡くなって、それまで入神するのに時間がかかっていた霊能者が即時入神できるようになり、霊言が出るようになりました。
もちろん利益的な現象も多く現れるようになっています。
こうした事実を踏まえて「両童子の働き」という教義が生まれています。
無根拠ではありません。

   ★ → そんなこと、全く「根拠」として採用されませんよ。
教団の主観的な主張など、仏教の論理性からすれば、全く無意味。
ならば、天理教で、ある出来事以降、利益が大きくなった。と言えば、そのことは、きちんとした文献的、あるいは論理的検証や批判なしに、無条件で正当化されるのしょうか?
それと同じですよ。

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▲ 仏教では、個々の行為に因果の理を説くものであって、善悪の因の果報は、他人が身代わりになって受けることなどできません。
つまり、この因果を無視した「抜苦代受」などは、仏教とは何の縁もない外道の邪説です。

  ▼ 根拠経典を挙げてください。

大智度論27の「大慈与一切衆生楽、大悲抜一切衆生苦」とは、佛、菩薩が衆生の苦を抜き、楽を与えるという意味ではないと?

   ★ → またやりましたね。文意が読めないパターン。
この文は、誰かが代わりに苦を引き受ける 「代受」 とは書いてないが?
「大慈が一切衆生に楽を与え、大悲が一切衆生の苦を抜く」  とあるのであって、幼くして死んだどこぞの者が、一切衆生の苦を代わりに受ける、などとは書いてない。
むしろ、教団の正統性を証明したかったら、「抜苦代受」 の根拠となる経典を示すべきであろう。

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霊界だの霊魂だのを持ち出すのは、その教団に幼稚な教義しかない証拠です。

▲ これは要するに、
 タタリだ何だと何も知らない信者を脅(おど)し、護摩や施餓鬼で信者から金を巻き上げたいだけのことです。

  ▼ 500円でも1万円でも、信者から受け取った瞬間から、他人はそれを「巻き上げた」と言えるし、額は程度の差という事に収斂してしまいます。
財務的にも布教の観点からも、およそ信者に支えられずに存在できる宗教団体はないでしょう。
問題は、目に見えない祟りだの霊だのというものを利用して集金につなげるという手法だというのであれば一理あります。
ただ、真如苑の誰が、誰に、どのような脅しをかけたかのエビデンスはありますか?

   ★ → そんなの「真如苑被害者の会 脱会者のつどい」 的なHPやブログなどの体験談を精読すれば枚挙に暇がないであろう。
また、そういう教団を離脱した方々の証言を全て否定する根拠はそれこそないはずである。
自分が信じ執着する教団に否定的なことが書かれてあることは全面否定したい気持ちは分からないでもないが、だからと言って、必死で教団の洗脳から脱出できた方々の真摯な体験談を一概に全否定するのは公平・公正な判断ではない。
何の利害もないそうした体験談には多く真実が語られているものだ。
私自身、多くの創価学会・顕正会からの脱会者の体験談を収録し、そのまま正直に発表しているので、その事情には詳しい。

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  ▼ 真如苑の禁忌は「金銭」「権威」「情」です。
霊能者の霊言や指導的立場から圧力をかけて、あるいは脅して何かをさせる事は教団を追われる事に直結します。
前述のとおり、「建前」はあくまで自ら願ってする事です。
しかし、全てが建前通りになされているかと言うと私は保証を請け負う気にはなりません。

   ★ → 正直ないい答えですね。

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 涅槃経(ねはんぎょう)を教典とする誤り

真如苑では、『大般(だいはつ)涅槃経』を釈尊の究極の教えであるとして、これを依経(えきょう=よりどころの教典)としています。

涅槃経という経は、8年間にわたって法華三部経(法華経の開経である『無量義経』、真実の経である『法華経』、結経である『観普賢菩薩行法経』)を説かれたのち、入滅に臨んで一日一夜で説かれたものです。

▲ この経は、法華経の会座(えざ)より退去した5000人もの増上慢(ぞうじょうまん)の衆生、および釈尊一代50年の教化に漏れ、成仏できなかった人々のために説かれました。

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  ▼ 根拠を示してください。

大般涅槃序品第一からの、涅槃衆の召集にはそんな事は一言も書かれていません。天台独自の教義です。

   ★ → 既に論証したごとく、やはり、 秋収 は法華経 冬蔵 は涅槃経 である。
ということは、法華経で漏れた衆生に対しての 
追説追泯 ?拾教 であることにやはり間違いない。

そもそも、涅槃経序品第一の、涅槃衆の召集、という箇所だけを皮相的に見て、経の元意全体を速断すること自体が愚かに過ぎるというもの。


法華経に参集した衆生は法華経の説法によって皆成仏したのであるから、それに漏れたとすれば、五千起去の上慢の衆しかいない。

また、そういって天台の判釈を否定しているのは伊藤真乗であろうが、その真乗自身が、真言宗の不完全さ、邪悪さを見抜けない程度の者である。
そんな劣師・邪師が天台大師の説を否定するなど、およそ烏滸がましい、頭が高い、というものである。


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▲ 『涅槃経』の菩薩品には、
「法華の中の八千の声聞(しょうもん)の記別を授かる事を得て大果実を成ずるが如きは、秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」
と説かれています。

  ▼ 秋の収穫を冬、蔵に納めてしまえば全部完了したという安心が生ずるように、涅槃経を修学すれば為すべきことを成し遂げたと言えるという意味です。
大般涅槃経名字功徳品第六にも「農夫春月に種を下ろし、常に希望あり。既に果実を収むれば、衆望都て息むが如し。」と「涅槃経」で「衆望都て息む」と説かれています。
反対解釈すれば、涅槃経を聞き終わるまでは全てが完了したとは言えないという事です。
落穂ひろいというのは天台の教義であって経典にそのような事は書かれておりません。

   ★ → 法華経と涅槃経の夕優劣について 論証済み

大般涅槃経名字功徳品第六にも「農夫春月に種を下ろし、常に希望あり。既に果実を収むれば、衆望都て息むが如し。」
というもの、まさに菩薩品の箇所と同意。
やり残した仕事が全て完了して、それで満足、安心した、という意味。
この文を以って、法華経より涅槃経が優れているという根拠にはならない。
それは、法華経と涅槃経の夕優劣について 
で示した比喩の通り。


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すなわち、法華経がすべての人々を成仏させることを秋の収穫に譬(たと)えるのに対して、涅槃経はその後の落ち穂(おちぼ)拾いに譬えられているのであり、

▲ 涅槃経そのものに「法華経こそが釈尊究極の教えである」と位置づけられているのです。


  ▼↑は天台智が位置づけたのであって、釈尊ないし経典には涅槃経を落穂ひろいの教えとは説いておりません。

更にいうなれば、法華経が完全なる経典ならば、救いから漏れる人が出るのは論理的に矛盾しています。
法華経でも救えなかった人々を救う涅槃経は、論理的に法華経ではカバーできない部分までカバーしている完成系という事になります。

   ★ → 法華経と涅槃経の夕優劣について 論証済み


  ▼ もちろん天台智のような天才が、その程度の論理矛盾に気が付かないはずはなかったけれど位置づけを変更できない別の理由があったと私は個人的に思っています。

   ★→ それこそ根拠は?その明示。

▲ また、涅槃経には方便教の内容も重ねて説かれており、純然たる円教(えんぎょう)である法華経と比べれば、はるかに劣る教えに分類されるのです。

  ▼ 根拠を示してください。
先の涅槃経菩薩品の繰り返しですか?
私は、その解釈をした智の解釈間違いを示し(落穂ひろいの解釈)、涅槃第一であることの根拠の文を示し、法華が最高であるという説は論理的な矛盾がある事を示しております。


   ★→ 法華経と涅槃経の夕優劣について 論証済み
その上で、法華経で悟り切れなかった衆生を救済するために、再度、方便教の内容も重ねて説くということは、法華経と涅槃経の夕優劣について での比喩で言えば、

教授の独創理論を、一時間の授業で理解できなかった生徒に、時間延長して、その生徒たちが理解できなかったのは、本題の今回の講義を理解できる基礎学力が不足していたからと分かり、そこまで立ち返って懇切丁寧に再度、一から教えて理解させてから、もう一度本題の内容を講義する。
このような状況である。

この状況で、本論の一時間の講義と、延長した講義の内容は、果たしてどちらが高度で、純然か?
誰が聞いても分かるであろう。

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▲ したがって、涅槃経を究極の教えであるとする真如苑は完全な誤りです。

  ▼ 「涅槃経が究極の教え」という説と、天台智の説、どちらが正しいのか決着をつけてから下すべき結論です。

   ★ → 法華経と涅槃経の夕優劣について 既に証明済。

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【参考】 法華経と涅槃経の勝劣について

真如苑の方々の中には、上記の通り解説しても、なお頑迷に「涅槃経こそが釈尊の最高の経典である」と主張する人たちがいます。
なのでもう少し詳しく、法華経と涅槃経の差異・勝劣について述べてみましょう。
少し専門的な内容になり、しかも長文ですので、関係ない方は読みとばしてください。

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【涅槃経を第一と主張する根拠について-1】

■ 「一切の諸法は、ただ涅槃を除き、さらに一法も常なるものはない」

■ 「一切の契経(経典)に依り諸々の禅定を修しても、是の大般涅槃経を聴聞せずば、みな一切悉く無常である」

■ 「たとえば衆の流れはみな海に帰すが如く、一切の契経、諸々の三昧もみな大乗大涅槃経に帰す云々」

……他にも多々あるようですが、涅槃経には上記のような主旨の経文があり、そうした内容を踏まえて「涅槃経最第一」を主張する人がいるようです。

しかしながら、こうした

■ 「この経こそ最も勝(すぐ)れた教えである」

という意味の経文は、他の諸々の経典にも同様にあります。


例えば

密厳経という経典には

■ 「是(か)くの如(ごと)き密厳経は、一切経の中に勝れたり」等とありますし、

大雲経という経典には

「是(こ)の経は即ち是(これ)諸経の転輪聖王(てんりんじょうおう)なり」等とあり、

また華厳経には

■ 「この法を信ずるものには莫大(ばくだい)な功徳がある」ことを証明する経文があります。

このように、ありとあらゆる経典には、それぞれに「この経こそが最高である」主旨の文言があるのです。

これは当然で、もし「実は他に真実の教えがあるのだけれども、それは置いといて今はこの説法を聞きなさい」などと言ってしまったら、誰も耳も貸さなくなってしまいます。
したがって「当分の第一」という意味において、諸々の経典に「この経が一番」と説かれているのです。

涅槃経の前述のような経文も、これらと同様です。

「経文の文面だけで判断するな」
「義に依って語に依らざれ」等と反論する人もいるようですが、その義が間違っているのであるということを、しっかり認識していただきたいと願うものです。

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【法華経を最第一と証明する-1】

まず、法華経の開経である無量義経には、

■ 「諸(もろもろ)の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(『無量義経』説法品)

と説かれ、これまで42年間には真実の教えを説いてこなかったのであると明かします。
そして法華経において、

■ 「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道を説く」(『法華経』方便品第二)

として、これまでの方便の教えを捨て去り、無上道(最高の教え)を説いたのです。そしてさらに、

■ 「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵(ぞう)なり。諸経の中に於いて、最も其(そ)の上(かみ)に在り」(『法華経』安楽行品第十四)

等々とも説かれています。

しかしこうした文証の場合、先に涅槃経の経文について「当分の第一である」としましたが、それと同じことではないのか、という疑問がでてくるかもしれません。
しかし法華経には、以下の経文があります。

■ 「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり(中略)我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而(しか)も其(そ)の中に於て、此(こ)の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」(『法華経』法師品第十)

この経文中、「已に説き」とは42年間の方便教のことであり、「今説き」とは開経の無量義経であり、「當に説かん」とは、法華経の後に説く結経の普賢経(ふげんぎょう)と、そして『涅槃経』を意味します。

すなわち、過去・現在・未来のすべてにわたる一切の経典の中で、この法華経こそが最も勝(すぐ)れた経典であると、釈尊自らが宣言されているのです。
これを「已今当(いこんとう)の三説超過」といいますが、これについて

中国天台宗の第六祖・妙楽大師は、

■ 「縦(たと)ひ経有って諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず」(『法華文句記』)

と述べられています。

すなわち、当分の第一として「この経が最も勝れている」という意味の経文は諸経のあちこちに示されていても、過去・現在・未来の一切のなかで「最も勝れている」と宣言されるのは、法華経以外にはありません。

したがって、「法華経こそが最も勝れた、最高の教法である」と言えるのです。

  ▼ 過去・現在・未来の中で「法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」と仰せになっていますが、「最上なり」とは仰っていませんね?

   ★ → まさに、「語」にとらわれている浅はかな姿。

■ 薬王今汝に告ぐ 
@「a我が所説の諸経 b而も此の経の中に於て c法華d最も第一なり」
爾の時に仏、復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、
A「a我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。b而も其の中に於て、c此の法華経、d最も為れ難信難解なり。」(『法華経』法師品第十)

この文脈から言って、「全ての経の中で法華経が第一である。」と、まず示され、その意義を再度、念入りに説くために、次の
■「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」
と仰せられるのである。

最初の文@と後の文Aを比較して並べてみる。

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@-a 我が所説の諸経       →     A-a 我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。

@-b 而も此の経の中に於て   →     A-b 而も其の中に於て、

@-c 法華              →     A-c 此の法華経、
 
@-d 最も第一なり         →     A-d 最も為れ難信難解なり。
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こうして見れば、最後の句の 「最も第一なり」 は 「難信難解」 と同格、同義の扱い、同じ位置付けの意義となるではないか。

これは、単純に文章読解力の問題である。

もしこの問題が高校試験に出題されて、「最も第一なり」 は 「難信難解」 と同格、同義の扱い、同じ位置付けの意義と読めない、と回答したならば、まず間違いなく不正解である。  

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  ▼ 三乗の説法から初めて一乗説法へと移行され、仏教の奥義を説くと宣言されているのが法華経です(「42年云々」)。
他方、この法華経を説き終わった後で名字功徳品第六でも「余経を修学すれば常に滋味を希う。若しこの大般涅槃を聞くことを得れば、余経所有の滋味を希望する、悉く皆永く断ず」と、法華経をしていても「もっと救われる教え(滋味)はないか」と希望する。この涅槃の教えを聞くことができたならば、そのような思いは悉く解決するとあります。

   ★ → ここで言う、余経とは、爾前・権教のことであり、乳味、酪味、生蘇(しょうそ)味、熟蘇(じゅくそ)味 → 云々の意味。
方便であるが故に、真実の教えを希求する。
法華経と涅槃経は教説の骨子は等しいので、両経を包摂、代表して、「大般涅槃」 と表しているのである。

法華経が一応 醍醐味、再往は五味を超過した経であるが故に、ここに説かれないだけ。
意義は、大般涅槃の奥に既に法華経の原理が大綱として存在しているが故。

涅槃経に法華経を否定している文はあるか?
涅槃経に法華経とは別の法門が説かれているか?
ないのであれば、法華経と涅槃経は同一味に包摂されるということ。
大般涅槃経 と書かれている箇所も、余経と相対した場合、法華経も含まれる、と考えるべきである。
同様の例は無数にある。


■ 義に依って語に依らざれ

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  ▼ 事実、法華経では女人成仏までしか説かれませんが、涅槃経では闡提成仏まで説かれます。

   ★ → 闡提成仏などは、既に提婆達多品で現証すらある。その教理は一念三千で説き出だされているが故。
しかも、涅槃経には闡提成仏の現証は説かれていない。 

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  ▼ 従って、貴方の議論(実際にはまるまるコピペとかでしょうけど)の立て方から法華が最上との結論を導くのは論理の飛躍でしかありません。

   ★→ 粉砕済

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【涅槃経を第一と主張する根拠について-2】

ある人いわく、真如苑は涅槃経の眼目を、

1.一切衆生・悉有仏性

2.常楽我浄

3.如来常住

4.一闡提(いっせんだい)成仏

という4つとしているのだそうです。

なるほど、これらは確かに尊い教説です。
しかしこれらは、涅槃経の前に説かれた法華経の意義を、名目の上からもう一度おさらいしたに過ぎません。

例えば

1.の「一切衆生・悉有仏性(一切の衆生にはことごとく仏の命がある)」について言えば、涅槃経には名目はあるものの、その「現実の証拠」はまったく示されていません。
かの有名な堤婆達多(だいばだった)のような、五逆罪(ごぎゃくざい)のすべてを犯した大悪逆人(実際に堤婆達多が犯したのは殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の三つですが、殺父・殺母の二逆は阿闍世王子を教唆してやらせたので、五逆罪すべてを犯したに準ずる意味があります)が成仏したというような証拠は、涅槃経40巻のどこにも説かれていないのです。

ではその実証はどこに説かれているかといえば、『法華経』堤婆達多品第十二に、堤婆達多が天王如来の記別(きべつ)を受けて成仏したと説かれているのです。
この現実の証拠こそが、名目だけの理論・教説に勝るのです。

このことは4.の「一闡提(いっせんだい)成仏」も同じです。
一闡提というのは、訳すと「多欲」「楽欲(ぎょうよく)」ということで、欲望第一で正しい法を信ぜず、悟りを求める心もない、因果を信じない、仏性を信ぜず成仏のための能力がない衆生をいいます。
堤婆達多はこの一闡提であり、彼の成仏によって「一闡提成仏」も、法華経によって実証されているのです。

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  ▼ まず、涅槃経での闡提成仏は阿闍世王の物語の事です。
堤婆達多は「如来のみが知る」存在であり闡提ではないと釈尊は宣言されております。
伊藤真乗の書物が出典なので、原本はご自分でお調べください。
どちらも涅槃経の御文のはずです。

   ★ → それでは、自分自身が根拠を出せないのと等しい。
こちらは伊藤真乗を邪師と断じているのであるから。
自身が信じる教祖の言を証明してみせましょう。
また、伊藤真乗がすぐ引用できるはずの経文を引かないのはなぜか?
嘘だからしょう。


「阿闍世王が闡提である」とどこに書いてあるんですか?
阿闍世の件は、伊藤真乗の完全な捏造である。

法華経序品第一
■ 韋提希の子・阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。各、仏足を礼し、退いて一面に坐しぬ。

とあります。釈尊に法華経の段階でこのように恭信している阿闍世が一闡提である訳がないではないか。
提婆達多こそ悪逆の限りを尽くして生きながらにして無間地獄に堕ちた。
このように一生涯改心しない者こそ一闡提人と言うのである。

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  ▼ 闡提成仏の具体的証拠は親を殺し、原因不明の病気に悩んでいた阿闍世が名医、ギバの勧めで釈尊の元へ行き救われたという事です。
また真如苑が所依としているのは涅槃経北品40巻ではありません。
南品36巻です。

   ★ → 阿闍世は既に法華経の会座に参集して釈尊に帰依してます。上記の通り。つまり、法華経で成仏している。涅槃経ではない。

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【法華経を最第一と証明する-2】

一切の衆生が成仏できることが、実証の上から明かされているのは法華経です。

まず、方便の大乗教において「永(よう)不成仏」、つまり永久に成仏できない衆生として声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんかくじょう)の「二乗」がありましたが、
法華経にいたって、初めて二乗に対して成仏の記別が与えられました。
これを「二乗作仏(にじょうさぶつ)」といいます。

また法師品第十では「凡夫成仏」が説かれました。

そして先述のとおり、

堤婆達多品第十二において地獄界の衆生の極悪人・堤婆達多の成仏が示され、

さらには8歳の竜女の即身成仏が示されたことにより、初めて実の意味での「一切の女人の成仏」が明かされました

(諸大乗経典では、女人の成仏は説くものの、それは例えば何回も生まれ変わり死に変わり、最後には男性に生まれて成仏と果たすというような「改転の成仏」であり、女人の成仏は有名無実でありました)。

また竜女の成仏によって「畜生の成仏」も実証されています。

こうして法華経によって「一切衆生・皆成仏道」が開かれ、すべての衆生の成仏が可能となり、十界互具・百界千如・一念三千の法門が確立されたのです。

そして釈尊は『法華経』見宝塔品第十一において、

■ 「誰(たれ)か能(よ)く此(こ)の娑婆国土に於(おい)て、広く妙法華経を説かん。今正しく是時なり。如来久しからずして当(まさ)に涅槃に入るべし。仏、此の妙法華経を以(もっ)て、付嘱(ふぞく)して在(あ)ること有らしめんと欲す」

と説かれました。すなわち、

「我、釈尊は近いうちに入滅(涅槃)するであろうから、この世からいなくなる。しかし自分の肉身は滅したとしても、真実の悟りであるところの法華経は、後の未来の衆生のために遺(のこ)しておかねばならない。そのためにこの法華経を付嘱して令法久住(りょうぼうくじゅう)させたいのである」

ということです。

これまさしく、法華経が唯一真実の経であるからこその宣説です。

  ▼ なぜそう言えるのですか?
「尊い教えだから残しておきたい」というのが字義通りの意味であり、「法華経が唯一真実」と言い切れるまでには論が足りないように思います。

   ★→ では、涅槃経で、後々の時代への明確な付嘱の言はありますか?
あれば明示してください。
無ければ、涅槃経は在世の衆生の救済が主軸であり、末法万年への救済の方途が明確でないとすれば、きちんと滅後末法への別付嘱が説かれている法華経の方が優れている。ということではないですか。

仏の慈悲の広大さから言えば、時間的に永遠の生まれてくる衆生救済の方途を確立していなければ慈悲に偏頗あることになる。
法華経だけが滅後の弘教への明確な別付嘱がされている。
涅槃経にはない。
これを以ってしても、法華経 優 涅槃経 劣 と言えるではないか。

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▲ そしてこの後、神力品第二十一において、上行菩薩を上首とする本化地涌の菩薩に、滅後末法における法華経の弘通(ぐづう)を付嘱したと説かれるのです。

さて、大多数の衆生はこの法華経によって成仏を果たしましたが、法華経説法の序盤で席を立ってしまった5000人もの増上慢の衆生や、釈尊一代50年の教化に漏れ、成仏できなかった人々がいました。
それらの衆生のために説かれた経、それが『涅槃経』です。

  ▼ この一文が決定的に法華第一を否定している事は先に指摘した通りですが、貴方の言う「円教」とは何ですか?

   ★ → 涅槃経は法華経の原理の再説である。それにより成仏しただけ。
一回聞いても分からない者は、再度聞かせて分かる場合がある。
それと同様で、同じことを二回言って、やっと分かるのは、教説に問題があるのではなく、衆生の理解能力の問題。
涅槃経に特段の目新しい教説はない。

むしろ法華経こそ無雑・純一の円教であり、涅槃経は、理解の悪い衆生のために爾前・権教の四味の教の再説があり、方便の雑味が混入している。
その点、真の円教とは言えない。

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▲ 涅槃経は、法華経の意義をあらためておさらいするという意味もあり、その理論として「一切衆生・悉有仏性」等の尊い教えも説かれています。
しかし同時に、涅槃経は「追説(ついぜつ)」といって、一代50年の諸経のさまざまな教えをもう一度説いている経でもあります。

法華経が、純円無雑(じゅんえんむぞう)・円頓円極(えんどんえんごく)の究極の教えであるのに対し、

涅槃経には円教を含むものの、それ以外の蔵教・通教・別教があらためて説かれているがゆえに無雑とはならず、純粋な円教とはなりません。
いかに涅槃経に尊い円の教理が説かれていても、蔵・通・別という余分なものが付随しているがために、尊い円の功徳が顕れることはないのです。

結論として、

法華経のみが唯一純円の極説であり、真実無二の経なのです。

涅槃経はあくまで、法華経の一切衆生成仏に漏れた衆生を救済するための「落ち穂(おちぼ)拾いの教え」です。

真実の本体は法華経にしかありません。

  ▼ その劣った教えが、優れた法華経の救い漏らした人々を救うという簡単な矛盾に貴方も気づいているのでしょ?

   ★ → 既述

  ▼ しかも論証は闡提ではないと示される堤婆達多を闡提とし、それに記別を与えたから法華経が闡提成仏を説いているというもののみ。

   ★ → 「提婆達多が闡提ではない」 とは教説のどこにあるのか?伊藤真乗の言葉ではなく明示てください。

  ▼ 悉有仏性、如来常住、常楽我浄が既に法華経に説かれているという論証は出来ていません(天台智にもできない事を凡夫が出来るとは思いませんが)。

   ★ その「語」そのものはないが、「義」においては以下の如く、枚挙に暇がない。
涅槃経に曰く「義に依って語に依らざれ」

● 一切衆生悉有仏性 

   ★→ 迹門での二乗への記別=二乗成仏  竜女成仏 = 畜生界・女人成仏  提婆達多へに記別 = 悪人・闡提成仏
これに、十界全て包摂される。(成仏するということは、仏性が元々あるから。という原理=一切衆生悉有仏性)

■ 二乗・菩薩・修羅・畜生界などが救済される文証 (法華経に列座して五千人起去の上慢の衆生以外は全て救済されたのである)

序品第一

二乗

是の如く我聞きき。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中に住したまい、
大比丘衆、万二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に尽して復煩悩無く、己利を逮得し、諸有の結を尽して、心自在を得たり。
其の名を阿若O陳如、摩訶迦葉、優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉、舎利弗、大目?連、摩訶迦旃延、阿マ楼駄、劫賓那、O梵波提、離婆多、畢陵伽婆蹉、薄拘羅、摩訶拘?羅、難陀、孫陀羅難陀、富楼那彌多羅尼子、須菩提、阿難、羅?羅と曰う。是の如き、衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。

復、学無学の二千人有り。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅?羅の母・耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。
菩薩摩訶薩八万人あり。皆阿耨多羅三藐三菩提に於て退転せず、皆陀羅尼を得、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ、無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所に於て、衆の徳本を殖え、常に諸仏に称歎せらるることを為、慈を以て身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り、名称普く無量の世界に聞えて、能く無数百千の衆生を度す。

菩薩

其の名を文殊師利菩薩、観世音菩薩、得大勢菩薩、常精進菩薩、不休息菩薩、宝掌菩薩、薬王菩薩、勇施菩薩、宝月菩薩、月光菩薩、満月菩薩、大力菩薩、無量力菩薩、越三界菩薩、?陀婆羅菩薩、弥勒菩薩、宝積菩薩、導師菩薩と曰う。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。

天人

爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り。其の眷属万の天子と倶なり。自在天子、大自在天子、其の眷属三万の天子と倶なり。
娑婆世界の主梵天王・尸棄大梵、光明大梵等、其の眷属万二千の天子と倶なり。

畜生

八龍王有り、難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王等なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四緊那羅王有り、法緊那羅王、妙法緊那羅王、大法緊那羅王、持法緊那羅王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四乾闥婆王有り、楽乾闥婆王、楽音乾闥婆王、美乾闥婆王、美音乾闥婆王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四阿修羅王有り、婆稚阿修羅王、?羅騫駄阿修羅王、毘摩質多羅阿修羅王、羅?阿修羅王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四迦楼羅王有り、大威徳迦楼羅王、大身迦楼羅王、大満迦楼羅王、如意迦楼羅王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
韋提希の子・阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。各、仏足を礼し、退いて一面に坐しぬ。

   ★ ↑ ちなみに、ここに阿闍世が参集し、仏に敬信しているのであるから、「阿闍世が一闡提」などという根拠は全くない。
もし、伊藤真乗がそういっているとすれば、まさに「邪師」の証拠の一つ。

修羅 人 

爾の時に世尊、四衆に囲遶せられ、供養恭敬、尊重讃歎せられて、
諸の菩薩の為に、大乗経を説きたもう。無量義と名づくるなり。菩薩を教うる法にして、仏の護念したまう所なり。仏、此の経を説き已って、結跏趺坐し、無量義処三昧に入って、身心動じたまわず。是の時に天、曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上、及び諸の大衆に散じ、普く仏の世界、六種に震動す。爾の時に、会中の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷と天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩?羅伽の人非人、及び諸の小王、転輪聖王、是の諸の大衆、未曽有なることを得て、歓喜し合掌して、一心に仏を観たてまつる。

■ 人・天・地獄・餓鬼・畜生 界などが救済される文証

譬喩品第三

諸の衆生を見るに、生老病死、憂悲苦悩の焼煮する所と為る。亦、五欲財利を以ての故に、種種の苦を受く。
又貪著し追求するを以ての故に、現には衆苦を受け、後には地獄、畜生、餓鬼の苦を受く。
若し天上に生れ、及び人間に在っては、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、是の如き等の種種の諸苦あり。衆生其の中に没在して、歓喜し遊戯して、覚えず知らず、驚かず怖じず。
亦、厭うことを生さず、解脱を求めず。此の三界の火宅に於て、東西に馳走して、大苦に遭うと雖も、以て患と為ず。舎利弗、仏此を見已って、便ち是の念を作さく、(151下-01)

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● 如来常住

如来寿量品第十六

我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず

我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず(440下-01)

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● 常楽我浄

我今還って、汝をして本願所行の道を憶念せしめんと欲するが故に、諸の声聞の為に、是の大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名づくるを説くなり。
舎利弗、汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし。
号を華光如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊と曰い、国を離垢と名づけん。
其の土平正、清浄厳飾、安穏豊楽にして、天、人熾盛ならん。瑠璃を地と為して、八つの交道有り、黄金を縄と為して、以て其の側を界い、其の傍に各、七宝の行樹有って、常に華菓有らん。(135下-01)

★ ↑ 作仏=成仏 するということは、常住  
また、「其の土平正、清浄厳飾、安穏豊楽にして、天、人熾盛ならん。瑠璃を地と為して、八つの交道有り、黄金を縄と為して、以て其の側を界い、其の傍に各、七宝の行樹有って、常に華菓有らん。
とは、まさに 我浄 

   以下の下線部は 常楽我浄 の意義。

皆、久しく徳本を殖えて、無量百千万億の仏の所に於て、浄く梵行を修し、恒に諸仏の称歎する所と為り、常に仏慧を修し、大神通を具し、善く一切の諸法の門を知り、質直無偽にして、志念堅固ならん。是の如き菩薩、其の国に充満せん。(136下-02)

舎利弗来世に 仏普智尊と成って
号を名づけて華光と曰わん 当に無量の衆を度すべし
無数の仏を供養し 菩薩の行
十力等の功徳を具足して 無上道を証せん
無量劫を過ぎ己って 劫を大宝厳と名づけ
世界を離垢と名づけん 清浄にして瑕穢無く
瑠璃を以て地と為し 金縄其の道を界い
七宝の雑色の樹に 常に華菓実有らん

彼の国の諸の菩薩 志念常に堅固にして
神通波羅蜜 皆已に悉く具足し
無数の仏の所に於て 善く菩薩の道を学せん(137下-12)


汝等若し能く 是の語を信受せば
一切皆当に 仏道を成ずることを得べし(170下-01)
是の乗は微妙にして 清浄第一なり
諸の世間に於て 為めて上有ること無し
仏の悦可したもう所 一切衆生の
称讃し 供養し礼拝すべき所なり
無量億千の 諸力解脱
禅定智慧 及び仏の余の法あり
是の如き乗を得せしめて 諸子等をして
日夜劫数に 常に遊戯することを得
諸の菩薩 及び声聞衆と
此の宝乗に乗じて 直ちに道場に至らしむ


一切の 無上の意を修習し
最後身に於て 成じて仏に為ることを得ん
其の土清浄にして 瑠璃を地と為し
諸の宝樹多くして 道の側に行列し
金縄道を界いて 見る者歓喜せん
常に好香を出し 衆の名華を散じて
種種の奇妙なるものを 以て荘厳と為し
其の地平正にして 丘坑有ること無けん
(231下-01)


其の教を受けて、乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん。利根にして智慧あらん。百千万世に、終に候mならず。口の気臭からず。舌に常に病無く、口にも亦病無けん。歯は垢黒ならず、黄ならず疎かず、亦欠落せず、差わず曲らず。唇下垂せず、亦?縮ならず、麁渋ならず、瘡?ならず、亦欠壊せず、亦?邪ならず、厚からず大ならず、亦?黒ならず、諸の悪むべきこと無けん。鼻?~ならず、亦曲戻ならず。面色黒からず、亦狭長ならず、亦?曲ならず、 一切の憙うべからざる相有ること無けん。(469下-02)


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▲ 以上、法華経と涅槃経の勝劣について縷々(るる)述べました。
ごくかいつまんで書きましたので、まだ書きたいことは多くありますが、キリがないのでこのへんにいたします。
最後に、涅槃経を信奉して法華経を蔑む人々に、この経文を贈ります。

■ 「若し人信ぜずしてこの経を毀謗(きぼう)せば(中略)其の人命終して阿鼻獄に入らん」(『法華経』譬喩品第三)

  ▼ 他人を脅しているのは真如苑ではなく貴方のようですよ?
私は真如苑で「地獄へ行く」などと露骨な脅しを聞いたことがありません。

   ★→ では法華経の経典を否定するのですか? 
これは個人的、感情的な発言などではなく、明確に法華経に説かれている文言ですよ。
それを否定するすれば、あなたは釈尊を否定することになりますよ。
それともあなたは釈尊より偉いとでも?

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 真言宗の教義からも逸脱した愚迷

真如苑は、自分たちのことを

▼「伝統仏教である」
▼「真言密教である」と言い、

▼真言宗醍醐派(醍醐寺)との密接なつながりを楯にして、「われわれは新興宗教ではない」と主張しています。

しかし真如苑の教義等は、本来の真言密教とも全く違う、伊藤教祖の創作教義でしかありません。

  ▼ 伊藤真乗は、確かに真如苑は伝燈法脈を承け、それを基盤とした宗教であるから新興宗教ではないと説きました。
ただ、私たちは真言密教そのものではないのは確かです。
釈迦如来を本尊とするので天台密教かと言われても、また違います。
私は真如苑という一宗一派を立てたのだから、新興宗教だと思っています。
それは鎌倉時代に天台で修行して次々に新興宗教を起こしていった諸聖人と同じです。
既に円教が存在しているならばわざわざ一派を立てる必要はなかったでしょう(現実に多くの僧正方は満足なさっており、わざわざ苦労して一派立てたりしません)。
教義は創作と言われる部分も当然あるでしょう。
日蓮大聖人出生以前には日蓮本佛論など存在しなかったのと同じです。

以下、真言での理論武装は放棄しますので、真言の教義からの逸脱云々にはレスつけません。
私たちは真言宗教徒ではなく真如教徒です。


   ★ → 日蓮本佛論については、そもそも、釈尊は寿量品に
■「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり。」

とあり、五百塵点劫 という永劫の昔、しかし、ある時点において「成仏した」ととかれ、それ以前には「菩薩の道を行寺ていた」と示された。
ここの菩薩の道を行じていた時に、仏法があった理屈になる。
その時の仏は誰か?
そしてその時の法は?
実は釈尊一代の仏教ではこの根本的な重大事が明かされていない。
ここが明かされなければ、実は真実の意味での「無始無終・如来常住」などの法義はまだ未完なのである。
ここの所が、仏教を学ぶ全ての宗派が説明しきれていないところなのである。

更に、法華経文上においても、釈尊より、悪世末法での法華経弘通の行者の方が上位者であるとの暗喩が散見される。
その方はどなかと言えば、地涌の菩薩の上首、上行菩薩である。

釈尊は、自ら、成仏した時から、大集経で説かれる、白法隠没までの「有効期限」のある仏であると、示している。

しかし、その悪世末法で法華経を未来永劫に弘通される上行菩薩は、法華経文上でも釈尊より上位者であるがごとくの表現が随所に示されている。
となれば、その「我本行菩薩道」の修行していた時の「仏」とは誰か?

理の指し示すところ、明白ではないか?

神力品で、釈尊の全ての仏法を相承されて、釈尊の予言通りに悪世末法に出現された上行菩薩こそ、その本地は、久遠元初の本仏であった、ということ。

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 【なぜ涅槃経を依経とするのか】

前述のとおり、真如苑では『涅槃経』を依経としています。
しかし真言宗といえば、『大日経』『金剛頂経』等の真言密教経典を用いるのが普通です。
真言密教と涅槃経は、何の関係もありません。

真如苑も、まこと教団と名乗っていた当時は、これら真言密教経典を使っていました。
にもかかわらず、突如として「涅槃経は素晴らしい経典である」と、涅槃経を採用したのです。
立教の日から、何と15年以上経過してのちのことです。
これは、単なる伊藤教祖の思いつきでしかありません。

● 伝統仏教の場合、まず拠り所となる経典(教え)があって、それによって宗旨が成立しますが、
● 新興宗教の場合はまず教祖がいて、あとから教えが形成されていきます。

真如苑もその典型
です。

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【釈尊涅槃像を祀る不可解】

真言宗という宗派は、釈尊を「迷いの位」とし、「大日如来の草履取りにも劣る」存在であると侮蔑(ぶべつ)します。
そして大日如来を最高の仏として祀(まつ)ります。
これが本来の真言宗です。
にもかかわらず真如苑は、寝釈迦像を本尊として祀っています。
こんなことは、真言宗の世界ではあり得ないことで、完全にその教義から逸脱しています。


● 弘法大師 「弁顕密二教論」 顕密二教判  → 顕劣密勝

→ 顕教 衆生の機根に応じて顕に説かれた教え(顕現浅略)
→ 密教 表面化は顕に知り得ないもので秘密に説かれた教え(秘密深奥)


顕教 @ 応化身 釈尊 歴史上の釈尊 随他意 方便
    A 修行については説く 悟りの境界は説くことができない(因分可説 果分不果説)
    B 三大阿僧祇劫 長期間の修業により成仏
密教 @ 法身仏 大日如来 悟りの境界 随自意
    A 果分不果説である悟りの境界
    B 即身成仏   

  → 釈尊が説いた 「涅槃経」 は方便  → 大矛盾


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醍醐寺からの系譜】

真如苑では、醍醐寺から以下の系譜をもらったと自慢しています。

久遠常住釈迦牟尼如来
→法身大日如来
→普賢菩薩
→龍猛
→龍智
→金剛智
→不空
→恵果
→空海
→聖宝理源大使 (※ ← 誰か?おそらくは祖母)
→佐伯恵眼    (※ ← 誰か?おそらくは伯母)どのように伊藤真乗へ相承したのか?
→金剛真乗(伊藤真乗教祖)
→伊藤真砂子(真聡)


  ▼ 真如苑も密教なので、この辺りまでの入りこんだ教学だと、「正しくはこうです」と申し上げるわけにはいきません。
が、不勉強がよく解ります。
この程度の理解でよく批判が出来るものだと驚きます。
せめて聖宝尊師くらいは調べてもらいたいものです。元皇太子で有名な方ですから。

   ★ → 密教だから人に説けない?
だったら一切衆生をすくえないではないですか?
それとも、誰人にも開示できないような、いかがわしいものですか?
そもそも、真言宗の系譜自体、荒唐無稽な作り話、衆生を誑惑するこけおどし、虚偽・捏造。
真言宗の破折に反論できずに、真如苑の正統性は主張できないではないですか。
真言宗の系譜をチャッカリ自宗の正当化に使っているのだから。

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▲ ここでも、大日如来の前に「釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)」がありますが、これも真言宗としては異常です。
本来、真言宗で言う「付法の八祖」には、久遠常住釈迦牟尼如来などはありません。
大日如来を最高の仏とするのが真言宗ですから、一番は当然ながら「大日如来」です。
そして次が金剛菩薩となり、そして空海までで「八祖」となります。

そもそも真言宗醍醐派というのは、高野山真言宗の他に古義・新義合わせて8派あるうちの一派に過ぎません。
真如苑はこの系譜を「醍醐寺から正式に受けた」と得意満面ですが、こんな系譜は真言宗全体から見れば、単なる「余流の一つ」でしかありません。

▲ ましてや「真如密」などとは、論外中の論外です。
真言宗全体では、まるで相手にされていない存在・・・それが真如苑です。

  ▼ 真言宗醍醐派総本山醍醐寺の下醍醐の境内には、伊藤真乗を記念して真如三昧耶堂が建立されています。
根来山や高野山ともおつきあいがあるらしく、高野山真言宗の僧正様は伊藤真乗を「伊藤さん」と言っておりました。

  ★→ 「だから何?」という回答ですね。 

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このように、真如苑は自分たちを「真言密教である」等々とうそぶいていますが、実は真言宗の教義からも大きく逸脱した、まったく異質な存在なのです。
そもそも真言宗自体が邪法であるのに(第三章 真言宗の項参照)、そこからさらに脱線してデタラメにウソを重ねる真如苑は、まぎれもない邪義・邪宗です。

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 新興宗教と呼ばれることを恐れて、伝統仏教宗派の権威にすがる

現苑主 真聡 苑主補佐 真玲  も同派の僧階を取得 誇示
醍醐派の座主を呼んで法要を執行

実に節操のない、ご都合主義教団

→ 真言宗と離れて別宗派にする必要もないではないか。

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▲ ■ 伊藤真乗の本音

伊藤真乗は、次女(昭和44年に発生した教団内の利権争いにより教団を離脱)に対して常々、

「貧乏人は創価学会へ行け。中流は立正佼成会。金持ちだけが真如苑に来ればいいんだ」

と語っていたそうです。

  ▼ 週刊誌ネタをニューソースに批判をしていたと言う事を自ら述べ、自らは裏付けもエビデンスにもなんら努力しなかったと言うのがよく解りました。
樋田さんからの宿題とはいえ、よく付き合ったものだと自分を誇らしく、そして恥ずかしく思います。


   ★ → 教義的な内容は再反論で摧破した。
それについて再々反論をしてからこういう生意気な口はききなさいね。

また、上記の逸話も、もし虚偽捏造というのならば、大変な名誉棄損となる。
社会的に影響を与えているのだから、信仰の弱い信徒達を擁護するためにも教団として正式になぜ訴訟しないのか。できないのか?

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▲ 要するに、そういう教祖であり、教団なのです。

以上、ごく簡単ではありますが、真如苑の教義についてその邪宗教である理由を述べました。
皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることがありませんよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。

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● 魔の眷属

■ 「若し仏の所説に順(したが)はざる者有らば、当に知るべし、是れの人は是魔の眷属なり」 (涅槃経)」

  ▼ 「善男子、是の菩薩摩訶薩、大涅槃に住すれば、則ち能く種々無量の神通変化を示現す」(大般涅槃経四相品第七)。
つまり、お釈迦様の御心にそって正しく修行すれば霊能をはじめとした神通から、病気が治る等の神通まで種々に不思議な力が現れるとお釈迦様は説かれています。

   ★ → 実に浅薄な解釈。ここは、仏の悟りそのもの(大涅槃)に住すれば、生老病死の根本問題を凌駕し、生と死が永続する永遠の生命の中で、不思議な大功徳を感得し、常楽我浄に生きて続けていける。と言う意義。 

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▲ これが故に、魔の通力として霊能が起こる。
しかし、これは信仰者をして三悪道に堕とさんがために魔が現じるまやかしの能力。
これにのめり込めば、精気や善根を奪われ、必ず 病気・ケガ・事故・犯罪・災害・家庭不和・破産・倒産・対人関係の不調和・などなどが多発し、不幸に喘ぎ、これがために
さらに真如苑にのめり込むようになる。

結果、財産をむしりとられ、身も心も蝕まれ切って、死後は三悪道へ堕とされるのである。

  ▼ エビデンスを出してください。

   ★ → エビデンス。では、自分でも涅槃経の原本から、「提婆達多は一闡提ではない。阿闍世は一闡提」 との経文からのエビデンスを挙げられなかったではないですか。

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● 現証

師は針の如く、弟子は糸の如し

伊藤真乗 一家に似てくる

● 男子早逝 
● 淫欲熾盛 男女間のもつれ 家庭崩壊 
● 女系強盛 家長が脆弱 末は断絶
● 金銭欲熾盛
● 詭弁巧み 狡猾 
● 虚飾に満ち華美を好み  ウソを平気でつく
● 奸智に長け 多くの人から金品などを収奪することに執着
● 表裏のある二面性人格
● 自己正当化に終始する
● 自分で意思決定ができない 全て依存型の思考


  

  ▼ うーん?
私も真如苑をある程度は知っていますが、そういう問題はあまり聞かないですね。また、もしやってしまったら真如苑を追放される項目もあります。
全てが教え中心に動くようになり、他人をそれに巻き込んでも気づきにくいという問題はあると思っていますが。
それと利益とは逆に厄災を受ける事はあります。正に弟子は糸の如しと言わんがばかりの厳しい状況から逃げられないというのは誰もが経験します。

   ★ → ここは双方に事実確認に対して主観が入るので、あえて反論しません。


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● 友司の手記

長男 智文

「苦しみ喘ぐ智文」
「ウウウウム・・・・・と苦しい声を残したきりで、母なる私のひざに抱かれたまま深い眠りにーーー。
(中略)
あの時、智文は決して満足して死んでいったのではありません。
(中略)
何年かかって行けるかわからぬ浄土へ浄土に旅立っていったのであります」



次男、友一

死期が迫りくる中で、病室で喘ぎ苦しんだことが述べられている。
さらにその臨終に際して

「お前、男なら潔く智文兄さんのところへ行って、力を合わせて「抜苦代受」の基となるのだよ」

と、死を励ました、という。

  ↑
守護経 等の経典

■ 臨終に呻き苦しむのは三悪道に堕した証拠

地獄に堕ちた者を頼れば、地獄の生命と感応して、自らが地獄の業苦を感じる。

  ▼ 両童子が臨終に当たって呻き苦しんだという記録は当然残っていません。

   ★ → 上記の手記全文を検証しましょう。しかも、それは母親であり、教団設立の責任者が書いたものであるから、そこに十分すぎるほどの主観と、教団の正当化が入っていることは誰人も首肯できるところである。
その点を考慮しながら、手記全文を検証しましょう。

  ▼ 樋田様はその臨終を見たのでしょうか?「うううむ」がその根拠ですか?
人は「阿」と言って生まれ「吽」と言って死ぬといいますが?
まして、両童子が地獄へ堕ちたと断ずる根拠は何ですか?

   ★ → 手記から
●「苦しみ喘ぐ智文」
●「ウウウウム・・・・・と苦しい声を残したきりで、母なる私のひざに抱かれたまま深い眠りにーーー。
(中略)
あの時、智文は決して満足して死んでいったのではありません。

上記の如く、実の母親であり、教団設立者が書いた文章である。
当然、教団を正当化する文言であるはずのところに、ここまで悲惨な状況が書かれているとすれば、実際は、もっと凄惨な死に方であったことが類推される。
また、この記述の通りだとしても、これまさに、守護国界主陀羅尼経 阿闍世王受記品第十 に説かれる地獄へ堕ちる相を想起させる状況である。

一は自の夫妻男女眷属を惡眼もて瞻視(せんし=見る、見守る。)す。
二はその両手を挙げて虚空を捫?(もんぼ=悶絶のこと。)す。
三は善知識の教えに隨順せず。(不相隨順(ふそうずいじゅん)=不相は「〜がない、しない」隋順は従う事。)
四は悲號啼泣嗚咽(ひごう ていきゅう ういん=悲しみ、大声をあげ、さけび、むせび、泣くこと。)して流涙す。
五は大小便、利を知らず覚えず。
六は閉目して開かず。
七は常に頭面を覆う。
八は臥して飮?(いんだん、いんたん、?=喰らう事。)す。
九は身口臭穢。(しんくしゅうえ)
十は脚膝戰掉(きゃくしつせんじょう)。戦=おのの-くそよぐ掉=じょう(2) 脱落する(3) なくす,抜け落ちる(5) 逆方向を向く,向きを変える(6) 互いに取り替える,入れ替える

十一 鼻梁欹側(びりょういそく)。欹=い そばだてる。そば立つ
十二 左眼[目*閏]動(さがんじゅんどう)。
十三 両目變赤。(りょうがんへんせき)
十四 面仆臥(めんふが、めんぼくが)。仆=たおれる。
十五 ?身(けんしん=身が縮こまるorうつむく様)して左脇を地につけて臥せる。

少なくとも、以下の天界以上に生じる状態ではない。

一は憐愍心を起こす。

二は善心を發起す。

三は歓喜心を起こす。

四は正念が現前す。

五は諸の臭穢無し。

六は鼻の欹側(いそく)すること無し。欹=そばだつ。そばだてる。

七は心に恚怒無し。

八は家財寶妻子眷屬に心に愛戀すること無し。

九は眼色清淨。

十は仰面して笑を含み天宮まさに来たりて我を迎うと想念す。


更に教義的に解析すれば、当時、伊藤夫妻は真言の修行にのめり込み、神憑り、立教したのが昭和11年2月8日
その後、成田山新勝寺(真言宗)と縁を結び、「立照閣」設立に動いていたその最中、同年6月9日つまり、立教から4か月後に、三歳の長男な急死。

これは、まさに貴方が反論を放棄した、真言宗 の害毒に他ならない。
既に真言宗は、道理・文証によって「亡家、亡国」「主人・長男 立たず」「男子早逝」と喝破されきっている、低級な邪仏教である。
その悪しき現証そのものではないか。
(しかも、その後、次男までも15歳で亡くしている。これ「男子早逝」の厳罰の現証以外何ものでもないではないか。)
その低劣・邪悪な宗教による害毒によって死んだ者が、地獄もしくは三悪道に堕ちないはずがない。
ましていわんや、後々、こじつけられて祀られるような、人々の苦しみを「抜苦代受」できるような境界に居られよう筈もない。

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● 四人の娘 強い霊能力者 → 仏性を開拓して最高の境界に至っているはず
→ 骨肉の争い → 長女・次女が離脱 → 自殺を計った三女が苑主 

→ 救われない見本

  ▼ 霊能者の中でも最高位にあるような者が辞めて行った例は伊藤家の身内に限らずいくつかあります。
ところでお釈迦様にはラゴラ以外に二人の兄弟が居たと言われます。
ゼンセイとウパマナです。
彼らはお釈迦様の子であっても、教団を去りました。

ところで日蓮大聖人はお釈迦様を「久遠実成の佛」とし、自らを「久遠元初の佛」としてお釈迦様より自分が偉いとしました。
時代は下って、近年、法華経の信者の講に過ぎなかった創価学会という組織に池田 大作という増長慢の者が出て、本山法主よりも自分が偉いと言いました。
実に因縁めいた話です。

伊藤もお釈迦様の後を追って修練した結果、長女・次女が脱落したのは断腸の思いだったでしょう。
因縁めいた話です。

  ★ → 良く、新興宗教内で内紛が起こると、使われる使い古された教団擁護の内容。

近親の者が離反することは、つまりは、その元の方が、仏・あるいは正師に対して仏法三世の通例・通軌として起こる現証か、それともただの邪師・邪宗教なるが故に
その害毒により人間性破壊し起こる内紛劇か、その相違である。

そもそも、伊藤真乗が末法の救済者と成り得る経典上のエビデンスは? 
しかも、離反した長女・次女は教義上での内容では全くないではないか。
ただの色情と、欲・権力などのもつれ話。
世間の企業での後継者の醜い争いと何ら変わりない。

長女・次女が真如苑を去るにあたっての証言

よく、教団が、批判的な世間の記事やリポートをして、「低級・低俗・興味本位のガザネタ」 と下す事例が多々あるが、最近の「文春砲」の事例にも顕著だが、そういう週刊誌記事が引き金となって、政治家が辞職に追い込まれたり、あるいは事件として警察が動き出して犯人逮捕に繋がったり、という事例は多数ある。
つまり、週刊誌が記事とする場合、そのエビデンスは確実に取られており、確固たる証拠があるが故に世に発表している、というケースが大半である。
にもかかわらず、宗教関連だけは根拠のないガサネタで、記事を構成するなど在り得ない。
もし、上記の記事内容が全くの虚偽・捏造というのならば、教団として堂々と名誉棄損で訴訟を起こすべきであろう。
信徒に姑息に 「週刊誌ネタは全部いいかげんなデタラメよ」 と吹聴し洗脳するよりは、訴訟によって自らの主張の正当性を証明する方が遥かに明快ではないか。
迷いがちな信徒に対しても教団としての責任が果たせるというものだろう。
慈悲を旨とする仏教教団ならば猶更のことである。
信薄き信徒をどこまでも迷わせないようにとことん配慮するのが教団運営者としての義務・責務である。

さて、では、上記記事に対して真如苑は名誉棄損等の裁判を起こしているのか?
していない。ということは内容に対して、 「そんなのウソデタラメ。」 と断定する資格も根拠もない。ということである。
もし、本当に 「嘘・捏造」 と否定するのならば、それを社会的に立証し、証明しきらなくてはならない。
真如苑が何らかの方法で捏造記事であることを立証しない限り、社会通念上、上記の記事内容に即して論じることを無視したり否定する権限は真如苑側には存在しない。

以上の道理によって、上記記事を今後も採用しながら論じていく。

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    ★ → 以下は、記事自体も脱会者などの個人的感想や体験であり、また貴方の回答や反論も個人的体験や感想・意見であり、特段反論はしません。

ただ、こういう体験や感想を持っいる人がかなりの数で存在している。ということを理解して、真如苑が邪教であること。伊藤真乗が邪師であることに目覚める、少しでもお役に立てればありがたい。

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真如苑20年 脱会者の観察

※教団の抱える問題

・教団の言うことは「はいっ」と素直に聞くのに、非信者の言葉は聞き入れない信者が多い。


  ▼ ありますね。そういう所。
私もその一人だからこそ、こうした書き物に励んでいるのかもしれません。
マトモな人間ならバカらしくてやらないという事は自覚しながら書いています。

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・支払いをしつこく勧めたり、 家族を捨て置いたり嘘をついて集会に参加したりする信者が多い。

  ▼ 嘘をついて参加はあると思いますが、支払いをしつこく勧めるのはどうでしょうか?
はっきり言って真如苑は財務的には潤っていると思います。
その辺りでの問題は起きにくいと思います。

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・教義が、原始仏教とも、伝統仏教とも隔たる反面、 「伝統仏教」を標榜。

  ▼ 教相が真言密教のままですからね。
ですが、伝統佛教を標榜しているというのは言い過ぎでしょう。
真如密という一派であって、教義は真言とはまるで異なっています。

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・信者たちは、自分の霊位向上?にしか興味を示さず、いざという時には利他どころか 「知らん振り」することが多い。

  ▼ 人によりますが、今、私は正にそれで悩んでいます。
「こんなに暖かい人見たことない」という人に出会ったのは真如苑ですが、「これほど冷たい人は見たことない」と思う人にもやはり真如苑で出会っています。

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・接心修行により、自立的精神が損なわれたり、強迫観念、依存症に悩む者が多く発生している。

  ▼ 真如苑には精神を病む人が多いと言うのは聞いたことありますが、私の知る限り他の問題を抱えている人が多いです。
概ね人の悩みとは病気か経済苦か家庭不和のどれかですね。

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・入信は容易だが脱退は困難である。

  ▼ そんな事は無いと思います。
皆さん冷たいから、来なくなった人の事など放置だと思います。
私が辞めても誰も何も言わないだろうなと思っています。

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・勧誘者が、組織内での自分の位階の上昇および維持のために 「勝手に信者登録」したり、本人に「内緒で籍を残したり」する被害が多い。

  ▼ 勝手に信者登録は流石に少ないでしょうが、あるとは思います。
内緒で籍を残すのはあります。これは言い訳できません。

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・脱退者は全員欲の権化であり、必ず不幸になる。教団を誹謗すれば必ず不幸になる。
 罰という概念は無いが、入信して教団に貢献しなければ、必ず因縁に襲われ不幸になる。と「教書で教主が明言」している。

  ▼ これはどうか解りません。
そこそこで違うと思います。
私の所ではあまり「不幸になる云々」的なネガティブ脅しではなく、「教主様に申し訳なくないの?」的な狂信的脅しが多いですね。

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 「霊能」や「接心」は人を惑わす外道の義

 真如苑では、神がかりの霊能者から霊言を聞いたり、指導をうけることを奨励し、また、霊能者になることをすすめている。
しかし、心理学からみれば、心身に強いストレスを与えれば、誰でも神がかったような状態になる可能性があるといい、また、神がかったという者が発する霊言なども、深層心理が言葉にあらわれているにすぎないという。
したがって、霊能者による接心などはまったく無意味なことであり、かえって人を悪道におとす行為にほかならないのである。

  ▼ この説明では霊能者が、それが目的ではないにせよ、先祖の事や自分の現状を言い当てる事象の説明にはなりません。

 また、真如苑の霊能者にはマニュアルがあって、これによって霊言を述べているという。
これでは霊言などとはいえない。

  ▼ マニュアルとはどのようなものですか?
これでは「これでは霊言などとはいえない」とは言えないです。

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  落札された仏像


 平成20年3月、 ニューヨークのオークションで、 運慶うんけい作とされる「大日如来像」を落札した団体、それが真如苑である。
その額、なんと、日本の美術品としては過去最高となる15億円とも言われている。
 落札の動機について、同教団の西川総合企画部長は、仏像に「深いご縁を感じる」などと説明したが、過去にも運慶作と伝わる不動明王像を勧請かんじょうしており、それもうなずける話か。
運慶が大好きかはさておき、 この落札は、 教団の潤沢じゅんたくな資金力をアピールして宣伝効果を狙った売名行為とも推察できる。
そんなにたらふくお金があるのなら、世のため、人のため、もっと他に使い道があるだろうに・・・。

  ▼ これは?
何が悪いのですか?文化財は結果的に保護されました。
真如教団は確かにお金を持っているでしょう。その使い道は文化支援、人道支援がほとんどです。
真如苑がいくつの財団法人を抱えて社会奉仕活動をしているかくらいは調べてから書いていただきたい。


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  「身代わり」童子様


 真如苑と言えば、霊的能力を開発し、霊言指導を行う「接心せっしん」が売りだが、他にも興味深い教えがある。
その一つが「抜ばっ苦く代受だい」。
これは夭折ようせつした教祖の二人の息子(両童子様)が、霊界にいて、代わりに信者の苦しみを引き受けてくれるという、有り難い狂義である。
しかもこの利益は、長続きしないところがミソ。
精進しないと、効果はすぐに弱まるらしい・・・。
 しかしながら、この世界には、他人の業や苦しみを肩代わりできる因果の道理はない。

  ▼ 前述のとおりなので省きます。

 また「接心」は、許可が下りるまでに、クリアしなければならないことがいくつもある。
やっと接心してもらえると思いきや。接心にはランクがあり、初心接心に何回、向上接心に何回、相談接心に何回と、際限がない。
しかも、これらの接心に参加するには、必ず寄付金が必要とされる。
 まるで、馬の鼻先にぶら下げた人参のように、いつまで走っても辿ただり着けない方法で信仰心を煽あおるのだ。
一体どれだけ商魂たくましい手口なのかと、憤いきどおりすら覚える。

  ▼ まず、真如苑の霊能とはもの当ての為ではなく、涅槃経の理を理解するためのものです。
従って、相談以上の接心を頂くには向上接心を6回以上というような規則があります。
緊急を要する場合には代理で頂くこともできます。
これを人間本位に当たった当たらない、叶った叶わないという考え方で頂いてはいけませんと言う事を制度で担保しているにすぎません。

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真如苑は矛盾だらけです。

1.人を救う教えと言いながら有料。
会費を払って入信し、有料の占いで因縁霊を示され、唯一のホンモノの供養とやらを有料で行わないと救われない。

  ▼ 全く無料で全てをしてくれる宗派があるなら教えて下さい。
現実問題として私の知り合いで生活保護を受けながら教えを求めている人が居ますが、この方は幸せに生活を営んでいます。
毎回、供養なども最低限しか行う事が出来ない方です。
お金はなくとも心が涅槃経に即し、涅槃経に示されるように真心のある生活をしていたならば救われるという好例だと思います。
私は腐るほど金があるわけではありませんが、真如苑にはそれなりに金銭的に貢献しています(逆に言うと金銭的にしかできない)。
ですが、私は様々な問題を抱えて潰れそうです。
佛の世界に金銭は関係ないと言うのは、実感として本当だと思っています。


2.勧誘行為を重要な教義にしているのでネズミ講と同様に破綻が約束されている。
人口100人の孤島で布教したらあっという間にお救け出来ない信者だらけです。

  ▼ だから何でしょう?
おおよそ仏法という有難い宝を頂いたものは、法華経であろうが浄土教であろうが涅槃経であろうが、その宝を弘めるのは至上命題です。
逆に言えば、例えば法華講の弱さは、結局、出家、在家の隔たりは埋まらないという事にあります。弘めても弘めなくても一信者。
涅槃経は在家、純陀に説かれた在家であっても救われる教えです。
但し、純陀は同僚15人を連れて行った。つまり、法華で言う広宣流布を実践していたわけです。
よって釈尊は文殊菩薩よりも純陀を釈尊は選ばれました。
真如苑で霊能者となって、他人の教化をする。または、霊能者にならずとも、他の集会にお邪魔して他人様のお悩みを聞かせて頂くには相応の実践の実績が必要です。
教えの実践としての布教活動を行う事の何が悪いのでしょう?

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3.信者が恐れる先祖の因縁とやらは、人類の数万年に渡る世代交代の事実を考えると無意味。
苑が脅す先祖因縁が事実なら、人類は数世代で滅んでいるはずですよね(笑)

  ▼ 因縁は医学的には遺伝だと、ある医師の真如教徒は言っていました。
そうであるならばガン家系であれ糖尿家系であれ、別に滅びはしませんね?
例えば色情的な問題を起こす家系や盗みをする家系なども現実にあります。
根拠のない言説ですが、私は「因縁」は存在すると信じています。
そして、それを変えられるのならば、その努力もしたいと思っています。


なぜしつこく勧誘するのか信者でしたらご存知ですね

▲ 勧誘行為を「おたすけ」と言い換え、勧誘行為ではなく救済活動であるかのように錯覚させている
救済の理由は、唯一の救いの教えだから。
家族・知人を救うには入信しかないという思い込み

  ▼ よく意味が解らない文章ですが、「おたすけ」とは人を涅槃の理に導く行為です。従って縁を結んだだけではお救けではありません。
法の上での親子関係を持つことですから、容易な事ではないのです。
これは他教でも同じだと思います。

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▲ 教義の中の、重要な修行として勧誘行為が必須である
勧誘しなければ徳が積めず霊位が上がらない仕組みなので、自分の為にも勧誘行為が必須

  ▼ 涅槃経の行者でもないのに(霊能者として)涅槃経は説けませんからね。
当たり前の事です


▲ 真如苑では「まず足元の和合から」という言葉がよく使われます。
これは実際には家族全員の入信を目標にしろという家族勧誘のスローガンです。
何故、家族と仲良くするのに入信が必要なのでしょう。

  ▼ 誰が「家族全員の入信を目標にしろ」と言っているのですか?
家族と仲良くするのに入神が必要という話も聞いたことがありません。
私の指導者に当たる人も、御主人は信者とは言えない人でしたが私の指導者は霊能者です。

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▲ それは、非信者から見ると教祖一家を拝みインチキ占いを信じ、必死で献金と勧誘と施設掃除をする信者が「まとも」に見えないからです。
家族であれば間違いなく反対します。
反対させなくするためには入信させるしかないからなのです。
現実には家族関係が崩壊する悲惨な事例が非常に多いです。
そこで、信者は家族に平気で嘘をつき信仰を隠します。

  ▼ 申し訳ありませんが、これ以上、個人の感想文にはおつきあいしかねます。
「まとも」に見えるかどうかは個々人の判断であって一概に言えることではありません。
そういう見方もできますねと言う感想文でお返しします。

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▲ 平気で嘘を付くようになるという特徴も、不審の要素ですね。
勧誘時にまず新興宗教である事を隠します。
「一緒にお寺にいってみない?」
「人生相談できる場所があるから」
など、あの手この手で巧みに施設に誘い込みます。
そして、「精進願」が入信手続きである事を隠して、あたかも施設に入る手続きであるかのように名前を書かせたり、勝手に書いたりして入信手続きを済ませるケースもあります。
▲ お助けの為の嘘はついても構わないと指導されているみたいですね。
でも、嘘をつかれる側はとても傷つくのですよ。

  ▼ 推測でものを言って勝手に論を展開されても困ります。
お救けの初期段階で嘘をつけば、後々厄介なことになります。
もしかしたら貴方の指導者はそういう人だったかも知れませんが、真如苑の教義として「嘘も方便。何でもいいから引きずり込め」的なものはありません。


▲ 「お金は全然かからないの」という嘘も定番です。
「毎月わずか200円しかかからない」というのが嘘だという事は、信者の皆さん全員よく分かっているはずです。
「それ以上のお金は一切強要されないから払わなくても構わない。だから嘘じゃない」という苦しい言い訳もよく聞きます。
そう言う信者に「あなたは年間どのくらいのお金を苑に払いましたか?」と質問すると一様に口をつぐむか、少ない金額の嘘を平気でつきます。

会費は毎月200円、でも、
信仰を始めると最初に色んなグッズを購入しなきゃならないし、
有料の接心を受けなきゃならない。
一口500円のオセガキもしたくなる。
悩み事や相談事はさらに高額の接心を受けなきゃ気が済まないし、
年中行われる色んな行事に任意の献金もしたくなる。

全部本人が望んでやってる献金だから、お金を出したくなければ出さなくても良い? 
そうじゃない事も信者は分かっていますよね。 
「献金は大切な3つの歩みの一つ、徳を積み仏を目指すにはお金が必要」ですから。

  ▼ 私の感覚では、何であれ身に付けたければ時間とお金と労力が必要だという事です。
ですから私は最初から、そうお話します。
ですが、先ほどの生活保護の方のように、金銭で困る方であっても求められない教えではないのだなと経験しています。
人それぞれ、教えを求めるにも立場があります。
それぞれに応じた求め方をするより無いでしょう。
霊位とか教師の僧階とかを追い求める人もいますが、それはそれで。
自分の出来る小さな事に励んでいくというなら、それはそれで立派です。
どちらが救われて、どちらが救われないというようなことはないと思います。

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▲ お金が無い人、勧誘しない人が救われない宗教なんて、いかがわしいと思われて当然です。

あなたは、この知恵袋に寄せられる多くの悩み、相談をちゃんと読んでおられますか?
知人、家族からの執拗な勧誘や信仰の強要に苦しむ人達の声、
脱苑に悩む声、

それらの相談を誹謗中傷のでっちあげだと言う信者もいます。
本当に酷い話です。

何故批判されるのでしょうか? 
その答えは簡単です。 
非信者から見ると「まとも」ではないからです。
そして、その被害が実在するからです。
普通の人を「まともじゃない人」にしてしまう教団は危険なカルト教団だと糾弾されて当然でしょう。

補足します。
かなりキツ目の意見になってしまいました。
もしorange123mさんが未成年でしたら、よくわからない部分もあるでしょうね。

  ▼ すみません。私もよく解りません。
真如苑をやっている人=マトモじゃない(根拠:被害が実在している)?
およそ世に現れた宗教で最初から歓迎され、「マトモ」と言われたものはありません。この意味で真如苑も「マトモ」ではないのかもしれません。また、真如苑を行う事によって被る被害ないし不快は間違いなく存在すると思います。
ただ、貴方の論の立て方では単なる「文句」であって、論理体系を立てての反論は出来ません。畏まって承るのみです。

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▲ >何事も“やってあげる”ではなく、自分から“やらさしてもらう”なのです。
>「自分を一段下げて、相手を敬う」ということですね。

それは何のため?
と考えた事がありますか?
相手のためにやらさせてもらう?
何故?
結局自分のためという事?
疑問を持つ事はとても大切な事です。
でも、苑では疑問を持つ事を禁じられます。
疑問を禁じる理由にも疑問を抱くべきです。


  ▼ まぁ、この辺は密教ですから「やってみて言いなさい」という理屈にどうしても収斂します。
私も、最初から「両童子様すげえ」とか「継主さまってすげえ」と思っていたわけではありません。
最初は「赤ちゃんを拝む怪しい宗教」以外に感想の持ちようがありませんでした。
全て体験を通しての「なるほど」の積み重ねですね。

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▲ >周りの人に信頼される、「いい人」になっていきましょう。と・・・・・

▲ 精神的成長の過程で「いい人」になろうとするのはやめた方がいいです。
私の経験上、心に無理がかかり人格形成に不自然な影響を与えます。
「いい人でなければならない」という強迫観念に繋がると人間関係の構築に大変苦しい思いをする事になります。

あと、和合という言葉は日本では昔から性的な意味で使われていますので苑の外ではあまり使わない方がいいですよ。
誤解されます。

  ▼ 賛成です。
私も真如教徒に精神を患う人が多いと言うのは、この「良い人」になろうとするからだと考えております(実際は、そんなに単純な事ではないでしょうが大まかに言えばの話)。そう思えば思うほど、ダメな自分、ないし出来ない自分に落ち込んでしまう。
逆に、「題目を唱える自分」を全肯定する創価学会などは、周りが見えなくなってしまう。
指導者は、この辺りに注意しないといけないと常々思っています。

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  ▼ 以下、フライデーの記事については長女・次女の言い分ややらせが多く、議論すべき余地がないので、聞きたい所だけ絞って聞いていただけますでしょうか?

こちら側の言い分としての事実関係だけ申し添えます。

・長女の夫、幹二は覗き行為などがあった事は真如苑学生夜警の記録に残っています。

・後妻である松島氏は長女の強い勧めで再婚となり、これに反対した三女などは真如苑を追放されました。なぜ伊藤真乗が何も言わずに受け入れたのか、記録にはありませんが当時、皆が噂していたことです。

・次女の焼香騒ぎは、実際には次女がフライデー記者を引き連れて真如苑慧燈院に車で乗り付け、輪宝にヒールをひっかけて敷地内に潜入しようとしたところを警備の者が止め混乱した所を撮影、記事にしています。

輪宝にはその時のヒールの傷が残ったままでしたが、真如苑ではあえてそれを修理せず、「自分の心にも破壊の心はないか」と問うために残していました(平成8年頃の話)。

なお、長女、次女、どちらも結局は権力によって正気を狂わされたと考えております。
人はお金を持ちすぎたり、分不相応な権力の座に座ったり、ハニートラップのような色情には本当に弱いです。
真如苑の最高幹部まで登りつめ、紫の衣(教団の重役)を与えられたものでもこれらのどれかで躓いています。

最近では、現真如苑主 伊藤真聡の妹、乗鈴も権力欲しさに姉との不仲が噂された時期がありました。
涅槃経にも「闡提とは見極めがきわめて困難で、また、予め決まっているものではない」と示されています。
昨日までの聖者が、今日は悪魔になっているかもしれない。
故に釈尊は、どこまで修行が進んだ弟子に対しても「それでよし」とはされませんでした。

釈尊最後の言葉は

「ヴァヤダンマー・サンカーラー・アッパマーデーナ・サンパーデータッパン」
(おしなべて 常にこの世は移りゆく 皆怠らず 勤めはげめよ)

でした。

私はこの釈尊の御遺言を承け、真実の教えは何か?を求めている次第です。

        −合掌−

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● 伊藤真乗の長女 映子氏の証言

■ 長女・次女が告発 真如苑教主カネと女の乱脈 

小誌八月三日号既報の通り、信者による暴行で、教主・伊藤真乗の長女は全治一週間の打撲傷、次女は三週間の入院を強いられた。 
かつて四姉妹が君臨し、数多くの女優が入信する宗教として一見華やかな真如苑に、いったいなにがあったのか。 
石もて教団を追われた長女・映子さんが、敢えて父の罪を告発する。 

■ 真如苑は、映画「マルサの女2」のモデルになった教団だとか、お手当てを出して女優さんに教団をPRさせているとか言う人がいます。 
かつてそこに籍を置いた者として、それは信じたくないことですが、もし真如苑に問題があるとすれば、それは、
「教主である父親の異常なほどの性欲と、 お金への執着心」が原因です。 

七月十九日に亡くなったばかりの父親をそこまで言うのは、何も父が惜いからではありません。
父の後桧者である私の妹たち,信者たちに目覚めてほしいからこそなのです。 

教主は教団の台所を担当する女性を総ナメして、まるで大奥のようでした。 

古参幹部のKさん、私の息子の乳母役だったKさん、それにその後父が再婚した松島文枝さん……、数えあげればキリがありません。 


「次女・鈴木孜子の証言」 

「母が亡くなる前の晩でした。
私が『お父さん、お母さんはもう長くないよ』と言うと、父は、

▼『おれにはこんないい娘が四人もいるから再婚なんかしない』 

とはっきり言い切りました。
それが父ときたら、母の通夜になるともう、それも母の遺骸を前にしながら、

▼『女なら誰でもいいわ。早く再婚したい』

と言いだしたのです」 
初七日もすまないうちに、父は私たち夫婦にこう頼みました。 

▼「いいか、お前たちがオレに再婚を勧めたことにするんだぞ。
オレは再婚する気持ちはないことにしてな。
早く女を世話しろ」 


また、母の本葬の日、父と夫の間でこんな会話があったそうです。 

▼「幹司、お前いくつになる」

 「三十一歳です」

▼「若いな。お前、映子とうまくいっているのか?」

 「(夫婦仲の意味で)はい」 

▼「お前たちなら毎晩でもできるだろうな。オレはもう我慢できないんだ」 

夫は、これがすべてを捧げてきた教主様の言うことか、と信じられなかったそうです。 

それで仕方なく私たちと最高幹部が相談して、先ほどお話した二人のKさん、同じく信者のIさん、順天堂大学病院看護婦のAさん などを候補に挙げました。その中でも、看護婦で教主の健康管理も安心して任せられるAさんが適任だとの結論に達しました。 
すると父は

▼「おれはあんなバアアは嫌だ。相手は映子(当時34歳)より若くてもいいくらいだ」

と、言い出したのです。 


■ 母の死で金銭感覚が一変」 

金銭感覚も、母が亡くなった後ではまったく変わりました。 

教主の誕生祭(三月二十八日)には、万単位のお金の入った熨斗袋がお祝いとして信者の方々から入って来ました。 
母の生前は、それはすべて、いったん教団の財務(会計)に入り、後でその一部が父のところに届けられましたが、 
母の死後は、父はそれに不満を鳴らすようになりました。

▼「真如苑に入ったものの中からもらうんじゃおもしろくない。 
誕生祭のお祝いなんだから、まずオレがもらうんだ。そこから財務にやる」 

父は自分のベッドの下に井村屋のダンボール函を置き、その中に札束を入れるのが癖で、 

▼「映子、見てみろ。今年はダンボール何函だ」

その中から逢瀬のホテル代を抜き出したりしていました。 

後に周りから再婚に反対された時のこと、教主は旅行カバンに札束を詰めて、

▼「皆が反対するから、オレは家を出る」 

そうして裸足で出て行こうとしたこともありました。 


当時信者数は15万人ほどでしたが、宗教団体というのは有力な「票田」です。
中でも本部のある立川市には信者が多く、例えば立川市議会議員などの選挙は金儲けの絶好のチャンスで、"票を売る"のが通例でした。 
選挙が近付くと教主から指示が出ます。 

▼「Nは百万円出すと言うから、Hには150万円要求しろ」 

それでH陣営がその通り出すと答えると、 またN陣営に連絡します。
それも水増しして、

▼「Hは二百万円出すと言っているがお宅はどうしますか」

そうして吊り上げておいて、投票直前に高い方に信者の票を売るわけです。 
それでも、開票速報を見ていて、推薦した候補が危ないことがあります。
すると、教主はその候補に電話をかけてしゃあしゃあと、

▼「危ないようですな。いやあ、票は水ものですからな、 ハハハ」 

そうして票を売って得たお金は、すべて教主のポケットマネーになりました。 

一度、夫が
「教主様、そんなことなら、事務局から一人立候補させたらどうですか」
と言ったことがありましたが、

▼「幹司は若い。そうしたらお金が入らなくなるだろ。オラ知らね」
  
"オラ知らね"というのは山梨弁で、父の口癖なのですが、父にとって宗教は商売のタネだったようです。 



■ 「添い寝させられた娘たち」 

父の気に入る人が居ないので、とりあえず元女優で信者のWさんに“面倒”をみてもらうことになりました。
けれど、母が亡くなって間もない時期に子供が出来たら、信者に言い訳ができません。 

それで、「お父さん、子供が出来ない様にしてもらえませんか」と頼むと、父は、

▼「お前たちはそんなもの(避妊具)を使っているのか、そんなんじゃダメだ」 

仕方なく、もしも父の子供を宿したら、Wさんと私の夫の間にできた不倫の子として堕胎することに決まり、手術はかかりつけのT医師の病院でする手筈にまでなっていました。 
父の再婚相手が決まるまで、夫のいる私でさえも、添い寝の役をさせられたものです。

次女孜子の証言

「私とすぐ下の妹の真砂子も一週間交代で父の添い寝をさせられました。 
父は『郷里の山梨では父親と娘が関係することもあるんだぞ』と、親娘のセックスを匂わせました。 
当時、私は婚約中で、その相手から、『親不孝と言われてもいい。教主様とだけはやめてくれ』と頼まれました。
幸い、そばに寝ていればいいだけで、肉体関係はありませんでした。 
でも、父が夜中にお手洗いに行くたびに布団を直してやったり、時々起きて寝相を見てやったり、いくら娘でもそれは辛い仕事でした」 

その後、末娘・志づ子の勧めで、友人のお母さんである松島文枝の名前が上がりました。
父は大変乗り気でした。
父とその女性の初デートの日---。
当日は私たち夫婦が同行することになっていましたが、大雪で電車も車も動きません。 
それでも、教団本部のある立川から電車を乗り継いで、なんとか東京駅に着き、近くのホテルまで連れて行きました。 

▼「お前たち、映画でも見てこい」

父は上機嫌です。
しばらくして迎えに行くと、

▼「映子、ありがとう。文枝とは切っても切れない仲になった。本当に感謝しているぞ」 

それは母の一周忌も済んでいないうちのことでした。 

母の友司は、心臓発作で死んだことになっています。
しかし、実際は「後退性鬱病」といった症状で、少しずつ衰弱していきました。
はっきり言って、母は父の女性問題に悩んで体を悪くし、死んだのだと思っています。 
女性に走る父に「お父さん、お父さん」と、か細い声で呼び戻そうとしていた母の声が今も耳に残っています。 

昭和四十二年、母はべッドで休むことが多くなりました。 
ある日、母が休んでいる部屋から父の怒鳴る声が聞こえてぎたので、私と夫の幹司の二人で駆けつけました。 
すると父は、

▼「三月以降、何方月も妻の役目を呆たしとらん。実家に帰れ」

と怒っています。 
病気で衷ている母に、父は無理に関係しようとして拒否されたらしいのです。
その時、父は六十一歳、母は五十五歳でした。 
夫がたまりかねて、「教主様、それは苑主様(母のこと)がご病気ですから」とかばうと、父はさらに逆上して、あろうことか、 

▼「映子、見てみろ。幹司と母親は親子丼だ!」

と言って、母に、「ヤカン」を投げつけます。
そんな夫を見て情けなくなった母は、 
「お父さん、この年になって孫もいるのに、実家に帰れないでしょう」
そう言いながら、涙を溜めた目で父をじっと見つめていたものです。 
母の死後、性欲を抑えきれない父に、当時ピンク女優として映画に出ていた女性を寝所に送り込んだこともありました。 


■ 「教団に頭は二つ要らね」 

教団に追い出されてから、私たち夫婦は生活に困りました。
手元には私の退職金が1140万円あるだけ。
夫は追放処分ですから退職金はゼロ。
まず37坪の家を買い、電気釜から買い揃えなければなりませんでした。 
夫が就職しようとしても、履歴書の「真如苑」が採用を妨害しました。
人事担当者が教団に問い合わせると、教団の人間が夫の悪口を言うのですから、それも当然です。
私の裁縫と編み物で細々と食いつなぐ毎日、 どれほど教主を、教団を恨んだことでしょう。 

「次女の証言」 

▼「姉が出て行ってから、父は、『妹たちが束になってもおまえの霊能にはかなわないから、お前に真如苑を任せたぞ』

と言っていました。
それなのに、私の力が教団内で強くなってくると

▼『教団に頭は二つ要らね。オラ知らね』 

と私を追い出しにかかったのです。 
私は、城南支部があった奥沢(世田谷区)の土地と家屋(当時で5000万円相当)を退職金としてもらいました」 

私たちは「闡提」(仏教用語で救われない弟子)の烙印を押されました。
けれど、私は教団に楯突いたことも無ければ、信心をやめる、と言った覚えも無いのです。
闡提と言うなら、亡き父に手を合わせに行った私と孜子に集団リンチを加えさせた真砂子と志づ子こそ、その言葉がピッタリです。
父の後継者となった2人は、信者たちの行動の責任を取るべきでしょう。 

父が亡くなった直後に父の恥部を世間にさらすのは、娘の取るべき道でないことは承知しております。
でも、8月28日の本葬が済むと、父は教主から教祖となって崇め奉られてしまうのです。 
 私たちの真意を、信者の方にもわかっていただけると良いのですが。 

「次女の証言」

「財務を見ていた母が亡くなってからは、教主のお金に対する考え方が変わりました。
私にこう言ったこともあります。

▼ 『オレはもう宗教家でなくていい、宗教屋で』。 

信者さんから歓喜(真如苑独特の用語で寄付の意味)を受ける態度も横柄になりました。 

▼『おれは百万や二百万じゃ(歓喜する信者に)会わない。孜子代わりに受け取ってこい』

"長者の万灯より貧者の一灯"という諺は、真如苑には適用しなくなっていたのです」 

43年の暮れになって、父親の再婚話で、教団幹部を巻き込んだ騒動が持ち上がりました。
強硬に再婚に反対した孜子は父親から勘当を言い渡され、真砂子と志づ子は家出してしまいました。 
私も再婚には反対でしたが、長女の私まで出て行ったらお父さんが一人ぼっちになってしまうと思い、夫とともに教団にとどまりました。 
しかし、結婚に反対しない私たちに教主は

▼「文枝と結婚させてくれないのはヘビの生殺しと同じだ」

の一点張りで、次第に私たち夫婦を疎ましく感じるようになったようです。 
44年9月、当時、教務長という教団ナンバー2の夫に内容が知らされないまま"宗教裁判"が開催され、「義妹たちの風呂を覗いたり、暴行を加えたりした」という濡れ衣で追放処分が下されました。 
もし本当に夫が、言われるような痴漢だったら、私は妹を狙うような男とは離婚したはずです。
しかし、夫の無実を信じた私は、教団を出て行く夫と行動を共にすることにしました。  

結局、教主の再婚話から生じた教団内のトラブルは、「伊藤幹司の痴漢が原因だった」と話題をすり替えて、妹たちを教団に戻しました。 
妹たちも、自分たちがいない間に再婚の既成事実ができてしまったのを諦めていたようです。 



押し問答の末、結局、映子さんと孜子さんのみが通用門から中へ入ったが、その直後、「中から"ギャーー"という女性の悲鳴や"ウォーー"という叫び声が聞こえた。 
つきそってきた男性が中へ入ろうとするのを「真如苑」側の人間10数人がスクラムを組んで妨害。
脚立を立てて塀から撮影していた、姉妹に同行してきたカメラマンが "大変だ、中でやられている"と叫んだ直後、引きずりおろされ暴行を受けたので、それを撮影しようと近づいたところ、10数人の若い男に下半身を蹴りつけられ、その場に倒されてしまった。
何回も何回も 足蹴にされ、本当に殺されるのではと思いました」(本誌写真記者) 

その際、カメラとストロボも壊されてしまう。
状況を危険と判断した同行の本誌記者が110番。
パトカーが到着したときには、映子さん、孜子さんはすでに 「二度とくるな!」の怒号を背に立ち去った後だったが、「真如苑」側の攻撃は今度は本誌記者に向げられる。
蹴りつけたり押したりの暴行を操り返し、駆け付けた警察官に向かって「こいつは悪いカメラマンだ」「オマエたちは悪魔だぁ〜!」と叫ぶ始末。
あげくに教団側のビデオカメラのライトを記者に向け 「顔をかくすな!」 
本誌の抗議に対して、「真如苑」側は後に、「長女、2女側のカメラマンだと信者たちが思ってしまった」(広報部長代理・西川勢二氏)と語っている。 




3.「真如苑」四姉妹 教主が死んで骨肉の争い リンチ暴行事件 

「不信心者に宗教が分かるはずがない、と言われればそれまで。
しかし、実の娘を父親の遺骸と対面させではいけないとは、 
どんな宗教の教典にも書かれていまい。新興教団で四番目の信者数を誇る真如苑とは、一体いかなる教団なのか。 
四姉妹と父・教主との確執は?」 
* * * 

その場に居合わせた目撃者たちの証言によると、暴行は次のようにして加えられた―――。 

十九時十分頃、映子さん、孜子(あつこ)さん、映子さんの長男(19)らが本部前に到着。
守衛が「お焼香したいなら中へ」と脇門を明ける。 
姉妹が門をくぐると、その直後に中から鍵が掛けられた。 
そこには、六十人ほどの信者がいて、突然、二人はコンクリートの床に叩ぎつけられた。
孜子さんは頭を打って脳震盪を起こす。 
映子さんが抱き起こそうとすると、信者たちは、「脳震盗の演技をしている」 
別の信者は 孜子さんにツバを吐きかけて、腹部を中心に体中を蹴る。
二人が抱き合って互いをかばおうとすると、信者たちは二人を引き難してはまた蹴る。 
映子さんの着物の袖は引きちぎられて、草履もビこかにいってしまった。 

「もういいから帰らせて」と孜子さんが叫ぶと、「お焼香に来たんだろ」 
そうして信者の集団は、焼香台ヘ二人を引ぎずって行った。
焼香台といっても、それは中庭に香台を置き、 
台の上に白い布をかけただけのものだった。 
やっとのことで二人が焼香を始めると、
「教主様を返せ。お前たちはどんな顔してお焼香できるんだ」 
そして二人を取り囲み、
「教主さまを殺した!教主さまを殺した!」のシュプレヒコール……。

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真如教徒による暴行事件が述べられていますが、問題は暴行そのものに在る、と考えるのではなく、 

「信者がそのように動かされている」

という観点を持つことが大事です。
マインドコントロールされれば、 おかしな論理も信じるようになりますし、結局は、教団の操り人形になってしまうのです。 

そして2つ目は、「長女の夫が、義妹たちに痴漢行為を働いた」という部分ですが、まず、その結婚を許したのは教主である「伊藤フミアキ」ですが、 
特長としている『真如霊能』が贋物でなければ、娘の「婿」になる者の本質も事前に分かるはずですし、
のちに「痴漢」の症状を発症させたのも「真如苑」である、と言うことができるでしょう。

何故ならば、真如苑では「帰苑(参拝)するだけで浄まる」と謳っています。
それが真実であるならば、 教主に最も近い位置で修養したと言われる長女、そしてその夫は「ずいぶんと浄まっている」はずです。

(※「帰苑(参拝)するだけで浄まる」というのは、 カルトの手口「まず環境に引き込む」であることは明白です) 

もちろん、「痴漢」そのものが、権力争いの為の、単なる「濡れ衣」である可能性は高いでしょう。 

長女は、「形見分けをしてもらえないことは寂しい。せめて、焼香させてもらえませんでしょうか」と語っているようですが、真如苑としてはそれを許可するべきではないでしょう。 
なぜならば、それをネタにして、長女・次女が「遺産の分配」を主張してくることが考えられるからです。


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    → 破折 補足


▼ 完璧であるはずの法華経から五千人がこぼれたことは法華経が実は完璧でなかった証拠。

というのならば

完璧なはずの真如苑の教祖一家から身内が何人もこぼれたか。
霊能者が多数退転するのか?

つまりは、真如苑自体が不完全(邪教)だからではないのか?
と言われるのと同じことではないか。

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爾前 権教は法華・涅槃への悟りへ引導する方便であるが、それは、在世、正法・像法時代における修行法であり、末法今時に、法華経の要法である末法適時の法華経が顕れたならば、その方便は一切排除しなければならない。

大集経の経文では一切が隠没する。つまり功力を滅するとあるではないか。

つまり、現時で 般若経 なども依経としているのは全くの邪義・邪説。

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涅槃経 

涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」

では、この法を壊る者とは誰ですか?
それに対し、どのように 能く駈遣し呵責し挙処していますか?

この御文に忠実でなければ、是の人は仏法の中の怨 ですがいかがですか?

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