涅槃経 と 法華経 の優劣について

ウィキペディアの「涅槃経」の項目に、「涅槃経 優  法華経 劣」 とするような記述がある。
この件について考察した結果、全くの不見識、誤認識であるとの結論に至った。
その中でも特に明白な誤認識について指摘し、反論する。


涅槃経 菩薩品 の 「秋収冬蔵」 について考察する

【当該文】

譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。
大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。
猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。
如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。
是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。
能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。
一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。

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涅槃経 優 法華経 劣 の主張

ウィキペディアから

天台の法華玄義釈籖巻二に (← ※ 既に間違っている。天台ではなく妙楽である。しかも以下の文意からして、段の区切り方が変である。)

法華に権を開するは已に大陣を破るが如く、余機彼に至るは残党難からざるが如し。故に法華を大収となし、涅槃を?拾と為す」とあり、日蓮もこの流れを汲み、『報恩抄』において「また法華経に対する時は、是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云。我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし

と述べている。つまり、天台及び日蓮の解釈では、一仏乗を開き顕し、釈尊の出世の本懐を顕して、八千の声聞に記別(未来に成仏すると予言し約束する)した法華経に対して、法華経の後に説いた涅槃経は、法華経の利益に漏れた者を拾い集めたものであるから、法華経を秋に収める大収、涅槃経を冬に蔵す?拾とする。したがって、涅槃経を?拾遺嘱(くんじゅういぞく)とも呼ぶ。

しかし、この経文には前半部が省略(あるいは抄掠とも)されているという指摘がある。この経文を略さずに書くと

譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。 如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。

したがって、涅槃経の立場では、先の声聞記別の経文の解釈はまったく逆であると考える人もいる。それは、法華経はたしかに声聞の記別を説いたが、その前に方便品において、「それまでの教えと違うのなら聞けない」と五千人の増上慢の比丘たちが立ち去って(これを五千起去という)以降、救われていない。それらをもし涅槃経に譲ったとするならば、一切衆生の済度を確約する仏教の教え、また最高の教えであると位置付ける法華経に落ち度があることになり不完全な教えとなる、と主張する。しかし、もしそうなら、法華経は、涅槃経の役割(落ち穂拾いという)も認めたことになり、涅槃経(大乗としての)は、法華経によって生きてくることになる。またこの涅槃経の経文は恣意的に前半部が省略されて多く典拠されており、これを省略せず素直に読めばまったく意味が逆の違ったものになるとする。涅槃経では、これはあくまでも涅槃経の利益を説いたものであり、「秋収冬蔵」というのは、法華経で声聞衆が記別を受けて大果実を得たように、この涅槃経の教えを修学すれば、「更に所作なきが如し(あとは何もすることがないのと同じである)」と説いている。したがって涅槃経を修学しなければやり残したものがある、というのが、解釈を加えない経文そのものの真の意味である。つまり、これは、落ち穂拾いを認めた説ということになる。


↑ 

さあ、果たしてそうであろうか?

では、涅槃経の本文を解析してみよう

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【解釈】

■ 譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。

  → その日の仕事がその日一日でほとんど成し遂げられるも、もしまだ残ってしまった場合は、次の日に繰り越す。
これはまさに法華経により大勢は成仏救済されたが、それに漏れる者もいる。とする例えではないか。

■ 大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず 大乗大涅槃、日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。

  →、ここも同様である。これまでの全ての経典を修行してきたが、そこでも悟り切れずに残った者は、涅槃経によって救済される。という意義。

■ 猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。

  →、これは仏の広大無辺な慈悲を現された箇所であり、そのように、種には 早生、晩生 があるが、その全てをあらゆる方法を尽くして救済される、という意義。

■ 如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。

  → 上記と同じ、仏の教法は、あらゆる機根に対しても、どこまでも慈悲の手を差し伸べて、救済されるまで導く、、といういうこと。
八種の病 とは 四苦八苦 であろう。

■ 是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。

  → 涅槃経は、上記の譬えの如く、一日で成し遂げられなかった仕事は次の日に持ち越され、その持ち越された残務全ての処理が完成したことで、一切が利益され、安楽安心が訪れる。とういう意味。

■ 能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。

  → 三乗各別 の執着を打ち破り、一切衆生悉有仏性 を真正面に説き出だしたのは法華経である。
その法華経が、衆生救済の大半を成し遂げ(秋収め)、その余残の機に対して、仏の遍く降り注ぐ慈悲により、涅槃経が説かれ、残りが悉く救済される(冬蔵(おさ)めて) これで、全ての化導が終結するのである。

■ 一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。

  → 絶対に成仏できない、と言われてきた、一闡提人も、ここで全て救われたのである。
もちろん、一闡提人が成仏できる原理は、既に法華経にて説き尽くされ、現証まで説かれている。
(諸法実相 十如是 十界互具。一念三千。提婆達多の成仏。)

涅槃経のみに説かれた特別な教説ではない。 

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これは単純に文法、あるいは古文漢文の文意解釈の問題だと思うが、分類してみる。

法華経の役割とその例えを @
涅槃経の役割とその例えを A

涅槃経が法華経より後であり、その立場を太字・下線


@ 「譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、」  A 「もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。」
@ 「大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、」   A 「要(かな)らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。」

猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。
如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。

 「是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、
@ 「法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め」 A 「冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。
 「一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。」

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法華経の役割とその例え

@ 「譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、」
@ 「大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、」
@ 「法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め」


涅槃経の役割とその例え

A 「もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。」
A 「要(かな)らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。」
A 「冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。



こうして見れば、やはり、「秋収冬蔵」の句は、まさに天台大師の仰せの通り、

「秋収」 は法華経の大収穫
「冬蔵」 は涅槃経の落穂拾い

という解釈は疑難を挟む余地など全くなく、真に正鵠を得ている。ということである。

 
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▼ 法華経での会座を退出した五千上慢の衆生を救済できたのは涅槃経だから、法華経でできなかったことを涅槃経で成した。
だから法華経より涅槃経が優れている。

とする説に反論。

 ★  大陣を破り、余残は戦後処理

● 戦で言えば、

@ 勝敗の大勢を決し、その後、
A 残余兵を探索し処理をする場合、
@ A のどちらを主戦の戦と捉えるか。後の歴史に名を留めるのか?
子供が聞いても分かる理屈であろう。


● 経典通り収穫の譬えでいえば、

法華経と涅槃経の関係は
秋に一気に大収穫し、後に取りこぼした落穂を拾って、それで全て完了し「安心」した。という状況。
「収穫」という行為には変わりない。

本日いよいよ「収穫」という日がメインであることは誰が見ても明らかな道理。
それを次の日、やり残した仕事を少々したところで、その作業の方が重要だ、などとは誰も言わない。

それは、法華経には説かれない、涅槃経特別の教理が新たに顕れたというわけではないからである。
涅槃経は法華経の教理の再説なのである。


● 教授と生徒

有名な教授がその教授独創の理論を、ある大学に来て一時間の講義をする。
多勢はそれで理解できたが、分かりの悪い生徒がいた。
その教授はその生徒達を哀れに思って、分からない点を中心に、時間を延長して、噛み砕いて噛んで含めるように話し、やっと理解できたとする。
教授も生徒全員が理解できた姿を見て、大いに安心した。

この場合、最初の一時間より、後の延長講義の方が優れていると言うだろうか?

しかも、教授の独創理論を生徒たちが理解できなかったのは、本題の今回の講義を理解できる前提としての基礎学力が不足していたからと分かり、その基礎の初歩にまで立ち返って懇切丁寧に再度、一から諄々と段階毎に教えて理解させてから、もう一度本題の内容を講義する。。。。。
このような状況である。

この状況で、本論の一時間の講義と、延長し本論とは本来関係ない初歩的な内容も含む講義では、果たしてどちらが高度で、純然で、明確か?
誰が聞いても分かるであろう。

法華経は純一無二であり、
涅槃経には、爾前・権教の雑味が含まれるので、一往、「醍醐味」という同一味に括られるが、再往は、「法華経 最勝 涅槃経 は次点 」なのである。
因みに末法の教主日蓮大聖人は、「法華経は醍醐味を超越する。」と示されている。

■ 無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐の如し。又涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主の如し。妙楽大師云はく「若し教旨を論ずれば法華は唯開権顕遠(かいごんけんのん)を以て教の正主(しょうしゅ)と為(な)す。独り妙の名を得る意此に在り」云云。又云はく「故に知んぬ、法華は為れ醍醐の正主」等云云。此の釈は正(まさ)しく法華経は五味の中にはあらず。此の釈の心は五味は寿命をやしなふ。寿命は五味の主なり。(曽谷殿御返事 弘安二年八月一一日 五八歳 1380)

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以上の解析を元に、涅槃経に曰く「義に依って語に依らざれ」の遺誡の如く、原文を元意に沿って補足して表す。

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@ 「譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、」  A 「もし未だ訖(おわ)らざる者(←※五千起去の衆生)は、要(かな)らず日月を待つが如し。」
@ 「大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、」(※ これに漏れた五千起去の衆生は) A 「要(かな)らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。」

猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。
如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。

 「是の経(※法華・涅槃は醍醐味として一往、同一味であるが故に、「是の経」とは 法華経・涅槃経の両経の意味) の世に出づる、彼の果実の(※五千起去の衆生も含めた)一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、

@ 「法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め」 A 「(※五千起去の衆生は)冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。
 「(※五千起去の衆生の)一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法(※涅槃経)に於いて、営作する所無し。」

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↑ かくのごとくとなり、この文の本意が明瞭となる。

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法華玄義釈議 妙楽大師

法華に権を開するは已に大陣を破するが如し。餘機彼に至るは残党の難から不るが如し。
故に法華を以って大収と為し、涅槃を「手偏+君」拾と為す。


まさに、この解釈の通りである。