★ 法華経・涅槃経からの証文
■ 薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。
復舎利を安んずることを須いず。
所以は何ん。
此の中には、已に如来の全身有(いま)す。
此の塔をば応に、一切の華香瓔珞(ようらく)、
(糸偏に曾)蓋幢幡(ぞうがいどうばん)、
伎楽歌頌(ぎがくかじゅ)を以て、供養恭敬し、尊重(そんじゅう)讃歎したてまつるべし。
若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て、礼拝し供養せんに、当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近づきぬ。(法師品第十 326)
■ 此の宝塔の中に、如来の全身有す。(見宝塔品第十一 337)
■ 是に於て釈迦牟尼仏、右の指を以て七宝塔の戸を開きたもう。
大音声を出すこと、関鑰(けんやく)を却(しりぞ)けて大城の門を開くが如し。
即時に一切の衆会(しゅえ)、皆、多宝如来の、宝塔の中に於て、師子座に坐したまい、全身散ぜざること、禅定に入るが如くなるを見 云々(見宝塔品第十一 345)
■ 爾の時に多宝仏、宝塔の中に於て、半座を分ち、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、釈迦牟尼仏、此の座に就きたもうべし。
即時に釈迦牟尼仏、其の塔の中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したもう。
爾の時に大衆(だいしゅ)、二如来の、七宝塔中の師子座上に在(ましま)して、結跏趺坐したもうを見たてまつり、云々
↑日蓮大聖人御図顕十界文字曼荼羅の御相貌
■ 阿逸多、是の善男子、善女人の、若しは坐し、若しは立ち、若しは経行せん処、此の中には、便ち塔を起つべし。
一切の天、人、皆応に供養すること、仏の塔の如くすべし。(分別功徳品第十七 460)
■ 其の所住止の処 経行し若しは坐臥し乃至一偈をも説かん 是の中には応に塔を起てて荘厳し妙好ならしめて 種種に以て供養すべし
仏子此の地(じ)に住すれば 則ち是れ仏受用(じゅゆう)したもう
常に其の中に在(ましま)して 経行し若しは坐臥したまわん
■ 若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若もしは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆、応に塔を起てて供養すべし。(神力品第二十一 513)
■涅槃経の第四如来性品に云はく
「復次に迦葉、諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法也。
是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す。法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」
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【参照】
■ 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え
衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す
実相=御本尊 上記
■法華経の第四法師品に云はく
「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦(じゅ)し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応(まさ)に七宝の塔を起(た)てヽ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。
復舎利を安(やす)んずることを須(もち)ひず。
所以(ゆえん)は何(いかん)。此の中には已に如来の全身有(ましま)す」
普賢経に云はく
■「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり」
■「此の方等経は是(これ)諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまへり。
仏の三種の身は方等より生ず。
是大法印(ほういん)にして涅槃海(ねはんかい)を印す。
此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。
此の三種の身は人天の福田(ふくでん)、応供(おうぐ)の中の最なり」
■ 無量義とは一法より生ず。
其の一法とは、即ち無相なり。
是の如き無相は、相無く、相ならず、相ならずして相無きを、名づけて実相と為す。(無量義経説法品第二 19)
実相=御本尊
文証
■天台大師の法華三昧に云はく
「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安んずべからず。
唯法華経一部を置け」