学会員からのメール 質問書
三大秘法から全てを開く
■ 今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。

破折

【開眼供養を論証】

● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏  

◆「草木成仏口決」
一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり
我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。
【開眼供養】
草木の上に色心の因果
木画の像・仏像
日寛上人・仏像
創価学会見解 草木成仏口決
日因上人
日応上人

◆「御講聞書」
◆「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」
◆「観心本尊抄文段」

参考

日興上人への御書は僅少
御本尊の御相貌の変容
法自(おの)づから弘まらず

法華を心得たる人

結論

「法体の成り立ち」と「法体の力用」との混乱



学会員からのメール 質問書

御本尊の開眼供養について

「木絵二像開眼之事」の『法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり』
以って、「御本尊」も開眼供養が必要であるとのことで、質問をさせてください。
法華経に“仏”の御心が顕されている御書二編を記しました。

◆「本尊供養抄」
『法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり』

◆「四条金吾殿御返事」(梵音声御書)
『此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり』

この御書から法華経が仏の御心であることが分かり、「木絵二像開眼之事」での御文について納得します。ただ、別の御書を読みますと、すっきりと致しませんのでご指導願います。

先ず、「草木成仏口決」では、「妙法蓮華経」自体が有情非情の成仏の五字であり、『一念三千の法門」=法華経を『ふりすすぎたるは大曼荼羅』=法華経のエッセンスを取り出したのが「御本尊」であると。

「御講聞書」では、法華経の極理は「妙法蓮華経」に納まっているとあり。「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」でも同様の事が述べられています。

それと、日寛上人の「観心本尊抄文段」では、「南無妙法蓮華経」自体、『名体宗用教』とあります。

これらの御書御文から私なりの解釈では、五字七字の「文字曼荼羅」を書き顕した時点で法華経の“仏力”“法力”が全て備わっており、よって、「開眼供養」は必要ないと思うのですがいかがでしょうか。

ご指導をお願い致します。

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◆「草木成仏口決」
『問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、答えて云く爾なり、問うて云く証文如何、答えて
云く妙法蓮華経是なり・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり』
『一身所具の有情非情なり・此の有情・非情・十如是の因果の二法を具足せり、衆生世間・五陰世間・国土世間・此の
三世間・有情非情なり。一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』

◆「御講聞書」
『さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理と
は南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因
感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり』

◆「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」
『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼
の因果の功徳を譲り与え給う』

◆「観心本尊抄文段」(日寛上人)
『是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり』

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全ての御書は佐後から、なかんずく以下の御文から開いて読まなかったら大聖人の御心に通じ得ない。

■ 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如(し)かず。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1594)

■ 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)

つまり、三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊 が大聖人様の御本仏としての己心の大事であり、これ以外は何もない。と仰せである。

戒壇の大御本尊が出世の本懐であることの証明

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三大秘法=戒壇の大御本尊であることは日寛上人が証明されている。
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■ 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一(※第一)なり。況(いわん)や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

※ 究竟= 究極 事物を徹底的にきわめる → 御本尊を徹底的に極める 絶対
※ 総体(そうたい)=「物事を構成する上での、すべて(総て)」「全体」 
※ 出世の本懐= 仏がこの世に生まれ出た真の目的。
※ 本懐= もとから抱いている願い。本来の希望。本意。
※ 随一= 第一

戒壇の大御本尊は日蓮大聖人の御一期の究竟中の究竟、本懐の中の本懐、そして三大秘法の中でもその随一であり、(随一とは第一と同義である。)一閻浮提へ授与せられたその全体、すべての根源である御本尊である、との御指南である。
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■ 広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。(法華取要抄文段)

 大聖人の仏法が広く広宣流布していく事相において、御歴代法主上人が御書写された御本尊が全国各地の末寺や拠点に安置されていくとしても、そこはあくまで「義の戒壇」であって、「事の戒壇」の枝流という意義である。根源・源流ではない。本門戒壇の大御本尊がおわします処こそ「根源」である。仏法を学ぶ者は等しく根源を尋ね求めなければならない。この根源を見失い、迷う者は、増上慢となり、真の成仏の境界など得られようはずはない。日本乃至世界中の仏教を学ぶ者は、なんで根源を尋ね求めようとしないのか。なんと浅ましいことか。

※浅ましい
1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。
2 見苦しく情けない。嘆かわしい。
3 身分や姿形が卑しい。みすぼらしい。

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● 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋(なん)ぞ本山と仰がざらんや。(文底秘沈抄)

 本門戒壇の大御本尊こそが根源である。その戒壇の大御本尊はどこにおわすかと言えば、現時においては富士大石寺の奉安堂である。戒壇の大御本尊まします富士大石寺を「本山」として尊仰しない者は実に愚かである。根性が我慢偏執の者である。結果無間地獄は必定である。
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● 未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(寿量品談義・富要一〇―一三一)

 戒壇の大御本尊おわす富士大石寺へ参詣し、戒壇の大御本尊の御許で御題目を唱えなさい。それこそが三大秘法の本門の題目の本義である。信心の志がある者は必ず大石寺へ登山して戒壇の大御本尊に参詣しなさい。と仰せである。
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■ これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。
故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。
譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。
故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。
故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。
妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。
これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。」  (観心本尊抄文段・首文)

 戒壇の大御本尊こそ、一切諸仏の能生の根源である。また一切の正統なる曼荼羅御本尊の根源である。
全ての御本尊の功徳は戒壇の大御本尊から生じている。下種仏法の根源の法体である。戒壇の大御本尊を離れて何の功徳もないのである。
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↑全ての御書はこの意義を根底において拝さなければならない。

以下の御文も同様。
御書に説かれる「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」「法華経」は、その元意を拝すればその多くは「戒壇の大御本尊」と読むのである。

参照 

■ 今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。(上野殿御返事 弘安元年四月一日 五七歳 1219)

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◆「草木成仏口決」
『問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、答えて云く爾なり、問うて云く証文如何、答えて
云く妙法蓮華経是なり・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり』

↑ここは戒壇の大御本尊の「妙法蓮華経」の「妙法」が有情の成仏を示し、「蓮華」が非情の成仏を示している。という意義であり、「開眼」を否定する文証ともならないし、その義もない。

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『一身所具の有情非情なり・此の有情・非情・十如是の因果の二法を具足せり、衆生世間・五陰世間・国土世間・此の三世間・有情非情なり。一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』

↑ これは法華経の極理を極めた天台大師の理の一念三千の法門を、末法下種の事の一念三千として事相の上で具体的な本尊として顕わしたのが戒壇の大御本尊である。
という意義であり、上記と同様、開眼を否定する文証とならないし、その義もない。
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むしろ以下の文に「開眼」が必要である義があるではないか。

■ 蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳 522)

我等=日蓮大聖人 が 故人の成仏のために 塔婆(草木)を建立して「開眼供養」している事実は、これまさに「死の成仏」の実現であり、「草木成仏」の実際の姿における実証である。とおおせではないか。

【開眼供養】 
仏像の眼目を開くという義をもった法会のこと。新たに彫刻、鋳造、書写した仏像、絵像を、法をもって供養し、心を入れ、生身の仏と同じにするための儀式、法会のこと。(日蓮大聖人御書講義三十巻上 草木成仏口決 67)

開眼供養とは 草木を成仏せしめて生身の如来となす。という意義である。
塔婆の場合は 草木成仏させて故人を成仏させる
本尊の場合は 草木草木成仏させて生身の仏となすこと。

■ 木画(もくえ)の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す、其の義に於ては天台一家より出でたり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃(たの)み奉(たてまつ)ること無益(むやく)なり。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 645)

この御文も、一義には開眼の義をお示しと拝する。

木画の像 は 草木で出来ている。 その草木に 生身の仏 となる 因 と 果 を 「置かなければ」(この因とは仏因 果とは仏果)
その木画の像を 「本尊」 として尊仰することは無意味である。  本尊として機能しない。 成立していない。   という義。

この 「草木に 生身の仏 となる 因 と 果 を 「置く」」 行為 → 開眼の義 

この 「木画の像」 とは 十界文字曼荼羅

■ 此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊薬王等にも之を付属したまはず、何(いか)に況(いわ)んや其の已外(いげ)をや。但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空(くう)に居(こ)し、塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座に居し、迹化(しゃっけ)・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之(これ)無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為(な)し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 654)

本門の肝心 = 南無妙法蓮華経の五字 = 十界文字曼荼羅 = 寿量の仏 = 仏像 

木絵の像 = 仏像 = 十界文字曼荼羅 

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●31『日因上人御消息』
木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也

●56『法之道』日応上人
「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)
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仏像

此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 654)

■ 問う、又云わく
■「本尊抄八に云わく、其の本尊の為体、本時の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士には上行等の四菩薩乃至正像に未だ寿量品の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか云々。
此の仏像の言は釈迦多宝を作るべしと云う事分明なり」云々、此の義如何。

 答う、
■「其の本尊の為体」等とは、正しく事の一念三千の本尊の為体を釈するなり。
故に是れ一幅の大曼荼羅即ち法の本尊なり。
而も此の法の本尊の全体を以て即ち「寿量品の仏」と名づけ、亦「此の仏像」と云うなり

「寿量品の仏」とは、即ち是れ文底下種の本仏、久遠元初の自受用身なり。
既に是れ自受用身なり、故に亦「仏像」と云うなり、

自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人なるが故に「出現」と云うなり。

故に山家大師の秘密荘厳論に云わく「一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出たる仏」云々。
全く此の釈の意なり、之れを思い見るべし。

「仏像」の言未だ必ずしも木絵に限らず、亦生身を以て仏像と名づくるなり、

即ち文句の第九の如し、若し必ず「木絵」と言わば「出現」の言恐らくは便ならず、前後の文「本化出現」云々。之れを思い合わすべし。(末法相応抄 日寛上人)
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創価学会見解

■ 次の木画二像の草木成仏とは具体的には、御本尊のことであられる。
観心本尊抄文段で日寛上人は

■「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。」

と述べられて、次の御書の御文を引かれている。

■「国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事)

■「法華経を心法とさだめて三十一相の木画の像に印すれば木画二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」(木絵二像開眼之事)

 ここでは一往、木絵二像の仏を挙げられているが、これは末法相応抄等によれば、あくまでも相手の機根に応じ、また一宗弘通の初めに応じた御表現であり、本意は御本尊であられることは明白である。

 同じく観心本尊抄文段で

■「若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂(おも)うことなかれ」

と明言されている。

 御本尊はもったいなくも元は草木であられる。
しかし、御本仏日蓮大聖人の御生命がそもまま顕現されているゆえに、仏界の当体であり、一切衆生に仏性を顕現させる対境となるのである。
 この木画二像の成仏、その顕現としての御本尊の建立があって初めて、草木成仏の深義が明らかになるといえよう。(創価学会・御書講義・草木成仏口決・74)

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◆「御講聞書」
『さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理と
は南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因
感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり』

↑これも「南無妙法蓮華経」を「戒壇の大御本尊」と置き換えればそのままである。
開眼を否定する文証にあらず。

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◆「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」
『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』

↑ 上記と全く同じ。

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◆「観心本尊抄文段」(日寛上人)
『是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり』

↑ 同じく。

◆ 御本尊の開眼供養について
  訂正追記

「木絵二像開眼之事」の『法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり』
以って、「御本尊」も開眼供養が必要であるとのことで、質問をさせてください。

ここまでは先の書面と同じです。
仏の「梵音声」である法華経は、「本尊供養抄」等で『法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり』とあり、「草木成仏口決」の『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』と、併せ見ると、御本尊の「南無妙法蓮華経」五字七字が「梵音声」=「心法」になると思いますが。いかかでしょうか。
他にも様々な解釈はありますが、多くを述べてもしょうがないので。

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@ 法体の力用の説明

A 法体である「本尊」となすための草木成仏・非情成仏・の原理の説明

@とAの混乱。

@ パソコンの優れた効能
A パソコンの作り方

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総別の二義 日蓮大聖人御書講義 生死一大事血脈抄(30巻上 58)

源泉=日蓮大聖人・戒壇の大御本尊 老舗旅館=宗門  当主(温泉の権利・免許を代々相続し管理統治)=御法主上人 従業員=僧侶 風呂=一般在家

日興上人への御書は相伝部以外では極少  参考  

題名 伯耆殿御書 系年 弘安02年09月20日 大聖人58歳御作
題名 伯耆殿並諸人御中 系年 弘安02年09月26日 大聖人58歳御作
題名 伯耆殿御返事〔伯耆殿等御返事〕 系年 弘安02年10月12日 大聖人58歳御作
題名 伯耆公御房消息 系年 弘安05年02月25日 大聖人61歳御作

具体的な行動の指示を与えられたり、用事を仰せられたりで、法門的な内容ではほぼない。

しかし、
■ 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬 九月 日 日蓮花押 
血脈の次第 日蓮日興 (日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 1675) 

このように仰せられて第二祖となられるのである。
つまり、大聖人の仏法の奥義は口伝で相伝されたのである。
「開眼」という深秘の御法門とその具体的な仕儀は唯授一人の口伝相伝で伝持されたのであるから、その殆どが為政者への奏上文や、主に信徒などへのお手紙文である御書に顕れていないのは当然である。 参考  御本尊の御相貌の変容

■ 法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1687)

南無妙法蓮華経 という「法」があっても、その「法」を「本尊」と成す「人」がいなければ三大秘法の「南無妙法蓮華経」の仏力・法力は広がらないのである。
そこに唯授一人・血脈相承の大事がある。