日蓮大聖人御書講義 生死一大事血脈抄(30巻上 58)

   法体の血脈と信心の血脈

  ここで心すべきことは「血脈」には別しての「法体の血脈」と、総じての「信心の血脈」とがあり、明確に立て分けなければならないことである。

 すなわち「法休の血脈」についていえば、久遠元初自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。

 その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。
一代聖教大意に
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(三九八)

と仰せられ、

日寛上人が観心本尊抄文段で

「故に当抄に於て重々の相伝あり(中略)甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」(文段集四四三)と記されているように、大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならないのである。

 このように、今日、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法を正しく信受することができるのも、びとえに日蓮大聖人、日興上人以来、総本山大石寺歴代の御法主上人が伝持される法体の血脈による御指南、御威徳によるものであることを銘記しなければならない。

 したがって、第四章における

■「総じて日蓮が弟子稚那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は、別しての「法体の血脈」を大前提として、総じての「信心の血脈」について述べられたものである。


 「信心の血脈」に関して、

総本山大石寺第九世日有上人は化儀抄で

「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり(中略)高祖巳釆の信心を違えざる時は我れ等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず」(富要一巻六四)

と教えられている。
                     
 第五十九世日亨上人は、この化儀抄について註解を加えられた「有師化儀抄註解」のなかで

「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・擾乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし(中略)仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人己来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり」(富要一巻一七六)

と述べられている。

 更に第六十七世日顕上人は

「法華大法の信心の血脈には、縦に甚深の義と、様に広大の義が同時に具わっております。甚深の義については、宗祖大聖人の甚深の寿量文底の法体に至るまでの一切の仏法を受けきるところの信心の血脈あって、初めて真実の仏道が伝承されるのであります。また、広大の義については、この信心の血脈はけっして法主一人でなく、正義を伝承する僧俗一切が、その信条、法門について一体の信心を保ち、化儀の実践をなすところ、法水相通じて信解得道全く等しく、無量の民衆が即身成仏の本懐を得るのであります」

と、また

「末法万年の衆生救済の仏法においては、僧俗を問わず、この根本の一器より一器への相伝に対する信解が確立するところ、即身成仏の大法とその利益は縦横無尽に開花し、顕現するのであります。いわゆる、信解抜群にして宗祖二祖の信心の血脈を疑わず、勇猛精進するところ、僧にあれ、俗にあれ、僧から僧へ、また俗から俗へ、さらに広くその信心の血脈を伝えつつ展転して衆生を利益することが下種仏法の相であります」(昭和六十二年四月、御霊宝虫弘大法会の御説法・大日蓮第四百九十五号)

と御指南されている。

 したがって、総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れるのであり、広宣流布をめざし不惜身命の実践を貫く信心を外れてほ成仏の道はありえないことを心し、自戒していきたい。