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ではそろそろまとめますかね。

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▼ その観点から見ていくと、
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   ★ ↑ はい、もうこの前提自体が成立しないことは論証した。(論証ってほどの御大層なもんじゃないよね)
66 ▼「とにかく涅槃経は第一なの!真如苑ではそう決まってんの!だからそれを根拠に君の説を崩す!」 ← 祝!完全に反論不能!

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▼ 一乗の教え=随自意=深い までは同意できます。
修行者がこれから一乗の教えに挑むわけですが、それは信じるのが難しく、理解が難しい。
その通りですね。
で、そこから後の位置づけが違います。
まず、法華経からその一乗の教えが始まるので「難入」です。
修行者にとって信じるのが難しく、難解であり、そこに入って行くのは難しい教え!
その始まりは法華経です。で、完成するのが涅槃経です。

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   ★ ↑ で、完成するのが涅槃経です。
はい、これについて、何の証明もできていない。
空しく吼えているだけである。
なぜなら前提がフライングだからである。
66 ▼「とにかく涅槃経は第一なの!真如苑ではそう決まってんの!だからそれを根拠に君の説を崩す!」 ← 祝!完全に反論不能!

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▼ 法華経だけで全て終わるとは法華経にはどこにも書いていません。
それが書かれているのは涅槃経です。
「常に滋味を希望する、悉く皆、永く断ず」(大般涅槃経名字功徳品第六)
「衆望全て止むが如し」(同上)
「八大悉くこの大般涅槃に帰す」(同上)

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   ★ ↑ この文の涅槃経の出典のページと何節かを教えて下さい。
この涅槃経の文も詳細に前後を読めば、実は惑乱者が採る意味とは違う深い意義を拝することが出来るだろう。
ではそれは惑乱者への宿題として、今はこのまま破折しておくと、
「法華経 勝 涅槃経 劣」 の立場から読めば全く違う意味となる。
もちろん、「法華経 勝 涅槃経 劣」 の説を未だ惑乱者は論破できていない。むしろ完全に論理からずり落ちてきている。
参照 66 ▼「とにかく涅槃経は第一なの!真如苑ではそう決まってんの!だからそれを根拠に君の説を崩す!」 ← 祝!完全に反論不能!

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しかも、ここでもまた惑乱者は根拠のないいい加減なウソをかましている。

■ 方便品第二


我本誓願を立てて
一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき
我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ
一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ 
(111下-01)

とあるがごとく、釈尊は一切衆生を成仏させて救済せんと誓願されて、それが今、法華経によって成就し、満足された。
一切衆生を仏道に入らしめる。と仰せなのである。


ここは、重大な虚偽でああるから、謝罪して訂正せよ。

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その上で、上記の文を拝すれば、かくのごとくなる。

■  「常に滋味を希望する、悉く皆、永く断ず」(大般涅槃経名字功徳品第六)
   → 法華・涅槃は一往 醍醐味で同味(再往はもっと深いが)
であるから、「法華・涅槃に至るまでは、みな、真の悟りと安心立命・常楽我浄・常寂光土を求めてきたが、法華・涅槃に至って始めてその願いと望みが叶った」 となる。
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■ 「衆望全て止むが如し」(同上)
   → 同上
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■ 「八大悉くこの大般涅槃に帰す」(同上)
  → 「一切の法華・涅槃以前の爾前権教は全て法華・涅槃へ帰入してくるのである」 と拝す。
更に、この文と同義の文について惑乱者の解釈が不当であることは既に破折した。
61 「八大河悉く大海に帰するが如し」の怪釈を粉々に摧破する。
63 「法を壊る者」の定義に笑かせられる。
64 「了義経に依って不了義経に依らざれ」の珍怪釈は涅槃経の文で破折されている。

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▼ 現に、天台・法華教義にも「当に説かん」の中に涅槃経が入っているとしていますよね?
涅槃経もこれ最も難解なわけです。

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   ★ ↑ ここもまもな思考が崩壊してきている所である。
天台大師を自説の証明に持ち出すのであれば、天台大師の説を受用する、ということである。
その天台大師は法華・涅槃の関係を明確に規定している。

涅槃経の立場

  1. 追説追泯(ついせつついみん)、涅槃経は法華経の説を重ねて追って述べた。
  2. 贖命重宝(しょくみょうじゅうほう)、涅槃経は命である法華経の仏性常住をあがなう宝である。
  3. ?「手偏+君」拾教(くんじゅうきょう)、涅槃経は法華経の救いに漏れた機根の低い衆生のための教えである。
  4. 扶律顕常(談常)(ふりつ・けんじょう、だんじょう)、涅槃経は仏滅後における隔歴次第の修行を説いて戒律を守るよう扶(たす)けた方便の教え。


明らかに「法華経 勝 涅槃経 劣 」の主張である。
惑乱者は自分の主張を通したいがために、形振り(なりふり)構わず使えるものなら何でも使え。てなもので、
あろうことかこの天台大師のことまで持ち出して自説を正当化しようとしてるが、これまさに自己矛盾の極み。
法論で言えば、もはや敗北へのマイナスポイントは限りなく増えた。ということである。

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▼ 日蓮大聖人は一乗の教えに遭う事の難しさを「大海中の盲亀 浮木の孔に遭うが如し」(大般涅槃経純陀品)
と言っています。

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   ★ ↑ ここも、全くもって不可解な引用法である。
日蓮大聖人の立場は明確に 「法華経 勝 涅槃経 劣」 である。
上記の引文も、「法華経に遇うことは甚だ難しい。」という意味で涅槃経の文を引かれているのである。
決して、涅槃経 優 を仰せになっていない。
ここも、惑乱者は最早手当たり次第、是も非も分からず、何の見境もつかず、掴み、振り回しているだけである。
まさに「惑乱者」である。「悩乱者」と言い替えてもいい。まさに頭破作七分の様相である。
ここもまた、「真如苑とはかくも人格を破壊して人間としての理性と尊厳を失わせるものなのか」をよくよく顕した箇所である。

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▼ ですから、日蓮正宗の皆さんはあと一息なのです。
日蓮大聖人は涅槃経をたびたび引用しながら、それを説けなかった。
まさか、「ちょっと解らないから説けない」とは言えない。
それは日蓮大聖人に限らず皆さん同じです。
「所々の箇所を見るとなんかすごい経っぽいけど、全体としてよく解らない」
実際、涅槃経の内容はこれまでの仏説とも涅槃経の内容同士でも矛盾があると言います。
涅槃宗の方々もよく解らなかった。
天台智もよく解らなかった。
で、涅槃宗の方々は矛盾を突かれて論破されたという経緯が史実としてあります。
何が言いたいのか?
誰にも説けない程、釈尊のご内証そのものを解き明かした最も難解な教え=涅槃経
その教えを説けたのは2500年になんなんとする歴史上、伊藤 真乗 大僧正猊下以外には居られなかったという事です!
これを論破して下さいと申し上げています。

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   ★ ↑ いやはや、、、閲覧者の皆様、どうですか?
もはや「狂人の雄叫び」としてしか聞こえない。
ひょっとして酔って書いているのか?
にしても酷い。
もう「論議」というテーブルから完全に転げ落ちて、ただの酔っぱらいの暴言レベルである。
居酒屋で酔っぱらった課長が、ドン引きしている部下連中に向って、があがあ、言いたい放題を言いまくっている。。。という図 である。

が、
その中でも見逃せないのは、最も難解な教え=涅槃経 ここである。
そんなことはどこにも書いていない。

そもそも、この論議の始めは、
「法華経が已・今・当において最も難信難解である。」という法華経の経文の解釈から始まったことではないのか。
この点については全く異論はなかったはずである。
つまり、法華経こそ、已に説き、今説き、当に説かん。その中でこの法華経が最も難信難解 なのである。
涅槃経ではない。
「最も難解な教え=涅槃経」
この発言は明らかに間違いである。

もし、真如教徒としての誇り・矜恃がまだあるのならば

きちんと謝罪して訂正しなさい。 


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