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「若し善比丘有って法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。」 とどう整合性をとるのか? への反論


★ では本陣を摧破するために、外堀から埋めていきますか。

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▼ 25 「若し善比丘有って法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。」 とどう整合性をとるのか? への反論

▼↑樋田氏の主張です。反論文が短く読みやすくなったのは助かります。
では反論を加えます(緑色が樋田氏)。

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▼ しかし、大般涅槃経名字功徳品には
「八大河悉く大海に帰するが如し」
―(「南無阿弥陀仏」の河も、「アーメン」と唱える河も、はたまた「南無妙法蓮華教(※ママ)」と唱える河も、河はやがて海に行きつくように)という意味―
と説かれ、

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    ★ ↑ もしその文の「解釈」が正しいのならば、
念仏も、キリスト教も、日蓮大聖人の教えも全て許容し、一緒に仲良くやっていきましょうよ。
ということか?
違うのなら、も少し詳しく説明してください。

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▼ そうです。
一緒に仲良くやります。
そもそも真如苑には「邪教」の概念が存在しません(かつてある教団に限って一時、邪教としましたが、現在では他宗の悪口はありません)。

で、仮にもしそうなら、詳しく同じ涅槃経に
■「若し善比丘有って法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。」
とあるが、この 
@ 「法を壊(やぶ)る者」 とはどういう類の人々なのか。

真如苑の禁忌は「金銭問題」「権威で脅す」「不義不貞の情」だと申し上げたはずです。
即ち、人の道に反するもの=法を壊る者  です。

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   ★ ↑ まさに一読噴飯。とはこのこと。

こういうことだから、やはり本当の涅槃経の意義を知らないわけだ。
「論語読みの論語知らず」
「涅槃経を讃ずと雖ども涅槃経の心を殺す」 というやつですな。

涅槃経にある以下の説話をどう読むのかね?
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「善男子、過去の世に此の拘尸那城(くしなじょう)に於て仏の世に出でたまふこと有りき。
歓喜増益(かんぎぞうやく)如来と号したてまつる。
仏(ほとけ)涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。
余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳(かくとく)と曰ふ。
爾の時に多く破戒の比丘有り。
是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼(せ)む。
是の時の国王名を有徳(うとく)と曰ふ。
是の事を聞き已(お)はって、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至(おうし)して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。
爾の時に説法者厄害(やくがい)を免(まぬか)るゝことを得たり。
王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡(きず)を被り、体(からだ)に完(まった)き処は芥子(けし)の如き許(ばか)りも無し。
爾の時に覚徳(かくとく)、尋(つ)いで王を讃(ほ)めて言はく、善きかな善きかな、王今真(いままさに)に是正法を護る者なり。
当来(とうらい)の世に此の身当(まさ)に無量の法器(ほうき)と為るべし。
王是の時に於て法を聞くことを得已(お)はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終(みょうじゅう)して阿枢ァ(あしゅくぶつ)の国に生ず。
而も彼の仏の為に第一の弟子と作(な)る。
其の王の将従(しょうじゅう)・人民・眷属(けんぞく)の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉(ことごと)く阿枢ァの国に生ず。
覚徳比丘却(さ)って後(のち)寿(いのち)終はりて亦(また)阿枢ァの国に往生することを得て、而も彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。
若し正法尽きんと欲すること有らん時、当(まさ)に是くの如く受持し擁護(おうご)すべし。
迦葉(かしょう)、爾(そ)の時の王とは則ち我が身是なり。」

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   ★ ↑ 本当に笑かして下さる。

この「破戒の比丘等」は、惑乱者の解釈だと、

真如教徒で、しかも
●「金銭問題」
●「権威で脅す」
●「不義不貞の情」
即ち、人の道に反するもの=法を壊る者  

だって? 馬鹿も休み休み言うべし。
その者らと、「刀持って戦闘する」 だって?

嗤うべし!真乗の涅槃経怪釈!

では、そのように、まさに現に刀を持って、
「真如教徒で、しかも
●「金銭問題」
●「権威で脅す」
●「不義不貞の情」
即ち、人の道に反するもの=法を壊る者」
と戦闘しているのか?

■「若し善比丘有って法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。」

「法を壊(やぶ)る者」 とは、正法を護持する僧俗を迫害する邪教徒のことである。

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涅槃経第十二に云はく
■「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作りて名を仙予と曰ひき。
大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪・嫉悋有ること無かりき。
乃至善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず。
婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はりて即時に其の命根を断じき。
善男子是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」

   ★ ↑ この
婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はりて即時に其の命根を断じき。

との文を拝すれば、

■「若し善比丘有って法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。」

「法を壊(やぶ)る者」 とは、「婆羅門の方等を誹謗する者」 ということではないか。

つまり、邪教の者・正法を誹謗する者 という意義である。

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涅槃経に云はく
■「我涅槃の後無量百歳に四道の聖人悉く復涅槃せん。正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし。
持律に似像して少しく経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺ふが如し。
常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。
唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん

   ★ ↑ この御文を拝すれば

「法を壊(やぶ)る者」  とは ↑このように、 仏のふりをして似非仏教=邪教 を弘めている者  である。

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涅槃経に云はく
■「仏の言はく、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。
純陀問うて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。
仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。
純陀復言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。
仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり
(中略)
純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義云何。
仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。
是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。

若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。
彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に過咎多からん。
是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。


   ★ ↑ この御文を拝すれば、

「法を壊(やぶ)る者」 
 とは 正法を誹謗する者 である。

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涅槃経に云はく
■「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」

   ★ ↑ この文を拝せは、

「法を壊(やぶ)る者」  とは 悪法を為すもの である。

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   ★ ↑ 他、類文繁多で、到底出し切れるもではないが、

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『★ 念仏も、キリスト教も、日蓮大聖人の教えも全て許容し、一緒に仲良くやっていきましょうよ。
ということか?

▼ そうです。
一緒に仲良くやります。
そもそも真如苑には「邪教」の概念が存在しません(かつてある教団に限って一時、邪教としましたが、現在では他宗の悪口はありません)。』
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   ★ ↑ などという解釈は全く間違っている。ということである。

であるから、
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▼ しかし、大般涅槃経名字功徳品には
「八大河悉く大海に帰するが如し」
―(「南無阿弥陀仏」の河も、「アーメン」と唱える河も、はたまた「南無妙法蓮華教(※ママ)」と唱える河も、河はやがて海に行きつくように)という意味―
と説かれ、
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   ★ ↑ この解釈も全て誤りであり、
となれば、▼ 涅槃経 と 法華経 の優劣について反論 

の解釈の根底の理論が成り立たなくなり、全くの戯れ言、と化したわけである。
これで反論は不成立である。
結果 改訂版 法華経 優 涅槃経 劣 の証明
これ↑を崩すことはできなかった。ということである。
ご苦労様でした。

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