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法華経 と 涅槃経 の優劣  まとめ


@ 法華経 優 

■ 「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり(中略)我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而(しか)も其(そ)の中に於て、此(こ)の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」(『法華経』法師品第十)

この経文中、「已に説き」とは42年間の方便教のことであり、「今説き」とは開経の無量義経であり、「當に説かん」とは、法華経の後に説く結経の普賢経(ふげんぎょう)と、そして『涅槃経』を意味します。

すなわち、過去・現在・未来のすべてにわたる一切の経典の中で、この法華経こそが最も勝(すぐ)れた経典であると、釈尊自らが宣言されているのです。
これを「已今当(いこんとう)の三説超過」といいますが、これについて

中国天台宗の第六祖・妙楽大師は、

■ 「縦(たと)ひ経有って諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず」(『法華文句記』)

と述べられています。

すなわち、当分の第一として「この経が最も勝れている」という意味の経文は諸経のあちこちに示されていても、過去・現在・未来の一切のなかで「最も勝れている」と宣言されるのは、法華経以外にはありません。

したがって、「法華経こそが最も勝れた、最高の教法である」と言えるのです。

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  疑難 ▼ 過去・現在・未来の中で「法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」と仰せになっていますが、「最上なり」とは仰っていませんね?

  反証 ★ → まさに、「語」にとらわれている浅はかな姿。

■ 薬王今汝に告ぐ 
@ a 我が所説の諸経  b 而も此の経の中に於て  c 法華 d 最も第一なり」
爾の時に仏、復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、

A a 我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。 b 而も其の中に於て、 c 此の法華経、 d 最も為れ難信難解なり。 (『法華経』法師品第十)

この文脈から言って、「全ての経の中で法華経が第一である。」と、まず示され、その意義を再度、念入りに説くために、次の

■「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」

と仰せられるのである。
(※ この 「当説」 とは、「当に説かん」 つまり、法華経以後の未来をさして、「これから説くものも含めて」 という意味であり、そこに当然 涅槃経 が含まれていることは重々理解しているであろうが。(教学的に更に踏み込んで解釈すれば、実はもっと深い訳ともなるのであるが、問難者の機根に合わせて今は伏す))


最初の文 @ と、後の文 A を比較して並べてみる。

前段 @ 後段 A
a 我が所説の諸経 我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。
b 而も此の経の中に於て 而も其の中に於て、
c 法華 此の法華経、
d 最も第一なり 最も為れ難信難解なり。


こうして見れば、最後の句の @−d 「最も第一なり」 は A−d 「難信難解」 と同格、同義の扱い、同じ位置付けの意義となるではないか。

これは、単純に文章読解力の問題である。
もしこの問題が高校試験に出題されて、「最も第一なり」 は 「難信難解」 と同格、同義の扱い、同じ位置付けの意義と読めない、と回答したならば、まず間違いなく不正解である。


結論は、「法華経は、今まで説いてきた全ての経典と、法華経以後に説く涅槃経も含めた上で、最高の教説であり、しかも最も深い教理であるが故に、信じ難く、理解し難いのである。」

という意味であることは動かしがたい。

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A 涅槃  劣

【解釈】

■ 譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。

  → その日の仕事がその日一日でほとんど成し遂げられるも、もしまだ残ってしまった場合は、次の日に繰り越す。
これはまさに法華経により大勢は成仏救済されたが、それに漏れる者もいる。とする例えではないか。

■ 大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず 大乗大涅槃、日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。

  →、ここは、一見、涅槃経を聞いて初めて正法に安住する。と読めるかも知れない。
また、多くの者達がそれで躓いているのであろう。
しかし、冒頭の比喩で、この段の基本構造を既に示しているのである。
この比喩をきちんと読み取って基本構造を把握していないから、「義」が読めず「語」に躓くのである。
冒頭の文の「義」を以ってこの文を読めば、この文の前半と後半の間に、ある意義が略されている、と読まなければ全体の文意が通らなくなってしまうのである。事実、「涅槃経 優」と執着する者達はここに躓いているのであろう。
この文は、 
「これまでの全ての経典を修行してきたが、 『それでも悟り切れずに残った者は』 涅槃経によって救済される。」
という意義なのである。
この
 『それでも悟り切れずに残った者は』 という義が入ることにより、この段全ての文義が矛盾なく流れ理解できるのである。

■ 猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。

  →、これは仏の広大無辺な慈悲を現された箇所であり、そのように、種には 早生、晩生 があるが、その全てをあらゆる方法を尽くして救済される、という意義。

■ 如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。

  → 上記と同じ、仏の教法は、あらゆる機根に対しても、どこまでも慈悲の手を差し伸べて、救済されるまで導く、、といういうこと。
八種の病 とは 四苦八苦 であろう。

■ 是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。

  → 涅槃経は、上記の譬えの如く、一日で成し遂げられなかった仕事は次の日に持ち越され、その持ち越された残務全ての処理が完成したことで、一切が利益され、安楽安心が訪れる。とういう意味。

■ 能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。

  → 三乗各別 の執着を打ち破り、一切衆生悉有仏性 を真正面に説き出だしたのは法華経である。
その法華経が、衆生救済の大半を成し遂げ(秋収め)、その余残の機に対して、仏の遍く降り注ぐ慈悲により、涅槃経が説かれ、残りが悉く救済される(冬蔵(おさ)めて) これで、全ての化導が終結するのである。

■ 一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。

  → 絶対に成仏できない、と言われてきた、一闡提人も、ここで全て救われたのである。
これが、先ほどの 義を読んで挿入した 『それでも悟り切れずに残った者は』 
の意義に通じるのである。
もちろん、一闡提人が成仏できる原理は、既に法華経にて説き尽くされ、現証まで説かれている。
(諸法実相 十如是 十界互具。一念三千。提婆達多の成仏。)
涅槃経のみに説かれた特別な教説ではない。 

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これは単純に文法、あるいは古文漢文の文意解釈の問題だと思うが、分類してみる。

法華経の役割とその例え 涅槃経の役割とその例え
譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、 もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し
大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、  (『それでも悟り切れずに残った者は』) 要(かな)らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。
法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め 冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。

こうして見れば、やはり、「秋収冬蔵」の句は、まさに天台大師の仰せの通り、

「秋収」 は法華経の大収穫
「冬蔵」 は涅槃経の落穂拾い

という解釈は疑難を挟む余地など全くなく、真に正鵠を得ている。ということである。
 
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▼ 法華経での会座を退出した五千上慢の衆生を救済できたのは涅槃経だから、法華経でできなかったことを涅槃経で成した。
だから法華経より涅槃経が優れている。

とする説に反論。

 ★  大陣を破り、余残は戦後処理

● 戦で言えば、

@ 勝敗の大勢を決し、その後、
A 残余兵を探索し処理をする場合、
@ A のどちらを主戦の戦と捉えるか。後の歴史に名を留めるのか?
子供が聞いても分かる理屈であろう。


● 経典通り収穫の譬えでいえば、

法華経と涅槃経の関係は
秋に一気に大収穫し、後に取りこぼした落穂を拾って、それで全て完了し「安心」した。という状況。
「収穫」という行為には変わりない。

本日いよいよ「収穫」という日がメインであることは誰が見ても明らかな道理。
それを次の日、やり残した仕事を少々したところで、その作業の方が重要だ、などとは誰も言わない。

それは、法華経には説かれない、涅槃経特別の教理が新たに顕れたというわけではないからである。
涅槃経は法華経の教理の再説なのである。


● 教授と生徒

有名な教授がその教授独創の理論を、ある大学に来て一時間の講義をする。
多勢はそれで理解できたが、分かりの悪い生徒がいた。
その教授はその生徒達を哀れに思って、分からない点を中心に、時間を延長して、噛み砕いて噛んで含めるように話し、やっと理解できたとする。
教授も生徒全員が理解できた姿を見て、大いに安心した。

この場合、最初の一時間より、後の延長講義の方が優れていると言うだろうか?

しかも、教授の独創理論を生徒たちが理解できなかったのは、本題の今回の講義を理解できる前提としての基礎学力が不足していたからと分かり、その基礎の初歩にまで立ち返って懇切丁寧に再度、一から諄々と段階毎に教えて理解させてから、もう一度本題の内容を講義する。。。。。
このような状況である。

この状況で、本論の一時間の講義と、延長し本論とは本来関係ない初歩的な内容も含む講義では、果たしてどちらが高度で、純然で、明確か?
誰が聞いても分かるであろう。

法華経は純一無二であり、
涅槃経には、爾前・権教の雑味が含まれるので、一往、「醍醐味」という同一味に括られるが、再往は、「法華経 最勝 涅槃経 は次点 」なのである。
因みに末法の教主日蓮大聖人は、「法華経は醍醐味を超越する。」と示されている。

■ 無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐の如し。又涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主の如し。妙楽大師云はく「若し教旨を論ずれば法華は唯開権顕遠(かいごんけんのん)を以て教の正主(しょうしゅ)と為(な)す。独り妙の名を得る意此に在り」云云。又云はく「故に知んぬ、法華は為れ醍醐の正主」等云云。此の釈は正(まさ)しく法華経は五味の中にはあらず。此の釈の心は五味は寿命をやしなふ。寿命は五味の主なり。(曽谷殿御返事 弘安二年八月一一日 五八歳 1380)

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以上の解析を元に、涅槃経に曰く「義に依って語に依らざれ」の遺誡の如く、原文を元意に沿って補足して表す。

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法華経の役割とその譬え 涅槃経の役割とその譬え
譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、 もし未だ訖(おわ)らざる者(←※五千起去の衆生)は、要(かな)らず日月を待つが如し
大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、 (※ これに漏れた五千起去の衆生は)「要(かな)らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。
全体を顕す 猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。
如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。
是の経(※法華・涅槃は醍醐味として一往、同一味であるが故に、「是の経」とは 法華経・涅槃経の両経の意味) の世に出づる、
彼の果実の(※五千起去の衆生も含めた)一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、
法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め (※五千起去の衆生は)冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。
(※五千起去の衆生の)一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法(※涅槃経)に於いて、営作する所無し。

↑ かくのごとくとなり、この文の本意が明瞭となる。

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法華玄義釈議 妙楽大師

法華に権を開するは已に大陣を破するが如し。餘機彼に至るは残党の難から不るが如し。
故に法華を以って大収と為し、涅槃を「手偏+君」拾と為す。


まさに、この解釈の通りである。



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