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61 「八大河悉く大海に帰するが如し」の怪釈を粉々に摧破する。
↑これを見て、以下の怪釈を読むと、いよいよ、笑える。
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★ そして、その者を、知っていながら、放置したままで、
「呵責」=その誤りを指摘し、叱り、責めること。
「駈遣」=追い払うこと。
「挙処」=悪をはっきり指弾しその悪事に対してきちんとした処置を行うこと。
をしなかったら、仏法の怨敵である。とされているが、
具体的にはどうしたらいいのか説明してください。
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▼ まず、その人が真如教徒である場合、一番軽いのは「注意」。
それでもダメなら段階的にいくつかのペナルティが課され、最悪は永久追放です。
で、一般の真如苑と関係のない人に関しては、相手の立場を尊重しつつ相手が反省できるように促します。
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え!まずびっくり!
真如教徒以外の者へ、
●「金銭問題」
●「権威で脅す」
●「不義不貞の情」
即ち、人の道に反するもの=法を壊る者
として、何か説教じみたことを言うんですか?
↑の項目って、かなり主観的判断が入りますよね。
その判断が絶対正しいって、誰が証明してくれるんです?
実に独善的な話ですね。
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★ ↑ いやはや、
61 「八大河悉く大海に帰するが如し」の怪釈を粉々に摧破する。
↑これ見てから、惑乱者の上記の説明を読むと、ホント吹き出しそうになるな。
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▼ 私が樋田氏に対してやっている事も「呵責」の一つですよ?
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★ ↑ は? あれ?
▼「若し善比丘有って法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。」 とどう整合性をとるのか? への反論
ここ↑での 「法を壊る者」 の定義は
『「真如苑の禁忌」というのだから基本的には真如教徒で、しかも
●「金銭問題」
●「権威で脅す」
●「不義不貞の情」
即ち、人の道に反するもの=法を壊る者』
じゃなかったの?
私が、その、●「金銭問題」 ●「権威で脅す」 ●「不義不貞の情」 即ち、人の道に反するもの=法を壊る者
ってことしました????
いや少なくとも貴方に対してはしてないでしょ。
なんで、それが貴方から一方的に「呵責」されなきゃいけないんですか?
しかも、貴方が私を呵責していい根拠は、貴方が言う理論からは見出せないんですけど。。。
実に独善的・高慢な話ですね〜〜。
真如苑ってそういうところなんですかぁ?
でしかも、↓
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『★ 念仏も、キリスト教も、日蓮大聖人の教えも全て許容し、一緒に仲良くやっていきましょうよ。
ということか?
▼ そうです。
一緒に仲良くやります。
そもそも真如苑には「邪教」の概念が存在しません(かつてある教団に限って一時、邪教としましたが、現在では他宗の悪口はありません)。』
(趣意をまとめた)
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こういうことでしょ?
だったら、そもそも論議をなんで持ちかけてきたんですか?
おかしいじゃないですか。
というように、
ほらほら、大丈夫? 主張に一貫性が全くないね。
場当たり的に、目先のことだけでものをいうからこのような支離滅裂なことになるのである。
こういう状態を、法華経では
■ 若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば
頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん
こう説かれてますよ。
お気を付けなさい。
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▼ 普段、私はここでやっているような闘争を好みません。
従って、無意味だと思ったらすぐに手を引きますよ。
人事を尽くしてダメなものは、どうしようもありませんからね。
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★ ↑ 随分勝手な言い分ですね。
まず、貴方から電話があって、次に貴方が遠方から以下の心意気で来られて
▼「樋田様とお会いする時は、一真如苑教徒としてお会いします。
法論する必要があるならば応じさせて頂きます。」
始まったことではないですか。
その後も
▼「これ(※ざっと書いた論点と所感)をたたき台として議論へと昇華させ、より広く皆さんに見て頂くにふさわしいものになればと思っております。」
と、論議する気満々である。
人間としてもう少し言動に責任を持ちましょう。
真如教徒としても恥かしいですよ。