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▼「了義経に依って不了義経に依らざれ」 とどう整合性をとるのか? への反論
★ ↑ これも本陣を破すために準備として外堀を埋めときますか。
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26 「了義経に依って不了義経に依らざれ」 とどう整合性をとるのか?
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★ ■「了義経に依って不了義経に依らざれ」
不了義経を用いたり、根拠にしてはいけない。と説いているが、この「不了義経」とは何を指すのか?
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▼ 「不了義経」とは、まだ完璧でない教え=涅槃経以前の教え という事になりますね。
存在する全ての経典のうち「了義経」「不了義経」という概念は涅槃経以外ではないのではないでしょうか(あったらごめんなさい)?
そして、「依らざれ」とはどういう意味で、具体的にはどうすれば良いのか?
「この教え(あるいは無宗教の人なら『自分』)こそが絶対なのだ」と執着して、他を排撃するような態度を辞める事です。
もっと言えば、涅槃経の「すべてのものには仏性がある」と説く、その仏性(良き個性)を尊重する態度を失うなとも言えるでしょう。
「涅槃経」に依るべきだから、それ以外の教えに「依る(執着する)」ことないようにすれば良いのです。
但し、「不了義経」は必要ないという意味ではありません。
あくまで「完璧でない」という意味です。
だからキリスト教ともうまくやれるし、実際にドイツ人の霊能者は接心を行う時に十字架をつけたまま、神に感謝して接心に入るそうです。
この内容は涅槃経にも書かれていますが本当に解るためには、やはり経典ではなく体験(密教)が必要です。
もし「不了義経」に執着すれば必ず対立が生まれます。それでは幸せにはなりません。
結論として、(自分しか)幸せになれないような身勝手な宗教は捨てれば良いという事です。
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★ ↑ 全く涅槃経の教旨と反している。
既に、
61 「八大河悉く大海に帰するが如し」の怪釈を粉々に摧破する。
63 「法を壊る者」の定義に笑かせられる。
で、粉々に破しているが、更に文証を挙げて↑の邪義を粉砕する
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涅槃経に云はく
■「迦葉菩薩、仏に白して言く○如来の法身は金剛不壊なり。而るに未だ所因を知ること能はず、云何。
仏の言さく、迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。
迦葉、我、護持正法の因縁にて、今、是の金剛身、常住不壊を成就することを得たり。
善男子、正法を護持する者は、五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣、弓箭を持つべし。
是くの如く種々に法を説くも、然も故、師子吼を作すこと能はず○非法の悪人を降伏すること能はず。
是くの如き比丘、自利し及び衆生を利すること能はず。
当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり。
能く戒を持ち浄行を守護すと雖も、当に知るべし是の人は能く為す所無からん。
乃至、
時に破戒の者有って是の語を聞き已はって、咸共に瞋恚して是の法師を害せん。
是の説法の者、設ひ復命終すとも、故持戒、自利利他と名づく」
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★ ↑
■ 正法を護持する者は、五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣、弓箭を持つべし。
■ 是くの如く種々に法を説くも、然も故、師子吼を作すこと能はず
○非法の悪人を降伏すること能はず。
是くの如き比丘、自利し及び衆生を利すること能はず。
当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり。
能く戒を持ち浄行を守護すと雖も、当に知るべし是の人は能く為す所無からん。
★ ↑ つまり、真の正法の修行者は、武具を持ってまでして、正法を誹謗する邪教の者どもと闘い、時には死ぬことがあってもそれこそが真の常楽我浄・真の常住不壊の境界に達することが出来る。
と説かれている。
逆に、正法を誹謗する者、あるいは正法で説いていることでないものを弘めている者、つまり邪教の者を破折・屈服しないような怯弱な者は、真の自他共の救済は成らず、出来ず、結局はそのような者こそ、仏法における惰弱な怠け者である。
ということではないか。
つまり、惑乱者の、上記の主張は涅槃経でバッサリ破折されている。
全く採用されない痴論である。
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