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   ★ 種・熟・脱 という仏法の大きな展開を知らないのである。
これは植物が 種から始まり、果実となり、完熟し食べられる。その中に種を宿している。 
その種がまた成長し、果実となり 云々。。。。。
この循環の姿と同じである。

→ 久遠元初の法そのものが妙法蓮華経(略して法華経と呼称) 

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▼ その法を説いたのは誰ですか?
佛に説かれずに法は存在できるのですか?
だから真言では大日を立てているだけの話です。

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   ★ ↑ だから、浅いのである。
法身 大日如来しか立てられない。。ということなのである。
で、この浅さは何度も破折済み。
44 法身・大日如来 (久遠常住釈迦牟尼如来 も同じ) では 現実に生きている衆生を救えない原理  

結局、みなこの三身即一身の問題が解けないから、「法」そのもの という方向へ逃げる思考性なのである。

で、久遠元初の法を説いたのは、久遠元初の御本仏である。
もちろん、三身相即 きちんと肉体を持たれた仏である。
寿量品の「我本行菩薩道」の釈尊を成仏せしめた本仏である。
釈尊の仏法は、釈尊が成仏できたその本因を極めていくと、結局この一言に突き当たるのである。
つまり、釈尊は、詰まる所、自分が成仏したその一番根本のところの修行の具体的な相を明かしていない、とも言えるのである。
何故なのか?
この問いを、仏教史上、明快かつ論理的に説き明かした方は、古今東西、日蓮大聖人しかおられない。
どの教派もこの問題に詰まって曖昧なことしか主張できていないのが現状である。
真言密教然り、真如苑然り、その他大勢、、、

何度も説明してきたが、(ただ問難者がそれを理解できないだけであるが)
この「我本行菩薩道」の時の本仏が、釈尊の極説、妙法蓮華経の説時に涌現されるのである。
それは、釈尊の正法滅尽の時代に「誰か、この法を弘めるや?」との問いに応える形でである。
しかも、その時、居並ぶ弟子である、菩薩や二乗を「止みね善男子」と制止してからである。

因みに、一代仏教経典において、滅後末法の明確な法付嘱を説いているのは、法華経だけである。
もちろん上行菩薩が出現するのも、法華経のみ。

ここに

久遠の妙法とは「妙法蓮華経」 人即法・法即人の御本仏が存在 
→ 釈尊はこの御本仏を師として「妙法蓮華経」を修行して成仏 
→ インド応誕 「妙法蓮華経」を説く時 地涌の菩薩(内証・久遠本仏)が出現 妙法蓮華経を付嘱し末法の弘通を託す
→ 予言通りに誕生して久遠の「妙法蓮華経」を弘通 → 日蓮大聖人

こういう図式が矛盾なく成立する。 

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従地涌出品第十五
■ 爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、

止みね、善男子。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。
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自分の正法(法華経)が滅する未来に妙法蓮華経を弘通するのは自分(釈尊)ではなく、しかも今まで教化してきた弟子達でもない。。。。
では、その人は一体誰なのか?
どういう立場の人なのか?
当然、この疑問が涌く。(ま、仏教を研究しているほとんどの者達はここに気付いていないが。。。)
で、出現した地涌の菩薩が、いきなりこう言う。

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■「是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆の中に於て、最も為れ上首唱導の師なり。

大衆の前に在って、各共に合掌し、釈迦牟尼仏を観たてまつりて、問訊して言さく、
世尊、少病少悩にして、安楽に行じたもうや不や。
応に度すべき所の者、教を受くること易しや不や。
世尊をして疲労を生さしめざるや。


爾の時に四大菩薩、而も偈を説いて言さく、

世尊は安楽にして 少病少悩にいますや
衆生を教化したもうに 疲倦無きことを得たまえりや
又諸の衆生 化を受くること易しや不や
世尊をして 疲労を生さしめざるや


爾の時に世尊、諸の菩薩大衆の中に於て、是の言を作したまわく、

是の如し、是の如し。
諸の善男子、如来は安楽にして、少病少悩なり。
諸の衆生等は、化度すべきこと易し。
疲労有ること無し。


(中略)

爾の時に諸の大菩薩、而も偈を説いて言さく、

善哉善哉 大雄世尊
諸の衆生等 化度したもうべきこと易し

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出現してきていきなりこう言うんですよ。

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世尊は、安楽に過ごして、少病少悩でいますか?
衆生を教化されることに疲れたり、倦怠感感じてませんか?
そして、衆生達は、仏教の化導を素直に受け入れてますか?
世尊を疲れさせていませんか?

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 これ、どうであろう、
どう見ても、目上の者が目下の者へ言うセリフではなかろうか?
しかも釈尊はそれに対して、
そのまま反芻して答えているのである。
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そうです、そうです。
自分は安楽に過ごして、少病少悩です。
衆生達は、大変教化し易いです。
自分も疲れることはありません。
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すると、さらにまた地涌の菩薩が重ねて言うのである。
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いいですね。いいですね。
世尊。
衆生達は、教化なされ易いんですね。

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他にも、法華経には、この地涌の菩薩が釈尊より上位者である暗喩が多い。

上行菩薩が釈尊より勝れた仏である法華経の文証

となると、最早、釈尊を成仏せしめた過去の本仏とは上行菩薩(の内証)であることは疑い得ないのではないか?
(ま、一生涯、疑い続けるのならば別に止めないが)

で、その 御本仏 → 上行菩薩 → 末法の法華経の弘通者=日蓮大聖人 ということになるのである。

【参照】

日蓮大聖人が久遠の本仏であったことの簡明な道理

法華経で予証された末法の法華経の弘通者



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