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法身・大日如来 を本尊と建てる矛盾 (真乗のいう 「久遠常住釈迦牟尼如来」 も原理は同じ)
そもそも本来、「仏」とは一身即三身・三身即一身にして、法・報・応の三身が即一身に具わり、はじめて衆生済度の力用が生ずるのである。
それを各々別個の法身仏・報身仏・応身仏とするならば、何の用も益もありえない。
ここが全く分かっていないから仏法に混乱しているのである。
「法」があっても、それを悟る「智慧」がなければ法はただ存在するだけである。
しかし、「法」がありそれを悟った「智慧」があっても、それを実際に娑婆世界(現実社会)に肉体を持って出現して、法を説かなければ、衆生は救済されない。
法・報(智慧)はそのまま応身に備わっていなければ、何の用も益も生じない。
この原理から、三身即一身 一身即三身 としての仏が最尊・最極となるのである。
釈尊は当然そう説いている。それが法華経にしか説かれていない原理 一念三千である。
法華経以前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面のみを顕わしたのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如実相が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。
しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。
それは、伊藤真乗が言うところの 「久遠常住釈迦牟尼如来」 という概念も同様である。
実体がない、ただの理上の仏であり、仮想仏である。
そんなものは実際の「身」がないのであるから、我々衆生に「法」を説けないのである。
実際の「口」と「手」がなければ、いくら衆生を救済できる「法」が存在し、それを覚知したとしても、衆生の「耳」にも聞こえず、「目」にも見えないのである。
現実にリアルに衆生に語り、衆生の悩みを聞き、そして衆生を救済できないのである。
こういう簡単・簡明な原理 分かりませんか?
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