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▼ 「法華経が最勝 と主張するのならば他の経典は全て否定されなければ矛盾ではないか。」 との幼難を指導する への反論

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★B 「法華経が最勝 と主張するのならば他の経典は全て否定されなければ矛盾ではないか。」 との幼難を指導する

▼↑樋田氏の主張です。
少しだけ反論を加えます(緑色が樋田氏)。
大集経 「隠没」 と 「損減」 についての回答を兼ねています。

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  ★ → 細かいことのようだが『※@ 隠没』 の訳は歴史民俗用語辞典からの引用で、仏教用語としては正しくない。
純粋に 「隠れ、没する」 と訳すべきであり、その方が文意が通じる。
今後も、同様な問題が予想できるのだが、言葉の訳し方は、あくまで仏が説こうしていた意に通じるかが肝要なのである。
つまり経典の教旨の全体観に立った上で細部を見て行かなければならない。
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▼ で?事実、経典は「隠れ」「没し」たのですか?
ならば日蓮大聖人は何の勉強もせずにいきなり独悟して佛にならないといけない道理でしょうね?
だって、学ぶべき経典が没して存在しないのだから。

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   ★ ↑ 法華経神力品付嘱 以上。

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★ → ここが、やはり幼学の者の多く陥る邪難である。
一切経は全て法華経へ向けて説かれた方便教である。(涅槃経は法華経の「流通分」にあたる)
しかし、真実の仏の悟りである法華経が説き出だされたならば、その法華経の教説を根本に据えた上で、方便の教えである一切経も、活用・依用出来るのである。

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▼ はっきりしない根拠でいきなり「方便教」だの「流通分」だの言われても、「何故?」としか言いようがありません。
「法華経が最勝 と主張するのならば他の経典は全て否定されなければ矛盾ではないか。」と。
そもそも私、そんな事申し上げました?
申し上げたとして、最重要の論点「法を説く正当性の根拠」にとってさほど重要な議論とも思えませんが、なぜ噛みつくのです?
真っ向から、論点をずらさずに私と議論しようとしないのは何故ですか?

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   ★ ↑ 全く根性が腐っておる。
今回こちらの破折文が相当具合が悪かっったのであろう。
文脈の前後も載せることができず、一見しては一体どんな論議か初見では分からないようにしておいて、全体のほんの僅かの部分にしか反論の真似事しかしてきていないのに、何が▼「 真っ向から、論点をずらさずに私と議論しようとしないのは何故ですか?」かね。
ほとほと、驚き入る。
その姑息で卑怯な根性を白日の下に晒すために、ここに今回の当方の破折文全文再掲し、それと真如狂徒の駄文を比較すれば、その論旨の明確さ、質と量、勝劣の差は自ずと明らかであろう。

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★B 「法華経が最勝 と主張するのならば他の経典は全て否定されなければ矛盾ではないか。」 との幼難を指導する

再掲

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▼ 対して

(日蓮大聖人の正当性の根拠)

これは、樋田氏が詳細に述べられていますのが、その要旨とは

●時期    →釈尊滅後二千年〜二千五百年 (1. 大集経 分布閻浮提品)
●方角    →インドから東北方面 (2.法華経寿量品第十六)
●弘める経 →末法における法華経の要法 (3.法華経薬王品・4.妙法蓮華経如来神力品第二十一)
●法難    →刀による受難 何度も所を追われる (5.勧持品二十行の偈)

この予言の条件を満たせる方は、歴史上、鎌倉時代の日蓮大聖人しかおられない。
というものです。

更に、
日蓮大聖人が本佛(6.法華経如来寿量品第十六7.法師品第十・分別功徳品第十七・8.従地涌出品第十五)
とし、この末法の佛が説くものなら信用も、功徳もあるとします。
以上、概ね8つの経典を根拠に日蓮大聖人が「正しい医者」だという訳です。

以下、詳細に検討を加えていきましょう(樋田さんの引用は緑色の文字。私の意見は黒文字)(※ ←この色分けは、うまく反映されないかも知れないので、内容で判断ください。)

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▼ 1、 大集経 分布閻浮提品 −説かれる時の問題―

「次の五百年は(※第五の五〇〇年)、我が法の中に於て、闘諍言訟して白法隠没し損減すること堅固ならん」

つまり、お釈迦様が滅度した後、500年ずつ時代を区切っており、2500年後には末法(500年×第五番目=2500)になるよ。

その時には「白法(びゃくほう:正しい法)隠没(おんもつ:『※@偽って死者扱いすること。偽って戸籍に名前を載せない事』)し損減(減らす事)する」し、釈尊が説いた正しい法も存在はするが埋もれていたり、埋もれてなくてもその功徳が減損(減る)していたりすると仰っております。

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   ★ → 細かいことのようだが『※@ 隠没』 の訳は歴史民俗用語辞典からの引用で、仏教用語としては正しくない。
純粋に 「隠れ、没する」 と訳すべきであり、その方が文意が通じる。
今後も、同様な問題が予想できるのだが、言葉の訳し方は、あくまで仏が説こうしていた意に通じるかが肝要なのである。
つまり経典の教旨の全体観に立った上で細部を見て行かなければならない。
それは経典が成立する過程には長い時間の経過があり、また、幾つもの民族、言語、国家を経てきているが故に、多様な要素が堆積しているからである。
本質的な骨格・綱格においては釈尊の御言葉が根本であることはその深遠な教旨から疑い得ないが、網目においては、後の訳出者の添加や編集があったであろうことが認められるからである。
であるから、「経文」を拝しその「義」を解し、仏の「意」に通じる読み方をしないと、経文の判釈に迷い惑うのである。
重々留意しなければならない点である。
とかく、経文の語句の解釈を様々な辞典を漁り、自分の意に通じるような訳を見つけて、全体の義を曲げて捉える者が多いが、それこそが仏教が曲がる大きな悪しき要因であるから、よくよく誡めなければならない。

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▼ この「大集経」というのは、実は「大方等大集経」が正式名称で、空思想や密教的要素が濃厚だと言われております。法華経以外は不可とする樋田氏が法華経ではない「大集経」を出してくるのは矛盾していますがそんな小さな事はいいますまい。

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   ★ → ここが、やはり幼学の者の多く陥る邪難である。
一切経は全て法華経へ向けて説かれた方便教である。(涅槃経は法華経の「流通分」にあたる)
しかし、真実の仏の悟りである法華経が説き出だされたならば、その法華経の教説を根本に据えた上で、方便の教えである一切経も、活用・依用出来るのである。
「群盲象を評す」 とか 「群盲象を撫でる」 とかいう寓話に似ている。

【参照】
この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場する。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する、というもの。

これまさに釈尊が衆生の機根に合わせて様々な教説を説き、最後に真実の生命の実相とその救済法を法華経において示す。
という次第に似ている。

象という生き物を、例えば「鼻」の部分だけしか知らぬ者が、そうと思い込むことは間違いである。
しかし、象の全体像を掴んだ上で、「鼻」の詳細はどうなっているのか詳しく調べることは何の問題もない。
法華経と一切経との関係はかくの如しである。

法華経には生命の本質的実相が説き明かされて一切衆生救済の原理が初めて説き極められた。
しかし、法滅の相についてはそう詳しくは説かれてはいない。
かたや大集経には、法滅尽への経過や様相が詳細に説かれている。
それが故に、法華経の全体観を根本とした上で大集経を依用するのである。
これを「開会の法門」というのである。
真実の法を見極めるために一切経を峻別していく見方を「相待妙」
真実の法が詳らかになった後に、その法から一切経を活用していく見方を「絶待妙」という。(極めてザックリ言えば、の話だが)

そしてこれも、よく見受けられるケースだが、真の正統な仏道を修行していない者には、こういう三次元的な見地からの全体観が把握できずに仏教を論じる者が多い。
二次元的、平面的、近視眼的、二元論的(白か黒か的)にしか事象を捉えられないのである。

「法華経が最勝 と主張するのならば他の経典は全て否定されなければ矛盾ではないか。」と。

富士山(仏教)の頂上付近が法華経とすれば、裾野(阿含経)も五合目(方等部経典)も八合目(般若部経典)も全て富士山(仏教)の一部ではあるが、その地点を富士山(仏教)の「頂上」と思い込んでいたら間違いである。ということ。
しかし、富士山の全体観が分かれば、全て頂上部分(法華経)を支える富士山(仏教)の全体、山体なのである。

少々長くなったが、こういう基本的な仏教の捉え方がいい加減だと、論争の綱格を見失うので、敢えて、ここに念記しておく。

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その上で、経文を拝すれば上記の意義が明瞭となるであろう。

法華経・薬王品
■ 我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。

この経文の、「後の五百歳」の語に既に、大集経の教説が説き込まれており、省略されているということ読み取らなければ思考が未熟と言われよう。

論証

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▼ 要は「末法と言うのが来るよ。その時には仏法の救いというものも十分に発揮されなくなりつつあるよ」という事です。  

   ★ → その通り。


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