▼ ところで、法華経には「未来にこの法華経を説くものが現れる」と明確に示されていますかね?
私の記憶では
1. 「次の五百年は(※第五の五〇〇年)、我が法の中に於て、闘諍言訟して白法隠没し損減すること堅固ならん」
2. 「衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し
咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず
衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に
一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず
時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず
我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず
3. 『「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん」
4. 「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累(煩わしい事を託す)の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽すこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。」
と、時期、方角、法華経の要法、法難 という4つの根拠で日蓮大聖人の出現が予証としているのですが、本当にそうですかね?
上の文では、日蓮大聖人出生の予証はおろか、その状況証拠としてもどうなのだろう?
日蓮大聖人、その人直々御指名ではない、沢山の者が末法に於いても法華経を広げると読めなくもないですね。
涅槃経に於いての「その人出現」より、全然、根拠として弱い。
そのくせ、涅槃経の文は根拠にならない。抜苦代受とか接心とか説いていないと子供のような事を言う。
だったら、法華経に「日蓮と言う人が現れて、髭曼荼羅を書いて云々」と事細かに書いていないといけないでしょうという事。
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★ ↑ 全く反論として成立してない。ただの主観的感想。
日蓮大聖人が末法の御本仏である論証は上記のようなザックリしたものではない。
このテキストは初期にレジュメのように提示したもので、その後、論が進むにつれて重厚かつ多重的な論証としてまとめてある。
あえてこういうプロトタイプをこの後半の段階で持ち出してきて反論の具として使うあたりが、実に姑息な手口である。
日蓮大聖人が久遠の本仏であったことの簡明な道理
法華経で予証された末法の法華経の弘通者
日蓮大聖人が釈尊より勝れた仏である法華経の文
大集経に説く「末法」来入の年限の矛盾を解明する
この論文全てに真如狂徒はこれだけ時間があったにも関わらず真正面から反論できていない。この論拠を全く崩せていない。
随分と前から提示してあるにも関わらずである。
さあ、今からでも遅くはない。こちらは逃げも隠れもしない。
異義があるのならば堂々と反証してみたまえ。
それができないのならば、自見・我執を引き下げなさい。
それが論争に臨む正当な態度であろう。
その上で、真如狂徒が提示してきたこの経文↓を読んでみても真乗などに全く当てはまらない。
そう思い込むことができるのは真如狂徒たちだけであろう。
104 【資料】 「伊藤真乗が末法の教主であることの予言」として説かれている涅槃経の経文として真如惑乱者が挙げている箇所
その中にある、↓
■ 若始めて阿耨多羅三藐三菩提心を発す有らば、當に知るべし、是の人は未来の世に、必ず能く是の如きの正法を建立し、受持擁護せん。
是の故に汝今、未来世の中に護法の人を知らざるべからず。
何を以ての故に。
是の発心の者は、未来世に於て必ず能く正法を護持せん。
↑ などは、真如狂徒が言う
▼『日蓮大聖人出生の予証はおろか、その状況証拠としてもどうなのだろう?
日蓮大聖人、その人直々御指名ではない、沢山の者が末法に於いても法華経を広げると読めなくもないですね。』
↑この感想がそのまま「日蓮大聖人」を「真乗」に入れ替えれば涅槃経の当該箇所に言えるではないか
★▼『「真乗」出生の予証はおろか、その状況証拠としてもどうなのだろう?
「真乗」、その人直々御指名ではない、沢山の者が末法に於いても「涅槃経」を広げると読めなくもないですね。』
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