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法身大日如来など仮想仏では衆生は救われない への反論


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★ 32 法身大日如来など仮想仏では衆生は救われない

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▼ ↑仏身に対する解釈と法を説く正当性の根拠の関係を示さず、ひたすら自分勝手な議論をする樋田氏ですね。
日蓮正宗をするとこういう性格になっていきます。
私はそれが嫌で日蓮正宗を辞めたのです。
まぁ、唯我独尊の教えというのはある意味求めるのが楽です。
ですが、今回は少しだけ「法を説く根拠の正当性」に触れられているので反論しておきます。

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  ★ ↑ だから、その真言伝持の八祖自体が後にできた信仰仏教教団の真言宗が勝手に何の根拠もなく言いだしたこと。
それのみならず真言宗自体が矛盾と虚言のデパートのような宗派なんだから、それを根拠にして真乗の正当性をいかに主張しても、全く無駄!と指弾しているのである。

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▼ これって、「とにかく俺が正しいの!真言宗なんて出鱈目だし伊藤なんて詐欺師」と誹謗中傷しているだけですよね?
それこそ「伝持の八祖に根拠がない事」の根拠を示さないと。
私は、まさに伝持の八祖を根拠に伊藤 真乗師の正当性を主張しているのです。

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   ★ ↑ あれ? これはもう完全に終わってましたか。。。。

39 対論相手が 真言宗の伝持の八祖が偽りだったことを認める  『ああ!確かに論破されている!』

『ああ!確かに論破されている!

34 大問題! 真言付法の第三祖 龍猛 は 竜樹菩薩ではなかった? 
35 大問題! 龍猛 は 金剛薩? などいう得体の知れない もの からどうやって法を承けたのか?
36 なんと! 真言宗付法の第四祖 龍智は 寿命700歳だって!え〜〜〜?? これをまともに信じている人はいるのか?

↑自分でも調べてみた結果、2世紀頃に活躍したナーガール・ジュナと真言伝持の第三祖金剛智(669〜741年 インドに渡ったのが700年)
との間には最短で501年の時間差があります。
盲点でした。
全く疑うことなく伝持の八祖は連綿伝持だと思っていました。
Wikipediaにあるように、竜猛は6世紀ごろの人でないと計算が合いません。
これで、「竜猛の否定は大乗仏教全体の否定」という私の主張は脆くも崩れ去った事を認め、意図したわけではないにせよ事実と異なる主張をしたことを樋田氏はじめ読者諸氏にお詫びするものであります。

で、残る根拠は唯一つ。
大般涅槃経には「将来、この経を説くものが現れる」と記されていますが、それをやったのは釈尊滅後、伊藤 真乗師のみであることを破折して頂きましょう。
私は真言宗を信じているわけではないですからね。
真如教徒として伊藤 真乗師を信じているのです。
で?
樋田さん、もう少しペース落としてもらえませんか?
仕事にも支障がではじめているので。』

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★ ここで、真言宗自体が全くの邪教であることを更に追及し、
しかもその真言宗を自身の系譜の正当化を謀る為に使っている伊藤真乗が言いだしたことと、弘法の言っていることが大いに矛盾していることを指弾する。
これで分からなければ、ただの愚人ですね。

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▼ う〜ん?
私は真言宗自体の教義には興味ないですが、それが伝持の八祖を否定する内容なら拝読しましょう。

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★ 「大日如来」の矛盾(真乗のいう「久遠常住釈迦牟尼如来」も同様)

そもそも本来、「仏」とは一身即三身・三身即一身にして、法・報・応の三身が即一身に具わり、はじめて衆生済度の力用が生ずるのである。
それを各々別個の法身仏・報身仏・応身仏とするならば、何の用も益もありえない。
ここが全く分かっていないから仏法に混乱しているのである。

「法」があっても、それを悟る「智慧」がなければ法はただ存在するだけである。
しかし、「法」がありそれを悟った「智慧」があっても、それを実際に娑婆世界(現実社会)に肉体を持って出現して、法を説かなければ、衆生は救済されない。
法・報(智慧)はそのまま応身に備わっていなければ、何の用も益も生じない。
この原理から、三身即一身 一身即三身 としての仏が最尊・最極となるのである。
釈尊は当然そう説いている。それが法華経にしか説かれていない原理 一念三千である。

法華経以前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面のみを顕わしたのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如実相が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。

 しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。

それは、伊藤真乗が言うところの「久遠常住釈迦牟尼如来」という概念も同様である。
実体がない、ただの理上の仏であり、仮想仏である。そんなものは「法」を実際に説けないのである。
現実にリアルに衆生に語り、衆生の悩みを聞き、そして衆生を救済できないのである。

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▼ これは?
じゃぁ、昔、釈尊を教化したという「久遠元初の佛」なるものは法・報・応の三身があったのですか?

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   ★ ↑ あったんですね〜 。それが!
既に書いたが、法華経の「我本行菩薩道」のその時代を明確に矛盾なく説かれたのは、人類史上 日蓮大聖人しかいない。
その証文が以下。

■ 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1696)

■ 本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要(けっちょう)す。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1685)

■ 久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹(すいじゃく)上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮詮要す。 (百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1685

■ 凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ(被)らせ奉るは凡夫なり。(諸法実相抄 文永一〇年五月一七日 五二歳 665)

■ 釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟(さと)りを開きたまひき。(三世諸仏総勘文教相廃立 弘安二年一〇月 五八歳 1419)

■ 至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時(ぐじ)・不思議の一法之(これ)有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減(けつげん)無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。(当体義抄 文永一〇年 五二歳 695)

■ 久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘(まま)と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動(はたら)かさゞるなり。三十二相八十種好を具足せず、是繕(つくろ)はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。是を久遠と云ふなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。(御義口伝 1772)


  ↑ ま、真乗の低劣な教義しか知らない貴方には到底理解不能とは思いますが、一応挙げていきますね。
何回か生まれ変わった後に、少しは分かりの良い児で生まれてこられるように。



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