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▼ 改訂版 真言宗 及び 伊藤真乗 の矛盾を粗々突くについての反論

    ★ ↑ 破折


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▼ 樋田氏は議論と言うものがよく解っておられない様子です。
議論で一番大事なのは「何を論じているのか」です。
私は伊藤 真乗師の正当性の根拠の一つを伝統法脈に求めています。
ですから、私を論破するなら「伝統法脈」を否定しなければなりません。
そうであるにも関わらずいつまでも「真言宗の邪教性」を主張しています。

@−2 改訂版 真言宗 及び 伊藤真乗 の矛盾を粗々突く

↑まだ、読む気力がある方は一応、読んでみてください。
一応、簡単におさらいさせて頂きます。

★ そもそも大日の三部を 「密教」 と云い、法華経を 「顕教」 という事などどの経典にも全く書かれてない。弘法の自見・己義・我見である。

 ▼ もう一度、「真言 伝持の八祖」を振り返って下さい。
真言宗の元祖は、日本に伝わった法華経八品二十八巻を訳した鳩摩羅什の師匠であるナーガール・ジュナです。
大乗仏教の祖とも言われる彼(ナーガール・ジュナ)は佛教マスターでなければなりません。
そうでなければ大乗仏教の全てが否定されます。

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  ★ ↑ だから、その真言伝持の八祖自体が後にできた信仰仏教教団の真言宗が勝手に何の根拠もなく言いだしたこと。
それのみならず真言宗自体が矛盾と虚言のデパートのような宗派なんだから、それを根拠にして真乗の正当性をいかに主張しても、全く無駄!と指弾しているのである。
本当に、聞き分けのない児ですな。

ここで、真言宗自体が全くの邪教であることを更に追及し、
しかもその真言宗を自身の系譜の正当化を謀る為に使っている伊藤真乗が言いだしたことと、弘法の言っていることが大いに矛盾していることを指弾する。
これで分からなければ、ただの愚人ですね。

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「大日如来」の矛盾(真乗のいう「久遠常住釈迦牟尼如来」も同様)

そもそも本来、「仏」とは一身即三身・三身即一身にして、法・報・応の三身が即一身に具わり、はじめて衆生済度の力用が生ずるのである。
それを各々別個の法身仏・報身仏・応身仏とするならば、何の用も益もありえない。
ここが全く分かっていないから仏法に混乱しているのである。

「法」があっても、それを悟る「智慧」がなければ法はただ存在するだけである。
しかし、「法」がありそれを悟った「智慧」があっても、それを実際に娑婆世界(現実社会)に肉体を持って出現して、法を説かなければ、衆生は救済されない。
法・報(智慧)はそのまま応身に備わっていなければ、何の用も益も生じない。
この原理から、三身即一身 一身即三身 としての仏が最尊・最極となるのである。
釈尊は当然そう説いている。それが法華経にしか説かれていない原理 一念三千である。

法華経以前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面のみを顕わしたのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如実相が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。

 しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。

それは、伊藤真乗が言うところの「久遠常住釈迦牟尼如来」という概念も同様である。
実体がない、ただの理上の仏であり、仮想仏である。そんなものは「法」を実際に説けないのである。
現実にリアルに衆生に語り、衆生の悩みを聞き、そして衆生を救済できないのである。

つづく



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