TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次


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総論

真言密教歴史
教義と本尊
破折

仏罰厳証

善無畏 一時頓死
弘法大師 晩年
平清盛
承久の乱
承久の乱 御書

真言害毒

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破折各論

顕密二教判は空海の己義
大日如来が実仏だとするならば「八相作仏」を明示せよ
もし、「大日如来が娑婆世界の仏」 と言うのであれば、 「世に二仏無く、国に二主無き」 という仏教の基本的な決まりごとに反する。
↑龍猛菩薩(竜樹←真言宗の主張)の言→ 娑婆世界には釈迦仏一人
「他土の仏」 と言うのであれば
「大日如来も釈尊も一体」 と言うのであれば、何で釈尊を下し、捨て去るのか。
大日経に二乗作仏を説かず   一切の声聞・縁覚を共にせず。亦世尊普(あまね)く一切衆生の為にするに非ず
此くの如き乗々は自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す
不空の弟子含光がかつて天竺で天台教判を求められた

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付法八祖は空海の創作

付法の八祖

@ 「法身大日如来」つまり 肉体のない法そのもの(といわれている)仏は、いつ、どこで、どうやって、法を授けたのか?
A 金剛薩た とはどんなモノなのか?
B 三祖である 龍猛=龍樹 は、根拠ない妄説 龍猛 と 龍樹 は別人だった。
 1 金剛薩た から どう付属を受けたのか?
 2 もし 龍猛=龍樹 だとしたら大矛盾あり。
 竜樹 大智度論に曰く「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中に更に余仏無し。実に一の釈迦牟尼仏のみなり
涅槃経に予見 邪教の開祖らの醜態
C 第四祖 龍智 はなんと!寿命700歳!(まるで旧約聖書なみの荒唐無稽さ!)

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伝持の八祖

D 五祖の善無畏 と六祖の一行について
密教はそもそも矛盾破綻だらけのデタラメ宗

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空海破折

@ 「顕劣密勝」 は空海の己義
    第三祖 竜樹菩薩も 法華経こそ秘密経 二乗作仏あるが故 と説く → 空海の「顕劣密勝」は完全な己義・邪儀 
A 空海が、顕教である「六波羅密教」の教説から「大日経」最勝を主張する矛盾
B 「十住心論」は空海の己義
C大日経に二乗作仏なし
D法身・大日如来を立てる誤り
E両部曼荼羅などただの悪戯描きに過ぎない
F本尊と宗旨の混乱が甚だしく、文字どおり支離滅裂の様相

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真言宗を破折された御書

■大日経の住信品に十住心の根拠なし。
菩提心論は龍猛(竜樹)の作かは疑問 空海破折それを根拠に十住心を立てる 根拠薄弱
大日経義釈では 大日経と法華経とは広略の異とあり大日経勝 法華経劣 とは述べてない

無始無終
法華経では三妙合論→三身の無始無終を説く 大日如来は法身の無始無終のみ  本因 本果 本国土
大日如来は四魔を降伏して仏となった→無始無終ではない

顕密
六波羅蜜経に云はく■「過去現在並びに釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の所説の諸経を分かちて五蔵と為し、其の中の第五の陀羅尼蔵(だらにぞう)は真言なり」と。
真言の経、釈迦如来の所説に非ずといはゞ経文に違す 是二。

要を以て之を言はゞ如来一切所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す

天台の五味は涅槃経から 六波羅蜜経からではない

法華経は「諸仏」の諸説のなかで最極最尊

伝教大師は真言を破折されていた
伝教大師は空海の弟子だったのか?

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空海の誑惑

三鈷
夜中に日輪
霊鷲山で釈尊から目の当たりに法を聞いた
直ちに毘盧遮那仏となる?
振旦の人師等醍醐を争い盗んで各自宗に名づく

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遍路の実態
五百羅漢

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護摩
 迦葉三兄弟の帰依
 "亡国"の凶相
 岡山県倉敷市の真言宗寺院の住職が、妻の後頭部を殴打して放火し、自坊を全焼、妻を焼死させた
 慈覚の首
 元僧侶が語る邪宗の害毒

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遍路矛盾

 三業不相応

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体験談

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真言宗豊山派を破す

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▼ そもそも大日の三部を 「密教」 と云い、法華経を 「顕教」 という事などどの経典にも全く書かれてない。弘法の自見・己義・我見である。

■顕密二教判

顕密二教判(けんみつにきょうはん)とは、弘法が『弁顕密二教論』で説いた教義で、「顕教」 と 「密教」 の勝劣を判じたもの。以下、簡単に概要を記す。

(1)
顕教……歴史上の釈尊によって説かれた随他意(ずいたい)・方便の教え
密教……大日如来が説いた随自意(ずいじい)の真実の教え

(2)
顕教……修行について説くが、悟りの境涯(きょうがい)を説くことができない教え
密教……悟りの境涯を説いた教え

(3)
顕教……生まれ変わり死に変わり、長い間修行しないと成仏できない教え
密教……即身成仏の教え

以上の違いによって、弘法は 「顕劣密勝(顕教は劣り、密教が勝れている)」 と主張した。

つまり、弘法が自身が日本に持ち込んだ真言宗を正当化するために経典に何の根拠もなく勝手に言いだした我見・己義。

▼  真言宗では 
▼「真言三部経 理趣経などは、法そのものである最尊尊極の大日如来が説いた経であるから、肉身を持った劣った仏である釈迦如来が説いた法華経・華厳経。般若経(一部を除く)・涅槃経などより遥かに優れている。」
と主張している。
もし、そうであるならば

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1 大日如来の 出世・成道・説法・利生(りしょう)は釈尊より前か後か?如何(いかん)。
  → 当然、これについてどこにも具体的なことは説かれていない。
  → ということは大日如来などというものは架空の仏であり、実体がない。
  → その教えも、架空の話であって、実体はない。

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2 1、と同様かも知れないが、重ねて指弾すれば、仏として法を説く、という限りは必ず実在の仏として 「八相作仏」 が明確でなければ信用できる対象ではない。

八相作仏

@ 下天(げてん)       
A 託胎(たくたい)      
B 出胎(しゅったい)     
C 出家(しゅっけ)      
D 降魔(ごうま)       
E 成道(じょうどう)     
F 転法輪(てんぽうりん) 
G 入涅槃(にゅうねはん)

では、例えば大日如来が実在の仏だとしたら 「託胎」 したその父母は誰か。その名前は?→ 破折は同上。

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3 もし、「大日如来が娑婆世界の仏」 と言うのであれば、 「世に二仏無く、国に二主無き」 という仏教の基本的な決まりごとに反する。

涅槃経の三十五 
■「我処々の経の中に於て説いて言はく、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王(てんりんおう)あり。一世界の中に二仏出世すといはゞ是の処(ことわり)有ること無し」


竜樹菩薩 大智度論
■ 「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中に更に余仏無し。実に一の釈迦牟尼仏のみなり」

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もし 「他土の仏」 と言うのであれば、なんでこの娑婆世界有縁の我々衆生にとって主師親三徳を具しておられる釈尊を蔑(ないがし)ろにして、他方疎縁の仏を崇めるのか。
これ不忠・不孝の極みではないか。

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もし 「大日如来も釈尊も一体」 と言うのであれば、何で釈尊を下し、捨て去るのか。

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   ★ → つまり、大日如来などは架空の仏であり、弘法の 「顕劣密勝」 との主張は全くの根拠のない邪義である。

涅槃経に云く
■ 「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」  との経文の如くの魔師・大悪師。

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    →  大日経には 「仏不思議真言相道(そうどう)の法を説いて、一切の声聞・縁覚を共にせず。亦世尊普(あまね)く一切衆生の為にするに非ず」 云云。とあり二乗を隔てている。その他の真言三部経も同様。
つまり一切衆生の成仏が説かれていない劣った経典群である。
仏教の全体観を弁えず、しかもそのような、一切衆生が皆成仏することが出来ない劣った教説を説く、真言三部経を最勝と位置付ける弘法は邪師

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    →  弘法の秘蔵宝鑰(ほうやく)には  
▼「此くの如き乗々は自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す」。とあって、法華経を「戯論」と蔑如し下している。
そのような説は大日経・蘇悉地経・金剛頂経など真言三部経にも全くない我見・己義である。

法華経最第一は決定的判釈である。

その法華経に

■ 「法華経譬喩品第三
若し人信せずして 此の経を毀謗せば則ち一切 世間の仏種を断ぜん
或は復?蹙(ひんじゅく)して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん
経を読誦し 書持すること有らん者を見て
軽賎憎嫉して 而も結恨を懐かん
此の人の罪報を 汝今復聴け
其の人命終して 阿鼻獄に入らん
一劫を具足して 劫尽きなば更生れん
是の如く展転して 無数劫に至らん


とあり、弘法大師は間違いなく無間地獄に堕ちているということになる。
それは弘法自身の言葉 ▼「謗人謗法は定めて阿鼻獄に堕せん」 の通りでもある。

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真言宗の付法 伝持 の矛盾を突く

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付法の八祖
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真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩?が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。

  1. 大日如来(だいにちにょらい)
  2. 金剛薩?(こんごうさった)
  3. 龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)
  4. 龍智菩薩(りゅうちぼさつ)
  5. 金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
  6. 不空三蔵(ふくうさんぞう)
  7. 恵果阿闍梨(けいかあじゃり)
  8. 弘法大師

伝持の八祖[編集]

真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、大日如来、金剛薩?は実在しない人物なので除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。

手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。

  1. 龍猛菩薩 : 大日如来の直弟子金剛薩?から密教経典を授かって、世に伝えたといわれている(三鈷杵(さんこしょ)を右手に持っている)。
  2. 龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった(経文を右手に持っている)。
  3. 金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、「金剛頂経」を伝える(数珠を右手に持っている)。
  4. 不空三蔵 : 西域生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。「金剛頂経」を漢語に翻訳し、灌頂道場を開いた(外縛印(げばくいん)を結んでいる)。
  5. 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。大乗仏教を学び、さらに密教を受け継ぐ。80歳になって唐に渡り「大日経」を伝える(右手の人さし指を立てている) 。
  6. 一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。天台教学、天文学、数学を学ぶ。長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を完成させた(法衣のなかで印を結んでいる)。
  7. 恵果阿闍梨 : 中国生まれ。金剛界胎蔵界両部の密教を受け継いだ(椅子に座り、横に童子を待らせている)。
  8. 弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。空海(五鈷杵(ごこしょ)を右手に持ち、左手には念珠を持っている)。


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付法の矛盾 

@ 「法身大日如来」つまり 肉体のない法そのもの(といわれている)仏は、いつ、どこで、どうやって、法を授けたのか?
そもそも大日如来はしゃべれない。
実に不可解。


A 金剛薩?(こんごうさった)って実在したのか?
だとすれば、どこで生まれて、一生の事蹟はどうだったのか?
具体的に、この地球上の場所と、その年代を明かした経典が存在しない。

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    ↑ これが密教の限界なのである。
つまり、もの言わぬ「法身」を立てるので、衆生を教化するという具体的化導において、
現実として実際、悟りとは一体なんなのか。
何をどう修行すべきなのか。を明示できない、という矛盾がどうしても生じてしまう。

そこで、困った挙句に曖昧な役割を持たせて突っ込んだのが、「金剛薩た」 である。

後の真言密教系の教祖たちがどんなに高邁な観念や理論を述べたとしても、単純な道理として「口も手もない法身如来」が具合的に衆生を化導する事はできないのである。

金剛薩た などというこれもまた架空の、仏なのか菩薩なのか、”得体の知れないモノ”を突っ込んで、(肉体のない)法身如来 → 衆生への化導、という論理的矛盾を誤魔化し、煙に巻いているに過ぎない。

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    竜樹 と 龍猛 は別人でした!
だから、「付法の第三祖」はすっぽ抜けました〜!

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付法の八祖
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真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩?が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。

  1. 大日如来(だいにちにょらい)
  2. 金剛薩?(こんごうさった)
  3. 龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)
  4. 龍智菩薩(りゅうちぼさつ)
  5. 金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
  6. 不空三蔵(ふくうさんぞう)
  7. 恵果阿闍梨(けいかあじゃり)
  8. 弘法大師


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次の龍猛菩薩 だが、問難者の好きなウィキペディアによると、そのままリンク先へ行けば、以下のように出ている。
さ、どうします?
竜樹菩薩とは別人だそうですよ?

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龍猛(りゅうみょう、N?g?hvaya、別訳 龍叫)は、密祖(密教の祖)とされ真言宗では真言八祖の1人である。
長らく龍樹と同一視されてきたが、諸説あるもののおそらくは、6世紀ごろの別人である。

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さらに調べると、↓ こうある。
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密教の祖[編集]

新龍樹[編集]

大正時代の河口慧海寺本婉雅は、『八十四成就者伝』の龍樹伝が特異であることから、それに書かれた龍樹は、本来の龍樹の没後(寺本によると6世紀)の同名異人であるとした。
この説では、本来の龍樹を「古龍樹 (N?g?rjuna I)」、『八十四成就者伝』の龍樹を「新龍樹 (N?g?rjuna II)」と呼び分ける。


河口は、密教経典のうち『無上瑜伽タントラ』(左道密教)が新龍樹の著作であるとしたが、これには、古龍樹の著に基づく真言密教の正当性を主張するという背景があった。


一方、寺本は、龍樹に帰せられていた密教経典の全てが新龍樹の著作であり、古龍樹は密教とは無関係であるとした。
すなわち、古龍樹が中観の祖、新龍樹が密教の祖である[3]


この説に対し羽溪了諦は、2人の龍樹の伝記の骨子

は共通であることから、これらは同一人物の伝記であり、『八十四成就者伝』が異なる部分は密教の影響による潤色であるとした。

また、栂尾祥雲『八十四成就者伝』の史料的価値を否定した。

龍猛[編集]

寺本は、新古2人の龍樹に加え、古龍樹の弟子の龍猛 (N?g?hvaya) がいたとした。
龍猛は浄土教の祖であり、『入楞伽経』に記された龍樹の授記は龍猛のものであるとした[3]

現在、龍猛が別人とされるときは、密教の業績が帰せられることが多い。
この点では、寺本説の龍猛ではなくむしろ新龍樹に対応する(ただし龍猛と新龍樹は別の史料に基づく人物像である)。

中村元による分類[編集]

仏教学者の中村元は、ナーガールジュナ(龍樹)の同一性を疑う「複数説」を紹介している[4]。中村元によると、以下の6つの人物像がナーガールジュナの名に帰せられている。

  1. 中論』など思想を展開させた著者
  2. 仏教百科事典と呼ぶべき『大智度論』の著者
  3. 華厳経』十地品の註釈書『十住毘婆沙論』の著者
  4. 現実的問題を扱った『宝行王正論』の著者
  5. 真言密教の学者(龍猛)
  6. 錬金術の学者

この内、中村は 5 と 6 が、1 と大分色彩を異にしており、別人ではないかと思われると、疑義を呈している。


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もし、龍猛 と 竜樹菩薩 が別人としたら、

真言の付法の系譜そのものが崩壊することになる。

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@ 龍猛 が 竜樹 であろうがなかろうが、そのどちらでも、実体のない、実在も証明できない、二祖 金剛薩?(こんごうさった)から、具体的に、いつ、どこで、どのような形で付法されたのか?明示できまい。

その付法の具体手な全容が、竜樹自身の正当な論書に書いてあるのか?
あったら見せてもらいたいものだ。
つまりこれも、後発で誕生した真言宗が、後人が自宗を正当化しようとして作った、全くの虚偽・虚飾なのである。

A 仮にもし、龍猛 が 竜樹自身だとしたら、自らの発言に矛盾する箇所がある。

大智度論 九
■「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中に更に余仏無し。
実に一の釈迦牟尼仏のみなり 

我々が存在する「十方恒河沙の三千大千世界」という計算し難いほどの広大な宇宙空間には

「釈尊以外の仏はいない。 
→ 大日如来などここにはいない。」

と断言している。

つまり、竜樹は、大日如来を根本とする真言の教義体系自体を、ガツン!と否定しているのである。

とすれば、その人物を第三祖に持ち出したのは、真言宗の虚偽であること明白である。

→ ということは、それ以後の系譜など全く意味を為さない。ということである。

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涅槃経に云はく
「我涅槃の後、無量百歳に四道の聖人悉く復涅槃せん。
正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。
持律に似像して少しく経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺ふが如し。
常に是の言を唱へん、「我羅漢を得たり」と。
外には賢善を現じ、内には貪嫉を懐く。
唖法を受けたる婆羅門等の如し。
実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」

【意訳】
「我(釈尊)の仏法が滅亡した後、このような宗教家が現れるであろう。
戒律を持(たも)って、厳粛に修行しているように見せかけて、少々経典なども読みなどしているが、実は、常に旨い食い物や酒を求め、漁り、
袈裟をかけてはいるが、まるで漁師が目を細めて獲物を求めてそっと歩くように、
また猫が鼠を狙うように、信者達からの尊敬や、または財産などを狙っている。
そして、常にこう言う
「自分は悟りを得ている」 と (正当な系譜を受けた救済者であり、解脱している、仏である などなど)
外に向かってはまるで聖人のように振る舞い、しかし腹の中では常に金や女・地位・名誉に対する飽くなき欲望と
他の栄えている宗教団体に対して、あるいはまた自分より上の者や団体には、妬み、そねみ、やきもちを焼き、その炎が燃え盛っている。
しかし、いざ正当な教義論争となると、まるで一切ものを喋らない修行をしていた外道の婆羅門のように、押し黙っている。
教義論争に勝てずに、結局反論不能になり続けている。
それ、実には真の正統な僧ではないくせに、三宝一体の「僧」である、などと嘯いて、それらしく振舞い、
しかし、邪見の塊であって、真の正法を誹謗している。」

まさに空海の姿そのままではないか!
よくよく、畏れるべきである。
そして一刻も早く真言亡国の連鎖から目を覚ますべきである。

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付法の八祖
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真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩?が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。

  1. 大日如来(だいにちにょらい)
  2. 金剛薩?(こんごうさった)
  3. 龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)
  4. 龍智菩薩(りゅうちぼさつ)
  5. 金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
  6. 不空三蔵(ふくうさんぞう)
  7. 恵果阿闍梨(けいかあじゃり)
  8. 弘法大師


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  ↑  問難者の好きなウィキペディアから

龍智菩薩(りゅうちぼさつ)

龍猛菩薩の弟子として、密教について学び、厳しい修行をしたインドの高僧。
仏教に限らず、さまざまな学問に通じており、
中でも、長寿を保つ秘法を知っていて、700歳で亡くなったと伝えられている。
長きにわたり、多くの人々を救済した、まさに人間離れしたお坊さん。(※下線・太字は当方)

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   ★ ↑ は〜〜〜〜〜? これまともに信じているのか?
もしそうなら、その時点で、人間としての理性が破綻している証左である。

この龍智のこの無茶な逸話はなぜできたのか?
簡単なのである。
つまりその後の、実在の人物、

● 「金剛智(こんごうち、skt:Vajrabodhi、669年 - 741年)は、音訳では跋日羅菩提といい、中国密教の祖師であり、開元三大士の一人である。主に『金剛頂経』系の密教を伝えた。真言八祖の中では、「付法の八祖」で第五祖、「伝持の八祖」では第三祖とする。」

へ、繋げる為に、年月が合わない、足りないので、こんな荒唐無稽な嘘八百の人物をでっち上げて、「寿命700歳」 などとして第4祖として突っ込んだだけのことなのである。

こんないい加減な系譜はこうして詳細に解析すれば(って大したことではない、子供でも分かることだが)
全く信じる価値のない、ガラクタ血脈、ニセ血脈 詐称血脈 捏造血脈 であること明明白白である。

空海の正当化はこれで完全に崩れた。
それでもまだ空海を信じるとすれば、それはただ愚昧な妄執ということ。

それで人生を台無しにし、しかも三悪道に堕ちる業因を日々せっせと積んでいるのである。
なんと哀れなことか!
なんと痛ましいことか!

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伝持の八祖[編集]

真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、大日如来、金剛薩?は実在しない人物なので除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。

手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。

  1. 龍猛菩薩 : 大日如来の直弟子金剛薩?から密教経典を授かって、世に伝えたといわれている(三鈷杵(さんこしょ)を右手に持っている)。
  2. 龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった(経文を右手に持っている)。
  3. 金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、「金剛頂経」を伝える(数珠を右手に持っている)。
  4. 不空三蔵 : 西域生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。「金剛頂経」を漢語に翻訳し、灌頂道場を開いた(外縛印(げばくいん)を結んでいる)。
  5. 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。大乗仏教を学び、さらに密教を受け継ぐ。80歳になって唐に渡り「大日経」を伝える(右手の人さし指を立てている) 。
  6. 一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。天台教学、天文学、数学を学ぶ。長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を完成させた(法衣のなかで印を結んでいる)。
  7. 恵果阿闍梨 : 中国生まれ。金剛界胎蔵界両部の密教を受け継いだ(椅子に座り、横に童子を待らせている)。
  8. 弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。空海(五鈷杵(ごこしょ)を右手に持ち、左手には念珠を持っている)。


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   ★ ↑ 次の矛盾を突く

五祖の善無畏 と六祖の一行について

善無畏が『大日経』等の梵本(梵語すなわちサンスクリットで書かれた原本) を翻訳せんとした際、そこに重大な壁が立ちふさがった。
それは、当時の中国には、すでに天台大師による円満無欠の『法華経』 の教えが弘まっていたため、善無畏が持参してきた経典は、とうてい普及の見込みがないことであった。

 そこで善無畏は、ひとつの迷策を考案し、当時、天台の学匠として知られていた一行阿闍梨を巧言をもってそそのかし、持参してきた経典を天台の義によって翻訳させ、さらに『法華経』の教義に基づいてその解説書を作らせることに成功したのである。

 この善無畏の巧みな誑惑により、あたかも密教は最勝の法であるかのごとく見せかけられ、中国に広く根をおろしていった。

具体的に言うと
『大日経』に説かれる▼「心実相」の語をとりあげて、『大日経義釈』(『大日経疏』 の再治本) の中に

▼「彼(法華経)に諸法実相と言うは、すなわち、これこの経(大日経)の心の実相なり。
心実相とは、すなわち是れ菩提、更に別理なきなり


と述べて、『法華経』 の十如実相の理に同化し、『大日経』にも一念三千・即身成仏の義がある、と標榜した。

そして、『大日経転字輪曼荼羅行品』に

▼「毘慮遮那世尊、執金剛秘密主に告げて言く、我れは一切の本初なり、号して世所依と名づく」、

とある一節をさして、『大日経義釈』の中で

▼「我一切本初とは寿量の義なり

と釈明し、大日如来を『法華経寿量品』の久遠実成の仏に擬して、万有開展の本源と説いたのである。

 かくして『大日経』の中へ『法華経』の教理を取り入れた真言密教では、『法華経』も『大日経』も理論内容においては等しいが、実際の功徳においては、印(印契ともいい、指をまげて種々の形を造ること)と真言(仏の真実の言という意であるが、ここでは種々の呪文のこと) とがある『大日経』 の方が勝れるとして、理同事勝(理においては同じであるが事において勝れる)と主張する。

さらに、天台大師の「法華開会の法門」を自宗に取り入れ、諸宗で依経とする華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の一切経は、ことごとく『大日経』に摂め入れられている、と言うに至ったのである。

しかし、いかに 「心実相」 「我一切本初」等の『大日経』 の一節を引こうとも、もとより十界互具・一念三千の宝珠はただ『法華経』 にのみ説くところであって、その現証としての二乗作仏・久遠実成は、『大日経』にも、むろん『金剛頂経』・『蘇悉地経』等にもまったく説かれていない。

つまり、善無畏と一行は、これまた、なんと!虚偽・捏造・ペテンを使って、世間を誑惑して真言密教を浸透させていったのである!
こんな連中が、真言宗の伝持 の第五と第六なのか?
だめだこりゃ。

信者は当然、その開祖や、祖師の傾向性に色濃く影響される。
おそらく、真言系信者は、嘘だらけ・捏造だらけ・人を騙すことへいちゃら、自分でも騙している自覚すら持てない。そうして自己主張だけは人一倍、虚栄心が強く、負けず嫌い、、、、そんな傾向が濃厚であろう。

真に恐るべきは邪宗の害毒である。

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密教はそもそも矛盾破綻だらけのデタラメ宗
で、そこらかしこに矛盾隠しの継ぎはぎをしているだけ。
その矛盾を突かれないように誤魔化して、肝心の部分になると「密教だから秘伝・秘儀。だから公開できない」みたいに追及されないように逃げを打っている。
ただそこで勘違いしないでもらいたいのは、日蓮正宗の唯授一人・血脈相承だって公開できない秘伝秘義であるが、それはあらゆる教義体系が総合的に統合されており、一切矛盾破綻がない。
ただその極まった頂点だけは唯授一人で伝持されている。ということである。
しかもその血脈相承の系譜は歴史的に実在した人物として確たるものである。

一方真言密教の秘伝秘義とかいうものは、「不法の八祖」も「伝持の八祖」も、そもそも一番大本の 大日→金剛薩た→龍猛 が既に歴史的に全く裏付けが無く、ただの空想の域を出ないものである。

それも当然で釈尊が方便として説いた仮想仏・架空のお話を基にして作り上げたものだから、誕生からしてただの空想のお話なのである。
お伽噺にいろんな寓意を含めて幼児を教育するような経典だったのである。
そのお伽噺に書かれている空想の産物をあたかも実在しているように錯覚して作り出された宗派なのである。
だから、どこをどう切っても空想の夢物語にまことしやかな理屈付けしているに過ぎない。
これが真言密教の本質である。


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伝持の八祖[編集]

真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、大日如来、金剛薩?は実在しない人物なので除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。

手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。

  1. 龍猛菩薩 : 大日如来の直弟子金剛薩?から密教経典を授かって、世に伝えたといわれている(三鈷杵(さんこしょ)を右手に持っている)。
  2. 龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった(経文を右手に持っている)。
  3. 金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、「金剛頂経」を伝える(数珠を右手に持っている)。
  4. 不空三蔵 : 西域生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。「金剛頂経」を漢語に翻訳し、灌頂道場を開いた(外縛印(げばくいん)を結んでいる)。
  5. 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。大乗仏教を学び、さらに密教を受け継ぐ。80歳になって唐に渡り「大日経」を伝える(右手の人さし指を立てている) 。
  6. 一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。天台教学、天文学、数学を学ぶ。長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を完成させた(法衣のなかで印を結んでいる)。
  7. 恵果阿闍梨 : 中国生まれ。金剛界胎蔵界両部の密教を受け継いだ(椅子に座り、横に童子を待らせている)。
  8. 弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。弘法(五鈷杵(ごこしょ)を右手に持ち、左手には念珠を持っている)。


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   ★ ↑ さあ、いよいよお待ちかねの「弘法」の大矛盾です!

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【矛盾1】

弘法においては、『弁顕密二教諭』を立て、

▼「釈尊五十年の説法は、舎利弗等の請いに応じて応身仏が説いた随他意の教であり、浅略な方便教である。
『大日経』等は、自受法楽のために法身仏・大日如来が談じた随自意の教であり、唯仏与仏内証の深秘の教である」
と説き、即身成仏は大日如来の秘密教に限ると強調している。

 しかしながら、『大日経』等を密教とし、『法華経』を顕教とすることは、いずれの経にも文証のない弘法の己義である。
のみならず、仏の金言を明証とすれば、法華経こそ一大事の法門を秘蔵した経なのである。

『法華経法師功徳品第十』の三説超過の文の次下
■ 「薬王、此の経は、是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して、妄りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したもう所なり。昔より已来、未だ曽て顕説せず。」325

『安楽行品第十四』
■「文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り、長夜に守護して、妄りに宣説せざるを、始めて今日に於て、乃ち汝等が与に、而も之を敷演す。」399

 『如来寿量品第十六』
■「汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を」429

『如来神力第二十一』
■「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。」(513)

 等々とあって法華経こそ仏の内証たる一念三千が秘められた、秘密の教であることが示されている。

ゆえに、真言宗で勝手に第三祖と仰いでいる竜樹(竜猛)菩薩も(※別人である説が有力であるが、それはどちらでも構わない)、
『大論』の第百巻・第九十品に
■ 「曰く、法華経を秘密と名づく。二乗作仏あるが故に

と説いている。

↑ もし、竜樹を第三祖 とするならば、空海のいう、「顕劣密勝」の義は、まさに大先輩、大仏教学者の竜樹の御指南にも背いている。ということになる。
真言宗系の後人がウソ・捏造で 竜樹を第三祖、などとでっち上げるから、こうやってみっともない矛盾が露見するのである。

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【矛盾2】 

弘法は、真言密教が最も優れていることを説明するために『六波羅蜜経』を引き、五蔵判を立てる。
すなわち、『六波羅蜜経帰依三宝品』の中に釈尊一代聖教を類別して、

(一) 常に閑寂な所を選んで静慮を修する者には俎多覧蔵(経蔵) を、
(二) 威儀を習い正法を護持する者には毘奈耶蔵(律蔵) を、
(三) 正法を説き法相を分別して研墳を究尽せんとする者には阿毘達磨蔵(論蔵) を、
(四) 大乗真実の智恵を願って我・法の二執を離れる者には般若波羅密蔵(慧蔵 を、
(五) 禅定を修せず善法を持たず威儀を修せず諸の煩悩に覆われた者を憐れみ、彼を速疾頓証させんがためには陀羅尼蔵(秘密蔵) 

を、それぞれ修行するように示された一節を、弘法は、法華涅槃等は第四の般若波羅密蔵、真言の三部秘経こそ第五の陀羅尼蔵であると立て、前の四蔵はすべて顕教、後の一蔵が密教であると判じ、これこそ成仏の直道なりとしたのである。 

しかしこの五蔵判を立てるために利用した『六波羅蜜経』は、まさに弘法からすれば「応身如来の劣った仏であるとする釈尊の「顕教」」であり、その自身が蔑如している経を大日経等の正当化に利用するなど、これ大矛盾である。

しかも「『大日経』等は一代の顕教の中には含まれない」としながら、顕教である一代聖教中の「陀羅尼蔵」を『大日経』等になぞらえて最上であると立てることはまさに自語相違の極み。迷乱の極致である。

賢いことで有名な弘法が、こんな簡単な矛盾に気がついていないはずはない。
つまり、真言密教を最勝最尊と周囲に納得させるためならば、手段を選ばない、なりふり構わず、我田引水し、牽強付会し、無智な者どもなら分からんだろうとばかりの強引な解釈をしたものである。
まさに「無理を通せば道理が引っ込む」の典型である。

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【矛盾3】

さらに弘法は、『十住心論』 (これを三巻に要約したものを『秘蔵宝鑰』という) を著わして諸宗を批判した。
前の『弁顕密二教諭』は一切経を横に判じ、この『十住心論』は諸宗を竪に判じたものとされ、弘法の二大教判となっている。

『十住心論』 は、『大日経住心品』 に基づき衆生の心を十種に分類し、これを諸宗に配当して批判、真言宗が最勝至極の宗旨であると主張したものであるが、この中で弘法は、
▼「『大日経』に比較すれば『法華経』は三重の劣で、第三戯論である」 とし、

『秘蔵宝鑰』 では 
▼「また釈尊というも、無明の辺域にして明の分位にあらず」

として、法華経並びに釈尊を蔑視している。

 しかし、彼の依経たる『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等のいずれにも、かかる説はまったく見当たらず、これまた経文を無視した弘法の己義に他ならない。

 しかも、中国の祖である善無畏は『大日経義釈』 の中で、一切経を四句に配当し、その第四句・如実知自心を最勝として、これに『法華経』・『大日経』を配している。
『大日経』を『法華経』と同列に配することさえ大変な誤謬であるが、弘法の立てた、『法華経』を『大日経』より三重に劣るとする説は、彼の祖師たる善無畏の説とも、まったく矛盾しているのである。

 そもそも『法華経』が、釈尊出世の本懐・己今当に超過して最勝真実の教であることば、経文の随所に示されており、これを第三戯論などと語ることは、まさに
■ 「若し人信ぜずして此の経を毀誘せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。……其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経175)
の重罪にあたるものである。

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【矛盾4】

『大日経』には
■ 「仏は菩薩の為に不思議真言相応の法を説いて、一切の声聞や縁覚を其の座に共にせず
等と二乗不成仏の立場に立つ経典であり、真言三部経などは、一代聖教中の方等部に属することが明らかで、「四十余年未顕真実」の方便経たることは疑いない。

それを
▼『大日経』と『法華経』とは共に一念三千の理を説くことは同じであるが、印と真言とが説かれる『大日経』 の方が実際の功徳において勝れる」
とする、理同事勝の定義は全くの邪義である。

いかに 「心実相」 「我一切本初」等の『大日経』の一節を引こうとも、もとより十界互具・一念三千の宝珠はただ『法華経』にのみ説くところであって、その現証としての二乗作仏・久遠実成は、『大日経』にも、むろん『金剛頂経』・『蘇悉地経』 等にもまったく説かれていない。

それは前項 

37 真言宗伝持 第5祖 善無畏 第6祖 一行 は、なんと!天台大師の一念三千と、法華経寿量品の久遠実成を盗み取って、真言密教へパクっていた! 
で解説したように
中国の善無畏と一行が、天台宗の教義から一念三千の名を盗み取り、自宗の極理と称していたからである。
 ゆえに、『法華経』と『大日経』とは、理においても雲泥の勝劣があるばかりか、二乗作仏・久遠実成の現証が「法華経」のみに説かれることにより、事においても「大日経」は遠く「法華経」に及ばない。
このうえ、いかに『大日経』に印・真言が説かれると力んでみたところで、一念三千の説かれぬ「大日経」では、もとより九界即仏界・仏界即九界の義がないので、手に印を結び、口に真言を唱えても、真の大功徳・即身成仏は永久にありえぬのである。

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【矛盾5】

法身・大日如来を立てる誤り

そもそも本来、仏とは一身即三身・三身即一身にして、法・報・応の三身が即一身に具わり、はじめて衆生済度の力用が生ずるのであって、それを各々別個の法身仏・応身仏等とするならば、何の用もありえない。
爾前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面のみを顕わしたのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如実相が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。
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※ 諸法は 相あり 性あり 体あり 力あり 作あり 因あり 縁あり 果あり 報あり 本末は究竟して等しい 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 当宗には天台の所釈の如く三遍読むに功徳まさる。
第一に是相如と相・性・体・力以下の十を如と云ふ。如と云ふは空の義なるが故に十法界皆空諦なり。
是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり。
八万四千又は般若とも申す。

第二に如是相は是我が身の色形顕はれたる相なり、是皆仮なり。
相・性・体・力以下の十なれば、十法界皆仮諦と申して仮の義なり。
是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり。又は解脱とも申す。

第三に相如是と云ふは、中道と申して仏の法身の形なり。
是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり、又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す。

此の三を

法・報・応の三身とも、
空・仮・中の三諦とも、
法身・般若・解脱の三徳

とも申す。

此の三身如来全く外になし。
我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり。
是をしるを如来とも聖人とも悟りとも云ふ。
知らざるを凡夫とも衆生とも迷ひとも申す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

 しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。

 そもそも「大日如来」という仏名は、「毘慮遮那」(法身仏のこと)という梵名を中国で訳した名であるが、法華経の結経たる普賢経に
■ 「釈迦牟尼仏を毘慮遮那遍一切処と名づけたてまつる」 (法華経642)
と述べられていることからも、法身・大日如来とは、釈尊が説法の必要上から方便をもって用いた一時の名であり、じつは三身相即の釈尊の、法身の一面を示していたことが明白である。

 したがって、真言宗で立てる単なる法身の大日如来は、法華経の三身相即の釈尊より数段劣る仏といわざるをえない。

 また、こうした単なる法身仏は、理上の仏であって、実際の婆婆世界に、下天・托胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃  という八相作仏の相をもって出現する実仏ではないから、我々衆生にとっても無縁の教主なのである。
かかる理仏を立てて実仏と偽り、婆婆世界の教主たる釈尊を押し倒すことは、まさに本末転倒の妄説である。

ことに、弘法が「十住心論」に
釈尊は無明の辺域 (仏界から遠く離れた迷いの境涯)にして明の分位(明らかな悟りの位) にあらず」等と述べ、

また新義真言宗の正覚房(覚ばん)が『舎利講の式』に
■「真言の行者にくらべれば『法華経』の教主釈尊など履物取りにも及ばず
等と述べて釈尊を蔑如していることは、大謗法の極みというべきである。

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【矛盾6】

真言密教で崇める両部曼荼羅なども、『大日経』・『金剛頂経』等には 九界即仏界・仏界即九界の十界互具の義がないことから、数百の諸仏・諸菩薩が大日如来を中心に融通して具足するという曼荼羅の義は崩壊しており、ただ諸尊を図上に並べたてただけの、悪戯書きにすぎない、というべきである。

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【矛盾7】

今日の真言宗では、念仏の阿弥陀仏を祀っている寺院があったり、四国八十八箇処巡礼の札所に禅宗や天台宗の寺院を含めていたり、はたまた高野山に浄土真宗の祖・親鸞の墓を建てるなど、本尊と宗旨の混乱が甚だしく、文字どおり支離滅裂の様相を呈している。
これ、正しい仏統でないことの紛れもない現証であろう。

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4年に一度のオリンピックと共に訪れる「閏年(うるうどし)」の本年。
この年に遍路をすると、
何とご利益が3倍になるらしい。
巡礼者にとって最大の関心事であろう。

★ 遍路の現状

「遍路」とは、
空海〈弘法大師〉の足跡をたどり、四国八十八ケ所の霊場を巡礼することである。

かつて、遍路は、家内安全・病気平癒・先祖供養など、現世や将来を願う祈りの旅であった。

しかし、近年では、
信仰によるもの以外に、健康維持やストレス解消、また自分自身を見つめ直す、さらには単なる観光というように様々な目的で巡られているのが実状のようだ。

このことに商機を見出した商魂たくましい業者は、「歩き遍路」以外にも「自家用車遍路」や「乗合バス遍路」、
さらには「巡礼代参サービス」や「お砂踏み」なる横着なサービスを展開するなど、もはや当初の「足跡をたどる」という意義はどこへやらといった有り様てある。

また、一昨年は四国霊場開創1200年という節目の年に当たり、旅行各社も需要拡大を見込んで様々なプランを打ち出し、さらには四国4県も遍路を盛り上げるべく、様々な企画を行っていた。

一例を挙(あ)げれば「四国へんろ展」の開催や、全国に遍路を知らしめるべく「1日で巡るお遍路さんin丸の内」「お砂踏みin仙台空港」など。
専用のラッピングカーで全国を巡回するといった力の入れようだ。

また各寺院でも「記念撮影」を用意するなど、受け入れ側も抜かりはなく、まさに四国全土を挙げて遍路をアピールしたのである。

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★ 三倍の由来は拙(つたな)い伝説

そして今年は、何と遍路のご利益が「3倍」になるという。なぜ3倍なのか。
事の始まりは次の伝説に由来する。

「ある日、河野衛門三郎という強欲非道な大百姓が托鉢(たくはつ)の鈴に昼寝を破られた。
腹を立てた衛門三郎は、その旅僧を竹箒(たけぼうき)で叩いて追い返すと、その後、8人の子供が次々と死んでしまった。
悲しみの中、強欲であったことを悔い、あの時の旅僧が弘法大師であったときづくと、許しを乞(こ)うべく後を追った。
しかし、四国霊場を20回まわっても弘法大師に出会えることはなかった。
そこで衛門三郎は、閏年のこの年、21回目にして逆回りをすれば出会えるのではないかと考え、逆打ちを始めると、間もなく足腰が立たなくなり倒れてしまった。
すると目の前に弘法大師が現われ、そこで衛門三郎はこれまでの行いを深く懺悔し、許しをもらうことができた。

さらにはその後、伊予の領主・河野一族の世継ぎとして生まれ変わる願いも叶った〈衛門三郎の伝説は諸説あり〉」
この伝説が基となって、「閏年」に札所の88番から1番に向かって「逆打ち」すると、そのご利益がなぜか3倍になるそうなのだ。

何とも説得力に欠ける「遍路伝説」ではある。

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★ 遍路に真の利益なし

遍路で巡礼する札所のほとんどは空海を祖とする真言宗の寺である。

空海は「顕劣密勝(けんれつみっしょう)」という自分勝手な己義(こぎ)を構(かま)え、顕教は劣り、密教である大日の三部教を最勝と説いて大日如来を本尊とする。

しかし、大日日経の一切諸経を説いた釈尊が、
我(わ)が所説の諸経而(しか)も此(こ)の経の中に於(おい)て法華最も第一なり」 (法華経 325ページ)
と述べているように、すべての経典の中で法華経こそが最も正しい教えであることは明らかである。

しかも大日如来は現実に世に出現して成道した仏ではなく、釈尊が迹(しゃく)を垂(た)れた法身・理仏であって、
これを本尊として用(もち)いることも、釈尊の本意に背(そむ)く邪義であり、法華誹謗(ひぼう)の罪過に当たるものである。

法華誹謗の空海をいくら遍路で念じて歩こうが、そこには真の利益の存しないことを、よく知らねばならない。

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四国八十八箇所のあるお寺は五百羅漢像を祀ってたので

「大日如来では無いのですか?」

と聞いたところ

こう言うのはその寺によって自由ですから

とおっしゃってました?(笑)

謗法大師も泣いてますねぇ(笑)

そりゃあ泣きたくなりますね。

なんせ、お遍路は、真言宗と言っておきながらも、実際には、邪宗のお寺の集まりです。

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★ 護摩(ごま)の起源

"護摩(ごま)"は、仏教の中でも真言密教の修法のして一般的に認知されている。

あるプロ野球選手が「精神鍛錬」と称して真言宗寺院で護摩行をする姿は、ニュースでもたびたび取り上げられている。

しかし、護摩が、"ホーマ"というヒンズー教の呪術(じゅじゅつ)的祭儀が起源となっていることを知る人は少ないだろう。


★ 仏教は呪術(じゅじゅつ)的儀式を否定

釈尊は、カースト制度の最上位にいる宗教的権威者・バラモンが行う占いや呪術を徹底的に否定した。

当時、悪いバラモンは、宗教的権威を悪用し、「悪相がある」「呪われる」と言っては布施(ふせ)を強要するなどしていたので、人々はひどく怯(おび)えていた。
その時、主として行っていた祭儀が"ホーマ"と呼ばれる生贄(いけにえ)の火祭りである。
これには動物だけでなく、バターなどの乳製品や穀物なども火中に投じて捧げられた。
供物は煙となって天上の神に届くと信じられたのである。

これに対して釈尊は"不殺生(ふせっしょう)"を掲げて真っ向から否定し、誰もが納得できる"因果の道理"を説いて人々に安心を施(ほどこ)したので、特に「無畏施(むいせ)」とも言われるようになった。

また、火祭りは、火が神聖にして、これを崇拝することで過去世からの穢(けが)れを除くことができるとも信じられ、行われていた。

しかし、釈尊は、化導の初期段階である阿含時(あごんじ)に、
「バラモンよ。木片を焼いたら浄(きよ)らかさが得られると考えるな。(中略)わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、内面のみ光輝きを燃焼させる」 (中村元訳『ブッタ 悪魔との対話ーサンユッタ・ニカーヤUー』147ページ)
と述べ、"護摩"の権威を早くから否定している。

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★ 鍛冶屋(かじや)のチュンダ(純陀)

釈尊は、晩年、鍛冶(かじ)職人チュンダ(純陀)か、食物のもてなしを受けたという。
鍛冶職人はカースト制度の最下層に位置するが、釈尊はチュンダの布施を最大限に賞賛した。
ここにも当時のインド社会に対する痛烈な批判が込められている。

つまり、火が穢れを浄化するというのなら、朝から晩まで火を燃やして仕事をしている鍛冶屋のチュンダこそ、
穢れが少なく尊敬されるべきであるのに、身分が低く軽んじられているのは、一体どういう訳なのかということである。

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 迦葉(かしょう)三兄弟の帰依

釈尊成道の地、仏陀伽耶(ぶつだがや)には火の儀式を司(つかさど)るバラモンである迦葉(かしょう)三兄弟がいた。
最初に長兄・優楼頻羅(うるびんら)迦葉が釈尊の教化を受けて500人の弟子と共に帰依し、その後、二人の弟も多くの弟子を引き連れて釈尊に帰依した。

優楼頻羅迦葉は釈尊に帰依すると、直(ただ)ちに拝火の祭具をすべて川に投げ捨てた。
川下(かわしも)で、流れてきた兄の祭具を見つけた末弟は、長兄が賊(ぞく)に襲われたものと誤解し、慌(あわ)てて兄のもとに馳(は)せ参じたと言われる。

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★ "亡国"の凶相

賢明な読者は既にお判りだろう。"護摩"は仏教ではない。
むしろ釈尊は、外道の行う呪術や迷信の一つとして"護摩"を否定していたのだ。

伝統的とか神秘的のもてはやし、正邪を弁(わきま)えないのは、釈尊への冒涜(ぼうとく)である。

インド・中国・日本の三国に共通して仏教の衰退期には、必ずヒンズー教の色彩が濃い"密教"と、これに付随する呪術的祭儀が興(おこ)るのである。

今、真言宗の寺院で行っている護摩行も例外ではない。
我々は「真言亡国」の格言を歴史上の現実相として深く心に留めるべきだ。

かの一連のオウム真理教の事件も、極度に人格の歪(ゆが)んだ教祖が、呪術的・神秘的祭儀で人心を引きつけた末に、引き起こされた悲劇ではないか。

低級な通力に幻惑され、最も大事・大切な正邪を見誤ってはならない。

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★ 真言密教は亡国の悪法

過般の新聞報道に、岡山県倉敷市の真言宗寺院の住職が、妻の後頭部を殴打して放火し、自坊を全焼、妻を焼死させたという衝撃的な事件が報じられた。

この鬼畜がごとき所業は、真言密教の害毒、仏罰の現証と言えよう。

なぜなら、釈尊は、
「法華経は、諸仏如来の秘密の蔵(ぞう)なり。諸教の中に於て、最も其の上(かみ)に在り」 (法華経 399ページ)
と教示とされているが、真言宗の祖師たちは、第一の法華経を第三に下し、真言教を第一としてしまった。

そのような教えを信ずれば、
今生には亡身・亡国となり、後生には無間地獄に堕ちる〈趣意〉」 (御書 1271ページ)
と日蓮大聖人は指弾されているが、前述の住職の話など、まさにその通りの所業ではないか。

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 堕地獄の現証

また、大聖人は、
■「弘法・慈覚が死去の有り様(さま)〈中略〉それほどに浦山敷(うらやま)くもなき死去にて候ぞや」 (御書 1106ページ)
と、真言密教の祖師たちの臨終は、
堕地獄の現証を呈していたと仰せである。

中でも、慈覚について、
■「慈覚大師の御はか(墓)はいづれのところに有りと申すべき事き(聞)こへず候。世間に云ふ、御頭は出羽国立石寺(りっしゃくじ)に有り云云。いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか」 (同 1455ページ)
と述べられている。

これを裏付けるように、山形県の立石寺(山寺)の「入定窟(にゅうじょうくつ)」と称する岩窟には、古くから慈覚の遺骸(いがい)を安置すると伝えられてきたが、近年の学術調査の結果、岩窟内に5人の人骨が発見され、なんと、
その中の一体には頭部がなくら代わりに頭部木造(平安初期)が置かれていた。

つまり、何者かの手によって胴体部分の遺骨が安置され、欠けていた頭蓋骨は木造で補っていたのだ。

まさに大聖人が、
■「法華経の頭(こうべ)を切りて真言教の頂(いただき)とせり。此即ち鶴の頸(くび)を切って蝦(かえる)の頸に付けゝるか。真言の蟆(かわず)も死しぬ、法華経の鶴の御頸も切れぬと見へ候」 (同)
と仰せのように、
慈覚は諸経の頂である法華経を切った仏罰により、頭部と胴体が切り離されるという、その死後、見るに堪えない恥辱(ちじょく)を受けた。

これぞ堕地獄の現証と言わずして何であろう。

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 元僧侶が語る邪宗の害毒

真言宗の元僧侶で、平成24年8月に入信し、現在は法華講員として活躍してるTさんの体験談を紹介する。

Tさんは若い頃から密教に興味を持ち、様々な修行に没頭したという。
そして35歳のとき、高野山(真言宗の本山)で出家し、僧侶となって修行に励み、高野山大学にも勤務した。

しかし、40歳のとき、突然、強度と精神的変調をきたし、パニック障害・鬱(うつ)病と診断された。
その頃から真言宗に強い疑問を抱き、ついに高野山を下りて、一般の企業に就職した。

その後は大量の向精神薬を処方してもらい、何とか症状を抑えながら仕事をしていたが、47歳のときに、とうとう心が壊れて生命力を喪失し、対人関係は崩壊、会社からも解雇されて、不幸のどん底に落ちたという。

Tさんはその後、不思議な縁で本宗寺院を訪れ、そこで御僧侶から折伏されて、無事に御授戒を受けることができた。
Tさんは次のように証言している。
「真言宗は、本当に怖ろしい邪宗。
身を持って体験した私が言うのだから間違いない。
私は邪宗である真言宗を捨て、御本尊様からたくさんの功徳を戴いた。
入信したその日から、どん底からの上昇の日々となったのである。

私は、真言宗の害毒により患ったパニック障害などの精神疾患を完治させ、生命力と正常な対人関係を取り戻して、心からやりたい仕事にも就くことができた
と述べ、晴れて邪宗の害毒と決別した今は、喜び勇んで折伏に精進している。

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★ 巡礼の旅、遍路(へんろ)とは

「お遍路(へんろ)さん」とは言えば、
菅笠(すげがさ)に白装束、首に輪袈裟を掛け、手には金剛杖を握って道を行く、
修行者の姿を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。

遍路とは、かつて四国の地で修行した真言宗の開祖・弘法大師(空海)ゆかりの四国八十八ケ所の霊場などを巡礼する旅のことである。

その際には、弘法大師に見立てた金剛杖を片手に霊場を巡り、行った先の本尊に向かって般若心経を唱え、その証明として朱印(しゅいん)を押してもらうのが習わしのようだ。

巡礼するに当たり、札所とされる霊場に行くことを「打つ」と言う。
そして札所を1番から番号順に巡るのを「順打ち」、
逆から回るのを「逆順打ち」と呼び、
なぜか逆順打ちは、
順打ちの3回分の利益があるとも言われ、お得感がありそうだ。
あるいは番号に関係なく巡るのを「乱れ打ち」と呼ぶらしい。

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★ 今、お遍路が熱い?

近年では、国内外から注目を集め、政治家や芸能人、スポーツ選手をはじめ、外国人観光客までもがこの遍路に挑戦しているという。
さらには遍路を世界遺産に登録しようとする動きもあるようで、このブームに便乗して地元では様々なサービスも展開されている。

例えば、霊場を歩いて巡る「歩き遍路」、気軽に自分の車で行く「自家用車遍路」、借りた車で行く「レンタカー遍路」、また「乗り合いタクシー遍路」、「貸し切りタクシー遍路」、をはじめ「乗り合いバス遍路」までもがラインナップされている。

さらには、わざわざ苦労して巡礼地に出向かなくてもよい「巡礼代参サービス」なるものもある。
その中には代参する人がバスや電車を使って巡る「公共機関使用プラン」や、歩いて巡る「徒歩巡礼プラン」など、数十万円もの費用がかかる巡礼方法もある。

横着な巡礼もあるもんだと思われるかもしれないが、さらに楽な方法としては、八十八ケ所の砂を一ヶ所に運んできて、その砂を踏んで札所にいったことにする「お砂踏み」なる究極の方法もあるのだ。
ここまでくると、もはや「遍路って何なんだ」とさえ思えてくる。

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★ 三業不相応の巡礼

では、この遍路を行う目的はいったい何なのか。
遍路代参業者サイトには、
「1つ目は『追善供養』です。
今は亡き人の冥福を願って巡礼するというものです。

2つ目は『予修供養』です。
自らが生前に、あらかじめ死後の冥福を祈るためのものです。

3つ目は、いわゆる『自分探し』ともいわれ、
信仰的な発心よりも、癒(いや)し、リフレッシュを目的とした巡礼者が増えたといわれます」

とあり、

一つは先祖供養、
二つには自分の冥福祈願、
三つには癒し

がその目的であるようだ。

一つ目と二つ目の目的を果たすためには、
正しく勝れた本尊を用いることが絶対条件である。
しかし、真言宗で立てる大日如来は現実に世に出現した仏ではなく、
釈尊が迹を垂(た)れた法身・理仏であり、これを本尊として用いるのは、そもそもの誤りである。

また、仏道修行では疎(おろそ)かにできない三業相応ということにおいても、
「意」では弘法大師を念じ、
「口」では般若心経を唱え、
「身」では巡礼先で大日如来や釈迦如来、阿弥陀如来に薬師如来、観世音菩薩や不動明王に手を合わせるといった、
支離滅裂な有様
だ。

ましてや各札所は、すべて弘法大師にゆかりがあるとはいえ、中には真言宗以外の臨済宗や曹洞宗、天台宗といった寺まで紛れ込んでいる始末である。

さらには先のサイトに、
「お遍路は決して信仰心の有無や宗派にはこだわっていないので、心をこめて拝むことができれば大丈夫です」
と開き直るように、
信仰心などなくてもよいと明言している。

大がかりであるとはいえ、こんなスタンプラリーのような遍路に、真の功徳・利益が具(そな)わるはずもないことは言うまでもない。

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真言宗豊山派を破す。 

僧侶自ら幸せにはなれないと発言したいい加減な宗教

この宗派は真言宗でありながら大日如来ではなく本尊は千手観音である。
千手観音と言えば、法隆寺を本山とする聖徳宗が本尊としている。

真言の開祖の弘法大師に背いている、なんと、でたらめな宗派である。

亡くなったら人は「密厳浄土」という所にいくようであると、その寺の住職が言っておる。
釈尊の説いた教典ではなくどうやらその宗派が勝手に作った架空の世界であるようだ。
そして、それを証明できないから真言だけで五十九派に分かれいる主張している。

お釈迦様が説いていない「密厳浄土」など証明できるはずもない。
真言宗そのものが釈尊が説いた例え話しとして説いた架空の仏である「大日如来」を本尊としていたのである。
現在で分かりやすく言えば「ウルトラマン」「仮面ライダー」を本尊としているのと同じ。
「密厳浄土」などと言うのは自分達で勝手に作った世界であるから、正に「ウルトラマンの光に国」であろう。
ここまで出鱈目であれば、もはや仏教を語るニセ仏教である。

日蓮正宗の信徒が真言宗豊山派の副住職に
「ところであなたは、この真言宗豊山派をやって幸せになりましたか?」
と聞いたら

「全然!」

と回答したではないか!

幸せになれないものを拝んでも意味がない。
真言宗豊山派のホームページに
不安な時代を生きるために」
という記事の中に
「多くの心ある人々の不安を少なくすることができるものこそ真の宗教なのである。」
そこの住職が「幸せになれない」と言っているようでは、この宗教は真の宗教ではないことは証明している様である。

だからこういう邪見で何も知らない人々を誑惑する真言各派に対して
日蓮大聖人は
「天下第一の自賛毀他(じさんきた)の大妄語(だいもうご)の人」

と断じ、このような主客顛倒(しゅきゃくてんとう)の教法で国家を祈祷するゆえに
「真言亡国」と破折せられたのです。

私の母方の宗教が真言天台宗でした。
財産家で埼玉一帯の山々を所有していました。
結核で両親や兄弟を亡くし、子供でしたから財産も騙し取られました。
日蓮正宗に改宗した母だけ生きています。
母方の一族は滅亡です。

間違ってもこのような真言寺に参拝したり拝んだりしないことです。
破滅します。

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真言宗を破折された御書

法華真言勝劣事    
法華経と真言の勝劣を明かす

0305
    法華真言勝劣事   文永元年七月二九日  四三歳

■大日経の住信品に十住心の根拠なし。

 東寺(とうじ)の弘法(こうぼう)大師空海の所立に云はく
▼「法華経は猶(なお)華厳経に劣れり、何(いか)に況(いわ)んや大日経に於てをや」云云。
慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)・智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)・安然(あんねん)和尚等の云はく
▼「法華経の理は大日経に同じ。印を真言との事に於ては是猶劣れるなり」云云。 
其の所釈余処に之をだ出す。 

空海は大日経、菩提心論(ぼだいしんろん)等に依って十住心(じゅうじゅうしん)を立て顕密(けんみつ)の勝劣を判ず。
其の中に
第六に他縁大乗心(たえんだいじょうしん)は法相宗、
第七に覚心不生心(かくしんふしょうしん)は三論宗、
第八に如実一道心(にょじついちどうしん)は天台宗、
第九に極無自性心(ごくむじしょうしん)は華厳(けごんしゅう)宗、
第十に秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)は真言宗なり。

此の所立の次第は浅き従(よ)り深きに至る。
其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云へり。

然るに出だす所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに名目経文に之有り。
然りと雖(いえど)も他縁・覚心(かくしん)・極無自性(ごくむじしょう)の三句を法相・三論・華厳に配する名目は之(これ)無し。
其の上覚心不生と極無自性との中間に如実一道の文義共に之無し。

但し此の品の初めに「云何(いか)なるか菩提、謂はく如実に自心を知る」等の文之有り。
此の文を取って此の二句の中間に置いて天台宗と名づけ華厳宗に劣るの由之を存す。

住心品に於ては全く文義共に之無し。
有文有義無文有義の二句を虧(か)く信用に及ばず。

菩提心論の文に於ても法華・華厳の勝劣都(すべ)て之を見ざる上、此の論は竜猛菩薩(りゅうもうぼさつ)の論といふ事上古より諍論(じょうろん)之有り。
此の諍論絶えざる已前に亀鏡(ききょう)に立つる事は竪義(りゅうぎ)の法に背く。

其の上善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)等評定(ひょうじょう)有って大日経の疏(しょ)・義釈(ぎしゃく)を作れり。
一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)の執筆なり。
此の疏・義釈の中に諸宗の勝劣を判ずるに法華経と大日経とは広略異なりと定め畢(おわ)んぬ。
空海の徳貴しと雖(いえど)も争(いか)でか先師の義に背くべきやと云ふ難此(これ)強し。 此安然の難なり。 

之に依って空海の門人之を陳(ちん)するに旁(かたがた)陳答之有り。
或は守護経、或は六波羅蜜経(ろくはらみつきょう)、或は楞伽経(りょうがきょう)、或は金剛頂経(こんごうちょうきょう)等に見ゆと多く会通(えつう)すれども総じて難勢(なんぜい)を免(まぬか)れず。

然りと雖も東寺の末学等大師の高徳を恐るゝの間、強(あなが)ちに会通を加へんと為(す)れども結句(けっく)会通の術計(じゅつけい)之無く、問答の法に背いて▼伝教大師最澄は弘法大師の弟子なり云云。
又宗論の甲乙等旁(かたがた)論ずる事之有り云云。

 日蓮案じて云はく、華厳宗の杜順(とじゅん)・智儼(ちごん)・法蔵等法華経の始見今見(しけんこんけん)(※1)の文に就(つ)いて法華・華厳斉等(せいとう)の義之を存す。
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※1 始見今見 仏が始めて成道した時(始見)と 真実の門を開いた時(今見)のこと。法華文句巻九上の文。

妙法蓮華経従地涌出品第十五
此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞き、即ち皆信受して、如来の慧に入りにき。先より修習して、小乗を学せる者をば除く。是の如きの人も、我今亦、是の経を聞かしめて仏慧に入ることを得せしむ。
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其の後澄観(ちょうかん)始今(しこん)の文に依って斉等の義を存すること祖師に違せず。
其の上一往の弁を加へ法華と華厳と斉等なり。
但し華厳は法華経より先なり。
華厳経の時仏最初に法慧(ほうえ)・功徳林(くどくりん)等の大菩薩に対して出世の本懐(ほんがい)之を遂ぐ。
然れども二乗並びに下賤の凡夫等根機未熟の故に之を用ひず。
阿含・方等・般若等の調熟(じょうじゅく)に依って還(かえ)って華厳経に入らしむ。
此を今見の法華経と名づく。
大陣を破るに余残堅かるざるが如し等。
然れば実に華厳経は法華経に勝れたり等云云。

本朝に於て勤操(ごんそう)等に値ひて此の義を習学して後、天台真言を学すと雖も旧執(くしゅう)を改めざるが故に此の義を存するか。

何に況んや華厳経の法華経に勝るの由は陳隋(ちんずい)より已前南三北七皆此の義を存す。
天台已後も又諸宗此の義を存せり。
但弘法一人に非ざるか。

但し澄観始見今見(ちょうかんしけんこんけん)の文に依って華厳経は法華経より勝ると料簡(りょうけん)する才覚に於ては、天台智者大師涅槃経の「是経出世乃至如法華中(ぜきょうしゅっせないしにょほっけちゅう)」の文に依って法華・涅槃斉等の義を存するのみに非ず、又勝劣の義を存すれば此の才覚を学びて此の義を存するか。

此の義若し僻案(びゃくあん)ならば空海の義も又僻見なるべきなり。

天台真言の書に云はく「法華経と大日経とは広略の異なり。略とは法華経なり。大日経斉等の理なりと雖も印・真言之を略する故なり。
広とは大日経なり。極理を説くのみに非ず印・真言をも説ける故なり。

又法華経と大日経とに同劣の二義あり。謂はく理同事劣(りどうじれつ)なり。
又二義あり。一には大日経は五時の摂(しょう)なり。是(これ)与の義なり。
二には大日経は五時の摂に非ず。是(これ)奪の義なり」と。

又云はく「法華経は譬へば裸形(らぎょう)の猛者(もさ)の如し。大日経は甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者なり」等云云。
又云はく「印・真言無きは其の仏を知るべからず」等云云。

 日蓮不審して云はく、何を以て之を知る、理は法華経と大日経と斉等なりと云ふ事を。

答へて云はく、疏と義釈並びに慈覚・智証等の所釈に依るなり。

求めて云はく、此等の三蔵大師等は又何を以て之を知るや、理は斉等の義なりと。

答へて云はく、三蔵大師等をば疑うべからず等云云。

難じて云はく、此の義論議の法に非ざる上仏の遺言に違背(いはい)す。
慥(たし)かなる経文を出だすべし。若し経文無くんば義分無かるべし如何。

答ふ、威儀形色経(いぎぎょうしききょう)・瑜祗経(ゆぎきょう)・観智儀軌(かんちぎき)等なり。文は口伝(くでん)すべし。

問うて云はく、法華経に印・真言を略すとは仏よりか経家(きょうけ)よりか訳者よりか。

答へて云はく、或は仏と云ひ或は経家と云ひ或は訳者と云ふなり。

不審して云はく、仏より真言・印を略して法華経と大日経と理同事勝の義之有りといはゞ此の事何れの経文ぞや。
文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。
若し経家訳者より之を略すといはゞ仏説に於ては何ぞ理同事勝の訳を作るべきや。
法華経と大日経とは全体斉等なり。能(よ)く能く子細を尋ぬべきなり。

 私に日蓮云はく、威儀形色経・瑜祗経等の文の如くんば仏説に於ては法華経に印・真言有るか。
若し爾(しか)らば経家・訳者之を略せるか。
六波羅密経(ろくはらみつきょう)の如きは経家之を略す。
旧訳(くやく)の仁王経(にんのうきょう)の如きは訳者之を略せるか。

若し爾らば天台真言の理同事異(りどうじい)の釈は、経家並びに訳者の時より法華経・大日経の勝劣なり。
全く仏説の勝劣に非ず。

此天台真言の極なり。
天台宗の義勢才覚(さいかく)の為に此の義を難ず。
天台真言の僻見(びゃっけん)此くの如し。
東寺所立(しょりゅう)の義勢は且(しばら)く之を置く。
僻見眼前の故なり。

抑(そもそも)天台真言宗の所立の理同事勝に二難有り。
一には法華経と大日経と理同の義、其の文全く之無し。
法華経と大日経と先後如何。
既に義釈(ぎしゃく)に二経の前後之を定め畢(おわ)って法華経は先、大日経は後なりと云へり。
若し爾(しか)らば大日経は法華経の重説なり流通なり。
一法を両度之を説くが故なり。

若し所立の如くんば法華経の理を重ねて之を説くを大日経と云ふ。
然(しか)れば則(すなわ)ち法華経と大日経と敵論の時は大日経の理之を奪って法華経に付くべし。
但(ただ)し大日経の得分は但印・真言計(ばか)りなり。
印契は身業、真言は口業なり。
身口のみにして意無くば印・真言有るべからず。
手口等を奪って法華経に付けなば手無くして印を結び、口無くして真言を誦せば虚空(こくう)に印・真言を誦結(じゅけつ)すべきか如何(いかん)。

裸形(らぎょう)の猛者と甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者との譬への事。
裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退ひて一陣をも破らざるとは何れが勝るゝか。
又猛者は法華経なり。甲冑は大日経なり。猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん。此は理同の義を難ずるなり。

次に事勝の義を難ぜば、法華経には印・真言無く大日経には印・真言之有りと云云。
印契・真言の有無に付いて二経の勝劣を定むるに、大日経に印・真言有りて法華経に之無き故に劣ると云はゞ阿含(あごん)経には世界建立・賢聖の地位是分明(ふんみょう)なり。
大日経には之無し。若し爾らば大日経は阿含経より劣るか。
双観経(そうかんぎょぅ)等には四十八願是分明なり。大日経に之無し。
般若(はんにゃ)経には十八空是(これ)分明なり。大日経には之無し。
此等の諸経に劣ると云ふべきか。

又印・真言無くんば仏を知るべからず等云云。
今反詰(はんきつ)して云はく、理無くんば仏有るべからず。
仏無くんば印契・真言一切徒然(とぜん)と成るべし。

彼難じて云はく、賢聖並に四十八願等をば印・真言に対すべからず等云云。
今反詰して云はく、最上の印・真言之無くば法華経は大日経等より劣るか。
若し爾らば法華経には二乗作仏・久遠実成之有り。大日経には之無し。
印・真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥(うんでい)なり。
諸経に印・真言を簡(えら)ばざるに大日経に之を説ひて何の詮(せん)か有るべきや。
二乗若し灰断(けだん)の執(しゅう)を改めずんば印・真言も無用なり。
一代の聖教に皆二乗を永不成仏と簡ぶ、随って大日経にも之を隔(へだ)つ。
皆成仏までこそ無からめ三分が二之を捨て百十が六十余分得道せずんば仏の大悲何かせん。

凡(およ)そ理の三千之有って成仏すと云ふ上には何の不足か有るべき。
成仏に於ては香iあ)なる仏・中風の覚者は之有るべからず。
之を以て案ずるに印・真言は規模(きも)無きか。

又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即(そうそく)の無始の古仏(こぶつ)を顕(あら)はさず。
本無今有(ほんむこんぬ)の失(とが)有れば大日如来は有名無実(うみょうむじつ)なり。
寿量品に此の旨を顕はす。
釈尊は天の一月、諸仏菩薩は万水(ばんすい)に浮べる影なりと見へたり。
委細の旨は且く之を置く。

又印・真言無くんば祈祷(きとう)有るべからずと云云。
是又以ての外の僻見(びゃっけん)なり。
過去現在の諸仏法華経を離れて成仏すべからず。
法華経を以て正覚成じ給ふ。
法華経の行者を捨て給はゞ、諸仏還(かえ)って凡夫と成り給ふべし。
恩を知らざる故なり。

又未来の諸仏の中の二乗も法華経を離れては永く枯木敗種(こぼくはいしゅ)なり。
今は再生(さいしょう)なり。
華果(けか)なり。
他経の行者と相論を為す時は華光(けこう)如来・光明(こうみょう)如来等は何れの方に付くべきや。
華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天乃至四悪趣(しあくしゅ)等の衆は皆法華経に於て一念三千・久遠実成の説を聞きて正覚を成ずべし。
何れの方に付くべきや。

真言宗等と外道並びに小乗・権大乗の行者等と敵対相論を為(な)す時は甲乙知り難し。
法華経の行者に対する時は竜と虎と師子と兎との闘ひの如く諍論(じょうろん)分絶えたる者なり。

慧亮脳(えりょうのう)を破するの時、次第位に即(つ)き、相応加持(そうおうかじ)するの時、真済(しんぜい)の悪霊(あくりょう)伏せらるゝ等是なり。
一向(いっこう)真言の行者は法華経の行者に劣れる証拠是なり。

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 問うて云はく、義釈(ぎしゃく)の意は法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かすや如何。

答へて云はく、共に之を明かす。
義釈に云はく「此の経の心の実相は彼の経の諸法実相なり」云云。
又云はく「本初(ほんじょ)は是寿量の義なり」等云云。

問うて云はく、華厳宗の義に云はく、華厳経には二乗作仏・久遠実成之を明かす。
天台宗は之を許さず。
宗論は且(しばら)く之を置く。
人師を捨てゝ本経を存せば華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似(そうじ)の文之有りと雖も実には之無し。
之を以て之を思ふに、義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も実には之無きか如何。

答へて云はく、華厳経の如く相似の文之有りと雖も実義(じつぎ)之無きか。

私に云はく、二乗作仏無くんば四弘誓願(しぐせいがん)満足すべからず。
四弘誓願満ぜずんば又別願も満ずべからず。
総別の二願満ぜずんば衆生の成仏も有り難きか。
能(よ)く能く意得可し云云。

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問うて云はく、大日経の疏(しょ)に云はく「大日如来は無始無終なり」と。
遥(はるか)に五百塵点(じんでん)に勝れたり如何。

答ふ、毘盧遮那(びるしゃな)の無始無終なる事、華厳・浄名(じょうみょう)・般若(はんにゃ)等の諸大乗経に之を説く。
独り大日経のみに非ず。

問うて云はく、若(も)し爾(しか)らば五百塵点は際限有れば有始(うし)有終なり。
無始無終は際限無し。
然れば則ち法華経は諸経に破せらるゝか如何。

答へて云はく、他宗の人は此の義を存す。
天台一家に於て此の難を会通(えつう)する者有り難きか。
大日経並びに諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり。
三身の無始無終に非ず。

法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶(がや)の始成(しじょう)之を破したる五百塵点なり。
大日経等の諸大乗経には全く此の義無し。


宝塔(ほうとう)の涌現(ゆげん)・地涌の涌出(ゆじゅつ)・弥勒(みろく)の疑ひ・寿量品の初めの三誡四請(さんかいししょう)、弥勒菩薩領解(りょうげ)の文に「仏希有(けう)の法を説きたまふ。昔より今だ曽て聞かざる所なり」等の文是なり。

大日経六巻並びに供養法の巻・金剛頂(こんごうちょう)経・蘇悉地(そしつじ)経等の諸の真言部の経の中に未だ三止四請(さんしししょう)・三戒四請・二乗の劫国名号(こうこくみょうごう)・難信難解(なんしんなんげ)等の文を見ず。

問うて云はく、五乗の真言如何。

答ふ、未だ二乗の真言を知らず。
四諦(したい)十二因縁(いんねん)の梵語(ぼんご)のみ有るなり。
又法身平等に会すること有らんや。

問うて云はく、慈覚・智証等理同事勝の義を存す。
争(いか)でか此等の大師等に過ぎんや。

答へて云はく、人を見以て人を難ずるは仏の誡めなり。
何ぞ汝仏の制誡(せいかい)に違背するや。
但経文を以て勝劣の義を存すべし。

難じて云はく、末学の身として祖師の言に背かば之を難ぜざらんや。

答ふ、末学の祖師に違する之を難ぜば何ぞ智証・慈覚の天台・妙楽に違するを何ぞ之を難ぜざるや。

問うて云はく、相違如何。

答へて云はく、天台・妙楽の意は已今当(いこんとう)の三説の中に法華経に勝れたる経之有るべからず。
若し法華経に勝れたる経之有りといはゞ一宗の宗義之を壊(やぶ)るべきの由之を存す。
若し大日経法華経に勝るといはゞ、天台・妙楽の宗義忽(たちま)ちに破るべきか。

問うて云はく、天台・妙楽の已今当の宗義証拠経文に有りや。

答へて云はく、之有り。
法華経法師品(ほっしほん)に云はく「我が所説の経典は無量千万億已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為(こ)れ難信難解なり」等云云。
此の経文の如くんば五十余年の釈迦所説の一切経の内には法華経最第一なり。

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難じて云はく、真言師の云はく、法華経は釈迦所説の一切経の中に第一なり。
大日経は大日如来所説の経なりと。

答へて云はく、
釈迦如来より外に大日如来閻浮提(えんぶだい)に於て八相成道(はっそうじょうどう)して大日経を説けるか。是一 。

六波羅蜜経に云はく■「過去現在並びに釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の所説の諸経を分かちて五蔵と為し、其の中の第五の陀羅尼蔵(だらにぞう)は真言なり」と。
真言の経、釈迦如来の所説に非ずといはゞ経文に違す 是二。

「我が所説の経典」等の文は釈迦如来の正直捨方便の説なり。
大日如来の証明は分身(ふんじん)の諸仏広長舌相(こうちょうぜっそう)の経文なり 是三。 

五仏の章、尽(ことごと)く諸仏皆法華経を第一なりと説き給ふ。 是四。 

要を以て之を言はゞ如来一切所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」等云云。
此の経文の如くならば法華経は釈迦所説の諸経の第一なるのみに非ず、大日如来十方無量諸仏の諸経の中に法華経第一なり。
此の外一仏二仏の所説の諸経の中に法華経に勝れたるの経之有りと云はゞ信用すべからず。 是五。 

大日経等の諸の真言経の中に法華経に勝れたる由の経文之無し 是六。

仏より外の天竺(てんじく)・震旦(しんだん)・日本国の論師人師の中に天台大師より外の人師の所釈の中に一念三千の名目之無し。
若し一念三千を立てざれば性悪の義之無し。
性悪の義之無くんば仏菩薩の普現色身(ふげんしきしん)・不動愛染(ふどうあいぜん)等の降伏の形・十界の曼荼羅(まんだら)・三十七尊等、本無今有(ほんむこんぬ)の外道の法に同じきか 是七。 

問うて云はく、七義の中一々難勢(なんぜい)之有り。
然りと雖も六義は且(しばら)く之を置く。
第七の義如何。
華厳の澄観(ちょうかん)・真言の一行(いちぎょう)等皆性悪の義を存す。
何ぞ諸宗に此の義無しと云ふや。

答へて云はく、華厳の澄観・真言の一行は天台所立の義を盗んで自宗の義と成すか。
此の事余処に勘(かんが)へたるが如し。

問うて云はく、天台大師の玄義の三に云はく「法華は衆経を総括(そうかつ)す。乃至舌(した)口中に爛(ただ)る。人情を以て彼の大虚(たいこ)を局(かぎ)ること莫(なか)れ」等云云。

釈籤(しゃくせん)の三に云はく「法華宗極の旨を了せずして、声聞に記する事相のみ華厳・般若の融通無礙(ゆうずうむげ)なるに如(し)かずと謂ふ。
諫暁(かんぎょう)すれども止(や)まず。舌の爛(ただ)れんこと何ぞ疑はん。乃至已今当の妙茲(ここ)に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは猶為(こ)れ華報(けほう)なり。謗法の罪苦長劫に流る」等云云。

若し天台・妙楽の釈実ならば、南三北七並びに華厳・法相・三論・東寺の弘法等舌爛れんこと何の疑ひ有らんや。
乃至苦流(くる)長劫の者なるか。是は且(しばら)く之を置く。

慈覚・智証等の親(まのあた)り此の宗義を承けたる者法華経は大日経より劣るの義存すべし。
若し其の義ならば此の人々の「舌爛口中苦流長劫(ぜつらんくちゅうくるじょうごう)」は如何。

答へて云はく、此の義は最上の難の義なり。口伝に在り云云。

 文永元年甲子七月二十九日之を記す           日蓮花押

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真言七重勝劣事 P128
真言は法華経より七重も劣ることを明かす

0451
    真言七重勝劣   文永七年  四九歳

一 法華・大日二経の七重勝劣の事
一 尸那(しな)・扶桑(ふそう)の人師一代を判ずる事
一 鎮護国家の三部の事
一 内裏(だいり)に三つの宝有り、内典三部に当たる事
一 天台宗に帰伏する人々の四句の事
一 今経の位を人に配する事
一 三塔の事
一 日本国仏神の座席の事

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  法華・大日二経の七重勝劣の事                               已今当第一
法華経      第一 本門第一
            迹門第二
           「薬王今汝に告ぐ、諸経の中に於て最も其の上に在り」
涅槃(ねはん)経 第二 「是の経の世に出(い)づる」
無量義経     第三 「次に方等部十二部経摩訶般若華厳海空(まかはんにゃけごんかいくう)を説く。真実甚深(じんじん)真実甚深」
華厳(けごん)経 第四
般若経      第五
      上に云はく「三部の中に於て此の経を王と為す」
蘇悉地(そしつじ)経 第六 中に云はく「猶成就せずんば当に此の法を作すべし。決定として成就せん。所謂(いわゆる)乞食・精勤(しょうごん)・念誦(ねんじゅ)・大恭敬(くぎょう)・巡八聖跡(しょうせき)・礼拝行道なり。或は復大般若経七遍或は一百遍転読(てんどく)す」
              下に云はく「三時常に大乗般若等の経を読め」
大日経      第七
              三国に未だ弘通せざる法門なり。

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真言天台勝劣事
天台法華と真言密教の勝劣を明かす

0446
    真言天台勝劣事   文永七年  四九歳

問ふ、何(いか)なる経論に依って真言宗を立つるや。

答ふ、大日経・金剛頂(こんごうちょう)経・蘇悉地(そしつじ)経並びに菩提心論(ぼだいしんろん)、此の三経一論に依って真言宗を立つるなり。

問ふ、大日経と法華経と何れが勝(すぐ)れたるや。

答ふ、法華経は或は七重或は八重の勝(しょう)なり。大日経は七八重の劣(れつ)なり。

難じて云はく、驚いて云はく、古(いにしえ)より今に至るまで法華より真言劣ると云ふ義都(すべ)て之無し。
之に依てっ弘法大師は十住心(じゅうじゅうしん)を立てゝ法華は真言より三重の劣と釈し給へり。
覚鑁(かくばん)は「法華は真言の履取(はきものと)りに及ばず」と釈せり。
打ち任(まか)せては密教(みっきょう)勝れ顕教(けんぎょう)劣るなりと世挙(こぞ)って此を許す。
七重の劣と云ふ義は甚(はなは)だ珍しき者をや。

答ふ、真言は七重の劣と云ふ事珍しき義なりと驚(おどろ)かるゝは理なり。
所以に法師品に云はく
■「已(すで)に説き今(いま)説き当(まさ)に説かん、而も其の中に於て此の法華経最も為(こ)れ難信難解なり」云云。
又云はく
■「諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。
此の文の心は法華は一切経の中に勝れたり 此其の一。 

次に無量義経に云はく「次に方等十二部経摩訶般若華厳海空(まかはんにゃけごんかいくう)を説く」云云。
又云はく「真実甚深(じんじん)甚深甚深なり」云云。
此の文の心は無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶(なお)甚深なり。
然れども法華の序文(じょぶん)にして機もいまだなま(不熟)しき故に正説の法華には劣るなり 此其の二。 

次に涅槃(ねはん)経の九に云はく「是の経の世に出(い)づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしめ、法華の中、八千の声間記gを受くることを得(え)、大果実を成ずるが如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し」云云。
籤(せん)の一に云はく「一家の義意謂(おも)へらく二部同味なれども然も涅槃尚(なお)劣る」云云。
此の文の心は涅槃経も醍醐(だいご)味、法華経も醍醐味。同じ醍醐味なれども涅槃経は尚劣るなり、法華経は勝れたりと云へり。
涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝れたり 此其の三。 

次に華厳経は最初頓説(とんせつ)(※1)なるが故に般若(はんにゃ)には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり 此其の四。 
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※1  とんせつ(頓説)
頓教の説法のこと.
漸説に対する言。
衆生を教化するに際して,誘引の手段・方法を用いず,直ちに説く法のことで華厳経をいう。

 とんぜん(頓漸)頓教と漸数のこと.
衆生を説法教化する2種の方式.いずれも天台所立の化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)の1つ.
衆生の機根にあわせて徐々に真実へ誘引する説き方を漸教というのに対し,誘引の方法をとらず直ちに内証の悟りを説き明かす方式を頓教という。
釈迦一代説法にあてはめると,華厳時の教えが頓教にあたり,阿含・方等・般若時の教えが漸教となる.
これに対して法華経は漸・頓の教えをすべて包含するから,八数を超えた教えとし,超八の円という。
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次に蘇悉地(そしつじ)経に云はく「猶成ぜざる者は、或は復(また)大般若経を転読(てんどく)すること七遍」云云。
此の文の心は大般若経は華厳経には劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり 此其の五。 

次に蘇悉地経に云はく「三部の中に於て此の経を王と為す」云云。
此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経金剛頂経には勝ると見えたり 此其の六。 


此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申すなり。
法華の本門に望むれば八重の劣とも申すなり。

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 次に弘法大師の十住心を立てゝ法華は三重劣ると云ふ事は、安然(あんねん)(※1)の教時義(きょうじぎ)(※2)と云ふ文に十住心の立て様(よう)を破して云はく
五つの失(とが)有り。謂はく
一には大日経の義釈(ぎしゃく)に違する失、
二には金剛頂経に違する失、
三には守護経に違する失、
四には菩提心論に違する失、
五には衆師に違する失なり
」。
此の五つの失を陳(ちん)ずる事無くしてつまり給へり。(※3)
(空海 宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))→ 反論に詰まったのは、空海自身ではなく東密の弟子たちことか?)

東密から11世紀頃 反駁書があったという論文あり。

然る間法華は真言より三重の劣と釈し給へるが大なる僻事(ひがごと)なり。謗法に成りぬと覚ゆ。

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(※1)
 あんねん(安然)
承和8年(841)−?.
平安中期,天台宗の学僧 伝教の俗縁といわれるが,詳細は不明.
天台宗の密教化をはかった.
初め慈覚について顕密を学び,のち元慶院の通順に胎蔵界の法を受けた・
比叡山に五大院を建てて著述に専念したので,後世の人が五大院大徳、五大院和尚など与呼んだ・
元慶8年(884)元慶院の座主となり,更に伝法院阿闍梨こ任ぜられた.
著書に「悉曇蔵(しつたんぞう)」8巻などがある。


安然(あんねん、承和8年(841年)? - 延喜15年(915年)?)は、平安時代前期の天台宗の僧。五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛などと称される。近江国の生まれ。出自については不明であるが、最澄と同族と伝えられている。

初め慈覚大師円仁につき、円仁の死後は遍照に師事して顕密二教(顕教と密教)のほか戒・悉曇(しったん)を学んだ。877年(元慶元年)中国(唐)に渡ろうとしたが断念。884年(元慶8年)に阿闍梨・元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建して天台教学・密教教学の研究に専念した。

安然は、『大日経』を中心とする密教重視を極限まで進めて台密(たいみつ=天台宗における密教)を大成した。
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※2 きょうじもんどう(数時間答) 4巻.

平安中期,日本天台宗の五大院安然の著.
正しくは「真言宗教時問答」また「真言宗教時義」「教時義」ともいう.
問答形式をとっているのでこの名がある.
台密の教相を理論的に体系づけた唯一の書で,東密の十住心論・秘蔵宝鑰などと対立するものである.
故に,本書に論ずる真言宗は弘法の真言(東密)ではなく,円仁・円珍以来の叡山真言(台密)である.
また真言教義を論じた安然著の「教時諍論」と密接な関係にあり、
諍論の研究を大成したものが本書であり,これによって台密教判が確立されたといわれている.
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次に覚鑁(かくばん)の法華は真言の履取(はきものと)りに及ばずと舎利講(しゃりこう)の式に書かれたるは舌に任せたる言(ことば)なり。
証拠無き故に専(もっぱ)ら謗法なるべし。

次に世を挙(あ)げて密教勝れ顕教劣ると此を許すと云ふ事是偏(これひとえ)に弘法を信じて法を信ぜざるなり。
所以に弘法をば安然和尚五失(ごしつ)有りと云ひて、用(もち)ひざる時は世間の人は何様(いかよう)に密教勝(すぐ)ると思ふべき。
抑(そもそも)密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや。是又証拠無き事を世を挙げて申すなり。

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猶(なお)難じて云はく、大日経等は是中央大日法身無始無終の如来、法界宮(ぐう)或は色究竟天(しきくきょうてん)、他化自在天(たけじざいてん)にして、菩薩の為に真言を説き給へり。
法華は釈迦応身(しゃかおうじん)、霊山(りょうぜん)にして二乗の為に説き給へり。
或は釈迦は大日の化身(けしん)なりとも云へり。
成道の時は、大日の印可(いんか)を蒙りてァ(おん)字の観を教へられ、後夜(ごや)に仏になるなり。
大日如来だにもましまさずば争(いか)でか釈迦仏も仏に成り給ふべき。
此等の道理を以て案ずるに、法華より真言勝れたる事は云ふに及ばざるなり。

答へて云はく、依法不依人(えほうふえにん)の故に、いかやうにも経説のやうに依るべきなり。
大日経は釈迦の大日となて説き給へる経なり。

■故に金光明最勝(こんこうみょうさいしょう)王経との第一には中央釈迦牟尼と云へり。

金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。

大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に大日経をば釈迦の説とも云ふべし、大日の説とも云ふベし。

又毘盧遮那(びるしゃな)と云ふは天竺の語(ことば)、大日と云ふは此の土の語なり。
釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云ふ時は大日は釈迦の異名(いみょう)なり。

加之(しかのみならず)旧訳(くやく)の経に盧舎那と云ふをば新訳(しんやく)の経には毘盧遮那と云ふ。
然る間新訳の経の毘盧遮那法身(ほっしん)と云ふは、旧訳の経の盧舎那他受用身(たじゅゆうしん)(※1)なり。
故に大日法身と云ふは法華経の自受用報身(じじゅゆうほうしん)にも及ばず。
況(いわ)んや法華経の法身如来にはまして及ぶべからず。
法華経の自受用身と法身とは真言には分絶えて知らざるなり。
法報不分二三莫弁(ほっぽうふぶんにさんばくべん)(※2)と天台宗にもきらはるゝなり。
随って華厳経の新訳には或は釈迦と称(なづ)け或は毘盧遮那と称けりと説けり。
故に大日は只是釈迦の異名なり。なにし(何為)に別の仏とは意得(こころう)べきや。 

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※1 自受用身に対する語。 他に法益、法楽を受用させる仏身。衆生の願いにしたがって出現した仏身。
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※2 法報不分二三莫弁(ほっぽうふぶんにさんばくべん)
「法報分かたず二、三弁うること莫し」  法華文句記巻九下。
新訳(唐の玄奘以後の翻訳)が盧舎那他受用身(報身であるが、応身にも通ずる)毘盧舎那(法身)と翻訳し、法身・報身の二身、ならびに法報応の三身の意味を正しく理解せず、混同していることを指摘したもの。

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 次に法身の説法と云ふ事、何れの経の説ぞや。
弘法大師の二教論には楞伽(りょうが)経に依って法身の説法を立て給へり。
其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、未顕真実(みけんしんじつ)の権教(ごんきょう)なり。
法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。
此の上に法は定(さだ)んで説かず、報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり。
故に大日法身の説法と云ふは定んで法華の他受用身に当たるなり。

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次に大日無始無終と云ふ事、既に

■「我昔(むかし)道場に坐して四魔を降伏(ごうぶく)す」とも宣(の)べ、
又■「四魔を降伏し六趣を解脱し一切智智の明を満足す」等云云。

此等の文は大日は始めて四魔を降伏して、始めて仏に成るとこそ見えたれ。
全く無始の仏とは見えず。


仏に成って何程(いかほど)を経ると説かざる事は権経の故なり。
実経にこそ五百塵点(じんでん)等をも説きたれ。

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大日経  大毘盧遮那成仏神變加持経

説此真言王。何以故。毘盧遮那世尊應正等覚。坐菩提座。觀十二句法界。降伏四魔。此法界生。


祕密主。由心無量故。得四種無量。得已。成最正覚。具十智力。降伏四魔。以無所畏而師子吼。

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此の真言の王が説く。
何の故を以ってか。
毘盧遮那世尊は正等覚に應ず。
菩提の座に坐し。
十二句の法界を觀る。四魔を降伏し。
此の法界に生ず。


祕密主。心無量が故のいわれは。
四種の無量を得。已に得。最正覚と成る。十智力を具す。四魔を降伏す。以って無所畏にして師子吼す。
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次に法界宮(ぐう)とは色究竟天(しきくきょうてん)か。又何れの処ぞや。

色究竟天或は他化自在天(たけじざいてん)は、法華天台宗には別教の仏の説処と云ひて、いみじからぬ事に申すなり。

菩薩の為に説くとも高名もなし。
例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚法華の方便とこそ云はるれ。
只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へり。
されば■大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ、二乗作仏を説かざるを顕教と云へり。
此の趣(おもむき)ならば真言の三部経は二乗作仏の旨(むね)無きが故に還って顕教と云ひ、法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云ふべきなり。随って諸仏秘密の蔵と説けば子細(しさい)無し。
世間の人密教勝(すぐ)ると云ふはいかやうに意得(こころえ)たるや。

但し■「若し顕教に於て修行する者久しく三大無数劫(むしゅこう)を経(ふ)る」等と云へるは、既に三大無数劫と云ふ故に、是三蔵四阿含(さんぞうしあごん)経を指して顕教と云ひて、権大乗までは云はず。
況んや法華実大乗までは都(すべ)て云はざるなり。

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 次に釈迦は大日の化身、ァ(おん)字を教へられてこそ仏には成りたれと云ふ事、此は偏(ひとえ)に六波羅蜜(ろくはらみつ)経の説なり。
彼の経一部十巻は是釈迦の説なり。大日の説には非ず。是未顕真実の権教なり。
随って成道の相も三蔵教の教主の相なり。六年苦行の後の儀式なるをや。

▼「彼の経説の五味を天台は盗み取って己が宗に立つる」と云ふ無実を云ひ付けらるゝは弘法大師の大なる僻事(ひがごと)なり。
所以に天台は涅槃経に依って立て給へり。全く六波羅蜜経には依らず。
況んや天台死去の後百九十年あて貞元(じょうげん)四年に渡れる経なり。何として天台は見給ふべき。不実の過(とが)弘法大師にあり。
凡(およ)そ彼の経説は皆未顕真実なり。之を以て法華経を下さん事甚だ荒量(こうりょう)なり。

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猶(なお)難じて云はく、如何に云ふとも印・真言・三摩耶尊形(さんまやそんぎょう)を説く事は大日経程(ほど)法華経には之無し。
事理倶密(じりぐみつ)の談(だん)は真言ひとりすぐれたり。
其の上、真言の三部経は、釈迦一代五時の摂属(しょうぞく)に非ず。
されば弘法大師の宝鑰(ほうやく)には釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)を証拠として、法華は無明(むみょう)の辺域(へんいき)、戯論(けろん)の法と釈し給へり。爰(ここ)を以て法華劣(おと)り真言勝ると申すなり。

答ふ、凡そ印相・尊形は是権経の説にして実教の談に非ず。
設(たと)ひ之を説くとも権実大小(ごんじつだいしょう)の差別浅深(せんじん)有るベし。
所以に阿含(あごん)経等にも印相有るが故に、必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず。
説くまじければ是を説かぬにこそ有れ。
法華は只三世十方の仏の本意を説きて、其の形がと(左)ある、かう(右)あるとは云ふべからず。
例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎(くしゃ)より劣るとは云ふべからざるが如し。

次に事理倶密の事。
法華は理秘密(りひみつ)、真言は事理倶密(じりぐみつ)なれば勝るゝとは何れの経に説けるや。
抑(そもそも)法華の理秘密とは、何様の事ぞや。
法華の理とは、迹門開権顕実の理か。其の理は真言には分絶えて知らざる理なり。
法華の事とは、又久遠実成(くおんじつじょう)の事なり。此の事又真言になし。
真言に云ふ所の事理は未開会(みかいえ)の権教の事理なり。何ぞ法華に勝るべきや。

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 次に一代五時の摂属(しょうぞく)に非ずと云ふ事、是往古より諍(あらそ)ひなり。
唐決(とうけつ)には四教有るが故に方等部に摂すと云へり。
教時義には「一切智智(いっさいちち)一味の開会(かいえ)を説くが故に、法華の摂」と云へり。
二義の中に方等の摂と云ふは吉(よ)き義なり。
所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云ふ事、甚だいはれなし。
彼は法開会の文にして、全く人開会なし。争(いか)でか法華の摂と云はるべき。
法開会の文は、方等般若(ほうどうはんにゃ)にも盛んに談ずれども、法華に等(ひと)しき事なし。

彼の大日経の始終を見るに、四教の旨具(つぶさ)に有り、尤(もっと)も方等の摂と云ふべし。
所以に開権顕実の旨有らざれば法華と云ふまじ。
一向小乗三蔵の義無ければ阿含部とも云ふべからず。
般若畢竟空(はんにゃひっきょうくう)を説かねば般若部とも云ふべからず。
大小四教の旨を説くが故に方等部と云はずんば何れの部とか云はん。

又一代五時を離れて外に仏法有りと云ふべからず。
若し有らば二仏並出(びょうしゅつ)の失(とが)あらん。
又其の法を釈迦統領(しゃかとうりょう)の国土にき(来)たして弘むべからず。


 次に弘法大師、釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)を証拠として、法華を無明(むみょう)の辺域(へんいき)・戯論(けろん)の法と云ふ事、是以ての外の事なり。
釈摩訶衍論とは、竜樹(りゅうじゅ)菩薩の造(ぞう)なり。
是は釈迦如来の御弟子なり。
争(いか)でか弟子の論を以て師の一代第一と仰せられん法華経を押し下(くだ)して、戯論の法等と云ふべきや。
而も論に其の明文(みょうもん)無し。
随って彼の論の法門は別教の法門なり。権経の法門なり。是(これ)円教に及ばず。
又実教に非ず。何にしてか法華を下すべき。
其の上彼の論に幾(いくばく)の経をか引くらん。
されども法華経を引く事は都(すべ)て之無し。権論の故なり。
地体(じたい)弘法大師の華厳より法華を下されたるは遥かに仏意にはくひ違ひたる心地(ここち)なり。用ゆべからず用ゆべからず。
                             日蓮花押

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真言諸宗違目
真言と諸宗の誤りを明かし流罪赦免の運動を止める

0599
    真言諸宗違目   文永九年五月五日  五一歳

 真言宗は天竺よりは之無し。
開元の始めに善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)・金剛智(こんごうち)三蔵・不空(ふくう)三蔵等天台大師己証(こしょう)の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、之を立て真言宗と号す。

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真言見聞
真言宗の教義の誤りをあげる

0608B

   真言見聞   文永九年七月  五一歳

問ふ、真言亡国とは証文何なる経論に出づるや。

答ふ、法華誹謗(ひぼう)・正法向背(こうはい)の故なり。

問ふ、亡国の証文之無くば、云何に信ずべきや。

答ふ、謗法の段は勿論なるか。若し謗法ならば、亡国堕獄(だごく)疑ひ無し。
凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。
是(これ)涅槃経の文なり。
爰(ここ)を以て法華経には「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く。是を即ち一闡提(いっせんだい)と名づく。
涅槃経の一と十と十一とを委細に見るべきなり。

(中略)

然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり。
是を以て国家を祈らんに天下将(まさ)に泰平なるべしや。

諸法は現量に如かず。
承久(じょうきゅう)の兵乱(ひょうらん)の時、関東には其の用意もなし。
国主として調伏(じょうぶく)を企て、四十一人の貴僧に仰(おお)せて十五壇の秘法を行はる。
其の中に守護経の法を紫宸殿(ししんでん)にして御室(おむろ)始めて行はる。
七日に満ぜし日、京方(かみがた)負け畢(おわ)んぬ。
亡国の現証に非ずや。

是は僅(わず)かに今生の小事なり。
権経邪法に依って悪道に堕ちん事浅猿(あさまし)かるべし。


問ふ、権教邪宗の証文は如何。
既に真言教の大日覚王(だいにちかくおう)の秘法は即身成仏の奥蔵(おうぞう)なり。
故に上下一同に是の法に帰し、天下悉(ことごと)く大法を仰ぐ。
海内を静め天下を治むる事偏(ひとえ)に真言の力なり。
然るを権教邪法と云ふ事如何(いかん)。

答ふ、権教と云ふ事、■四教含蔵(しきょうごんぞう)(※0)、帯方便(たいほうべん)の説なる経文顕然(けんねん)なればなり。
然(しか)らば四味の諸経に同(どう)じて、■久遠を隠し二乗を隔(へだ)つ
況んや■尽形寿(じんぎょうじゅ)(※1)の戒等を述ぶれば、小乗権教なる事疑ひ無し。

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※0 四教含蔵  天台所立の化法の四教(蔵・通・別・円)を「並べ説く事。
天台の五時の第三 方等時では、五時略頌(りゃくじゅ)に「方等部には四教を説対す」とあるように蔵通別円の諸経(大日経・阿弥陀経など)は、円を説くといえども四教含蔵の経であり、法華経のように純一無雑の円ではない。
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※1 小乗教の戒体(もしくは戒の功徳)が、一生の寿命を終えるとともに失われることをいう。
尽形寿とは肉体、寿命の尽きること。一生涯。
倶舎論巻十四に「別解脱の律儀は尽寿と或いは昼夜となり」
とあり、多数の戒律を別々に受持していく小乗別解脱戒の功徳によって、一度人界、もしくは天界に生まれたならば、新たに戒体を獲得しなければ、その一生のうちに戒体を失って悪道に堕ちることになる。
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爰(ここ)を以て遣唐(けんとう)の疑問に、■禅林寺(ぜんりんじ)の広修(こうしゅ)・■国清寺(こくせいじ)の維_(ゆいけん)の決判(けっぱん)分明(ふんみょう)に方等部の摂と云ひしなり。

疑って云はく、経文の権教は且(しばら)く之を置く。

唐決(とうけつ)の事天台の先徳(せんとく)円珍大師(えんちんだいし)之を破す。
大日経の指帰(しき)(※1)に「法華尚及ばず、況(いわ)んや自余の教をや」云云。
既に祖師の所判(しょはん)なり。誰か之に背くべきや。
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※1 大日経の指帰 1巻 智証講述  大日経および密教の主要な教義を論じたもの。
密教は一切の仏教を統括する教えであり、天台大師の四教の教相判釈も密教の判釈と一致すると述べている。
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決に云はく「道理前の如し」と。依法不依人(えほうふえにん)の意なり。
但し此の釈を智証(ちしょう)の釈と云ふ事不審なり。
其の故は授決集(じゅけつしゅう)(※1)の下に云はく「若し法華・華厳・般若等の経に望めば、是(これ)摂引門(しょういんもん)」と云へり。
広修・維_(※唐決)を破する時は法華尚及ばずと書き、授決集には是摂引門と云って、二義相違(そうい)せり。
指帰が円珍の作ならば、授決集は智証の釈に非ず。
授決集が実作ならば、指帰は智証の釈に非じ。
今此の事を案ずるに、授決集が智証の釈と云ふ事、天下の人皆之を知る上、公家(くげ)の日記にも之を載せたり。
指帰は人多く之を知らず。公家の日記にも之無し。
此を以て彼を思ふに後の人作って智証の釈と号するか。
能(よ)く能(よ)く尋ぬべき事なり。
授決集は正しき智証の自筆なり。
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※1 授決集 智証大師撰 「秘巻(かくれたるまき)」とも。 智証が留学中に、天台山禅林寺・良請(りょうしょう)から授けられた口決や、その他の覚書を54項に集成したもの。華厳宗や三論宗との議論が収められている。
天台宗寺門派はこの書を根本聖典とし、秘密に伝授した証として「秘巻」と称した。
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密家(みっけ)に四句の五蔵(※1)を設(もう)けて十住心(じゅうじゅうしん)を立て、論を引き伝を三国に寄せ、家々の日記と号し、我が宗を厳(かざ)るとも、皆是妄語(もうご)胸臆(くおく)の浮言(ふげん)にして荘厳己義(そうごんこぎ)の法門なり。
所詮(しょせん)法華経は大日経より三重の劣・戯論(けろん)の法にして釈尊は無明纏縛(むみょうてんばく)の仏と云ふ事、慥(たしか)なる如来の金言経文を尋ぬべし。
証文無くんば何と云ふとも法華誹謗の罪過(ざいか)を免(まぬか)れず。

此の事当家の肝心なり。
返す返す忘失する事勿(なか)れ。
何(いず)れの宗にも正法誹謗の失之有り。対論の時は但此の一段に在り。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※1 四句の五臓  真言宗では、四句を論じ、五臓をたてて一切経を教判していること。
四句 義釈の四句 唯蘊無我心・覚心不生心・極無自性心・如実智自心 
五蔵 経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   

(中略)

顕密(けんみつ)の事。
無量義経十功徳品に云はく 第四功徳の下 「深く諸仏秘密の法に入り、演説すべき所違ひ無く失無し」と。

抑(そもそも)大日の三部を密教と云ひ、法華経を顕教と云ふ事、金言の出る所を知らず。
所詮(しょせん)真言を密と云ふは、是の密は隠密(おんみつ)の密なるか。
微密(みみつ)の密なるか。

物を秘するに二種有り。
一には金銀等を蔵(くら)に篭(こ)むるは微密なり。
二には疵片輪(きずかたわ)等を隠すは隠密なり。

然れば則ち真言を密と云ふは隠密なり。
其の故は始成(しじょう)と説く故に長寿を隠し、二乗を隔(へだ)つる故に記小(きしょう)無し。

此の二つは教法の心髄、文義(もんぎ)の綱骨(こうこつ)なり。
微密の密は法華なり。
然(しか)れば則(すなわ)ち文に云はく、四の巻法師品に云はく「薬王、此の経は是諸仏秘要の蔵(ぞう)なり」云云。
五の巻安楽行品に云はく「文殊師利、(もんじゅしり)此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。
寿量品に云はく「如来秘密神通之力」云云。
如来神力品に云はく「如来一切秘要之蔵」云云。

加之(しかのみならず)真言の高祖竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、法華経を秘密と名づく、二乗作仏(にじょうさぶつ)有るが故にと釈せり。

次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず。
所以(ゆえん)は何(いか)ん。
大日経に云はく「仏不思議真言相道(そうどう)の法を説いて、一切の声聞・縁覚を共にせず。亦世尊普(あまね)く一切衆生の為にするに非ず」云云。
二乗を隔つる事、前四味の諸経に同じ。
随(したが)って唐決(とうけつ)には方等部の摂と判ず。
経文には四経含蔵(しきょうごんぞう)と見えたり。

大論の第百巻に云はく 第九十品を釈す 
「問うて曰く、更に何(いず)れの法が甚深(じんじん)にして、般若(はんにゃ)に勝(すぐ)れたる者有って、般若を以て阿難(あなん)に嘱累(ぞくるい)し、而(しか)も余経をば菩薩に嘱累するや。

答へて曰く、般若波羅蜜(はらみつ)は秘密の法に非ず。
法華等の諸経に阿羅漢(あらかん)の受決作仏(じゅけつさぶつ)を説いて大菩薩能(よ)く受用(じゅゆう)す。
譬(たと)へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。

玄義(げんぎ)の六に云はく
「譬へば良医(ろうい)の能く毒を変じて薬と為すが如く、二乗の根敗(こんぱい)反復すること能(あた)はず。之を名づけて毒と為す。
今経に記を得るは即ち是毒を変じて薬と為す。
故に論に云はく、余経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり。
復本地の所説有り、諸経に無き所、後に在って当に広く明かすべし」云云。

籖(せん)の六に云はく
「第四に引証の中、論に云はく等と言ふは、大論の文証なり。
秘密と言ふは八教の中の秘密には非ず。
但是(これ)前に未だ説かざる所を秘と為し、開(かい)し已(お)はって外(ほか)無きを密と為す」文。

文句(もんぐ)の八に云はく
方等・般若に実相の蔵を説くと雖も、亦未だ五乗の作仏を説かず。
亦未だ発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)せず。
頓漸(とんぜん)の諸経は皆未だ融会(ゆうえ)せず。故に名づけて秘と為す」文。

記の八に云はく
「大論に云はく、法華は是秘密、諸の菩薩に付すと。
今の下の文の如きは下方を召して尚本眷属(ほんけんぞく)を待つ。験(あきら)けし余は未だ堪へず」云云。

秀句(しゅうく)の下に
「竜女の成仏を釈して、身口(しんく)密なりと云へり」云云。

此等の経・論・釈は、分明(ふんみょう)に法華経を諸仏は最第一と説き、秘密教と定め給へるを、経論に文証も無き妄語を吐き、法華を顕教と名づけて之を下し之を謗(ぼう)ず。豈(あに)大謗法に非ずや。

 抑(そもそも)唐朝の善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)等、法華経と大日経の両経に、理同事勝(りどうじしょう)の釈を作るは、梵華(ぼんか)両国共に勝劣か。

法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども、流沙(りゅうさ)・葱嶺(そうれい)等の険難(けんなん)、五万八千里十万里の路次(ろじ)容易(ようい)ならざる間、枝葉をば之を略せり。等は併(しか)しながら訳者の意楽(いぎょう)に随う。

広を好み略を悪(にく)む人も有り。
略を好み広を悪む人も有り。
然(しか)れば則(すなわ)ち、玄奘(げんそう)広を好んで四十巻の般若経を六百巻に成し、羅什三蔵(らじゅうさんぞう)は略を好んで千巻の大論を百巻に縮めたり。

印契(いんけい)・真言の勝るゝと云ふ事、是を以て弁(わきま)へ難し。
羅什所訳(しょやく)の法華経には是を宗とせず。
不空三蔵(ふくうさんぞう)の法華儀軌(ぎき)(※1)には印・真言之有り。
仁王経(にんのうきょう)も羅什の所訳には印・真言之無し。
不空、所訳の経には之を副(そ)へたり。
知んぬ是訳者の意楽なりと。
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※1 法華儀軌 観智儀軌 1巻 中国真言宗の祖・不空の訳。 
法華経見宝塔品第十一に説かれる釈迦・多宝の二仏並座の説を中心として、文殊・薬王・弥勒・普賢などの諸菩薩を配した曼荼羅が説かれている。
そしてこの曼荼羅によって修行すれば六根の清浄を得、法華三昧を成就するとされている。
巻頭に法華経(鳩摩羅什訳)の27品をあげて各品の要義が示されているが、提婆達多品第十二が除かれている。
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其の上法華経には「為説実相印(いせつじっそういん)」と説いて、合掌の印之有り
譬喩品には「我が此の法印(ほういん)は世間を利益(りやく)せんと欲(ほっ)するが為の故に説く」云云。
此等の文如何(いかん)。
只広略の異なりあるか。

又舌相(ぜっそう)の言語(げんご)皆是真言なり。
法華経には「治生の産業(さんごう)は皆実相と相違背(あいいはい)せず」と宣(の)べ、亦(また)「是(これ)前仏経中(ぜんぶっきょうちゅう)に説く所なり」と説く。
此等は如何。

真言こそ有名無実(うみょうむじつ)の真言、未顕真実(みけんしんじつ)の権教なれば、成仏得道跡形(あとかた)も無し。
始成(しじょう)を談じて久遠無ければ、性徳本有(しょとくほんぬ)の仏性も無し。
三乗が仏の出世を感ずるに、三人に二人を捨て、三十人に二十人を除く。
「皆仏道に入らしむ」の仏の本願満足すべからず。
十界互具は思ひもよらず。

まして非情の上の色心(しきしん)の因果争(いかで)でか説くべきや。

然れば陳隋(ちんずい)二代の天台大師が法華経の文を解(さと)りて、印契の上に立て給へる十界互具百界千如一念三千を、善無畏は盗み取りて我が宗の骨目(こつもく)とせり。
彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝(げんそうこうてい)の開元(かいげん)四年に来たる。
如来入滅より一千六百六十四年か、開皇(かいこう)十七年より百二十余年なり。
何ぞ百二十余年巳前に天台の立て給へる一念三千の法門を盗み取りて我が物とするや。

而るに己が依経(えきょう)たる大日経には、衆生の中に機を簡(きら)ひ、前四味の諸経に同じて二乗を簡(きら)へり。
まして草木成仏(そうもくじょうぶつ)は思ひもよらず。
されば理を云ふ人時は盗人(ぬすびと)なり。

又印契・真言何れの経にか之を簡(きら)へる。
若し爾(しか)れば大日経に之を説けども規模ならず。
一代に簡はれ諸経に捨てられたる二乗作仏は法華に限れり。
二乗は無量無辺劫の間、千二百余尊の印契・真言を行ずとも、法華経に値(あ)はずんば成仏すべからず。
印は手の用、真言は口の用(ゆう)なり。
其の主が成仏せざれば口と手と別に成仏すべきや。
一代に超過し、三説に秀(ひい)でたる二乗の事をば物とせず。

事に依る時は印・真言を尊む者、劣謂勝見(れついしょうけん)の外道なり。
無量義経説法品に云はく「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」文。
一の巻に云はく「世尊は法久しくして後要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」文。
又云はく「一大事の因縁の故に世に出現したまふ」。
四の巻に云はく「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文。
又云はく「已(すで)に説き今説き当に説かん」文。
宝塔品に云はく「我仏道を為(も)って無量の土に於て始めより今に至るまで広く諸経を説く。而も其の中に於て此の経第一なり」文。
安楽行品に云はく「此の法華経は是(これ)諸(もろもろ)の如来第一の説なり。諸経の中に於て最も為れ甚深なり」文。
又云はく「此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」文。
薬王品に云はく「此の法華経も亦復(またまた)是(か)くの如し。諸経の中に於て最も為れ其の上なり」文。
又云はく「此の経も亦復是くの如し。諸経の中に於て最も為れ其の尊(そん)なり」文。
又云はく「此の経も亦復是くの如し。諸経の中の王なり」文。
又云はく「此の経も亦復是くの如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり」等云云。

玄の十に云はく「又已今当(いこんとう)の説に最も難信難解(なんしんなんげ)と為す、前経は是(これ)已説(いせつ)なり」文。
秀句(しゅうく)の下に云はく「謹(つつし)んで案(あん)ずるに法華経法師品の偈(げ)に云はく、薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり。而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文。
又云はく「当に知るべし已説は四時の経なり」文。
文句の八に云はく「今法華は法を論ずれば」云云。
記の八に云はく「鋒(ほこ)に当たる」云云。
秀句の下に云はく「明らかに知んぬ他宗所依(しょえ)の経は是王中の王ならず」云云。

釈迦・多宝・十方の諸仏、天台・妙楽・伝教等は法華経は真実、華厳経は方便なり。
「未顕真実(みけんしんじつ)」
「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)」
「不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)」
「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云。

弘法大師は「法華は戯論(けろん)、華厳は真実なり」云云。
何れを用ふべきや。

宝鑰(ほうやく)に云はく 「此くの如き乗々は自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す」文。
又云はく「謗人謗法は定めて阿鼻獄に堕せん」文。

記の五に云はく「故に実相の外は皆戯論と名づく」文。

梵網経疏(ぼんもうきょうしょ)に云はく「第十に謗三宝戒。亦は謗菩薩戒と云ひ、或は邪見と云ふ。謗は是乖背(けはい)の名なり。
噤iけい)は是解(げ)、理に称(かな)はず。
言(ことば)は実に当たらずして異解(いげ)して説く者を皆名づけて謗と為すなり」文。

玄の三に云はく「文証無き者は悉(ことごと)く是邪偽(じゃぎ)にして彼の外道に同じ」文。

弘(ぐ)の十に云はく「今の人他の所引(しょいん)の経論を信じて謂ひて憑(たの)み有りと為して宗の源を尋ねず。
謬誤(みょうご)何ぞ甚(はなはだ)しき」文。

守護章上の中に云はく「若し所説の経論明文有らば、権実・大小・偏円(へんえん)・半満(はんまん)を簡択(かんちゃく)すべし」文。

玄の三に云はく「広く経論を引きて己義を荘厳す」文。

抑(そもそも)弘法の法華経は真言より三重の劣、戯論の法にして尚華厳にも劣ると云ふ事、大日経六巻に供養法の巻を加へて七巻三十一品、或は三十六品には何れの品何(いず)れの巻に見えたるや。

加之(しかのみならず)蘇悉地経(そしっじきょう)三十四品、金剛頂経(こんごうちょうきょう)三巻三品、或は一巻に全く見えざる所なり。

又大日経並びに三部の秘経には、何れの巻何れの品にか十界互具之有りや。都(すべ)て無きなり。
法華経には事理共に有るなり。
所謂久遠実成(くおんじつじょう)は事なり。二乗作仏は理なり。

善無畏等の理同事勝(りどうじしょう)は臆説(おくせつ)なり。信用すべからざる者なり。

凡そ真言の誤り多き中に、
一、十住心(じゅうじゅうしん)に第八法華・第九華厳・第十真言云云。何れの経論に出でたるや。
一、善無畏の四句と弘法の十住心と眼前の違目なり。何ぞ師弟敵対するや。
一、五蔵を立つる時、六波羅蜜経(ろくはらみつきょう)の陀羅尼蔵(だらにぞう)を、何ぞ必ず我が家の真言と云ふや。
一、震旦(しんたん)の人師争(あらそ)って醍醐(だいご)を盗むという。年紀(ねんき)何ぞ相違(そうい)するや。
其の故は開皇(かいこう)十七年より、唐の徳宗の貞元(じょうげん)四年戌辰(つちのえたつ)の歳に至るまで百九十二年なり。
何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給ふべきや。顕然(けんねん)の違目(いもく)なり。
若し爾(しか)れば人を謗じ法を謗ず、定んで阿鼻獄に堕すと云ふは自責なるや。
一、弘法の心経の秘鍵(ひけん)の五分に何ぞ法華を摂(しょう)するや。能(よ)く能(よ)く尋ぬべき事なり。

真言七重難。
一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。若し爾れば大日の出世・成道・説法・利生(りしょう)は釈尊より前か後か、如何(いかん)。
対機説法(たいきせっぽう)の仏は八相作仏(はっそうさぶつ)す。
父母は誰ぞ。
名字は如何。
娑婆世界(しゃばせかい)の仏と云はゞ、世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判(つうはん)なり。
涅槃経の三十五の巻を見るべきなり。

若し他土(たど)の仏なりと云はゞ、何ぞ我が主師親の釈尊を蔑(ないがし)ろにして他方疎縁(たほうそえん)の仏を崇むるや。
不忠なり、不孝なり、逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)なり。

若し一体といはゞ何ぞ別仏と云ふや。若し別仏ならば、何ぞ我が重恩の仏を捨つるや。
唐尭(とうぎょう)は老ひ衰へたる母を敬ひ、虞舜(ぐしゅん)は頑(かたくな)なる父を崇む是一。

六波羅蜜経に云はく「所謂(いわゆる)過去無量悼セ沙(ごうがしゃ)の諸仏世尊の所説の正法、我今亦(また)当(まさ)に是くの如き説を作すべし。
所謂八万四千の諸の妙法蘊(うん)、而(しか)も阿難陀(あなんだ)等の諸大弟子をして一たび耳に聞きて皆悉(ことごと)く憶持(おくじ)せしむ」云云。
此の中の陀羅尼蔵(だらにぞう)を弘法は我が真言と云へる。
若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか。此の説に違す是二。

凡(およ)そ法華経は無量千万億の已説今説当説(いせつこんせつとうせつ)に最第一なり。
諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり。
諸仏の中に大日漏(も)るべきや。
法華経は正直無上道(しょうじきむじょうどう)の説、大日等の諸仏長舌(ちょうぜつ)を梵天(ぼんてん)に付けて真実と示し給ふ是三。

威儀形色経(いぎぎょうしききょう)に「身相黄金色にして常に満月輪に遊び定慧智拳(じょうえちけん)の印法華経を証誠(しょうじょう)す」と。

又五仏章の仏も法華経第一と見えたり是四。

「要を以て之を言はゞ如来の一切所有(しょう)の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」云云。
此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず、三世の諸仏の所説の中に第一なり。
此の外一仏二仏の所説の経の中に、法華経に勝れたる経有りと云はゞ用ふべからず。
法華経は三世不壊(さんぜふえ)の経なる故なり是五。

又大日経等の諸経の中に法華経に勝るゝ経文之無し是六。

釈尊御入滅より已後(いご)、天竺(てんじく)の論師二十四人の付法蔵(ふほうぞう)、其の外大権の垂迹、震旦(しんだん)の人師、南三北七の十師、三論法相(さんろんほっそう)の先師の中に、天台宗より外に十界互具百界千如一念三千と談ずる人之無し。
若し一念三千を立てざれば性悪(しょうあく)の義之無し。
性悪の義無くば仏菩薩の普現色身(ふげんしきしん)、真言両界の曼荼羅(まんだら)、五百七百の諸尊は、本無今有(ほんむこんぬ)の外道の法に同ぜんか。
若し十界互具百界千如を立てば、本経何れの経にか十界皆成(かいじょう)の旨之を説けるや。

天台円宗(てんだいえんしゅう)見聞(けんもん)の後、邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり。
才芸(さいげい)を誦(じゅ)し、浮言を吐(は)くには依るべからず。
正しき経文金言を尋ぬべきなり是七。

涅槃経の三十五に云はく「我処々の経の中に於て説いて言はく、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王(てんりんおう)あり。一世界の中に二仏出世すといはゞ是の処(ことわり)有ること無し」文。

大論の九に云はく「十方恒河沙(ごうがしゃ)三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏(よぶつ)無し。実には一(ひとり)の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)なり」文。

記の一に云はく「世に二仏無く国に二主無し。一仏の境界に二の尊号無し」文。

持地論(じじろん)に云はく「世に二仏なく国に二主なし。一仏の境界に二の尊号なし」文。


 七月 日                         日蓮花押

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第34回総会より
井桁美也子 さん
私は、今から22年前、姉の折伏によって、日蓮正宗に入信することができました。
 私は京都で生まれ育ったのですが、家は京都の西本願寺と東本願寺の間の地域にあり、私自身、幼い頃より、家にある仏像から道端の地蔵にまで手を合わせ、深く邪宗教に関わってきました。
そして、高校を卒業した年に結婚し、奈良県の室生(むろお)村という所に嫁いだのですが、その村には女人高野≠ニして有名な、真言宗室生寺派の大本山・室生寺があり、村自体が室生寺によって成り立っている、という土地柄だったのです。嫁ぎ先も室生寺と深く関わっており、姑は室生寺で働いておりました。
そのような村で生活するようになって五年が過ぎた平成2年3月、二人の子供を連れて里帰りした折に、姉に連れられて妙観講の京都布教所に行き、折伏を受けたのです。

私は、その時に聞かされた真言宗の害毒の話に大きなショックを受けました。
 真言宗は、お釈迦様が説いた大日経という経典の中に出てくる大日如来≠ニいう架空の仏を崇(あが)め、その大日経を説いた大元であるお釈迦様を、「大日如来よりもはるかに劣る」といって蔑視(べっし)しています。
  つまり、柱である本当の仏を押し倒して、架空の仏を崇めているわけです。
そのため、真言宗を信仰していると、
 一家の柱となる主人や長男が立たず、病気や事故で若死にしたり、身を持ち崩して行方不明になるなどして、家が絶えたり女系になるケースが極めて多い、というのです。
 それはまさに、私が室生村に行ってからの数年間で見聞きした姿そのものでした。

嫁いだ当時、私は、村に
● 精神障害や知的障害の男の子が異様に多い
ことに驚きました。
その後も、
● 成人した男性が川で水死したり、
● てんかんの発作や病院の誤診で亡くなってしまう
という出来事が頻繁(ひんぱん)に起き
● 姑や嫁だけが取り残されたり
● 跡を継ぐ者が全て死に絶えてしまった家も、けっして珍しくはなかったのです。

 当時は、それが真言宗の害毒によるものだなどとは思いもせず、あまりの不気味さに、私は「この村、お祓(はら)いしてもらった方がいいんと違う?」と言ってしまったほどです。

 かく言う私自身、第一子を身ごもった時、
● 七ヶ月で流産していました。男の子でした。

 折伏を受けた私は、そうしたことを思い合わせ、四歳になる息子のことが心配でたまらなくなりました。
息子は、室生寺が経営する保育園に通っており、そこで毎日、真言宗の本尊を拝まされ、般若心経を読まされていたのです。
私は、子供達を守りたい一心で入信を決意し、御授戒を受けました。

ところが、それを知った家族の怒りは大変なものでした。
 最初は「頼むからやめてくれ」と泣き落としだった姑は、それでも私が信心をやめないとわかると、突然逆上して、持っていた箸を投げつけてきたり、舅は舅で、事あるごとにイヤミを言ってくるのです。

 初めのうちこそ黙認していた主人も、両親の猛反発に驚いたらしく、それからは私に対して、ひどい暴力を振るってくるようになりました。
両親は、主人が暴力を振るうのを見ても、「危ないからあっちに行っとこう」と言って、子供を連れて別の部屋へ退避してしまい、主人の暴力を止めようともしません。
 ある時などは、息子が家に祀(まつ)ってある邪宗の本尊を拝むように強要されていたので、私がそれを阻止(そし)しようとしたところ、姑はものすごい剣幕で怒鳴り、舅は私の顔を叩き、挙げ句の果てに家から蹴(け)り出された、ということもありました。

 とにかく、舅・姑・主人に加え、親戚も保育園の先生も村の人達も、皆が真言宗の檀家ですから、誰ひとりとして私の味方になってくれる人はいません。
私が講中の先輩方と連絡を取れないように、私達の部屋の電話線も引きちぎられてしまいました。

 しかし、怒鳴(どな)られ、罵倒(ばとう)され、嫌がらせや泣き落としの日々が続き、「出ていけ!」と言われても、子供達をこの恐ろしい真言宗の村に置いて出ていくことはできません。
私は、嫁ぎ先に留まり、内得信仰で信心を貫いていきました。

そして、入信から五ヶ月が過ぎた頃です。
京都で行なわれる支区座談会に出席させてほしい、と主人に頼んだところ、突然、主人は狂ったように暴力を振るい始めたのです。
蹴られ、服を引き裂かれ、髪をつかんで部屋中を引きずり回された私は、体中が熱くなり、足腰が立たなくなってしまいました。
 
その翌日、病院へ行ったところ、私を診察した医師があまりの状態に警察に通報し、そのことから離婚することとなりました。
一番の気掛かりは子供達のことでした。
この邪宗にまみれた村に子供達だけを残すことは絶対にできません。
しかし、主人が全面的に非を認めたので、子供達は私の方で引き取ることができました。
本当に有り難いことでした。

その後、実家に戻った私は、晴れて御本尊様をお受けし、先輩や同志の方達に励まされながら、会合参加、折伏、毎月の総本山参詣と、二人の子供を連れて精いっぱい信心修行に励みました。
すると、その功徳で、子供達は良い保育園に入ることができ、私も良い仕事が見つかって、私達親子の生活環境は整っていきました。

その様子に、はじめは信心に反対していた母も、御本尊様の御力を知って入信しました。
 ところが父の方は、私達の信心には反対しないものの、自分が入信することは頑(がん)として拒(こば)み続けました。
折に触れて仏法の話をするものの、父は全く聞く耳を持たず、時には「うるさい!」と一喝してくることもありました。

 そして、十年余りがたった平成十五年頃、父の身に異変が起きてきたのです。
 父は、物忘れが激しくなり、外に出かけると異様に帰りの遅くなることが続きました。
それが単なる物忘れでないことは明白でした。

支区部長に相談したところ、部長は「お父さんを折伏しましょう」と言って、我が家に来てくださいました。
すると、父は驚くほど素直に話を聞いて、促(うなが)されるままに一緒に御題目を三唱したのです。
あの頑(かたく)なに拒んでいた父からは想像もできない光景でした。
そして、その翌日、父は御授戒を受けることができたのです(大拍手)。

しかし、この時すでに父の頭の中は取り返しのつかない状態になっていました。
病院で診察を受けたところ、アルツハイマー型認知症であることが判明したのです。
 アルツハイマー型認知症は、記憶力の低下に始まって、次第に感情がなくなり、欲望もコントロールできなくなって、高度な痴呆状態に陥(おちい)り、そのうち身内の顔すらわからなくなって、最後には全身衰弱で死亡してしまう、という恐ろしい病気です。
予想していたこととはいえ、その診断が下された時は本当にショックでした。

 もう、御本尊様に助けていただく以外ありません。
家族皆で精いっぱい仏道修行に励んで、父に功徳を回していこう、と話し合いました。
さらに、父自身にも功徳を積んでもらえるよう、父と共に勤行し、父を連れて会合に参加し総本山にも参詣していきました。

そのような中、父は、物忘れはあるものの、とくに不自由を感じることもなく生活してくることができました。
しかし、診断から二年ほどが経った頃より、父の病状は悪化してきて、家での介護に限界を感じた私は、父を施設に預けることを考えました。
 すると、高校と専門学校を卒業して介護福祉士の仕事に就(つ)いたばかりの息子が、真っ先に反対してきたのです。
息子は、「俺が世話をするから、おじいちゃんを施設に入れたらあかん。長い間働いて俺らを育ててくれたんやから、かわいそうや」と言うのです。
 まさか息子がそんなことを言ってくれるとは思ってもいませんでしたので、私は、驚くとともに本当に嬉しく思いました。

それからというもの、息子は、仕事が休みの日や帰宅後は、下の世話をはじめとする父の介護を、嫌な顔ひとつせず手伝ってくれました。
おかげで、私は、会合参加、折伏、登山と、安心して仏道修行に励むことができたのです。

 母子家庭となってしまったことから、十分に母親らしいこともしてあげられなかった息子が、こんなふうに私を助け支えてくれるようになるとは、ひとえに日蓮正宗の信仰をしてきたおかげであり、本当に御本尊様に守られていたのだと、ただただ有り難くてなりませんでした。

さて、父ですが、父は、昨年二月、硬膜下血腫(こうまくかけっしゅ)になっていることがわかり、緊急手術を受けました。
この手術によって認知症の症状が悪化することが心配されたのですが、父は以前にもまして元気になることができました。
 また、八月、十月と、今度は立て続けに尿路感染症にかかってしまいました。
その時は、意識も低下し、もうだめかもしれないと思うほどの衰弱ぶりでしたが、私が父の耳元で題目を唱え続けたところ、翌日には信じられないような回復を遂げてしまったのです。

 今は、訪問看護や訪問入浴を利用しつつ、自宅にて家族全員で父の介護をしています。
ほぼ寝たきりの父ですが、使える部分はフルに動かし、寝ながらでも鍛(きた)えられるところは鍛えようとしているようです。
先日も、訪問看護の看護師さんから、「お父さん元気になってきたね。力がすごく強いわ」と言われました。

 父は、アルツハイマーを発症してから九年が経つというのに、いまだに表情も豊かで、声をたてて笑うことさえあるのです。
通常、このようなことはありえないそうですが、本当に父は御本尊様に守っていただいているのだ、と実感しております。

離婚当時は幼かった子供達も今ではすっかり成長して、26歳になった息子は介護の道に進み、22歳の娘は、先日、看護師の国家試験に無事合格して、この四月から病院に勤務することになり、私にとっても両親にとっても、本当に頼もしい存在となっています。

とくに、私が入信するきっかけになった息子は、現在、折伏にも頑張っており、その功徳で、一年前に就職したばかりの病院でも仕事ぶりが認められて、病棟のリーダーに抜擢(ばってき)されたり、病院全体の責任ある仕事も任されるようになりました。
息子の仕事には、父の介護を手伝ってきてくれたことが大いに役立っているようです。

今でも息子は、仕事で疲れて帰ってきても真っ先に父のことを気に掛けて、「おじいちゃん、おじいちゃん」とかまってくれ、父の回りではいつも笑いが絶えず、父にとっても今が一番良い環境なのではないかと思います。

また、私自身も、平成19年に、縁あって、妙観講の同志である現在の主人と再婚し、さまざまな面で支えてもらえるようになりました。
そして平成20年に、43歳という超高齢で、勇気を出して出産した男の子も、すくすくと育ち、家族の癒(いや)しとなっております。
日蓮大聖人様は、
「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」(御書八三二頁)
と仰せられています。まさにこの御金言のとおり、二十二年前に折伏を受け、意を決して入信して以来、一時は本当に 辛い思いをしましたが、今となってみれば、両親も入信することができ、子供達も健全に育って、現在の満ち足りた幸せな人生を手に入れることができたのです。全て御本尊様によって、最良の道に運ばれてきたのだと思います。

もし、この信心に入信していなかったら、もし、嫁ぎ先の反対に屈して信心を退転してしまっていたら、今の幸せは絶対にありませんでした。それを思うと、御本尊様には感謝申し上げても感謝しきれません。

この御恩に報いていくためには、折伏を行じ誓願を果たす以外にない、と心得、家族そろって折伏に励んでまいります。
なお、本日も、父を含め、家族揃って無事に登山することができました!(大拍手) これも御本尊様のおかげであります。

ありがとうございました(大拍手)。

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1.成立の歴史

釈尊出現以前の古代インドでは、悪魔払いや呪術などの、原始的な祈祷が盛んに行われていた。
この教義が大乗仏教の思想によって次第に体系づけられ、発達したのが、一般にいうところの密教
である。

密教は、唐の玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵(637年〜735年)・金剛智三蔵(671年〜741年)・不空三蔵(705年〜774年)のいわゆる三三蔵によって中国にもたらされた。中国には、それ以前にも、密教に関連した一部の経典が伝えられていたが、体系化された密教の伝来はこの時が始まりといえよう。

三三蔵のうち善無畏は、中インドのマカダ国の王子であったが、出家して大乗仏教を学び、玄宗皇帝の開元4年(716年)にインドから入唐、『大日経』・『蘇悉地経』等を訳し、皇帝の尊信を受けた。

一方、南インドの金剛智も、開眼8年(720年)入唐、『金剛頂経』・『瑜伽論』等を訳し、その教えは弟子の不空に伝授された。

以上の三三蔵が事実上の中国真言宗の元祖であるが、この間、インド・中国のいずれにおいても、まだ真言宗という名はなかった。

さて、善無畏が『大日経』等の梵本(梵語すなわちサンスクリットで書かれた原本)を翻訳せんとした際、そこに重大な壁が立ふさがった。それは、当時の中国には、すでに天台大師による円満無欠の『法華経』の教えが弘まっていたため、善無畏が持参してきた経典は、とうてい普及の見込みがないことであった。

そこで、善無畏は、ひとつの迷策を考案し、当時、天台の学匠として知られていた一行阿闍梨を巧言をもってそそのかし、持参してきた経典を天台の義によって翻訳させ、更に『法華経』の教義に基づいてその解説書を作らせることに成功したのである。

この善無畏の巧みな誑惑により、あたかも密教は最勝の法であるかのごとく見せかけられ、中国に広く根をおろしていった。

日本においては、弘法大師空海(774年〜835年)が、延暦23年(804年)に遣唐使に加わって渡唐し、不空の弟子・恵果に師事して法を付され、帰朝して、嵯峨天皇の大同2年(807年)に真言宗を立宗したのが始まりである。

空海は、こうした真言宗の付法・伝承の次第を次のように説明した。
まず大日如来が自受法楽のために談じた『大日経』等を、第二祖金剛薩多が結集して南天竺の鉄塔の中に収めた。
釈迦滅後七百年頃、竜猛(竜樹)菩薩がその鉄塔を開き収められていた法門を金剛薩多から授かって第三祖となり、次いで第四祖竜智菩薩、第五祖金剛智に伝付した、というのである。

しかして、善無畏はその後の付法が明らかでないので付法の祖には含めず、金剛智の弟子・不空をもって第六祖とし、不空から第七祖恵果へ、そして空海へと伝えられたことになっている。
以上を付法の八祖と称するが、善無畏と一行を抜きに真言の教義はありえぬため、これとは別に、竜猛・竜智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海という、伝持の八祖も立てるのである。

なお真言宗とは真言陀羅尼宗の略称で、空海によって、はじめて用いられた宗名である。

空海は、東大寺の別当を務めた後、天皇から東寺を賜り護国教王院と号し、晩年には高野山金剛峰寺を造立して真言宗の根本道場とした。

ところが、弘法と同時期に日本天台宗の伝教大師がおり、すでに諸宗を破折して法華一乗を弘め、仏教界の第一人者となっていた。そこで、真言宗興隆を念願とする空海は、これとの対決を避け、むしろ一時は親交を結ぶ方が得策と考えたのであろう、自ら伝教大師に交わりを求めている。
が、所詮は清濁の流れを異にしている両者であったため対立、伝教大師はその著書『依憑集(えひょうしゅう)』の中で、「空海が新しく将来した真言宗は、もともと一行が善無畏にそそのかされ、天台の教義を盗んで教義を形成した」と、真言の邪義を破折したのであった。

しかし、伝教大師亡き後の仏教界は、空海の一人舞台となり、空海は、国家泰平と玉体安穏の加持祈祷を宮中で行うことを願い出て天皇に取り入り、着々と真言宗の基礎を固めていった。

空海の死後、実慧の広沢流、真雅の小野流に分派し、以後は三十六派に分かれ、更に多数の分派を生じたが、大別して高野山を総本山とする古義真言宗、智山(ちざん)・豊山(ぶざん)の両山をもって総本山とする新義真言宗とに分けられる。

現在、寺院総数は約1万5千、僧侶数約2万人、檀徒数約120万世帯といわれているが、その勢力もあまり振るわず、次第に衰退しつつある。
また近年は、不可思議な超常現象ブームに乗じ、密教の神秘的呪術を見世物のようにして、何とか巻き返しをはかろうと企てている現状である。

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2.教義と本尊

真言宗の伝統によれば、『大日経』と『金剛頂経』を金胎両部(『大日経』は胎蔵界といって、一切法が各自の胎内に蔵有されているという理を説く経であり、『金剛頂経』は金剛界といって、如来内証の金剛のような智徳の具足を説く経であるという)もしくは、両部大経と称し、根本の依経としている。
そして、これに『蘇悉地経』を加えて三大部もしくは三部秘経とし、更に、『珂祇(ゆぎ)経』と『要略念誦経』を加えて五部秘経と称する。

本尊には法身・大日如来を立て、無上絶対の仏と仰ぐ。
真言宗では本尊を絵曼荼羅として、図顕するが、これに胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅の二種があり、両部曼荼羅と称している。
胎蔵曼荼羅とは、『大日経』を典拠として大日如来の理の方面を示し、金剛界曼荼羅とは、『金剛頂経』を典拠として大日如来の智の方面を顕している。
この両部曼荼羅の他に、四種曼荼羅といって、密教の世界観を図示したものがあるが、これは、宇宙法界(ほっかい)が絶対者たる大日如来を象徴していると見たうえで、法界の相貌を四種に分類して図示した曼荼羅である。

次に真言宗の教義であるが、中国において、善無畏と共に真言の教義を造りあげた一行は、『大日経』に説かれる「心実相(しんじっそう)」の語をとりあげ、自らの著である『大日経義釈(ぎじゃく)』の中に、

「我(法華経)に諸法実相と言うは、すなわち、これ、この経(大日経)の心の実相なり。心実相とは、すなわち是れ菩提、更に別理なきなり」

と述べて、『法華経』の十如実相の理同化し、『大日経』にも一念三千・即身成仏の理がある、と標榜した。

そして、『大日経転字輪曼荼羅行品』に、

「毘盧遮那世尊、執金剛秘密主に告げて言(のたまわ)く、我は一切の本初なり、号して世所依と名づく」

とある一節をさして、『大日経義釈』の中に、我一切本初とは寿量の義なりと釈明し、大日如来を『法華経寿量品』の久遠実成(くおんじつじょう)の仏に擬して万有開展(ばんゆうかいてん)の本源と説いたのである。

かくして『大日経』の中へ『法華経』の教理を取り入れた真言宗では、『法華経』も『大日経』も理論内容においては等しいが、実際の功徳においては、印(印契ともいい、指をまげて種々の形を造ること)と真言(仏の真実の言葉という意であるが、ここでは種々の呪文のこと)とがある『大日経』の方が優れるとして、理同事勝(理においては同じであるが事において優れる)と主張する。

そして、法華開会(かいえ)の法門を自宗に取り入れ、諸宗で依経とする華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の一切経は、ことごとく『大日経』に摂められているというのである。

空海にいたっては、これらの釈の上に、更に『弁顕密二教論』を立て、「釈尊五十年の説法は、舎利弗等の請いに応じて応身仏が説いた随他意の教であり、浅略な方便教である。『大日経』等は、自受法楽のために法身仏・大日如来が談じた随他意の教であり、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)内証の深秘(じんぴ)の教である」と説き、即身成仏は大日如来の秘密教に限ると強調している。

そして、これを説明するために『六波羅蜜経』を引き、五蔵判(ごぞうはん)を立てる。
すなわち、『六波羅蜜経帰依三宝品』の中に釈尊一代聖教を類別して、

(1) 常に閑寂な所を選んで静慮を修する者には俎多覧蔵(経蔵)
(2) 威儀を習い正法を護持する者には毘奈耶(びなや)蔵(律蔵)
(3) 正法を説き、法相(ほっそう)を分別して研鑽を究尽せんとする者には阿毘達磨蔵(論蔵)
(4) 大乗真実の智慧を願って我・法の二執を離れる者には般若波羅密蔵(慧蔵)
(5) 禅定を修せず善法を持たず威儀を修せず諸の煩悩に覆われた者を憐れみ、彼を速疾頓証させんがためには陀羅尼蔵

を修行するように示された一節を、空海は、法華涅槃等は第四の般若波羅密蔵、真言の三部秘経こそ第五の陀羅尼蔵であると立て、前の四蔵はすべて顕教、後の一蔵が密教であると判じ、これこそ成仏の直道なりとしたのである。

更に、空海は『十住心論』(これを三巻に要約したものを『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』という)を著して諸宗を批判した。
前の『弁顕密二教論』は一切経を横に判じ、この『十住心論』は諸宗を竪に判じたものとされ、空海の二大教判となっている。

『十住心論』は、『大日経十心品』に基づき衆生の心を十種に分類し、これを諸宗に配当して批判、真言宗が最勝至極の宗旨であると主張したものであるが、この中で空海は「『大日経』に比較すれば『法華経』は三重の劣で、第三戯論である。また釈尊というも、無明の辺域にして明の分位にあらず」として、『法華経』並びに釈尊を蔑視している。

また、すでに述べてきたことでも明らかなように、真言宗では即身成仏を表看板に掲げている。
更にこれを強調するために、空海は『即身成仏義』一巻を著し、その中で理具・加持・顕得の三種即身成仏義を立てた。

まず理具成仏とは、理論上、凡夫と仏とは一体不二であり、衆生は本から両部曼荼羅を具有しており、衆生即大日如来であるとする。
次に加持成仏とは、三密、すなわち身密(手に印を結び)・口密(口に真言を唱え)・意密(意に大日如来の悟りを観念する)を実践するところに仏力に加持(感応と類似する意義)せられるとする、いわば成仏の実践。
第三の顕得成仏とは、成仏の実現であり、無量の功徳を開顕して仏身を証得するというものである。

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3.破折

真言宗で依経としている『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等は、もとより釈尊五十年の聖教の中で方等部に属する方便権経である。
そこに説かれる所詮は、会二破二(※1)といって、すでに小乗教で説かれていた声聞・縁覚の二乗を、菩薩界に入るための方便であったとして菩薩界に会入し、菩薩界と比較して二乗は真実ではないと打ち破るところに尽きている。

※1 会二破二  二乗を会(え)し、または二乗を破して一乗に帰着させること。
会二は二乗を会し一乗となすこと。
破二は二乗を破して一乗を顕すこと。
しかし、この一乗とは一仏乗ではなく、三乗の中の菩薩乗をいう。
これは法相宗の慈恩、三論宗の嘉祥などが主張した法華経の解釈である。
しかし、開目抄では、法華経は一切衆生を皆成仏せしむる一仏乗の教えであり、会二破二という菩薩乗に限った教えという解釈は誤りで、後に慈恩、嘉祥も自説の非を悟り、天台に帰伏したとある。
更に撰時抄では大日経等の真言の極理も会二破二の一乗に過ぎず、一仏乗の教えでないことを指摘している。


それ故、声聞・縁覚・菩薩の三乗と相対して一仏乗を示した『華厳経』にも劣り、いわんや、三乗を開いて即座に一仏乗に会入する『法華経』には遠く及ばないのである。

これをもって釈尊は、『法華経』の序文たる『無量義経』に「四十余年には未だ真実を顕さず」(開結88頁)

と説かれ、『法華経』に至っては、

「正直に所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き当に説かん。而もその中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」(開結390頁)

等と説かれて『法華経』の最勝真実を示していのである。

ここに、真言宗所依の『大日経』等は、四十余年の方便権経として捨て去るべきことが明瞭である。

しかるに、こうした批判の矛先をかわし自経の最第一を宣揚するために、真言宗では、『大日経』等は釈尊の所説ではなく法身・大日如来の説である。ゆえに四十余年の経々の中にも、釈尊の已説、今説、当説の中にも入らない」と主張する。

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これこそ真言宗も大きな誑惑であって、後の本尊批判でも詳しく述べるが、もとより大日如来は、現実に出世成道した仏ではなく、単なる理上の法身仏なのである。
『大日経』等が大日如来の説であるというなら、いったい、大日如来はいつの時代に出世成道し、どこで法を説いたのか。
この我々の住む娑婆世界に、現実に出現し、成道し、法を説く仏でなくては、我々衆生には無縁の教主であり、『大日経』等も我々衆生の眼にふれることすらない筈である。

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しかも、空海にいたっては、五蔵判を立てるにあたって、彼等の立義からいけば釈尊の所説である筈の『六波羅蜜経』を典拠とし、更に、この経の中で一代聖教を五種に分類したところの第五番目、陀羅尼蔵こそ『大日経』等であるとしている。
そもそも、彼等が顕教として嫌う釈尊の所説たる『六波羅蜜経』を引くことは、まことに矛盾も甚だしく、しかも『大日経』等は一代聖教中にも含まれないとしながら、一代聖教の陀羅尼蔵を『大日経』等であると立てるあたり、「弘法も筆の誤り」では済まされないほどの自語相違であり、迷乱の極みである。

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また、すでに述べたこととも重複するが、『大日経』には

「仏は菩薩の為に不思議真言相応の法を説いて、一切の声聞や縁覚を其の座にともにせず」

等と会二破二の義が説かれており、このことからしても『大日経』等は、一代聖教中、声聞・縁覚を対機として説かれた方等部に属することが明らかで、四十余年未顕真実の方便経たることは疑いないのである。

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次に、真言宗で、『大日経』と『法華経』とは共に一念三千の理を説くことは同じであるが、印と真言とが説かれる『大日経』の方が実際の功徳において優れるとしている、理同事勝の邪義について批判しておく。

いかに真言宗で「心実相」「我一切本初」の『大日経』の一節を引こうとも、もとより十界互具・一念三千の宝珠は、ただ『法華経』にのみ説くところであって、その現証としての二乗作仏・久遠実成は、『大日経』にも、むろん『金剛頂経』・『蘇悉地経』等にもまったく説かれていない。
それもその筈、中国の善無畏・一行が、天台宗の教義から一念三千の名を盗み取り、自宗の極理と称していたのである。

ゆえに、『法華経』と『大日経』とは理においても雲泥の差があるばかりか、二乗作仏・久遠実成の現証が『法華経』にのみ説かれることにより、事においても『大日経』は遠く『法華経』に及ばない。
このうえ、いかに『大日経』に印・真言が説かれると力んでみたところで、一念三千の説かれぬ『大日経』では、もとより九界即仏界・仏界即九界の義がないので、手に印を結び口に真言を唱えても、真の大功徳・即身成仏は永久にありえぬのである。

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なお、善無畏・一行は『大日経義釈』の中に、一切経はすべて『大日経』の中に摂め入れられているとしているが、これとて『法華経』の開権真実・開三顕一等の開会の法門を盗み取ったもので、『大日経』そのものには根拠がまったくなく、この上ない欺瞞の説といわざるをえない。

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こうした誑惑の邪義を知ってか、知らずか、空海は『弁顕密二教論』を著して、顕劣密勝と立て、『法華経』を顕教と下している。

しかしながら、『大日経』等を密教とし『法華経』を顕教とすることは、いずれの経にも文証のない空海の己義である。
のみならず、仏の金言を明証とすれば、『法華経』こそ一大事の法門を秘蔵した秘密の経なのである。
それは、『法華経法師品』の三説超過の文の次下に、

「薬王、此の経は是れ、諸仏の秘要の蔵なり。・・・・諸仏世尊の、守護したもう所なり。昔より已来、未だ會て顕説せず」(開結390頁)

とあり、『安楽行品』(開結465頁)には、

「文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり」

『寿量品』(開結496頁)には、

「汝等(なんだち)諦(あきらか)に聴け、如来の秘密神通の力を」

『神力品』(開結581頁)には、

「如来の一切の秘要の蔵・・・・・皆此の経において宣示顕説(せんじけんぜつ)す」(開結581頁)

等々とあって、『法華経』こそ仏の内証たる一念三千が秘められた、秘密の経であることが示されている。
ゆえに真言宗で勝手に第三祖と仰いでいる竜樹(竜猛)菩薩も、『大論』の第百巻・第九十品に、

「曰く、法華経を秘密と名づく。二乗作仏あるが故に」

と説いているのである。

しかるを、あくまで『大日経』等こそ密教なりと主張するなら、それは日蓮大聖人が、

「疵・片輪等を隠すは隠密なり、然れば即ち真言を密と云うは隠密なり」(全集144頁)

と批判されたごとく、密教は密教でも、二乗作仏・久遠実成の一大事がないことを隠す、隠密の教というべきである。

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また空海は、『十住心論』の中で、『法華経』は『大日経』より見れば三重の劣であり第三戯論であるとして、法華経を誹謗している。

しかし、彼の依経たる『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等のいずれにも、かかる説はまったく見当たらず、これまた経文を無視した空海の己義に他ならない。
それも、中国の祖である善無畏は『大日経義釈』の中で、一切経を四句に配当し、その第四句・如実知自心を最勝として、これに『法華経』・『大日経』を配している。『大日経』を『法華経』と同列に配することさえ大変な誤謬であるが、空海の立てた、『法華経』を『大日経』より三重に劣するとする説は、彼の祖師たる善無畏の説ともまったく矛盾しているのである。

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そもそも『法華経』が、釈尊出世の本懐・已今当に超過して最勝真実の教えであることは、経文の随所に示されており、これを第三戯論などと謗ることは、まさに、

「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。・・・・其の人命終して阿鼻獄に入らん」(開結240頁)

の重罪にあたるものである。

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以上に述べてきたごとく、真言宗の教義は誑惑と自語相違に満ちたものであるが、その根源はなんといっても真言宗の付法・伝承の次第にあるといってよい。

すなわち釈尊入滅より、唐の玄宗皇帝の時に初めて密教が伝わるまで、実に薬1600年を経過しているわけであるが、この間、大日如来の教えは金剛薩?・竜猛(竜樹)・竜智の三人に伝承されてきたという。しからば、三者共に、人間離れして数百歳の長寿を保ったことにしなくては年代がまったく符合しなくなってしまう。

こうした嘘言(そらごと)の付法の次第を立てるところに、すでに仏の正法が伝わっていよう筈もなく、真言宗も根本的な誑惑が存するのである。

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最後に、真言宗で立てる法身・大日如来につき、若干の批判を加えておく。

そもそも本来、仏とは一身即三身・三身即一身にして、法(ほっ)・報(ぽう)・応(おう)の三身が即一身に具わり、はじめて衆生済度の力用(りきゆう)が生ずるのであって、それを各々別個の法身仏・応身仏等とするならば何の用(はたらき)もありえない。
爾前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面を顕したのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如是が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。

しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。
そもそも大日如来という仏名は、毘盧遮那(法身仏のこと)という梵名を中国で訳した名であるが、法華経の結経たる普賢経に、

「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる」(開結706頁)

と述べられていることからも、法身・大日如来とは、釈尊が説法の必要上から方便をもって用いた一時の名であり、実は三身即応の釈尊の、法身の一面を示していたことが明白なのである。

したがって、真言宗で立てる単なる法身の大日如来は、法華経の三身相即の釈尊より数段劣る仏といわざるをえない。
また、こうした単なる法身仏は理上の仏であって、実際の娑婆世界に、下天・托胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃という八相作仏の相をもって出現する実仏ではないから、我々衆生にとっても無縁の教主なのである。
かかる理仏を立てて実仏と偽り、娑婆世界の教主たる釈尊を押し倒すことは、まさに本末転倒の妄説である。

ことに、空海が『十住心論』に「釈尊は無明の辺域(仏界から遠く離れた迷いの境涯)にして明の分位(明らかな悟りの位)にあらず」等と述べ、また新義真言宗の正覚房が『舎利講(しゃりこう)の式』に「真言の行者にくらべれば、『法華経』の教主釈尊など履物取りにあらず」等と述べて釈尊を蔑如していることは、大謗法の極みというべきである。

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以上、真言宗で法身・大日如来を立てることについて批判してきたが、この他に、彼等が崇める両部曼荼羅なども、『大日経』・『金剛頂経』等には九界即仏界・仏界即九界の十界互具の義がないことから、数百の諸仏諸菩薩が大日如来を中心に融通して具足するという曼荼羅の義が崩壊してしまい、ただ諸尊を図上に並べたてただけの悪戯書きにすぎなくなってしまうのである。

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4.結論

これまで述べてきた邪義によって、真言宗が亡国の悪法たることは明らかである。

なんとなれば、『涅槃経』に、

「我れ処処の中に於いて説いて言わく、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二転輪王あり一世界の中に二仏出世すと云わば、是の処あることなし」

と説かれるごとく、二仏は並出しないのである。
しかるを、真言宗においては、この娑婆世界の教主たる釈尊に対立させて大日如来などという無縁の理仏を立て、あまつさえ本主の側を押し倒している。
これは、日蓮大聖人も、

■「世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる一切経も又かくのごとくや有るらん何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ」(全集294頁)

と仰せのごとく破滅の因であり、かかる転倒の悪法をもって祈る時、亡国・亡家・亡人は必然なのである。

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その現証を挙げれば、

まず中国の善無畏等は、

■ 「されば善無畏三蔵は閻魔王にせめられて鉄(くろがね)の縄七脉(ななずじ)つけられてからくして蘇りたれども又死する時は黒皮隠隠として骨甚だ露焉(あらわる)と申して無間地獄の前相・其の死骨に顕れ給いぬ、人死して後色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教に定むる所なり、金剛智・不空等も又此れをもって知んぬべし」(全集1523頁)

と示されるように、とても普通の臨終ではなかったのである。

ことに善無畏は、自著である『大日経義釈』(※1)の第五に、自らが生前すでに堕地獄の苦の一分を体験したと述べている。
それによれば、意識を失った善無畏が、ふと気付くと閻魔王の前に引き立てられており、鉄縄で縛られ呵責されたが、懺悔の意を表するために『法華経譬喩品』の「今此三界」の偈文(げもん)(※3)を唱えたところ、ようやく赦免された。
そして意識を取り戻してみると、実際に鉄縄の跡が残っており、十日くらい消えなかった(※2)
という。

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※1…36品からなり,第31品までは唐の無行が将来した原本,第32品以下は善無畏が将来した供養次第法で,善無畏が両本を漢訳して合本とした。註疏には,善無畏の本経講義筆録を基本とした一行(いちぎよう)の《大日経疏》20巻と,それを修正した《大日経義釈》14巻があり,前者は東密,後者は台密が依用する。【愛宕 元】。

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※2 閻魔のせめ 
 善無畏が講述し、一行が筆記した
大日経疏巻五に
「阿闍梨(善無畏)の言く、少(わか)かりし時、嘗(かつ)て重病に因(よ)りて、神識を困絶せしに、冥司に往詣して、此の法王(閻魔)を覩たり(中略)因りて放(ゆる)されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に緊持せられし処に、猶(な)お瘡痕あり、旬月にして癒(いえ)たりき」
とある。

 善無畏が閻魔の責めにあったことは、本文で「大日経の疏(しょ)に我とかかれて候」と述べられているように、ほかならぬ善無畏自らが大日経疏巻五のなかで告白していることなのだから、真言宗の側としても否定のしようがない。 

 このことは鎌倉時代、世間にかなり広く知られた話だったらしい。
■「日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり」の御文、及び
下山御消息の■「眼前に閻魔堂の画を見よ」(三六一n)との仰せから推察すると、当時、京都の醍醐寺と鎌倉の閻魔堂には、これを題材とした絵が掲げられていたのではないかと思われる。
 
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※3 ■ 此くの如くいみじき人なれども、一時(あるとき)に頓死(とんし)して有りき。蘇生(よみがえ)りて語りて云はく、我死につる時獄卒(ごくそつ)来たりて鉄の縄七筋(すじ)付け、鉄杖を以て散々にさいなみ、閻魔(えんま)宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許(ばか)り忘れず。題名を思ひしに鉄の縄少しき許(ゆ)りぬ。息続(いきつ)いで高声(こうしょう)に唱へて云はく
今此三界皆是我有(こんしさんがいかいぜがう)、
其中衆生悉是吾子(ごちゅうしゅじょうしつぜごし)、
而今此処多諸患難(にこんししょたしょげんなん)、
唯我一人能為救護(ゆいがいちにんのういくご)
」等云云。
七つの鉄の縄切れ砕け十方に散ず。閻魔(えんま)冠を傾けて南庭に下り向かひ給ひき。今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給ひき。


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また、日本に真言宗を開いた空海の臨終も、空海自身が、天長八年(831年)に上に奉った書に、

● 「悪瘡体に起って吉相根せず」

※ 沙門空海言(もう)す。空海、恩沢に沐せしより、力を竭(つく)して国に報ずること歳月すでに久し。
常に願うらくは蚊虻(ぶんぼう)の力を奮つて、海岳の徳を答せんと。しかるに今、去(いん)し月の尽日(つごもりのひ)、
★ 悪瘡、体(てい)に起こつて、吉相現ぜず。
両楹(両方の柱=両足)夢にあり、三泉(死後世界・黄泉)たちまちに至る。

(弘法大師著作全集 第三巻 山喜房仏書林 374P)


とハッキリ述べていることから、晩年はライ病等の類で苦しんで一生を終えたことがわかる。(所説はあるが)
空海は『秘蔵宝鑰』の中巻に
「法を謗れば必ず阿鼻獄に堕つる」と述べているが、まことに自らの後生を言い当てているかのようである。

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● 更に、かの平清盛は平家の武運長久を真言宗で祈祷し、自らはにわかの熱病で悶絶死、平家一門は壇ノ浦において海の藻屑となって滅亡している。

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● 承久の乱においても、朝廷側は真言宗で鎌倉調伏の祈祷を行ったが、逆に、わずか一日もささえられず、新興勢力であった武家側に打ち破られ、三人の上皇が遠島流罪となったのである。

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このように真言宗の信仰は、小は個人を地獄へ堕とし、大は国家社会を滅ぼす、恐るべき害毒をもたらす邪宗教である。
その本主を打ち倒す転倒の邪義によるものか、代々真言宗の檀家である家庭には
●女系家族が多く、また誑惑の邪義によるものか、
●個人の性格も自ずと誇大妄想・見栄・二枚舌が強いようである。

● 男子早世

★ 念法眞教の教師 実家が真言宗 家系を調べたら、男がほとんど、20代、30代で死んでいる。
それで、真言宗を捨てて念法眞教に入った。

700年前、日蓮大聖人によって邪義の根は絶たれたとはいえ、今日に至るまで、その害毒は色濃く民衆に影を落としているのである。

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伝教大師は真言密教の矛盾を既に見抜いて指摘していたのである。

   依憑天台集序

■ 「天台の伝法は諸家の明鏡なり。
陳隋より以降興唐より已前、人は則ち歴代称して大師と為し、法は則ち諸宗をもって証拠とす。
故に梁肅(りょうしゅく)の云はく、
「(中略)出世の道は大師に非ずんば則ち三乗四教の旨、晦(くら)くして明らかならざる者なり」と。
我が日本の天下は円機已に熟し、円教遂に興らん。
此の間(ごろ)の後生各自宗に執して偏に妙法を破す
(中略)
新来の真言家は則ち筆受の相承を泯(ほろぼ)し
旧到(くとう)の華厳家は則ち影響(ようごう)の軌模(きも)を隠す。」

★ 伝教大師は、この文の通り、天台の教判こそ最高であり、それは当時の中国・日本の仏教界においても確定的定説であったことを記しているのである。
そして真言については

■ 新来の真言家は則ち筆受の相承を泯(ほろぼ)し

つまり、弘法の持ち込んだ後発の新興宗教 真言密教は、そもそも付法・伝持の八祖などデタラメで、虚偽・捏造の誑惑であり、天台大師の一念三千を盗み取って真言密教の教義内へ取り込んでいるだけのもの!と喝破されていたのである。

そもそも、弘法は伝教大師が御存命中には、それほど活躍できていなかった。
それはつまり、伝教大師の存在、つまり天台の教判が厳として存在していたからである。
そして伝教大師の没後、弘法は国家泰平と玉体安穏の加持祈祷を宮中で行なうことを願い出て天皇に取り入り、着々と真言宗の基礎を固めていったのである。
元々、中国でも「真言宗」などという「宗」名は名乗っておらず、弘法に依ってはじめて用いられた宗名なのである。

ではなぜ伝教大師は真言密教の経典とか教説を必要としたのか。
簡単である。
伝教大師は法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えて(四宗相承)、延暦寺は「仏教総合大学」としての性格を持っていた。
そのために、全ての「学部」の基礎的教材・資料は必要であるから、弘法にもその知識を求めたのである。
別に、教義的に屈服して教えを乞うたのではないことは、先ほどの文証で明白である。

世間でも「伝教大師が弘法に屈服して教えを乞うた。」という誤謬が伝播しているかのようにも見えるが、これは、真言系の悪宣伝の故であるので、注意が必要である。


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空海は伝教大師の隙を狙っていたのではないでしょうか。

伝教大師は新参の真言宗に怪しさを感じ、空海の持ち帰った経典を読みたかったようです。
しかし、空海は、当時の高僧を全て論破した伝教大師の力に、読まれると勝てないと恐れていた
と考えています。

空海は伝教大師の入寂を待っていたかのように、法華経誹謗を始めています。


私のブログから−−−−−−
http://ameblo.jp/kitani1/entry-12002231951.html

十界互倶D 修羅界の人 空海

修羅界を復習すると
常に争う心を持ち、本質は諂曲(てんごく:へつらう心や態度)で相手の隙をうかがい、自分が尊大に振る舞える機会を待つ。

空海は虚構が多い。

「夜中に太陽が現れた」
弘法大師の面(おもて:顔)が開いて、大日如来が現れた」
「中国から三鈷を投げたら高野山に」

など、以前にも書いた。

少し、付け足すと、
高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けているとされる。
髪の毛が伸びていた等の伝説がある。
しかし、荼毘(火葬)されたとの古文書が残っている。


このように信じがたい内容が多い。

また、空海の四国遍路も癩病で人前に出られないため、四国へ行っているとしていたとの話も聞いたことがある。

あるいは、真言宗の空海の祈雨伝説を読むと、不思議な事が書かれている。
祈祷を命じられた守敏(空海のライバルの僧)の祈りは17日たっても叶わなかった。
替わった空海が、祈っても七日間雨が降らない。
そこで空海が通力を使って、見てみると守敏が通力を使って、竜神(雨の神様)を封じ込めていた。

これも虚構を感じる。
それだけでなく、守敏を貶める内容になっている。


この祈雨の話は、出典により、日数などいろいろ違うようだ。
日蓮大聖人は、
■「
守敏は七日、空海は二十一日」とされ、「結局、天皇の和歌によって、雨が降った」とされている。
また、「ずっと降らなかった雨も、さらに二十一日以上も雨が降らなければ、自然に雨は降る」とされている。


また、伝教大師が御存命中は、法華経誹謗を取り立てて行っていない。
しかし、伝教大師入寂後、十住心論を書き、法華経誹謗を始めている。
釈尊や天台大師は法華第一、華厳第二とされるが、空海は、大日第一、華厳第二、法華第三とする。根拠も示していない。


空海は極端に己を高く見せようとするしていると感じる。
伝教大師は真言宗の怪しさに気づかれていたと考えている。
そのために、伝教大師は、
真言宗の信望する経典をすべて見ようとされていた。
空海は「伝教大師に経典を見せてはまずい」と見せない。
伝教大師の死去を待っていたかのように、十住心論と書き始める。

私自身が考える修羅界の特徴は、「常に争う心を持つ」だけでなく、「虚構が多い」「チャンス到来までへりくだる」「相手を貶める」等を考えている。

空海は修羅界の心を持つ人物と考えている。
また、現代にも巨大新興宗教の教祖にその姿を見る。

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空海の話は、実は差別問題にぶつかる為に躊躇していたのですが。
それは学会員からも聞いた事ありますし、顕正会の富士に真言宗批判として載っていた記事です。


「弘法(空海)はハンセン氏病(原語病名)にて石室にて一人寂しく亡くなった」と。


>空海のハンセン氏病説は「性霊集補闕抄」

「沙門空海言す。空海、恩沢に沐せしより、力を竭(つく)して国に報ずること歳月すでに久し(中略)然るに、今、去る月の尽日に-悪瘡体に起こって吉相減ぜず」

国の師にならないかと要請を断る時の文のようです。

天皇はそんな悪瘡は自分の祈りで直したらといったようですが。

あと法華講の方のサイト記事にも書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/ashuhokkekoshu/20141028/p2
http://www.e-net.or.jp/user/mblu/ndb/jsk/shingon-01.html 


このサイト記事では日蓮聖人自体が、空海はハンセン氏病にて亡くなったと言われたと書かれています。

自分の意見としてはおそらくデマでは? 
石室やお堂で亡くなるのは断食での即身成仏の為、
体の悪瘡は密教錬金術による水銀中毒か?
断食のため栄養失調症の疥癬症?

と思うのですが。

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高野山伽藍ばなしシリーズ;6

続・三鈷の松の事(飛行三鈷の事)

 以前、三鈷の松について少し述べさせて頂きましたが、こんな話もありますので、紹介してみたいと思います。
 お大師様が明州の浜から投げた三鈷は、現在大塔の建っている地面に落ちたのを、丹生明神がそれを拾い上げて、傍らにあった松の木の枝に懸けた、というのです。
この話は、室町時代前期あたりに書かれた 『日域諸寺私記并諸社』 という書物の中にみられ、その中では、
「左大臣頼長が、奥高野山を参詣された折、奥の院の林賢阿闍梨が、内密にこの話をお話下されたもの」
である、としています。

 ところで、それでは唐の明州の浜から飛来した三鈷杵はどうなったか、といいますと、 『高野山秘記』(明徳四年(1393)) に、

 「故彼三古、中尊大日御祖木御頭之中安置也」  故(もと)の彼の三古、中尊大日御祖木の御頭之中に安置する也

とあり、大塔本尊の中尊大日如来の頭の中に納めた、とあります。

 このことは、 『南山秘口』 『高野山縁起』 にも同様の記事が認められます。
『南山秘口』 ではさらに、この三鈷の複製品を造り、それを法勝寺の五仏中尊の頭の中に納めた、としています。

 別説としては、 『南山要集』 に、 「三鈷令埋給所事」 として、

A「同云。覚成法印曰。大塔之後山令埋之給。仍彼山號三鈷峯云々」 
同く云く。覚成法印曰く。大塔之後の山 之を埋め給わ令む。仍し彼の山を三鈷の峯と號す 云々

このように、三鈷杵を大塔の後ろの山に埋め、そこを三鈷の峯と呼んだ、としています。

また、 『高野山順禮記』 にも、

B「三古ハ御影堂ノ前ノ松ナリ。御社山ニウヅマル。件の山ハ口伝在り。ソノ山ハ三古の峯ト云う。宗長は人に知らす 三古の峯ト云う」

として、三鈷を山に埋めて、そこを三鈷の峯と呼んだ、としています。

 ただ、 『高野山順禮記』 には、

C「改安置所ハ大塔□皆正北有高岡。件岳頂所被埋置也」
改める安置の所ハ大塔の□ 皆正に高岡の北に有り。件の岳の頂に埋め置かれる所也

などとあり、同じ書物でも埋めた場所が違ってきます。

AとCは大塔の北、Bは西。またAとBは三鈷の峯と呼ぶが、Cではなにも触れていない。

などなど、どうにも記述が一定していないので、今いちこの説はアテになりません。

 では実際には三鈷杵はどうなったのかというと、仁海記の 『飛行三鈷記』 に、

「件杵大師授真然。真然安置金剛峯寺中院。中院別当定観授大法師雅真。雅真授仁海。仁海入三衣筥奉持及六十餘年」
件の杵は大師は真然に授く。真然は金剛峯寺中院に安置す。中院別当の定観は大法師雅真に授く。雅真は仁海に授く。仁海は三衣筥に入れ奉持六十餘年に及ぶ

とあるように、弘法大師から真然へ、真然から定観へ、定観から雅真へ、雅真から仁海へ、それぞれ授けられて、金剛峯寺において保管されていたよう
です。

 その飛行三鈷は、寛治二年(1088)に白河上皇が行幸の際に高野山から持ち出され、一時鳥羽の宝蔵に納められていましたが、建長五年(1253)、後鳥羽天皇の皇后であった修明門院の命により、再び高野山に返納され、御影堂に納められました。

 その後は、寛正二年(1461)に足利義政が拝見し、永正十七年(1520)の金堂屋根替落慶、天正十五年(1587)の金堂落慶、慶長二年(1597)の大塔修理落慶、寛永十一年(1634)の高祖八百年忌法会などで、たびたび僧俗の目に触れています。

 そして現在でも、飛行三鈷杵は封印されて、御影堂内々陣に大事に保管されています。

 伝説の物品が、今でも宝物として保管されている、というのは、何ともロマンを感じさせるではありませんか。

「中国から日本まで三鈷杵が飛ぶなんて、そんなバカな」

などと言わずに、伝説のおもしろさと、そのような伝説を生むだけの徳を持ったお大師様の偉大さを胸に、お参りをするのもなかなかオツではないか、と思います。

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 大師伝に云はく「帰朝舟を泛(う)かぶるの日発願(ほつがん)して云はく、我が学ぶ所の教法若(も)し感応(かんのう)の地(ところ)有らば此の三鈷(さんこ)其の処に至るべしと。仍(よ)って日本の方に向かひ三鈷を抛(な)げ上げたまふ。遥かに飛んで雲に入る。十月に帰朝す」と。又云はく「高野山に入定(にゅうじょう)の所を占(し)む。乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」と。

 金剛頂経の疏(しょ)に云はく 慈覚釈 「毘盧遮那(びるしゃな)経に云はく、我昔道場に坐して四魔を降伏(ごうぶく)すと。此を以て知ることを得、毘盧遮那仏不久現証と云ふと雖も、而も成仏以来甚(はなは)だ大いに久遠なることを」と。又云はく「彼の法華久遠の成仏は只(ただ)此の経の毘盧遮那仏なり、異解(いげ)すべからず」と。

 教時義の四に云はく 安然の釈、弘法を破するの文なり 「但し此の文の中に法華を判じて略説と為(な)すことは唯(ただ)理を説けばなり。故に知んぬ、真言教を広説と為すことは、広説とは事理を説けばなり」と。

 秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)の中に云はく「謗人謗法は定めて阿鼻獄に堕して更に出づる期無し。世人此の義を知らず。舌に任せて輙(たやす)く談じ深害を顧(かえり)みず。寧(むし)ろ日夜に十悪・五逆を作るべくも一言一語も人法を謗(そし)るべからず」と。

又云はく「師の曰く、菩薩の用心は慈悲を以て本と為し、利他を以て先と為す。能(よ)く斯(こ)の心に住して浅執を破し深教に入る利益尤(もっと)も広し。若し名利(みょうり)の心を挟(さしはさ)みて浅教に執して深法を破すれば斯の尤(とが)を免(まぬか)れず」と。

 教王経の開題に云はく「金剛頂経及び大日経は、並びに是竜猛(りゅうみょう)菩薩南天の鉄塔の中より誦(じゅ)し出だす所なり」と。
 不空三蔵の要決に云はく「其の大経本は阿闍梨(あじゃり)の云はく、経帙(ちつ)広長にして床(ゆか)の如し。厚さ四五尺、無量の頌(じゅ)有り。南天竺界の鉄塔の中に在り」と。

 付法伝に云はく「鉄塔は是(これ)人功の所造に非ず。如来神力の所造なり」と。

 大日経に云はく「大日遍照尊微塵(みじん)衆生と為りて八相示現を成し、衆生と同じく受苦す」文。(258 日本真言宗事   文応元年  三九歳 )

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■ 真言宗の不空三蔵・含光(がんこう)法師等、師弟共に真言宗をすてヽ天台大師に帰伏する物語に云はく、
高僧伝に云はく
「不空三蔵と親(まのあた)り天竺に遊びたるに、彼(かしこ)に僧有り、問うて曰く、大唐に天台の教迹有り、最も邪正を簡び偏円を暁(あき)らむるに堪へたり。能く之を訳して将(まさ)に此の土に至らしむべきや」等云云。
此の物語は含光が妙楽大師にかたり給ひしなり。
妙楽大師此の物語を聞いて云はく
「豈中国に法を失して之を四維(しい)に求むるに非ずや。
而も此の方識(し)ること有る者少なし。魯人(ろひと)の如きのみ」等云云。
身毒国(けんどくこく)の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば、南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき。
これあに像法の中に法華経の実義顕はれて、南閻浮提(なんえんぶだい)に広宣流布するにあらずや。(撰時抄 849)

■ 不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に値ひ奉りし時、月氏には仏意(ぶっち)をあきらめたる論釈なし。
漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび、偏円をあきらめたる文(ふみ)にては候なれ。
あなかしこ、あなかしこ、月氏へ渡し給へとねんごろにあつら(誂)へし事を、不空の弟子含光(がんこう)といゐし者が妙楽大師にかた(語)れるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。
法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然(けんねん)なり。(報恩抄 1011)
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■ 記の十の末に之を載せたり (大田殿許御書)
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「之を載せたり」とは、このこと、すなわち真言宗が天台宗より劣っていることが記されている、との意。

法華文句記巻十には
★「適(たまたま)、江淮(こうわい)の四十余僧と往きて台山に礼す。
因って不空三蔵の門人・含光(がんこう)の勅を奉じ山に在って修造するを見る。
云く『不空三蔵と天竺に親しく遊ぶ、彼に僧有って問うて曰く
大唐に天台の教迹(きょうしゃく)有り、最も邪正(じゃしょう)を簡(えら)び偏円を暁(あきら)むるに湛(た)えたりと。
能(よ)く之を訳して将(まさ)に此の土に至らしむ可(べ)けんや≠ニ』、
豈(あに)、中国に法を失い之を四維(しい)に求むるに非ずや。
而も此の方に識(し)ること有る者は少なし、魯人(ろひと)の如きのみ。
故に、徳に厚く道に向かう者は之を仰がざる莫(な)かれ。
敬(つつし)んで願(ねがわ)くは学者・行者は力に随って称讃せよ
」    とある。

 この文は、不空の門人・含光が台山(五台山)で修行中に妙楽大師と会見した。
その折に含光が、妙楽大師の問いに応じて、西域における仏法弘伝の様子を語った。
それによると「(不空と含光が)天竺(インド)を訪問した折、ある天竺の僧が、大唐(中国)には仏法の正邪と偏円を正しく判別した天台大師の教迹(論釈)があるから、それを翻訳して此の土(インド)に伝えてほしい」と頼んだ、という。
この含光の話を受けて妙楽大師は、唐の時代においては中国(仏教発祥の中心地・インド)では既に仏教が廃(すた)れ、そのために逆に四維(天地の四隅の意。ここでは唐代の中国)に求めようとしていたのである、と記しているのである。
 この含光の話は、含光及び不空が天台大師の法門が、真言宗より勝れていることをわきまえていたことを意味する。

同趣旨の文は宋高僧伝巻二十七にも
「代宗(だいそう)の光(こう)を重んずるや、不空を見るが如くし、勅委して五台山に往きて功徳を修せしむ。
時に天台の宗学湛然(たんねん)、禅観を解了(げりょう)して、深く智者の膏腴(こうゆ)を得。
嘗(か)つて江淮(こうわい)の僧四十余人と、清涼(しょうりょう)の境界(きょうがい)に入る、
湛然、光と相まみえ、西域伝法の事を問う。
光の云う、一の国の僧あり、空宗を体解すと。
問うて智者の教法に及ぶ。
梵僧云う、曾つて聞く、此の教、邪正を定め、偏円を暁(さと)り、止観を明らかにすと。功第一と推(お)す。
再三光に嘱して、或は因縁重ねて至らば為(ため)に唐を翻じて梵と為して附来せよ。
某(それがし)、願くば受持せんと。
しばしば手を握って叮嘱(ていしょく)す。
詳(つまびらか)にするに、その南印土、多く竜樹の宗見を行う。故にこの願有って流布するなり」
  とある。

 なお、含光は、唐代の真言僧で、生没年は不明である。
不空の嗣法六大弟子の一人で、出身は明らかではないが、開元年間(七一三年〜七四一年)に不空の弟子となり、師に従って西域地方を回(めぐ)り、後、獅子国(スリランカ)へ行き、尊賢阿闍梨から真言五部の灌頂を受けた。
唐に帰って大興善寺に住み、不空の訳経を助けた人物である。

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■ 伝教大師・依憑集を造つて之を集む

 依憑集は詳しくは、大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集という。
そのなかで伝教大師は
★「天竺の名僧大唐の天台の教迹最も邪正を簡(えら)ぶに湛(た)えたりと聞き、渇仰訪問の縁」  
と題して、法華文句記巻十の末の文を引用している。
また、
★「大唐南岳の真言宗の沙門一行(いちぎょう)、天台の三徳に同じて、数息(すそく)、三諦の義」
と題した文では、真言宗の一行が天台の三徳に同じた義を述べているが、中国真言宗の開祖であり、日本の台密・東密両方の淵源である善無畏三蔵自身、一行を唆(そそのか)して「理同事勝」の義を展開させたのは、真言宗の義そのままでは天台宗に適(かな)わないことを知っていたからにほかならない。

出典『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

             大田殿許御書(天台真言勝劣事)―了―

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弘法大師の伝に云はく「帰朝泛舟(きちょうはんしゅう)の日発願(ほつがん)して云はく、我が所学の教法若(も)し感応(かんのう)の地有らば、此の三鈷(さんこ)其の処に到るべしと。仍(よ)って日本の方に向かって三鈷を抛(な)げ上ぐるに遥(はる)かに飛んで雲に入る。十月に帰朝す」云云。又云はく「高野山(こうやさん)の下に入定(にゅうじょう)の所を占(し)む。乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云。(報恩抄 1025)

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 弘法は 『弁顕密二教論』 のなかで
▼「仏五味を以って五蔵に配当して、総持をば醍醐と称し、四味をば四蔵に譬えたまえり。
振旦の人師等醍醐を争い盗んで各自宗に名づく
と述べて、天台大師が五時八教の教判を立て、五時を五味にたとえて、法華・涅槃時を醍醐味であるとしたことを、真言から盗み取ったとけなしている。

 弘法は、六波羅蜜経に
★「所謂八万四千の諸の妙法蘊なり(中略)摂して五分と為す。一には素咀纜(そたらん)、二には毘奈耶(びなや)、三には阿毘達磨(あびだつま)、四には般若波羅蜜、五には陀羅尼門となり、此の五種の蔵をもって有情を教化す(中略)此の五の法蔵譬えれば乳・酪・生酥・熟酥および妙なる醍醐のごとし(中略)総持門とは譬えば醍醐のごとし。
醍醐の味は乳・酪・酥の中に微妙第一にして、能く諸の病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ」

とあるように、総持門(陀羅尼門)すなわち真言密教こそ醍醐味であり、天台大師が法華経を醍醐味としたのはこの六波羅蜜の教判を盗んだものと誹謗しているのである。

 天台大師は、涅槃経に
★「善男子、譬えば牛従(よ)り乳を出し、乳従り酪を出し、酪従り生酥を出し、生酥従り熟酥を出し、熟酥従り醍醐を出す。醍醐は最上なり……善男子、仏もまたかくのごとし。仏従り十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅従り方等経を出し、方等経従り般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜従り大涅槃を出す。なお醍醐のごとし、醍醐というは仏性に喩(たと)う」
とある文によって、法華経信解品第四等に説かれている五時の次第を証明し、五時を五味にたとえ、五時八教の教判を打ち立てたのである。

 しかも、六波羅蜜経がインドから中国に渡ったのは唐代の貞元四年(七八八年)であり、般若三蔵が漢訳したことによる。
一方、天台大師が摩訶止観を説いたのが隋の開皇十四年(五九四年)であり、入滅したのが同十七年(五九七年)なのである。

 真言見聞に
■ 「震旦の人師争つて醍醐を盗むと云う年紀何ぞ相違するや、其の故は開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰(ぼしん)の歳に至るまで百九十二年なり何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給う可きや顕然の違目なり、
若し爾(しか)れば「謗人謗法定堕阿鼻獄(じょうだあびごく)」というは自責なるや」(一四八n)

と仰せのように、天台大師が在世の頃にはまだ中国に存在しなかった六波羅蜜経の文を盗むことは絶対に不可能であり、したがって天台大師を盗人と決めつけている弘法の批判はおよそ道理を無視した非難という以外にない。

 また、開目抄には
■「六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何(いか)に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず何に況や法華経の迹門・本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり、第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばずいかにし給いけるやらん」(二二二n)
と破されている。

 すなわち、六波羅蜜経で醍醐味としている総持門(真言密教)の内容は、有情・非情にわたる真の成仏も説かれず、久遠実成も明かされていないので、涅槃経にも及ばず、まして法華経とは比べものにならない低い教えなのである。
にもかかわらず、弘法が法華経を密教の醍醐味に劣る第四の熟蘇味であると下していることは、全くの誤りであるということである。

 また、撰時抄には
■「法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか」(二七八n)と仰せである。

 このように、法華経を醍醐味とすることが仏の正意なのであり、それに背いて密教を醍醐味と立てた弘法の邪義を信ずるならば、堕地獄の因となるのである。

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弘法大師の自筆に云はく「弘仁九年の春、疫(えき)れい(癘)をいの(祈)りてありしかば、夜中に日いでたり」云云。かヽるそらごと(妄語)をいう人なり。此の事は日蓮が門家第一の秘事なり。本文をとりつめ(取詰)ていうべし。(三三蔵祈雨事 建治元年六月二二日  五四歳 875)


↑ 成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に、日輪夜中に出でしという事なし。(1024)

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↑▼「弘仁(こうにん)九年の春天下大疫」等云云。

春は九十日、何(いず)れの月何れの日ぞ、是一。
又弘仁九年には大疫ありけるか、是二。

又▼「夜変じて日光赫々(かくかく)たり」云云。
此の事第一の大事なり。
弘仁九年は嵯峨(さが)天皇の御宇(ぎょう)なり。左史右史の記に載(の)せたりや、是三。
設ひ載せたりとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間にいまだ無き天変(てんぺん)なり。
夜中に日輪の出現せる事如何。又如来一代の聖教にもみへず。未来に夜中に日輪出づべしとは三皇五帝の三墳(さんぷん)五典にも載せず。仏経のごときんば減劫にこそ二つの日三つの日乃至七つの日は出づべしとは見ゆれども、かれは昼のことぞかし。
夜(よる)日(ひ)出現せば東西北の三方は如何。
設ひ内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春、何(いず)れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に日出づるという。
公家(くげ)・諸家・叡山等の日記あるならばすこし信ずるへんもや。

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次下(つぎしも)に
「昔、予、鷲峰(じゅぶ)説法の筵(むしろ)に陪(ばい)して、親しく其の深文を聞く」等云云。
此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か。
されば霊山にして法華は戯論、大日経は真実と仏の説き給ひけるを、阿難(あなん)・文殊(もんじゅ)が誤りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。
いうにかいなき婬女(いんにょ)・破戒の法師等が歌をよみて雨(ふ)らす雨を、三七日まで下(ふ)らさヾりし人は、かヽる徳あるべしや、是四。(1026)


↑ そもそも、「大日如来こそ真の仏で密教であり、釈尊が説くことは顕教であるから密教に劣る。」と下している釈尊から直接教法を聞いた。と自慢しても、特段尊くはないでのはないか?

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1027

孔雀(くじゃく)経の音義に云はく
「大師智拳(ちけん)の印を結んで南方に向かふに、面門俄(にわ)かに開いて金色の毘盧遮那(びるしゃな)と成る」等云云。
此又何れの王、何れの年時ぞ。
漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして緇素(しそ)の日記、大事には必ず年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。


又次に云はく
▼「三論の道昌(どうしょう)・法相の源仁(げんにん)・華厳の道雄(どうおう)・天台の円澄」等云云。
抑(そもそも)円澄は寂光大師、天台第二の座主なり。其の時何ぞ第一の座主(ざす)義真、根本の伝教大師をば召さヾりけるや。
円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり。
弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか。

而も此の日記に云はく
「真言瑜伽(ゆが)の宗、秘密曼荼羅道(ひみつまんだらのみち)彼の時より建立しぬ」等云云。
此の筆は伝教・義真の御存生(ぞんしょう)かとみゆ。
弘法は平城(へいぜい)天皇大同二年より弘仁十三年までは盛んに真言をひろめし人なり。
其の時は此の二人現にをはします。
又義真は天長十年までおはせしかば、其の時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。
かたがた不審あり。

孔雀経の疏(しょ)は弘法の弟子真済(しんぜい)が自記なり、信じがたし。
又邪見の者が公家・諸家・円澄の記をひ(引)かるべきか。
又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。

▼「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。

面門とは口なり、口の開けたりけるか。
眉間(みけん)開くとか(書)ヽんとしけるが誤りて面門とかけるか。
ぼう(謀)書をつくるゆへにかヽるあやまりあるか。


「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。

涅槃経の五に云はく
■「迦葉、仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊我今是の四種の人に依らず。何を以ての故に、瞿師羅(くしら)経の中の如き、仏(ほとけ)瞿師羅が為に説きたまはく、若(も)し天・魔・梵・破壊(はえ)せんと欲するが為に変じて仏の像となり、三十二相八十種好(しゅごう)を具足し荘厳(しょうごん)し、円光一尋(じん)面部円満なること猶月の盛明(じょうみょう)なるがごとく、眉間の毫相(ごうそう)白きこと珂雪(かせつ)に踰(こ)え、乃至左の脇より水を出だし右の脇より火を出だす」等云云。

又六の巻に云はく
■「仏迦葉(かしょう)に告げたまはく、我般涅槃(はつねはん)して乃至後是の魔波旬(まはじゅん)漸(ようや)く当(まさ)に我が之の正法を沮壊(そえ)すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り、魔王此の有漏(うろ)の形を以て無漏(むろ)の身と作り我が正法を壊らん」等云云。

弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論(けろん)等云云。
而も仏身を現ず。
此涅槃経には魔、有漏の形をもって仏となって、我が正法をやぶらんと記し給ふ。
涅槃経の正法は法華経なり。
故に経の次下の文に云はく「久しく已に成仏す」と。
又云はく「法華の中の如し」等云云。
釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。
弘法大師は仏身を現じて、華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。
仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。

又三鈷(さんこ)の事殊(こと)に不審なり。
漢土の人の日本に来たりてほ(掘)りいだすとも信じがたし。
已前に人をやつか(遣)わしてうづ(埋)みけん。
いわうや弘法は日本の人、かヽる誑乱(おうらん)其の数多し。
此等をもって仏意に叶ふ人の証拠とはしりがたし。


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真言宗と申すは上の二つのわざわひにはに(似)るべくもなき大僻見なり。
あらあら此を申すべし、
所謂大唐の玄宗(げんそう)皇帝の御宇に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっじ)経を月支よりわたす。
此の三経の説相分明なり。
其の極理を尋ぬれば会二破二(えにはに)の一乗、其の相を論ずれば印と真言と計りなり。
尚華厳・般若の三一相対の一乗にも及ばず、天台宗の爾前の別円程(ほど)もなし。
但蔵通二教を面とす。
而るを善無畏三蔵をも(思)わく、
「此の経文を顕わにい(言)ゐ出だす程ならば、華厳・法相にもをこ(烏滸)づかれ、天台宗にもわらわれなん。
大事として月支よりは持ち来たりぬ。
さてもだ(黙止)せば本意にあらずとや」をも(思)ひけん。
天台宗の中に一行禅師という僻人(びゃくにん)一人あり。
これをかた(語)らひて漢土の法門をかた(語)らせけり。
一行阿闍梨うちぬかれて、三論・法相・華厳等をあらあらかたるのみならず、天台宗の立てられけるやうを申しければ、善無畏(ぜんむい)をもはく、
天台宗は天竺にして聞きしにもなを(猶)うちすぐ(勝)れて、かさ(累)むべきやうもなかりければ、善無畏は一行をうちぬひて云はく、
「和僧は漢土にはこざかしき者にてありけり。天台宗は神妙の宗なり。
今真言宗の天台宗にかさむところは印と真言と計りなり」
といゐければ、一行さもやとをも(思)ひければ、善無畏三蔵一行にかた(語)て云はく、
「天台大師の法華経に疏(しょ)をつくらせ給へるごとく、大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをも(思)う。
汝か(書)きなんや」
とい(言)ゐければ、一行が云はく、
「やすう候。但しいかやうにか(書)き候べきぞ。天台宗はにくき宗なり。
諸宗は我も我もとあらそいをなせども一切に叶はざる事一つあり。
所謂法華経の序分に無量義経と申す経をもって、前四十余年の経々をば其の門を打ちふさぎ候ひぬ。
法華経の法師品・神力品をもって後の経々をば又ふせがせぬ。
肩をならぶ経々をば今説の文をもってせめ候。
大日経をば三説の中にはいづくにかを(置)き候べき」
と問ひければ、爾の時に善無畏三蔵大いに巧(たくら)んで云はく、
「大日経に住心品という品あり。無量義経の四十余年の経々を打ちはら(払)うがごとし。
大日経の入曼陀羅(にゅうまんだら)已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし。
釈迦仏は舎利弗・弥勒に向かって大日経を法華経となづけて、印と真言とをすてヽ但(ただ)理計りをと(説)けるを、羅什三蔵此(これ)をわたす。
天台大師此を見る。
大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩・(こんごうさった)に向かってとかせ給ふ。
此を大日経となづく。
我まのあた(親)り天竺にしてこれを見る。
されば汝がか(書)くべきやうは、大日経と法華経とをば水と乳とのやふ(様)に一味となすべし。
もししからば大日経は已今当の三説をば皆法華経のごとくうちをとすべし。
さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし。
三密相応する程ならば天台宗は意密(いみつ)なり。
真言は甲(こう)なる将軍の甲鎧(よろい)を帯(たい)して弓箭(ゆみや)を横たへ太刀(たち)を腰にはけるがごとし。
天台宗は意密計りなれば甲なる将軍の赤裸(あかはだか)なるがごとくならん」
とい(言)ゐければ、一行阿闍梨は此のやうにか(書)きけり。
漢土三百六十箇国には此の事を知る人なかりけるかのあひだ、始めには勝劣を諍論(じょうろん)しけれども、善無畏等は人がらは重し、天台宗の人々は軽かりけり。
又天台大師ほどの智ある者もなかりければ、但日々に真言宗になりてさてやみにけり。
年ひさしくなればいよいよ真言の誑惑(おうわく)の根ふかくかくれて候ひけり。

日本国の伝教大師漢土にわたりて、天台宗をわたし給ひしついでに、真言宗をならべわたす。
天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。
但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給ふ。
入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論か計りなかりけるかのあいだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼ(思)しめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。
弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず。
但し依憑(えひょう)集と申す一巻の秘書あり。
七宗の人々の天台に落ちたるやうをかヽれて候文(ふみ)なり。
かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。

 弘法大師は同じき延暦(えんりゃく)年中に御入唐、青竜寺の恵果(けいか)に値ひ給ひて真言宗をならわせ給へり。
御帰朝の後一代の勝劣を判じ給ひけるには、第一真言・第二華厳・第三法華とか(書)ヽれて候。
此の大師は世間の人々はもってのほかに重んずる人なり。
但し仏法の事は申すにをそ(恐)れあれども、もってのほかにあら(荒)き事どもはんべり。
此の事をあらあらかんがへたるに、漢土にわたらせ給ひては、但真言の事相の印・真言計り習ひつたえて、其の義理をばくはしくもさば(捌)くらせ給はざりけるほどに、日本にわたりて後、大いに世間を見れば天台宗もってのほかにかさ(嵩)みたりければ、我が重んずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに、本(もと)日本国にして習ひたりし華厳宗をとりいだして法華経にまされるよしを申しけり。
それも常の華厳宗に申すやうに申すならば人信ずまじとやをぼしめしけん。
すこしいろをかえて、此は大日経、竜猛(りゅうみょう)菩薩の菩提心論(ぼだいしんろん)、善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども、天台宗の人々いたうとがめ申す事なし。

問うて云はく、弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)・二教論に云はく
▼「此くの如き乗々自乗に名を得れども後に望めば戯論(けろん)と作す」と。
又云はく
▼「無明の辺域(へんいき)にして明の分位に非ず」と。
又云はく
▼「第四熟蘇味(じゅくそみ)なり」と。
又云はく
▼「震旦(しんだん)の人師等諍(あらそ)って醍醐(だいご)を盗みて各(おのおの)自宗に名づく」等云云。
此等の釈の心如何。

答へて云はく、予此の釈にをどろひて一切経並びに大日の三部経等をひらきみるに、
▼華厳経と大日経とに対すれば法華経は戯論、
▼六波羅蜜(ろくはらみつ)経に対すれば盗人、
▼守護経に対すれば無明の辺域
と申す経文は一字一句も候わず。
此の事はいとはかなき事なれども、此の三四百余年に日本国のそこばくの智者どもの用ひさせ給へば、定んでゆへあるかとをも(思)ひぬべし。
しばらくいとやす(易)きひが(僻)事をあげて余事のはかなき事をしらすべし。
法華経を醍醐味と称することは陳隋(ちんずい)の代なり。
六波羅蜜経は唐の半(なか)ばに般若三蔵此(これ)をわたす。
六波羅蜜経の醍醐は陳隋の世にはわたりてあらばこそ、天台大師は真言の醍醐をば盗ませ給わめ。
傍例(ぼうれい)あり。
日本の得一(とくいち)が云はく、
▼「天台大師は深密(じんみつ)経の三時教をやぶる、三寸の舌をもって五尺の身をたつ(断)べし」
とのヽしりしを、伝教大師此をたヾして云はく、
●「深密経は唐の始め、玄奘三蔵これをわたす。天台は陳隋の人、智者御入滅の後、数箇年あって深密経わたれり。
死して已後にわたれる経をばいかでか破し給ふべき」
とせめさせ給ひて候ひしかば、得一はつまるのみならず、舌八つにさけて死し候ひぬ。

これは彼にはにるべくもなき悪口なり。
華厳の法蔵・三論の嘉祥(かじょう)・法相の玄奘・天台等乃至南北の諸師、後漢より已下の三蔵人師を皆を(押)さえて盗人とか(書)ヽれて候なり。
其の上、又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず。
仏涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給ひ、天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかヽれて候。
竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給ふ。
されば法華経等を醍醐と申す人盗人ならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか。
弘法の門人(もんじん)等乃至日本の東寺の真言師は如何。
自眼(じげん)の黒白はつたなくして弁へずとも、他の鏡をもって自禍(じか)をし(知)れ。

此の外法華経を戯論(けろん)の法とか(書)ヽるヽこと、大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ。
設ひ彼々の経々に法華経を戯論ととかれたりとも、訳者の誤(あやま)る事もあるぞかし。よくよく思慮(しりょ)のあるべかりけるか。
孔子は九思(し)一言(げん)、周公旦(しゅうこうたん)は沐(ゆあみ)には三(みたび)にぎり、食(しょく)には三(みたび)はかれけり。
外書のはかなき世間の浅き事を習ふ人すら智人はかう候ぞかし。いかにかヽるあさましき事はありけるやらん。

 かヽる僻見の末へなれば彼の伝法院(でんぽういん)の本願とがう(号)する聖覚房(しょうがくぼう)が舎利講(しゃりこう)の式に云はく
▼「尊高なる者は不二摩訶衍(まかえん)の仏なり。驢牛(ろご)の三身は車を扶(たす)くること能はず。
秘奥(ひおう)なる者は両部曼陀羅(まんだら)の教なり。顕乗の四法は履(はきもの)を採るに堪(た)へず」云云。
顕乗(けんじょう)の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛(ろご)の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼ひ、履物取者(はきものとり)にもた(足)らぬ程の事なりとかいて候。

 彼の月氏の大慢婆羅門(だいまんばらもん)は生知の博学、顕密二道胸にうかべ、内外の典籍掌(たなごころ)ににぎる。
されば王臣頭をかたぶけ、万民師範と仰ぐ。
あまりの慢心に、▼「世間に尊崇する者は大自在天・婆藪天(ばそてん)・那羅延天(ならえんてん)・大覚世尊、此の四聖なり、我が座の四足にせん」と、座の足につくりて坐して法門を申しけり。
当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて灌頂(かんじょう)する時敷(しき)まんだらとするがごとし。
禅宗の法師等が云はく、此の宗は仏の頂(いただき)をふむ大法なりというがごとし。

而るを賢愛論師と申せし小僧あり。
彼をたヾすべきよし申せしかども、王臣万民これをもちゐず。
結句は大慢が弟子等・檀那等に申しつけて、無量の妄語をかまへて悪口打擲(あっくちょうちゃく)せしかども、すこしも命もを(惜)しまずのヽしりしかば、帝王賢愛をにくみてつ(詰)めさせんとし給ひしほどに、かへりて大慢がせめられたりしかば、大王天(てん)に仰ぎ地に伏してなげいての給はく、
「朕(ちん)はまのあたり此の事をき(聞)ひて邪見をはらしぬ。
先王はいかに此の者にたぼらかされて阿鼻地獄にをはすらん」
と、賢愛論師の御足にとりつきて悲涙(ひるい)せさせ給ひしかば、賢愛の御計らひとして大慢を驢(うま)にのせて五竺に面(おもて)をさらし給ひければ、いよいよ悪心盛んになりて現身に無間地獄に堕ちぬ。

今の世の真言と禅宗等とは此にかわれりや。
漢土の三階禅師云はく、
「教主釈尊の法華経は第一第二階の正像の法門なり。
末代のためには我がつくれる普経(ふきょう)なり。
法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄(あびごく)に堕つべし。
末法の根機にあたらざるゆへなり」
と申して、六時の礼懺(らいさん)四時の坐禅(ざぜん)、生身の仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかども、わづかの小女の法華経をよみしにせめられて、当坐には音(こえ)を失ひ後には大蛇になりて、そこばくの檀那(だんな)弟子並びに小女処女等をのみ食らひしなり。
今の善導・法然等が千中無一の悪義もこれにて候なり。

此等の三つの大事はすでに久しくなり候へば、いやしむべきにはあらねども、申さば信ずる人もやありなん。
これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり。

慈覚大師(じかくだいし)は伝教大師の第三の御弟子なり。
しかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝れてをはします人なりとをも(思)えり。
此の人真言宗と法華宗の奥義を極めさせ給ひて候が、▼「真言は法華経に勝れたり」とかヽせ給へり。
而るを叡山三千人の大衆、日本一州の学者等一同帰伏の宗義なり。
弘法の門人等は大師の▼「法華経を華厳経に劣る」とか(書)ヽせ給へるは、我がかた(方)ながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもってをも(思)うに、真言宗の法華経に勝れたることは一定なり。
日本国にして真言宗を法華経に勝ると立つるをば叡山こそ強(こわ)がたきなりぬべかりつるに、慈覚をもって三千人の口をふさぎなば真言宗はをも(思)うごとし。
されば東寺第一のかたうど(方人)、慈覚大師にはすぐべからず。
例せば浄土宗・禅宗は余国にてはひろまるとも、日本国にしては延暦寺のゆるされなからんには無辺劫(むへんごう)はふ(経)とも叶ふまじかりしを、安然(あんねん)和尚と申す叡山第一の古徳(ことく)、教時諍論(きょうじじょうろん)と申す文に九宗の勝劣を立てられたるに、第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗等云云。
此の大謬釈(みょうしゃく)につひて禅宗は日本国に充満して、すでに亡国とならんとはするなり。
法然が念仏宗のはやりて一国を失はんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり。
師子の身の中の虫の師子を食(く)らふと、仏の記し給ふはまことなるかなや。

 伝教大師は日本国にして十五年が間、天台真言等を自見(じけん)せさせ給ふ。
生知(しょうち)の妙悟(みょうご)にて師なくしてさとらせ給ひしかども、世間の不審をはらさんがために、漢土に亘(わた)りて天台真言の二宗を伝へ給ひし時、彼の土の人々はやうやうの義ありしかども、我が心には法華は真言にすぐれたりとをぼしめしヽゆへに、真言宗の宗の名字をば削(けず)らせ給ひて、天台宗の止観真言等かヽせ給ふ。
十二年の年分得度(ねんぶんとくど)の者二人ををかせ給ひ、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し、永代日本国の第一の重宝神璽(しんじ)・宝剣(ほうけん)・内侍所(ないしどころ)とあがめさせ給ひき。

叡山第一の座主義真(ぎしん)和尚・第二の座主円澄(えんちょう)大師までは此の義相違なし。
第三の慈覚大師御入唐、漢土にわたりて十年が間、顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう。
又天台宗の人々広修(こうしゅ)・維_(ゆいけん)等にならわせ給ひしかども、心の内にをぼ(思)しけるは、
▼「真言宗は天台宗には勝れたりけり、我が師伝教大師はいまだ此の事をばくは(詳)しく習はせ給はざりけり、
漢土に久しくもわたらせ給はざりける故に、此の法門はあらうちにみ(見)をはしけるや」
とをぼ(思)して、日本国に帰朝し、叡山の東塔止観院の西に総持院(そうじいん)と申す大講堂を立て、御本尊は金剛界(こんごうかい)の大日如来、此の御前にして大日経の善無畏の疏を本として、金剛頂(こんごうちょう)経の疏七巻・蘇悉地(そしっじ)経の疏七巻已上十四巻をつくる。

此の疏の肝心の釈に云はく
▼「教に二種有り。一は顕示教、謂はく三乗教なり。世俗と勝義と未だ円融(えんゆう)せざる故に。
二は秘密教、謂はく一乗教なり。世俗と勝義と一体にして融する故に。
秘密教の中に亦二種有り。
一には理秘密教(りひみっきょう)、諸の華厳・般若・維摩(ゆいま)・法華・涅槃等なり。
但世俗と勝義との不二を説いて未だ真言密印の事を説かざる故に。
二には事理倶密(じりぐみつ)教、謂はく大日経・金剛頂経・蘇悉地経等なり。
亦世俗と勝義との不二を説き亦真言密印の事を説く故に」等云云。

釈の心は
▼「法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給ふに、真言の三部経と法華経とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり。
しかれども密印と真言等の事法は法華経か(欠)けてをは(在)せず。
法華経は理秘密、真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥(てんちうんでい)なり」
とかヽれたり。
しかも▼「此の筆は私の釈にはあらず。善無畏三蔵の大日経の疏の心なり」とをぼせども、なをなを二宗の勝劣不審にやありけん、はた又他人の疑ひをさん(散)ぜんとやをぼしけん。
大師慈覚なりの伝に云はく「大師二経の疏を造り、功を成し已畢(おわ)って心中に独り謂(おも)へらく、此の疏、仏意に通ずるや否や。
若し仏意に通ぜざれば世に流伝(るでん)せじ。
仍(よ)って仏像の前に安置し七日七夜深誠を翹企(ぎょうき)し祈請(きしょう)を勤修(ごんしゅ)す。
五日の五更(ごこう)に至って夢みらく、正午に当たって日輪を仰ぎ見(み)、弓を以て之を射(い)る。
其の箭(や)日輪に当たって日輪即ち転動す。
夢覚めての後深く仏意に通達せりと悟り、後世に伝ふべしと」等云云。

慈覚大師は本朝にしては伝教・弘法の両家を習ひきわめ、異朝にしては八大徳並びに南天の宝月三蔵(ほうげつさんぞう)等に十年が間最大事の秘法をきわめさせ給へる上、二経の疏をつくり了(おわ)り、重ねて本尊に祈請をなすに、智慧の矢すでに中道の日輪にあたりてうちをどろかせ給ひ、歓喜のあまりに仁明(にんみょう)天王に宣旨(せんじ)を申しそへさせ給ひ、天台の座主を真言の官主となし、真言の鎮護(ちんご)国家の三部とて今に四百余年が間、碩学(せきがく)稲麻(とうま)のごとし渇仰(かつごう)竹葦(ちくい)に同じ。
されば桓武・伝教等の日本国建立の寺塔は一宇(いちう)もなく真言の寺となりぬ。
公家も武家も一同に真言師を召(め)して師匠とあをぎ、官をなし寺をあづけた(給)ぶ。
仏事の木画(もくえ)の開眼供養(かいげんくよう)は八宗一同に大日仏眼の印真言なり。

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付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作『秘密曼荼羅教付法伝』『真言付法伝』で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。

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引用

・真言宗八祖について
 レポート課題 「真言八祖(付法・伝持)の一々についての解説」
         北尾隆信 前期レポ  

真言宗付法の八祖は、
大日如来、
金剛薩?、
龍猛菩薩、
龍智菩薩、
金剛智三蔵、
不空三蔵、
慧可阿闍梨、
弘法大師

を称するが、

善無畏三蔵、
一行阿闍梨

も密教を伝持せられたので、

伝持の八祖 という時には、
龍猛菩薩、
龍智菩薩、
金剛智三蔵、
不空三蔵、
善無畏三蔵、
一行阿闍梨、
慧可阿闍梨、
弘法大師

の八祖が挙げられる。

尚此の祖師の系統については、東密、台密にわたって幾多の異説もあり 「玉印鈔」 等に詳しいが、今は特に触れずに以上の十祖師について大略解説する。
まずその一々について出自国、出生、示寂 寿齢について、一覧してみる。

・大日如来 

・金剛薩? 

・龍猛菩薩
印度 西暦二ー三世紀 三百歳 (付法伝)

・龍智菩薩
印度 西暦八世紀前後 七百歳 (貞元録)・金剛智三蔵
印度 西暦六七一ー七四一 七一歳

・不空三蔵
印度 西暦七〇五ー七七四 七十歳

・善無畏三蔵
印度 西暦六三七ー七三五 九十九歳

・一行阿闍梨
中国 西暦六八三ー七二七 四十五歳

・慧果阿闍梨
中国 西暦七四六ー八〇五 六十歳

・弘法大師
日本 西暦七七四ー八三五 六十二歳


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一、大日如来について

名はよく体を表すという(名詮自性)。
大日如来の名は摩訶(maha)毘盧遮那(vairocanaの音写)如来のことである。
直訳すれば摩訶は大、多、勝、など、毘は普遍,広博、高顕など、盧遮那は光明、美麗、与楽などの義であるから、従って大遍照如来とも訳される。
また遍く照らすものは日であるから大日と義訳したものである。

又毘盧遮那とも盧遮那ともいう奈良の大仏で有名な華厳経、梵網経で説かれる教主と原語が同じであることについて、思想的には、ほぼ同義であるが華厳の教主、盧遮那仏から更に発達した形態の宇宙の真理そのものを現すとされる密教の絶対的中心の本尊の意である。
その智慧の光明は昼夜方位方角に別なく、遍く一切の処におよび、慈悲の活動が活発で不滅永遠であるところから特に大を加えて大日と称されている。

大日経疏で、大日の日ということについて除闇遍明と衆務成弁と光無生滅という三つの意義を述べている。
除闇遍明は文字通り闇黒を除いて光明を遍くするの意であり、衆無成弁は日光の力で万物が生長することである。
光無生滅は日が雲に蔽われても滅するわけではないことの意である。

このように大日如来は宇宙の実相を法身として捉えたもので、凡ての諸仏諸菩薩などもこの如来より出生(流出)し、凡ての働きもこの如来の徳の顕現とされている。

この大日如来を「理平等」の方から大日経で説かれたものが、胎蔵界の「理法身」大日如来であり、金剛経頂経で「智差別」の方から説かれたものが、金剛界の「智法身」の大日如来である。

又大日如来の智慧を横門から分かったものが五智(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)であり、
大日如来の法身を竪門に分けたものが四種法身説(自性法身、受用法身、変化法身、等流法身)といわれる。


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二、金剛薩?菩薩について

金剛薩?はサンスクリットで、vajra・sattvaのことで、音写で「?日羅・薩??」 という。

?日羅(バジラ)は金剛、薩??は勇猛・有情の意である。
従って音訳・意訳によって金剛薩?と称する。
金剛とは菩提心の不退転にして堅固なることの形容をいい、一切有情の菩提心の堅固なる求道菩薩と言う意味で金剛薩?としたのである。
一切衆生のための堅固な菩提心の本体としての仏菩薩と理解され、この金剛薩?の加持力によって衆生は発心され、大日如来を覚者の総体とすれば金剛薩?は一切衆生の迷いの総体であると同時に発菩提心の引き金に当たるという。

即ち、大日如来の説法の対告衆として、直接大日の教えを聞き衆生に伝えるということから、付法の二祖として聖なる仏の世界と俗世間の衆生との境界を仲介するという極めて重要な役割を持つわけである。

密教の教主大日如来に一切の衆生が祈る場合は金剛薩?の三昧に住するべきとする所以である。
金剛薩?の性格を分ければ、欲菩薩、触菩薩、愛菩薩、慢菩薩になるという、欲は字の通りで諸々の我欲・物欲を含む、触は身体の触覚作用をいい、愛は執着すること、慢は高慢なることであり俗に言えば財欲、肉欲、愛執、虚名のことであろう。

密教ではこのような衆生の妄執、煩悩を見極めて、それを否定しさるのではなく、それを即菩提にまで昇華させることが説かれるので、衆生は金剛薩?の境界にまで達するようにする事が出来れば、それらの妄相は皆浄化されて、仏の功徳相となるといわれるのである。


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三、龍猛菩薩について

(Nagarjuna)龍樹、龍勝とも訳す。
密教では、龍猛菩薩と称する。
真言密教を印度に弘通した最初の高僧といわれる。
二世紀中葉から三世紀中葉に、南印度のバラモン出身という。
幼小より聡明にしてベーダの聖典を学び、天文、地理、医書、暦、数・科学など諸学に通じた、彼は欲望が衆生の禍の原因であると見徹して、山中の一佛塔に詣でて出家したという、わずかに三ヶ月で三蔵を読破したほどの俊才で、あらゆる佛典を渉猟して、後にヒマラヤ山に入って一老比丘から大乗教典を授かったり、或いは諸国に巡歴して海中にて大龍菩薩に教法を伝えられたという。

又中印度のナーランダ寺に入り大乗教を研究したともいう。
その思想は、著書「大智度論」百巻、「中観論」四巻、「十二門論」一巻などに見られるが南印度シャータ・バーハナ王朝の庇護を得て、大いに空観の哲学を広めた。
大乗仏教を哲学的に基礎づけ後世の仏教に多大なる影響を与えて八宗の祖師とも或いは千部の論主とも言われる。
真言密教も彼によって伝授住持されたわけで、この頃、南インドに大鉄塔があり、(南インドディヤーナ・カタカの大鉄塔でキストナ川の南岸のアマラーバーチー塔といわれるも、不明)仏滅後未だかって開扉せぬことを知り、塔前で大日真言を念誦しつつ、白芥子をもって門扉を叩いた。
塔内に香華・灯明の荘厳があり読経賛嘆の妙音を耳にしたが、塔内に入ることが出来ないので更に、大誓願を起こして祈請を凝らし、初めて塔内に入り、両部の大経を金剛薩?から授けられたという。
(台密では金剛頂経のみで、塔外で大日経とする)かくして、密教の根本聖典は世に流布するに至ったのだという。

弘法大師の「付法伝」にみえる龍猛菩薩伝として、 
「第三祖者、昔釈迦如来掩化之後八百年中有一大士、名那伽頼樹那菩提薩?(中略)入南天鉄塔中、親授金剛薩?灌頂、誦持此秘密最上曼荼羅教、流伝人間」 とある。

尚この内八百年は七百年(二一三頃)が正しとする。
尚龍猛の密教に関する著述には、「発菩提心論」一巻、「釈摩訶衍論」十巻がある。


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四、龍智菩薩について

名を那伽菩提(naga・bodhi)という。
南インドよりセイロンを周遊して大乗の法門を弘め、龍猛の密教を大いに伝播したので四祖とされる。
龍智菩薩は一説によればセイロンの一王子であったともいう。
この菩薩には諸説・異説がある。

付法伝によると、
@ 玄奘三蔵が入竺した時(西暦六三三)年齢七百歳にして尚三十歳前後の壮年に見えるバラモンがいた。
この人は龍猛の弟子で中観、百論、ベーダ学に精通していて、この人(龍智)から授学した(慈恩伝)という。

A 五祖の金剛智三蔵は三十一歳の時、南インドに往った。
龍智はその時七百歳の高齢ではあったが、壮健であったために、七年間師事(西紀七〇一ー七〇七)して「金剛頂経」「毘盧遮那総持陀羅尼法門」等を承けた。

B 弘法大師が入唐した時(西紀八〇五)龍智は今尚南天竺にあって、秘密法等の伝授をして居るとの消息を聞いた。

以上の記載を総合すると、龍智は龍猛の教えを受けて、玄奘、金剛智等にも授け弘法大師時代まで生存して、七百歳の寿齢を保ったということになる。
又別説で、

@ 不空三蔵はインドに帰って(西紀七四二)普賢阿闍梨を尋ね、十八会金剛頂瑜伽法門、毘盧遮那大悲胎蔵等の法を受け、壇法を建立したが、普賢阿闍梨は龍智と同人であるという。

A 善無畏三蔵がナーランダ寺に行った時、達磨掬多(dharma・gupta)の教えを受けた。
この人も寿齢八百歳に達して、しかも容貌は四十歳前後の壮者に見えた。
達磨掬多も龍智と同人であるとの説がある。

何れにしても寿齢七、八百歳という不合理性を生じているが、後代、龍猛の故跡の吉祥山(南インドの黒峰山)に隠遁して伝授しているという民間信仰が生じて、その年代差を説明せんとして却って奇怪な伝説を生んだともいわれている。


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五、金剛智三蔵について

 名を跋曰羅菩提、vajra・bodhiという。
中インドの国王イサナバツマ(isana・varma)第三子という。
十歳の時ナーランダ寺で出家、寂静智に就いて「声明論」(vyakarama)等を学ぶ。
西インドに留まること四年再びナーランダ寺に還り二十歳の時具足界を受けた。
三論の空宗等を研究する事八年、カピラ城に往き勝賢論師について、瑜伽唯識など法相系の諸学をなして三十一歳の時、先述したように、龍智に謁し(普賢阿闍梨の説もあり)、師事して七年間、承仕修学、諸大乗教典や五明論、「金剛頂瑜伽経」「毘盧遮那総持陀羅尼法門」等を修め、五部灌頂を受けて、密教の奥旨を究めたといわれるのである。
このため呪術に長じ、しばしば霊験があったという。
後に現セイロンより海路で入唐伝導の途につき、途中ジャワのアンゼリー港に寄港し,出帆後暴風雨に遭い苦心の末、携えた十八会十万頌の「金剛頂経」を遂に海中に投じ、除災法を修しつつ開元七年(七一九)ようやく唐の領界に達した。
南インドを出てより三年の長月を要したという。
翌年の初春東都洛陽に入り玄宗に謁するを得たという。
陸路入唐した善無畏に遅れることわずかに四年であったという。
五十歳であった。
勅を受けて大慈恩寺に住し、国師となって活動。
洛陽、長安の間をしばしば往復した。
この頃洛陽で壇を建て、七倶胝菩薩像を画いて、請雨法を修して法験甘雨を得たり、玄宗の皇女の病を祈って、三摩地に入り不思議力をもって呪念し、忽ち治癒して皇帝他の尊信を受けること多大であったという。
七二一年より、長安の資聖寺及び大薦福寺にて翻訳に従い、不空は弟子の礼をとり、一行阿闍梨等も来て教えを請うた。
そして共助して多くの金剛頂部教典の訳出をしたという。
かくして善無畏の「大日経」訳とともに両部大経は始めて中国大陸に流布するに至ったといわれるのであるが、後にこの事は金善互授といって金剛智三蔵と善無畏がほぼ同期に入唐して互いにその法を授受、善無畏は大日経法を以て金剛智に付与し金剛智も金剛界法を善無畏に授けて互いに阿闍梨になったとの説がある。

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六、不空三蔵について

 不空は不空金剛の略で、阿目?跋折羅(amogha・vajra)と号す。
法諱は智蔵。
宋僧伝で、北インドのバラモン出身の父と康居人(中央アジアトルコ系遊牧民、現キルギスタン域)を母として西域に生まれたという。(貞元録では、セイロンの人という)
幼くして父を失い叔父に伴われ長安に入り、十二歳で金剛智三蔵の室に入り出家して門下になつたという。
二十歳で金剛智三蔵から具足戒を授かった。
不空は諸国語に精通し一切有部律を解し「悉曇章」「声明論」など学んで俊才大器の人であったという。
常に金剛智の訳場に在って訳語に勤め、金剛頂経系の密教をよく学んだという。
師事すること二十五年の後、金剛智の遺命により広く密教の梵本を請来するために、インドに赴かんとし玄宗皇帝の勅許を得て、弟子含光等と渡航、ジャワ経由一年かけてセイロン島に達したという。
西紀七四二年、三十八歳であった。
途次暴風雨に遭って「般若佛母経」を執り大随求真言を誦して加持祈祷し、「風優に海潮澄みしことあり」と伝説がある。
龍智菩薩のところで先述したように、不空は、セイロンで龍智(一説に普賢阿闍梨、龍智と同人)に会い、密教の秘奥を悉く口授され壇法を建立して五部灌頂に浴され、又「金剛頂瑜伽法門」「大日胎蔵法門」などの「瑜伽真言経論」梵本五百部を得、他に各地を周遊、梵本経典千二百余巻を携えて帰唐したという。この事を、不空の再天というが、不空三蔵の法系に中国での金剛智三蔵相承のほかに龍智(又は普賢)等インドでの相承のある訳が言われるのである。
ともあれ、不空は正純密教の伝訳を継承し、形式統一して実修の効果を収め、又唐の玄宗、粛宗、代宗、三代の帝師として帰敬せられ、中央の洛陽、長安から南は広州に、北は武威太原の五台山に至るまで教線を拡充して中国密教の爛熟時代を現出させた人といわれ、その功績は大きい。
更に中国佛教においては、羅什・真諦・玄奘とともに四大翻訳家と称せられる。


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七、善無畏三蔵について

 名を戊婆?羅僧賀(subhakara・simha)、略して輸婆迦羅という。
戊婆?羅僧賀は浄獅子と訳し、意訳して善無畏という。
釈尊の叔父、甘露飯王の後裔で東インドのウドラ(udra)の国王、佛手(buddhaste)の王子という。
幼くして父を継いで王位に登り臣民の支持を得たが、諸兄等が反乱した為、位を譲り諸兄に国を分けて、仏道の道に入り、各地を遊歴、禅観を凝らして名声は全印度に響いたという。
マガタ国のナーランダ寺(ガンジス河畔、パトナの東にある、往古は数千の学僧が仏教研究した大伽藍)に行き達磨掬多(dharma・gupta)に密教を学び即時に灌頂を受けて人天師と仰がれたという。
達磨掬多は密教に通じその教法によって悉地を体験、しばしば不思議の霊験を顕した。
善無畏は彼について密呪を学び三蔵と称せられたわけである。
弘法大師の「略付法伝」に善無畏は「性恬簡にし、静慮神をしずかにす、時に禅観を開いて初学を奨励し、慈悲を念となし、接誘かぐることなし、人あるいは疑を問えば剖折して滞りなし」とある。
師のダルマグプタの命で中国大陸の開教の途につき、カシーミールから印度国境のヒマラヤ連峰を踏破して中央アジアに入り、途次トルコで「大日経」を講じつつ駱駝に原典を乗せ、遂に玄宗皇帝の時の長安城に達したという。
西紀七一六年、八十歳の老齢であったという。
皇帝は来遊を欣び礼して国師となし、長安の西明寺に?し、大毘盧遮那曼荼羅灌頂大阿闍梨となしたという。
そして、善無畏はその菩提院において、請来した梵夾を繙き「虚空蔵求聞持法」を訳出して献上したという。
後には、洛陽の大福光寺(又は大福先寺)に移ってから一行等が筆受して、大日経七巻を訳出し、講義するなどしたが、此の大日経が大陸に流布するに至ったのだという。


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八、一行阿闍梨について

 姓を張、名を遂という。
幼時より聡明、記憶力に優れた。
荊州の景禅師に就いて出家、後に嵩山の普寂禅師(臨済の神秀の弟子)について禅法を学んだ。
又天台山国清寺において天文、暦学、算道、陰陽の秘訣を受け玄宗皇帝の崇敬を篤くし、宮廷で除厄祈願を修したり、「開元大?暦」五十二巻を上撰し、又「黄道儀」を作って天文に貢献・奏上したりした。
又、一行は善無畏が来唐するやその門下に馳せて胎蔵法を学び、ついで金剛智が長安に在ると聞いて灌頂壇を開いて陀羅尼の秘印の伝授を受け金剛界法を学んだのである。
この灌頂は唐に於ける始めと言われる。
善無畏の大日経翻訳には、訳場で師の口述を筆記し、「大日経疏」二十巻を著したが、これは実に中国密教に於ける理論的解釈書の嚆矢にして、大日経研究の一大指針であるという。
又、善無畏の口説を録して「大日経義釈」十四巻も作った。
四十五歳にして華厳寺で早逝したが、仏道に於いては広く禅・律・円・密を修めて盛名をなしたのである。
「大日経疏」は「大日経」を実相論的方法によって、天台学的に解釈したもので、この思想は我が国の台密の根本的構想をなし、これに反して不空は華厳学に基調する縁起論的構想をもって、「大日経」を取り扱い、我が国の東密の学問的基礎となったという。
又「大日経義釈」は伝教大師以前にすでに請来せられ台密に依用せられたという。

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九、恵果阿闍梨について

 俗姓は馬氏、京兆府昭応(?西省西安府)の人。
九歳にして不空の弟子、青龍寺聖佛院の曇貞の門に入り、次いで大興善寺の不空に師事した、不空は一見して「此の児、密蔵の器なり、必ず我法を興さん」と大佛頂随求などの真言、普賢行願文殊の讃偈等口授したという。
二十歳で具足戒を受け、不空より金剛頂法諸尊瑜伽密印を学び、伝法灌頂に沐して伝法大阿闍梨の位に登り、更に善無畏の弟子玄超に随い胎蔵法、蘇悉地法等を学んで密教の秘奥を極めたという。
三十歳の時青龍寺の東塔院に毘盧遮那灌頂道場を賜り、国家のため昼夜護国持念をした。
又勅により、宮中の内道場護持僧に任じて京城の諸寺を巡り修法したという。
又代宗の御悩を加持して紫衣を受けたり、皇女の病を加持して霊験を顕したり、在世中は代宗、徳宗、順宗の三帝に尊崇せられ、三朝の国師と称されるほどに、常に密教の現世利益の効果によって救済をなしたという。
又彼の四十余年の密教生活は弟子の教育薫陶に意を注ぎ、それ故に諸外国より来るものおびただしく、訶陵国(唐の時代のジャワの国名)の弁弘に胎蔵法を授けたり、新羅から来た恵日、悟真の二人や、義明等に胎蔵法或いは金剛界法を授けたり、我が国の弘法大師をその伝法灌頂壇に入らしめ、両部大法を授けられた事など例挙にいとまがない。
六十歳にして清龍寺東塔院で遷化した。
付法伝によると、弟子、呉慇の賛に「大師(恵果)は唯心を佛事に一にして、意を持生に留めず、受くるところの錫施一銭をも貯えず、すなわち曼陀羅を建立し弘法利人を願う」とある。


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十、弘法大師について

諱を空海、光仁天皇の七七四年六月十五日、讃岐国多度郡屏風ガ浦に誕生した。
現香川県善通寺市の真言宗善通寺派本山の誕生院善通寺が生地といわれるが、異説がある。
父は佐伯真田公、母は阿刀氏の玉依御前という。
幼名を真魚といい,戒を受けて教海、如空、後改めて空海、遍照金剛は灌頂号である。
十五歳で叔父の漢学者、阿刀大足に伴われて上京、論語、孝経、史伝を学び、十八歳で大学寮明経科に入学、直講の甘酒浄成や岡田博士から詩経、書経、左氏春秋など儒学を修めるかたわら、大安寺の勤操大徳から仏教を学び、虚空蔵求聞持法を授かった(異説もある)という。
そして心身鍛練、道念確立のため阿波国大瀧嶽や土佐国室戸崎などを跋渉して苦修練行し、二十歳で勤操のもと出家受戒した。
当時一族の者は出家は五常の教えに違い、忠孝の道に背くと極力諫止したが大師は随わず、二十二歳、東大寺戒壇にて具足戒を受けた。
二十四歳の時「三教指帰」三巻を著し儒・道・佛の教えの内、佛教が最も優れていると論じて出塵の志を現したという。
次いで東大寺の大仏殿に参籠して仏前に大誓願を立て「唯願わくは三世十方の諸佛、我に不二の法門を示したまえ」と祈り霊夢に「大日経」を大和の久米寺塔下に感得した。
しかしこの経は難解にして、質するに師がなく奮然入唐求法を決意したという。
八〇四年、三十歳、留学生として遣唐大師の藤原葛野麿の第一船に橘逸勢等と同乗し、伝教大師は還学生として第二船に乗り、備前田浦港を出帆した。
海上暴風雨に遭い難航しつつ福州赤岸鎮に漂着した。
陸路ようやく唐都の長安城に入り西明寺に寓居し、諸寺を歴訪して後、遂に青龍寺恵果阿闍梨にまみえることが出来た。
阿闍梨は大師を見るや、我が命まさに尽きなんとす、汝を相待つこと久し、と歓び、懇ろに曼陀羅壇を建て阿闍梨位灌頂に沐せしめ、両部の大法等正純密教の秘奥を瀉瓶して正嫡となしたのだという。
更に大師は醴泉寺において般若三蔵、牟尼室利三蔵の教えを聞き、曇貞に悉曇を学び、在唐中は昼夜寝食を忘れて経典儀軌の研鑽、書写等に奔走し、三年間の後、八〇六年、筑前博多津に帰着、太宰府の観世音寺に笈を留めて請来した経律論二百十六部四百六十一巻及び曼陀羅図・荘厳具等の目録を平城天皇に献上して後に帰京したという。
三十五歳であった。
大師は帰朝後、平城、嵯峨、淳和天皇の信仰篤くその業績の主なるものは、
一、真言宗の立教開宗、多数の仏典著書をものし、
二、東大寺別当に任じ南都仏教との融合、
三、高雄山での灌頂において伝教大師はじめ南都の学僧を入壇させて密教秘法の伝授、又神護寺別当に任じ及び乙訓寺を興隆、
四、高野山を開創して奈良朝時代の都市中心仏教の弊風を一掃して山嶽仏教を創め内観修禅の道場とした、
五、東寺を勅賜され教王護国寺と改めて鎮護国家の根本道場とし、真言教団を確立、「仁王経」「請雨経」等により国民利福・息災増益の秘法を修し、
六、社会文化、救済事業において、庶民教育のため綜藝種智院を興し(本学の元母体)、筆墨・絵画・彫刻・和歌・悉曇・梵文の研究など多岐にわたり、又讃岐満濃池の修築、灌漑や四国霊場の開創など超人的な済世を為したといわれる。
大師入定は高野山にて、六十二歳であった。

 参考書籍

・真言宗選書三・四・七巻 同朋出版
・中国仏教思想史 木村清孝 パープル叢書・仏の履歴書 市川智康 水書房
・密教辞典 ほか月刊誌大法輪 等

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金剛薩?(こんごうさった)にまつわる壮絶な話

これは、海外でのある大学の教授を努めていた知人から、教えていただいた話です。

仏教の世界観として、知られていそうで
実のところあまり知られていない内容でしたので、
ここぞとばかりに掲載してみました。

仏教には、様々な仏様がいらっしゃいますが、その多くは神様といった類ではなく、
修行僧の位とその様子を表しているものです。

例えば、観音菩薩という仏様がいらっしゃいます。正式名称としては「観自在菩薩(アヴァロキティ=シュバラ)」といい、経典においては様々な苦難に遭遇した時に、その名を呼び念じれば、たちどころに救いの手を差し伸べてくれる仏様であり、スピリチュアルの分野では、アセンデッド・マスターとして名を連ねています。

しかし、護摩行等を修される方たちなら知っての通り、菩薩とは涅槃に至る工程で修行をおこなう僧侶の段階を示した「品位」でもあるわけです。葬儀の際に付けられる戒名での「菩薩」の位が、まさに「あの世に至っても修行を行う位に達した」ので付けられるもの...という事は、葬儀の際の読経からも理解できます。

まあ、平たく考えれば、困った時に観音菩薩に祈った場合、その位に至ったご先祖さんが助けてくださっているみたいなイメージでしょうか。

それはともかくとして、あまり知られていないというのは、
菩薩のさらに上の位である「金剛薩?(こんごうさった)」という菩薩についてです。

実のところ、「菩薩」とは実際に生きて修行をされている僧侶に与えられた品位です。
かつては、それを証明する神通力に近い能力を持ったモノに授けられたモノだったようです。

「金剛薩?」とは「金剛菩薩」といい、「金剛」とは「強く光輝く」の意。
つまり、菩薩としての能力を持ち、さらに実際に全身から光を放つ現象を体現した修行僧に授与された品位の事だったようです。この修業法については、経典にも記載されているものだそうですが、それは本当に過酷な内容であるものなんだとか。

かつては実際に「金剛薩?」の品位を授与された僧侶がいたそうです。
瞑想を始め、続いて定に入るとその姿が光り輝き出す、そんな現状を体現させた修行僧がいたという事ですね。
(全身の毛穴から光が放たれ、太陽のように光り輝くらしいので、もし目にする事があったとしても、少なくとも影らしきものはほぼなくなりそうな感じがします。)

しかし、その多くの修行僧は品位を授与した後に、すぐ自殺をされたのだとか。

かつての仏教における品位を定める律(法律のようなもの)は、その能力を体現できなくなると品位も降格するものだったらしく、そしてその能力の維持も大変に難しいものだったようです。何でもこの光を放つための行というのは、物理的な作用から何年もの蓄積を必要とするものであるらしく、それ故、品位が降格する事実自体に精神が耐えられない。それならば、いっそ自殺を選んでしまう、といった事のようですね。

現在の日本国内においては、こうした話はこの件以外に聞いた事はありませんが、「金剛界曼荼羅では釈迦が相手によって方便を持って説いた...」といったような話が当たり前のようにあったので、思い返してみても、改めてすごい話だなと思います。

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日本語では金剛薩た、金剛薩タ、金剛サッタとも表記される。 

別名は金剛手菩薩(ヴァジュラパーニ)、金剛手秘密主菩薩、持金剛慧者、執金剛秘密主。 
大日如来の弟子であるが、大日の化身である愛染明王と同一視される。 
大日如来のほか阿?如来が本地だとする説もある。 

大日如来から教えを授かり、それを記した経典を南天鉄塔(南インドの鉄の塔)に収め、資格ある者が来るのを待った。 
そして訪れた竜猛(ナーガールジュナ)にこれを授けたという。 
大日如来からの密教の伝授はこれで終わらず、別の人物に授けられ、さらに別の人物に授けられ、という事が繰り返された。 
真言宗の場合、その流れは大日如来→金剛薩?→竜猛→竜智→金剛智→不空→恵果→空海となる。 
真言宗では彼らを「付法の八祖」と呼んでいる。 
天台宗の場合は九祖であり、竜猛→慧文→南岳→天台・→章安→智威→慧威→玄朗→湛然という流れである。なお、日本天台宗の祖最澄は湛然の弟子である道邃と行満から台密を伝授された。 
竜猛以降から数えているが、金剛薩?が竜猛に密教とその経典を授けたとされる点は同じであり、天台宗でも重要な尊格である。 

同じく密教を継承したチベット仏教でもポピュラーな尊格である。 
チベット語では「ドルジェ・セムパ」と呼ぶ。明妃はヴァジラトーパ。 
最古の宗派ニンマ派の開祖パドマサンバヴァの前に現れ、彼が修行者になる切っ掛けとなったと伝わる。 
後期密教では如来仏陀)と呼ばれるまでになり、これを受け継ぐチベット仏教では三人の本初仏(アーディ・ブッダ)の一人とされる。 
残りの二人は法身普賢(サマンタバドラ、クンツサンポ)、持金剛仏(ヴァジュラダラ、ドルジェ・チャン)。

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