【開眼供養を論証】
● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏
● 2014.8.21 「開眼供養」の原理を 真言師の「開眼供養」の原理から逆論証する
● 2014.8.21 木絵二像の「開眼の義」を会通
● 2014.8.21 ■ 人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。
● 2014.8.21 「死骨成仏」 の原理を明かす
↑↑ に つづく
「木絵二像開眼の事」 の骨子は、 「非情成仏」の原理の御説示 にある。
草木でできた 「木絵二像」 も 「死骨」 「遺体」 も またこれ共に 「非情」 である。
が故に、本抄冒頭から四分の三位までは 「非情成仏」 のうちの 「木絵二像 の成仏」 について説かれ、
後半の 四分の一程が 「死骨成仏」 について説かれておられるのである。
(因みにこの御書は 「身延曾存」 身延山での明治の大火で焼失するまでは厳然と存在した御真筆である。)
では ● 2014.8.21 「死骨成仏」 の原理を明かす の 「死骨成仏」 の原理を整理して表示する。
A 「法華を悟れる智者」 が 「死骨を供養」 すれば 「非情」 である 「死骨」 は 「死骨成仏・即身成仏」 する。
ということである。
これは、まさに 非情である木絵二像開眼の義に相通じる方程式である。
この方程式を以下の御文に当て嵌めてみる。
■ 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。
一見して分かるようにこの御文にはただ主語が省かれているだけで、A と 全く同じ方程式なのである。
それを代入して再構成するとこうなる。
■ 「法華を悟れる智者」 が 「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」
「木絵二像の全体」 が 「生身の仏」 となる。 これが 「草木成仏」の原理 である。
このように両文の原理は寸分も違わず合致するのである。
主語 | 行為(宗教的儀式) | 結果 | 本義 | |
死骨成仏 | 法華を悟れる智者、 | 死骨を供養せば | 色心を変じて無始の妙境妙智と成す。 | 是則ち即身成仏なり。 |
草木成仏 | 「法華を悟れる智者」 が | 「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」 | 木絵二像の全体生身の仏なり。 | 草木成仏といへるは是なり。 |
では、この 「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」 であるが、
これは、
● 「死骨」を「成仏」せしむる時には 「葬儀」 という形の 「宗教的儀式」 である。
そして、それは ● 2014.8.21 「開眼供養」の原理を 真言師の「開眼供養」の原理から逆論証する
でも論証したように、
● 「木絵二像」を「本尊」と成す時には 「開眼供養」 という 「現実の宗教的儀式」 なのである。
その 「開眼供養」 という 「現実の宗教儀式」 は、 「法華を悟れる智者」 「法華を心得たる人」 のみが成せる行為であるから、
我々がその具体的な内容を知らされていないだけのこと。
概ね「在家」へ宛てたお手紙などが中心の「御書」には、
その 「法華を悟れる智者」 「法華を心得たる人」(=大聖人もしくは大聖人から命を請けた御僧侶) のみが成せる行為である 「現実の宗教的儀式」 の詳細な内容など、そもそも教える必要もないが故に、説かれていないだけのこと。
その「内容を知らない」からと言って、その 「「現実の宗教儀式」 がない、存在しない」、とは断定できないのである。
現に、以下の御文に示される
■ 法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり。
死骨成仏の深義など、到底、我々凡俗には理解もできる筈も、増してや、執行など全くもって出来得ないのである。
しかし、大聖人が明確にお示しであるからには厳と、その義、その具体的な行為は存在するのである。
繰り返すが、ただ、我々凡俗に理解できないだけのことである。
概ね以上の論証により確信を以って、
非情 草木 である 「木絵二像」 を 「本尊」 と成すには
必ず 「法華を悟れる智者」 による 「開眼供養の義」 が必要である
と断ずる。
つづく