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▼ 台密の台頭 僧兵の出現 を以って 「末法来
入」と言えるのではないかについの反論
 

   ★ ↑ 反論する

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▼ 要点は明確なので簡単に(緑色は樋田氏の主張)

 

★ 概説

法華経最第一の証明   釈尊の仏法とは法華経に究竟する。
「仏法」とは詰まる所、「法華経」を護持する僧団が伝持していることになる。
では「末法」とは その「法華経」を護持する僧団が「闘諍言訟して白法隠没」する状況である。
それはどこかと言えば、日本天台宗 比叡山延暦寺である。
伝教大師が中国天台宗から伝持した純善たる法華経最勝の教説に、真言密教を混入させ汚染させたのが慈覚・智証である。
この時点を以って、「白法隠没」と言えるの
ではないか

しかも、その直後から続く両者間の激しい対立から10世末頃「僧兵」が出現し、まさに「闘諍言訟」の様相を呈する。
ここを「末法来入」と言わずして、
一体どの時代を指せるというのか?

 
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 ▼1898年のイギリスペッペの発掘によって、仏滅は:没:383年クシナガラで大きくは外れていないと現時点では結論できます。

となると大集経より「末法」「百(←※ママ)法隠没」は早くても1617年前後であって、例えば明治の廃仏毀釈などが該当するのでは?
「白法隠没」を国家的に進めた事業ではありませんか?


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   ★ → 
1、まず仏滅年代は完全に特定されたわけではなく、しかも、今後の発掘などによっては劇的に定説が覆る可能性すら多々ある。

D 仏滅年代の"定説"に疑義が提示されている

2、その前提の上で、現時の研究における仏滅年代諸説ある中で一応中村元説であるBC.463年-383年を基に、そこに大集経の「正法・像法で2000年」説を加えた1617年は、「末法来入」であって、概ねこの時期を中心に「闘諍言訟し、白法隠没」するような時代相になり、その後「(白法が)損減して堅固なり。」つまり、白法隠没した時代が長く決定的に続く」
と、こういう意味である。
問難者の文章を読んで前にも感じたが、この末法来入の捉え方が、どこか間違っていませんか?
末法来入の概念とは、その前の多造塔寺堅固時代から、仏法が闘諍言訟し、白法隠没へ大きく変化する時代相を言うのである。
それ以後はもう白法隠没したままそれが長く(ある意味永遠に)続く、という予言である。
この捉え方が大きく間違っているからこのようなミスを犯すのである。

明治時代の廃仏毀釈など、大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた「神仏分離令」、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの明治政府の政策をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊である。
つまり、1868年〜1870年から起こった運動である。
先ほどの計算でいうならば1617年の末法来入から実に251年も後に起こった事件である。
「末法来入」としては、こんなに時間的に間延びした社会事象など採用できる現象とは言えない。
もし、1617年が末法来入であるとするならば、概ねこの時期に、大きく仏教が闘諍言訟し、白法隠没する社会現象が起きていなくては末法来入とはいえないのである。
つまり、末法来入とは、それまでそれなりに人々の尊信を集め、また功徳を提供できていた仏教がその根底から力を失う姿が初めて顕れてくる時代相を指しているのである。

かたや明治の廃仏毀釈はどうであろうか。
これは上記の如く国策であって、仏教教団同士あるいは仏教教団内部で起こった仏教界全体を崩壊せしむるような激しい抗争ではない。
また、廃仏毀釈以前の仏教界が、果たして真の民衆救済の使命を果たしていたのか?
江戸初期に定められて寺請け制度・檀家制度に依る所も大きいが、長きに亘って形骸化し、ただの「葬式仏教」として世襲的な職業として存続してきただけではないか。
つまり、仏教の本質である民衆救済の活力を失い、ただの伝統伽藍を守り運営するだけの慣習的集団と成り下がっていたのである。

明治の廃仏毀釈前も後も、仏教界のその本質的な社会的位置付けは何も変わっていない。

つまり、問難者が提示した廃仏毀釈を末法来入に代入する試みは、問難者の「末法来入」に対する認識の未熟さと、時代相を読み解く見識の浅さによって、失敗したと言えるであろう。

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と、いうように樋田さんのアナロジーは何の役にも立たないのです。

樋田さんとは別のアナロジーを立てれば一発で相対化されてしまう。

どちらのアナロジーが正しいと言えるのかは、経文や歴史的事実という証拠が必要です。

私の場合はペッペと大集経という証拠があって述べていますが、樋田氏はアナロジーだけで結論を導いています。



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   ★ → アナロジー = 類推
上記の論証で、むしろ論難者が浅薄な知識で持ち出してきた廃仏毀釈自体、問難者自身がが提示してきた末法来入の時期とも違い、
かつ、大集経の経典の意味するところからも大きく外れている社会事象であって、その類推思考自体、使えない、採用できない、ということである。
つまり、当方の論証を相対化できておらず、経文を誤読した上、歴史的事実に於いても経典に説かれる本質を大きく見落としている。
当方が「末法来入」の時期について検証した論文の全てに真っ向から取り組み、そして反論仕切ってみましょう。

大集経に説く「末法」来入の年限の矛盾を解明する

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▼ 一般的に、この状況は樋田氏が論破された状況です。
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   ★ → こういう発言は、概ね、負けたくない、負けたくない、と勝他の念に囚われ、何とか自分の優位性を誇示したい、と焦っている者が発する言である。
論破されたかどうかは、法論当事者にはなかなか正確且つ客観的には判断できないものである。
誰しも自分には甘いし、自分を客観視することは極めて難しいからである。

であるから、当方は既に世の有識具眼者の方々にこの往還の正邪・善悪・優劣・勝敗 は預けている。
良識以って、双方の主張を冷静に熟読すれば、自ずと勝敗の判断はつくことであろう。

問難者もそう慌てず、焦らず、いきり立たず、当方の論をもっと全文、真正面から反証仕切っていただきたいと強く念願するものである。
そうでないと、ただ自分には都合の悪い箇所には触れずに、逆に自分の主張したい箇所だけで論戦を引き摺って行く、という誠に姑息で卑怯卑劣な姿となってしまうからである。

正々堂々と、こちらの論証の全文に対して、徹底的な反論をお願いしたいものである。
 



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