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一念三千?
★ 釈尊は当然そう説いている。それが法華経にしか説かれていない原理 一念三千である。
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▼ もう言いたい放題ですね。
釈尊が、いつ、どこで、何の経典に「一念三千」とか説きましたか?
一念三千をでっち上げたのは天台智だという事は素人でも知っています。
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★ ↑ 論証した。
ほんと〜〜〜〜〜に、経典の義が読めない大馬鹿者である。
「義に依って語に依らざれ」
を全く体得してない。
「論語読みの論語知らず。」
「涅槃を讃ずと雖ども涅槃の心を殺す」
ですな。
一念三千の基である、十如実相については論考した。
161 【参考】 鳩摩羅什訳 十如実相の意訳についての考察
十界衆生については法華経の全体を拝すれば顕然である。
174 【参考】一念三千の構成要素についての簡単な考察
法華経の文上に『一念三千』などという単語は出てなくても、その義は法華経全体を概観した時に自ずと一念三千の義は現れているのである。
真乗などの邪師・魔師・ペテン師に執着している者がそれを見られよう筈がない。
真乗の害毒でただただ眼が曇っており頭が鈍っているだけのことである。
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★ 法華経以前の経々に、法身・報身・応身のそれぞれを各別に示しているのは、仏の徳性の一面のみを顕わしたのであって、すべて仮の仏の姿である。
これらの仏は、ひとたび『法華経』の十如実相が説かれれば、三身相即の円満無欠の仏に摂せられるのである。
しかるに真言宗では、大日如来を法身、釈尊を応身と立て、あくまでも法身と応身とを別個に対比し、法身・大日如来の最勝を述べているが、これは爾前経の域を一歩も出ていない偏頗な仏身論である。
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▼「偏頗な仏身論」
と言えるのは何故ですか?
なぜ法身と応身を別に立てたら偏頗なのです?
日蓮大聖人なり天台智が言っているだけでしょ?
我々衆生は、三身相即とかどうでも良いのですが?
日蓮大聖人も天台智も職業でやっていたから時間も金も研究に費やせたでしょうが、私たちはそうではない。
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★ ↑ もはや狂乱の態である。
三身相即については既に言い尽くしてある。
172 法・報・応 の三身を分けて別個に説くのは全て未完全な権教であることが理解できない真如狂徒を叱る。