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▼ 法難:

法華経にも涅槃経にも、法難は説かれています。
ただ問題は、経典で具体的に予言されたとするその部分が、悟っていない者の感想に過ぎないという事です。
これでは日蓮大聖人その方を釈尊が指示した事にはなりません。

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   ★ → H 勧持品二十行の偈 に対する問難を破す 

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 伊藤 真乗師の「未来の世においてこの経典(涅槃経)を説く者が現れて無上の正法を護持せん」の方がまだ確証に近いです。
なぜならば、涅槃経を前面に打ち出して説いた方は、伊藤 真乗師以外いないからです。
涅槃経は天台智も「法華・涅槃」時としたくらい重要なお経典です。
中国でも盛んに研究され、「涅槃宗」という一派もあったほどですが広く大衆に説けるまで極められた者はいませんでした。
日本でも空海が研究しましたが「いろはうた」にする程度で説けなかったのか、説かなかったのかは解りませんがやはり説いておられません。
日蓮大聖人も盛んに涅槃経を引用されますが結局は法華経を説いたのであって涅槃経は説いたうちに入らないでしょう。

『釈尊が入滅して40年余は、涅槃経は栄えるが、その後は地中に埋没して出てこない。世が乱れた時に再び「その人」が現れて涅槃経を説き、法の雨を降らす(涅槃経四依品大意)』

 つまり、釈尊入滅以後、誰も涅槃経を大衆に解き明かしていないのですから、それをやっている伊藤 真乗師は涅槃経の予言通りではないでしょうか?

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   ★ → 法華経 優 涅槃経 劣 は論証済み。  改訂版 法華経 優 涅槃経 劣 の証明

涅槃経は法華経の流通分であるから、涅槃経を単独で弘めている、それ自体がもはや御仏意に反した行為である。
あくまで、法華経を中心にした形での上で涅槃経を依用しなければ仏法に本義を曲げることになる。
であるから、例えば涅槃経の文に「此の経」とかある場合、それは必ず法華経を中心として法華経を根底に含んだ意として拝していかなければ、御仏の御心に反することになる、ということをよくよく弁えなければならない。

その上で、問難者がいうところの涅槃経の当該文を検証してみよう。

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■ 佛、迦葉に告げたまはく、『善男子、我般涅槃して後四十年の中、閻浮提に於て広行流布し、然して後乃ち當に隠没すべし。((43節)

【現代語訳】
仏は迦葉尊者に向って言われた。「正法を信じる者達よ、自分が入滅してその後40年の間は、世界中に広く流布して、その後、必ずや隠れ没してしまうであろう。


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■ 佛、言(のたま)はく、『善男子、若し我、「正法の余八十年、前四十年、是の経復当に閻浮提に於て、大法雨を雨(ふら)すべし
(※解説の項に 「正法の余八十年  正法は一に五百年、一に一千年等、今この正法の時季を過ぎて後八十年の意なり。」とある)

【現代語訳】
仏は言われた、「 仏法を信じる者達よ、私の仏法の正法時代が過ぎた後80年、またその前の40年、この経は世界中に仏の慈悲・救済の教えと功徳が広がっていくであろう。」 

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   ★ → さてさて、これが伊藤真乗を予言している文ですかね????

矛盾点を挙げる

@ ただ、敢えて「語」だけに依れば

大法雨を降らすのは、正法過ぎて80年。→ 問難者の説を採れば、「釈尊 没:B.C 383年」 
となると、、、

正法1000年説 → A.D 697+80= 777年(奈良時代)
正法500年説 →  A.D 117+80= 197年(古墳時代。。へたをすればまだ弥生時代)

となり、全くド外れ!となる。

で、ここは義に依って語に依らざれ の精神によって 大集経の説により「悪世末法」 と採って、それを当てはめると、
末法来入が 1617年 ま、真乗の誕生はそれ以降ってことで範囲に入るでしょう。
しかし、この「末法」の概念については単純に 正法・像法を 500×4 とできないのではないか。と既に論証してある。

大集経に説く「末法」来入の年限の矛盾を解明する

この論証の結論は、
「正法約500年 像法約1000年 末法来入は釈尊の法華経が滅尽した時(概ね900年代〜1000年代)」 
としている。
が、今回、問難者が提示してくれた涅槃経の解説にも、
●「正法は一に五百年、一に一千年等、」
とあって、傍証と成り得る。
そもそも、「正法500年 像法1000年」説は、かなりポピュラーな学説である。
仮にこの説を採ると、
末法来入は 
1117年 となり、伊藤真乗が生まれた年、1906年とおおよそ、1000年の開きがあり、一応範囲内ではあるが、
果たしてどうなんだろう??? という思いは拭えない。

一方、日蓮大聖人は1222年御誕生であり、末法来入の直後、となる。
しかも、無量寿経
「当来の世に経道滅尽せんに、
 我慈悲を以って哀愍し、 
 特にこの経を留めて止住すること百歳せん、
 それ衆生あって、この経に値うものは
 意の所願に随って、みな得度すべし

との経典の通りに、1117年に100年を加算すると、1217年
まさに、その五年後に大聖人御誕生となる。
この符合は、果たして偶然なのか?それとも「恣意的な数字のトリックだ」と非難できるのか?
真に不思議な一致である。

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■ 若衆生、八恒河沙の諸の如来の所(みもと)に於て菩提心を発こす有らば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜす、受持、読誦し、経巻を書写し、亦他人を勧めて書写を得しめ自ら能く聴受し、亦他人を勧めて聴受を得しめ、読誦通利し、擁護堅持す。世間の諸の衆生を憐憫(れんみん)するが故に、是経を供養し、亦他人を勧めて其をして供養せしめ、恭敬尊重し、読誦礼拝し、亦復是の如く具足して能く解し、其の義味を尽す。所謂如来常住不変、畢竟安楽にして、廣く衆生に悉く仏性有るを説く。善く如来の所有の法蔵をしり、是の如きの諸仏等を供養し已(おわ)りて、是の如きの無上の正法を建立して受持擁護す。若始めて阿耨多羅三藐三菩提心を発す有らば、當に知るべし、是の人は未来の世に、必ず能く是の如きの正法を建立し、受持擁護せん。是の故に汝今、未来世の中に護法の人を知らざるべからず。何を以ての故に。是の発心の者は、未来世に於て必ず能く正法を護持せん。

【現代語訳】
もし、衆生がガンジス川にある無数の砂々のそれまた八倍の如くの如来の許で成仏の志を立てるのであらば、その後、悪世の中でこの法を誹謗せず、受け持(たも)ち、読誦し、経巻を書写し、そして他人にも勧めて書写できるようにし、自分自身でもよく聴き受け、そして他人にも勧めて聞き受けさせ、読誦し、その意味をよく理解し解説し、擁護し、堅く持(たも)つ。
世間の多くの人々を憐み不憫に思うが故に、この経を供養し、そして他人にも勧めて供養するようにさせ、恭しく敬い、尊重し、読誦し礼拝し、そしてまた以上のような行を円満に具足してよく領解し、意義・内容に通達する。
その本質は、如来は常住不変 究極的な安楽 そして一切衆生に悉く仏性が在ることを説く。
そして、よく如来が説くところの様々な教説の意義・筋目を熟知し、それぞれの諸仏等を供養した上で、このような無上の正法を建立して、受持し擁護する。
もし成仏する心を発し、求めるのならば、よく知りなさい。そのような人は未来世において必ずよくこの正法を建立し、受持し擁護する。
この故に貴方方、今、未来世においての護法の人を知らなければならない。
それはどうしてか?
この成仏を目指す者は、未来世において必ずよく正法を護持するからである。
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   ★ → 矛盾の指摘

A 悪世の中に於て是の法を謗ぜす、受持、読誦し、経巻を書写し、亦他人を勧めて書写を得しめ自ら能く聴受し、亦他人を勧めて聴受を得しめ、読誦通利し、擁護堅持す。

果たして、真如苑はこの経文通りに行しているのか?

1 既述の如く、「是の経」とは法華経を根底においた上での表記である。それが語に依らず義を読む。ということである。
経王の立場である法華経を下して大臣格であるところの涅槃経を王と妄信して執着しているのであるから、これ謗法である。

2、受持 読誦 書写 せしめていない。
更に仏法逸脱行為について再掲する。

『法華経 涅槃経のどこにも、真如苑が行っている、霊能だの接心だの抜苦代受だの、、、そんな教義・教説は全くない。
殊に、若くして死んだ教祖の息子二人が信徒の苦しみを代わりに受けてくださる。。。だのの馬鹿げた教義など、法華経・涅槃経のみならず、一切仏教においてない。
まさに、問難者がこだわっていた「因果を無視した」邪説でる。
自分の業報は自分の因果に依る所であって、別人がそのく替わりをすることは有り得ない。』

このような邪説・邪行を説く真乗が正師である訳など在り得ない。

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▼ 以上の論証で伊藤 真乗師が如来認定されるなら、接心も抜苦代受もおおよそ如来が定め給うた事で、凡夫が議論すべきものではないという事になります。

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   ★ → 上記の論証で、伊藤真乗など邪師・魔師以外の何者でもない。
仮に天地が転覆しても、西が東になることはあったとしても、真乗が如来などとは、金輪際在り得ない。
むしろ法華経の広宣流布を邪魔する悪魔である。

「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん」

この予言の通り、この中の、まさに、真の法華経の広宣流布を邪魔せんとして出現してきた

悪魔、魔民、龍、夜叉、鳩槃荼等 の類なのである。このことをよくよく知るべきである。



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