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5、 勧持品二十行の偈 −困難を受けるという問題―


「仏の滅度の後 恐怖(くふ)悪世の中に於て 我等当に広く説くべし諸の無智の人 悪口罵詈(あっくめり)等し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん 我等皆当(まさ)に忍ぶべし

 悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
  或は阿練若(あれんにゃ)に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って 自ら真の道を行ずと謂(おも)うて 人間を軽賎する者あらん
  利養に貧著するが故に 白衣(びゃくえ)のために法を説いて 世に恭敬(くぎょう)せらるること 六通の羅漢の如くならん
  是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮つて 好んで我等が過(とが)を出さん 而も是の如き言を作さん 
「此の諸の比丘等は 利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
  自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑(おうわく)す 名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説く」と。
 常に大衆の中に在って 我等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 「是れ邪見の人 外道の論議を説く」と謂わん
  我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れに軽しめられて 「汝等は皆是れ仏なり」と謂われん
  此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし 濁劫(じょっこう)悪世の中には 多くの諸の恐怖(くふ)あらん
  悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱(めりきにく)せん 我等仏を敬信(きょうしん)して 当に忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を著(き)るべし
  是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む
  我等来世に於て 仏の所嘱を護持せん 世尊自ら当に知(しろ)しめすべし 濁世(じょくせ)の悪比丘は
  仏の方便 随宜所説の法を知らず 悪口して・蹙(ひんんじゅく)し 数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられ
  塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告勅(ごうちょく)を念うが故に 皆当に是の事を忍べし
  諸の聚落城邑(じゅらくじょうゆう)に 其れ法を求むる者あらば 我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん
  我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所なし 

我当に善く法を説くべし 願わくは仏安穏に住したまえ
  我世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於て 是の如き誓言(せいごん)を発す 仏自ら我が心を知しめせ」


▼ 日蓮大聖人が受ける難に「刀による受難 何度も所を追われる」を持ってきて、日蓮大聖人自身も上行菩薩の自覚に至ったとされる文ですね?
ちなみに擯出(ひんずい)とは、「所を追われる」ではなく、「人をしりぞけること。のけものにすること」ですね。
正直、「これはすごい」と思いましたが、これを言っているのは釈尊ではないですね?
では、いつ、どこで、誰が、誰に、何を、どのように説いたのか?

@ いつ…新菩薩が他国での布教を誓願した時

A どこで…虚空会

B 誰が…菩薩摩訶薩

C 誰に…釈迦如来・多宝如来・十方分身諸仏

D 何を…誓願によって、新菩薩たちの受持を勧める内容

E どのように…偈頌による誓願

これに対して、釈尊は「勧持品二十行の偈」では、「その通り」とも「違う」とも仰っていませんね?
悟りを開いていない者が何を言っても、それは感想に過ぎません。

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   ★ → 実に読み方が浅い。。。驚くべき軽薄さである。

この勧持品第13 の偈の前を見るべし。

■ 爾の時に薬王菩薩摩訶薩、及び大楽説菩薩摩訶薩、二万の菩薩眷属と倶に、皆仏前に於て、是の誓言を作さく、
唯願わくは世尊、以て慮(うらおも)いしたもう為(べ)からず。我等仏の滅後に於て、当に此の経典を奉持し、読誦し、説きたてまつるべし。
後の悪世の衆生、善根転(うたた)少くして増上慢多く、利供養を貪り不善根を増し、解脱を遠離せん。
教化すべきこと難しと雖も、我等当に大忍力を起して、此の経を読誦し、持説し、書写し、種種に供養して、身命を惜しまざるべし。

爾の時に、衆中の五百の阿羅漢の受記を得たる者、仏に白して言さく、
世尊、我等亦、自ら誓願すらく、異の国土に於て広く此の経を説かん。
復、学無学八千人の受記を得たる者有り。座より起って、合掌し、仏に向いたてまつりて、是の誓言を作さく、
世尊、我等亦、当に他の国土に於て、広く此の経を説くべし。所以は何ん。
是の娑婆国の中は、人弊悪多く、増上慢を懐き、功徳浅薄に、瞋濁諂曲にして、心不実なるが故に。

   ★ → まず、菩薩衆が、悪世(=末法)においてこの娑婆国土での弘教を誓言する。
次に、二乗達が悪世末法の娑婆国土には、「人弊悪多く、増上慢を懐き、功徳浅薄に、瞋濁諂曲にして、心不実」な者どもが充満するが故に、他土での弘教を申し出る。

その次、授記を受けた比丘尼達がこれまた、他土での弘通を申し出る。

■ 諸の比丘尼、是の偈を説き已って、仏に白して言さく、
世等、我等亦、能く他方の国土に於て、広く此の経を宣べん。

爾の時に世尊、八十万億那由他の諸の菩薩摩訶薩を視(みそなわ)す。

   ★ → これは二乗の怯弱な姿勢を聞かれ、菩薩衆へ勇猛な弘教心を促されたということであろう。
そこで、菩薩衆は、師 釈尊の御心を拝して以下のように誓言を述べる。

■ 是の諸の菩薩は、皆是れ阿惟越致にして、不退の法輪を転じ、諸の陀羅尼を得たり。
即ち座より起って、仏前に至り、一心に合掌して、是の念を作さく、
若し世尊、我等に此の経を持説せよと告勅したまわば、当に仏の教の如く、広く斯の法を宣ぶべし。
復是の念を作さく、
仏、今黙然として、告勅せられず、我当に云何がすべき。
時に諸の菩薩、仏意に敬順し、并びに自ら本願を満ぜんと欲して、便ち仏前に於て、師子吼を作して、誓言を発さく、

   ★ → この「仏意に敬順し」 というところで、菩薩衆は御仏の御心を深く知り、深く拝しているのである。
つまり、師の心を弟子として成り代って誓言しているのである。

■ 世尊、我等、如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返して、能く衆生をして、此の経を書写し、受持し、読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん。
皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在すとも、遥かに守護せられよ。

   ★ → このように弘教の決意を述べ、御仏の御加護を願う。
しかしてこれに続くのが、冒頭の偈である。

■ 即時に諸の菩薩、倶に同じく声を発して、偈を説いて言さく、
唯願わくは慮いしたもう為からず
「仏の滅度の後 恐怖(くふ)悪世の中に於て 我等当に広く説くべし諸の無智の人 悪口罵詈(あっくめり)等し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん 我等皆当(まさ)に忍ぶべし

 悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
  或は阿練若(あれんにゃ)に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って 自ら真の道を行ずと謂(おも)うて 人間を軽賎する者あらん
  利養に貧著するが故に 白衣(びゃくえ)のために法を説いて 世に恭敬(くぎょう)せらるること 六通の羅漢の如くならん
  是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮つて 好んで我等が過(とが)を出さん 而も是の如き言を作さん 
「此の諸の比丘等は 利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
  自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑(おうわく)す 名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説く」 と。
 常に大衆の中に在って 我等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 「是れ邪見の人 外道の論議を説く」と謂わん
  我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れに軽しめられて 「汝等は皆是れ仏なり」 と謂われん
  此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし 濁劫(じょっこう)悪世の中には 多くの諸の恐怖(くふ)あらん
  悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱(めりきにく)せん 我等仏を敬信(きょうしん)して 当に忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を著(き)るべし
  是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む
  我等来世に於て 仏の所嘱を護持せん 世尊自ら当に知(しろ)しめすべし 濁世(じょくせ)の悪比丘は
  仏の方便 随宜所説の法を知らず 悪口して・蹙(ひんんじゅく)し 数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられ
  塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告勅(ごうちょく)を念うが故に 皆当に是の事を忍べし
  諸の聚落城邑(じゅらくじょうゆう)に 其れ法を求むる者あらば 我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん
  我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所なし 

我当に善く法を説くべし 願わくは仏安穏に住したまえ
  我世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於て 是の如き誓言(せいごん)を発す 仏自ら我が心を知しめせ」


   ★ → つまり、この二十行(実際にはもっと長いが)の偈の内容は、そのまま師である御仏の御心を弟子の菩薩衆が拝して述べていると読み取らねばならない。
しかも、釈尊はこの誓言を聴かれて黙然としていたのではない。
この偈の後、直ぐに安楽行品第十四が始まるが、その冒頭で、文殊師利菩薩が以下のように続ける。

■ 爾の時に文殊師利法王子菩薩摩訶薩、仏に白して言さく、
世尊、是の諸の菩薩は、甚だ為れ有り難し。仏に敬順したてまつるが故に、大誓願を発す。
後の悪世に於て、是の法華経を、護持し、読誦し、説かん。
世尊、菩薩摩訶薩、後の悪世に於て、云何が能く是の経を説かん。

   ★ → この文殊師利の誓願と問いに、師 釈尊は応じられるのである。

■ 仏、文殊師利に告げたまわく、
若し菩薩摩訶薩、後の悪世に於て是の経を説かんと欲せば、当に四法に安住すべし。

   ★ → 以下、釈尊が弘教における心構えを説かれ続ける。

釈尊は、勧持品の二十行の偈の内容を否定してはいないのである。
むしろ、その内容を前提として、次の安楽行品第十四の御説法へ進まれているのである。
もし、二十行の偈の内容が釈尊の意に沿わなく間違っているとしたら、むしろ、その時点で釈尊は何らかの否定の意思を示され、正しい御教示をされているはずである。

そして、今回の論題ではないが大変重要なことは、安楽行品第十四で、滅後末法の弘教の注意点とか、その莫大な功徳を縷々説かれた後、従地涌出品第十五に至って、

■ 爾の時に他方の国土の、諸の来れる菩薩摩訶薩の、八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て、起立合掌し礼を作して、仏に白して言さく、
世尊、若し我等、仏の滅後に於て、此の娑婆世界に在って、勤加精進して、是の経典を護持し、読誦し、書写し、供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て、広く之を説きたてまつるべし。

   ★ → このように菩薩衆が更に、滅後、娑婆国土での弘教を誓言したにもかかわらず、いきなり、

■ 爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、
止みね、善男子。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。
  
   ★ → と仰せあって、来集していた菩薩衆達の弘教を制するのである。
そこに出現して来るのが末法の真の弘教者である。

■ 所以は何ん。我が娑婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属有り。
是の諸人等、能く我が滅後に於て、護持し、読誦し、広く此の経を説かん。
仏、是を説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より、無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり。
是の諸の菩薩は、身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり。
先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。
一一の菩薩、皆是れ大衆唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将いたり。況んや五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。

   ★ → さて、どうであろうか。
問難者に、というよりはむしろこの文書対論を読まれている読者に伺いたい。
もう一度、冒頭の問難者の反論文を読んでみていただきたい。
果たして、問難者の反問が正当かつ道理が通っているように見えるだろうか?
また、深遠な仏法を語るには余りに浅薄な内容に思えないだろうか?

世の有識具眼者の判断にお任せしたいところです。

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▼ 擯出(ひんずい)とは、「所を追われる」ではなく、「人をしりぞけること。のけものにすること」ですね。

   ★ → 「擯出」 仏教では古来から、「所を追う」 →  「擯出」せられ = 所を追われる という訳を採られている。
ネット上で手当たり次第の辞典を漁って訳を見つけようとすると、仏典本来の意義を見失う。
問難者はどうもその癖を直さないといけませんな。

しかも、問難者の好きな 歴史民俗用語 Weblio辞書 でも

ひん しゅつ [0] 【擯▼出】
( 名 ) スル
〔「擯」はしりぞける意〕
こばむこと。追放すること。擯斥。  三省堂 大辞林 

とあり、「追放する」 という意義も挙げている。
これまさに「所を追う」と同義であろう。
ネット上の、「コトバンク」 や 「goo国語辞書」 にある訳だけで判断してはいけませんね。

しかも、B 「法華経が最勝 と主張するのならば他の経典は全て否定されなければ矛盾ではないか。」 との幼難を指導する
では、「隠没」 の意味を、歴史民俗用語辞典 から引き、今回は、その同じ歴史民俗用語辞典 には「追放する」という意義が載っているにも関わらず、敢えて別の辞典からの訳を載せる。。。。
極めて恣意的である。
何が何でもこちらの主張を貶めてやろう、とする底意がモロ透けである。
そいう偏向性があっては正当な論議などできない。
以後、重々慎まれよ。 


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