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では、以下のを摧破していきますか。
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▼ 涅槃経 「正法の余八十年、前四十年、是の経復当に閻浮提に於て、大法雨を雨(ふら)すべし」 に再反論について
★ P 涅槃経 「正法の余八十年、前四十年、是の経復当に閻浮提に於て、大法雨を雨(ふら)すべし」 に再反論
▼↑樋田氏の議論(平成28年11月18日)緑が樋田氏です。
正直、面倒だとも思っているし、1日中パソコンに張り付いている事もできませんので、これからは重要な論点だけを議論したいです。
論点は大般涅槃経四依品第八です。
http://www.archive.org/stream/kokuyakudaizky08tokyuoft#page/247/mode/2up
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★ 【矛盾】
@ 時が外れている。
P170 49節 では 「正法滅して後80年、もしくは正法最後の40年」 に出現することになっているではないか。
解説によると、正法500年 正法1000年 という両説を挙げているが、そのどちらを取っても、伊藤真乗の誕生年と合わない。
この説だと、現代の釈尊の聖滅年の研究から概ね紀元前後、もしくは五世紀位に出現しなければならない。
伊藤真乗は1906年生まれである。全く外れている。
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▼ 良く読んでくださいね?
まず、P170の42節で
「佛迦葉に告げたまはく『善男子、我般涅槃して後四十年の中、閻浮提に於いて廣行流布し、然して後乃ち當に地に隠没すべし』」
(現代語訳:釈尊は迦葉に告げられた。「私(釈尊)が亡くなって40年間は、涅槃経は広く流布するが、そののちは地中に埋もれるであろう」
と仰り、
P170〜171の47〜52節で
47節
「迦葉、佛に白して言さく『世尊、如来滅後四十年の中、この大乗経大般涅槃経、閻浮提に於いて廣行流行し、是を過ぎて已後地に没せば、却後久如にして後當に還っていづべきや』
(迦葉菩薩は釈尊に言った。「釈尊が亡くなって40年の間涅槃経は流布し、それが終わって地に没したなら、いつまた地上に現れますか?」)
48節 「佛、言(のたま)はく、『善男子、若し我
49節 正法の余八十年、前四十年、是の経復当に閻浮提に於て、大法雨を雨(ふら)すべし』
(釈尊は仰った『もし私の滅した後80年、特にその前半の40年、大般涅槃経はこの世で大法雨を降らすだろう』)
50節 迦葉復佛に白して言さく『世尊、是の如きの経典、
51節 正法滅するの時、正戒破るの時、非法増長するの時、如法の衆生無きの時、
52節 誰か能く聰受し、奉持読誦して、其をして通利せしめ、供養恭敬し、書写解説せん。
唯、願わくば如来、衆生を憐憫して分別し、諸々の菩薩をして聞き已りて即ち阿耨多羅三藐三菩提を退かざる事を得しめよ』
(迦葉菩薩は又釈尊に言った。「釈尊、この経典が滅する時、誰がこの経を説くのでしょう。願わくば諸々の菩薩に悟りの智慧を残してください」)
つまり、「釈尊滅後1000年後(説としての「正法時代」)の余80年、前40年」と字義通り読めば、
その直後に迦葉菩薩が「正法の滅する」時の事に言及するのと矛盾します。仏教の説である、いわゆる「三時」が成立しません。
つまり涅槃経の趣旨から言って「正法時代」の後、すぐにまた涅槃経が現れて全てが救われる時代が来ることになり、
そもそも「正法」「像法」「末法」という時代区分は不要になります。
文意から言っても、他の箇所で説かれる悪世の様相とも矛盾するという事です。
いわゆる佛教説の「正法」の時代はまだ仏法が活きているのでしょう?
そんな世の中に涅槃経が現れてどうするのですか?
単純に
「釈迦滅後40年、涅槃経は栄えるが、その後(40年かけて)無くなっていく」
これを受けて迦葉菩薩が「正法がなくなるならどうすれば良いのですか?助けて下さい」と申し上げる。
そこから「善哉、善哉」と縷々涅槃経を説くものの出現を説明していくのです。
で、その人とはP173の54節やP177の67節などに記述されているわけです。
是が本当の「義に依って語に依らざれ」の読み方です。
注釈も樋田氏も経文を素直に読まずに仏教の説に過ぎない「正法」「像法」「末法」というフィルターを通しています。
悪意を以てモノを見れば、それは歪んで見えるのではないでしょうか?
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★ ↑ 長々と、御高説ありがたいが、しかし肝心な事には全く触れてないではないか。
どうも、真如苑惑乱者は、さすがに虚偽・虚飾・捏造・誑惑の真言宗の遺伝子を継ぐだけに、虚飾して誤魔化す傾向が強いらしい。
★ 「真乗が末法の救世主であるという涅槃経の経文をお願いします」 と訊いているんですよ。
その答えが、結局、これ?
つまり、▼ その人とはP173の54節やP177の67節などに記述されている
で、それは既に追及しておろうが。
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再掲
若衆生、八恒河沙の諸の如来の所(みもと)に於て菩提心を発こす有らば、然して後、乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜす、受持、読誦し、経巻を書写し、亦他人を勧めて書写を得しめ自ら能く聴受し、亦他人を勧めて聴受を得しめ、読誦通利し、擁護堅持す。世間の諸の衆生を憐憫(れんみん)するが故に、是経を供養し、亦他人を勧めて其をして供養せしめ、恭敬尊重し、読誦礼拝し、亦復是の如く具足して能く解し、其の義味を尽す。所謂如来常住不変、畢竟安楽にして、廣く衆生に悉く仏性有るを説く。善く如来の所有の法蔵をしり、是の如きの諸仏等を供養し已(おわ)りて、是の如きの無上の正法を建立して受持擁護す。若始めて阿耨多羅三藐三菩提心を発す有らば、當に知るべし、是の人は未来の世に、必ず能く是の如きの正法を建立し、受持擁護せん。是の故に汝今、未来世の中に護法の人を知らざるべからず。何を以ての故に。是の発心の者は、未来世に於て必ず能く正法を護持せん。
【現代語訳】
もし、衆生がガンジス川にある無数の砂々のそれまた八倍の如くの如来の許で成仏の志を立てるのであらば、その後、悪世の中でこの法を誹謗せず、受け持(たも)ち、読誦し、経巻を書写し、そして他人にも勧めて書写できるようにし、自分自身でもよく聴き受け、そして他人にも勧めて聞き受けさせ、読誦し、その意味をよく理解し解説し、擁護し、堅く持(たも)つ。
世間の多くの人々を憐み不憫に思うが故に、この経を供養し、そして他人にも勧めて供養するようにさせ、恭しく敬い、尊重し、読誦し礼拝し、そしてまた以上のような行を円満に具足してよく領解し、意義・内容に通達する。
その本質は、如来は常住不変 究極的な安楽 そして一切衆生に悉く仏性が在ることを説く。
そして、よく如来が説くところの様々な教説の意義・筋目を熟知し、それぞれの諸仏等を供養した上で、このような無上の正法を建立して、受持し擁護する。
もし成仏する心を発し、求めるのならば、よく知りなさい。そのような人は未来世において必ずよくこの正法を建立し、受持し擁護する。
この故に貴方方、今、未来世においての護法の人を知らなければならない。
それはどうしてか?
この成仏を目指す者は、未来世において必ずよく正法を護持するからである。
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★ → さて、この経文の一体どこが、伊藤真乗が明治39年(1906年)に生まれて、真如苑という、真言宗の系譜を標榜しながら、涅槃経を依経として、しかも”霊能”などという極めて主観的・偏向的・非合理的な手法が売り物の新宗教を開く、という予言になっているというのだろうか?
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★ ↑ まずこれに反論できていない。
上記の経文のどこに 霊能 接心 抜苦代受 などの「義」がある?
はい!課題提出 やり直し。
「もっと がんばりましょう」