▼ 大般涅槃経・四依品についての反論
★ → 問難者の ↑ に反論する
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★ → さて、この経文の一体どこが、伊藤真乗が明治39年(1906年)に生まれて、真如苑という、真言宗の系譜を標榜しながら、涅槃経を依経として、しかも”霊能”などという極めて主観的・偏向的・非合理的な手法が売り物の新宗教を開く、という予言になっているというのだろうか?
【矛盾】
@ 時が外れている。
P170 49節 では 「正法滅して後80年、もしくは正法最後の40年」 に出現することになっているではないか。
解説によると、正法500年 正法1000年 という両説を挙げているが、そのどちらを取っても、伊藤真乗の誕生年と合わない。
この説だと、現代の釈尊の聖滅年の研究から概ね紀元前後、もしくは五世紀位に出現しなければならない。
伊藤真乗は1906年生まれである。全く外れている。
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▼ (答え)
P170 49節について
この国訳経の解釈に依らずに読みます。
★ → おいおい!いきなり何の根拠、学術的裏付けがあって、国訳経の解釈を全面否定できるのか?
まず、その正当な根拠を示すべきであろう。
しかも、この文献は問難者の方から提示してきた資料である。
その資料にある「解釈」文を何の根拠も示さずに、いきなり無視するのは、どう見ても恣意的。つまり、自分の主張に都合が悪い、ということであろう。
こういうことをするから、メールで返信した通り、「精神年齢が低い」と言わざるを得ないのである。
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▼ >善男子、若し我(釈尊)、「正法の余八十年、前四十年、是の経復当に閻浮提に於て、大法雨を雨(ふら)すべし」
釈尊入滅から500年、または1000年が「正法」の時期に当たると「大集経」などでは説きますが、
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★ → おいおい、ここでも、フライングじゃないのか?
大集経のどこに、「正法500年」 とあるのか?
その原典を提示してください。
もし、あれば謝りますが。
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▼ この文の「正法の余」とは、「釈尊入滅ののち」という意味です。
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★ → はい!根拠の提示。
まさか、「伊藤真乗がそう言っている。」 あるいは「真如苑ではそう読んでいる。」 というのではあるまいな?
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▼ つまり「釈尊入滅の後80年、特にその前半の40年、涅槃経は栄える」というと言う意味です。
ここは、涅槃経が一旦、表舞台から消えていく様子を指しています。
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★ → 国訳経の解釈 だけでなく、この本文は、
■ 善男子、若し我(釈尊)、「正法の余八十年、前四十年、是の経復当に閻浮提に於て、大法雨を雨(ふら)すべし」
どう読んでも、釈尊の仏法の正法の余八十年、→ つまり、釈尊の仏法の正法=滅後1000年間(500年説も有力) の後の80年 と読むのが妥当であろう。
しかも、※解説の項に
● 「正法の余八十年 正法は一に五百年、一に一千年等、今この正法の時季を過ぎて後八十年の意なり。」
とあるのに、何の根拠があって、勝手に解釈できるのか?
これ、また、教祖 真乗が勝手に仏法を己義・我見で"怪釈"して釈尊の教説に反した新興宗教を起こした、その偏向した性癖に似てくるからか。
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★ A 明確な「付嘱」が説かれていない。
上掲の涅槃経の経文では "未来世に、「正法」を弘める者が顕れる" との意は読み取れるが、ではそれが誰なのか、釈尊とどういう関係なのか、未来世において具体的にどのような状況になるのか、明確に説かれていない。
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▼(答え)
当り前です。涅槃経は「如来常住」が説かれているのですから、法を付嘱する必要などありません。
佛・法・僧の三宝は常に一体で永遠だと釈尊は説かれました。
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★ → では、その「僧」とは誰か?
如来常住 というその如来は今、どこに、どうしておられ、どうやって我々凡愚の衆生を救うのか?
つまり、僧 に相伝され伝持されてこそ、明確な救済の方途が後々まで伝わるのであろう。
では、その僧とは誰なのか?
明確になっていなければ、誰だって 「俺が、その、三宝一体の 僧 だ!」 と名乗りを挙げられることなってしまうであろう。
一切衆生を救わんとする御仏が そんな曖昧な、そんないい加減な、そんな不確定極まることのまま放置してあるはずがないではないか。
それでは滅後末法の衆生をわざわざ迷わすために仏法を説いた、ということになってしまう。
仏・法・僧 の三宝が一体 この意義は 仏 と 法 の伝持者は 僧 であり、その 僧 に 仏 と 法 が備わるから 三宝一体 という意義であることについては異論なかろう。
であるならば、この 「僧」 の定義と、仏 からの付嘱が明確に証明できる形で予証されていなければ、真の 「僧」 が誰なのか分からないではないか。
この道理に依って、付嘱の明確な 法華経 が 優 であり、 涅槃経 は 劣 なのである。
こういう道理分かりませんか?
分からないとすれば、問難者こそ、後に当方を批判する語のごとく 「真如苑の思考パターンを克服できておりません」 ということである。
更に言えば、「伊藤真乗の偏向的、独善的、自己中心的な思考パターンから抜け出ておりません」 ということである。
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★ 一方、法華経では神力品等において明確に上行菩薩並びに余の眷属に付属している。
もちろん、釈尊との関係も、従地涌出品第15から嘱累品第22までの八品において縷々説かれており、上行菩薩等の出所進退が明瞭である。
さらに勧持品13で、悪世・未来で弘通者はどのような状況に置かれるのか詳細に説かれている。
つまり、法華経では悪世末法において「正法」を弘める人物像の予言が詳細かつ明瞭なのである。
それらの点から考えれば、上記の涅槃経での予言は、まさに法華経での未来広宣流布の予言の追説と採るべきであろう。
簡単に以上の点から、上掲の涅槃経の経文が 伊藤真乗 の出現を予言している。との根拠には全く成り得ない。
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▼ (結論)
時期の指摘は、伊藤真乗師出現の時期を予言しているものではないのに、それが解っておられません。
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★ → 時期を予言せずして、一体誰を特定できるのか?
一方、法華経では明確である。
■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」
(この後の五百歳の中 「末法」については考察・論証してある。)
大集経に説く「末法」来入の年限の矛盾を解明する
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▼ 法の付託については、日蓮正宗の思考パターンを克服できておりません。
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★ → 全く反論になっていない。反論の体を成していない。
反論とは、自宗の宗派理論をいかに客観的に論理的に証明するか。そして他門の矛盾をいかに客観的に論理的に破すことである。
ただ漠然と 「相手に自宗派の思考パターンを克服できていない。」 と難ずることは、全く客観性・論理性を欠くものであり、自身の個人的感想に過ぎない。
なぜならばそういう本人も自宗派の思考に当然染まり切った上で判断しているからである。
そんなものは論議でも何でもない。それこそ「子供の喧嘩である。」
「お前のかあちゃんでべそ〜!」と言っているに過ぎない。
「あんたはほんと、考え方おかしいよ。だってあんたの家、変だものね」
と言ってるだけに過ぎない。
もし、それを正当に主張したいのならば、客観的事実や証拠、根拠を以って、良識ある一般人も大いに首肯できる論理で指摘しなければ、何の価値もないただの戯れ言、繰り言である。
むしろこの言こそ、論に詰まった証左とも言える。
よくよく注意して発言した方がいいであろう
今後も、注視していきたいところである。
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▼ 議論が全てだとは申しませんが、議論としては的外れです。
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★ → はい、ここでも出ました。
▼「的外れ」 と非難すべき、客観的かつ論理的裏付けがない。
これ、ただ、自分が明快に反論できない悔し紛れの悪口に過ぎない。
以後気を付けましょう。
見ている有識具眼者のた方々に失笑されてますよ。
そしてまた、真如苑信徒の方々も失望し、落胆されますよ。
もっと、しっかり論理的に頑張りましょう。
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