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  ▼ 一方で、仏教の本来の目的である悟りの世界へと教化するのには涅槃経が不可欠と一宗をたてたのですから、それ以前の教徒はある一定の所までしか行けなかった、行けた人は出家の内弟子だけだったとみるのが現実に近いでしょう。

   ★ → それこそ、伊藤真乗が、未熟、未完成であった証拠。
そもそも、伊藤真乗を末法の救済者とする根拠は経典上、全くない。


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  ▼ また、天台宗でも様々な仏様をお祀りするし、真言でも同じです。

   ★ → 双方、既に邪教であり、それをもって真如苑の正当化には全くならない。
むしろ邪教のお仲間であることを自ら認めたに等しい


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  ▼ これを「本尊の乱立」と見る人は実は偶像崇拝、形に捉われて本質を見失っていると私は思います。
私たち佛徒は何かの材質でできた仏像を拝んでいるのではなく、そのご内証を心に頂いているのです。

   ★ → もしその説ならば、「一切衆生悉有仏性」なのだから、別に仏像や本尊を立てる必要もなく、そもそも、我々自身の内証は「仏」なのだから、自分自身でも鏡に映してその「内証」を拝めばいいんだし、もっと言えば、修行する必要もないでしょう。
これこそ、仏教の本義を弁えない愚かな論。


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  ▼ 逆に「本尊乱立」と主張して他宗を批判し、髭曼荼羅だけが全てと思っている人こそ、結局、髭曼荼羅に書かれている内容も解らないままに偶像崇拝しているだけだと言うと言いすぎでしょうか?

   ★ → 日蓮大聖人が釈尊が予証した末法の教主  
ならば、その方が建立された本尊を、教えの通りに、唯一無二と信じ拝することが正しい在り方。
本尊=仏の命、悟りそのもの その甚深の内容が予め分かるなど在り得ないでしょう。
信を以って智慧に替える。 信によって、自ずと仏と等しい境界へなるのである。
境地冥合 感応道交 である。


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  ▼ 例えば、弘安2年、本門戒壇の本尊として日蓮聖人が書き遺された曼荼羅を未来永劫、その形を護持していくなどという説は偶像崇拝以外の何物にも思えません。


   ★ → では、物体・色法である「偶像」を介さず、「仏の内証」にどういやって到達するのか、証明して見せて下さい。

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  ▼ 形の佛を拝む発想しかない人が、形を通して佛の内証に触れようとする衆を批判したとして、その批判に十分な根拠などありません。「俺が正しいからお前ら間違っている」としか言っていないのです。

   ★ → 日蓮正宗では、形の仏を拝むなど、教えていませんね。 まさに「戒壇の大御本尊の御内証」を拝するのである。
その証拠に、日蓮正宗における全ての曼荼羅御本尊は、その表層的な形式にいては、様々な姿で顕されている。
どの御本尊においても「戒壇の大御本尊の御内証」を御魂魄とされているのであり、御本尊を「モノ」として拝しているのではない。
であるから、
▼ 形の佛を拝む発想しかない人が、形を通して佛の内証に触れようとする衆を批判したとして、その批判に十分な根拠などありません。「俺が正しいからお前ら間違っている」としか言っていないのです。
その批判は、全く的外れ、空振りの批判である。

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  ▼ 釈尊は、形ある者は必ず滅ぶと説かれている(大般涅槃経純陀品)のに、本門戒壇の本尊を未来永劫護持するというのは佛の教説にも反しています。

   ★ → ここも実に非想的な見解。だれも、戒壇の大御本尊をそのまま何もせず未来永劫に護持するなどとは言っていないし、事実今まで750年間もそうであった。
戒壇の大御本尊を信敬する僧俗が、異体同心にして、戒壇の大御本尊を永遠ならしめるために、護持し奉るのである。
つまり、必要な手当て、御衣替えなど人為的御奉公をさせていただきながら戒壇の大御本尊を永遠ならしめていくのである。



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