TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次


★ 4、 妙法蓮華経如来神力品第二十一   ― 弘める経・要諦 ―

『「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累(煩わしい事を託す)の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽すこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。」
と説かれ、釈尊の一切の仏法を、上行菩薩を代表として、その他の眷属の菩薩方へも付嘱されたことが明示されている。
その上、その末法で法華経を弘通する方の受ける法難について詳細に説き示されている。』

--------------------------------------------

▼ 成るほど。確かに法華経宣布を託していますね。
法華経は二処三会の説法(霊鷲山―虚空―霊鷲山)と言われています。
では、その会座で誰に対して法華経は説かれたのでしょうか?
「嘱累(ぞくるい)」を受ける人は、「先生」じゃないでしょうか?

 樋田さんの例え話を拝借してみましょう。

「ある先生が大学の授業で自分が一番伝えたかった事を伝えた。
大半の者は理解できたのだが、数名の者は十分に理解できなかった。
教授は仕方なく、もう一度理解できるまでその数名を指導した」


これは、法華経(先生が伝えたかった教え)と涅槃経(よく理解できなかったものに対する教え)の例え話です。

が、私のイメージでは「法華経」を説く人はあくまで先生。
40余年釈尊の説法を聞き、足し算、引き算、九九を覚え、方程式を覚え、微分積分もマスターしてやっと、この世を貫く法則と言われる「相対性理論」まで行ける人。
小学生には到底理解できないから、それを教える事が出来る人(先生)用に説かれた学習指導要綱のようなものというイメージです。
つまり、法華経はそれが解る者に説かれたもの。ではないですか?
※@ 「故に私たちは、末法の佛、日蓮大聖人様が出生したにも関わらず、娑婆世界で生きているのではないですか?」
足し算引き算を学んでいるレベルで相対性理論なんて、たんなる記号の羅列にしか見えないでしょう。
※A 「このような、救いから漏れた人は「涅槃経で救う」と仰せになっておられませんか?」
私が「出家しないと悟れない」と申し上げたのは、こうした法華経観があるからです。

--------------------------------------------
   
   ★ → ほとんど意味不明な解説(というよりただの感想)である。

まず、こういう、何かきちんとした「文証」=文献的根拠のない個人の思い込み、妄想、妄念で主張することは、仏教の正邪を論じる前提としての心構えが出来ていない。

こちらの論証を再掲するだけのことである。
もし、反論があるならば、経典を引き、こちらの文献的・論理的矛盾を明確に明示して、反論すべきであろう。

法華経 優  涅槃経 劣 の証明

その上で、内容についても破折を加えておく。

まず、当方が出した比喩を間違って解釈している。

● 教授と生徒

有名な教授がその教授独創の理論を、ある大学に来て一時間の講義をする。
多勢はそれで理解できたが、分かりの悪い生徒がいた。
その教授はその生徒達を哀れに思って、分からない点を中心に、時間を延長して、噛み砕いて噛んで含めるように話し、やっと理解できたとする。
教授も生徒全員が理解できた姿を見て、大いに安心した。

この場合、最初の一時間より、後の延長講義の方が優れていると言うだろうか?

しかも、教授の独創理論を生徒たちが理解できなかったのは、本題の今回の講義を理解できる前提としての基礎学力が不足していたからと分かり、その基礎の初歩にまで立ち返って懇切丁寧に再度、一から諄々と段階毎に教えて理解させてから、もう一度本題の内容を講義する。。。。。
このような状況である。』 

@ 先生 = 釈尊
A 一時限目で理解した者 = 五千起居の衆生を除く全ての衆生
B 補習授業で理解した者 = 五千起居の衆生

であって、「先生」 は法を説く側 つまり 釈尊 能化 師 の方である。

その上、「法華経は理解力の優れた者にのみ説かれた(趣意)」との主張のようだが、全く経典に依る根拠に基づいていない。

■ 方便品第二

我本誓願を立てて
一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき
我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ
一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ (111下-01)

とあるがごとく、釈尊は法華経に依って一切衆生を救済せんとされ、それが成就し、満足された。一切衆生を仏道に入らしめる。と仰せなのである。
決して、「理解能力のある"先生"のための「学習指導要綱」」などという浅薄なものではないのである。
そういう「怪釈」こそまさに、経に依らない我意・我見・己見の類であって、仏法を曲げてしまうのであるから大いに慎まなければならない。
まさに我意我見で荒唐無稽な仏教もどきを生み出した師匠「伊藤真乗」に似てくるのである。

--------------------------------------------

▼※@ 「故に私たちは、末法の佛、日蓮大聖人様が出生したにも関わらず、娑婆世界で生きているのではないですか?」

   ★ → いよいよ、全く意味不明。主張の内容をもっと明確にしてください。経文を引いて。

▼※A 「このような、救いから漏れた人は「涅槃経で救う」と仰せになっておられませんか?」

   ★ → 涅槃経は 法華経再説 であるから、「涅槃経で衆生を救う」という箇所があって当然。 
もし、涅槃経・勝 法華経・劣 と主張したければ「涅槃経だけで衆生を救える」と示した経文とその教説を挙げてください。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼ 論点が少しずれましたが、ずれたついでにもう一つ。
「末法における法華経の要法」なるものを託されたのは、上行菩薩のみですか?四大菩薩ですか?
これは大きな問題です。
末法の世に、法華経の要法を悟った菩薩は一人しか出ないのか?複数出るのか?
また、日蓮本佛論にも直結してくる話です。

--------------------------------------------
   ★ → ほとほと論点が低劣である。
上行菩薩一人に四菩薩全てが摂せられるのである。
それでいて、四菩薩と標するのである。
仏教では 二而不二 不二而二 という基本中の基本の概念がある。
二にして二に非ず  二に非ずしてしかして二

一に他を摂し はたまた 一が開いて多 なのである。

まずは、この基本概念を少し学んできたら、この論点を詳説しましょう。


TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次