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改訂版 法華経 と 涅槃経 の優劣 まとめについての反論
★ ↑ 問難者のUPしたテキストの流れの通りに進めたかったが、反論の要点として、上記の内容を破折しておく必要があるので、先に砕いておきましょう。
改訂版 法華経 と 涅槃経 の優劣 まとめ
↑樋田氏の新論点(平成28年11月17日)
この↑中の、「已 今 当」の文について。
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▼ 全くの詭弁です。
ちゃんと文を引いてみましょう。
>薬王今汝に告ぐ 我が※@「所説」の諸経
>而も此経の中に於て 法華最も第一なり
>爾時、仏、復薬王菩薩摩訶薩に告げたまはく、
>「我が所説の経典は無量千万億にして、已説、今説、当説あり、而も其中に於て此の法華経は最も為れ難信難解なり。
注目して頂きたいのは、文の省略がない事です。
樋田氏の読み方だと、釈尊が同じことを2回言った事になります。
しかし、普通に読んでみれば次のようになります。
※A「「我が諸説の諸経」とは、「これまで説いてきた教え」であり、」 法華経はその中で最も第一だと指摘されております。
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★ ↑ はい!ブッブ〜〜! 失格!
先入観入れずに良く読みましょう。
@ 所説 = 説くところ この語法に 過去形に限定できる意味はない。
つまり、そのまま 「釈尊が説く所の諸の経」 という意義であって、それ以上でもそれ以下でもない。
過去を限定したものではない。
これ、文法の基礎中の基礎ですが?
はい、だからこれ ↓ ペケ × ですね。
▼ ※A「「我が諸説の諸経」とは、「これまで説いてきた教え」であり、」
これで、もうはや反論の根拠の根底が崩れたわけである。
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A 釈尊が、同じことを繰り返す様式は数え切れない程ある。
その中から選んで一例を挙げる
@『文殊師利、此の法華経は、是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり。』
末後に賜与すること、彼の強力の王の、久しく護れる明珠を、今乃ち之を与うるが如し。
A『文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り、』
長夜に守護して、妄りに宣説せざるを、始めて今日に於て、乃ち汝等が与に、而も之を敷演す。(安楽行品第十四)
さてさて、いかがかな?
間違いなく 二回繰り返していますね?
(・・・しかし、なんだかなぁ〜。文法の勉強位、学校でしっかりして来いよ!と言いたい。いい加減 )
分かりの悪い児にはさらに懇切丁寧に教えてあげますか。。。ふぅ〜〜〜。やれやれ。。
@ | A | |
---|---|---|
文殊師利、 | 文殊師利、 | |
此の法華経は、 | 此の法華経は、 | |
是れ諸の如来の第一の説 | 諸仏如来の秘密の蔵なり。 | |
諸説の中に於て最も為れ甚深なり。 | 諸経の中に於て、最も其の上に在り、 |
二回繰り返す時には、このように、同じ主旨の中に、奥深い義を重ねて述べる時に用いられる方法である。
つまり、
法華経は
「諸仏」の 「第一の説」 であり、 「秘密の蔵」 であるということ。
「諸説」 の中で 「最も甚だ深く」 そして 「諸経」 の中では 「最上に位する」。
という、法華経・最第一 というの主旨の上で、更に二重の意義を併せ説いているのである。
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では、当該文を再掲しよう。
『薬王今汝に告ぐ
我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり。
爾の時に仏、復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、
我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而(しか)も其(そ)の中に於て、此(こ)の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり』
@ | A | |
---|---|---|
薬王今汝に告ぐ | 復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく | |
我が所説の諸経 | 我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。 | |
而も此の経の中に於て | 而も其の中に於て | |
法華 | 此の法華経 | |
最も第一なり | 最も為れ難信難解なり |
はい、では、先ほどの例題に合わせて解説しますね。
「釈尊の説く所の諸の経」 は 詳しく言えば 「無量千万億もあり、しかも、已に説いたもの、今説いているもの、そしてこれから説くもの」
その全ての経の中で、
「法華経」 が
「最も第一」 であり、 そして 「最も 難信難解」 である。
こういう二重の義を説かれているのである。
しかもこれ先ほどの安楽行品の
最も 「最も其の上に在り、」 であり、 「最も為れ甚深なり。」 との義にもピッタリ当てはまる。
PPAP みたいに合体させますか。
文の義に従って、順序を入れ替える。
安楽行品第十四 | ||
---|---|---|
A | @ | |
文殊師利、 | 文殊師利、 | |
此の法華経は、 | 此の法華経は、 | |
諸仏如来の秘密の蔵なり。 | 是れ諸の如来の第一の説 | |
諸経の中に於て、最も其の上に在り、 | 諸説の中に於て最も為れ甚深なり。 | |
法師品第十 | ||
@ | A | |
薬王今汝に告ぐ | 復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく | |
我が所説の諸経 | 我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。 | |
而も此の経の中に於て | 而も其の中に於て | |
法華 | 此の法華経 | |
最も第一なり | 最も為れ難信難解なり |
つまり、 「最も第一」 と 「最も難信難解」 との義は
安楽行品の 「最も其の上に在り、」 と 「最も為れ甚深なり。」 と同義であり、
全く矛盾するものではなく、むしろ、
『最上・最高の教えとは 最も甚だ深い教えであるが故に、最も信じ難く理解し難いのである。』 と素直に拝すべきであろう。
ここまで明確に論証したので以下の駄文は、もう全く無意味。
斬って捨てる。
今読み返してみると、↓ なんか、焦りばかりで、何が言いたいのかもよく分からず、ただの悪足掻きであり、実に空疎で、哀れだ。。。。残念!(古いか・・)
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▼ そして、「已説(既に説き)、今説(今、説き)、当説(これから説く)あり」と過去・現在・未来に渡って言えば 法華経が「最も為れ難信難解なり」なのです。
樋田氏の作図した図表をそのまま用いれば、dのようになります。
前段 @
後段 A
a
我が所説の諸経(これまで説いてきた教え)
我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん(過去・現在・未来に渡っての教え)
b
而も此の経の中に於て
而も其の中に於て、
c
法華
此の法華経、
d
(これまで説いてきた教えの中では)最も第一なり
(過去・現在・未来に渡っての教えでは)最も為れ難信難解なり。
つまり、これはその後の涅槃経へと繋がっていくうえで、法華経が最も関門になるという事を言っているのです。
ちなみに、なぜ「難信難解」なのか?
以下 引用
日蓮聖人はこの部分を、私たちが法華経に帰依すべき、とても大切な証拠であると重視されておりますが、
それでは何故、わざわざ難しい法華経に帰依すべきなのでしょうか。
答えは法華経が「髄自意」であるからです。
髄自意とは、「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」といえるでしょう。
髄自意と対をなす言葉に「髄他意」があります。
説法の聞き手である者の、興味や能力に合わせて、教えを説いてくださることをあらわし、これはとてもわかりやすく聴衆にうけました。
お念仏を唱えれば、苦行をしなくても浄土へいける、阿弥陀様にお任せするという浄土宗や浄土真宗の教えがこれにあたります。
しかし、これは全体に広く行きわたったり、例外なくすべてのものに当てはまるといったことがなく、お釈迦様の普遍的な教えを求めたとき、辿り着くのは「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」でした。これが法華経、イコール髄自意の教えです。
以上 引用終わり
つまり、「難信難解」という言葉をわざわざ用いたのは意味があっての事だという事ですね。
後半部分は繰り返しになりますが 法華経 と 涅槃経 の優劣 まとめ で、反論しつくして、未だ法華経が涅槃経に包摂されるものであることへの反論はありません。